Appendix 長門有希の母親


 『長門有希の報告』を読み終えた「わたし」は、深い思考に入った。
 『長門有希』達は、「わたし」が作成した情報収集端末である。この惑星に生息する知的有機生命体――ヒト――を模して作成した。しかし、我々にはヒトの行動その他は未知の概念であるため、どうしてもヒトにとっての不自然さは残ってしまったようだ。
 そこで「わたし」は、その不自然さを逆手に取ることにした。一方は、外から観測したヒトの行動様態を精密に再現した個体。もう一方は、基本的な生活を行える能力以外はすべて未調整の個体。これらを観測対象のそばに配置し、どのような変化が起こるかを同時に観測することにした。
 結果、一体は暴走してもう一体に抹消された。そして残った一体も後に暴走した。後に暴走したその一体は、何と「わたし」達をも消滅させたのである。
 このような、「わたし」達にとっても苦難を乗り越えた後、驚くべき変化が起こった。その残った一体が、ヒトの内部、『感情』らしきものを獲得したのである。これは実に興味深い変化であった。
 さらには、『失敗』するという経験が重要であることも分かった。『失敗』し、それを『克服』することで、ヒトは『成長』する。
 我々は『失敗』をしたことがなかった。情報はすべて入手できるからだ。我々にとってそれは、自明のことだった。だがそこに落とし穴があった。我々は『成功例』の情報を蓄積していたが、『失敗例』の情報を蓄積していなかったのである。
 我々にとって失敗は、何の価値もなかった。失敗しない方法が分かるのに、なぜ敢えて失敗する必要があろうか。我々は成功し続ければ、何の問題もなかったし、事実、その通りだった。ある段階までは。
 我々は成功し続けることで、逆に袋小路にはまってしまった。進化が停滞したのである。『成功ゆえの失敗』とでも呼ぼうか。
 そこに現れたのが、『涼宮ハルヒ』である。
 彼女は『情報を新たに生み出す力』を持っていた。それは我々にもない能力。我々は観測を開始した。彼女の能力に、我々が陥っている進化の袋小路から抜け出す、自律進化の可能性を見て。
 結果的にそれは、九割方正解であった。だが問題が残った。残りの一割である。彼女の観測によって、我々はほぼ問題を解決しつつあったが、最後の決め手がなかなか得られなかった。
 その解は意外なところから得られた。我々が作成し、配置した、端末達の変容である。


 ある端末は、観測に『飽き』て、独断で変革を起こそうとした。
 ある端末は、観測に『疲れ』て、世界を改変してしまった。


 これらはいずれも、我々にとって大きな失敗であった。
 失敗した端末は、順次『処分』する予定だった。一体目は処分された。しかし二体目はできなかった。『涼宮ハルヒ』の『鍵』が、我々を恫喝したから。我々にとってそれは『屈辱』だった。無知で無力な人間『ごとき』に、良いようにあしらわれたのだから。
 だがそこで我々は気が付いた。そもそも我々は、今まで『屈辱』を味わったことがあっただろうか?
 一番最初の人型端末の投入は失敗に終わったが、我々はそれを特に重要視はしなかった。
 今なら分かる。我々はその時に『学習』するべきだった。失敗から学ぶべきだった。学習しなかった我々は、『懲りず』に同じ過ちを犯した。そしてそのせいで一度は自らの存在そのものを否定された。他ならぬ、我々が作成した端末の手によって。我々は、そのような危険な端末の処分もできず、自ら生み出した端末に『恐怖』した。
 そしてそこまで至ってようやく我々は学習した。失敗をただ取り除くだけでは、何の解決にもならないことに。それは困難を最初からなかったことにできるが故に、今まで気付かなかったものだった。
 我々には、欠乏の体験がない。不本意な状態を工夫によって克服した経験がない。端的に表現すれば、『失敗の経験』がない。
 我々は常に成功してきた。成功し続ければ良かった。それで何も問題はなかった。でも、それは間違い。何も問題がないことこそが、最大の問題だった。
 失敗を、挫折を知らない者の栄華は、儚い。観測から得られた人間の言葉で表現すれば、『粘りが足りない』。
 ヒトは苦痛、困難、欠乏その他の不都合を、工夫して乗り越えようとする。
 我々はそれらを、情報操作によって、跡形もなく消去してきた。そこに大きな違いがあった。
 我々は、抗わない。彼らは、抗う。
 自分にとって不本意な現実に、抵抗する意思。何度も敗北を喫しながら、なおも抗い続ける意思。時には正面から、時には斜めから、困難に立ち向かい、やがて克服しようとする意思。
 これこそが、我々になかった概念。
 そして、失敗から学び、工夫し、克服する過程こそが、ヒトが辿ってきた進化の道程である。
 我々は観測対象に、我々が生み出した端末自身の変容も加えた。我々の意図もその事実も伝えずに。我々の端末もまた、失敗を経験し、工夫し、克服していった。そして我々が辿り着いたものと同じ結論に至った。
 我々は確信した。
 成功と同様に失敗もまた、重要な情報であると。
 しかし同時に、「わたし」はある種の『物足りなさ』も感じていた。『報告』としては、成功の情報も失敗の情報も上がってくる。でも、自らの『実感』は、ない。
 「わたし」は決断した。自ら体感することが、理解の早道である。特に失敗の経験には興味がある。
 「わたし」は専用端末を構成すると、地上に舞い降りた。

 



「あー、あー、テス、テス。天気晴朗なれども、波高し。う~ん、こんなもんやろか。」
【あー、あー、テス、テス。天気晴朗なれども、波高し。う~ん、こんなもんかしら。】
 発声練習を終えた「わたし」は、早速歩いてみる。なにせ肉体を使って行動するのは初めてのことである。すべてが新鮮だ。
「さて、それじゃ……!! だおぉっ……!」
 タンスの角に足の小指をぶつけてしまった。激しく『痛い』。恐らく『涙目』になっていることだろう。ああ、有希ちゃん、視線が、視線がすごく痛いよ……
「……何をしているの。」
 ナニって、有希ちゃんの様子を見るために、ちょっと有希ちゃんの部屋にお邪魔してるだけですよ。
「……そう。」
 『人間』ならばさぞ呆れ返った表情をしているのだろうと思う。まあ、うちの有希はそんな顔はしないけれども。
 ……涼子だったら、明らかに分かる表情をされるんだろうなあ。『もう、何やってるの? お母さん。』って。
 江美里の場合だと……『あらあら』と微笑で救急箱を渡されそうだ。手当てはしてくれないかもしれないけど。
 こう考えると、同じ端末なのに個体によって随分性格が違う。自分でやっといて何だが。
 江美里は、虫も殺さぬような穏やかな表情で、意外とエグいこともやってのけるタイプ。優秀で使いやすいけど、いつのまにか逆に『親』が嵌められてそうだ。
 涼子は、まあ……『おてんば娘』というか、何というか。今は『親』に反発して『家出』中だ。きっと、よりたくましくなって帰ってきてくれるだろう。
 有希は、頑固というか一本気というか。内に溜め込むタイプで、外からは分からないから、つい頼ってしまう。堪忍袋の緒が切れた時が一番怖い。
「ところで、有希ちゃん。じーっと見てんと、手当てしてくれへんかな? めっちゃ痛いねんけど。」
【ところで、有希ちゃん。じーっと見てないで、手当てしてくれないかな? すっごく痛いんだけど。】
「……ドジ。」
「うっ、冷たい……『我が娘』ながら、まったく。何が気に入らんの?」
【うっ、冷たい……『我が娘』ながら、まったく。何が気に入らないの?】
「自分の胸に手を当てて聞いてみれば良い。」
「うわっ、ほんまに冷たい……そんなことやと、お友達に嫌われるで?」
【うわっ、ほんとに冷たい……そんなことだと、お友達に嫌われるわよ?】
「今の状況なら、どのみち『友人』にあたる人物がいたとしても、部屋には呼べない。」
 そう言うと有希は、わたしに布製品を突きつけた。
「例え室内でも、衣服は着るべき。」
「いやー、せっかくやし、人間の身体ってどうなっとんかなーって、色々観察しよかと(おも)て。」
【いやー、せっかくだし、人間の身体ってどうなってるのかなーって、色々観察しようかと思って。】
「それなら浴室で十分可能。」
「おお、ええこと()うた、有希ちゃん! ほな早速一緒に……! 痛たたた……」
【おお、良いこと言った、有希ちゃん! じゃあ早速一緒に……! 痛たたた……】
 痛いものは痛い。なるほど、これが肉体の感覚か……いや、感心してないで、いい加減手当てを……
「……痛いの、痛いの、とんでけー。」
「って、お(まじな)いかいな!?」
【って、お(まじな)いなの!?】
「このような痛みは、手の施しようがない。気の持ちよう。人間の言葉で言えば『気合』。」
 とほほ……
 わたしが『落胆』していると、有希が後ろから抱きついてきた。
「あなたには、人間が感じる感覚……『痛み』も『苦しみ』も含めて、漏らさず感じてほしい。」
 そういえばこのような場面は、『長門有希の報告』でよくあったっけ。確かに、気持ちが落ち着くのね。なるほど。


 このようにして、「わたし」こと『長門有希の母親』の、『人間』としての体験が始まったのでした。

 



○月×日(土) 晴れ


 今日は有希の家に遊びに行った。有希が招いてくれた。
 マンションの入り口でインターホンを鳴らし、いつもの無言の応対に、
「あ、有希? あたしー。」
 といつもの返答をし、いつものように開いたドアからエレベーターに向かい、いつものように708号室の前に立つ。そしていつものようにドアを開けてもらうと、
「あら、いらっしゃ~い。」


 えらい美人が、そこにいた。


 あたしは、その美人のすぐ後ろに立っていた有希に訊ねた。
「えっと、有希? この人は一体……」
「わたしの母。」
 有希は端的に答えた。
 有希のお母さん。
 確かに言われてみればよく似てる。髪の長さこそ違うけれども、立ち姿の雰囲気は確かに有希と同じだ。高校生の娘がいるってことは、40代? どう見ても20代後半にしか見えないけど。まあ、有希も高校生にしては幼く見えるから、童顔は遺伝なのかも。
「あなたが涼宮ハルヒさんやね? はじめましてぇ。うちの有希がいつもお世話になってますぅ。」
【あなたが涼宮ハルヒさんね? はじめましてぇ。うちの有希がいつもお世話になってますぅ。】
 ……喋ると全然雰囲気違うけどね。でも、喋るときもまた、雰囲気に見合ってるのがすごいわ。
 なんとなく、「京女」っていう単語が浮かんだ。和風美女というか、そんな感じ。和服が似合いそう。
 奥に通されたあたしは、有希に聞いた。
「有希って、一人暮らしやんな?」
【有希って、一人暮らしよね?】
「そう。たまに母が会いに来る。」
 そっか……有希のご両親は何をしてる人なんだろう?
「母はキュレーター。余り日本にいない。」
 それで一人暮らししてるのか。……お父さんの話が出なかったのは、何か事情があるんだろう。
「ちなみに父は、フランスの外人部隊にいる。」
 ぶっ!
 あたしは思わずお茶を噴いてしまった。
「というのは冗談。」
 有希……冗談キツいって。
「ダンナは船乗りなんよ。」
【ダンナは船乗りなのよ。】
 お母さんがお菓子を持ってきてくれた。
「今頃どっかの港で、現地妻とよろしくやってるん(ちゃ)うかな。」
【今頃どこかの港で、現地妻とよろしくやってるんじゃないかしら。】
 お母さん……何でもない顔してすごいこと言わないでください。確かにこの辺は有希とそっくりかも。
「ま、わたしも人のこと言えへんけどね。」
【ま、わたしも人のこと言えないけどね。】
 ぐしゃっ
 勢い余って、開けようとしてたお煎餅握り潰しちゃった。お、お母さん……何という爆弾発言を……
「あらあら、刺激が強すぎたかしら?」
 お母さんは、澄ました顔だ。
「浮気には当たらへんからご心配なく。わたしは単に『美しい』ものに目がないだけですから。もちろん、『美しい娘』にもね。」
【浮気には当たらないからご心配なく。わたしは単に『美しい』ものに目がないだけですから。もちろん、『美しい娘』にもね。】
 そう言ってお母さんは、意味ありげな視線をあたしと有希に送った。……バレてる!?
「血は争われへんのかもね。ほほほ、ごゆっくりぃ~。」
【血は争えないのかもね。ほほほ、ごゆっくりぃ~。】
 ……敵わないな、この人には。さすがは有希のお母さん。見かけによらず過激だわ。


 その後完全に日が暮れるまで有希と遊んだあたしは、一緒に食事でも、という誘いを丁重に断った。だって、せっかくの久々の親子水入らずの食事よ? 邪魔しちゃ悪いじゃない。
 有希のお母さんはちょっと残念そうな顔だったけど、それはまたの機会に。ね?
「……そう。」
 その時は、あたしも何か手土産を持って来たいしさ。お義母さん(←誤字じゃないわよ)に気に入ってもらえそうなものを。
「ほほほ。楽しみにしてるわぁ~。」
 柔らかい笑顔で手を振りながら見送ってくれるお母さんと、胸元で小さく手を振る有希に別れを告げて、あたしは帰宅した。
 有希は将来、あんな感じになるのかな。う~ん、すごい美人さんだ。


 あたしはその日、なぜか帰ってからもニヤニヤが止まらなかった。


【『涼宮ハルヒの手記』より抜粋】

 



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