7

 目が覚めた。見ると、白い陽射しが柔らかくカーテンの裾から覗いている。俺はまだ鳴っていない目覚まし時計を静かに止めた。
 カーテンを開けて窓の外の景色を眺め、ゆっくりと伸びをする。
 ふと、足許でシャミセンがあくびをしているのに気がつく。
「お互い早起きだな」
 わが家の愛猫は毛づくろいを挨拶代わりとし、くるっと振り向くと尻尾でご機嫌を表しつつ部屋から出て行った。

 洗面所で顔を洗った俺は一度自室に戻り、今日くらいは先に着替えるかと制服を取り出す。
 かれこれ二年も付き合ってる見慣れたブレザーは、入学当初の初々しさなどとうに忘れ、すっかり俺の体躯に馴染んだものとなっている。鏡を見てネクタイを締めて、向き合う自分に微笑した。いつもならそんなことしないが、それはごく自然に漏れた笑みだった。
 居間に下りると、妹が鼻歌交じりに目玉焼きを焼いていた。
「あ、おはよう」
 今日は髪を下ろしているこの十二才は、また背が伸びたように見える。
「待ってて。キョンくんの分も作るからね」
「ありがとよ」
 俺は持ってきた新聞を広げて、意味もなく社会欄なり三面記事なりに目を通した。
 相変わらず世界は問題を山積みにしていて、まだまだ片付ける課題がいくつもあるのが一目で解る。……が、だからと言って俺は溜息をついたりしなかった。
「ねぇキョンくん、あたしも行っちゃだめかな?」
 妹が言った。フライ返しをそれなりの手つきで扱いながらこちらを振り向く。

「お前も学校だろ。飛び級で高校に来るのなんざ三年早い」
 俺がふた昔前の頑固一徹親父を脳内投影しつつ言うと妹は口元に人差し指を当てて、
「うーん。でもやっぱり行きたかったなぁ」
「学校終わったらお前も来ればいいさ。今日はどうも賑やかなことになりそうだしな」
 そう言うと妹はにこっとして、
「うんっ!」
 最高の半熟目玉焼きを作るべく料理に戻った。
 そう。いつかやって来るのなら、何も今慌てることなんかないのさ。


 駅前までのサイクリングがこれほど気持ちよかったのはどれくらいぶりだろう。
 まだ暖かいとは呼べない陽の照り具合だったが、それでも俺は随所に春の気配を感じ取らずにはいられなかった。
 快調にペダルを漕いで、擬似トライアスロンのような通学路はハイキングへとさしかかる。
 いつもより二割増しのペースで歩を刻んでいると、不意に感じる気配があった。
 俺は振り向いて、
「よ、学友」
「んお?」
 豆鉄砲ごと飲み込んだ雉のような形相の谷口が目に入った。谷口は不規則な瞬きで、
「どうして俺が来たって解ったんだよ?」
「さぁな。いや、ひょっとしたらとうとう俺も悪と戦う超能力者として目覚めたのかもしれん」
 俺がそう言うと、谷口は崩れたニヤケ笑いと肘打ちをかましつつ、
「お前が超能力者だってんなら俺はタイムリーパーだ。……そう。実を言うと未来では――」
 実にたわいないやり取りであったが爽やかに割愛させてもらおう。今日のメインはそんなところにないんでね。



 本日は授業がない。ついでに言えば午前中に放課となるので弁当もない。
 しかして集まった二年五組のクラスメートたちも、今日は特有のざわつきを見せている。
「……」
 教室入ってすぐ右、黒髪ショートの後頭部が目に入る。
「おはようございますお嬢様」
 冗談のつもりで囁くと、由梨は存外驚いたらしくぴくっとし、
「……おはよう」
 と言って読んでた歴史書らしき本に目を戻したが、心なしか視線が動いてない気がする。
 俺は自分の席に向かう途中でその姉とアイコンタクトによる黙礼をし、そろそろ座る残り回数も目減りしてきただろう指定席に腰かける。
 後ろの席にまだハルヒはいない。が、いないからといってあいつがまだ来てないとは到底思えず、俺は今日がどんな日になるだろうと沈思想像して、するほど顔が弛緩しそうになっていることに気づいて慌てて元に戻した。


 さて、俺は谷口国木田と連れ立って体育館へと移動する。その途上、
「しかし残念極まるね。輝かしき先輩がたのご尊顔をもう廊下や教室で拝めないと思うとよー」
 谷口が両手で大仰にジェスチャーして落胆の度合いを表しつつ、
「そんなことより、新しい彼女はできたの?」
 国木田がすっかり味をしめつつある毒をもってそれを制し、
「できないから上級生の卒業を嘆きの矛先としてるんだろ。そっとしといてやれ」
 俺が本人の反駁の隙なく結論を言った。
「ぐ。そうやってお前らは人の傷口に塩を塗りこむんだな……このサディストコンビめ」
 さてね。過度の塩分が嫌いな俺としちゃ、相手はお前限定で十分だがな。

「僕も。谷口ほどからかいがいのある相手もあまりいないしね」
「かぁーっ! 来年度こそはよき出会いがありますように!」
 どこの神仏にも祈ってる様子ゼロの谷口が叶う気配もゼロの願いを唱えてる間に俺たちは並んで在校生の一角たるパイプ椅子の行列に座った。

 俺たちはそこからもしばし雑談に興じていたのだが、不意に国木田が俺の肩をつつく。
「キョン、ほら」
 見ると屈託ない笑みの古泉が列の端に立って俺に挨拶している。
 俺は谷口国木田コンビに暇を請うて席を外し、無表情より笑ってる時間のほうが何倍も長いSOS団副団長の元へ歩いた。
「おはようございます。山紫水明たる素晴らしい天気ですね、今日は」
 いつもならいい加減時候の挨拶から入るクセをどうにかしたらどうだとか言ってそうだが、
「そうだな」
 俺はゆっくり瞬きしつつ頷いた。すると古泉は腕時計を見て、
「まだ開始まで少しあります。どうですか、散歩でも」


 三月の上旬ではさすがに芽吹いている花もまだ少なく、吹く風には冷たさもあったのだが、何よりそれ以上に太陽が素晴らしく輝いている。白い光はあまねく校舎と木々を照らし、壁と枝の端々までがきらめいて今日という日を祝福しているようだった。この際気のせいであっても構わない。
 今日この時の学校の敷地には、山の上であるにも関わらず来賓の方々を初めとする関係各位を含めた車が多く止まっていて、そういや一年前の卒業式もこんなだっただろうかと記憶を掘り起こそうとして、どうも土壌の不安定な古墳から出土した土師器のごとく形が模糊としているのは、紛れもなくハルヒが当時俺たちを誘導不能となったMk48魚雷のごとき挙動とともにあちこちへ引っ張っていたせいだろう。あの時の三年生の卒業ライブは覚えてるんだがな。

 俺の記憶錯誤もつゆ知らず、古泉は古泉で推進力のないツェッペリンNT飛行船のような不安定さで、しかし本人は機嫌よさそうにそぞろ歩きしていた。

「楽しかったな、今まで」
 見慣れた背に俺は言った。ゲーム以外でもたまには先手打ってやろうと思ったからではないが、今なら何の逡巡もなくそう言える。
 古泉は背を向けたままで、
「そうですね。僕の心情がこれだけ穏やかなのも、あなたの意見に全面的に同意できるからでしょう。……本当に楽しかった」
 振り向いた古泉の横顔がまた嫌になるくらい様になっていやがる。やめとけ。そういうツラは一年後に後輩の憧憬を一手に集めたい時のためにとっておけ。
「はは。だとすれば、僕は今何かしらの表情を意図的に作らなくてはなりませんね」
 もちろん、古泉はもうそんなことはしなかった。

 どこともなく歩いた高校生二人組は校庭前の階段に到着する。
 一年分の快晴を使い切ってるんじゃないかってくらいよく晴れていた。突き抜けた青一色の大空の下、十七年間暮らしてきた街並みがどこまでもよく見えた。
「一つ報告があります」
 買ってきた缶コーヒーをこちらに放って、古泉は変わらぬ笑顔のまま言った。
「我々『機関』の人員から、例の力が消え始めています」
 その言葉に俺は首を振って古泉を見た。
「すなわち<神人>を狩ることに代表される能力のことです。その力を消失させる者が現れてきています」
 古泉は終始穏やかだった。俺はその言葉に最初こそ驚いたが、また街の方へ目をやって、
「……そうか」
 それだけ言った。すると古泉は俺の目の端で頷いて、
「ええ。同様にして、僕から『超能力者』の肩書きが外れる日も間もなく来るのでしょう」
 そこに残念がる様子はまったくなかった。安堵しているように見えるのも、たぶん見間違いじゃないと思う。

「退職手当は出るのか?」
 俺の問いに古泉は肩をすくめて、
「さあ、それはどうでしょうね。必要とも思えませんが」
 だったら貯金、でなければ募金でもしとけ。ハルヒの力が巡り巡って世界に貢献するとなれば、まさにSOS団は名実共に世界を盛り上げることになるぜ。
 そう言うと古泉は苦笑した。
「ええ、検討しておきましょう。しかしね。よもやこのようなことになろうとは思いもしませんでしたよ。予定調和、という言葉がありますが、一連の出来事にその語句が必要なくなったのはいつからでしょうね」
 さーてね。いつからだろう。お前が最後に合宿の脚本を書いた日じゃないのか。
「だとしたら、僕は自らそのレールから足を踏み外してしまったことになりますね」
 おかしそうに言う古泉に俺は一言。
「こんな脱線なら大歓迎さ」


 卒業式は定刻通りに開始した。まあ、相変わらず学校側の定めるテンプレートに添った式次第は退屈であったものの――、
「三年四組、朝比奈みくる」
「はっ、はふぁい!」
 教師の呼称に続く彼女の声は、全校を和やかな笑顔でもって包み、
「朝比奈さーん! 頑張ってくださいっ!」
 と、黄色い声援を発したのは谷口に他ならない。こっちが恥ずかしくなるからやめとけ。
 たまたまクラス代表に当たってしまったらしい小柄な姿は、プレーリードッグを思わせるころころとした歩きと共に、何とか校長(そういや未だフルネームを知らん)の前にまろび出ると、一礼――。

「うぁいたっ!」
 深くお辞儀しすぎて額を机にぶつけたらしく、
「みくるーっ、ファイトっ!」
 全校生の気持ちを代弁したその声は、間違いなく鶴屋さんのものだった。朝比奈さんはそちらを振り向いて困窮気味の笑顔で手を振ると、今度はつつがなく卒業証書を受け取って無事に返礼、広すぎる体育館すら純度100%の穏和な空気で満たして席に戻った。
 その後は取り立てて目立った出来事もなくプログラムは順調に進み、卒業生の歌と在校生の歌があって、締めを校長が儀礼と格式ばった言葉で飾って式は終了となる。


 凝り固まった背筋の緊張を解いて、依然俺たちは席についていた。むしろ本番はこれからと言って差し支えない。詳しくは俺も聞いてないが、こっから先にはハルヒが一枚と言わず噛んでるはずで、そういや今日一回も姿を見てなかったが何やらかす気だ? あいつは。
 会場である体育館内は、生徒主導の第二ラウンドを今か今かと待ち構える好奇によるざわめきで満ちていた。

 突然だった。
「生徒会OB、アーンド」
 不意に渋く太い声が響き渡り、
「SOS団プレゼンツ!」
 それに続くは聞きなれて検索するまでもなく一発照合されるハルヒの声。
 途端にザワつきを増す会場もとい体育館内。一体何が始まるのか。
「「卒業生を大いに送別するダイナマイトパーティ!」」
 突如として明かりが落ちた。数秒と経たずに用意されていたらしい暗幕が窓を隠す。途端に暗闇の演出が空間を包む。まったく何も見えん。
 依然騒然とする会場。そこへ――、

「うぉわっ! 何しやがるっ!」
 俺の声がどこかからどこまでも響いた。それが何かと訝るより早く、前方スクリーンに映像が照射される。
「……なっ!」
 これは俺が出した俺の声。つうかさっきのも俺の声に相違ないんだが……あぁつまりどういうことかというと、ハルヒの奴、卒業パーティの出鼻に去年の文化祭映画のオフショット映像を持ち出しやがったのである。
「や、やめ、やめてぇぇぇえええっ!」
 いかにも朝比奈さんが言いそうなセリフだがこれも俺のものだ。そう、あの時は確か鬼のような編集作業に切羽が雨の降りすぎたあとのダムのごとき詰まり具合を呈していて、そこへまったく意味も意趣もない悪ふざけをヤケになったハルヒが敢行したのだった。雑用係にカメラが回るはずがないという固定観念を打ち破った痴態収録である。
 会場、大爆笑。俺、超羞恥。どうする俺? どーすんの!?
「がっはっはっはっはっは! キョン! お前あれは!」
 鼓膜を朝の公衆便所のノック並に殴打するのは谷口の声に他ならない。瞼なき耳鼻は手を使わない限りふさぐことができないが、慌ててそうしたところでもはや後の祭りであった。
 そこには女装した俺がいたはずだ。睡眠不足がリミットブレイクを起こすと人間ハイになって普段入らないところへギアがいくらしい。あれは夢と言うことで脳内処理しておいたのに!
 すでに視覚遮蔽モードに入っている俺は確認すらしたくないが、あの時ハルヒはどういうわけか酔っ払っていた気がする。酒は金輪際飲まないんじゃなかったっけか。団長様よ。

 そのようにして色んな意味で完璧なまでに観衆の心をミラクルキャッチしてしまったパーティは始まった。
「いやー、すさまじい映像でしたねぇ」
 言いつつ出てきたのは古泉と誰かであった。が、そこで俺はまたも度肝を抜かれる。
 古泉の服装がホストバージョンにシフトしていた。……古泉、お前もか!
 すべては団長の奸計によるものであることはもはや疑惑の余地なし、たちまち上がる黄色い声援を今すぐビリビリ破きたい、つうか耳朶が破けんばかりだ。

「まったくだな。あのような醜怪たる有様を録画された被害者には、むしろ同情したい気分だが」
「ちょ!」
 思わず声を上げて俺は認識する。古泉の相方を務めるのは、同じくホスト的衣装に身を包んだ元生徒会会長氏であった。……猊下、あんたもか!
「というわけで始まりました、SOSDP。今から忘れられないひと時をあなたに。司会進行はわたくし、二年九組古泉一樹と――」
「今年度卒業生、三年、元生徒会長がお送りする」
「おや、匿名なのですか?」
「よく解らんがそういう気分なのだ。大体、本校に在籍する前途ある生徒諸君にしてみれば、言わずとも私の名前は自明であろう」
 何じゃそりゃ。せめてもの退避行動だろうか。にしたってこのコンビは強烈すぎる。何せ格好が格好だ。古泉のいでたちは去年の文化祭以来のお披露目で、前回同様無駄に様になっているし、相方も相方で「絶対にこの人がこんなことするはずないだろう先入観」とのギャップによる相乗効果か、気持ち悪いくらい決まっているのだ。しかし、何でまた会長(この際『元』って呼称は省略するが)はこんな色物の役目を引き受けたんだろう。……陰謀のかほりがする。
「さて最初の企画はこちら」
 と言った古泉の言葉に続くは卒業生の映像。写真のようだ。このへんはちゃんと抑えておくらしい。ハルヒにしちゃ配慮ってものを解っているな。俺も不整脈の心配をとりあえずしなくてよさそうだ。
「待ちなさい!」
 そこで朗々たる声がした。ハルヒのもので間違いない。ステージに集まっていたスポットが体育館脇のステップに移動する。
「ただのスライドショー垂れ流しじゃちっとも面白くないわ。それぞれの写真に写ってる人にインタビューしましょう。その時どんな心境だったか面白おかしく聞くからね! あぁちなみに、どの写真の誰がどこに座ってるかの調査はもうとっくに終わってるから、あとは突撃あるのみよ。それじゃ、覚悟はいいかしら?」

 それだけを一気にまくし立てたハルヒはまごうことなきバニースタイルであった。またえらい懐かしいものを引っ張ってきたな。心なしかあの時よりグラマー度が増しているような……こほん。
 かくして思い出のスライドショーに当事者の当時の心境を現地取材するという、いやもうまったくもって何と呼ぶべきか解らない時間が始まり、途中から場合によって親友同士が抱き合ったり、思わぬ愛の告白が始まったり、いつの間にか卒業生が何人か狩り出されて即興漫才させられてたり……本人のトラウマにならんことを祈るが、三年生も楽しんでるようだし、これはこれで通例を飛び越えたいい企画かもしれん。ひさびさに奇想天外に振舞うハルヒを見たことに大いに安堵したことも申し添えておこう。

 さて、そんなこんなでプレイバックも佳境を終え、盛り上がりに聖水を差すかのように続いたのは、二人の長門によるシュールな寸劇であった。以下部分抜粋。
「――翁は太古、隣の竹やぶに竹立てかけた」
「そこからかぐや姫が誕生し、都にお触れを出した」
「わたしに求婚するならば、この惑星には存在しない物質で構成された生命素子を持ってまいれ」
「都の男たちは懊悩した。ある者はそれを愛情と呼び、ある者はそれを自分自身だと言い、ある者はそんなものあるはずがないと言った」
「かぐや姫は自分の時間が有限であることに誰よりも自覚的であった。姫の示達は民を惑わせたが、本人にとってそれは妄言でも虚言でもなかった」
「ある晩のこと。かぐや姫は山へ登り――」
 二十分くらい、時が止まった。世界を感じた。……ではなくて、二人は竹取物語を宇宙的に改変した新説を演じたのかもしれなかったが……はてさて。いったい誰か理解できたのだろうか? もしも要約できるインタープリターがいたらここに来てくれ。

 そののち有志によるバンド演奏へとなだれ込み、盛り上がりがピークに達すると、昼過ぎに生徒主導の二次会は終了する。いやほんと、描写しすぎるとキリがないが、もっとも評価すべきは湿っぽさがまるでなかった点だ。半年ぶりに文化祭やったような気分になれたしな。……しかし会長。終始ノリノリだったようだが、いったいどれが地なんだ?



「はい、片付け終了っ!」
 午後の部室。ハルヒの疲れ知らずな声が残響する。
 後片付けが俺主導になるとは思わなかった。いや、推測する余地もなかった。制服に着替えたハルヒの指示を受けつつ、ようやくもって俺は困憊状態の身体を部室の椅子へ投げ出した。
 するとハルヒは、
「みんなお疲れ様!」
 全員をねぎらうと思いきや、
「じゃ、二次会行くわよ!」
 しゃかりきに叫ぶのであった。おーい、休憩はなしですかい団長さん。
 さて。部室にはSOS団総勢六名と鶴屋さんが揃っていた。確かこれから鶴屋邸にて行われる卒業祝賀パーティという名の二次会に乗り出すんだったが……何次会まで予定があるんだっけ?
 そう言うとハルヒは傲然と胸を張り、
「何次会でも望むところだわ!」
 いや、答えになってないんだが。
 しかし俺がツッコムより早く、
「いよっ! それでこそハルにゃんだっ」
 鶴屋さんが手を叩いてはやし立てた。この二人がこんだけ笑ってる状況で歯止めをかけられる人物に心当たりがない。光源二乗の太陽熱で今ならバイカル湖でも干上がってしまうんじゃなかろうか。
「…………」
「…………」
 長門姉妹は互いに顔を見合わせてぱちぱち瞬きして、それからハルヒ鶴屋さんコンビを見てシンメトリーに首を傾げた。やれやれ、ってね。
「三次会が長門さんの家、四次会はどこでしたっけ?」

 古泉が締まらない推理小説の探偵のごとき姿勢で言った。そしてなぜこっちを見る。どうしてウィンクをする。今の時間お前用の念力ポストは受けつけてないんだよ残念だがな!
「どこだっていいのよ。たとえ宇宙の果てであっても! そうよねみくるちゃん?」
 言われて朝比奈さんは慌てて首を縦に振って、
「えっ、あ、あぁはいっ! うんうん!」
 思わず変な笑みを浮かべそうになったので、全力で表情筋を制御する。……確か俺んちだったよな。四次会。
「それじゃ行くわよっ!」
 そう言うと団長は太陽より明るい笑みで部室を後にした。
 後に続くは世界を大いに盛り上げる団員五名と名誉顧問様である。
 こりゃ、今夜は徹夜かもな。

 ――さて、「あの後」どうなったのかって?
 俺としちゃそっと胸のうちにしまっておきたいエピソードなのだが……まぁせっかくだしな。

 遡るのは大人版朝比奈さんに会った後。プラス、その次の日の午後だ。
 それじゃいざ、記憶遡行モード。

 ………
 ……
 …

「何? 言っとくけど湿っぽい話ならお断りよ」
 朝比奈さん(大)との面会場所とは別の、俺の家からほど近い公園の一角。ハルヒはブランコをわずかに揺らして前を見たままで言った。
 もうすっかり夜だった。おかげで吐く息は真っ白になるし、防寒対策が今ひとつなせいで秒単位で身体が冷えるのを感じる。
「先に訊きたいんだがな。今日何で部室に来なかったんだよ」
 俺は言った。普通に呼吸するだけでも白く呼気が漏れる。
 暗闇にまばらな街灯。シチュエーションとしちゃまずまずかもしれないが、俺は役者じゃないので震えを我慢するつもりも
「へっくしっ!」
 クシャミを抑えるつもりもない。すると、そんな俺を見たハルヒが、
「ほんっとだらしないわね」
 うるさい。それより質問に答えなさい。
 そう言うとハルヒは口の端をひん曲げて、それからなまじ無理矢理作ったような笑顔になる。
 しかしそれもたちまち消えて、これまた作ったような、誰かの真似のような軽い落胆姿勢で、「はぁーっ。ほんとにあんたってば……。あたしはね、ウダウダしてるどっかのバカの背中に蹴り入れたつもりだったんだけど」
 それだけ言うとまたそっぽを向きやがった。

 ……ははぁ、なるほどね。
「何?」
 ハルヒは目の端でこっちを威嚇するように睨む。
 何でもない。そのどっかのバカとやらはさぞありがた迷惑だろうと思っただけだ。
「はぁ? 何言って――」

「ありがとよ」

 そう言うとハルヒは 声帯を奪われたオウムのようにして黙り込む。
 一分ほどそうしていただろうか。やがて虫の羽音でももうちっと大きいだろうってくらいの音量で、
「……解ればいいのよ」
 呟きが聞こえてきた。続けてやや音量が増加されて、
「あぁでも言っとくけど、団の活動中にそういうのはNGよ。あくまでSOS団は恋愛厳禁なの。解るわよね?」
 もちろんだとも。俺だって古泉と長門が四六時中べったりだったら当分糖分摂取を控えて粗食主義になってるかもしれん。
「そういうことよ。あとはまぁ……」
 ハルヒはそこで言葉を途切れさせる。震えもクシャミもここだけは抑えておかねばな。

「あんたを信じるわ」

 決して長くはないセンテンスは、じんわりと、まるで血流に乗ったかのようにして俺の身体に沁みこんだ。


 …
 ……
 ………

 物語には世界がある。
 物語には始まりと終わりがある。

 俺たちが見ているのは、その切り取られた一部分でしかない。
 だが本当は、そこにいる人物たちにも「それまで」と「それから」がある。

 つまり、本当は始まりも終わりもない。
 俺たちは、そのうちのほんの一部分をかいま見ているにすぎない。

 だから何だって?

 現実だろうと物語だろうと、それが続く限り笑っていられるのならばこの上ない。
 もちろん登場人物全員がな。

 そう思うのさ。

 ………
 ……
 …


 朝比奈さんは大きな瞳で空を映していた。
 まるで瞬きを忘れたようにして、朝焼けの湖のように、きらりと。
「キョン、くん……?」
 目の前の光景は夢であると自覚しているような表情だ。
 だが俺はこれが夢ではないことをはっきりと自覚していて、だからもう迷いもしない。
 俺は呼吸をひとつして、静かに鼓動を早くしていた胸を落ち着ける。


「俺とつき合って下さい。朝比奈さん」

 もう一度だけ、意思を言葉に変えた。


 もちろんそれだけを信用するのがいかに脆いことかを、俺はこれまでに白旗上げそうなくらい学んできた。言語の不完全性だっけか? 長門やシャミセンだけじゃなく、色んな局面で俺は言葉の不自由さに惑ったり、迷ったりしてきた。

 それでも、今は他に頼れるものもない。
「キョンくん……」
 朝比奈さんは面を伏して、吐息を地面に落とすように呟いた。
「あたし……」
 放課後の中庭だった。奇しくもひと月前に古泉と長門が例の一幕をやった木の下である。
「ごめんなさい」
 朝比奈さんは言う。
「ごめんなさい。本当はこんなことになっちゃいけなかったのに。あたしが……」
 いつだって最後には笑顔になってくれたこの先輩は、まだ顔を上げてくれなかった。

「キョンくん。ダメです。あたしたちはつき合っちゃ……」
 朝比奈さんは頭を垂れたままで後ろを向いた。

 俺は超能力者でも何でもないから、今、この人が何を思っているのか読み取ることなんて微塵もできやしない。まして俺は女心というものに対して全面的に降伏せざるをえないくらいに気の利かないこと言動ばかりとってきた。あぐねた上にわだかまりまで残したことだってあった。こういうことに対しちゃ、今だ自信は皆無といっていい。

 でも、今は迷ってない。

 朝比奈さんはいつか未来に帰ってしまう。
 そして、間もなく卒業してしまう。

 この時代で誰かと親密になることは、やがて来る別れの寂しさを増すだけだと、彼女自身解っていたはずだ。
 最初っから最後まで、自分の気持ちなんてものは後回しにしておくべきと蓋をして、ずっと奥にしまっておいた。毎日部室で見せる笑顔は、真実楽しさから来るものだったというのは、大人になった彼女の表情を見た今、確信できる。けれど、その向こうには確かに隠した気持ちがあったのだ。一度も見せるつもりのなかった、最後の欠片。
 隠しておいた気持ちを明かすことが、その笑顔を自ら奪ってしまうかもしれないと彼女は思っただろうか。マフラーをくれたり、ハルヒに対して宣言したり。そこで朝比奈さんはどんな心境だっただろう。どれだけの勇気を使ったろう。
 彼女の決心がいつからかなんて解らない。俺が超絶なまでに鈍感だということ、それ以上に自意識の外に都合の悪いものを追いやってしまうこと、さんざん思い知って、そして、今ここに朝比奈さんがいる。


 彼女がこの時代にいられるのは、今だけなのだ。

 もともと、時間なんてものは元には戻らない。
 たとえ未来人あったって、自分がいる今この時は、一生に一度きりしかない。

 俺は最後にもう一度呼吸して、力を抜いた。
 自然にわいてきたのは……笑顔。


「朝比奈さん。実は俺、これまであなたの上司と連絡を取ってたんですよ」
「……え?」
 その言葉に目の前の先輩が振り向く。当惑した表情は、初めて部室に来た頃より、少しだけ大人びて見えた。そして、それはおそらく真実なのだ。
「未来人と過去の人間がつき合っちゃいけないなんて誰が決めたんですか? そう訊いたら、あなたの上司は苦笑いして首を振りました」
 朝比奈さんは生まれたてのヒヨコが親鳥を見つけられずにいるかのようにきょとんとする。
「あなたはいつか未来に帰ってしまう。それは間違いのないことです。けど、だからってあなたが折角伝えた気持ちを反故にするような奴がいたのなら、俺はそいつに罰ゲーム30連発を課してます」
 一息でこれだけ言った。そして最後に、
「たぶん、団長もね」
 そう。俺はあいつと言語を介さぬ取り決めをしたのだ。もちろん説明を言葉に置き換えることもできないが、それでも確かにあの時、意思の疎通をできたと俺は信じている。

「ときに朝比奈さん、何か視線を感じませんか? いつだったかみたいに」
 俺がそう言うと、朝比奈さんは、
「え……」
 ぱちりと目を瞬いて、くるりと一時の方角を見る。あれに見えるは住みなれしSOS団部室ー。
「……えぇぇっ!?」
 慌てて引っ込む頭がひいふうみいよお、……あー五つ。ひょっとしたらもっとか?
 朝比奈さんは咄嗟に思い出したように挙動不審ぶりを十全に発揮して、
「えっ、あっ、あの! わた、あたしやっぱりその!」

 ピリリリリ――、

 そこに電話が鳴った。着信音は俺の携帯からである。
 俺は躊躇も逡巡もなくそれを取り出して相手の名前を確認。通話ボタンをプッシュする。
「もしもし。……おう。……うん。おうそうだ。……………………うん。……あぁ。解ってるさ」
 しばしの会話の後、朝比奈さんに電話を手渡す。彼女は突然起こされたハムスターのごとき驚き具合でびくりと跳ね上がる。
 触れると高圧電流が流れると思い込んでるかのような慎重さで、また静電気を何とか避ける風に、朝比奈さんはおずおずと電話に出た。
「……もしもし」
 朝比奈さんはそこから数分間、ひたすら頷いていた。
 その間、百面相でなければ一時的短縮版情緒不安定に陥ったかのような喜怒哀楽ぶりを呈した朝比奈さんは、お辞儀の回数が数十に達しそうな頃に息を吐いて通話を終える。

 ふっ、と息を吐いて、どこか申し訳なさそうに、それでも笑みを取り戻す。
「……あの」
 コマ送りにしたら動きが判別できないくらいにゆっくりと、小さな手のひらが差し出される。


「よろしくお願いします」

 今にも苦笑いしそうな彼女に、俺はどんな表情をしていたんだろう。

「こちらこそよろしく」

 握手した瞬間、誰からも不安は消えたんだ。


 朝比奈さんは、今までで最上級の笑顔を取り戻した。

 …
 ……
 ………

 目が覚めた。見ると、白い陽射しが柔らかくカーテンの裾から覗いている。俺は、まだ鳴っていない目覚まし時計を静かに止めた。
 カーテンを開けて窓の外の景色を眺め、ゆっくりと伸びをする。
 ふと、ベッドでシャミセンがごろ寝しているのに気がつく。
「今日は寝坊か」
 わが家の愛猫は心地よい無言を挨拶代わりとし、くるっと寝返った。
 いい夢みてるといいがな。


 今日も俺は自転車を漕いでいる――。
 さて、向かう先で待ち合わせる人物は、今日はどんな姿でいるだろう。

 …………。
 駅前で俺は口を半開きにして棒立ちしていた。慄然? 悄然? 呆然? どれでもいいがな。

 見覚えのある人物が何人か、見慣れすぎた光景を伴って手を振っていた。
 その中には、まごう事なき俺の心の安寧を象徴する永遠の先輩がいるのである。

「おはよう。キョンくん」
 朝比奈さんはこれまでの休日よりお洒落度三割増しな、ナチュラルフェミニンスタイル。
「おはようございます」
 俺は朝比奈さんしか見えないかのように慇懃に挨拶する。さ、行きましょうか。宇宙の果てまでも。……すると、
「いっでぇ!」
 痛烈な衝撃。尾てい骨付近をトーキックされた。
 これまでずっとこ無視してのけていたのだが、たまらず振り返る。
「何でお前と愉快な仲間達がいるんだよ!」
 俺が予定外のツッコミと共に言うと、
「あらぁ? みくるちゃんが呼んでくれたのよ? あたしは空気読めない人間じゃないから、今日は由梨と買い物にでも行こうかと話をつけてたんだけど」
 SOS団団長、涼宮ハルヒがパチリとウィンクする先は黒髪私服娘の方へだが、当の長門由梨本人は、
「…………」
 空飛ぶ象を不思議そうに眺める少女の顔で二度瞬きした後、こくんと頷いた。おいおい、記憶がないなら頷く必要なんかないぜ。今でっちあげた即興芝居の場合もな。

「僕も遠慮するつもりでいたんですが、有希さんに誘われてしまいましてね」
 聞いてもないのに古泉は悪気ありませんよを顔に貼り付けた笑みでもって隣の長門姉にウィンクする。それを飄然と受け止め、有希はどこか機嫌よさそうに、
「どうせなら大勢のほうが楽しい」
 レンズ越しの秀麗な瞳でこちらを見た。う。なぜ俺が責められているような気分にならねばいかんのか。
「ま! そういうわけだから、さっそく喫茶店で班分けといきましょ!」
 そう言うやハルヒは寸暇も止める間を与えずに歩き出した。
 やれやれ。
 気づけばいつもの口グセがこぼれていた。
 今日は言うことにならん予定だったんだがな、これ。

 俺は肩をすくめると、ひとつだけ歩を刻んで振り向いた。
「朝比奈さん、行きましょう」

 すると卒業生はしばしぽかんと俺を見上げ、それから爛漫の笑顔となって、
「はいっ!」
 同じ一歩を踏み出した。

 願わくば、今日が平和でよき一日となりますように。



「ねぇ! 今決めたんだけど、最後に店内に入った人が奢りってことで!」
 ハルヒの宣言を聞くや、弾かれたように有希と古泉が駆け出し、由梨がそれに続く。
 完全にタイミングを逸した俺と朝比奈さんは、何となく間が合って視線を交わす。
「ふふ、送れちゃいましたね」
 朝比奈さんの笑みに俺は深々と相槌を打って
「ま、いいんですよ。ヒラ団員たる俺にできるささやかな団貢献なんて、これくらいですからね」
 
 物語は続いていく。
 そして時間に終わりはない。

「待てよハルヒ!」
「涼宮さん待ってー!」


 ――to you――


 (おわり)

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