俺の名は谷口。探偵だ。
そろそろこんな口上を述べる必要もなくなったんじゃないかとは思うが、まあ一応言わせてくれ。言っておくと、なんか安心する。
外出する時、ちゃんと戸に鍵をかけたのにノブを回してガチャガチャと押したり引いたりして確実に鍵がかかっていることを確認すると、100%絶対安心という確証が得られて安心するだろ? そんな感じだ。



朝比奈さんと一緒にキョンのマンションを再訪問したのは、朝比奈さんがうちへ来た翌日の昼になってからだった。ネジ工場を経営している青年実業家という虚偽設定で話をすすめていた手前、昨日の今日でキョンに再会するのは気が引けるのだが。そうも言っていられないか。
案の定、朝比奈さんと俺という珍しい組み合わせにキョンは首をかしげていたが、そこは朝比奈さんがうまくはぐらかしてくれた。キョンが性善説論者でよかったよ。
とにかく俺は朝比奈さんと口裏をあわせつつ、専門学生時代のクラスメイトが心配でネジ工場を休んでまで救助の手を貸しにきた気さくで親切な青年実業家という設定で、難しい顔つきでソファーに腰かけていた。

当のキョンはというと、ものすごい渋い顔で朝比奈さんの話を聞いていた。

どうやら彼は今回の一大作戦に、あまり乗り気じゃないみたいだな。
「しかし金を借りたのは俺だ。契約書にサインをして印を押したのも俺だ。誰かに強制されたわけではない。たとえ金利が法外なものだったとしても、全てはそれに気づかなかった俺の責任だ。それを放棄して逃げ出すなんて」
そりゃ最初から自己破産を計画にいれて金を借りまくった挙句、全ての債務を投げ出してドロンするようなヤツもいるから、金が返せなくなったら逃げればいいなんて言うつもりはないけどさ。だが今回の場合は騙されてたっていう色合いが強いんだ。だってあれだろ? そういうヤバ系の金融会社の説明書って、危険な部分を極力隠すためにわざと難解な言い回しをしたり極小の文字で訳の分からないことを羅列してあったりするんだろ。裏工作だよ。そんな連中のために人生終わりにしてもいいのか?
「自分の言動に責任を持つのは当然のことだ」
どんだけ真面目なんだ、お前は。禅僧かよ。
人が良すぎるんだよ。その、なんだ。『機関』だったっけ? その金融会社がお前の実家の土地の権利書で手を打ってくれるって言ったんだっけ? そんなの信じるなよ。そういうヤツらの口約束ほどあてにならないものはないぞ。ウソウソ、そんなの。骨の髄までしゃぶられてポイ捨てされるのは目に見えてるじゃないか。
「……谷口には関係のないことだろ。余計な口をはさむのはやめてくれ」
苦渋の口調でキョンがそう言った。

ああ、そうだな。俺には関係のないことだ。所詮俺とお前は昔のクラスメイトってだけの関係だ。プライベートにまでほいほい足つっこめるような関係じゃないもんな。
だが、お前のこと心配して無関係の俺にまで相談をもちかけてきた朝比奈さんはどうなんだよ。お前と一緒に暮らしてる妹はどうなんだよ。朝比奈さんや妹にまで被害が及ばないって保障はあるのか? もし2人に何かあったら、お前は責任とれるのか? とれないだろ。
なにが、自分の言動に責任を持つのは当然のこと、だ。小学生の道徳の授業で聞いたことを何も考えずにそのまま口にしてるんじゃないの?
お前、その年になってまだ分からないのかよ。世の中ってのは、足して引いて2で割って、余りが出ずに割り切れることばかりじゃないって。
キョンは、何か言いたそうな目で俺をにらんでいた。だが、結局キョンは何も言わなかった。

本当は分かってるんだ、こいつも。わざわざ俺に言われなくても。人生ってのは1と0だけの世界じゃないんだって。世の中には2や3もあれば、4もある。5もある7もある。そういう物が全部集まって、社会ができてるんだ。
こいつは昔から妙に正義感が強かったから。責任を果たしたいという思いと、それが果たしきれるものじゃないという葛藤に悩んでいるんだ。
「……どうすればいいんだ……俺にどうしろっていうんだよ」
やがて、ため息でもつくようにキョンがそう呟いた。
だからさ。逃げろって言ってるだろ。お前が言いたいこともわかるよ。金を借りたら利子もふくめてそっくり返すのが当然だ。それがお前の理屈でいうところの、責任ってやつなんだろうな。
でもよ。そんな果たすことが土台無理な責任をなんとかしようと躍起になって、別の、金なんかよりもっと大事な責任を見捨ててしまってもいいのかよ?
「もっと大事な、責任?」
俺は辟易した目つきであごをしゃくった。その時はじめて、前しか見てなかったキョンが脇に目をむけた。
キョンのすぐ隣で、声をころして朝比奈さんが泣いていた。

だから何度も言っただろう。馬鹿野郎。
理想論ばっか並べて格好つけて、現実を見やしない。俺はお前のそういうところが嫌いなんだよ。



逃避行を決行すると決まったのは、結局のところ全員の気持ちが落ち着いて冷静に物事を考えられるようになってからだった。全員といっても、キョンと朝比奈さんの2人だが。
満場一致で意見がまとまったのは良いことだが、問題は山積みだ。金の方は後で考えるにしても、どこへ逃げるのかとかその後どうするかとかいろいろ。さしあたって一番の問題は、おそらく間違いなくキョン宅は『機関』のエージェントによって見張られているであろうということだ。
そりゃそうだ。今のキョンは巨万の富が服着て歩いてるようなもんなんだ。切り株につまずいて転んだウサギよろしく、労なく富が手に入るとなれば『機関』じゃなくても血眼で逃げられないよう看視するぜ。
キョンに訊いてみても、最近マンションから外出する時は常に誰かに見られているような感じがするらしい。見張られていると考えてまず間違いないだろう。
まずは見張りを巻くことが先決だな。話はそれからだ。俺はキョンに指示して妹に、極力人目につかないようにある場所まで来るように携帯で連絡させた。できればバラバラに行動したいところだが、3人ならかえってまとまっていた方が動きやすいだろう。こう言うとなんだが、朝比奈さんを1人で行動させるのは不安だし。

「谷口。ずっと思ってたことがあるんだが、ひとつ訊いてもいいか?」
なんだ? 驚愕の発売日なら知らんぞ。俺が知りたいくらいだ。
「お前、一体何者だ? ずいぶん手際がいいじゃないか」
ふっ。ようやく気づいたのか。気づくのが遅いぜ、まったく。いいか。耳垢かっぽじってよく聴きな。俺の本当の正体はな。
零細ネジ会社の青年社長さ。

 

がちがちに緊張した2人を伴っての逃避行は骨が折れるんじゃないかと心配していたが、それも杞憂だったようだ。朝比奈さんもキョンもすっかり覚悟を決めているようで、無駄のない動きで俺の指示に従っている。
キョンのマンションを出てからずっと、一定の距離を保って尾行しているヤツがいるのはすぐに分かった。尾行しているヤツはよほどシャイなのか、全力ダッシュしなければ追いつけないような距離を決して縮めることはない。ま、好都合だけどね。
俺たち3人は仲のいい友人3人組みという風体を装ってブラブラダラダラヘラヘラペチャクチャしながら歩道を歩いていたが、帰宅途中で込み合っているバス停にちょうどバスが停車しているのを見計らって、俺の号令一下、猛烈なマシンガンダッシュでバスに飛び込んだ。公共交通機関に乗るときは押さない急かさない割り込まないがマナーだが、俺たちは今そんなこと言ってる場合じゃないんだ。悪いなお嬢ちゃん、割り込んじまって。今度会うことがあったら飴をやるから泣くんじゃない。
あらかじめバスの到着時刻をネットで調べていたから、行き先に間違いはない。俺たちが乗ってからすぐに扉が閉まったから、尾行していたヤツは乗ってきてないはずだ。
俺たちは間髪いれず狭い車内で着替えを始めた。周りの目なんて気にしていられない。とにかく『機関』の連中に一目で俺たちだとバレないように外見を変えておかないといけないのだ。

しばらく走り停車したバス停で何人かの客が下車したが、乗客はなかった。尾行のシャイボーイズはここまで追いかけてきてないようだ。バスの後方になら怪しい車が見えるけどな。
そこから3つバス停を過ぎたところで、俺たちは素知らぬ顔してバスを降りた。変装しているんだから、よほど近くで見つめられない限りはバレないはず。
このあたりはやたら人通りの多い場所だから、逃走路につかうには持って来いだ。
3人とも会話がないまま緊張に身を包み、雑踏の中を過ぎて行く。周囲は喧騒に満ちているが、俺たちの中にはどんな音も沁みてはこない。



公園に到着すると、シックな格好で髪を下ろしたキョンの妹が俺たちを見つけて手を振った。ひとまず胸をなでおろす。
妹と合流した俺たちは、バスの時と同じ手で電車に乗り込んだ。人が多すぎて判断できないが、どうやら今のところ尾行はないようだ。
変装のため、もうすでにまったく別の人間になってしまっている俺たち4人は、電車を降りた。時間は19時50分になろうとしていた。さすがに夏とはいえ辺りは薄暗くなり、街灯に明かりがぽつぽつ点り始めていた。

俺たち4人が無言でデパートの駐車場に入っていくと、おとなしそうな女性が手を振った。初対面の見目麗しい女性だが、俺たちに手を振っていることは見てわかる。俺たち以外にここに人はいないからな。
「私の大学の友達の、ミヨキチだよ」
キョンの妹が女性の傍らに駆けよって紹介した。ほうほう、キョン妹も天真爛漫で活発な明るい魅力を持った女の子だが、ミヨキチはミヨキチで大学生とは思えない大人びた女性だ。なんていうか、落ち着いた雰囲気の和服の似合いそうな美人? 演歌とか好きな方なんじゃない?
「こら。俺の妹の友達に変なことを訊くな」
変なことってなんだよ。女性に演歌が好きですかって尋ねることのなにがおかしいんだ。お前がいかがわしい思考をしているからそういう発言が出てくるんだろう。

俺とキョンが演歌について激しく言い合っている間、キョン妹とミヨキチはなにやら重大なシリアス話をしていたようだ。まあ大体察しはつくが…。おそらく、お別れのようなことを言ってたんだろうな。
悲しいだろうな、キョン妹。不逞の兄のせいで大切な青春のキャンパスライフを放逐されることになったんだ。それに、あんな美人の友人ともお別れすることになったんだ。同情するぜ。せめて俺にできることといえば、まったく素養もない演歌の話題で討論しつつシリアスな空気をすこしでも紛らわせることくらい。
泣くな妹よ。花に嵐のたとえもあるさ。さよならだけが人生だ。(by.井伏鱒二)


ミヨキチの借りてきてくれたレンタカーに乗った俺たちは、黙り込んで後部座席に沈み込むキョン妹を乗せ、国道を走り出した。
完璧だ。片道一車線の県道に入ったが、俺たちの後ろに怪しい陰は一切ない。これからの行き先はキョンのマンションでランダムに決めた、俺たち4人に縁もゆかりもない場所。先回りされている可能性は限りなく0%に近い確率だ。
車内には安堵の空気が流れていた。これでもう、『機関』に悩まされることはないだろう。いやあ、めでたしめでたし。

その時、なぜか突然俺の頭の中にふっと、朝倉涼子の悲しげな表情が浮かんできた。

 ──それで2人が幸せになれるわけないじゃない!?

……そうだよな。めでたくなんてないよな。ぜんぜん。




  ~ライバル探偵、谷口 完結編②へつづく~

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最終更新:2007年07月11日 06:50