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 日頃怠惰ではあるが身体としては健康な生活を送っていると、さながら自分が意識体になったかのような無意識を持ってしまうことがあるが、もちろんそれは幻影であって俺たちは実体のある人間なのだから、当然疲れもすれば体長を崩すこともある。
 迂闊だった二日前の出来事が次のカウントダウンを知らぬ間に刻んでいたかのように、それは突然俺の元に、いや、俺自身に襲来し、原因を考えるまでもなく真冬の夜間散歩なる愚行に及んだことがフィードバックとなって一日の始まりを直撃した。

 風邪を引いた。

 自慢でも何でもないが俺はこの二年ばかり病気の類を患ったことがない。ハルヒの思いつきを初めとする予測不能な現象の数々に疲弊することや、時間移動に酩酊することや、刃物で刺されて病院送りになることはあっても、何らかの病原体に細胞が白旗上げて熱も上げたことはなかった…………のだが。
 二年分の蓄積を十日に一割な利子つけたんじゃないかってくらいに増幅してそれはやって来た。
 俺は三十八度近い熱を出し、お粥ですら茶碗半分食べるのがやっとで、それゆえに休日の午前はベッドから動けずに幕を開けた。
「キョンくん大丈夫? ねえ」
 俺自ら面会謝絶の命を告げた妹がドアの向こうから心配の色を混ぜた声を上げる。
「……んぁ」
 我ながら穴あけたタイヤのような空気の漏れる声にしかならない。頭が枕の遥か底にある。
 こりゃ完全にお手上げだ。しかし片手を上げるのも億劫なほどに、血液中で無理矢理赤血球にいちゃもんつけた雑菌や何かが俺の体内で暴走行為を働いているのが感じ取れた。
 額に貼っつけてた三枚目の熱冷まし湿布が、とうにぬるま湯ほどの温度になってることに気づき、どこともなく放るとそれだけで力尽きて俺は寝返りを打った。
 何も考えられない。脳内か頭上か天上界で七人の俺がワルツを踊っている。その中心で裸身の神が足下からのライトアップを浴びて微笑んでいる。うぇ。吐き気がしそうだ。その笑みを認めた瞬間イメージが古泉とダブったせいかもしれん。

 部屋のなかはしんと静まっていたんだろうが、俺の耳朶はそんな清澄とは無縁に脈拍をベースとした新時代の幕開けを後ろ向きに告げられそうな旋律を奏でる。ほんとにダメだ。今重力がどこへ働いてるのかも解らん。しいて言えば前転を二回しつつ首を半回転させてる感じ。
 小さいものが大きく感じ、遠いものが近くに、冷たいものが熱くなってどうしようもなく
俺をぶん回す。もういい、どこにでも連れてってくれ。インフルエンザの予防接種は打ったはずだったが、今年は新型の発表会が大陸あたりであったのか?
 朦朧とする頭で、そういやいつか長門が倒れた時には団員全員が相当に慌てたことを思い出す。だが今日は団のスケジュール的にも完全に休日のはずで、明日の市内巡りに果たして俺は参加できるのだろうかと己の不覚に忸怩たる思いを抱く。
 今何時なんだろう。窓の外は晴れているらしかったが、それでも陽の光が遠いのか俺の頭が機能してないのかその両方か、まったくもって感覚不全に陥っている。
 布団を頭から引っかぶってじっとしていると、熱を逃がしきれない耳が高く飛行機の航空音を拾い上げる。訓練中なのか随分高速で飛んでるらしく、ゴーッという轟音がしてはまた小さくなり、その後にドドドドドというサイの群れが噴火を忌避して全力の行軍をするような音が響き――、

 バァン!

「お見舞いに来たわよ!」
 銃弾のような声が俺の両耳を易々と貫通して頭蓋にゴングを響かせる。病人相手にデスマッチか。マジで死にかねない。……って、何だ今の声は。
 強度の乱視になったようなピントの合わない視界に、戸口に立つ何人かのものと思しき影が映る。
「あーあ、本当に伏せっちゃってんのね。何? 夜中にベランダで天体観測でもしたの? ……違うわね。あんたがそんなロマンチストだとは小指の爪ほども思わないから」
 勝手に人の人物像をセメントで塗り固めたのはハルヒの声に相違なかった。

「一番下っ端なんだから病欠なんか認めらんないのよ。今日中に治ってもらわなきゃ困るわ。そうでしょみくるちゃん?」
「え? あっ、はい。……そうですね、うんうん」
 どうやったって尋問口調なハルヒに続くは雪解けのタンポポを思わせる儚い声色の朝比奈さん……だろう。今の俺は目を閉じ手の甲をまぶたに当てて情報量を減らすのに必死である。
 相変わらずはっきりしない五感が、それでもSOS団員が近くに来たことを知らせてくる。いつだったか古泉が言ってた力場だかなんだかを感じ取ることなんぞ俺にはできないが、いるだけで場の空気を七色変色させてしまう連中が固まってりゃそりゃ誰だって……あぁもうくどくど語るのも煩わしい。
「風邪を引かれるとは本当に珍しいですね。そういえば我々SOS団の面々はそういった症状とわりあい縁遠いほうでしたね。今にして思えば」
 古泉が何やら言って、一番近くにいるのか吐息が耳にかかった気がした。やめろ。これ以上俺を悪魔の迷宮へ誘うな。視界の暗闇にすら恒常的スマイルが投影されるようだ。
「さ! 看病開始と行きましょ。みくるちゃん、妹ちゃんとお水汲んできてちょうだい」
「あ。はいっ」
「有希はキョンの熱計ってやって。たぶんあんたならキョンも逃げ出さないわ。そんな体力もないかもしれないけどね。古泉くんは果物剥いて。由梨とあたしはせっかくだし、この腑抜け団員の病状を観察してやるとしましょう」
 散弾銃のような指示をぶっ放したハルヒに逆らう声など俺が伏せってる時点であろうはずもない。見舞いってのはもっと保つべき安静ってものがあるんじゃないのか? これでは年に一度の市内祭りかはたまた県議会選挙演説期間である。つまりどっちも病人の迎えられる場ではなく、そのような騒ぎの中に横たわる俺の身を誰か案じてやってくれ。


「はい、キョンくん。あーん」
 ぱく。……あぁこれはお粥かのう。最近味覚がとんと効かなくなってなぁ。
 などと胸中でしかボケをかませない。一体誰が俺に朝昼夜いつのものか判然としない食事を与えているのか、今の声を脳内検索にかけると、
「みくるちゃんひさしぶり。元気だった?」
 ……妹かそうかそうか。こんだけの顔ぶれで見舞いに来ておいてなぜゆえ血を分けた家族に食べさせてもらわねばならんのか。もしも朝比奈さんなら文句どころかその場で町内全快マラソンとしゃれ込みたいし、長門姉妹ならば無言を伴侶とした慎ましやかなひと時になるだろうし、古泉とハルヒは諸所の事情によりノーコメントとさせていただく。
「妹さん大きくなりましたね。ちょっとだけ大人っぽくなったかな?」
 この声は朝比奈さんで間違いない。そういうあなたのほうこそ、確実に二年前の出会いから変化していると俺は思う。ぱっと見は愛らしいとか可愛いとか美少女とかって今までさんざん並べてきた事実そのものの美辞麗句が適合するのだが、節々にどこか俯瞰するような様子を感じ取れるのだ。具体的に何が違うのかを言葉で説明するのは難しいが……例えばお茶汲みの後のくつろぎ方なんか前と少し雰囲気が違う。
「妹ちゃんは素直で無垢なんだから、へたれた兄貴と違って純朴なまま可憐な乙女になること間違いなしね。年が離れすぎてなければSOS団に招き入れたかったくらいよ」
  などという人間がハルヒ以外にいようはずもない。ここで俺はようやくぼんやりと両の眼を開き、室内花見大会という新種目があったら、それはまさに今この場のことを指すんじゃないかという有様を見てまた卒倒しそうになった。横になったままだったので倒れようがなかったけどな。
 ハルヒと朝比奈さんと妹が俺そっちのけで談笑しており、有希と古泉がその向こうで向き合って果物を剥いていた。できあがった梨とか林檎とかはそのまんま前者のグループに運ばれ、もちろん俺は一口も食べた覚えがない。

「……」
 そして一番近いところには由梨がいて、無意味に正座の姿勢で文庫本を読んでいた。
 俺が気づくとふと顔を上げ、ぱちりと瞬きして、
「三十八度二分」
 と、めでたくもない記録更新を告げてくれた。そうか、このボンヤリはデータに裏打ちされたものなんだな。
「おいハルヒ……」
 いちおう声は出たらしいが自分のものという感覚が希薄だった。
「あ、ようやく目覚めたのね。どう? 風邪だかなんだか知らないけど、これだけ元気な人に囲まれれば病原体もすっ飛ぶんじゃない?」
 なんちゅう理屈だろうか。お前、有希の時は静かにしてベッドに寝かせて、出入りする人の制限までしてたくせに、俺だと処遇が変わるのは何故なのかを余力さえあれば小一時間問い詰めたい。
「それよりも」
 俺は二の句を継ぐ。簡単な言葉でも合間に呼吸を整えたくなるしんどさである。また霞みそうになる視界をなんとかしてやりたいが、こればっかりはな。
「何で俺が風邪だって解ったんだ」
 そう。今日はSOS団内スケジュールは空欄であったはずだ。
 するとハルヒは何でもなさそうにパチパチと瞬きして、
「前倒しで今日の午後からにしようってことになったのよ。で、あんたの携帯にかけたけど一行に出ないから。家にかけたら妹ちゃんが出てね」
 何だそりゃ。昨日突然予定を書き加えたかと思えば急な変更かよ。
「有希が明日用事あるって言うんだもん。だったら今日でいいじゃないって思って」
 有希が用事? 何のだ。
 そう言うとハルヒは眉根を狭くして、
「あんた、そういうこと訊くわけ? デリカシーってもんが微塵もないのね」
 患い人の家に問答無用の押し売り訪問をしておいて言うセリフではない。

「解ったよ。解ったからちょっと静かにしてくれ」
 俺は再び双眸を閉じて四次元回転を続行する頭で処理速度の遅い思考を実行する。
 仮に古泉とデートするにしたって、SOS団の予定をねじ曲げてまでしたりしないんじゃないのか? これまでそんなことがあったっけと考えて、記憶を探るには頭が熱暴走しすぎていることに気づく。駄目だ。眠る以外の選択肢が入力欄から消えちまってる。
「本当に調子悪そうねあんた。仮病だったんなら叩き起こして街中に繰り出すつもりだったのに」
 ハルヒの心配だか落胆だか好奇だか解らん声が耳を乱雑に通りぬけるのを感じつつ、俺は力なくベッドから片手を出してひらりと振った。
「キョンくん……」
 朝比奈さんのものと思しき呟きが耳から頭にわだかまる。
 すいません。今何も考えたくないです。
「…………」
 間があったのはたぶん有希か由梨のものだろう。
「涼宮さん、今日はこの辺でお暇しませんか。彼もご覧の通りの容態ですから」
 音声だけでも柔和な古泉の声がする。続けて、
「そうね。治らないことには罰則も何もないわ。キョン? ちゃんと風邪治すのよ」
「ひへ」
 ハルヒが俺の頬をつねった。なすがままにされるより他ない。
「妹ちゃん。そういうわけだから、今日はこれでさよならするわ。また春休みにでも遊びましょ」
「うん。またねハルにゃん」
「あ、あんまりキョンにちょっかい出しちゃダメよ?」

 このあたりで俺の意識が遠のいた。
 正直言って、朦朧とする頭が見た夢か幻であるのかもしれなかったが、だとすればこの後に起きたことは同じ事として処理してしまえるものなのか、俺には判断できない。



 壁を隔てて小さく、旅客機の音が遠ざかる。
 意識が朧に戻ってくるのを感じるともなく感じ、しかし相変わらず身体は通常より数パーセント増しの発熱を続けているらしいことが解る。
 飛行機が去ってしまうと、しんとした部屋の気配だけが周囲にある全てだった。
 何とはなしに今何時なのだろうと思い、身体を起こすのが億劫だった俺は寝返りを打つ。
 するとそれは不意に俺の聴覚に届けられた。
「……キョンくん」
 時が止まった。俺の中だけで。
 朝比奈さんの声に聞こえた。というかそれで間違いない。どうしてここにいるんだ? ハルヒたちと帰ったはずじゃなかったのか?
「キョンくん」
 もう一度声がするも、俺は咄嗟に反応できない。同じフレーズを呟いた朝比奈さんの声には真剣味というか、憂いの成分のようなものが感じられ、それゆえ俺は何となく起きていることを表明できずにいた。
 ここでしばし沈黙があった。砂時計をひっくり返して全部落ちるのをじっと待ってるかのように。
 俺が今のは幻聴かと思い、再び眠りに就こうとした時、
「今まで、ありがとう」
 言葉に切れ味があるのだとしたら、今のこれは名匠の業物くらいには俺の胸を貫通する。
「本当に楽しかったです。……本当に」
 後半の声は半分震えていて、それはそのまま聞く者の心を共振させた。
「朝比奈さん?」
 俺はたまらずそう言って、身を起こしかける。
「きょ、キョンくん!?」
 やっぱり朝比奈さんで合っていた。他の誰でもなく、大人版の彼女でもない、今この時間に留まっているいつだって優しい先輩。朝比奈さんは瞳を一度ぱちくりをさせて、それからうつむいて何も言わなくなってしまった。

「朝比奈さん、今の何なんですか。今まで楽しかったって、一体――」
「違いますっ」
 そう言って彼女は首を振った。
「違うの。……未来に帰るのはまだ。もうちょっと先になるって言われています」
 朝比奈さんは悲しそうと言うより困ったような表情をしていた。ちょうど一年前の今ごろ、八日後から自分の身代わりになるべく、しかしその自覚はなしにやってきた時、ハルヒの時節に絡んだ陰謀を俺に隠すときの表情がこんな感じだった。
「でも今のは……」
 言葉尻が詰まる俺はあらためて状況を確認する。今だボーっとするが、窓の外は夕暮れで、ここは俺の部屋、いるのは朝比奈さんと寝巻き姿の俺だけだ。
 タートルネックのセーターを着た朝比奈さんは、以前困惑顔で所在無さげに目をちょろちょろさせていた。俺はあらためて彼女に問う。
「未来に帰るから俺に報告に来たんじゃないんですか?」
「それは違います。あの……」
 そこでまた朝比奈さんは逡巡の様相を見せる。弱々しく西日が照る窓の外からは、焼き芋屋の放送が聴こえた気がした。両方が黙ってしまうと、俺の部屋は無駄に静かだった。
「卒業しちゃうから、もうすぐ」
 朝比奈さんは言った。鈴の音を思わせるか細い声は、部屋のフローリングに優しく沈み込む。
「卒業……」
 半ば無思考に反復する俺は、今ここにいる彼女が三年生であることを思い出す。先輩はやはり困ったように口元に手を当てて、
「そうしたら、もうキョンくんたちとそんなに一緒にいられなくなりますよね。だから、何と なく……」
 どうしても互いに末尾が途切れてしまう。だが……そうか。朝比奈さんも俺と似たような心理状態だったんだな。

 それはつまり、簡単な言葉で表すと、

 卒業してしまうことが、淋しい。

 一時胸中を満たして消えずに残っていた靄が、霧になって俺を前後不覚に陥れる。
 卒業してしまえば、朝比奈さんはもう放課後の文芸部部室にはやって来ないのだ。未来に帰らないだけいいじゃないかと言われるかもしれない。だが、そうじゃない。普通の人であっても解るはずだ。時間とも空間とも言い切れない、感覚的な距離。そんな開きができてしまうことを俺も朝比奈さんもわびしく感じていたんだ…………たぶん。
「そうですけど、でもまた休みの日には会えますよ」
 誰かの心を落ち着けるべくして俺は言った。
 朝比奈さんの家に行ったことはないが近場のはずで、仮に卒業しても観察対象であるハルヒから完全に離れるとも考えにくい。ならばその後も団長が市内探索なり何なり言い出せば、そこに彼女の姿もあろう。
「ええ。それはそうなんですけど……」
 朝比奈さんはここでまた膝に視線を落とす。俺は頬や額やらが無駄に熱を放射するのを感じる。
「あの……キョンくん」
「はい」

 一拍――。

 時間が止まったに違いなかった。
 何の前触れや兆候もなく……いや、あったとしても俺には解りもせず、気づけば唇に感触だけがあった。すぐ近くに朝比奈さんの気配があった。視覚というよりは、茫漠とした感覚で俺はそれを察知した。

 まともな思考回路など、その一瞬で全てどこか銀河の辺境に押し込められてしまった。
「……っ」
 俺は瞬きするのも忘れて、また顔を伏せた朝比奈さんの向こうに見える本棚のそのまた向こうを見ていた。

 今のは何だろう。

「……好きです」
 すると言葉が届いた。
 ここにポストはひとつしかないらしく、ただ一つの投函物は、宛先に間違いなければどうやら俺に向けられたもののようだった。が、俺はそれが何を意味するのか、まったく考える術を持てずにいた。
「あたしは、キョンくんのことが好きです」
 呆然としたまま見ると、朝比奈さんは真っすぐに俺を見ていて、でもどこか必死に見え、俺は俺で依然思考停止する頭と動作不全の身体を持て余していた。
 そして、そんな状況で俺がかろうじてできた現状認識はたったのひとつだった。

 朝比奈さんに、告白された。

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