それから、十数分後。わたしはいつもと何も変わらない足取りで、生徒会室へ向かっていました。脳波、脈拍ともに正常。何ひとつ問題ありません。いえ、むしろ今ならまったく支障なく書記職を務められる自信があります。

 ええ、既にエラーデータの整理は付けましたもの。もはや会長と顔を突き合わせたところで、わたしの所作に差し障りが出るような事は微塵も――。


「なんだ、喜緑くんじゃないか。奇遇だな」


 瞬間、ぎくうっと胸の奥で何かが軋むのをわたしは覚えました。わたしが生徒会室のすぐ手前まで迫ったその時、廊下の反対側から姿を現したのは…なんというタイミングの悪さでしょう、生徒会長その人だったのです。

 い、いえ、これは別に運命的な巡り合わせなんかじゃないですよ。会長だって会議に間に合うように足を運んだのでしょうから、ここで鉢合わせたのも正常な可能性の範囲内です。そうに決まってます。


「今日は日直などではなかったと思ったが。何か用事でもあったのかね?」
「ええ、まあ。少しばかり想定外の事が、図書室の方で…。そう言う会長こそ、今日はずいぶん遅めのお越しじゃないですか?」
「うむ。こちらも急なヤボ用が入ってな」


 何がヤボ用ですか。さっきまで鶴屋さんと楽しそうに語らってた事くらいとっくにお見通しなんですよこの女ったらし!


「ど、どうかしたのか、喜緑くん?」

「はい? わたしはいたって普段通りですが」
「どこがだ。そんな風に口を三角にしたキミは初めて見るぞ。アヒルの真似でもあるまいに」


 眉をひそめつつ、会長はそう指摘してきました。え…? 口が、三角? わたしが、そんな表情をしている? そんな馬鹿な!?


「おいおい、しっかりしてくれたまえ。まさか、五月病に罹ったとでも言い出すつもりかね、キミが?」


 わたしが情報端末である事をご存知の会長からすれば、それは単なる軽口のようなものだったでしょう。けれどもその一言に、わたしの胸でまた、ぎくりと軋み音が鳴りました。


「五月病…環境適合不全症候群…。そう、なのかもしれません。エラーの削除さえきちんと行えないほどに、わたしは…」


 さーっと顔から血の気が引いていくのが、よく分かります。もはやわたしは情報端末として、不適格なのかもしれません。もしそうならば、いずれわたしは処分され、代わりに別の情報端末が――。


「喜緑くん? どうした、本当に病気なんじゃあるまいな?」 


 そんなわたしの青ざめた様相を勘違いしたのか、気が付くと身を屈めた会長のお顔が、すぐ目の前にありました。って、えっ? えええっ!?


 こ、これは、削除し損なったエラーデータの暴走なのでしょうか? いつの間にか会長の額が…わたしの額に、押し当てられて…。

 なんて、なんて残酷なエラーなんでしょう。わたしが会長の事を諦める決断を下したその直後に、こんな――。


「ふむ。顔は赤いが、熱は特別高いというわけでもないようだな。

 しかし眼は潤んでいるし、身体もふらついているぞ。どこか苦しい所はないのか?」


 いいえ! や、やっぱりこれは現実です! いつになく心配そうにわたしの顔を覗き込んでくる会長から、わたしは慌てて身を翻しました。


「だ、大丈夫です! わたしは何とも…」
「あいにくだが、全く大丈夫そうには見えん。とにかく、まずは保健室で先生に診て貰うべきだな。必要ならば病院への手配も…」
「大丈夫だって言ってるじゃないですかっ!」


 驚いた事に、わたしは会長をそう怒鳴りつけていました。唖然とした表情の会長に向かって、わたしはまるでわたしではないように、さらに金切り声を突きつけます。


「あ、あなたに! そんな風に気を使われたりしたら、わたしは余計に苦しくなるんですっ!
 中途半端な優しさなんて見せないでください! どうせ! どうせあなたは、わたしの事なんて…ただの………としか――」


 エラー。エラーエラーエラー。
 エラーとしか言いようのない衝動が、わたしの中でぐるぐると渦を巻いています。ああ、やっぱりわたしは壊れかけの不良品なんですね。

 もはや何もかもがどうでもよくなって、わたしはダッと、廊下を反対側に向かって駆け出しました。後ろで会長が何事か声を張り上げましたけれども、振り向く気なんて起こるはずがありません。いいんです、もうどうだって。不良品のわたしに居場所などないのです。だからもう、わたしを放っておいてください。

 これ以上、優しいフリなんてしないでください。お願いですから――。




 そういえば朝倉さんが独断専行を起こしたのは、ちょうど1年ほど前の事でしたね。
 わたしはその時、なんて愚かな事をと、そう思ったものです。せめて行動する前に、統合思念体に自分の判断の是非を問うてみるべきだったでしょうに。


 でも実際、自分が異常な状態に置かれてみると、統合思念体とコンタクトする気さえ起こらないもので。制服に学生鞄を提げたまま、行く当てのないわたしが結局いつものマンションにとぼとぼと帰ってきたのは、既にとっぷり陽が沈みきった頃でした。

 家に帰った所で、不良品のわたしに、もはややるべき事などありはしないのですけれど。ただ帰宅していた方が、わたしの処分がし易くなるでしょう。その役を担うのが長門さんなのか、それとも他の情報端末なのか、それさえ今のわたしにとっては別にどうでもいい事です。


 そうしてエレベーターを降り、自宅の扉に歩み寄ったわたしは、部屋の換気扇が回っている事に気が付きました。室内に、誰かが居るようです。合鍵を渡した相手などもちろんいませんから、おそらく長門さんか他の情報端末でしょう。さっそくわたしを処分ですか。手回しがいいですね。

 ほとんど諦めムードで、薄い笑みさえ浮かべて、わたしはドアノブを回します。そうして玄関に一歩踏み込んだ、わたしを出迎えたのは。


「遅いッ!!」


 そんな、鋭い一喝でした。


「いま何時だと思っている!? 女子高生がふらふらと出歩いていい時刻ではないぞ、この馬鹿者が!」
「は、はあ、すみません…。いえ、でもあの、それよりこちらの質問に答えて頂きたいのですが…」


 轟然と怒声を叩きつけてくるその人物に、呆然というかほぼ脱力状態のわたしは、ただそう訊ねるので精一杯でした。


「どうして、会長がわたしの家に…? しかもエプロン姿でフライパンを持って…?」
「どうしてもこうしてもあるものか。料理をするのに、エプロンとフライパンが必要なのは理の当然だろうが」
「いえ、ですからそうではなくて。なぜ会長がわたしの家で料理を…」
「何にせよ、玄関先で長話でもあるまい。まずは上がって食卓に着け。話はそれからだ」


 あご先をくいっとリビングの方へ向けて、会長はわたしをそう促します。激しく今さらですが、どうしてあなたはそんなに居丈高なんですか。ここはわたしの家のはずですよね?
 あー、もういいです。逆らう気も起こりません。言われるままにわたしがテーブルへ着くと、会長はキッチンから、絞った布巾を放って寄こしました。


「いま料理を温め直しているから、お前はテーブルを拭いておけ。まったく、こういうのは出来たてが一番美味いというのに…」


 眼鏡と一緒に優等生のペルソナも外してしまっている会長は、何やら呆れ顔で文句をこぼしています。が、あなたの横暴に文句を言いたいのはこちらの方です。
 そう言いかけて、わたしはようやくその時、テーブルの上の細い花瓶に活けられた、白と淡いピンクの花に気が付きました。


 これは…アネモネ、ですか。もちろん会長が持ち込んだ物ですよね。ひょっとして、会長はいまだにわたしが病気か何かで調子が悪いのだと勘違いしていて…勝手に料理を作ったりしているのも、彼なりのお見舞いのつもりなのでしょうか。
 やれやれ、ですね。わたしの動作不良の最大の原因は会長、あなただというのに。のん気なものです。わたしは人差し指の先で花弁が幾つも重なりあった小さな花を撫ぜ、ふぅと溜息を吐きました。
 でも、なぜでしょう。こうしていると先程まで自暴自棄になっていた心が、不思議と落ち着いていきます。


「本当に、傲慢な人…。そのくせ華美になり過ぎないように、2輪だけ花を飾るなんて。そういう節度はわきまえてるんですよね…」


 やがて、わたしが片付けたテーブルの上に、会長の作った料理が次々と運ばれてきました。醤油の焦げた匂いも香ばしい、肉と野菜たっぷりの焼うどん。ゆで卵やきゅうりとマヨネーズを和えたポテトサラダ。卵とワカメのかき玉スープ。
 ふうん、割とちゃんとした料理ですね。野菜の切り方などはさすがに男の人っぽいというか、ざっくばらんな感じですけど。
 さあ喰えそれ喰え、と言わんばかりに眼を光らせている会長に少々閉口しながらも、いただきますと両手を合わせたわたしは、まず焼うどんにお箸を付けました。


「あ…普通に美味しいです」
「なんだ、普通とは。失敬だな」
「いちいち突っかからないでください。別に悪い意味じゃなくて、もっとこう酷い味なんじゃないかと身構えてたものですから。意外に手馴れてらっしゃるんですね」
「………ふん」


 わたしの言葉に、テーブルを挟んだ向かいに腰を降ろした会長は、妙に不機嫌そうに食事を始めます。どうして男の人というのは、家事関連の手際を褒められても素直に喜べないのでしょうね。とても不思議です。
 まあ、そういう所を何故か『かわいい』と思ってしまう自分も、不思議と言えば不思議ですけれど。くすっと笑えるほど平静さを取り戻したわたしは、食事を続けながら穏やかに会長に訊ねかけました。


「会長、あなたをここに招き入れたのは…長門さんですね?」
「ああ、そうだ」




 やっぱり。他の可能性は、ほぼ考えられませんもの。鷹揚に頷いた会長が、それから語ってくれた所によると。

 あの後、会長はわたしが“急病で会議に出席できなくなった”旨を生徒会の面々に告げ、必要事項だけを連絡して解散(元々、定例会議だったので急ぎの案件等は無かったそうです)。すぐにわたしと連絡を取ろうとしましたが、携帯もつながらないので古泉一樹経由で長門さんに協力を要請。SOS団の活動後にマンション前で合流して、二人でこの部屋を訪れたそうですが…。


「結局、ここも無人だったのでな。諦めてよそを探そうかと考えていたら、長門くんが先に部屋を出て行った。
 俺もその後に続こうとしたのだが、何故か玄関の扉が開かない。鍵はもちろん掛かっていないにも関わらず、だ」


 億劫そうに、会長は肩をすくめてみせました。それが長門さんの施した情報封鎖だと、知識としては分かっても、この人には何ら対応策がなかったのでしょう。


「で、図らずも閉じ込められてしまった俺は特にやるべき事もなく、冷蔵庫の中のありあわせの材料で適当に料理なんぞして時間を潰していた、という訳だ」


 いい迷惑だと書いてあるかのような表情で、会長は一通りの説明を締めくくりました。なるほど、望むと望まざるとに関わらず、会長はこの部屋でわたしの帰りを待つ他なかったのですね。これが長門さんの言っていた『協力』の仕方なのだとしたら、余計なお世話だと言わざるを得ません。困ったものです。

 でもこうして会長とひとつ食卓を囲み、もう一度落ち着いて話し合う機会を得られたのが、彼女の配慮のおかげだというのも確かですし。一応、感謝はしておきましょうか。ありがとう、長門さ――。


「まったく、こんな面倒はもう勘弁して貰うぞ? 無理なダイエットで余計なストレスを溜め込むなど、愚かしいにも程がある」
「はい、すみませ…って、ダイエット!? 何ですかそれは!」


 一瞬、素直に謝りかけたわたしは、次の刹那には情報端末らしくもなく、大声で会長を問いただしていました。


「違うのか?」
「ガセのデマに決まってるじゃないですか、そんなの!」
「ふむ。それが一番可能性が高いと、長門くんは実にもっともらしく俺に忠告してきたがな。そのせいでキミが怒りっぽくなっているから、注意するようにと。それに――」


 むかむかむかむか。先程まで長門さんに捧げられていた感謝の思いが、あっという間にドス黒く塗り潰されていきます。えーい、何の嫌がらせですかこれはッ!


「第一、わたしにダイエットが必要だと本気でお考えなんですか会長は!? 事と次第によってはタダじゃ済みませんよ!」


 虚偽情報を信じ込まれてはたまらないと、わたしはいつになく凄みを利かせて、会長に迫りました。

 ところが。
 会長は怯える事もなく、わたしの眼をまっすぐに見返してきたのです。わたしの心をぞくりと震わせる、あの冷たい瞳で。


「――それに。
 ここ数日、お前の挙動がおかしかったのは事実だろう」


 うくっ、気付かれてたんですか。わたしが会長の事を意識しすぎて、態度がぎこちなくなっていた事に。

 悔しいです。悔しいですけどでも、なんだかんだで会長はちゃんとわたしの事を見てくれているんですね…。
 それに、この料理。よくよく考えてみれば、口当たりが良くて栄養価の高そうな物ばかりです。会長本人は、『他にやる事がなかったから』『ありあわせの材料で』『適当に料理してみた』と言っていましたが、もしかしてこれはわたしの身体の事を思って作られた…?


 目を伏せたわたしは、今日何度目かの溜息を洩らします。そうしてわたしは空になったお皿の上に、静かにお箸を置きました。


「ごちそうさまでした。
 時に、会長。折り入ってお話があります」

「何だ、かしこまって」
「…わたしと会長が一緒に下校するようになったのは、煩わしい恋愛事を避けるための便宜的な措置、でしたよね」


 感情を殺し、淡々とした口調で、わたしは会長に呼びかけていきます。


「ですが、もう引き際が来たようです。わたしたちは偽装恋人の契約を破棄し、元の関係に戻るべきだと思われます。
 勝手ばかりを言って、申し訳ありませんが」


 そう、席を立って丁寧に頭を下げたわたしは、会長にハッキリと告げました。


「今日までわたしの演技にお付き合い頂き、ありがとうございました」



生徒会長の悪辣 その3へつづく


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