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 土曜日の夜の記憶がない。
 断言できるが誰かに記憶操作されたとか、その間眠っていたということではない。
 いや、確かに眠ってたがそれは深夜近くになってからのことで、それまで俺はずっと夕方起きた出来事の余波を食っていたはずであった。しかるに記憶がない。ちゃんと夕飯食べたのかすら定かでない。風呂は? 歯磨きは? 自分で自分の母親になったように自問するが答えはない。
 今は日曜日の朝で、信じがたいことに昨日の熱は嘘のように引いていた。これが嘘だと言われれば俺はそのまんま納得してしまうかもしれない。風邪なんかどうでもいいってくらいにもっと信じられないことが起きたらしかった。
「キョンくん。起きてる?」
 妹が俺の前で呑気に手を振っている。おお今日はポニーテールか、似合ってるぜははは。
「昨日どうしたの? みくるちゃんが忘れ物取りに戻ってきたけど、あたしが呼んでも何にも答えないで帰っちゃった。聞こえてないみたいだったよ」
 そういえば朝比奈さんはいつの間に帰ったのだろう。俺は何と言って見送ったんだ。つうか今の季節はいつだっけ。春でいいんだったか。
 妹は額ににわか雲を乗せて首を傾げ、
「キョンくん、風邪まだ治ってないの? あたし、やっぱりお医者さん行ったほうがいいと思う」
 いや、風邪引いてたのは確かだが熱も間違いなく引いた。さっき三度も計ったからな。その結果三十六度四分の平熱だったし、それどころか今の俺は身体が軽い気すらしているぞ。お前をおぶって峠道をうさぎ跳びできるかもしれん。
 そんな俺の調子をどう捉えたのか、妹はオフクロに何か言っていた気がするが俺の耳には入らなかった。俺は昨日起きたことを思い出の映画を見るようにして脳内再生し、唇を触って感触が夢でなかったことを確かめた。
 ……朝比奈さん。


 朝食を終えて部屋に戻ると、机に放置していた携帯が振動し、あわや落下寸前だった。見ると古泉一樹の名前が背面ディスプレイに表示されていて、俺は無思考モードのまま通話ボタンを押した。
「もしもし」
 空気に話すように俺が言うと、電話向こうの相手が、
『おはようございます。古泉です』
 歪曲しない感想を言えば清涼感のある声で、何にも身構えてなかった俺にはそのまんま耳心地よく響いた。
「どうした」
 言葉を覚えたてのオウムですらもう少しマシな返答をするだろうというセルフツッコミすら野暮だった。
『その前にお聞きしますが、体調はどうですか?』
 浮かんだのは含み笑いをする副団長の表情だ。まるで答えを知ってて聞いてるようなその口調に、俺はわずかながら通常思考形態に回帰する。
「まったく不思議なことに寝て起きたら治ってた。最近の風邪は軟弱なのか?」
 俺がそう言うと、古泉は受話器越しでも解る微苦笑の気配で、
『ええ。それも込みでお話することが。今から出てこられるでしょうか? 場所は……折角なのでいつものSOS団集合地点にしましょうか』
 その言葉に含まれるところは、たぶんこれからサシで会話するってことであり、会談場所が学校の最寄駅の最寄にある喫茶店ではないという意味だろう。なぜか古泉と二人であそこへ向かうことが多かったからな。この二ヶ月ばかり。
 互いに二言三言告げてから電話は終了した。俺は窓の外で太陽が今日も飽きもせずに空を青く染めていることを確認すると、上着を着て外に出た。家を出る前に目についたマフラーが無視など到底できないくらいに存在を主張していたが、それとは反対に巻いていくことははばかられた。どうしてなのかは説明できない。


 病院行くの? との妹の問いに生返事して玄関を出、すっかりくたびれたママチャリに乗ると集合場所を目指す。身体が軽いのは心理的なものか身体的なものか判断しかねる。ここ数日の俺はまともな思考力を著しく減少させているから、答え合わせでマルをもらう自信がない。
 えっちらおっちらペダルを踏んで、駐輪場から何とか空きを見つけて自転車を止める。野郎と休日午前に待ち合わせという、冷静に考えずとも胃がデングリ返る行動を取っていることに気がつくころには既に人畜無害な優男が片手を上げて微笑んでいた。相手が誰であろうと隙のない冬版カジュアルスタイル。
 踵を返しそうになるのを生唾飲んでこらえ、俺はしぶしぶ本心と意識による仏頂面を作りつつ古泉に、
「何の用だ」
 古泉は今の俺の心理作用を見透かすような、こいつなりに面白がる様子で、
「あなたがこの数日で僕にした質問や、抱いただろう疑問に答えなければと思いましてね」
 にこりと笑う。さてね、何が問題だったのかも忘れてるかもしれないな。
 古泉は片手の平を上向けて、
「僕のほうも明確な回答を提示できるわけではありませんよ。ですがまぁ、続きはあちらで」

 この二年間さんざん腰を据えたおなじみの喫茶店も、古泉とのコンビで入店するのは初である。今回呼び出されなければ一生なかったかもしれんし、あったところでありがたみもヘチマもないが、来ちまった以上もう事実や過去は変えられない。仮に俺が時間遡行者になれたとしてもな。
 メニューを見るまでもなく暗記済みの注文をウェイターに告げて、俺は店内に目を配る。
 昼までまだ少しあったが、店内はそこそこ賑わっており、そんなわけでSOS団近隣支部のようなこの喫茶店はこれからも大丈夫だろうと思えた。
 古泉はすぐには何も言わず、相変わらずの微笑を貼り付けてニヒルにポージング。俺は「あなたの街のハンサムさん」と無言で話し合うためにここに来たんじゃないぜ。

「そうですね。僕もそのつもりです。本当はこのような場を設けること自体、若干のおこがましさを感じるのですが。まああなたが相手とあればね」
 意味深なようで曲解するとあらん方向へ迷走逃避行しそうなことを言う古泉は、
「初めに謝らせてください。数日前にあなたに知らんふりしたのは、もちろん意識的にです」
 慇懃に礼する姿は新川さんを思わせるが、そういやしばらく会ってないな。ってそんなことはいいとして。解ってたさ。
「あの時点で僕がしゃべってしまうことに何の意味もありませんでしたからね」
 俺はぼんやりと朝比奈さんの行動を思い出す。やっぱり、いつもと違って見えたのは見間違いなんかじゃなかったんだな。
 そしてその理由。これで自明じゃなかったらそいつは今すぐ脳をCTにかけたほうがいい。
 さ、それじゃ聞かせてもらおうか、たったの三日でお前が話せるようになったこととやらを。
「今から十日ほど前でしょうか。朝比奈さんからある相談を持ちかけられました」
 古泉は合宿の推理ゲームで解決編を語るより弁舌滑らかに話し出す。
「実を申しますと、これまでにも何度か彼女から心配事を話されたことはあったんです。ですがそれは彼女の立場とSOS団という仲間を憂慮してのことで、彼女自身の悩みに関する相談を受けたのは今回が初めてでした」
 早速ながら俺は少々の驚きを覚えていた。……そうだったのか。
「ええ、今でこそ話せますがね。当時は我々にも色々と思惑があったことは既にあなたもご存知でしょう。同様にして、あなたに話せないことというのも多岐に及んでいました」
 述懐する古泉に、俺はただお疲れ様と言ってやりたい。本当に今まで沢山のことが起きたが、その間、こいつが少なからず苦心もしていたことは俺にだって解っている。それが十全な理解ではないとしてもだ。
「ありがとうございます。そう言われると、あらためてこの団にいられてよかったと思いますよ。本当にね」
 古泉はお冷に口をつけてから、
「さて、話を戻します。今回、彼女――朝比奈さんから、他ならぬあなたについての相談を受けました」
 その言葉が胸中にわずかなすきま風をもたらす。

 
「古泉」
「僕には説明する必要があります。まずは最後まで話を聞いていただけますか」
 俺はテーブルに目を落として、やがて一度だけ頷いた。古泉は即妙に頷くと、
「朝比奈さんはあなたが好きだったんです。……それは、ずっと前から。彼女自身もいつからそんな気持ちを抱いたのか、もう覚えていないと言っていました」
 黙っている以外に取るべき態度も解らず、俺は合間にやって来たウェイターがホットブレンドを置くのを神妙に見守っていた。
「知っての通り、彼女はこの時代の人ではありません。いつか、未来に帰ってしまう。それはどうにかするという問題以前に、避けては通れないことです」
 カップ越しに伝わる熱を両手に感じつつ、俺は頷いた。
「それに加えて、朝比奈さんには涼宮さんを観察する役割があります。SOS団でも様々に立ちはたらいてきた彼女ですが、元々の責務はその一点です」
 手にしたカップのコーヒーが白く波紋を作った。古泉は続ける。
「初めは朝比奈さんも見て見ぬふり、気づかぬふりをしていました。それは、本当に長い間。もしかしたら、今回こうして明かされることもなかったかもしれません」
 そこで一度会話が途切れる。
 俺はこれまで朝比奈さんが見せてきた表情を思い出した。
 筆頭となるのは、初めてハルヒに部室に引っ張ってこられた、あの時のものだ。小柄で、謙虚で、優しくて。これから起こる事態に本気でびくびくしていた姿が、今でも写真より鮮明に思い出せる。
 メイドになれと衣装を押し付けられ始めてもめげず、横暴団長によって毎回押し付けられる難題にもへこたれず、けれど時に本当に泣き出してしまいつつ、最後に必ず見せるのは笑顔だった。
 それは時間移動にまつわる彼女の任務に溜息が出てしまう時だってそうだった。あの人は純朴すぎるから、傍で見ている人をいつも悪気なく心配にさせてしまう。だけど最後にはいつも乗り越えて、気丈に笑って佇んでいた。

 元いた時間から遠く過去に遡り、しばらくの間そこで暮らすことになって。

 そんな日々の中で、朝比奈さんは何を思っていたんだろう。

 いつか言ってくれたのは、俺やハルヒを初めとする皆に会えて、本当によかったってことだった。時間駐在員としての仕事にもやりがいと向上心を持っていることは、ぼさっと見てた俺にだって解る。
 SOS団は飽きもせず毎日毎日営業し続けて、それは時に楽しかったり、驚いたり、呆れたり、ほんのわずか心苦しいこともあった。はっきり聞いたことはないが、朝比奈さんだってSOS団での活動が楽しかったと言ってくれるはずだ。
 でも、と俺は思う。

 ここは彼女の時間じゃない。
 それは紛れもない真実で、彼女はここにずっといるわけにはいかない。
 だから、誰かを好きにもならない。

 そのはずだった。

「……古泉。今から言うことで俺を軽蔑してくれても構わん」
 古泉は何も言わずに、ただ一度の頷きを返した。その真摯さは長門を思わせた。
 俺は胸中でのみ深呼吸をして、言った。
「俺はこの何週間か見て見ぬふりをしてた。朝比奈さんが昨日俺に本当の気持ちを伝える前に、感付いてたはずなんだ。そしてそれだけじゃなく、俺は自分自身が揺らいでいることにも目をつむっていた」
 もう一度静かになった店内は、どこか別世界のように感じられた。
 古泉は目を少し細め、やがてふっと息を吐くと、
「また、ですか?」
 容赦なく一本の矢を放った。

「あなたは前にもそうやって問題を先送りにしたことがありました。そしてある人物を意図せず悲しませることになってしまった」
 長門有希。俺が意思表示できず、しまいにはわだかまりを残してしまった去年の夏。
「言っておきますが、もうそれは済んだことです。今聞きたいのは謝辞ではありません。問題は別のところにあります。これから先のことですよ」
 これから。
 朝比奈さんは俺を好きだと言った。……ならば俺はそれに答えを返す必要がある。
「その通り。僕が言いたいのはその一点です」
 俺は息を吐く。一口も飲んでいないコーヒーが温度を少しずつ下げていく。
「僕もあなたに謝らなければなりません」
 古泉は言った。俺は顔を上げて、思惑の読み取りづらい微細な眼差しを見る。
「朝比奈さんから相談を受けて、あることを長門有希さんに頼みました」
 俺は古泉と視線を交わす。解った気がした。
「あなたに一日限定で風邪を引いてもらう。朝比奈さんに忘れ物をしてもらう」
 やっぱりそうか。
「言っておきますが、あくまで提案したのは僕です。朝比奈さんや有希さんに責任はありません」
 古泉はあくまで朗らかだった。そのまま牧場に繰り出しそうなくらい牧歌的だ。
 あの二人を疑ったりはしないさ。それでこの三日前のお前の奇怪な態度にも説明がつくからな。
 だが、
「お前が朝比奈さんにそこまで肩入れするなんて意外だぜ。正直言って、お前が優先するのはその……なんだ」
 俺が言い淀むと、古泉はクスクス笑って、
「えぇ、そうですね。あなたに告白する朝比奈さんを僕が手伝うことで、いずれあなたと涼宮さんとの間に摩擦を生むことになるかもしれない」
 こんなところまで抜け目のない古泉であった。ダテにこれまでSOS団専属のイベントシナリオを執筆してきただけのことはある。

 その通りだった。俺が思ったのはまさにそこであり、何でそんなことを考えたのかと言うのも自明のことだ。

 去年の夏。ハルヒの宇宙規模で要注意な力にまつわる一連の出来事が、最大の山場とも言うべき局面を迎えた。そこで傷ついた長門は俺に正直な気持ちを伝え、しかし俺はそれに答えることができなかった。さんざん迷った挙句に。決断力そのものなら、それまでの経験もあってそこそこのレベルまで達していたんじゃないかと思っていたが、まるで予想もしていなかった長門の行動に何にもできなかった自分を、少なからず悔いたのも確かだった。高校生活唯一の心残りかもしれない。
 代わりに得たものは俺の無意識下とも言うべき領域にあった事実を認識下に置くことだった。
 それはつまり…………俺がハルヒを好きだと言う単純な答え。

「僕は涼宮さんが再びあの空間や<<神人>>を生み出すことはないだろうと思っています」
 古泉がカップの縁を指でなぞるお得意の仕草と共に言った。
「二年前のあの時。涼宮さんが閉鎖空間を生み出し、あなたとともに自らもそこへ行ってしまった際と、奇しくも似た状況ではあります。あの時も結果的に朝比奈さんの行動が引き金となりました。ですがだからと言って、今回も涼宮さんが同じように新しい時空を構築するようなことにはならないと僕は確信しています」
 古泉は深く頷くようにして、背もたれに身を預けた。
 古泉の確信に俺も同意できるかと言えば、それはまったく解らなかった。なぜなら、前回も今回も俺が当事者になっているからだ。何かが起こったとき、その現象の内側と外側の人間が共通の認識を持てることなど、滅多にはないだろう。
「それでもお前が朝比奈さんの背中を押す理由にはならないと思うけどな」
 見慣れた喫茶店の中は、ここだけ空間が切り取られたように静かだった。俺のセリフはそこへ静かに沈みこんだ。
「僭越とは思いましたが。それ以上に僕はSOS団員としての彼女に仲間としての意識を持っていますから。結果として助けられたこともありますしね」
 これまた初耳だったものの、俺の知る範疇ではないのかもしれないと思い、訊き返すのはやめにした。

「それに、彼女にはあまり時間がないのも事実です。朝比奈さんが真意を打ち明けたことが、彼女にとってどれだけ大きな意味を持つのか、あなたにもおわかりですね?」
 言われて時間駐在員としての朝比奈さんの仕事が何かを思い出す。
 彼女は未来から来ている。それはつまりこの時代の人間ではないということで、必要以上に過去へ干渉することは厳密に禁じられている……はずだ。まして恋愛など、いつか帰ることが確定事項となっている彼女にとって、それは心理的にも物理的にも最後に別れが来ることが決定付けられてしまう。
 そしてそれだけに留まらない。
「朝比奈さんは観察対象だったはずの涼宮さんと対立するかもしれないことも解っていて、それでもあなたに気持ちを伝えたんですよ」
「……………………」
 何も言えなかった。最も触れてはならない禁忌を冒すようなものだ、それは。
 同時に、俺はここひと月ばかりの朝比奈さんの様子を思い出す。
 ハルヒがぶち上げた恋愛ごっこなる名目のドタバタの掉尾、彼女は俺に自家製のマフラーをくれた。そして先日、俺がうっかり部室でそれをつけているところをハルヒが目撃し、朝比奈さんは自分が送ったのだとハルヒに宣言した。一連の出来事の最後を締めくくるのは昨日の一幕……。
 一体いつからだろう。朝比奈さんが自分の気持ちと立場の狭間で揺れるようになったのは。
 そしてその間、どんな心境で放課後の時間を過ごしていたのだろう。

 わたしとあまり仲良くしないで――。

 朝比奈さん。あなたはこうなることも知っていたんですか?
 知っていて避けられないと解っていて、それで俺にああ言ったんですか?

「僕の役割はここまでです」
 古泉が言った。気づけばカップが空になっていて、反対に俺のものは満杯だった。

「正直言って、今回の僕はどうかしているかもしれません。こんなことは二年前であれば決してありえない。まして他勢力だったはずの朝比奈みくるにしてをや、です」
 してくれなくてよかった、などと俺は言わない。したほうがいいとも思わない。少なくとも、古泉がいなければ俺が朝比奈さんの気持ちを知ることはなかったんだろう。それこそ、未来がこの先どこまで続こうが。
「古泉、すまないな」
 俺は言った。
「確かに、いつものお前の役割をちょっと外れてる気はする。けど俺はやっぱり知ってよかったと思う。知らないほうが幸せなことが世の中にいくつあったとしてもな」
 あとは俺次第だ。
「ええ。それに、僕はもうあなたの行動にとやかく言うつもりもありません。その意味で、『機関』の一員としての仕事にも、そろそろ終わりが近付いているのかもしれませんね」
 長い旅の後、帰路に立ち寄った旅籠で安息の息をつくようにして古泉は言った。

 終わり…………か。
 俺が願うのは、そこで全員笑っていられるってただその一点だ。
 他にそれ以上を望むべくもないね。

 そう思った。

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