<4年前>

「ねえキョンくん。女の子の泣き声がきこえない?」
朝比奈みくるの言葉で、キョンは山道を登る足をとめ、耳を澄ましてみた。流れる風の音や、遠くに聞こえる山鳥の声にまじり、そう言われてみれば確かに女の子の泣き声のような音が聞こえなくもない。
顔を見合わせたキョンと朝比奈みくるは、登山ハイキングを一時中断して獣道へと足を踏み入れた。
7月の草むらともなれば蛇が出ないとも限らないが、もしも本当にこんな山奥で女の子が泣いているのだとすれば大変だという思いで、2人は丈の長い草をかきわけながら鬱蒼とした森の中を進んでいった。

こんなところに人がいるのだろうかというような道無き道だったが、10m、20mと進むうちに次第にはっきりと女の子の泣き声が聞き取れるようになった。確かにこの草むらの向こうに、泣いている女の子がいる。キョンと朝比奈みくるは歩調を速めた。
不意に女の子の泣き声が消え、「だれ!?」という誰何の声がした。

キョンと朝比奈みくるが木々の陰に生える草を踏み分けて進むと、垂直に切り取られたような急な崖の下で、湿った土肌がむき出しになった場所に出た。日の当たらない空間でじっとりと湿った空気が黒ずんだ土砂の上でよどんでいるような、陰鬱な場所だった。
土にまみれた少女がそこに居た。年の頃から見るに、中学生くらいだろうか。人を警戒する猫のように釣りあがった目をしている。キョンと朝比奈みくるを睨みつけるその目の端には、はっきりと涙の跡がのこっていた。
呆気にとられたように、何もいわず少女を眺めるように見ていたキョンと朝比奈みくるは、少女が足から出血していることに気づいた。はっとした2人は弾かれたように、少女の元へ駆け寄る。
「キミ、どうしたんだ!? 血が出てるじゃないか!」
少女に近寄って分かったことだが、少女は腕に打撲の痕もみられる。おそらく身体にも打撲痕はあるだろう。
「あの崖の上から落ちたのか?」
少女はキョンに腕をつかまれ、嫌がるように振りほどこうとするが、途端に苦痛で顔をしかめる。
「ダメよ、キョンくん。そんなに乱暴にしちゃ。ケガ、大丈夫?」
ちょっとしみるかも知れないけど、我慢してね。と言って朝比奈みくるがナップサックからスポーツドリンクを取り出して少女の足の傷口に流し、ハンカチで土をぬぐいとる。

「傷口は、たいしたことないようだな。良かったな、お前。助かりそうだぞ」
「お前なんて呼ばないで」
黙りこくっていた少女は、服や手足についた土を払いながら、ぽつりとそう言った。
少女の目から、まだ警戒の色は消えていない。
「あ、ごめんなさい、自己紹介がまだだったわね。私の名前は朝比奈みくる。それと、その人はキョンくん」
「キョン? 変な名前」
頭についた土を朝比奈みくるに払ってもらいながら、少女は憮然とした表情で言った。
「名前じゃない。ニックネームだ。こっちが名乗ったんだ、お前も自分の名前くらい言ってみたらどうなんだ?」
「だからお前って言わないでよ。私はハルヒ。涼宮ハルヒ。分かった? 今度お前なんて言ったら、死刑だから!」
分かったよと言うキョンを無視し、涼宮ハルヒは朝比奈みくるの手を借りて立ち上がろうとするが、足に走る鈍痛のため小さく悲鳴をあげて崩れ落ちる。
「おいハルヒ、大丈夫かよ? 足、骨折でもしてるんじゃないか?」
「……大丈夫よ。骨は折れてないみたいだから。崖から落ちた時にひねっただけ。放っておけば治るわよ」
あわてて助け起こす朝比奈みくるの手を借り、涼宮ハルヒは上半身を持ち上げた。
「とにかく、どっかに異常がないかが心配だな。一度病院で精密検査を受けた方がいい。この崖から落ちたんだとしたら、身体のどこかにダメージを受けていてもおかしくない。おいハルヒ、連れとかはいないのか? 家族とか、友達とか」
「……いないわ。私一人でここに来て、私一人で崖から落ちたんだもの」
「一人で山登り? しかもこんな中腹にまで?」
「そうよ! 悪いっていうの!?」
「いや悪くはないんだが…。でも、良かったな。俺たちが見つけて」
ほら、と言ってキョンは中腰になり、ハルヒに背を向けた。
「おぶって行ってやるよ。乗れ」
「い、いいわよ。私のことは放っておいてよ……」
「怪我して歩けない女の子を見つけて、放っておけるわけないだろ。意地はってないで、早く乗れよ」
「い、意地なんて張ってないわよ! 私にかまわないで! 変なお節介やかないでよね」
「馬鹿野郎。本当にこのまま俺たちの助けを借りないつもりかよ? この時期の森の中は怖いんだぜ。熊とか出るかもしれないし、毒蛇だって出そうだ。ここで死んじまっても知らねぇぞ?」
「ちょっとキョンくん。女の子にそんなこと言うものじゃないわ。ねえ涼宮さん? 私たち、あなたのことが心配なの。お願い
他に待っている人がいないのなら、私たちと一緒に下山して病院に行ってもらえないかな?」
優しく微笑み、諭すように話しかける朝比奈みくるの言葉に、ハルヒは「仕方ないわね…」と言ってキョンの背に手を伸ばした。
「勘違いしないでよ。みくるちゃんがああ言うから、しょうがなく背負わせてあげるんだからね。あんたたちがあんまり心配するからよ。分かってる? 私は別に、ここに居てもいいんだけど。どうしてもって言うから、運ばせてあげるのよ!」
「はいはい、分かった分かった。分かったからおとなしくしてろよ。足場が悪いんだ。お前が暴れて、転倒してまた足打っても知らないぞ」
「またお前って言ったわね、このバカキョン!」
「いててて、髪ひっぱるなよ!」

下山途中に携帯で連絡を入れてから、山の麓まで落りると救急車が赤いランプを光らせながらやってきた。
涼宮ハルヒを背負ってからもう20分は過ぎていた。救急車から降りてきた職員の出した担架に涼宮ハルヒを載せる頃には、その腕や足のあちこちに痛々しいまでの赤いアザが、充血したように浮き出ていた。
「……一応、お礼は言っとくわよ。ありがとう…」
顔を真っ赤にしてそっぽを向く涼宮ハルヒを見て、キョンと朝比奈みくるは安堵の笑みをうかべた。
「いいさ。当然のことをしたまでだ」
「そうですよ。困ったときはお互い様です。それじゃ、私たちはこれで。また機会があれば、お会いしましょうね」
「ちょっと、2人とも!? 病院までついてきてくれないの?」
「ああ、悪いがな。俺たちもいろいろあって、時間がおしてんだ」
「……そ、そう…」
悄然とする涼宮ハルヒに笑顔を送り、キョンが一歩下がる。救急車の後部に担架が収納された。では、と言って朝比奈みくるが手を振った。

「ま、待って! ねえキョン」
「ん?」
「あなた、本名はなんていうの?」
「本名?」
「そう。名前がわかったら、また会えるかもしれないじゃない?」
キョンには、何故だろう、一瞬ハルヒの目がうるんでいるように見えた。
「俺の名前は、ジョン・スミスってんだ」
「…ばか」
ハルヒとキョンの視線が、救急車の扉にさえぎられる。キョンにはその時、涼宮ハルヒがどんな表情をしていたか、判別がつかなかった。
救急車が耳に残るサイレン音をあげ、遠くへ去っていった。





俺は谷口。しがない私立探偵さ。探偵といっても、世間様からいぶかしがられるような物じゃないぜ。これもれっきとした職業だ。こそこそ人を尾行したり調べ回ったりする行為がうさんくさいと言われても、それも需要があってのことなんだし、世間様に申し開きできないような仕事をしてるつもりは毛頭無い。
たとえば消息を絶った家族を捜しているが個人の力では限界があるから捜索を依頼したいとか、そういった世のため人のためになるような内容の方が多いね。畢竟、探偵も人の世の役に立っているということさ。それでも文句があるならかかってきな。こっちはちゃんと納税してるし年金だって払ってる身だ。やましいことは何もないぜ。
だが、ごく希に怪しげなクチに首をつっこまなきゃいけなくなることがある。希にだぜ。ごくごく希に。
キナ臭いことに巻き込まれるのはまっぴらなのに、どうしてかな。厄介なことをしょいこんじまうことってのは、あるものさ。


俺はアパートの前でしょげていた朝比奈さんを伴い、ひとまず自分の住居兼探偵事務所である部屋に移動した。詳しい話を聞くには、宵の刻のアパート前は不適切だ。
朝倉涼子には遅くなる前に帰れと言ったのだが、なぜか一緒に事務所に行くと言い出した。空気読めよ朝倉さん。干されてたところへ仕事を紹介しに来てくれたことには感謝してるが、第三者がいたんじゃ朝比奈さんだって事情を話しづらいだろう。
「いえ、いいんです。朝倉さんも、大体の事情はお話してますから」
そうなの? スカートの下にアーミーナイフ隠してるような人と、そういう深い話をするほどの仲なんですか?
「そういう言い方されると、まるで私が危険人物みたいじゃない。心外だな。これは自衛用の物よ?」
銃刀法に違反するんじゃないのか? 免許でも持ってるなら話は別だが。
「免許なら持ってるからご心配なく。それよりも、早く行きましょうよ」
伝説のプロレスラー、"覆面の魔王”ザ・デストロイヤーは女物の下着が耐久性に優れているという理由で、奥さんの下着でマスクを作ったというが。下着なんて問題にならないくらい女性ってのは強いものなんだな。

結局3人で事務所に移動することになった。俺は2人に席をすすめ、インスタントコーヒーのアイスをコップに注ぎ、朝比奈さんの対面に座った。
不安げな面持ちの朝比奈さん。無言でしばらく何かを考えるように目を伏せていたが、やがて言葉を区切るように話しはじめた。
まあ、内容はアパートの前で話していたようなものだ。
「相手が法外な闇金融だとしても、もう彼は正式な契約を済ませてしまってるんです。どこかへ助けを求めようと思っても、どこへ行けばいいか分からなくて。誰に、なんて言っていいのかも分からなくなってきて。ずっと悩んでたの。そんな時、谷口くんが有名な探偵をやっているって聞いて。最後の望みをかけて、お願いに来たの」
もう私は、他に頼れる人がいないの。助けて……。とだけ言って、朝比奈さんはうつむいた。
わずかに肩がふるえている。寒いからじゃないのは見て分かる。

俺は女性の涙には弱いんだ。特にそれが、朝比奈さんの涙じゃな……。
えらい話を持ち込んでくれたじゃないの。え、朝倉さん?
「直接朝比奈さんにあなたを紹介したのは、私じゃないわよ。私は偶然その場に居合わせただけ。あ、その場っていうのは、国木田さんのお店ね」
国木田か。今度会ったらとっちめてやる。
「朝比奈さんにもやめた方がいいとは言ったんだけどね。だって闇金融なんてさ。絶対暴力団がからんでるわよ。どんなに腕がいいと言っても、一介の探偵にどうこうできる話じゃないでしょ? しかも、今だにウルトラマンになるとかならないとか言ってるようなオツムの探偵じゃ余計に心配じゃない?」
何を言う。俺はウルトラマンだけじゃなくて秘密探偵JAにも憧れてたんだぜ。むしろ飛鳥次郎の影響で探偵になったといっても過言ではないくらいにな。
「余計に心配でしょ。どれだけ夢が大きいのよ」

まったく。それにしてもキョンのやつ。朝比奈さんを泣かすなんて、初犯でいきなり実刑判決なみの悪事だぜ。いっぺんキッチリ片をつけてから、罰を与えてやらねばなるまい。
「お仕事、するつもりなの?」
見ろよ。俺の目の前であの朝比奈さんがすすり泣いておられるんだ。この状況で断ったりしたら、俺が自分をゆるさないね。

ところで朝比奈さん。唐突にこんなことを訊いてみてもいいでしょうか。
「はい?」
朝比奈さん。あなた、キョ……キョンのことを、あい、あい、あ………愛してるんですよね?
うひー、くさいセリフ。俺は朝比奈さんに背を向け、むずがゆい思いをしつつもそう訊いた。今の朝比奈さんを直視するわけにはいかない。朝比奈さんが泣き顔で「はい私はキョンくんのことを愛しています、生涯の伴侶となることをここに誓います」なんて言ってみろ。俺のガラスハートがビッグバンを起こしてしまうことくらい容易に想像できる。
「………ええ。私は、キョンくんのことが好きだから…」
くはあ。俺涙目wwwww

あいつと一緒なら、どこにだって行きますか?
「え? ええ、それは、彼さえいれば私はどこにでも行きますが……?」
クエッションマークを伴った朝比奈さんの声が返ってきた。
トコトン嫌な役回りだよな。俺ってば。
それじゃあ、覚悟を決めておいてください。これからいろいろ大変かもしれませんが、今の気持ちを忘れず、辛く苦しい時でも希望を持って生きていくんですよ。
「ちょっと谷口さん? さっきから何を言ってるの?」
なにって。んなの決まってるっしょ。朝比奈さんと、ついでにキョンのヤツを助けるための話ですよ。

こうなったら逃げるんですよ。逃避行しかないっしょ。常識的に考えて。漫画とか映画とかでよくある、戸籍上は死んだことになっている、とかああいう感じ。要はいなくなっちまえばいいんですよ。そうなりゃ債権者の方もあきらめるでしょう。たぶん。
「それ漫画とか映画の話じゃない! もっと現実的な案はないの?」
だってしょうがないでしょ。漫画とか映画とかでありそうな状況になってきてるんだから。そりゃ相手がまともな集団なら他にいろいろ手のうちようもあるかもしれないけどさ。絶対あれだよ。過激派だよ。相手はそういう集まりに違いないよ。
自己破産とかして債務を放り出してもさ、絶対因縁とかつけてくるよ。なんていうか、2つある臓器を2つ売れとかさ、ついでに心臓も1つくらい、いっとく? みたいなノリで。それがイヤなら東京湾? みたいな?
「みたいな?じゃないわよ。簡単に言うけどさ、それがどれだけ大変なことか分かってるの?」
当たり前だ。朝倉さんは俺が冗談言ってるみたいに思ってるかもしれないが、俺はいつでも真面目だぜ。
「朝比奈さんは助けてほしいって言ってるのよ? それって助けにもなってないじゃない」
いやあ。他にいい案が思い浮かばなくて。
「目の前のことから逃げるてだけじゃない。それ、解決じゃないよ。今までの生活を、人生をすべて投げ捨てて、誰かが追ってこないかを気にしながら、どうやって生きていけっていうの?」
俺は少し眉をひそめた。なにやらさっきから、次第に朝倉さんの口調が熱を帯びてきている。
朝倉さんは一体なにを言ってるんだ? なに一人で興奮してるんだ?

声を荒立てる朝倉涼子の様子に違和感を感じたのか、半泣き状態だった朝比奈さんもぽかんとした表情で彼女を見ていた。
まあ落ち着けよ、朝倉さん。確かに現実離れっていうか、非日常的な話になってきてるかもしれないけどさ。朝比奈さんとキョンを債鬼の魔手からなんとかしようと思ったら、無事にどこか遠くへ逃がすくらいしか手はないだろ?
「それで2人が幸せになれるわけないじゃない!?」
幸せ?
ちょっと待ってくれ。どうやらキミの言葉と俺の考えは、かみ合っていないようだ。
俺は、キョンが闇金融のべらぼうな金利の督促から助かる方法を相談されてるんだぜ。別に朝比奈さんとキョンが2人で仲良く手をとりあって幸せになれますように~、なんて頼まれてるわけじゃないんだぞ?
「助けてもらいたいっていうことは、そういうことじゃないの? また前のような平穏な暮らしに戻れますようにって願って、ここへ来てるんじゃない?」
そうなることが一番いいんだけどね。でもそれは無理だろ。話を聞く限りでは。なんせ相手が悪いんだ。
それとも何? 朝倉さんの頭の中になにかいい案でもあるの? あれば是非教えてもらいたいものだね。みんなが手を取り合って「よかったよかった」と言って笑いあえるハッピーエンドを迎えるための方法を。

「それを考えるのが、あなたの仕事じゃない!」
突然、朝倉涼子が大声をあげた。いきなりのことで驚いた。なぜだか『あなたの仕事』というワードが、ほぼ無意識的に俺の心の琴線に反応してしまった。
なんでだろうな。気づくと、俺は朝倉涼子に向かって怒鳴り返していた。

そんなわけないだろ! 俺になにを期待してるってんだ!? 部外者のあんたが!


……悪い。つい大声だしちゃって。ごめんね。怒ってるわけじゃないんだ。
でも分かってもらいたい。本来こういうのは探偵の分掌じゃないんだ。言うなれば、何でも屋かスイーパーの仕事とでも言おうか。

「………てくれたじゃない…」
え?
顔を伏せた朝倉涼子が、小さくなにかをささやくように言った。
「……私とお姉ちゃんを会わせてくれたじゃない」

「もう、ダメだとあきらめてたのに。あの火事の日。あの工場でお姉ちゃんと私をまた会わせてくれたじゃない。あなたが」
朝倉さん。あんた…

更になにかを言おうと口を開いた朝倉涼子は、結局それ以上なにも言わずロングヘアーをなびかせてきびすを返し、事務所から出て行った。
なんだよ。なに泣いてんだよ。わけ分かんね。

「あ、あの、あの、ごめんなさい。なんか、私が余計な話を持ち込んだばっかりに、その」
いや、いいんですよ。朝比奈さんが気にする必要は一切ありませんよ。あれはただのヒステリーですから。きっと。明日になったらけろっとしてますよ。


本当に。
なにが言いたいんだよ。あいつ。



  ~つづく~


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