プロローグ
 どこまでも長く続く廊下…。
 その両側に見慣れた扉がいくつもあるのは、別に既視感でもなんでもなく、常日頃見慣れている「我が家」の扉だからだ。
 ちなみに、俺が今いるところから順に「台所の扉」「居間の扉」「台所の扉」「居間の扉」…以下ループ、となっている。
 台所の扉、が複数枚あるからと言って我が家が急にブルジョワな屋敷へと変貌したわけではない
 。そんなに台所やら居間やら、への扉があるのは…えーと、いつだったかの冬屋敷か鶴屋さんの
ご邸宅くらいのものだろう。
 どちらも全てを確認したわけではないが。
 廊下の幅は変わっていないようだ。毎日生活している我が家だ。いちいち計らなくともわかる。それより。
 この見慣れた扉が延々と続く風景、その扉に表札がかかっているわけでもないのにその扉の向こうの風景がわかってしまうのも、それはここが我が家だからだ。そう、それはわかる、わかるのだが。
 「とりあえず片っ端から開けていくしかないか」
 柔和な微笑を崩さないその野郎は、俺の後ろという…、まぁ「絶好の」ポジションから動かずに、
 「それしかないようですね。時間はかかりそうですが、特に危険がない、と分かった今は一つずつ確実に探していきましょう」
 と答えた。台詞だけ聞いていればいつもの…古泉一樹、空間限定の超能力者野郎なのだが、なぜ首筋に息を吹きかける?そこ?聞いているか?
 「とは言え…この横幅の狭い廊下です。いえ失礼、あなたのご自宅について批評しているわけではありません。とにかく、あなたは前衛を。この《迷宮》、
そう、あなたのご自宅が舞台となったこの迷宮では、あなたのナビゲーションが頼りなのですから。僕は後衛を拝領します。いえ、好きであなたの背後をとっているわ…」
 「もういい。…いくぞ」
 貞操の危機を感じないわけではないが…。とにかく、俺は一番手前の扉、それは「居間の扉」であったが、そのドアノブを回した。
 

 「なぁに?あんた自炊くらいしないの?そんなんじゃ男としても雑用としてもレベルがあがんないわよ」
 どこまでも挑戦的に輝く瞳で見つめる先には、俺の手にぶら下がっている買い物カゴ、その中には出来合いの惣菜ばかりだ。
なぁ頼むから公衆の場で雑用とか言ってくれるな。
 「雑用は雑用じゃないの。団長たるあたしが雑用ってんだから、間違ってないじゃない」
 店内は「タイムセール!豚挽き肉1パック380円を2パック580円!580円!」などと景気のいいアナウンスが流れている、
ここは夕方の俺の家の近所のスーパーだ。
 夏休み恒例のイベントと言えば、我が家の場合、田舎へ避暑兼里帰りし、いとこ、やら、はとこ、やら、そのまたいとこ、やら、
と遊び倒すのが例年なのだが。高校2年たる俺のバトルフィールドは、田舎への近況報告や先祖様へのご挨拶のターンよりも来年の受験のほうが
俺以外の誰にとっても大問題だったらしく、その問題をまるで他人事の如く、シューティングの弾除け並みに回避し続けていたわけだが、ついに
母親にロックオンされ発射されたAAMには「予備校夏期講習」と銘打ってあった。この被弾により、今年の夏の恒例イベントは、夏期講習へと
神の速さで上書き保存され、取り残された俺は一人、スーパーで夕食の買い物に来ているわけだ。ここまではいい。が、なぜお前がここにいる?
昼間さんざん予備校ではしゃいでいただろう?頼むから昼も夕方も公衆の場で騒ぐな。そして俺のプライベートに乱入するな。
 「あんた、予備校でコンビニ弁当だったじゃない?それでピンときたわけ。あんたんとこの家族が可哀想にキョンだけおいて旅行に行くって話は、
妹ちゃんからばっちり事前調査してたしね。必死に隠そうとしていたけどムダよ。ムダのムダ。SOS団の今期夏季合宿はあんたの為に中止したものみたいだしね。
そりゃあんだけ予備校の講義が入っていたらね。でもこれでちゃらにしてあげるわ」
 乱入した挙句、初心者をさいたまっはやら、GHやら、イミフなコンボで叩きのめす上級者のような様子で…、おい、とにかく勝手に話を進めるな。ちゃらとは何のことだ?
 「夏季合宿に決まってるじゃない!わざわざあんたを尾行してきて正解だったわ。去年、名探偵のジョブをマスターしておいて正解だったわね!」
 「夏季合宿?いや、おい、ちょっと待っ」
 「しゃーらっぷ!いい?キョン!今!ここで!団長たるあたしが宣言します」
 涼宮ハルヒ、探偵なのか格ゲー上級者なのか、とにかくイマイチ未だに謎な我が団長は公衆の面前、夕方のスーパーの店内ではばからず高らかに宣言した。
 「SOS団!夏季合宿を今夜!キョンの家で!行います!」
 しばらく俺に対する近所の視線が痛いだろう…。
 

 その後のハルヒの行動力は…いまさらながらだが、30分後にはSOS団全員に召集が完了していた。
しかも俺の家に。持参物に勉強用具、として付け加えていたところを見ると、ハルヒも今の立場を理解しているのだろう。
もし、あいつが俺のことを心配して、そう付け加えたのならば殊勝な所を見直してやらないわけでもないが…、
なぜ俺の家なのだ?この疑問によって、見直したところで大幅マイナスだ。
 「そりゃ鶴屋さんちみたいに大きい家だったらいいんだけどね。有希のとこはいつもお邪魔してるし。
それに去年もここで宿題かたづけたじゃん」
 理由になっていない理由だが、こいつの前では理由とか事情とか遠慮とか思慮とか関係ないのだろう。
なぜなら団長だからでハルヒだからだ。なんとわかりやすく、そして理不尽な。わかりやすいことだけが、世の中、納得できる事ばかりではない。
 「僕も賛成ですよ。確かに我々は受験を控える立場。しかし夏の思い出が勉強ばかりと言うのにもいささかどうか、とも思います。
しかも場所があなたのご自宅とならば楽しい思い出になりそうではありませんか?」
 お前は何を言ってもハルヒのイエスマンだろ?古泉。
 「で、でも突然お邪魔しちゃって…。大丈夫ですか?それに、お、お泊りだなんて…?」
 いいのですよ、朝比奈さん。むしろあなたと過ごす夜はこんなむさくるしい自宅などではなく、夜景のすばらしい、
 「なに考えてるの、エロキョン!合宿なんだからね合宿!それにお泊りするのは毎度のことじゃない、しょぼいキョンの家ってだけよ!みくるちゃん!」
 「え?あ、あ、そうですよね。楽しい合宿になりますね」
 その横で相変わらず無表情に立っているのは長門有希である。夏のくそ暑い夕方にも関わらず、どうしてこんなに暑さを感じさせない顔をしているんだ?見つめていたら涼しくなるかな?
見つめること2秒…。視線に負けた。しかし、その間に長門の表情からはなにも読み取れなかった。つまりは突発的なイベントだが安心していいってことか。
 「とにかく、こんなとこで話していてもしょうがない。ますますご近所に申し開きが立たない。あがれよ」
 「おっじゃましまぁす!」
 「おじゃまします」
 「おじゃまいたします」
 「…おじゃまする」
 
 
3-1
 「うにゃぁ」
 俺とともに残されたシャミセンがSOS団を我が家に向かいいれた。
 「シャミー元気?」
 ハルヒはつま先でシャミセンに挨拶すると、ずんずんと勝手に他人の部屋へと階段を上がって行った。
 「うふふ、久しぶり、シャミセン」
 朝比奈さんは、再会を喜ぶかのようにシャミに話しかけている。玄関口というロケーションだが、
朝比奈さんがシャミの喉仏をゴロゴロしている風景はこのままミケランジェロにでも彫像を発注したい。
 「…勝手に上がっていいぞ」
 靴を脱ぎながら、残り2名に声をかける。脱いだ靴を揃えるのは古泉、揃えないでも勝手に揃っているのが長門だ。相変わらず器用だな。
 「うわっ、暑いっ!あんたねぇクーラーくらいつけておきなさいよ!」
 階上から声が降ってくる。
 「突然来たのになにを言っているんだ…。」
 部屋へ入るとハルヒは勝手にエアコンをつけているところだった。しかし去年も思ったがこの部屋に5人は狭くないか?
 「別に暴れるわけじゃないしいいじゃん。今日は合宿よ、合宿。しかもあんたの為に集中勉強オプションセットのね。」
 人の部屋のベッドに仁王立ちになって一同の顔を見渡したハルヒは、次にこう言った。
 「じゃ!買出しに行くわよ!」
 
 
3-2
かくして女性陣は夕飯の買出しに、オトコ連中、俺、古泉、シャミセンは留守番である。
 「いったいなんなんだ…」
 昼の予備校、夕方の遭遇のおかげで軽い疲労だ。居間のソファーに腰掛けながら麦茶を口に含む。
 「夏の思い出…ってことでいいではないですか、失礼」
 向かい側のソファーに古泉が腰掛ける。ちなみにシャミセンは俺の隣で顔を洗っている。明日は雨か?
 「涼宮さんにとって、夏のイベント、がどんなに重要なものか去年のことをお忘れではないでしょう?ここは言いなり、というか、承諾しておくべきですよ。
しかも犠牲があなたのプライベートだけならね」
 「おい、俺は昼もあいつと顔をつき合わせていたんだぞ。しかも、俺のプライベートを何だと思っている」
 「いえ、そうではないのですよ。プライベート、というなら僕も、朝比奈さんも、長門さんも同じです。それに…、あなたもそろそろ達観の域ではないのですか?これがSOS団、我々の形だということに」
 ふん、と俺は鼻をならした。反論する代わりに麦茶に口をつけたのも…、わかっているからだ。
 「加えて…申し上げましょうか?今なら話せますよ」
 「なんだ、言ってみろ」
 「加えて、涼宮さんは…、そうですね、あなたと過ごす時間を増やしたいのかも知れません。自分で言っておきながら、妙な気分ですが。予備校にしても彼女の学力なら、わざわざあなたと同じコースを取ることはなかった」
 1学期の終了間際、俺がようやく予備校の申し込みを終わったとき、ハルヒに報告(しないと後が怖いからな)したときに、ハルヒは「監督」と言って翌日に同じコースを申し込んでいたのだった。
 「高校2年、否が応でも現実を見なければならないときに差し掛かっています。涼宮さんはなんども言うとおり理知的な方です。現実と希望、そして《ただの少女》としての自分…。彼女の選択と行動に特に不可思議な点はない、
特殊な能力を除けば…どこにでもいる高校2年生です。加えてこの春、お忘れですか?」
 「もういい」
 言葉を遮る代わりに、そして春先にあったあの「出来事」を振り返る代わりに、俺はもう一口麦茶をふくんだ。
 

 その後の沈黙を破ったのは、突然の夕立だった。降り出してからほんの2・3分たったころに、雷が落ちたんじゃないか、と思うほどの勢いと音で玄関の扉が開いた。
 「たっだいま!突然降り出すんだもん!みくるちゃん、有希、濡れてない?大丈夫?」
 「あ、大丈夫ですよ。それより涼宮さんも長門さんも早いんだもん。お豆腐、割れてないかな?」
 「…。」
 買い物袋をぶら下げて帰ってきた3人娘は、雨に軽く濡れた体と服を拭くと、さっさと調理を始めた。なるほど…、ハルヒは万能、朝比奈さんも女性らしさでは髄一の存在、長門は…一人暮らしも長いしな、
それぞれ手際がいい。そういや、バレンタインも3人で作ったんだったよな。抜群のコンビネーションを見せる女性陣に対し、オトコ連中はすっかりお客さんである。我が家なのに居心地が悪い。
 居心地の悪さを古泉と共有していると、小1時間ほどで、米、サラダ、麻婆豆腐、春巻きの4品が食卓に人数分並ぶこととなった。
 「簡単なものばかりだけどね」
 米を茶碗に盛りながら、そう話すハルヒは…一見、普通の女の子で、見ていると何故だか微笑ましくなってくる気がするのだが、あくまで気のせいであって欲しい訳で、そういえば何故、男には「手伝え」の一言もなかったのだろう?
長門が麻婆豆腐を、皿に山盛りに配膳している横で朝比奈さんが「多くないですか?それ」なんて話しかけている。見ていて微笑ましいのは多分こっちだ。確実だ。
 「いただきまーす」
 5人(+1匹)の食卓は楽しかった。「後片付けは、キョンと古泉君よ」というハルヒの言葉をきっかけに、ハルヒと朝比奈さんは「やっぱりこれからの時代は男も…」なんて盛り上がっている。長門はもくもくと麻婆豆腐山を切り崩し、
俺と古泉はナイター中継を見ながら…、そんな楽しい、それでいてなんてことはない食卓だ。
 その後、後片付けを俺と古泉でしている間、3人娘は居間のソファーでテレビを見ながらはしゃいでいた。片づけが一通り終わると、ハルヒがテレビを消しながらこう言った。
 「それじゃ、メインイベントね」
 

 3人寄れば文殊の知恵、と昔の誰かが言ったらしいが、毛利元就でさえ…、まぁこうなるのは見えていただろう。かくいう、俺も少なからずそんな気がしていた。
そりゃそうだろう?経験はないか?勉強しよう、と、仲良し組で集まってみたものの勉強会にならなかった覚えが。
 「ねぇ、キョン。さっきからここから進めないんだけどさ。なんで?」
 「そこは、前の部屋で相手の話を聞くイベントをしていなければ詰まるぞ。お前、先に進むことしか考えていないだろう?」
 「んもう!めんどくさいっ!こういうのはねっ、さくさく進まなきゃ面白くないのに!」
…。一番初めに合宿メインイベントたる学習を切り上げたのは意外なことか、そうでないのか、ハルヒである。最初は「あーだ。こーだ、馬鹿キョン!」
とスパルタ指導を繰り広げていたのだが、出来の悪い生徒に辟易としたのかゲーム機に手を伸ばした。
 その後の展開は…ぐだぐだである。長門はいつものように部屋にいるシャミセンをひざの上に乗せたまま、本を取り出し、朝比奈さんは妹が我が部屋においていった少女漫画を読み始め、
いまや俺と古泉だけがテキストを開いている。ちなみにハルヒのやっているゲームはサウンドノベル、と呼ばれるタイプのやつで主人公がいくつかの登場人物と会話をしながら心理的な心情を探っていくものだ。
いかにも古泉辺りが得意そうなゲームだが、俺は選択肢を片っ端から潰してクリアした。エンディングさえ見られればそれでいいのさ。朝比奈さんの読んでいる純少女漫画は、よくある告白するとか、しないとか…俺は読んでいないのでしらん。
長門が読んでいる本は…「Jane Eyre」?なんの本かは知らないが、原文で読むのはやめてくれ。外国語は今の俺にはこの上ないプレッシャーなんだ。
 そんな光景がどのくらい続いただろうか。日付が変わるか変わらないか、の時刻だったはずだ。部屋に持ってきていた麦茶がなくなっていたので、
 「ちょっと階下(した)に行ってくる」
 「では、僕も行きますよ、手伝いましょう」
 ハルヒは黙々とゲームをやっており、朝比奈さんは漫画に熱中、長門のページをめくる指先はいつもと変わらず…、それが3人を見た「最後」の光景だった。
 

 階段を下りている最中の出来事だった。寒気、ではなかった。以前とは違う。心持ち…暖かいというか優しい、と表現したほうがいいのだろうか?
不思議でいて表現しようがなくて、しかし何度か経験している…あの感覚、というより気配が首筋に伝わった。
 「!?」
 瞬間、階段を下りる足を止めて古泉を振り返る。
 「戻りましょう!」
 そんなに広い家ではない。10秒もかからなかったはずだ。俺の部屋を開けるとそこに、3人の姿はなかった。
 「これは…」
 どちらともつかず口に出た。やりかけのゲーム。電源もテレビもついたままだ。開きかけの漫画。その場から読み人だけ消えてしまったように落下している洋書。
側にはひざの主がいなくなったせいか、シャミセンだけがいる。
 「なんなんだ…、いったい…」
 隣の部屋は両親の寝室になっている。妹の部屋は向かいの部屋だ。たったこれだけの2階の部屋のいずれにも3人の姿はなかった。
 「古泉…わかるか?」
 待てよ、待て。冷静になれ。あの感覚…気配は…あれだ、閉鎖空間やカマドウマや音の化け物、冬山のときと同類項だ。しかしなんで長門までいない?
いや、それ以前に…ハルヒ?なんであいつが?ここにいたのに?あいつまで消えている?何度かこういった事態に遭遇したせいか。思ったより冷静だ。しかし…、3人とも消えるとは…。ありえない。
あの「3人娘」が…。事態の異常さよりも…3人がいないこと、はぐれてしまったこと、守れなかった?ことに焦りが、苛立ちが湧き上がりそうになる…。
 「まずは…落ち着いてください」
 「いや…わかっ!わかっている…」
 思わず声が高ぶりそうになる。
 「この感覚は…そうですね。楽観的かもしれませんが、危害はない、と思います。僕らにとっても、彼女たちにとっても」
 
 

 「今まで、我々が遭遇した事態…。内面的な要因も外部からの要因もありましたが、少なくとも我々に生命の危機、までが及んだ試しはありませんでした」
 「雪山でのことを、お前は忘れてしまったのか?」
 「失礼、言葉が足りませんでしたね」
 「長々とお前の言葉を聞く時間はなさそうだが…。産業、いや三行でまとめてやるなら聞いてやる」
 「では、ご説明を。我々が《隔絶》された空間、いえ、あなた、がですね、空間に置かれた事例を順に申し上げましょう。僕と行った閉鎖空間、涼宮さんに連れて行かれた閉鎖空間、
部長氏の家、バンド練習中に、雪山での古い館、そして橘に連れて行かれた別種の閉鎖空間…です。孤島でのことは…まぁ置いておきましょう。自然現象かもしれませんし。
このうち明確な外部からの要因で隔絶されてしまったのは、雪山での一件だけです。しかし、あの時は僕には予想外、でしたが長門さんには感知できていた。しかし、先ほど、あなたの部屋では長門さんは普段どおりの様子でした。
よって外部から、つまりあの別種の宇宙的存在からの介入ではないと、言い切れます」
 「三行を越えているぞ。長い、相変わらず」
 「ふふっ、そうですね。あなたのような方には論より証拠、ではこれを」
 古泉が手のひらを上に向けると、いつぞやの赤い光の玉が浮かび上がった。お前はその●は自慢かもしれんが、俺にとってはそれを見るということは厄介ごとの最中であるという証拠なんだよ。あと、頼むから家を破壊するなよ。
 「では、しまいましょう」
 そういうと赤い…、めんどくさいな、●はふっと消えてしまった。
 「僕がこの能力を発揮できるのは閉鎖空間と長門さんの言う位相空間だけです。そしてここには神人はいない。断言します。一方、過去2回の位相空間では、空間に引き込まれてからすぐに敵性、というのか、対象となる《物体》が出現しています。
こんなおしゃべりしている余裕はなかった。それにあの引き込まれた、というか今回は巻き込まれた、が適切ですね。あの感覚は…危害が加わるような感じではないと思います」
 勘ですが、と古泉は付け加えた。勘だが、確かにそれは同意できる…。あの階段の途中での感覚、確かに古泉も同じものを感じているのだ。しかし…、勘では安心できるのだが、現実ではやはり3人がいないということに不安だけがつのる。
 「とにかく、探しましょう。2階はこの様子でしたが、あるいは1階なら」
 

 いつ我が家のリフォームが行われたのだろう?これが匠の技か?
 「これは、これは。立派な廊下ですね」
 「冗談はやめろ」
 「では、屋敷、いえ《迷宮》とでも呼びましょうか?」
 「この状況でよくそんなことを…」
 見れば、遠近法とでもいうのか、ずーっと廊下と扉が続いている。廊下には人影がない。
 「とりあえず片っ端から開けていくしかないか」
 「それしかないようですね。時間はかかりそうですが、特に危険がない、と分かった今は一つずつ確実に探していきましょう」
 
 最初に開けた居間の扉には…誰もいなかった。というか、我が家の居間と台所は続き間になっているので、どちらを開けてもそこに人が「いる」のか「いない」のかわかるのだが。
そんなに広い居間と台所ではない。あわせて16畳くらいのもんだ。
 部屋の中の広さは変わっていない。食器の配置も、俺と古泉で片付けたままだ。ハルヒがテレビを消すときに使って置いたリモコンも、あいつが座っていた辺りにある。
 「なにも…ないな」
 「そのようで。次に行きましょう」
 廊下に出て、次の扉「台所の扉」を開けようとして、古泉に、
 「なぁ、これで探していって…いや、なんでもない」
 「あなたのご心配は…、僕も同じです。しかし、我々SOS団は、そんなに弱くはないはずです。あなたが一番ご存知でしょう?」
 失敗した。こいつに弱音や心配事を吐くんじゃなかった。限定能力者野郎のくせに。せめて、こんな時は…、長門に、だったのなら…。
 「まずは信じることです。あなたのとる行動、そして想いを…」
 「うるさい」
 台所の扉①を、古泉の言葉をさえぎる代わりに開けた。
 そこにいたのは…エプロン姿の女子、カレーの香り、ことこと、と、小気味いい音をたてる鍋、リズムよく包丁を操る…長門有希だった。
 
9-1
 「……」
 「……」
 「……。」
 呆然と立ち尽くす俺、古泉、長門。なんだこれは?空気を変えたのは長門の一言だった。
 「お帰りなさい…、あなた。」
 あなた?どなた?こなた?いや、待て待て。事態が飲み込めないぞ。そんな奔流に流されまくりの俺と古泉をよそに、長門はこう続けた。
 「帰りが遅いと聞いていたが、想定した時間より早かった。うかつ。しかも彼をつれてくるとは聞いていなかった。うかつ。」
 彼、と指すときに持っていた包丁で古泉を指した。長門、そういうお行儀の悪いことはやめなさい。って、突っ込むところはそれじゃない。探していたメンバーの内1人を発見したのだが、そいつが何故、
俺の家の台所で料理をし、カレーの匂いがし、あぁやっぱり長門はカレーなんだ、とかではなくて、
 「おい、長門。これは…」
 古泉を刺して、いや、指していた包丁がこっちに向いた。殺気!?
 「…私を呼ぶときは《有希》。約束を破った。あなたには風呂掃除1週間を言い渡す。異議は認められない。」
 「これは、これは」
 古泉は顎に指をあてて、考え込むような…いや、お前楽しんでいるだろ?この空気を読んだのか、古泉はいち早く対応し、
 「いえいえ、長門さん、あ、《旧性》でしたね。有希さん。彼に誘われたのですよ。自慢の嫁の料理でもたまには食べに来い、と」
 よ、嫁?
 「遠慮はいらない。ただ《自慢》のカレーの出来に納得がいかない。しばらく、座って待っているべき。」
 心なしか…うれしそうだな、長門。
 「では、ここで待たせていただきます」
 呆然となる俺を尻目に、古泉は夕食を5人で食べたときと同じ席に座った。
 「さぁ、あなたも待ちましょう。なが…、有希さん自慢のカレーを」
 隣の席に座り、古泉に耳打ちする。
 「なんだ、どうなっているんだ?」
 
9-2
「一見するに…、新婚家庭に呼ばれた夫の友達、と言うのが僕の立場な様子ですね」
 にこやかに、長門の調理する後姿を眺めている古泉に対し、俺の嫁を視姦…ではなく、
 「そうじゃない。なんなんだ?どういうシチュエーション、ではなく、どういう事態…あぁもう!」
 「おっしゃりたいことはわかります。しかし、今は様子見です。危害もないようですし」
 お前、さっき包丁向けられていたじゃないか?
 「そうではありません。あの《長門さん》がですよ。こういった…状況、というのでしょうか。とにかくこうなっているのです。ここは下手に刺激しないほうが」
 「改変、されているのか?いや、したのか?」
 「わかりません。どちらにせよ危害だけはないようですが」
 危害、ね。確かに…今は後姿だが、この《長門》からは何にも感じない。いや、実は後姿からだけでも感じるものがあるのだが…。しかし、俺は生まれてこのかた、
こういった《状況》にも《感じ》にも疎い男だぞ。SOS団でも、男女間感情なんてものはほとんど存在しない。断言できる。それもあのハルヒが率いているんだ。恋愛感情は精神病の一種、ハルヒの言葉だ。
しかし、この《長門》から感じる雰囲気はなんだ?まるで、そう、新婚とか幸せいっぱいとか…。あの12月の長門とは違う《長門》がここにいる。なぜ?ハルヒの仕業か、長門の改変か…。
 そんなことを考えていると、いつぞやのように山盛りカレーが目の前に置かれた。
 「…お待たせ。食べて。」
 あの時のカレーより一言多く出てきたカレーは…、なぜかご飯がハート型に盛られていた。
 
10-1
 改変?長門(有希)は、食事中の姿はいつもどおりだった。同じようにハート型に盛られたご飯と大盛りカレーを、こともなく崩していく。
よく食べれるな、さっき大盛り麻婆豆腐を食べたんじゃなかったのか?
 「なんのこと?」
 小首をかしげてまっすぐ見つめてくる長門(有希)は…、あの12月の長門とは違う…はっきりいってかわいい。
 「いやいや、相変わらず有希さんの作るカレーは美味です」
 こいつも…いたんだよな。うっかり、新婚モードになりかけたぜ。モード移行をしたほうがよかったのかよくなかったのか、
わからないが現実に戻ることが出来た。カレーを食べながら考える。どうしたらこのモードを脱出して、いつもの状態に戻れるんだ?
特殊小役でもひけばいいのか?
 「どうしたの?あなた。」
 長門(有希)が不思議そうに俺を見ている。その瞳は俺の知っている長門の瞳の色と同じなのだが…、雪解け水とかではなく、もっと温かみと優しさと、
そうだな、春の小川、くらいの温度か?
 「おいしくなかった?」
 長門の疑問形なんか、そうそう聞けるものではない。しかし、なんだ。この長門(有希)は。疑問形連発の上に、そんな目をされたら…
 「いや、うまいよ。いつものお前のカレーだ」
 お前、の辺りで長門(有希)は、一瞬、反応があったが、すぐに安心したように「微笑んだ」。
 「そう…よかった。」
 思わず固まってしまった。隣の古泉も…固まっている。が、それも一瞬ですぐに誰ともなしに笑い出す。
 「あはは」
 「うふふ。」
 「ははは…」
 
10-2
 食事が終わると、古泉は「ご馳走様でした」とだけ言って、居間のテレビのほうへと向かった。
何やら含んだもののある視線を俺に向けていったが、さっきハルヒが座っていた辺りに今はいる。食卓には、俺と長門(有希)、
そしてカレー山が片付いた食器だけだ。先に口を開いたのは長門(有希)だった。
 「久しぶりに聞いた。」
 「?なんのことだ」
 「……お前。」
 「?」
 「……《あの頃》あなたが私を呼ぶときはいつも、長門、か、お前、だった。」
 「…」あの頃って、長門(有希)?
 「一緒になって、あなたは約束した。有希、と呼ぶと。うれしかった。」
 饒舌な長門(有希)、違和感を覚えまくりなのだがここは聞いておくべきだろう。突破の鍵になるのかもしれん。
 「有希、と呼ばれたことで、あなただけのものになれた気がした。実際あなたはわたしにとってよい夫。早く帰ってくる。気遣いもしてくれる。」
 そんなにいい旦那だったのか、俺よ。
 「私にとって《あの頃》からの気がかりは…。」
 そこで、長門(有希)は少しだけうつむいた。
 「涼宮ハルヒと朝比奈みくる。」
 消え入りそうな声だった。
 
10-3
あなたが私に気遣って、彼女たちに連絡をわざと…しなかったのは知っている。
しかし、私もわざと、彼女たちの話題を口にしなかった。」
 ……。
 「さっき《お前》と言われた。《あの頃》を思い出した。あなたも…そう?」
 「あ、あぁ」曖昧な返事しか出来ない。なんと言えばいいのか…。
 「あなたにとって《あの頃》の日々が大事なのは知っている。私も…同じ。だから…変な気を遣わないで欲しい。」
 長門の…、いや有希のか、明確な意思表示だ、これは。
 「私は、あなたのそばにいる。だからといって気を遣うことはない。私があなたのそばにいるのは私の《意志》。」
 お前…。
 「そう、それでいい。でも、たまに、でいい。」
 何を?
 「有希、と呼んで。」
 ……?
 「私が…自分で選んだ名前だから。」
 あの時の文芸部騒動の最中…長門の怪奇ストーリーが思い出される。
 「あなたが呼べば…、それが私の存在理由。」
 
10-4
そういうと、長門(有希)は静かに目を閉じた。無表情ってわけでなく…微笑というべきか…。そうだな安堵感、ってやつなのかもしれない。
 俺は頭をかいた。この長門(有希)が改変されたのか、改変したのか、はどうでもよくないが、今はいい。
 今の彼女の心情吐露には引っかかる部分がある。【《あの頃》の日々が大事なのは知っている。私も…同じ。】つまりは、この長門(有希)はSOS団の俺の知る長門有希と同一線上にいる存在、いや、少なくとも「思い」は共有しているのだろう。
 俺にとって、長門にとって、もちろんメンバー全員にとってSOS団の活動は何者にも代え難い、大事なものだ。
 今の、今、目の前にいる長門(有希)が、どうなってしまった後の存在なのかはわからないが、少なくとも…、思いを共有している以上は、長門は長門である。
 能力・素性云々とかは…気にはなるが今はどうでもいい。問題は…、今、俺が…言えるかどうかだ。
 「あ、あのな…」
 長門(有希)が顔を上げる。ゆっくりと、そして優しく。
 「その…、なが、いや、お前にとっても…。いや、ちがうな」
 「……なに?」
 「俺は…、SOS団が…いや、あの《日々》が、大事だ。お前にとってもそうであるように」
 長門(有希)は黙って聞いている…。古泉に聞こえているかは…しったこっちゃない。
 意を決して、一気にしゃべる
 
10-5
 「たくさんお前に助けられた…。時々思う、いや思ってた。俺は、お前に、何をしてやれたんだろうって」
 「……そんな…。気にしなくていい。」
 「いつも…、ハルヒに振り回されて…余裕がなかったのかな?俺も、大事なことをお前には伝えてやれなかった」
 「…なに?」
 「…あ、あ、ありがとう。なが、い、いや、ゆ、有希」
 「……。」
 ええい!
 「ありがとう。いつも、有希。今までも、これからも」
 「…………うん。」
 「また、図書館に連れて行ってやるよ」
 「……ありがとう。」
 瞬間、刹那だった。強力なフラッシュが室内でたかれたような、まぶしい閃光が周囲を支配した。
 「うおっ!?」
 視力が回復したとき…、そこに長門(有希)の姿はなかった。
 「…ながと?」
 「これは…」
 長門の返事の変わりに背後から聞こえたのは古泉の声だった。
 「いやはや…いいものを聞かせていただきました」
 語尾にハートマークでもついていそうな軽やかな口調で古泉は語りだした。
 
11
 古泉が言うにはこうだ。
 この空間はSOS団の3人の女子、ハルヒ、朝比奈さん、長門、の3人の深層意識の表出したものだろうと。
 「今の長門さんの消えるまでの様子…、おそらくは現実世界へ回帰したものと思われますが、まぁ、それでわかりました」
 俺には何のことかわからん。
 「まだ、おわかりにならないのですか?あなたもつくづく…。」
 そんなことはどうでもいい。さっさと話すことがあるなら話せ。3秒待ってやる。
 「では、次の部屋へと行きましょう。そうですね…、次は、居間のほうがいいかと思います。イメージですが」
 なんのことだ?
 「居間の扉だけを開けてみていってください。きっと《彼女》がいますよ」
 我が家で異変が起こった上に、この異常事態だ。なぜお前はそんなに楽しそうな顔をしていられる?それになぜお前のアドバイスに従わねばならん?
 台所の扉①を出て、次の扉は居間の扉②だ。果たしてそこには…
 「何もないじゃないか」
 最初の居間①と変わらない。
 「では、居間③へ」
 居間③にも居間④にも誰も何もなかった。廊下はまだ延々と続き、端は見えない。
 「いつまでかかるんだか…」
 ため息にも似た台詞を吐き出す。すると古泉が、
 「足りないのかもしれませんね」
 
11-2
なんのことだ?
 「朝比奈さんが淹れてくれたお茶の中で一番おいしかったもの、覚えていますか?」
 「突然なんだ?なんの話だ?」
 「いいから。答えてください」
 少しばかり強い口調の古泉は意外といえば意外だが、そんな話を今、している場合か?
 「では、この扉、居間⑤を調べ終わるまでに考えておいてください」
 ?よくわからん。わからん状況時にわからん質問を出すな。お茶、お茶ね…。そういえば喉が渇いた。
こんなときこそ、朝比奈印の朝比奈茶だろう。
 俺はなんともなしに居間⑤の扉を開けた。
 居間⑤のソファーにローゼン…いや、綺麗な人形が座っているのかと思った。そのお方はソファーに座りながら編み物をしていた。
 「キョン君、古泉君」
 そこに鎮座しておられたのは、美しき姫君、朝比奈さん、その人であった。しばらく凝視する。
そのお顔、胸、腰つき…。(大)でもなければ…雪山山荘のときのようなセクシー路線でもない。さっきまで…、妹が置いていった少女漫画を読んでいた、
高校3年にしては、やけに幼い、俺のよく知る朝比奈さんそのものだった。
 「お茶、いれましょうか?」
 
12-1
 「キョン君、覚えていますか?去年のあの桜の咲く川沿いの公園を」
 去年、桜は2回咲いていますよ。
 「うふ。そうでしたね。えーっと、最初の不思議探索のときです」
 未来人告白、のときですね。
 「そう。あの時…、ううん、あの前かな?あたしが言った言葉を…」
 思い出してみる。えーとパラパラ漫画の話とか時空の歪みがどうとか…。
 ちなみに古泉は、台所の食卓のほうに今はいる。台所①とは位置関係が逆になっているわけだ。
 「思い出した?」
 は?何を?
 「んもう、キョン君、ちゃんと思い出して」
 なんだっけな?とか、そういう場合じゃない。今、目の前に座っているのは、よく知る朝比奈さんだ。さっきの…長門(有希)とは違う。
なにも変質していない、いつもの朝比奈さんだ。特に違和感は…ない。
 食卓にいる古泉が「では、僕はあちらで」と言って席を外れたのは、なんのサインか気にはなるが。
 朝比奈さんは、いつものスマイル100パーセントの表情で、お茶をすすっている。
ちなみに朝比奈さんが入れてくれたお茶はなぜか、熱いセイロンティーだ。熱くてうまい。
 「キョン君は聞いてくれましたよね?誰とも付き合わないの?って」
 「だって、あたしは未来へいつか帰らなくちゃいけない。悲しいお別れになること…わかってるから」
 「でも、あたしはもっとかけがえのないものを、この時代で…ううん、みんなで、みんなのおかげで手に入れることが出来ました」
 「楽しかった…、任務だったけど…、キョン君がいて、涼宮さんがいて、長門さんがいて、古泉君がいて、楽しかった」
 「時間平面の駐在員としては…、がんばったつもりだけど、自信ないかも」
 
12-2
 ……なんだ?何が言いたいんだ?いやな展開が脳裏を全力疾走する。
まさか、このまま「お別れ」ってことじゃないだろうな?
しかし、この朝比奈さん…見かけは(小)でも語り方…なんというか語尾に力があると言うか、
温和な中にも、説得力?というのか、まぁそんな感じが見受けられるのは(大)にも通じるものがあるが。
 「キョン君」
 「はい?」
 そんなことを考えていたのがいけなかったのか、呼ばれて、振り向けば、朝比奈さんが真剣な眼差しで俺を見ている。
しかも、至近距離だ。う…か、顔が近いですよ、朝比奈さん。うれしい限りだが。
 「約束を…約束をしてください」
 「…はい」
 「…悲しいお別れをしないって。あたしを笑って…未来へと帰してください」
 「…」
 「それが、あたしからのお願いです…」
 朝比奈さん…。
 決意と願い、ここにいる朝比奈さんは、(大)でも(小)でもなく…、いや、違うな。
(小)から(大)への朝比奈さんなんだ。
俺たちはあの最初の春、邂逅の春から少しずつ変化している、ってのは古泉の台詞だ。
そうなんだ、朝比奈さんもいつまでも、あの「朝比奈さん」ではない。
 
12-3
 「わかりました。もちろんですよ、朝比奈さん」
 「うん、ありがとうございます」
 コスモスのような優しい笑顔だ。
 「いつか、そう、二人でお茶を買いに行ったときです。
あの時、言ったように…いや、言えなかったんだっけ?とにかく、朝比奈さんは朝比奈さんで…、
何かできるとか、いてくれるだけで、とかじゃなく…、俺は楽しかったです。
あなたがいてくれたから、ですよ」
 「そんな…あたしは何にも出来ないばかりで」
 「お茶、いつもおいしかったですよ」
 「え、ありがとう」
 「いつもかわいい衣装で」
 「ひゃ、あ、ありがとう」
 「いつも優しくて」
 「そんな…」
 「頼りないけど」
 「すいません…」
 「でも、あなたでなくてはならなかった」
 「え…」
 「他の誰でもない、あなただったからですよ」
 「……」
 「あなたがいてくれて、いえ、《来てくれて》よかった」
 
13-1
 居間⑤の扉をでて廊下を見渡す。
 延々と続く廊下は相変わらずだが、状況を一つ一つ突破しているためか、最初に感じたような焦りや苛立ちはない。
 「あとは…、あいつか」
 一番厄介そうだが。
 「これで、この《迷宮》が何を意味しているか、いくらあなたでもお気づきでしょう?」
 わかっているさ、それは俺が常々SOS団の活動の日々で…いや、いまや俺の生活のほとんどなのだが…足りなかったもの、反省すべきもの、そして…言わなかったものだ。
それは、わかる。俺だって後悔はしたくない。いつか、いつかは、と思っていたさ。しかし…、わからないことが一つだけある。
 そして、それは古泉に聞くことではない。
 そのあと、いくつかの扉を開けて回ったが、ハルヒの姿はどこにもなかった。
 「一度、2階へ戻りましょう」
 古泉が言い出した。戻れるのか?「2階は《迷宮》にはなっていませんでしたし」と言うのが古泉の主張だ。疑念もあったが、こういった空間事にはこいつのほうがやはり一日の長があるのか、
言うとおりに2階へはあっさり戻れた。
 俺の部屋の扉を開けると、そこには、朝比奈さんと長門がいた。朝比奈さんは少女漫画、長門は洋書を読んでいる。シャミセンをひざに乗せて。
しかし、ハルヒはいなかった。部屋に入り開口一番に俺は言った。
 
13-2
 「ハルヒは?いや、この事態はなんだ?」
 が、長門も朝比奈さんも本から顔を上げない。もう一度聞く。
 「ちょっ!ハルヒはどこいったんだ?この状況は!?朝比奈さん!長門!」
 おずおずと答えたのは朝比奈さんだった。
 「あ、あのぅ、涼宮さんなら…トイレに行くって、多分下に…」
 多分?
 「何も起こっていない。」
 長門?
 「……。」
 何故、目をそらす?長門。朝比奈さん、なんか目を合わせないようにしてませんか?顔が赤いですよ風邪ですか?
えーと…。すると古泉が、
 「では、涼宮さんを探してきてください。あなた一人でね」
 「一人で?なにかあったら…」
 「なにもありませんよ」
しれっと、答えた。
 
 
14-1
 階下に降りていくと、なぜか《迷宮》であった1階部分は何事もなかったかのように元の一戸建て住宅へと戻っていた。
さっきの3人の様子といい、事態自体といい、軽く混乱したまま廊下を見渡すが、今度は扉を開けることなく、目的の人物が見つかった。
 ハルヒは玄関口に立っていたのだ。
 「なにしてるんだ?」
 玄関口に立つ後姿に声をかけた。振り向きながらハルヒは、
 「なにって、あんたたち部屋に戻ってこないから、外に出かけたのかな?って思って」
 そういうハルヒの指先は俺の靴を指している。
 「あたしも喉が渇いたわ。キョン、冷蔵庫開けるわよ」
 そう言って勝手に台所の扉のほうへ向かい、勝手に扉を開けた。
人の家をなんだと思っている、この様は、確かにハルヒだが。様子も長門(有希)のようなわけでもないし、朝比奈さん(小)⇒(大)、のようなところもない。
しょうがないのでハルヒに続いて扉の内側へと入った。
 「で、あんたちゃんと勉強してるの?」
 勝手に冷蔵庫から麦茶を強奪したハルヒがグラスに注ぎながら聞いてきた。
 「ま、そこそこには」
 「あんた、志望校どこだっけ?」
 「考えていない」
 志望校か…。「死亡校」ならたくさんあるが。
 「ふざけてんの?」
 大きな瞳から生じた視線が脳下垂体まで貫く。
学問の話は俺が必死に避け続けてきたオフロードなんだ。今はまだレースに出たてのルーキーだぞ。そこまで考えていない。
 
14-2
ハルヒは食卓の椅子に腰掛けながら、ふっと、息をついた。
 「ま、あたしもこれからなんだけどね。志望校。有希はどこでもいけそうだし、古泉君は理系でしょ?みくるちゃんはどうするのかな…?キョン、みくるちゃん、どこ行くか聞いてる?」
 知らん、と答えながら、何故かハルヒの隣に腰掛ける。何故だろう?
朝比奈さんに志望校なんてないだろ。未来へと帰ってしまうのだからな。それか大学に入ってもハルヒの監視を続けるのか?講義後は毎日北高へ来てくれるとか。
それはうれしい限りだが、アルバイト代でも払わねば申し訳がたたない。
 そんなことを考えていたら、聞き逃しそうになった。いつものハルヒにしてはほんとに、本当に小さな声でつぶやいた。
 「SOS団も…折り返し点なんだよね」
 
 わかった。今、はっきりわかった。
 
14-3
  ハルヒはどこを見ることなく、グラスに口をつけている。
 願望、想い、言葉、希望、現実、不安、意思、意志、未来、想像…。いろいろな感情や思い出が俺の頭の中を駆け抜ける。そうか…、こういうことだったのか…。
 「なぁ、ハルヒ」
 「ん?」
 気のない返事は、いつぞやの憂鬱モードを思い出させる。しかし、古泉の出番は今回、ないはずだ。いや、作らせない。
 「お前…、大学行ってからどうするんだ?」
 「わかんない」
 そっけない返事。だが俺は臆せずこう続けた。
 「いや、俺もわからないんだ」
 はぁ?とハルヒ。あんた馬鹿?みたいな視線が突き刺さる、が、構わず続けた。
 「いや、行けるかどうかもわからないんだが、そんなことはどうでもいい。いや、どうでもよくない」
 「どっちよ?なにが言いたいの、あんた」
 「俺は…選んじまった。この世界を。大変なことばかりさ。やれやれだぜ、毎回。でもそれは俺が選んだことなんだ」
 「…何?」
 「俺が選んだ意思だ。現実は…夏休みが終わったら容赦ないかもな。でも、そこで、流されるか、どうにかするかも、俺の意思、そう意志、選択なんだ」
 「なんの話?あんた…大丈夫?」
 ハルヒのほうに向かい…いつかの校庭のようにハルヒの両肩を掴む。
 「ハルヒが俺を選んだからじゃない。俺がこの世界を、ハルヒを選んだんだ。それが俺の意思だ」
 ハルヒはもう何も言わない。
 「みんな…離れ離れになっちまうのかも知れない。それが現実なのかも知れん。だがな、それを選ぶのも、決めるのも、今、ここにいる、俺たちが決めていくことなんだ。SOS団の解散なんて…、考えたくもないが、希望とか未来とかじゃなくて、俺たちの《意志》なんだよ」
 「キョン?」
 「俺は…なにがあっても、SOS団を、みんなを、…ハルヒ、お前を選ぶ」
 「…!」
 「俺…がんばるから、だから…不安になるな」
 そこまで言うと…口づけではなく、ハルヒのさらさらとした髪の上から頭をなでてやり、どんな魔が刺したんだか、頭をそっと、自分の肩の方へと引き寄せ…目を閉じた。
 やわらかくあたたかくやさしい、安心できる光が瞼の上から感じられた。
 
 
エピローグ-1
 「涼宮さんも長門さんも朝比奈さんも…不安や現実、希望や願望をそれぞれに抱えている、ただの高校生、ってことですよ」
 「言われなくてもわかってる」
 「そして、僕も、あなたも、です」
 ここは台所だ。当初の目的どおり、俺と古泉は麦茶の補給へと、ようやくやってくることが出来た。
 さっきまで、ハルヒといた台所の食卓が、夕食時となんら変わりなくそこにある。卓上のボトルにヤカンから麦茶を注ぎながら古泉は続ける。
 「お三方が覚えているかどうかは…わかりません。ですが、そんなことはどうでもいいことではないのですか?」
 ああ、と呟きながら俺は考える。その通りだ。古泉にしてはいい回答だ。俺が、しなくてはならないこと、が今はっきりとわかる。
SOS団について、自分について、そして、あいつについて…。
 「結構です」
 なぜお前はそんなに、にこやかなのだ?疑問がまだ一つ残っているのだが…こいつに聞いていいものなのか?
しかし、ハルヒはともかくとして、長門や朝比奈さんがあの様子じゃ、本人に聞くのが一番なのか。
 「キョ―ン!お布団って一組しかないの!?」
 上から大声が降ってくる。近所迷惑だ、ボリュームを下げろ。布団出したところで今夜はどうせ寝ないのだろう?
3人が今、どうしているのか知る由もないが、いつもと変わらない、ことだけは確かだろう。それでいい、と思う。
楽しい合宿になればいいのだ、たとえ今からでも。それは規定次項なんかじゃなく…俺たちの意志で積み上げる未来なのだから。
未来とは大層だな、せめて今夜は、だな。
 
エピローグ-2
しかし…その前に…
 「古泉」
 「なんでしょう?」
 やはり…聞いておかなければならないだろう。
 「さっきまでの事件、空間が、あの3人の不安や希望やら願望やらの表出した複合世界、なのはわかった」
 「その通りで」
 ボトルに入りきらなかった麦茶をヤカンごと冷やすために、冷蔵庫を開けながら背後の古泉に聞いた。
 「ならば、お前はどうなる?」
 「と、申しますと?」
 ヤカンが入りきらないので、冷蔵庫の中を整理しなきゃならん。いろいろな食料やらを整理しながら、なおも聞く。
 「なぜ、お前の願望、が表出しなかった?なぜ、お前は俺と一緒にいることが出来たんだ?」
 「それは…」
 背後から古泉の声が近づく。
 「僕には、あなたの言葉など必要ないからですよ。僕が本当に欲しいのはあなたの背後…。《バック》なのですから」
 「!!!」しまった…。聞くべきじゃなかったのかもしれない。
 ここからが本当の禁断の《迷宮》になるとは予想外だった。
布団のことで返事がないことにハルヒが降りてきてくれることを、ただ祈るしかなかった。
―――終―――


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