私の名前は長門有希。もうすぐ史上最年少直木賞受賞者として小説家デビューを果たし、木村響子のアフロを引きむしることのできる女子プロレスラーになる予定の少女。高校を中退し世界各地を旅して回っているが、現在は実家でエネルギーを蓄えつつ谷口探偵の下で助手として働いている。

 

谷口探偵は不思議な人物だ。たとえば、彼はアンティーク的な趣向の持ち主なのか、平素あまりファッショナブルとは言えない服装をしたりぼろぼろの中折れ帽をかぶったりしているが、かと言って決して衣服に妥協しているわけではない。自分の服装には大変気をつかっているようでもある。その証拠に、こないだ私が彼のしまっていた橋本真也のサイン入りTシャツを洗濯しようとしてうっかり漂白剤につけてしまった時など、「俺の青春が漂白されてしまった! 二度と帰らぬあの日の思い出カムバック!」と涙を流して悲しんでいた。彼には彼なりのポリシーがあるのだろう。

また飲食物についても確固たる信念をもっているようだ。お茶は熱してさえいれば三番煎じの出がらしでも文句ひとつ言わず飲むのに、それがコーヒーとなるとグラム単位でやれ水の量が多いだの湯が1℃ぬるいだの、嫁をいびるドS小姑のようにイチャモンをつけてくる。この画一的没個性化の時代にこれだけのアイデンティティを確立しているのだから、やはり彼はただ者ではないのだろう。

気むずかしいように思えて、あまり気を配らなくてもよいというフランクさもあるので、慣れればつきあい易い人物である。コーヒーをいれてあげるのはイヤだが、お茶なら1㍑くらい成分を搾り取った茶葉でいれた白湯でも飲んでくれるので、たいへん経済的である。

 

 

その谷口探偵だが、先日の風水災害実体験ツアーからグッタリして帰ってきたにも関わらず、すぐに新しい仕事が入って出ていってしまった。ニートやフリーター等、若年層の労働離れが社会問題となっている昨今において、なかなか見上げた働き者の人物である。

私は今、彼のいなくなった事務所で寝転がって本を読んでいるところだ。

戸棚にあったせんべいをかじりながら背伸びしていると、事務所の扉をたたく遠慮がちな音がした。機敏でいて無駄のないゆるやかな動きで私はドアに近づき、覗き穴に目をやった。丸いレンズの向こう側に、少しおどおどした様子の少女が立っていた。

………はい、どなた? そう言って私はドアの鍵を開けた。

「あの……こちらは谷口さんのお宅……ですよね?」

「………そう。ここは谷口探偵のお宅であり、事務所。私はその助手」

「そうだったんですか。良かった。てっきり家を間違えたのかと思ったのね」

外見から判断して、年の頃は私と同じくらいの年齢だろうか。おとなしそうな外観で、どこか気品を感じさせる物腰をしている。私と気が合いそうだ。

「あの、私は阪中と言います。谷口さん、おられますか?」

「………谷口は現在、不在。いつ帰宅するのかも不明」

「そうですか…」

小声で弱ったのねとつぶやき、阪中と名乗った少女は下を向いてもじもじし始めた。想定外のことで混乱し、次にどう行動してよいか決めかねているようだ。

「………なにか、困り事?」

以前、兄貴が言っていた。探偵を頼ってくる人はみんな、なんらかの悩みをかかえているんだ。困っているけれど、それをどう解決してよいか個人で判じかね、探偵に相談にくるのだ。それを無下に断ってはいけない、と。

私は阪中少女を、事務所内に招き入れていた。

 

探偵の元へくる人の中には、人生に抱いている不平不満などの愚痴諸々を話したらなんかスッキリして悩みが解決してしまう、という困った人もいるらしい。私も他人のことは言えないクチなのだが、この阪中という子もそのような部類の人なんじゃないかと思っていた。若い身空で本気で探偵に相談しなければ解決できないような悩みがあるとは思いがたいし。

「実は、最近ストーカーにつきまとわれているんです」

「………ストーカー。噂に聞いたことがある。狙った相手をどこまでも執拗につけ回す変質者のこと?」

「そうなのね。最初のうちは気のせいだとばかり思っていたんですけど、最近目に見えて私をつけ回すようになってきて。昨夜なんか、夕闇にまぎれて表道路から私の家をずっと見ている人影がいたんです。間違いないのね。あれは私の部屋を見ていたに違いないのね」

私は返答に困っていた。こんな相談を受けるのは初めてのことだから、どう答えて良いのか分からない。話を聞く限りでは阪中は本当にストーカー被害に遭っているようだが、それはあくまで阪中主眼の判断で、実際はただの勘違いという可能性もある。事実、そういう誤認識による被害勘違いが多いらしい。

「こんな話をしても、まだ被害が出ていないから警察には相手にしてもらえないし」

いろいろと動きを制約される警察じゃ、実被害が出ていなければ出動はしてもらえまい。

しょげかえった阪中は、肩をすぼめて落ち込んでいる。

「昨夜なんて、干してあった私の下着をまじまじと見てたし…」

なにそれ。それ絶対ストーカーだよ。仮にストーカーじゃなかったとしても、変態であることには違いない。というかなんで夜に下着を干すかな。紫外線対策?

「怖いけど、私どうしたらいいか分からなくて。以前お世話になったことのある谷口さんに相談しようと思って、今日ここ来たのね」

悲しげな表情で口をつぐむ阪中を見て、ふと私の頭の中にある天啓がひらめいた。

そうだ。将来、私は探偵になろう。そして困っている多くの人たちを救うのだ。その第一歩として、まずこの少女の悩みを解決してあげよう。

これは素晴らしい考えである。私はすっくと立ち上がり、阪中に手を差し伸べた。

 

 

その日の夕方。私は阪中と共に、彼女の家の前の道路脇に隠れていた。道路塀の間で、ちょうど人が一人はいるくらいの細い路地だったため、隠れるのにはうってつけ。

「長門さん、ここに隠れていて、問題のストーカーが現れたらどうするのね?」

「………むろん、このカメラで犯人の露悪の現場を撮影し、通報する」

「なるほど。写真を撮れば言い訳できませんものね。で、露悪の現場って、何なのね?」

「………それは、下着泥棒」

「えぇ!? そ、それはいろんな意味で嫌なのね!」

「………大きな声を出さないで。私たちが隠れていることが下手人に露見しては、元も子もない。下着をスケープゴートにするのが気分的に最悪なのは分かるけれど、そうでもしなければ決定的瞬間を証拠とすることはできない。それに、安心して。あそこに吊してあるパンツは、あなたの物じゃない。近所のスーパーマーケットの下着販売コーナーで購入してきた新品の下着」

「そうだったのね。それはいいけど、一体いつの間に……」

白亜の壁に囲まれた上品な作りの一戸建て。その軒先で、秋先の乙女心のようにゆれる囮パンツ。

私は緊張に汗ばむ手で、インスタントカメラを強く握った。いつでも来るがいい、ストーカー。

 

 

阪中と道路脇に隠れて2時間が経過した。辛抱強く表通りを見張る私の後ろで、阪中は退屈そうに両膝をついている。しりとりだけで2時間もたせるのはなかなかに辛いものがある。

一般的に人間が自ら集中して物事にとりくめるのは、概ね20分が限界だといわれている。しかし今や120分が過ぎようとしている。プロの探偵ならともかく、探偵見習いの私の集中力などとうに尽きていた。眠い。

見張りは別に細心の注意をはらっていなければならないというわけでもないので集中力はさほど必要ないが、逆にそのおかげで眠気が大挙して押し寄せてくるのが手に取るように分かる。

阪中本人も、自分の言い出した悩み相談が原因でこのような状況になっているのだから、どうにも居たたまれない気分になっているらしく、何かと私に対して気を遣ったような発言をするからこっちまで恐縮してしまい、妙に痛々しい気分になってしまう。

私は元々他人と和気藹々とおしゃべりしたりするタイプではなく、淡々と書を繙いたりする内気な性格だから、知り合ってまだ間もない阪中とうち解け合った話などできるわけがない。阪中にしても基本的には私と同じ性格のようで、だいぶ前から言動が不審になっている。さらに、私はただシャイなだけだが、阪中はそれにプラスして几帳面な性格らしく、やたらと気遣いしているようだ。

辛い。お互いにとってあまりにも辛い時間が刻々と流れている。

もしここで阪中が「続きは後にして、ひとまず休憩するのね」と言ってくれれば、一も二もなくしっぽを振って飛びつく所存であるが、阪中にしても同じようなことを私に無言で望んでいるだろう。

ダメだ。なんという重い空気。ストレスという名の重りが2人の背にのしかかる。これほどにまでも強く、早くストーカーさん出てきてください、と祈ったのは始めての経験である。

 

その時。路塀に乾いた音が響き、阪中家の前に人影が現れた。もしかしてあの人影がストーカー? ようやくにして現れたか。だとしたらシャッターチャンスを逃さないようにしなければ。それにしても暗くて顔が見えない。もうちょっとなのに……うーん。

「あら、あなたそこで何をしてるの?」

まずい。ストーカー容疑者に見つかってしまった。職務観により、隠れていた塀から体を乗り出しすぎたようである。これでは隠れていた意味がない。

しかし私たちの元へ近寄ってきた人影は、滑らかなロングヘアーを背中へ流した、美形の女性だった。

「どうしたの、こんなところで? かくれんぼかしら?」

違う。この女性はただの通行人のようだ。

「あら。あなたは確か……阪中さんだったかしら。ほら、前に飼い犬を谷口さんと一緒に探していた」

「え? そういえば、見覚えがある方なのね。あなたは、ええと……朝倉さん、でしたっけ?」

知り合いなのだろうか。

 

 

なぜか朝倉涼子も私たちと一緒に、狭い路地に身を隠すことになっていた。なっていたと言うよりも、本人が能動的に割って入ってきただけの話だが。

「かよわい女の子2人でストーカー退治なんて危険だわ。私が手を貸してあげる!」

そう言う朝倉涼子の表情は活き活きとしていた。楽しいのだろう。

しかし朝倉涼子の闖入は非常にありがたかった。おそらく会話でストレスを発散するタイプの人間であろう彼女は、もう修復不可能なレベルにまで気まずくなっていた私と阪中の間に入ってくれた。

「長門さんもすごいわね。ストーカー退治のために乗り出すなんて。見た目あまり強そうにも見えないのに。あ、これは良い意味でね」

なかなか道理の分かっている人である。それにしても、「強そうに見えない」の良い意味って、どんな意味だろう。

 

女性が3人寄ればかしましいと昔から言うが、あれは正確には間違っている。私や阪中のような女性が3人集まろうが30人集まろうがかしましくなるわけはない。誰もしゃべらないからだ。誰もしゃべらなければ、かしましくなりようがない。

しかし朝倉涼子のごとき女性は1人で居てもかしましい。あ、これは良い意味でね。

朝倉涼子が来てくれたおかげで場がなごみ、さあそろそろこのへんでお開きにしましょうか、という雰囲気で、阪中の表情が一変した。

「き、きたのね…!」

声をひそめて朝倉の背後にかくれる阪中。その様子にただならぬものを感じ取り、私と朝倉涼子は表通りを覗き見た。

阪中の家の前に、ロングコートを肩にうち掛けた人影が不審な挙動で立っていた。あきらかに阪中の家を気にしているふうだ。確かにあれは怪しい。今回のストーカー捜査が、阪中の自信過剰による勘違いじゃなかったということが確認できた。

大柄というわけではないが、決して小柄というわけでもない男は、じっと阪中の家を注視ししている。どうやら家の庭に干してある洗濯物に視線を送っているようである。

「今のうちに近づきましょう。そっと近づけば、気づかれずに行けるかもしれないわ」

そう言う朝倉涼子に続き、私と阪中もそろそろと歩き出す。前にドリフターズのコントDVDでこんなシーンを見たことがある気がする。

 

このへんが人通りの少ない場所であるためか、あまりにも洗濯物に集中しているためか、下種なストーカーは空気のように忍び寄る私たちに気づかない。そしてとうとう、犯人に飛びかかれる位置にまで接近することに成功した私たち。それにしても、これだけ近づいているのに気づかれないなんて。このストーカー、どれだけ無防備な人なんだろう。

近づいてみて気づいたのだが、どうやらこのストーカー男、阪中家の庭を見ながらなにやらメモをとっているようである。これが噂に聞くストーカーの粘着行為というやつなのだろうか。なんてキナ臭い。

朝倉涼子が私たちに向かってこくりとうなづいた。その言わんとしているところに気づき、私は阪中にカメラを手渡した。

「観念しなさい、この社会悪め!」

言うが早いか、朝倉涼子が男の背中に蹴りをいれる。うわ、と呻いて男は前倒れに地面へ倒れこんだ。今こそが好機。ねこじゃらしに飛びつく猫のような機敏さで、私はストーカー犯に組み付き、背後から足を絡めとり、その背中に馬乗りにのしかかった。これで動きは完全に押さえつけた。さあ阪中、トドメを。

「とあああ!」と掛け声を発し、阪中は横ざまに飛び、スライディング気味に犯人の姿を側面からカメラで激写。私に監獄固めで足を極められ逃げ出せなくなっているストーカーの姿を世界で初めて映像におさえた決定的瞬間であった。

それにしても阪中の、さっきのカメラワークは見事であった。プロのカメラマンに勝るとも劣らない瞬発的ジャンプであった。グッジョブ。

まったく素晴らしい捕り物劇と自負できる内容であった。さぞかし朝倉涼子と阪中も感動していることであろうと視線をむけると、なにやら2人とも犯人の顔を凝視したまま固まっている。私の位置からはストーカー男の顔が確認できないのだが、なにかあったのだろうか。

その時、阪中が重々しい口調でつぶやいた。

「…谷口さん? なにしてるのね?」

 

 

私に背に乗られて身動きが取れない谷口探偵は、さめざめとした我々の視線を一身に受けながらも、泰然とした様子だった。

「なんだねキミたちは。そろいもそろって。キミたちがやっていることは暴力行為ですよ。さあ、今すぐ谷口さんを解放しなさい。今ならまだ許してあげるから。若気のいたりからくる衝動的な暴力ということで容認してあげるから。そうか。キミたちはみんな、谷口さんにかまってほしくて、こんなことをしてしまったんだね。この頃いそがしくて構ってあげられなかったから。話がしたいなら、とりあえず忙しい時間をさいて聞いてあげるから、まずファミレスにでも行こうじゃないか」

「………どうしよう。ストーカーT氏がなにか妄言を繰り返しているようだけれど。当局におくれば、ストーカー規制法以外にも、占有物離脱横領罪未遂も適用できるかもしれない。あと、猥褻物陳列罪とか」

「ちょ、長門、なに言ってるんだお前!? ストーカーとか窃盗とか猥褻物とか! え、なに? 俺、猥褻的な何かを露出してたの!?」

「………まあ、猥褻的な物というか……顔とか?」

「フェイス!? 俺の甘いフェイスが猥褻って言いたいのかオイ!? 傷ついた! 名誉毀損だよ、これって!」

「黙りなさい」

「あひゅん」

朝倉涼子の圧力に屈する谷口探偵。

「だいたい谷口さん、あなたはここで何をしてたんですか? 自分の行いにやましいところがないのなら、それを説明してください」

「何もナマコもないさ。俺は仕事でここにいたんだ。分かる? 仕事」

「はあ?」

眉間にタテジワを寄せる朝倉涼子。

「なんでも、ランジェリー関係の企業からさ、最近の若い女性をターゲットにした新しい下着を開発したいから、どんな種類の下着が人気あるのか調べてくれって言われてね。ほら、最近うちは仕事が少なくなって困ってただろ? 渡りに船っていうかさ。身のいい話だったから、ちょっと変わった依頼だなとは思ったけれど受けたわけよ」

もう私たちの目は点になり、唖然とした3人が谷口探偵の真面目顔をぽかんと見ていた。

 

すっかり暗くなった道路上には、寒々しい夜風がふいていた。

「……谷口さん? あのね、まともな企業が下着の市場調査を探偵に委任したりすると思ってるの?」

「そういうこともあるんじゃね? だからデパートの衣服売り場に行って聞き込みしたりだな、こうしてフィールドワークをしてたりしてたんだよ。分かったか?」

どうやら彼は、これを本気で言っているようだ。そうか。さっきメモをとっていたのも、その調査のために。熱心な青年である。

「あのね、谷口くん。依頼された仕事かなんか知らないけれど、あなたがやっていたことは犯罪よ? 訴えられて当然の行いよ」

いつの間にか朝倉涼子の谷口探偵に対する呼び方が、「谷口さん」から「谷口くん」に変わっていた。

「だから、俺はただ市場調査してただけだって」

「市場調査って…。調査するんなら、わざわざ覗き見したりするより、本人に直接たずねた方がいいじゃない。なんで訊かなかったの?」

「なに言ってるんだよ。『あなたの穿いてる下着はなにですか?』なんて訊いてみろ。俺が100%変態さんじゃないか」

彼は一体どういう頭の構造をしているのだろう。海での一件で、疲れているせいなのだろうか。

「……谷口くん、いい? もしも、毎晩夜ふけに見知らぬ男があなたの家の前にやってきて干している下着をじっと見ていたら、どう思う?」

「なんだそれは。とんだ変態野郎じゃないか。そんなやつは即刻捕縛して司法の裁きで刑に服させてやればいい」

これを本気で言っているのだから。

「いや、だからね。その変態さんがそっくりそのまま、今のあなたの状況にあてはまっているわけなのよ」

「………」

谷口探偵が黙り込んでいる。なにやらシリアスに考え込んでいるふうな表情だ。

「そ、そう言われればそうだ!!」

どうやら演技で言っているわけではなさそうだ。

 

「阪中、すまなかった! どうやら俺は勘違いしていたようだ。何て言うか、深い思索的な部分で。お前には辛い思いをさせてしまったな」

深々と頭をさげる谷口探偵。まあもともと深々と頭を下げている状態なわけだから、土下座しているようにも見えるわけだが。

阪中は小声で「分かってくれればいいんですよ…」と言っているが、どう見てもドン引きしている様子。

「本当にすまなかった。悪いヤツの依頼内容に気づけなかった俺を殴ってくれ。探偵を利用して下着情報を集めようなんて、なんという不逞のやから。全ての悪の集大成みたいなヤツだよ、まったく!」

さりげなく実行犯である自分の責任も黒幕になすりつけ、自分も被害者の一人であるという方向に持っていこうとするその言論。さすが谷口探偵。

「あ! あいつ!」

土下座ポーズの谷口探偵が頭を上げたかと思うと、いきなり口角泡を飛ばしながら路地のむこうを指さした。

「あいつだよ、今回の件の依頼主! あの男が俺に話をもちかけてきたんだ!」

私だけでなく、朝倉涼子と阪中も一様にその方向へ顔をむける。一瞬だが、あわてた人影が路地のむこうへ逃げていく姿が見えた。

「逃がさないわよ!」

反射的に駆け出したのは朝倉涼子だった。スタートダッシュを華麗に決めたかと思いきや、彼女はカモシカのような俊敏さであっという間に路地の塀のむこうへ見えなくなった。陸上関係の人だろうか。

 

しばらくすると、比較的遠くの方から男の悲鳴が聞こえてきた。

「どうやら、終わったようだな。事情も知らぬ他人にストーカーの濡れ衣を着せ、相手が苦しんでいる姿を見て愉悦にいるような社会的豚野郎には当然の報いだ。また一つ、悪事が潰えた瞬間だな」

しみじみとした表情でそう言い放つ谷口探偵。

「………確かにその通りだけど、兄貴もだよ」

「え? なにが?」

「………平成12年に制定された法律第81号、ストーカー行為等の規制等に関する法律によれば、つきまとい、待ち伏せ、押しかけ等の手段で相手に迷惑をかけた場合、6か月以下の懲役または50万円以下の罰金が課せられる。黒幕はどうあれ、阪中の家へ執拗なつきまといを行った実行犯は兄貴本人。阪中が告訴すれば、裁かれるのは兄貴」

「さ、阪中さん? 訴えたりしないよね? ね? あ、そうだ。阪中さん、今晩食べようと思ってとっていたカップラーメンをあげようか」

困ったらとにかくネゴシエイト。さすが兄貴。でも今時カップラーメンにつられる女子校生もいないと思うよ。

思った通り、阪中も青ざめたドン引き顔で、いやいやいやと両手をぶるぶる振っている。こんな大人にはなりたくないよね。

 

 

 

 

その後。結局、当局行きとなったのは阪中にストーキング行為を行い、谷口探偵を騙して実行犯にしたてた男性1人だった。兄貴も一緒に訴えられていてもおかしくはなかったけれど、被害者当人の阪中が届け出なかったのだから、例の猥褻行為も不問となった。一応補足しておくと、別に阪中がカップラーメンにつられたから届け出なかったわけではない。おそらくバカバカしくなって、訴えるのが面倒になったのだろうと推測している。

 

阪中をつけまわしていたストーカー男は、山根とか、山ナントカという感じの名前だったが、正確には覚えていない。

その山ナントカは、阪中に対して好意をもっていたがその伝え方が分からず、ストーキングするようになったらしい。そしてそのうちストーキング行為がエスカレート。自分の行為によって彼女がなんらかのリアクションを起こすことが快感となり、様々なことをしたらしい。最初のうちは喜ばせようと思って手紙やプレゼントをこっそり家の前に置いていたりしたが、どうやっても気味悪がられるだけだったので、最終的に嫌がらせに近いことばかりやっていたという。そしてついに他人を使ってまでプレッシャーを与え、その動向を観察して楽しむのが趣味になってしまたらしい。

最初は純然たる恋愛感情であったのに、その伝え方が分からないというだけの理由で、最後にはお互いにとって望まない結末を迎えてしまったのだ。皮肉なものだ。

 

 

一件が落ち着いてから阪中が谷口探偵事務所を訪れ、謝礼を私に渡そうとしたが、私はそれを断った。私はまだ探偵ではないし、そもそもあれは今にして思えばただの善意と好奇心が入り混じった感覚でやっていたわけだから、お金を受け取るには少し抵抗があった。

隣で掃除機を牽いていた兄貴が何か言いたげにアイコンタクトを送ってきたが、私はそれに気づかないふりをした。

「本当にありがとう、長門さん。あなたが協力してくれたおかげで、私は助かったのね。お礼って言ったら変だけど、謝礼の代わりにこれ、受け取ってもらいたいのね」

そう言って、八つ切り大のパネルを私に手渡し、阪中は事務所を出て行った。

「なんだそれ。阪中の家ってけっこう金持ちそうだったしな。ひょっとして、値打ち物の絵画とかかもしれないぜ?」

「………俗物の兄貴は黙っていて。これは私が阪中にもらったんだから」

包装をはがすと、中からは、八つ切りサイズに拡大されたあの時の写真が出てきた。

私が道路上で、勇壮果敢にも不審者の背後からがっしりと監獄固めを極める写真。その様子は、バッチリ当時の状況を写し出していた。

 

私はにこと微笑んで、それを両手で抱え上げた。

「くそー、阪中め。余計なものを拡大コピーしやがって。あてつけか? これは俺に対するあてつけなのか?」

破り捨てろと言い放つ兄貴を背に、私はそれが自分の部屋のどこに置けば映えるかを考えていた。

きれいにとれているから。ちゃんと額に入れて、飾るんだ。

 

 

 

 

  ~完~

 

 

<次回予告>

 

谷口「もういやだ! 絶対に休むぞ!」

長門「………とめないよ。お疲れ様」

谷口「面倒なことにばかり巻き込まれる毎日に絶望した。たまには童心にかえって、夏祭りにでも出かけて休むことにする」

長門「………夏祭りなんてあったっけ?」

谷口「なければ作ればいいのだよ、長門くん」

長門「………うぇー…」

谷口「ビバ、探偵フェスタ!」

長門「………ぜったい誰も来ないよ」

 

 

谷口「次回 夏祭探偵、谷口 ~腹をみせた金魚~」

 

長門「………夏祭りって個人で開けるの?」

谷口「知らないが、金があればなんとかなるんじゃない?」

長門「………お金、あるの?」

谷口「……無いさ」


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