終わりました、ね。これで。
 でもこれで、狂った歯車が元通り回り始めるでしょう。だからいいんです。もう十分です。この一晩の記憶だけで、わたしは…。


「つくづく愚かだな、お前は」


 自分にそう言い聞かせていたわたしを現実に引き戻したのは、会長の憂いを帯びた一言でした。


「人がわざわざ道化を演じてやっているというのに。いつかの柏餅の一件のように、今日の事も冗談か何かで済ませようとしたなら、俺もそ知らぬ顔でその欺瞞に乗ってやったものを」


 はーっと、わざとらしく大きな息を吐いた会長は「せっかく立ったんだ、茶でも淹れて貰おうか」とわたしを促しました。

 

「本当は、別の物で一服したいのだがな」
「…それはご遠慮願います。わたしはこの部屋にニコチンの成分を染み込ませたくはありません」
「まったく、どこまでも融通の利かない奴だ」


 努めて冷静に受け答えようとするわたしの前で、会長は不満げな顔で胸ポケットから取り出しかけたタバコとライターを、しまい直します。
 そうして、わたしが急須から注いだ湯飲みのお茶を一口すすった会長は、湯気の向こうからいきなりズバッと話を切り出しました。


「喜緑江美理。お前、俺と鶴屋の会話を盗み聞きしていただろう」

「………っ」
「やはりな。単純な消去法だが、今日の出来事の中でお前があれほど取り乱すような要因は、他に思い当たらん」


 別に咎めるでもなく、会長は淡々とそう指摘します。その普通さが、逆にわたしの心をキリキリと締め上げました。


「お前が偽装恋人の契約を破棄したいだとか言い出したのも、それが原因か」
「はい…その通りです」
「ふん。しかし、解せんな? 俺が他の女から告白を受けたとして、契約破棄を提案するのはやはり俺の方からだろう。お前が破棄を願い出た所で、何の利得も無いはずだが。違うか?」
「それは…でも、遅かれ早かれの問題でしょう。
 鶴屋さんと交際し、いずれ血縁ともなれば、あなたの将来にとってそのメリットは計り知れないはずです。そのチャンスを無為に見過ごすなど、確率論としてあり得ません」
「俺が鶴屋と交際…? ふむ」
「それを差し置いても。詰まる所、わたしは情報端末です。あなたがた人間とは異なる、道具としての存在です。統合思念体にとって不要となれば、いつ消去されてもおかしくありません。
 わたしたちの関係はそれを前提とした、あくまで一時的なものだったはずです。ならば会長、あなたにとって相応しい人間の交際相手が現れたなら、そちらに乗り換えるのはそれこそ理の当然と思われますが」


 毅然とした態度で、わたしは会長にそう述べ連ねます。しかし会長はこれに、ハッ、と人を小馬鹿にするような笑みで応えました。


「それで正論を吐いているつもりか? 馬鹿め、俺に言わせればお前の理屈は矛盾だらけだ」

「えっ?」
「お前は、俺にチャンスを活かすべきだと言う。いつ消えるとも知れない自分より、もっと確たる人間のパートナーを得るべきだと言う。
 だがな、喜緑江美里。いつ消えるとも知れないお前が、なぜ俺の将来などを案じる必要がある?」


 口の端を吊り上げてそう問いただす会長に、わたしは明確に答える事が出来ませんでした。


「それは…」
「お前が俺と偽装恋人の契約を結んだのは、そこにある種のメリットがあったからだろう? ならば自分が消えるまでの間、そのメリットを甘受し続ければいい。消えた後の事など、気に病む必要は無い。俺ならそう考えるが?」


 わたしを見据える、会長の冷たい瞳。わたしの論理のほころびを鋭くえぐる、詮議の言葉。
 確かに以前のわたしだったら、彼の言うようなドライな考え方をしたでしょう。お互いに利用できるだけ相手を利用する、そういう関係をこそ当然と思えたでしょう。
 でも。でも、今のわたしには――


「矛盾なんて…ありません」
「なんだと?」
「わたしがあなたの将来を案ずるのは、それに足る理由があるからです」


 わたしの意識とは関係なく、わたしの唇はそんな言葉を紡いでいました。
 これ以上先を言ってしまったなら、もう後戻りは出来ないと、頭の中でけたたましいブザー音と共に赤と黄色の警告ランプが明滅しています。しかしそれでもなお、わたしの内なる衝動は収まりません。
 もしかしたら、わたしは『強欲』という原罪に取り憑かれてしまったのでしょうか。つい先程までは「この一晩の記憶だけで十分」だとか考えていたはずなのに。


 それは、例えるなら喉の渇きに似ています。喉が渇いて渇いてどうしようもない時に、氷の浮いた冷たい水のグラスを差し出されたなら。その一杯を飲み干さずには、他の事など考えられもしないでしょう。

 今のわたしも同様です。会長から目を逸らせません。伝えずにはいられません。わたしがなぜ、こうまであなたの事で心を砕いているのか、その理由を。
 そうして意を決したわたしは、静かに、まっすぐに口を開きました。




「お慕いしています、会長。心から、あなたの事を」




 ああ、と。
 ついに告白を遂げた、その直後。霧が晴れるように思考が澄み渡っていく感覚に、わたしは胸の内で納得していました。こうしてきちんと言葉にする事で、ようやく理解できたのです。
 この数日、全く理論的でない衝動でわたしを翻弄し続けた、数々のエラー。それは会長を一人の男性として好きだという、思慕の情だったのですね。


 情報端末のわたしには、理解不能だと思っていました。有機生命体の言う恋愛の概念なんて。でも、会長が見せるさりげない優しさに、どうにかして報いたいという願望。我が身よりも会長の存在確率をより優先させたくなる、奇妙な欲求。これが、人を愛するという事だったんですね――。

 穏やかな、そして満たされた誇らしい気分で、わたしは目の前の愛しい人を見つめます。ところがそんなわたしの視線の先で、会長はまた空々しく、はーっと大きな溜息を洩らし、そして吐き捨てるようにこう言ったのです。


「だから、お前は愚かだと言うのだ」


と。

「俺を愛しているから、その為に身を引く? ふん、詭弁で自分をごまかすのも程々にしておけ」
「詭弁!? そんな、違います。わたしは…」
「違わないな。
 ハッキリ言ってやろう。お前は覚えたての恋愛感情に戸惑い、怯え、もっともらしい理屈を付けて逃げ出そうとしているだけだ」


 口調こそ辛辣ですが、会長はまた、あの寂しさを湛えた眼差しで語りかけてきます。思いもかけない詰問に、しばし慄然としてしまっていたわたしも、その双眸の色に改めて向き直りました。


「わたしが臆病風に吹かれている、と…?」
「自分で思っているより、よほど気位が高いからな、お前は。『なんとか恋を成就させようとしたけれども、結局ただの徒労に終わりました』、そんな結末を恐れて、始めから勝負を投げているんじゃないのか?
 俺の将来のため? いかにも耳障りのいい響きだな。だが、そんな自己弁護のダシにされる俺の方は、いいツラの皮だ」


 容赦のない追及に、わたしには返す言葉もありませんでした。
 確かに。わたしが想いのたけを告白したのは、会長に受け入れて貰うためではありません。会長への恋慕を諦めるためです。何やかやと理由を挙げ連ねて、身を引くのが正しいのだと、自分に言い聞かせていたのも事実です。

 彼に言わせれば、それは敵前逃亡なのかもしれません。でも、だって…仕方が無いじゃないですか! 会長は人間で、わたしは人間じゃない、それは厳然たる事実なんですよ!?
 情報端末らしくもなく涙腺を張り詰めさせてしまって、でもそれを懸命に堪えるわたしの前で。会長は再び、はーっと沈痛な息を吐きました。


「三十六計逃げるにしかず、という格言もある。勝ち目が無いなら逃げるのもまた作戦の内だろう。
 だが、逃げるつもりなら最後まで想いは胸に秘めておくべきだし、逆に告白したのなら、その想いが叶うまで、とことん攻め込むべきだ。なのにお前は、わざわざ告白しておいて自ら背を向けるような真似をする。それが愚かだと俺は言ってるんだ。何より…」


 そこで一度言葉を切り、ふいと視線を逸らして、会長はぽつりとこう付け加えました。


「勝てる見込みのある勝負をむざむざと敵に譲ろうとするなど、愚かしいにも程がある」


 えっ?と、思いがけない一言に、わたしは目をしばたたかせます。わたしが投げ出そうとしていた勝負は、実は勝ち目があった? それって…まさか、会長もわたしの事を…?
 大きく見開かれた、わたしの瞳孔の中で。どこかわざとらしい渋面の会長は、噛んで含めるように語り掛けてきました。


「自分はいつ消去されてもおかしくない存在だと、お前は言ったな? だがそれを言うなら、俺とて明日、事故で死ぬとも限らない。それは他の人間もそうだし、宇宙的規模で言えばお前たちの親玉の情報統合思念体さえもが同様だ。自律進化の可能性を得られなければ、いずれ緩慢な死が訪れるだろう。
 だから、何をしても結局は無駄か? 違うな、肝要なのは己が存在する間に何を成すのか、だ」


 わたしたちの間で、はかなく揺れるアネモネの花。それを見つめながら、会長は滔々と話を続けます。


「花は、いずれ散る。だが散るまでの間に、人の心を慰める事ができる。それがこの花の存在意義だろう。
 対して、お前はどうだ。いつか自分は消えるから、だから諦めるだと? ふざけるな。自分で自分の存在を否定するくらいなら、今ここで死ね」
「う………」
「だがお前が生存を望むのなら…これまで通り、俺の隣に居ろ。たとえ統合思念体が、世界中がお前を不要だと言ったとしても――」


 そう、何者にも有無を言わせない口調で、会長は断言したのです。




「俺が、お前を必要としている」






 空白。
 わたしはただ、空白の中に居ました。


 なんでしょう、これは。これまで会長への思慕が生み出してきたエラーの中には、確かにこんな光景もありました。そのたび、わたしは顔を赤らめて身悶えたり、まったくわけの分からない馬鹿げた行動を取ったりしていたものです。
 でも実際、それが現実となると…。わたしはひたすら呆然とするばかりでした。あの、ほんの些細な会長の一言の中に、わたしの思考をオーバーフローさせる程の情報量が含まれていたというのでしょうか?

 分かりません。わたしは目を開けていながら夢を見ているような心地で、ただ頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしていました。


「でも…だって、鶴屋さんが…」
「ああ、ひとつ間違いを正しておいてやろう。一体どういうわけでお前がそんな勘違いをしでかしたのかは知らんが、俺は鶴屋から告白など受けてはいないぞ」
「ええっ!?」
「あいつは単なる代理人だ。なんでも、鶴屋のクラスメートに俺に惚れていた女生徒がいたそうだがな」


 そう、わたしと会長が一緒に下校するようになった事で、その女生徒が「この恋は諦めた方がいいのかも。でも踏ん切りが付かない」と皆に相談していたそうです。
 そこで姉御肌の鶴屋さんが「そんじゃあたしが、あの二人が本当に付き合ってるのかどうか、会長さんに直に確かめてくるっさ!」と一役買って出たのだそうで。タネを明かしてみれば何ということは無い、わたしの勝手な一人相撲だったようです。


「鶴屋としては『間違っても女の子を泣かすような真似しちゃダメにょろよっ!?』と、俺に釘を刺しておくのが目的だったようだな。ともかくその女生徒の件に関しては、俺が丁重に断る旨を伝えると『仕方ないねっ。じゃあアフターケアはこの鶴にゃんにドーンと任せとくっさ!』と胸を叩いていたが。
 まあそれでなくとも、俺と鶴屋が付き合う事などまず有り得んだろうよ」
「そう、なんですか?」
「俺が腹に一物持って生徒会長になった事くらい、あいつにはとっくにお見通しのようだからな。その上で、今はまだ知らんぷりを決め込んでいる。まったく、喰えない奴だ。
 外見こそ能天気極まりない感じだが、あれでなかなか結構したたかだぞ? 鶴屋という女はな」


 忌々しげな口振りの割に、会長はニヤニヤと面白がる風の表情を浮かべています。そういえば、いつぞやわたしに向かって「従順なだけの部下などつまらん」とうそぶいた時も、同じような表情をしていましたね。


「当然だろう、好敵手が居てこそ勝負事は盛り上がるものだと相場が決まっている。楽しみは多い方がいい」
「やはり、わたしには理解しがたいです。自分からわざわざ困難を求めるなんて。
 …まさか、わたしが必要だというのも、そういう意味合いでですか?」


 少し棘を含ませたわたしの質問に対して、会長ははぐらかすように、ふふんと鼻を鳴らしました。


「では逆に訊こう。食事は、栄養を摂るためのものか?
 違うな、それならサプリメントでも喰らっていればいい。食事は、食事という行為自体を楽しむためにこそあるのだ」


 言いながら、片肘を突いた会長は空になったお皿の端を、箸先でチンチンと叩きます。行儀が悪いですね。


「恋愛もまた、然りだろう。誰それと付き合えばどんなメリットがある、そんな事を考えている内は、単なる恋愛ごっこに過ぎん。
 恋愛とは、恋愛それ自体を楽しむ物だ。血縁や財産が恋愛に深く関わるのは事実だが、少なくとも俺はまだ、そんな物の為に自分をごまかせるほど大人になりきれてはいない。
 『機関』の仕事は仕事としてこなすがな。だが俺は基本、好きな物を好きなように喰うし、好きな奴と好きなように付き合う。俺がお前を求めるのは、そんな単純な理由だ。それでは不服か?」


 ニヒルに笑う会長の向かいで、わたしは、ああ、と内心で呻きました。
 底意地の悪い口調。挑戦的な物の考え方。愉快げに細められた瞳。いたずらな危うさを漂わせる笑顔。でもわたしと接するのに何の欺瞞も無い、この人の挙動の全てが、わたしの心を震わせます。

 そう、情報端末としての能力を畏怖するでもなく、また女性個体としての外面的要素ばかりを盲愛するのでもなく。わたしの尊厳を大切にし、喜緑江美里を喜緑江美里として扱ってくれる、だからわたしはこの人を愛してしまったのだなあ、と。そんな実感を、わたしは全身で感じていたのです。

 でも、なぜか。いいえ、だからこそでしょうか。心を吹き抜けていく薄ら寒い風に、突き動かされるようにわたしは椅子から立ち上がっていました。


「自信満々ですね。会長のそういう所、嫌いじゃありません。でも、少し楽観が過ぎるのではないですか…?」
「なに?」
「あなたは、わたしが愚かだと言いました。でもそう言う会長は、わたしが情報端末であるという事実を、真に理解しているのですか?」


 言い捨てるなり、わたしは高速詠唱でこの部屋の位相情報を改竄します。たちまち天井も壁も、周りの家具も光の泡のように弾けて消え去り、マンションの一室だったはずの場所は、虚ろな空に黄砂が舞う一面の砂漠へと変貌していました。


「うおっ!?」


 これには会長もさすがに仰天したようで、浮き足立った様子で辺りを見回します。そんな会長の、胸元に。
 変質し、鋭利な銀色の槍となった右腕の先を突きつけて。わたしは抑揚の無い声で、冷淡に告げました。


「わたしが人間じゃないというのが、どういう事なのか。教えてさし上げましょうか。その身体に――」



生徒会長の悪辣 その4へつづく


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