第五章

 
 α-9

 
 朝比奈みちる。二月の初頭、ハルヒの陰謀巡る頃に八日未来からやって来た朝比奈さんに対して俺がつけた偽名だ。その偽名が今、目の前の用紙に書かれている。
「あの、キョンくん、これって・・・」
 ええ、そうです。皆まで言わなくてもあなたの言わんとしていることはわかります。古泉、どういうことだ?
「確かに新一年生の書類には全て目を通しましたが・・・このような名前の生徒は存在しなかったはずです」
 じゃあこれは誰だ?
「わかりません。新しいイレギュラー因子としか」
 その顔はいつもと変わらないスマイルだったが、内心は苦笑しているのだろう。俺だってそうさ。せっかくいいリズムを刻んでいた平和な日常が早くも崩れようとしているんだから。
 やれやれ。今度はなにが起きようってんだ?
 そのとき、蝶番が外れそうなくらいの勢いでドアが開いた。
「おっまたせ~!」
 我らが団長涼宮ハルヒ様のご登場。ハルヒは団長机にたかる俺たちを退けると、パイプ椅子に仁王立ちしてエヘンと咳を払い、
「本日、我がSOS団の新入部員が決定しました!」
 入っていいわよ、とハルヒが開きっぱなしの入り口に向かって言った。もうこの時点で誰が入ってくるのかはわかっていたが、一応振り向いてみる。
 控えめに部屋に入って来たのは、やはりあの一年女子だった。
「朝比奈みちるです。よろしくお願いします」

 今日のSOS団の活動は「用事があるから帰っていいわよ」と言って部室を飛び出して行ったハルヒの
一言により、即刻解散となった。が、解散命令が下されても俺たちはまだ帰れない。
 そうだろ?古泉。
「ええ。積もる話もありますが、とりあえず場所を移しましょう」
 そうだな。誰かに聞かれたら面倒だ。聞かれてわかる話でもなさそうだが。
「朝比奈みちるさん」
 古泉は本日付で正式団員となった少女を一瞥する。
「あなたも」

 解散命令後、ようやく部室を出た俺たちは誰一人として口を開くことなく長門の住むマンションへやって来た。
 長門を除く四人で殺風景な居間の真ん中に置かれたテーブルを囲んで座る。
 古泉が長門の淹れたお茶をすすり、単刀直入で申し訳ありませんがと前置きして、
「みちるさん、あなたは一体何者なのでしょうか?」
 核心を突いた問いだ。だが俺の向かいに座った彼女は古泉の質問に答えず、こう言った。
「キョンくん」
「え?」
 もはや誰が言ったのかわからないほどシンクロした。長門は除くが。
 みちるさんは俺に向かって微笑み、
「わたしは、わたぁしです」
 と言った直後、ふみゅう、と天使の吐息。いや違う。俺の左隣に座った朝比奈さんが目を閉じて寝息を立てたのだ。これってもしや・・・。
「一ヶ月ぶりですね」
 みちるさんの微笑みが、俺の記憶のある人物と重なる。
「あなたもしかして・・・」
「そう。未来から来ました。朝比奈みくるです」
 この世界の男性ならば誰をも恋に落としそうなウィンク。
 姿形は大分変わっているが間違いなく、朝比奈さん(大)だ。
「そういうことでしたら、僕とは初めましてになりますね」
 古泉も微笑みで返す。
「そう・・・ですね。初めまして。古泉くん」
 また微笑み。
「それより朝比奈さん。なんであの日あんな電話を掛けてきたんですか?」
 危うく未来人対超能力者モドキの微笑み合戦になりかけたところを引き戻す。
「ごめんなさい。失礼でしたよね。でもあなたには少しでも記憶の端にわたしを植えつけておかないと、あなたがわたしに注目することはなかったんです」
 わかるような、わからないような理屈だ。
 長門が朝比奈さん(小)を壁にもたれかけて空いた席に座る。
「これも全部、あなたたちを助ける為なんです」
 助ける?なにからです?朝比奈さん(大)が顔を曇らせるのを感じ取れる。
「本当に緊急事態なんです」
 この言葉で始まり、朝比奈さんはこんなことを語り始めた。
「端的に言うと、今いるこの世界は本当の世界ではなくて、ええと、パラレルワールドって言うのかな。つまり、元の時空間から隔離された並行世界なんです」
 いきなりそんなこと言われても。
「信じてもらえないとは思いますが、本当なんです」
 
 その後の朝比奈さんの話をまとめると、元の時空間のハルヒは異世界人の存在を望んだ。これは俺も知っていることだ。そして俺たちを異空間に運んだ存在は天蓋領域の周防九曜。俺たちと初めて出会ったとき、その超人的宇宙パワーを使ってハルヒの願望を抽出・再現し、異世界を作り出した。俺たちと別れてから三分後、この世界に放り込んだ。そのことにいち早く感付いた長門はやつらとの情報戦の末、この朝比奈さん(大)をこちらに送り込んだ。
 
 どうもこの部屋は電波話の所縁の地らしい。
  古泉の顔色を窺ってみる。元々、こいつと朝比奈さんの所属する機関と言うか、組織は相容れない関係にあったように思う。仕方なく結託しているというか。そんな間柄の人間に突然こんなにわかに信じがたい話をされて、この微笑みを崩さない超能力者はどう感じているのか。それに、この俺だって朝比奈さん(大)に対しては幾分信用の置けない節があるんだ。
 古泉が俺の視線に気付き、軽く頷いて、
「何にしても、それを証明できる何か、出来れば手にとって触れる実物が好ましいですね。そういったものはないのでしょうか?」
 と朝比奈さんに尋ねた。
「えっと、すこし証明力に欠けるんですが」
 これを、と言って四角に畳まれたハンカチを差し出した。古泉はそれを受け取り、右に左にと見回している。怪しげな呪文が書いてあるわけでもないみたいで、今度は古泉が俺に渡す。
 
 コトン。

 何か光るものが落ちた。四角形の黄金色の板。
「朝比奈さん、これって・・・」
「そう。長門さんからキョンくんにって言われたの」
 手に取ったそれは、鶴屋家所有の山から掘り起こされた謎のオーパーツだった。あの長門が持って行けと言うのだから朝比奈さんの話も本当なのかもしれん。
 俺はオーパーツをポケットにしまい、こう尋ねた。
「元の世界の俺たちってどうなってるんですか?俺たちは存在してないんですよね」
「えっと、周防さんの力であなたたちをトレースしたあなたたちがいます。ただ、長門さんは・・・」
 朝比奈さんが口ごもる。長門になにがあったというのだ。  
「彼女の話が真実ならば、元の時空間のわたしは天蓋領域の手に落ちていると考えられる」
 今まで一言も発しなかった宇宙人がさらりと言った。
「本当なんですか?」
 朝比奈さんはうつむき加減に首肯する。向こうの俺は一体なにやってんだ。長門には迷惑かけないと誓ったじゃねえか。
 そんなどこにやっていいのかわからない怒りを抑えつつ、
「とりあえず現段階ではなんとも言い難いので、保留ってことでどうでしょう?」
 今日のところは解散することにした。
「はい、そうしましょうか」
 なんかデジャヴを感じるな。眠り姫となった朝比奈さん(小)は長門に預かってもらうことにして部屋を後にした。
 
 俺は帰り際にゼロ円スマイルの超能力者をとっつかまえる。
「どうしました?」
 さっきのことに決まってるだろう。おまえは信じるのか?
「先ほどの黄金色のパーツがあるではないですか」
 古泉はとぼけるように言う。
 あれだけじゃなんの証拠にもならん。
「とおっしゃるからには、さしずめあなたにはあのパーツの正体がお解かりになっているのでしょう」
 ああ、知ってるさ。
 その後五分程度、無駄な部分を端折りつつオーパーツ発掘の経緯を話した。古泉はいつかの雪山遭難事件と同様に適度に相槌を打って聴衆に徹していた。そういやあのときも周防九曜にやられたんだっけ。
「それが本当ならば、朝比奈さんのお話もあながち嘘ではないかもしれませんね。それに、」
 それに?
「今存在する涼宮さんには世界を改変する能力が備わってないんですよ」
 一瞬納得しかけたが、頭を振って取り直す。
「それはハルヒが普通の少女に戻ったってことなんじゃないのか?」
 俺がそう言うと、古泉は困ったような微苦笑を浮かべ、
「それですと、僕にいまだ異能的力が備わっていることに繋がらないんです。以前もお話しした通り、
僕の力は涼宮さんの願望と神にも例えられる力によって生み出された。ですから、彼女の力が自然消滅
した場合に限り、僕の能力も消えるんですよ」
 と言った。
 ということは、いよいよもって俺たちは異世界人ってわけか。
「そのようです。まあ、今日までの段階ではあなたのおっしゃる通り『なんとも言い難い』のでお互い
明日までに対策を練ってくるとしましょう」
 それでは、と後ろ手を振って古泉は去って行った。
 
 次の日、朝のホームルーム前にハルヒに話し掛けた。
「よう。おまえ最近部活も出ないでなにやってんだ?」
 ハルヒは珍しく笑顔を作り、
「入団試験でみちるちゃん以外切っちゃったけど、一年生の中にはまだ才能のあるルーキーがいると思うのよ。だから一年のフロアを詮索してるわけ」
 俺たちは別に運動部じゃないのだが、こいつが一番気に入った一年生にはトロフィーでもくれてやるつもりなのだろうか。
「馬鹿ねぇ。そんな金ないわよ。あんた払う?」
 断る。俺の財布は劇的なダイエットに成功したお陰で夏目さんもとい、野口さんに飢えてるんでね。
「冗談よ。どっちにしてもあたしは今日も出ないけど、みちるちゃんにはちゃんとSOS団の規律を叩き込んでおくのよ」
 そんなことしなくても、あの人にはみっちり染み付いてるだろうよ。もっともハルヒはそんなことは知るよしもないのだが。
 丁度会話が終了したところで岡部教諭が入ってきた。

 
 放課後、ハルヒは宣言通り教室を飛び出して行き、俺は俺でいつも通りに部室へ足を運んだ。朝比奈さんのいたいけなお姿を拝見する訳にはいかないのでノックをする。
 ドアを開けて出てきたのは、これまたいつも通りのスマイルを引っさげた古泉だった。
「ちょうど良いところに来ましたね」
 古泉は俺の背後を覗き見る。何もねぇぞ。ハルヒなら新人王を探しに一年のフロアを練り歩いてる。
「そうでしたか。いえ、今朝比奈さんに状況を説明しているところでしたので。ちなみにみちるさんは
長門さんの派閥の者としてありますので」
 部室に入ると、古泉が朝比奈さんに説明を再開した。制服姿の朝比奈さんは終始うんうんうなずいているだけで本当に理解したのかは定かではない。例のオーパーツを見せたときも「綺麗・・・」と感嘆の声を上げるのみだった。ただし、
「どうりで未来と連絡が取れなかったんだ・・・」
 と思い当たる節があったようだ。それによって俺はここが異世界なのだということを確認せざるをえなかった。
 そこで、部屋の片隅で読書を続ける長門に尋ねる。
「おまえの親玉はなんて言ってるんだ?」
 長門は何行にも渡る活字から目をそらすことなく、
「情報統合思念体との連絡回路が切断されている」
 とだけ言うと再び文章の波に潜って行った。
 てことは、やはりここは異空間なわけだ。
「やれやれ・・・」
 俺は溜息を吐き出し、パイプ椅子に腰掛ける。ポケットからオーパーツを出してなんともなしに眺めることにした。俺の頭じゃどうすることもできんからな。
「あの・・・」
 何分経ったかわからないが、控え目な声がした。朝比奈さんだ。
「どうしました?」
「キョン君のそのパーツ、ここに入るんじゃないかなぁって・・・あぁ、でも違うかも」
 朝比奈さんの言うこことは、パソコンの脇に置かれているハードディスクのフロッピー挿入口だった。パソコンの詳しいやつに聞けばわかるがパソコンの本体はこっちらしいのだが、今はどうでもいい。挿入口とオーパーツの大きさを比較するとややオーパーツが小さいが問題はなさそうだ。
「大手柄かもしれませんよ、朝比奈さん」
「本当?よかったぁ、役に立って」
「パソコンに脱出装置、いかにも長門さんらしいではないですか」
 古泉の言う通りだな。俺は長門の顔を窺う。長門がもはや単位のわからない数値でうなずくのを確認して、オーパーツを差し込む。頼むぜ。
 
 ―――ピポ。
 
 ハードディスクが音を立てることなく、ディスプレイに文字が映し出される。
Y.Nagato>緊急脱出プログラム起動。脱出する場合はENTERを、脱出しない場合はその他のキーを押して。ただし、このプログラムは一度限り起動できる。いずれかのキーを押した後消滅する。
 何度もすまない長門。帰ったらSOS団慰安旅行に連れて行ってやるからな。
Y,Ngato>Ready?
  皆の顔を見回す。最後に古泉が微笑み返してきたの見て、俺はENTERキーを押した。 


 だが今回は目眩も立ちくらみも暗転もせず、代わりにディスプレイには新たな指示が提示されていた。
これもパソコンを扱う者なら誰でも知っている機能であり、かつて俺もMIKURUフォルダ隠蔽に使用した便利かつ難解なセキュリティシステム。


PASSWORD?>
   
「パスワード、ですか」
 古泉が顎をさすって言ったが、その顔は真剣さが三割増しという感じだ。
「あちらの長門さんがこのようなややこしい設定を付与する理由は見当たりません」
 俺は溜息混じりに、
「あいつらか」
 宇宙人モドキに超能力少女、そして憎たらしい未来人。
「このプログラムに時間制限がないとは限りませんし、一刻も早くパスワードを解析しましょう」
 俺はみちるさんにアイコンタクトを送った。だがみちるさんは首を横に振り、なにも知らないことを告げる。
 
 長門も朝比奈さんもほとんどただの人間に近い状況かつノーヒントの中パスワードをひねり出す猛者はおらず、わかったのはパスワード入力欄に全角六文字、半角十二文字打ち込めるということだった。 
「困りましたね。我々にとってはヒントが与えられていませんので、経験者であるあなたに解決していただこうかと思いましたが・・・そうはいかないようです」
「んな無責任なことを言うな」
 俺はニヤけつつ困った表情を作る超能力者モドキにそう返す。たしかに一度長門のキーワードを解いたことはあるが、あれはハルヒの身勝手が幸い答えになっただけであって俺の力ではない。だがやはり一度経験しておくと対応も変わるもので、俺はパスワードの大体の見当はつけることができた。
 長門の非常にわかり辛い回答は、元の世界とこちらの世界で共通するものだと思う。思い出したくないあの冬の事件でもキーワードは共通事項のSOS団だった。ならばこちらの世界で怪しいポイントを突いていけばおのずと答えがでるはずだ。
「なにか心当たりがあるようですね」
「ああ、もう少しでパスワードが解けるかもしれん」
 古泉は思案顔の俺を見て黙り込む。朝比奈さんの尊敬の眼差しでやる気も補充される。 
 考えろ。こっちの世界で怪しいことはなかったか。ハルヒたちと街を練り歩き、次の日に数学のテストをやり、ハルヒが入団試験をやり―――。
「そうだ!」
 俺は思わず叫び、全員の視線を集めつつパソコンの前に慌しく座った。
「もしかして、わかったんですか?」
 朝比奈さんが驚きつつ聞いてくる。
「ええ。たぶん、これでいけると思います」
 そう答えながら俺はキーボードをタイプする。 
 
PASSWORD?>朝比奈みちる

 
 全角六文字。長門が俺たちのために送り込んだ未来の朝比奈さん。
「なるほど。あちらの長門さんとの接点は彼女しかありませんし、いけるでしょう」
 古泉が賛同してくれたことによって俺は躊躇うことはなかった。
 エンターキーを押す。
 
 しかし。
 
 画面には不吉な文字が浮かぶ。
 
PASSWORD?>ERROR!!

  
 突如ディスプレイが発光する。
 やばい!外したのか!?
 俺たちは目を細め、腕で光を遮る。
 そして光が一層強まったところでたまらず目を閉じた。
 
 
 β-9

 
 鋭利なナイフの刃先が俺の腹を裂き、真っ赤な鮮血が床に滴る―――ことはなく、またしても俺は一命を取り留めたようだ。何故か。
 それは俺の目の前でその長い髪を揺らし、佐々木のナイフを素手で掴む者がいるからである。
「・・・間に合ったようね」
 にこやかに微笑むそいつは紛れもない朝倉涼子の姿だった。
「おまえ・・・どうして」
「あら、長門さんから聞いてない?」
 狼狽する俺をよそに飄々と答える。聞いてないから尋ねたんだろうが。
「ふふ、そうね」
 やはり朝倉は余裕綽々で微笑むが、もう一人混乱している人物がいる。
「あなたは一体・・・?」
 佐々木は訝しげに問う。
「あなたが佐々木さんね」
 朝倉はそう言うと、ナイフを握る手に力を入れた。その瞬間、ナイフが刃先から光の粒子となって消えていく。
「え・・・!?」
 慌ててナイフを離す佐々木。
 情報結合の解除。俺はもう何度も目の当たりにしたため耐性ができているが、初めて目撃する佐々木にとっちゃ仰天必死の映像だろう。事実、その表情に先ほどまでの冷静さはない。俺は佐々木に駆け寄る。
 だが、相手は佐々木だけではない。奥にたたずむ周防九曜が動き出す。
「邪魔をするなら―――あなたも殺す」
 九曜はバリアからすうっと抜け出し、その荒波のような髪を八つに分裂させ、槍状に変形させた。九曜が右腕を朝倉の方に突き出すと、その槍状髪が朝倉めがけて鋭く伸びていく。
「朝倉!」
 思わずそう叫んでしまったのだが、当の本人は余裕の笑みを崩さない。代わりに幾何学文字の浮かぶ壁が崩れ、誰かが飛び込んできた。あまりに速い移動速度だったので確認できたのは北高の制服であることだけだ。

「パーソナルネーム周防九曜を適正と判定。情報結合の解除を申請します」
 そう聞こえた後、九曜の髪がその先端から光の粒となっていく。同時に足も下から上へと粒子化している。
「――――――」
 そして意外にもあっさりと天蓋領域は姿を消した。 


 α-10


「キョン」
 授業が終わると不意に佐々木が語りかけてきた。
「先ほどの話だけどね、やや指針がズレていたみたいだ」
 何の話だよ。
「キミが突然の自然災害に遭いたい、隕石の衝突がやってこないかと言っていたあれさ」
「エンターテインメント症候群てやつか?」
 佐々木は喉の奥でくつくつと笑い、
「僕が勝手に作り出した言葉だから安易に用いるつもりはないけど、まあその通りだ。この年代になると自然とそういった考えが浮かんでしまうらしいのでとやかく言うわけじゃないけれど、僕は一度だってそんな考えを持ったことはないんだ」
 たしかにおまえは達観した体があるしな。
「それはキミが僕よりも劣っていると無意識的に考えてしまっているからだ」
 学業面じゃ特にそうだ。  
「そんなことはない。キミがもう少し力を入れるだけで平均以上の成績は出せる。それに学業面ではなくキミが持っていて僕が持っていない特質だってある」
 ほう。それは知らなかった。本人が知らないのにおまえが知っているってのは滑稽だな。
「おっと、また話が逸れてしまったようだ。結局、僕は前代未聞の大地震や隕石なんていらない。カタストロフな出来事に限らず、宇宙生命体と交流を図ろうなんていうのも求めてはいなんだよ」
 じゃあなにが起こってほしいんだ?
「起こる、と言うよりは現状維持だ。今のままでいい。自分の知り合っている人間関係、環境で十分だ。もっと簡潔に言い表すのなら」
 ここで佐々木は端整な顔を微笑みに彩り、

「平和かな」
 そう言った。

 
 俺はここで目を覚ました。目を覚ました?
「佐々木・・・?」
 呟きながら辺りを見回す。先ほどまでの文芸部室だ。
 どうやら俺は目をつむっている間に幻覚を見たようだ。いや、幻覚と言うよりは過去の記憶だな。
「大丈夫ですか?」
 古泉が聞いてきたので、
「平気だ。少し目がチカチカするが問題ない。それよりも、この世界はどうなったんだ?」
「今のところなにも変化は見られない。元の空間へ帰還したわけでもない」
 長門が部屋の隅から答える。
 ディスプレイを見ると、パスワード欄にはなにも打ち込まれておらず、俺が朝比奈みちると打つ前の状態に戻っていた。だが、そのパスワードでは元の世界に帰れないことはわかった。
「しかし妙ですね」
 珍しく思案顔の古泉が言った。
「そうだな」
 このパスワード機能は間違いなく周防九曜が設定したものだろう。俺たちをここに閉じ込めておくために。そして俺はパスワードを間違えた。ならば、このまま脱出プログラムを消し去ってしまえばいいものをわざわざもう一度チャンスをくれている。いや、九曜はそう設定していたのだろうが、何者かによって阻まれた。俺たちを救おうとしている何者かに。
 その日は終業のチャイムが鳴るまで全員でパスワードを考え合って解散となった。無論、しっくりとくる回答が得られたわけではないが。
 帰宅途中、俺は違和感を感じ取った。少し前にもこんな感じがあったな。
 ・・・あれだ。SOS団と佐々木たちが出会ってから別れ、不思議探索と称した街の練り歩きのときだ。俺たちから宇宙的要素を取り除いたらこんなふうになるんじゃないかと感じた不思議探索。よく考えればあれも異世界にやってきてからの感覚だな。そして今も、違和感を感じるまでに平和な世界が目の前に広がっている。
 
 家に着き、夕飯と風呂をさっさと済ませ、自室のベットに仰向けになってパスワードの答えを考え続けた。小一時間程度考えたが、腹の上のシャミセンが丸くなって眠るだけでなにも浮かばなかった。
 誠に不本意だが、ここでもあいつを頼るしかない。
 俺は携帯電話で長門に掛ける。見事にワンコールで出てくれた。
「夜遅くすまん、俺だ。なにか向こうからの伝言みたいなのはないのか?」
「来ている」
 至極あっさりと答えるので一瞬硬直してしまった。 
「だが届いていない」
 長門よ、一体どっちなんだ?
「現実空間でのわたしからの情報は幾度となく送られている。けれどこの空間には強力な情報フィルターが広域に渡って張られている。その正体は不明。情報統合思念体をも遥かに超越しているレベル」
 親玉より上って、そいつはキツいな。
「天蓋領域だっけか?あいつらじゃないのか?」
「そうではない。あなたも既知のもの」    
 長門の親玉を超える存在を俺は知っていただろうか。
「涼宮ハルヒのそれと酷似している」
 
 ―――!
 
 ハルヒの名前を聞いたこの瞬間、俺は二つのことを理解した。
「そうか。わかったよ。ありがとうな」
「いい」
 それじゃ、と言って通話を切った。
 そして俺はもう一度電話を掛けた。
「古泉、俺だ。パスワードがわかった。それについて一つ頼みがある―――」
「―――わかりました。では、ご健闘を祈ります」
 通話後、俺はカーテンを少し開き、夜空を見上げた。この夜空も創られたものだ。
 そうだろ?佐々木。
 

 翌日。この世界にきてもう三日経つのか。
 だが俺の考えが正しければ、こんな世界とは今日限りでグッバイだ。
 教室に着くと、俺はまずハルヒに話しかけた。
「よう。今日も部活出ないのか?」
「今日は出るわよ。ちょっとほったらかしにしすぎたし。やっぱり団長がいなきゃ締まるもんも締まらないでしょ」
 そう言って百ワットの笑みを作った。これで無理にでも部室に来てもらうことはなくなった。
 その日の授業は正直言って集中できなかった。いつも真面目に聞いているわけじゃないがな。ハルヒにどう切り出すか、なんと言えばあいつは黙って聞いてくれるか、俺のボキャブラリーの範疇で推敲に推敲を重ねていた。
 そして放課後。ハルヒと共に部室へやってきた。
「あら、まだ皆来てないのね」
 そりゃそうさ。放課後の文芸部室には誰も入れないでくれと俺が古泉に頼んでおいたからな。
 今しかない。
「ハルヒ、ちょっとここ座ってくれるか?」
 俺は自分がいつも使っているパイプ椅子を広げて言った。ハルヒはアヒルのような顔をして、
「なによ。団長に平の椅子につけって言う気?」
「少し話があるんだ」
 そう俺が言うと不機嫌そうな顔をしつつも黙って座ってくれた。
 俺はパソコンにオーパーツを差し込む。音もなくパソコンが点き、パスワード入力画面になる。
「おまえ、中学のときに運動場に落書きしたんだってな」
「そうよ。あの頃はなにをしてもつまらないもんだったから、ちょっと一騒動起こそうかなって思ってやったの。で、それがなに?」
「『わたしはここにいる』」
「え?」
 ハルヒの表情が驚きの色に変わる。それだけじゃないぜ、ハルヒ。
「織姫と彦星にそう願って描いたんだろ?」    
「ちょっと・・・なんであんたがそんなこと知ってんのよ!」
 ハルヒの怒声の混じる発言を制してさらに続ける。
「そんとき、おまえのこと手伝った男がいた。可愛い女の子を背負った北高の生徒がな。つーかほとんどそいつが描いたんだろ?」

「キョン・・・あんた、もしかして・・・」    
 ハルヒは二の句が告げられないでいる。予想通りの反応だ。
 俺はパスワード欄にこうタイプした。


PASSWORD?>ジョンスミス

 
 全角六文字。あとは目の前で絶句しているこいつに言うだけだ。
「俺がジョン・スミスだ」
 エンターキーを押す。
 またしてもディスプレイが輝き始めた。
 そして、驚愕しているハルヒと共に部室の景色が色褪せていった。
 
「やっぱりそうだったのか」
 今部室には俺しかいない。ハルヒはもう元の世界へ還っただろう。
 このセピア調の世界を抜け出して。 
「あーあ、解読しちゃいましたか」
 不意に背後から声がして振り返る。窓の外に橘京子が浮いていた。
 橘京子は窓を開けて部室に入ってきた。ツインテールがぴょこんと揺れる。
「まだなにか用があんのか?」
「いいえ。九曜さんも消されちゃいましたから、もう手を引きます」
 そいつは意外だ。
「でもね、これだけは覚えておいてください。『敵を騙すにはまず味方から』って」
 どういう意味かと考えていると、橘京子はフワリとジャンプしてどこかへ飛んで行った。恐らくこの世界から出て行ったのだろう。
 そろそろタイムリミットのようで、俺の体が光り始めた。
 そして―――。
  
 
 β-10


「怪我はありませんか?」
 優しいトーンで俺に問いかけるのは、たった今九曜を消し去った喜緑さんだ。
「ええ。お蔭様で」
「わたしには聞いてくれないの?」
 朝倉はふてくされる様な表情で言った。
「あなたは攻撃されても平気でしょう」
 あっさり受け流す。大人の対応である。
「それでは、わたしたちは戻ります。じきにこの空間も戻りますので、佐々木さんを頼みますね」  
「はい。ありがとうございました」
「それと、朝倉涼子は家庭の都合として明日にもまた北高に戻りますので」
 俺は思わず朝倉の方を向く。
「大丈夫よ。わたしはもう急進派でも穏健派でもない、いわばフリーエージェントなの。だから今は穏健派に借り出されてあなたを護衛する役目。以前のことはこれで許して?」
「・・・わかったよ」 
 両手を合わせて片目をつぶりながら懇願されちゃ許さないわけにもいかんだろう。俺ってお人好し過ぎるのか?
「ふふっ、ありがとう。それじゃあね」
 と言って二人は崩れた壁の向こうへ消えていった。
「佐々木、大丈夫か?」
「・・・・・・」
 佐々木は気力のない瞳で俺を見上げる。こんな佐々木はかつて見たことがない。しかも、それだけにとどまらず、
「キョン・・・僕は・・・」
 その瞳から涙を流し始めたのだ。あの野郎共、佐々木をこんなにまでしやがってその償いもなしか?
 俺は佐々木の肩を掴み、
「なにがあってこんなことをしたのかは知らんが、俺は気にしちゃいないしおまえとの縁を断とうなんてミジンコ程も思っちゃいない。おまえは悪くない。あの三人のせいなんだ。だからもう忘れろ」

 そう言うと、佐々木は驚いたような表情を作った。
「・・・僕がなにをしたのかわかっているのかい?」
 ああ、わかってるさ。わかっている上でそう言ったんだ。俺は重度のお人好しだからな。
「・・・やっぱりキミはなにも変わっていないね。いや、グレードアップしたのかな」
 俺がこの一年でどれだけのことを経験してきたのか、今度話してやるよ。今日のことなんか蟻の眉間くらいにかわいいもんさ。
「楽しみにしておこう」
 佐々木は涙を袖で拭った。自然と、お互いに微笑んでいた。
 突然、ブレザーのポケットから金色の光が漏れた。
「なんだ・・・?」
 俺は光を発するポケットからオーパーツを取り出す。光源はこれだった。
 輝きが一層増し、そして―――。

 
 α,β-11

 
 ―――俺の意識が繋がった。

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最終更新:2007年06月17日 15:32