Report.20 長門有希の憂鬱 その9 ~朝倉涼子の抵抗~


 それから数日後。
 朝倉涼子の辞令が内示された。正式な交付は任務引き継ぎ完了後。


 ――長門有希任務代行解除 朝倉涼子
 ――有機情報連結解除を命じる。


 その週の金曜日。
 朝のHRで、涼子が再びカナダに戻ることが発表された。クラスはどよめきに包まれた。涼子は、当初の予定通り日本での用事が済んだので、カナダに戻ることを説明した。つまり、そのような理由で姿を消すという設定。本当は、涼宮ハルヒの事後処置状況を見極めた上で、問題ないと情報統合思念体が判断したため。
 涼子はその日の授業がすべて終了すると、帰りのHRで別れの挨拶を行った。挨拶を終えると、またいつでも日本に戻ってきて、顔を見せてほしいと級友達に声を掛けられた。
 そしてハルヒは、こう宣言した。
「あんたは今日から我がSOS団の海外特派員や! 北米地域での不思議探索は任せたで!」
【あんたは今日から我がSOS団の海外特派員よ! 北米地域での不思議探索は任せたわ!】
 団員ではない涼子を勝手に海外特派員に任命するあたり、実にハルヒらしい行動と言える。
 こうして涼子は、クラスの誰からも、そして教師達からも惜しまれながら、北高を後にした。
 恐らくはもう二度と足を踏み入れることはない、その場所を。


 明けて土曜日、708号室にて。
「明日一日くらいは、余裕あるよね?」
 涼子がわたしに言ってきた。任務の引き継ぎは、もうあとわずかで終了する。それが終われば涼子は……また有機情報連結が解除される。現状は、その最後の引き継ぎが遅滞していた。わたしも涼子も、未整理の膨大な情報の処理に手間取っていた。
 ……嘘だ。本当の理由は分かっている。
 引き継ぎを終えたくないのだ、わたしは。そして、多分涼子も。
 この情報の引き継ぎを終えることが、最後の別れの時だとお互いに認識している。それが、嫌。
 別れたくない。もっと一緒にいたい。
 これは、端末にはありえない考え方。でも、わたし、いや、わたし達は、そのように考えている。人間達と共に過ごしたわたし達に芽生えた、人間のような考え方。今の状態を人間の言葉で表せば、『未練』という言葉が該当する。
 わたしは言った。
「今のところ、最終期限は設定されていない。」
「せっかくだしさ、二人でお散歩でもしましょうよ。」
 その行為に何の意味があるのか、とは問わない。以前のわたしなら問うていただろうが。わたしは黙って首肯した。


 その日の夕食は、わたし達が台所で一緒に作ることにした。
「カレー缶は十分にある。」
「ダメよ、レトルト食品ばっかりじゃ。たまにでも良いから、ちゃんと作らなきゃ。」
「…………」
「食べ物に気を遣うのも、人間にとっては重要な行動なんだから。」
 爛れた私生活を送るわたしと、それを窘める涼子。
 いつの間にか、かつてわたしが暴走して世界を改変した時のような関係になっていた。
「といっても、冷蔵庫にはキャベツしかないのね……どうしたものかしら。」
 涼子は顎に手を当てて考え込んでいた。もとよりわたしは、わざわざ食材から料理を作るという生活は送っていない。諦めるべき。
 その時、何の前触れもなく玄関のドアが開いた。このようなことができる者は、限られている。
「勝手にお邪魔しますね。お困りかと思いまして。」
 喜緑江美里が、両手に買い物袋を提げて入ってきた。
「どうしたの、こんなにたくさん!?」
「夕食の支度を始める時間ですが、長門さんのことだから、食材の買い置きがないだろうと思って、調達してきました。」
 二人は手際よく、食材を仕分け始めた。二人とも楽しそうに見える。江美里はこのような性格設定だっただろうか。
「漫画でも、料理は学べるんですよ?」
 結局、三人でそれぞれ料理を分担することになった。
「このキャベツを活用しましょう。」
 江美里は回鍋肉。
「今炊けてるごはんは、冷凍した方がおいしさ長持ちね。」
 涼子は炊飯器を使っておでん。
 わたしはカレー……
『阻止。』
 ……これにはわたしも苦笑い……はしない。それにしてもこのインターフェイス達、ノリノリである。
「わたしも手は空いてるし、一緒に何か作りましょ。」
 協議の結局、わたしと涼子は、ひじき豆と、わかめともやしのスープを作ることになった。調理開始。
 ひじきとわかめを水で戻す。増えていくわかめ。なんとなく江美里の方を見てみた。
「……長門さん? その視線にはどういう意味があるのでしょうか?」
 江美里は笑顔を若干引きつらせながら言った。他意はない。ないが。視線が江美里の方向……主に頭部に向かうことを抑制できない。
 その時、江美里の手が動いた、ように見えた。情報操……
「くしゅん!」
 間に合わなかった。江美里の手には、胡椒の瓶が握られていた。
「あ~ら~、ごめんあそばせ。おほほほ。」
 顔は笑っているが、額に『怒りの四つ角』が出ているのを、わたしは見逃さなかった。
「い~え~、これは下味を付けるためであって、決して他意はございませんことよ。」
「……二人とも食べ物で遊ばないの。」
 やれやれといった面持ちで、涼子が窘めた。鼻の穴に丸めたキッチンペーパーを詰めているので、少しも様になっていないが。
「玉葱が目にしみるのには、これが一番手軽で効果的な対策なのよ。」
 まな板には微塵切りにされた玉葱の姿が認められた……もはや何も言うまい。


 インターフェイス三人娘の、賑やかな台所。
 わたしはかつてSOS団の女性陣三人で夜通し、手作りチョコレートケーキを作った時のことを思い出していた。あれは『楽しい』出来事だった。
 三人で手際よく調理に勤しむことしばし。
「なかなかの出来栄えじゃない?」
 和・洋・中と、この国で食される代表的な分類の料理が食卓に供された。三人揃って、
『いただきます。』
 人間に紛れて怪しまれずに生活するために身に付けさせられた、人間風の生活習慣。人間との接触が極度に少ないわたしは、無用なものと考え、早々にしなくなったが、彼女達は続けていたらしい。
「こら、そんな機械的に食べちゃ変でしょ!?」
「ふふふ、そんなに慌てなくても、料理は逃げませんよ。」
 妹の世話を焼く、タイプの違う姉二人。人間の目にはそのように見えるだろうか。あの改変世界のわたしの周囲に江美里はいなかったが、もしいたら、今のような光景が展開されていたのかもしれない。
 いつもより『美味しい』食事を終え、各自お茶を飲みながら思い思いの格好でくつろぐ。この行為もまた、インターフェイスの行動には何ら影響を及ぼさない。
「だめよ長門さん。そういう些細なところも正確に踏まえないと、正確な観測とは言えないわ。」
「そうですよ。人間達の間で有名な、パーソナルネーム黒澤明という映画監督は、撮影の際は、画面に映らないタンスの中身まで精密に時代考証をして設置するほどの徹底ぶりだったそうですから。」
 ……江美里の解説は、的を射ているのかいないのかよく分からない。恐らく、人間である涼宮ハルヒの観測をするのなら、自らも人間と同じ生活をして、人間の行動を体感する必要がある、という趣旨だと認識した。
「そのためには、見えない所まで手を抜かないことが大切なんです。」
 横では、涼子が頷いていた。
 休憩が終わったら、後片付け。使用した食器を洗浄する。調理器具は、ある有名な料理人のように、調理中にすべて洗浄が完了している。
「それじゃ、わたしはこれで。」
 洗い物を済ませると、江美里は帰っていった。帰り際に、
「……ごゆっくり。」
 という謎の言葉を残して。
 涼子はわたしの部屋に泊まることになった。今までは江美里の部屋で過ごしていたのに。
 …………
 ………
 ……
 …


 翌朝。
 どこまでも晴れ渡る空、眩しく差し込む朝日に照らされて、わたしは涼子の腕の中で目を覚ました。
「…………」
 また状況に流されてしまった。懲りていない。反省。
 一頻り反省した後、周囲の状況を改めて確認してみる。わたしは涼子の腕枕で寝ている状態。お互いに全裸。至近距離に涼子の寝顔がある。しばらく涼子の寝顔を眺める。起きない。
 寝顔を眺めていると、あることを思い出した。ハルヒがわたしの寝顔を眺めていて、したこと。わたしは涼子の顔に自分の顔を近付ける。規則正しい寝息。やはり起きない。わたしは実行した。
 涼子への口付け。ハルヒが行っていたことをエミュレートしただけ。……他意はない。
 だが行為はそこで終わらなかった。突然、わたしの頭が両手で固定された。わたしの口に侵入してくる舌。わたしはすっかり口中を蹂躙されてしまった。
「んふ。おはよう、長門さん。朝から積極的ね。」
 小悪魔のような笑顔を浮かべた涼子の顔がそこにあった。
「……ごちそうさま。」
 この台詞は、わたしのせめてもの抵抗。無駄な抵抗であることは分かっている。
「きゃー、食べられちゃったー♪ 長門さんのえっちー♪」
 この通り、有効打撃にはならなかった。むしろ重いカウンターを食らった気さえする。
 このままの体勢でいると、またハルヒの時の二の舞になってしまう。
 わたしは無言で布団から出て、下着を身に着けると洗面所に向かった。人間の言葉で言うところの『情事の跡』を消すために。……いわゆる『キスマーク』だけでなく、『歯型』まで付いているのはいかがなものかと思う。
 わたしが洗面所から出ると、涼子は台所で朝食を準備していた。裸にエプロンだけを着けて。
「朝ごはんは、昨日の残り物を活用するわね。」
 その服装には何の意味があるのだろうか。
「うふふ。これで長門さんを、の・う・さ・つ♪」
 そう言って腰をくねらせる涼子。……わたしを何だと思っているのだろうか。
「きゃー、長門さん、鼻血、鼻血ー!」
 ……最近、実感したことがある。
 すなわち、『身体は正直である』と。


 涼子による、『はい、長門さん、あーん。』などの攻撃を受けつつの朝食も終わり、わたし達は出掛けた。
 涼子がする取り留めのない話を聞きながら、わたし達はこの街を歩き回った。不思議探索で歩き回った街。そして、わたし達の唯一の……『思い出』と呼べるものがある、この街を。
 街を歩きつつ、買い物をするなどして、わたし達はずっと一緒に行動した。こんなに長い時間、涼子と行動を共にしたのは初めて。
 とある雑貨屋の前で、涼子が足を止めた。
「長門さんも、アクセサリーとか身に着けた方が良いんじゃない?」
 わたしは雑貨屋の窓から見える棚に並ぶ、安いアクセサリー類を眺めながら答えた。
「アクセサリーは校則違反。」
「……別に学校に着けて行けっていう意味じゃなくて。」
「涼宮ハルヒは、わたしがアクセサリーを身に着けた姿を望んでいないと思われる。」
 涼子は溜め息をついた。
「分かってないなぁ、長門さんは。普段飾り気のない娘がさりげなくおしゃれしてる姿は、いわゆる一つの『萌え要素』なのに。」
「涼宮ハルヒの中で、『萌え』という概念は朝比奈みくるの担当。」
 わたしは素っ気なく答えた。涼子が苦笑する。
「わたしはそうじゃないと思うんだけどな……。ま、いいわ。せっかくだし、(のぞ)いていきましょ。」
 涼子はわたしの手を握ると、店に入っていった。


 店内には様々な商品が陳列されている。客の九割は女性だった。人間の女性は、このような店舗を好む傾向にあると観測資料にはある。しかしわたしは、見た目こそ女性に設定されてはいるが、あくまで観測者。そのような趣向を理解することはできない。
 だから、今、目の前で涼子が、
「あーなたーも~♪ わーたしーも~♪ んーんん~♪ んーんーんーんーん~♪」
 鼻歌を歌いながら、とても楽しそうに商品を物色している姿もまた理解できない。
「長門さんは、こういうのに興味は……全くないみたいね。」
「素材も造形も、すべてが甘い。端的に表現すれば『安っぽい』。」
「まあ、ここは基本的にそんな高級品を扱うお店じゃないからね。」
「わたしには、これらの商品の価値が理解できない。」
「……雑貨屋に連れてこられた男のコみたいな台詞よ、それ。」
 涼子は苦笑しつつも、一人で店内を隈なく歩き回った。
 やがて店内をすべて見終わった涼子が、ある一角で手を振りながらわたしを呼んだ。
「長門さん、ちょぉこっち来てー。長門さんにぴったりのモノ、見付けたでー。」
【長門さん、ちょっとこっち来てー。長門さんにぴったりのもの、見付けたわー。】
 実に嬉しそうに手招きする涼子の元へ向かう。そこは主に文房具を陳列してある場所だった。
「ほら、これ。」
 涼子の指差す方を見る。そこには『ブックマーカー』、つまり『栞』が並べられていた。
「長門さんは、大の読書好きだもんね。だから、こういうのはどうかなと思って。」
「栞なら、書籍を購入すれば付いてくる。」
「そういう味も素っ気もないものじゃなくて、ずっと使い続けるようなものよ。」
「栞を使用する機会は滅多にない。」
 『彼』にメッセージを伝える時ぐらい。
「……まあ、あの読む速度じゃ、読みかけになることは滅多にないでしょうね。」
 涼子は栞を物色しながら、
「でも、人間の行動原理は、単なる実用性以外の部分にも、大切な要素があるのよ。例えば……ほら。」
 そう言って、ある栞を手にとってわたしに見せた。
「透明な容器に金魚や蛙の形をした物が入ってて、透明な液体で満たされてるの。傾けると、ほら、こういうふうに、中の物がまるで泳いでるようにゆっくり動くのよ。面白いでしょ?」
「ユニーク。」
「それとか、ほら、これなんか、クリップ型なんだけど、掌の形をしてるのよ。それで、実際に本に挟むと、こう、まるでページを手で押さえてるように見えるの。」
 他にも、どこかの美術館が建築物の意匠を再現したものや、宝石やベネチアングラスで装飾した華麗なもの、遊ぶ子供をデフォルメした形、着物の布地を使ったものなど、意匠も素材も様々な栞が並んでいる。
「確かに『ページを示す』という目的を果たすだけなら、買った時に付いてくる栞や付箋とか、極端な話、それこそいらない紙の切れ端でも良いわけよ。何だったら、ページの端を少し折り曲げても良いんだし。」
 『ドッグイヤー』や『キャットイヤー』と呼称される方法。
「でも、人間はそれを良しとはしなかった。」
 様々な工夫を凝らした栞が現にここにある。これでも、この地上に存在する様々な栞の、ごく一部なのだろう。
 わたしは楽譜を模った栞を手に取りながら、涼子の話を聞いていた。
「目的達成には関係しない、端的に表現すれば『無駄』な部分。無駄であるにも関わらず、人間はしばしばこのような部分を重視し、わたし達では考えられないほど熱心に、工夫することに情熱を傾けることがある。こういうのを、人間は『ゆとり』とか『遊び心』と表現するわ。」
 涼子は遠い目をした。
「……わたし達は、これを『ノイズ』として処理するんだけどね。」
 ノイズ。
 わたし達にとってそれは、不要なもの、目的達成のための障害として認識される。
 しかし、人間は違う。人間はそれを、好意的に捉える。その充実に情熱を注ぐ。
 もしかしたら、そのような『空き領域』……『マージン』の存在が、人間を人間たらしめる要素なのかもしれない。
「そんな人間の遊び心を知ってもらうために、長門さんには、こういうものにも触れてほしかった。」
 そう言って涼子は、
「だから、わたしはこれを長門さんに贈ろうと思うの。」
 と、わたしにある栞を示した。それは紐を主体とした栞で、紐の両端に小さな『本』と『眼鏡』を模った飾りが付いていた。その『本』は革の表紙が再現されており、その『眼鏡』にはプラスチック製のレンズが入っていた。どちらの飾りも、かなり精巧に作られている。人間の言葉で言うと、『いい仕事』をしている。
「本に挟む栞が、本と眼鏡なの。ユニークでしょ?」
 わたしは肯いた。確かにユニーク。
「気に入ってもらえたかしら。でもね、これを選んだ理由は、それだけじゃないのよ。」
 涼子はわたしに向き合うと、わたしの顔に両手を添えて、わたしの顔をじっと見つめながら言った。
「これが、『わたしが見ていた頃』の長門さんの姿を象徴するもの。」


 ハッとした。
 わたしが眼鏡を掛けなくなったのは、正に涼子が消滅した時のこと。
 涼子の有機情報連結を解除した後、わたしは教室の物品を再構成して、空間封鎖を解除した。しかし、戦闘のダメージが残っていたのだろう。わたしは、戦闘によって亡失した眼鏡の再構成を忘れた。すぐに気が付き再構成しようとしたが、結局再構成はしなかった。なぜなら、『彼』が「眼鏡がない方が良い」と言ったから。
 そう。
 わたしが眼鏡を掛けなくなった直接のきっかけは、『彼』の言葉。でも、その『彼』がその言葉を口にした出来事のそもそもの発端は、わたしと涼子との戦闘だった。『彼』を殺害し、涼宮ハルヒの出方を見る、という涼子と、『彼』を保護し、涼宮ハルヒの環境を守る、というわたしとの。
 そして涼子は、それ以降わたしの姿、すなわち眼鏡を掛けていない姿を見ていない。
 戦闘中に眼鏡を失った時、わたしは涼子に背を向けていた。そしてあの改変世界でも、わたしは眼鏡を掛けていた。
 もし涼子が、眼鏡を掛けていないわたしの姿を見ていたとすれば、それはわたしが涼子の有機情報連結を解除する時以外にない。
 ……人間の言葉で言えば、眼鏡を掛けていないわたしの姿は、わたしが涼子を『殺す』瞬間の姿。涼子にとって、最期に見た光景。


「わたしの中では、普段の長門さんは眼鏡を掛けた姿だった。だから、わたしが再構成され、そして長門さんも再構成されて再会した時、長門さんが眼鏡を掛けてない姿を見て少し……そう、『感慨深かった』。もちろん、情報として事前に知ってはいたわ。でもね、やっぱり他所から伝えられる情報と、実際に自分の目で見て経験する現実とは違う。」
 涼子にとって、眼鏡を掛けていないわたしは戦闘状態、それも涼子を『消す』時の姿。
 わたしは、ふと思った。そんなわたしの姿を、今まで涼子はどんな思いで見ていたのだろうか、と。
「…………」
 涼子はわたしの顔を、慈しむように撫で回していたが、名残惜しそうに手を離した。そして本と眼鏡の栞を二つ手に取ると、レジに持って行った。
「両方ともプレゼント包装、お願いします。」
 涼子は、わたしと涼子の分、二つの栞を購入した。
 雑貨屋を出ると、涼子は今買ったばかりの栞を一つ、わたしに手渡した。
「二人でお揃いね。」
 ――もう、二つ買っても意味がないのに――
 この言葉は言えなかった。言いたくなかったから。


 その後もあちこち散策したわたし達は、海辺に来ていた。
「今になって思うの。わたしは、何だかんだ言って、『人間』としての生活を楽しんでたんだなって。」
 既に日没を迎え、辺りは夜の(とばり)が下り始めている。
「知ってた? ここって、夜景のきれいな場所なのよ。」
 西宮大橋。
 歩道には展望スペースとベンチが設けられていて、夜景を楽しむ設備が整っている。
「本格的な夜景も良いけど、わたしはこの日没後すぐ、まだ明るさが残ってて照明も点いてる、そういう時間帯の景色が好きなの。昼でもなく、夜でもない、昼と夜の狭間……」
 涼子はわたしに向き合い、言葉を続けた。
「人間でも人形でもない、生物と機械の狭間……今のわたし達みたいだと思わない?」
 ドキリとした。
 『驚く』という行為自体、端末としてはおかしな動作の部類に入るが、わたしは驚いた。こんなにも的確に、わたしが考えていることを指摘されたこと。そして、『わたし達』と言われたこと。
 つまり、涼子もまた、わたしと同じ考えであるということ。
「…………」
 わたしは沈黙した。言葉を発しないのは普段通り。それだけではなく、通信でも沈黙した。
「ふふ、驚いてるみたいね。まあ、無理もないけど。」
 涼子はわたしから視線を外し、夜景の方を向いた。
「わたしはね、人間で言えばたった三歳。なのに、もう『死』を経験してる。」
 涼子の意識の上では何回になるか分からないが、いずれにしても『死』に至らしめたのはわたし。
「人間の三歳って、ちょうど『第一反抗期』に当たるんですって。つまり、『自我』が芽生える時期ってこと。自我が芽生えて、親の言うことに反発したくなる年頃。」
 涼子はニヤリと笑った。
「あの冬。長門さんが『コト』を起こした頃も、やっぱり三歳ぐらいよね。」
 涼子の意識の上でも、あの事件はあったことになっているのか。だがそれよりも。
「何が言いたいの。」
 涼子は満面の笑みで言い放った。
「つまり、あなたもわたしも、反抗期にすることがあるっていうこと。」
 反抗期の行動……『親』への反抗。わたしは、『親』を『殺し』た。情報統合思念体の存在を一時的にとはいえ、消滅させた。
「わたしは対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェイス。生きる自由も、死ぬ自由さえも与えられてはいない。生殺与奪の権限は、情報統合思念体が握っている。」
 涼子は胸の前で両手を組んだ。それは人間のする『祈り』の姿に似ていた。
「それでも、わたしは反抗してみたい。せめて消え方くらい、自分で選んでみたい。」
 何を言っているのか理解できない。
「わたしは、インターフェイスとして消滅するんじゃなく、ヒトとして死んでやるの。」
 分からない。理解不能。エラー。
「何でもかんでも情報統合思念体の意のままっていうのは、もうまっぴらなのよ。」
「……何を、言っているの。」
「これはわたしの……ささやかな、『反抗』。」
 そう言うと涼子は、欄干に飛び乗った。
 わたしは身動きが取れないでいた。どうして良いか分からなかったから。


「……さすがに感付かれたか。」
 涼子の視線を追って振り返ると、江美里がいた。
「また独断専行ですか? いい加減にしてほしいですね。」
 江美里は微笑を浮かべたまま。涼子も笑顔のまま応じる。
「見逃しては……もらえなさそうね。」
「ええ、それはできない相談ですね。」
 なぜなら、と江美里は背筋を伸ばし、手を後ろに組んで宣言した。
「『抵抗する場合は強制的に当該対象の有機情報連結を解除せよ』と言い渡されていますから。」
「なるほど。『抜け忍』の抹殺命令自体は想定の範囲内だけど、まさか穏健派のあなたが実行役とはね。」
「今のわたしは、長門さんのいわば『お目付け役』。ですから、長門さんの任務代行であるあなたに対しても、当然に監督権限は及ぶと解されます。それに長門さんには……『荷が重い』でしょうしね。」
「情報統合思念体も、少しはヒトの心の機微が分かるようになったんだ。感心感心。……できればもうちょっと早く、それぐらいは成長してほしかったんだけどな。」
 涼子は眉尻を下げて嘆息した。
「わたしに対しては、未だに扱いが悪いままなのよね。あーあ、やっぱりわたしは『いらない子』だったかぁ。そりゃ確かに意にそぐわない事をしたかもしれないけど、それなりに貢献もしたと思うんだけどな。」
 涼子は、やれやれ、と肩をすくめた。
「それじゃあ、ターミネーター喜緑さんに質問。あなたにとって、強制有機情報連結解除を実行するほどの『抵抗』って、定義は何なのかしら。」
「そうですね。端的に言えば、わたしに攻撃することでしょうか。」
 涼子はニヤリと、
「ということは、喜緑さん的には、あなたに危害を加えようとしない限り、積極的に強制有機情報連結解除を実行する要件を満たさないと解釈して差し支えないかしら。」
「定義から言うと、そのように解釈して差し支えありません。」
「じゃあさ、例えばの話だけど。ここでわたしが、何か突拍子もないことを始めても、喜緑さんに攻撃しない限り、あなたはそれを邪魔する理由はないということで良いわね?」
「恐らくその場合は、変更命令が下されて、何らかの行動を起こすことになるでしょう。しかし、それでも行動開始までには少し時間が掛かるでしょうけれど。」
「……なるほど。予想通りの回答ありがとう。」
「どういたしまして。」
 二人は、何かを確認し合うかのように視線を交わらせた。
「後はよろしく。じゃあね。」
 涼子は欄干から一歩踏み出した。
 真っ暗な水面目掛けて落ちていく涼子。江美里は動かない。わたしが何とかしなければ。
 ……何とか? 一体何をしようというのか。
 たとえここで涼子を上に引き上げたとしても、彼女の有機情報連結解除は既定事項。時期が早いか遅いかだけの違いしかない。それでもわたしは何かをしようというのか。何を? 分からない。皆目分からない。
 その時、江美里が動いた。
「強制コード受領。
Auto-execution Mode...
KILL /ALL
SELECT シリアルコード FROM データベース WHERE コードデータ ORDER BY 攻性情報戦闘 HAVING ターミネートモード
パーソナルネーム朝倉涼子を反乱分子と判定。当該対象の有機情報連結を解除する。」
 『物騒な』コマンドラインスイッチと共に、江美里の口から有機情報連結解除のコードが紡がれる。
 その時わたしは、違和感を覚えた。なぜ情報統合思念体は、涼子をここまで目の敵にするのだろうか。所詮は涼子も、情報統合思念体にとっては一端末に過ぎないはず。それはもちろんわたしにも、江美里にも言えること。なのになぜ、涼子だけをこうも執拗に付け狙うのだろうか。
 涼子がまた独断専行しようとしていたから?
 そのような些事、捨て置けば良いはず。たかが一端末に、何ができると言うのか。
 確かにわたしは、一端末でありながら、一度は情報統合思念体を消滅させた。でもそれはハルヒの能力を掠め取って利用しただけ。わたし自身の能力ではない。情報統合思念体との接続を断絶してしまえば、たちまち端末は無力化する。なのに、なぜ。
 一端末に過ぎないわたしには、情報統合思念体の考えがすべて分かるわけではない。ないが。違和感が拭い去れない。何かが引っ掛かる。
 接続を断絶できない理由があった?
 断絶して困ること……端末の動向を把握できない? 確かにそう。それはもはや『端末』ではない。……まさか。
 涼子が端末でなくなることが困る? 涼子の『変容』を恐れている?
 ……恐れる? 情報統合思念体が? 一端末を? ありえない。ナンセンス。
「朝倉涼子の有機情報連結の解除を確認。効果空間内、残存反応なし。」
 江美里の声が響く。わたしは黙って、暗い水面を見つめていた。そこには何の痕跡も残ってはいなかった。水音こそしたものの、何も浮かんではこない。有機情報連結が解除され、何も残らないのだから当然。
「Mode Release...」
 江美里が通常動作に復帰した。
「こういう時、人間は……やはりこうするのでしょうね。」
 わたしの後ろに回ると、肩に手を置いた。
「わたしの胸で泣いても良いんですよ?」
 そう言って優しく……とても優しく抱き締めてきた。
「わたしにそのような趣味はない。昨夜は状況に流されただけ。勘違いしないで。」
「嘘ばっかり。」
 江美里は後ろからわたしの顔に頬を寄せた。
「わたしの頬に感じる、この熱くて冷たい水は何でしょうか。」
 それは水じゃなくて、もっと寂しい粒。
「泣いてない。泣いてなどいない。」
「はいはい。」
 よしよし、と頭を撫でられる。この感触、嫌いではない。
「わたしも長門さんと同じになりましたね。この手で、同胞である朝倉涼子を……」
 江美里がわたしの耳元で囁く。
「でも心配はしてません。あなたも受け取ったのでしょう? 彼女の最期のメッセージを。」
 有機情報連結が解除される瞬間、涼子からの通信。


『ここから、わたしの抵抗が始まるの……』


 謎の言葉を残して、朝倉涼子は消滅した。

 



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