俺はいま、SOS団ご用達の、いつもの喫茶店にいる。
だが、いつものように長門や朝比奈さん、古泉、そしてハルヒの姿はここには無い。
目の前のテーブルには、冷めてしまったコーヒーと、向かいで彼女が飲んでいた冷めたアールグレイティーが残されていた。
つい数日前までは、いつものようにSOS団のメンバーがここに集まり、ハルヒ団長の号令の下に不思議探索を行っていた。
それが今では遠い過去の出来事のように思える。
窓越しに外を眺めると、光陽園学院の女子生徒や北高の学生が、卒業証書の入った筒を手に、帰宅の途についている。
その光景が、俺に今日が自分の卒業式であることを思い出させる。
窓の外の景色から目を逸らし、手前にあるテーブルの上に視線を移すと、テーブルの上には銀色の安っぽい指輪がひとつ無造作に置かれていた。
この指輪は、俺がハルヒの誕生日に贈った最初の、そしておそらく、最後のプレゼントだ。
俺は指輪を手にとると、ギュッと握り締めてからポケットの中に入れ、大きくため息をついてから、伝票を手に取り、席を立った。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
いや、理由はわかっている。俺が不甲斐なかったばかりに長門を、朝比奈さんを、そしてハルヒを傷つけることになってしまったのだ。
もう少し、あともう少しだけ、俺に自分の心と向き合う勇気さえあれば、こんな結末を迎えることはなかっただろうに………
しかし、ヘタレの俺にはあと一歩を踏み出す勇気がなかったのだ。
俺はハルヒが好きだった。だが、そんな自分の心を素直に認めることができなかった。
だから俺は、ハルヒに告白することもなく、いまのSOS団の関係がずっと続いていくと、自分に言い聞かせることにより、結論を出すのを先延ばしにしていた。
いまの関係が、この先ずっと続いていくことなど在り得ないと知っていたが、俺はそうやって自分の心に嘘をついていたのだ。
だが、運命はそんな俺を許しはしなかった。
それは何の前触れもなく唐突に訪れて、俺から全てを奪っていった。高校時代を共に過ごしてきた仲間を、昔からいた大切な親友を、そして最愛の人を。
聞いて欲しい。あの日、俺に降りかかった出来事を。その出来事は、卒業式を数日後に控えた夜に起こった。



ふと、気がつくと、俺は文芸部室のいつもの指定席に座っていた。
周囲には長門や、朝比奈さん、古泉の姿はなく、あたり一面を静寂が覆っている。
なぜここにいるのか記憶をたどってみても、思い当たる節はない。一番最新の記憶は、いつもと同じように目覚ましを合わせて布団に入ったことだ。
つまり、もしこれが現実であれば、今晩、俺は眠りについてから文芸部室に来るまでの記憶が消失していることになる。
普通の一般人なら、夢をみているのだと思うだろう。
だが、これは夢ではない。
夢と結論づけるには、あまりにも現実感があるし、なによりこういった体験を過去に何度か経験している。
確認のために、俺は席を立ち、窓から外を眺めると、見渡す限りダークグレーの世界が広がっていた。
そして、俺はここがハルヒの創りだした閉鎖空間であることを確信した。
なぜ、ハルヒが俺を閉鎖空間に閉じ込めたのかも、おそらくではあるが、推測できた。なぜならこれと同じことが一年前に起こっているからだ。
そして、俺の推測が正しければ、この閉鎖空間には、俺以外にもうひとり、ハルヒに呼ばれた人物がいるはずだ。
俺は、傍にあったパイプ椅子に座り、その人物が文芸部室にやって来るのを待った。
ガラッ
扉が開き、ショートカットの少女が静かに部屋の中に入って来た。
「長門」
オレが声をかけると、長門は無言のまま、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「長門、ここは例の閉鎖空間なのか」
そう問い掛けると、長門は無言のまま首肯した。
「つまり、いまの状況は一年前と同じで、あの時は朝比奈さんだったが、今回はお前というわけか」
「そう」
一年前、俺と朝比奈さんはハルヒの創った閉鎖空間の中に閉じ込められ、俺とハルヒが閉鎖空間に迷い込んだ時と同様の状況に遭遇したことがある。
その後の古泉の説明によると、ハルヒは、俺が、自分の代わりに朝比奈さんと共に閉鎖空間に閉じ込められた場合に、どういう行動をとるかを知りたかったということらしい。
つまりハルヒは、自分と朝比奈さんのどちらかを選択しろと、俺に迫ったわけであり、その時、俺はハルヒを選んだわけだが、次は長門の番ということか。
だが、一年前に同じ状況に遭遇した俺の中では、もうすでに答えは決まっていた。確かに長門も朝比奈さんも、俺とは釣り合わないほどの、とても魅力的な女性だ。
以前の俺であれば、もしふたりの内のどちらかが俺の彼女になってくれるとしたら、俺は自分の幸運を神に感謝しただろう。
しかし、今は違う。
北高に入学し、ハルヒと出会ってからの三年間、ハルヒの我侭にふり回されっ放しの三年間であったが、そんなハルヒの我侭も含めて、俺はどうやらハルヒに惚れていることに気づいた。
だからいまの俺は、ハルヒ以外の女性と付き合うことなど想像出来ないほど、ハルヒのことが好きになっている。
それでもまだ、俺がハルヒと付き合っていないのは、お互いに意地っ張りなところがあり、なかなか歩み寄ることができないでいるからだろう。
それに、俺は今のハルヒとの関係が崩れてしまうことが怖かった。もし俺を拒否されたらどうしよう。そう思うとなかなか一歩を踏み出す勇気がなかった。
そして、そんな俺の優柔不断な態度が、ハルヒを誤解させ、朝比奈さんを傷つけることになってしまったことは、俺の高校生活で最も後悔することのひとつだ。
同じことを繰り返さないためにも、今回は長門に自分の意志をしっかりと伝えよう。そう思い、長門のほうを向くと、俺を見つめる長門の表情は何処か物憂げに思えた。
まるで、俺の回答を既に把握していて、自分の願望が叶わないことを知りながら、なお運命に抗おうとする儚さのようなものが、長門の表情から感じ取れた。
俺は以前、一度だけこんな長門を見たことがあった。世界が改変され、ハルヒが俺の前から姿を消した時だ。
あの時会った長門も、いま目の前にいる長門のように、か弱く儚げであったのを覚えている。
そんな長門の姿を見て、突然、胸の奥に熱いものがこみ上げてきた。
俺は、長門に自分の意志を伝えようと決心したにもかかわらず、無言で長門のほうに歩み寄り、その小さな身体をそっと優しく抱きしめた。
長門は、驚いた表情で、俺の顔を見上げていた。長門がこんな風に感情を表に出すとは思わなかったため、とても新鮮に思えた。
「長門………」
俺がそう声をかけると、長門は全てを悟ったかのように元の表情に戻り、そして目を閉じた。
長門を抱きしめたまま、ゆっくりと顔を近づけ、そして唇をあわせた。
その瞬間、周囲の景色に亀裂が入り、まるでガラスが崩れ落ちるように砕け散った後、俺は自分のベッドの上で目を覚ました。
夢……ではない。
だんだんと意識がはっきりしてくると、俺は自分が閉鎖空間の中で行ったことが、たいへんなことであるという認識に至るまで時間がかからなかった。
なぜ俺は長門にあんなことをしてしまったのだろうか。俺はハルヒが好きだったはずなのに。
このとき、ハルヒが俺の行動を発端にして世界を改変してしまうのではないか、といった考えは頭の片隅にもなかった。
そんなことが些細に思えるほど、俺はハルヒが好きだという自分の感情に対する裏切りと、長門に対する申し訳なさで頭が一杯だったからだ。
それから俺は一睡もすることなく朝を迎えた。正直、登校するのがとても憂鬱だった。このまま登校すること無く、部屋に引き篭もれたら、どれほど楽だっただろう。
しかし、それでは問題の解決にはならない。なにより、自分のしてしまったことの重大さを認識している俺にとって、今日登校しないことは、決して犯してはならない禁忌のように思えた。
古泉にあーだこーだと言われるのはいいとして、昨夜のことを長門にどう説明しようか。なによりハルヒにどんな顔をして会えばよいのか。
そんなことを鬱々と考えながら、俺は北高へと続く坂道を登り、教室の前までやって来た。
小さく深呼吸をし、意を決して教室の扉を開けると、俺の後ろの席にハルヒはいなかった。いや、ハルヒの席そのものが教室に存在していなかった。
俺は驚愕の思いでその光景を眺めた後、踵を返し、SOS団の本拠地である文芸部の部室へと、一目散に駆け出した。
部室に向かう途中、校内に鳴り響いた予鈴が、ホームルームの始まりを告げたが、いまの俺にはそんなことはどうでもよかった。
昨夜のことが解決するのであれば、一日や二日授業をサボることなどなんでもない。
そんなことを考えながら、部室の前まで行き、扉を開けると、室内には古泉の姿があった。
「古泉、ハルヒがいないんだ。いまの状況がわかるのなら説明してくれ」
開口一番こう尋ねた俺に、古泉はいつものように皮肉をこめて、俺の質問に答える。
「おや、僕に説明など求めなくとも、何が起こったのかは、あなたが一番よく知っているのではありませんか」
古泉の表情は、いつもの感情の無いニヤケ面ではなく、明らかに怒りの感情が見て取れた。
「一応、今の状況を説明しますと、昨夜あなたが涼宮さんではなく長門さんを選んだことで、涼宮さんは身を引いたのですよ。
具体的に申し上げますと、涼宮さんはあなたが長門さんを選んだことを知り、世界を崩壊させてしまうほどの深い絶望に陥った。
しかし、実際に世界を崩壊させたり、改変するようなことを涼宮さんはしなかった。
なぜなら、涼宮さんにとって、あなたは特別な存在であるし、長門さんもまた大切な仲間と思っていたからです」
古泉の声は明らかに怒気を孕んでいた。コイツがこんな風に感情を明確にするのは初めてじゃないだろうか。
「涼宮さんは、あなた方ふたりに幸せになってもらいたいと思ったため、世界をこのままの状態で残したのです。
しかし、あなた方がつきあっている姿は見たくない。いや、あなたが他の女性とつきあう姿を見たくない。
だから、涼宮さんは自らの存在をこの世界から消失させる決断をしたのです。あなたのためにね」
俺が古泉の説明に言葉を失っていると、古泉は自分がいままで抱えてきた感情を吐露し始めた。
「僕は涼宮さんのことが好きでした。しかし、あなたなら涼宮さんを幸せにしてくれると信じていたから、僕はそう言った感情を表に出さないように努めてきました。
なのにその結果がこんなことになるとは………」
俺を睨みつける古泉の身体はやり場の無い怒りで震えていた。
「とりあえず機関の一員として、あなたにお礼を言っておきますよ。あなたのおかげで涼宮さんの感情に振り回されることはなくなったのですからね。
大げさに言えば世界を救った英雄と言ってもいいでしょう。しかし、僕個人はあなたの今回の行動に失望しました。まあこんなことを言うのはお門違いかもしれませんがね」
そう言うと、古泉は踵を返して、部室の扉のほうに歩き出した。
「もう二度と会うことはないでしょう。長門さんとお幸せに」
古泉は、俺の方を見ずに、そういい残して部屋から出て行った。
俺は、感情を露にする古泉の解説により、あらためて自分のしたことの重大さを痛感させられた。近くにあったパイプ椅子に倒れこむように腰掛けると、天井を見上げてつぶやいた。
「ハルヒ………」
返事はなかった。身体から力が抜けていき、何もやる気にならない。俺は途方に暮れ、虚ろな目で天井を眺めていた。
どれぐらいの時間そうしていただろう。部室のドアが開く音で、ハッと我に返った。音のした方向を振り向くと、そこには長門の姿があった。
「長門………」
長門はいつもの無表情で俺の前まで来ると、かける言葉を失っている俺に、いつもの平坦な声で語りだした。
「昨夜のあなたの精神状態には普段観測できないイレギュラーな因子が観測された。そのため、当時のあなたの精神状態は平常でなかったと考えられる。
だから、もう一度あなたに問いたい。わたしと涼宮ハルヒのどちらを選ぶのかを。
わたしは有機生命体の感情というものを完全に理解したとはいい難いが、もし、あなたがわたしを選んでくれるのであれば、涼宮ハルヒにより改変されたこの世界で、精一杯あなたを愛すると誓う。
だがもし、あなたが………」
長門は口篭もりながら、視線をそらしたが、もう一度俺の目を見つめなおし、はっきりとした口調で言った。
「あなたが涼宮ハルヒを選ぶのであれば、わたしはあなたが涼宮ハルヒに再会できるように協力したい」
そう言った長門の目は、飼い主に捨てられた子猫のような、とても悲しい目をしていた。おそらく長門は俺がどう答えるか知っているのだろう。
だが、そう軽々に答えられるものではなかった。確かに俺の心の中に昨夜のことを後悔しているという感情があるのは事実だ。
だからといって、ここでハルヒを選ぶのは長門に対して申し訳ないような気がする。
もちろん、このまま自分の心を偽って長門とつきあうのは、さらに長門に対して失礼な事はわかってる。
しかしだ。ハルヒはもうこの世界にはいない。俺と長門がつきあうことを前提にこの世界から消失してしまったからだ。
ここで長門を拒否すれば、ハルヒのしたことが無駄になる、それはハルヒに対する裏切りにもなるのではないか。
俺が長門への答えを出せないでいると、長門は、俺の心を読み取ったように、的確に俺の疑問に答えた。
「昨夜のことは気にしなくて良い。わたしはあなたの本心からの答えが聞きたい。わたしはあなたと別れるのは辛いし、できることなら、ずっとあなたの傍に寄り添っていたいと思う。
でも、あなたがわたしの傍で、涼宮ハルヒを想いながら、わたしと無理につきあう姿を見るのはもっと辛い。
あなたにはいつも笑顔でいて欲しい。例えそのためにわたしと別れることになったとしても。あなたの悲しそうな姿を見ると、わたしの心は引き裂かれるように痛い。
だから……だから正直に答えて欲しい。わたしか、涼宮ハルヒか」
長門の言葉には悲痛な覚悟がこもっていた。その言葉を聞くと、俺は自分の心を偽って、長門を選ぶことはできないと理解した。
「すまん長門。昨日あんなことをしておいて申し訳ないが、俺はハルヒのことが好きだ」
俺がそう答えると、長門は俺のほうに歩み寄り、もたれかかるように俺の胸に頭をうずめた。
「長…門……!?」
「わたしは涼宮ハルヒが憎い。いなくなってもなお、あなたの心を掴んで離さない涼宮ハルヒが。
あなたのことも憎い。あなたのしぐさや言葉、一挙手一挙動がわたしの心を惑わせる。
そしてなによりも、あなたを強引に奪うことのできない私自身の不甲斐なさが憎い」
俺の胸に顔をうずめる長門の表情を窺い知ることはできなかった。しかし、長門の小さな身体は小刻みに震え、泣いているように思えた。
「長門……もし、俺の態度や言葉がお前を誤解させたのであれば謝る。だが、俺は………」
「いい」
長門は俺の言葉を遮ると、自らの心の内を話し始めた。
「情報統合思念体は涼宮ハルヒを観測するためにわたしを創造した。その頃のわたしは観測以外の機能を持っていなかった。
情報統合思念体も、涼宮ハルヒも、そして涼宮ハルヒの観測を通じてわたしが交わってきたあらゆる存在も、わたしに心を与えてはくれなかった。
わたしに心を与えてくれたのはあなただけ。
以前のわたしであれば、観測対象に特別な感情を抱くことなどなかった。まして自分の役割や不甲斐なさを嘆くことなど考えられなかった。
だが、いまは有機生命体の持つ感情が少しは理解できる。感情が理解できるからこそ、あなたを強引に奪うことができなくなってしまった。
でもいい。これが、これこそが、わたしの望んでいた幸せだから」
俺は長門の言葉を聞いて、何と声をかけてよいかわからなかった。長門がこんなことを思っていたなんて想像すらしていなかった。
こんな長門を目の前にしながら、なんと言葉をかけてよいかわからない自分が、とても情けなく思えた。
しばらく室内に沈黙が流れた後、長門は一歩後ろに下がり、俺から離れて顔をあげると、淡々としたいつもの調子でハルヒに会う方法を説明しだした。
「涼宮ハルヒの能力は巨大で情報統合思念体の能力をもってしても抗うことはできない。だから、あなたが涼宮ハルヒに会うためには、奇跡を起こす必要がある。
具体的に言えば、六年前の七夕の日に戻り、歴史を改竄する必要がある。そのためには朝比奈みくるの強力が必要」
「朝比奈さんなら今の状況をどうにかすることができるのか?」
「そう」
「なら、いますぐ朝比奈さんのところに行こう」
俺がそう言うと、長門は申し訳無さそうに顔を曇らせた。
「わたしは朝比奈みくるのところへ行くことはできない。歴史を改竄することは情報統合思念体の許可が下りない。朝比奈みくるにはわたしから伝えておく」
「そうか、わかった。じゃあ俺ひとりで行って来るよ」
部屋から出て行こうとして、扉の前でちょっと立ち止まり、長門のほうを振り返る。
「長門………ありがとう」
「あなたが無事、涼宮ハルヒと再会できることを願う」
そう言って俺を見つめる長門の目は、少し寂しそうな感じがした。俺はそのまま振り返ること無く北高を後にした。
朝比奈さんは一年前に高校を卒業し、北高の近くにアパートに借りて、地元の女子大に通っていた。
何度かSOS団のメンバーで押しかけて、会議と称して日が暮れるまで朝比奈さんの部屋で過ごしたこともある。まあ、朝比奈さんもSOS団のメンバーなわけだが………
俺が朝比奈さんのアパートを訪ねると、朝比奈さんは、まるで来るのを知っていたかのように、俺を出迎えてくれた。
朝比奈さんは、俺を部屋の中に招き入れると、椅子に座って待っているように言って、台所のほうに姿を消した。
しばらくして、朝比奈さんは、お茶の入った湯飲みがふたつのっているお盆を持って、部屋に入って来た。
俺は、心を落ち着けようと、朝比奈さんから差し出された湯飲みを手に取り、お茶を啜った。
久しぶりに飲む朝比奈さんの甘露を堪能した後、どうやって話を切り出そうかと迷っていると、朝比奈さんが俺の正面の椅子に座り、先に話を切り出した。
「詳細はさっき長門さんから聞いてます。涼宮さんと再会するために過去に戻って歴史を改竄するということですね」
いつもと違う朝比奈さんの手際のよさに、少し驚いたが、俺が首肯すると、朝比奈さんは表情を曇らせた。
「ただ、わたしは今回のことはあまりおすすめできません。なぜなら、歴史を改竄するにはものすごく大きなリスクがともなうからです。
だから、それこそ涼宮さん並みの能力がなければ、通常は不可能だとされているわ。でも、長門さんがそう言うからには何か根拠があるのかもしれないけど………」
「朝比奈さん、お願いです。俺は例え僅かでも望みがあるのであれば、それに賭けてみたい」
「わかりました。でも、キョンくん、いまのその気持ちを決して忘れないでくださいね。歴史を改竄するには強い意志の力が必要です。
だからもし、キョンくんの心に少しでも迷いがあれば、わたし達の努力は全て水泡に帰すことになるわ」
朝比奈さんは湯飲みを取り、お茶を一口飲むと、遠くに目線を移した。
「でも、ちょっと妬けちゃうな。涼宮さんや長門さんに。わたしもキョンくんと涼宮さんの閉鎖空間に迷い込んだのに、わたしだけは何もなかったのよね」
「朝比奈さん………」
「ううん、いいの。この時間平面に派遣されてきたときから、こうなることは覚悟していたから。でも、ちょっとだけ複雑な心境かな」
つぶやくようにそう言うと、朝比奈さんは俺のほうに顔を向けて
「ゴメンね、変なこと愚痴っちゃって。こんなこと言われても、キョンくん困るよね」
と言いながら、寂しそうに微笑んだ。
「さてと、じゃあ、いまの現状と、これからわたし達のすることをキョンくんに簡単に説明するわね。
いま、涼宮さんは自らの能力でこの世界から消失しているわ。だから、この時間平面ではどんな能力を使っても、涼宮さんをこの世界に連れ戻すことはできない。
涼宮さんをこの世界に連れ戻すには、六年前の七夕の日に戻り、三年前のキョンくんが東中学校で涼宮さんに会うのを阻止しなければならない。
そうすれば、涼宮さんの能力は覚醒せず、その後の歴史は改竄され、涼宮さんはこの世界から消失しなかったことになるわ」
「ちょ、ちょっとまってください。その理屈では俺たちは出会わなかったことになるのでは………」
「そういうことになります。でも、それ以外、涼宮さんをこの世界に連れ戻す方法はないの。涼宮さんの能力が覚醒してからは、
彼女の意思がこの世界を支配しているわ。だから、能力が覚醒する前まで遡って、それを阻止するしかないのよ」
朝比奈さんはじっと俺の顔を見つめてきた。声に出さずとも「どうしましょうか」と、問い掛けていることはわかった。
俺は朝比奈さんの言葉を聞いてすぐに回答を出すことはできなかった。だが、俺は最終的に過去に遡ることを選んだ。
「でも、どうしてあの日に俺がハルヒに会わなければ、ハルヒは覚醒しないんですか」
俺は素朴な疑問を朝比奈さんにぶつけてみた。
「わたし達も全てを知っているわけではないわ。ただ、涼宮さんが超常現象に遭遇したのは時系列的にあの日が最初なの。
あの時のキョンくんは、涼宮さんにとって未来人だったわけだから。そのことが多分、涼宮さんの深層心理になんらかの影響を与えたのではないかって考えられているの。
もちろん、これはわたし達の解釈だから、長門さんや古泉くん、それにわたし達と別勢力の一派は違った解釈をしているかも知れないですけどね」
朝比奈さんは、ちょっと自信なさそうに俺の質問に答えると、俺の背後に回って、両肩に手を置いた。
「じゃあ、いまから時間を遡ります。キョンくん、目をつむってもらえますか」
俺が目をつむると、朝比奈さんの「いきます」という声と共に、何度も経験した例の眩暈がやって来た。
しばらくして眩暈がおさまり、目を開けると、あたりはもう日が沈んで薄暗く、街灯の光が俺たちの姿を照らしていた。
ここで俺は驚愕の場面に遭遇することになる。
俺がきょろきょろとあたりを見回し、いま自分のいるところが、かつて訪れた東中学校の近くであることを確認した後、
朝比奈さんの方に目を向けると、朝比奈さんの様子が明らかにおかしかった。
顔は血の気が引いてドス黒く、呼吸も乱れていて、一目で危険な状態であることがわかった。
「朝比奈さん! どうしたんですか! しっかりしてください」
そう声をかけると、朝比奈さんは虚ろな瞳をこちらに向けて、息も絶え絶えにつぶやいた。
「キョンくん、わたしのことはいいから早く行って。あの路地を曲がれば、10分以内に二年前のあなたが来るわ」
「なにを言ってるんですか! このまま朝比奈さんを放っておくことなどできませんよ」
「キョンくん!」
朝比奈さんは壁にもたれながら、無理やりに立ち上がり、怖い目で俺を睨みつけた。
「わたしはこの時間平面に来る前に強い意思が必要ということを言ったはずよ。わたしの具合が悪化したのは歴史がキョンくんの介入を拒んでいるから。
もし、キョンくんがどうしても涼宮さんに会いたいと思うなら、わたしのことには構わないで。わたしは覚悟はできてるから」
「し、しかし、このままあなたを放っておくことなんて、俺にはできま――――」
パチン
動揺して声をかける俺の頬を、朝比奈さんは平手で叩いた。
「馬鹿にしないで! わたしはあなたのことが…キョンくんのことが好きよ。でも、わたしはキョンくんに同情して欲しいわけじゃないわ」
そう言いながら、俺を睨みつける朝比奈さんの目からは涙が溢れていた。
「だからもし、ここでわたしを助けるのなら、最後まで責任をとって! 涼宮さんのことはもう忘れると、ここで誓って!」
朝比奈さんはじっと俺のほうを睨んでいる。俺はこのとき初めて朝比奈さんに対する自分の態度がとても失礼であったことに気づく。
朝比奈さんも、長門や古泉と同じように、未来の世界から使命を帯びてこの時間平面に派遣されてきたはずだ。
なのにいまの、いや、いままでの俺の朝比奈さんに対する態度は、そんな彼女のプライドを傷つけていたのではないだろうか。
俺は拳をギュッと握り締め、歯を食いしばると、
「すみません、朝比奈さん」
そういい残して、路地の方へと駆け出した。
路地を曲がり、東中学校校門に至る大通りに出る細道を通過していると、大通りに出る手前、十メートル付近でいきなり突風が吹きだした。
「な、なんだ」
俺は、飛ばされないように、咄嗟に近くの電柱を掴んだ。だが、あたりを見渡しても、木の葉ひとつ揺れていない。
実際に風が吹いているわけではない。俺がそう感じているだけだ。だが、頭ではそうわかっていても、身体はそうはいかない。
たった十メートルの距離を進むことすらできないでいる。
俺が電柱に掴まり途方に暮れていると、目の前を朝比奈さんをおぶった俺が通り過ぎた。
電柱から手を放し、前に進もうとするが、立ち上がることすらできず、四つん這いになって道路に蹲ってしまった。
絶望が俺の心を支配する。俺はこのままハルヒに会うことはできないのか。
ふと、後ろに人の気配を感じた。俺が振り返ろうとすると、
「こっちを見ないで」
聞き覚えのある声がした。だが、誰の声かは思い出せない。
「おい、誰だか知らないが協力してくれないか。あのふたりを止めてくれ」
そう懇願する俺に、謎の人物は意外なことを告げた。
「前を向いて、あなたはもう立ち上がれるはず。決して振り向かずに彼らの後を追って」
すると、いままで吹き荒れていた突風が嘘のように止んでいた。俺は、謎の人物にお礼をいうのも忘れて、一目散に二年前の俺の後を追う。
人ひとりを背負っているはずなのに、二年前の俺は驚くほど歩くのが速かった。
全力疾走で二人の後を追う。東中学校の校舎が視界に入って来た。ヤバイ、ここで追いつかなければいままでの努力が水の泡だ。
俺は、もてる限りの力を全て振り絞って突っ走った。正直、どうやって止めようとか考える余裕すらなかった。
全力疾走のまま、俺は朝比奈さんを背負った過去の俺に体当たりした。その瞬間、意識が遠のき、深い闇の中に落ちていくような感覚に陥る。
「キョン、キョン」
どこからともなく俺を呼ぶ声が聞こえる。目を開けるとそこには意外な光景が広がっていた。
 
後編に続く)

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最終更新:2020年03月14日 00:15