長門有希の憂鬱Ⅰ
四 章



長門有希の日記



こちらの世界へ来て二年が過ぎた。

情報統合思念体からの連絡はない。支援もない。誰も助けに来ない。

このまま時が過ぎれば、わたしの有機サイクルはいつか性能の限界に達し寿命を遂げる。
それまで、色がない世界でわたしの思考回路は物理的に機能するだろう。

それならばわたしはいっそ、目を閉じ、耳を塞ぎ、口をつぐんだ生命体として生きようと思う。

わたしは長期の待機モードを起動させた。

果たして奇蹟は起きるのだろうか。



タクシーの運転手に住所を棒読みで伝えると、十分くらいでそのアパートの前に着いた。

二階建ての二階、二〇五号室……。郵便受けにもドアにも表札らしきものはなかった。
呼び鈴を押した。こんなにドキドキするのは久しぶりだ。
赤の他人だったらなんとごまかすか、新聞の勧誘にするか、布団の販売にでもするか。

反応がない。もう一度呼び鈴を押した。やっぱり違うんじゃないか?。

それから郵便受けに戻り、周りに誰もいないことを確かめてからフタを開けた。
テレクラやらヘルスやらのチラシが詰まっているだけで、宛名を書いた郵便物は入ってなかった。

三度ノックして反応がないので俺はドアの前に座り込んだ。尻にあたった床のセメントが冷たい。
ここにいるのが長門でなければ、俺はこれからどうしよう……。
そんな先のことを考える気力はもう残っていなかった。

谷川氏の家にやっかいになりつづけるわけにもいかないよな。
長期戦になるかもしれない。とりえあずバイト探して、アパートでも借りるか。
向こうの世界はよかった。なんだかんだいって俺はあの生活が気に入っていた。
ハルヒはどうしているだろう。古泉は。俺がこのまま帰らなかったら向こうの世界はどうなるんだろうか。

もう日はとっくに暮れていた。



俺は長門のマンションにいた。長門が荷造りしていた。

どこかへ引っ越すのかと尋ねると、情報統合思念体のところに帰る、と答えた。

おい待てよ、俺を、ハルヒを置いていくのか。長門の腕を握った。

「自分が来たところに帰る」
「待ってくれ。いきなり帰るなんて言わないでくれ。お前がいなかったらSOS団はどうなるんだ。俺は!?」

長門はそれ以上何も言わなかった。そして一冊の本をくれた。

それからおもむろに和室に入ると、ふすまを閉めた。

俺がふすまを開けると、そこにはもう長門はいなかった。

俺の手にはエンディミオンがあった。



長門はさよならも言わずに消えた。



そこで、目がさめた。
見上げると、暗い藍色の空から雪が降っていた。
あたりはシンと静かで、すべての雑音を消してしまいそうな白いカケラが舞い降りてくる。

誰かが階段を上がってくる足音がした。怪しまれてはまずいとは思ったが隠れる場所もない。
このまま寝たフリをするか、あるいは立ち上がって今しがた尋ねてきたフリをするか。
階段を上り詰めた足音がはたと止まった。俺は立ち上がってそっちを見た。

「キョ……」
長門だ。やっと見つけたのだ。

俺はなにも言わず、長門もなにも言わなかった。
下げていた買い物袋を床に落とし、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
なにかを言いたげな複雑な表情をして、俺の背中に細い腕をまわし、そして胸に顔をうずめた。
いつもの長門らしくない衝動に、俺は少しだけ動揺した。胸に暖かく濡れたものを感じた。

長門の髪に、綿を連ねるようにゆっくりと雪の切片が舞い降りた。

「長門……泣いてるのか」
「……」長門は顔をすりつけたまま動かなかった。
「あちこち探したぜ」

長門よ、お前もずいぶんと人間くさくなっちまって、俺は嬉しいよ。
俺と知り合った頃は無表情で無感情だった宇宙人製アンドロイドも、SOS団の連中と付き合ううちに、
人間特有の性質が身についてしまった。本人は気がついてないかもしれないが、俺はずっと観察していた。

情報統合思念体から見れば有機生命体の人間なんて、
ネズミとドングリの背比べ的な知性の低さを見て取っているかもしれないが、
人間それだけじゃないものもある。だからこそ稀有な存在なのだろう。
宇宙的にユニークと言った、長門よ、お前もそうなりつつあるんだよ。

「寒いから部屋に入れてくれないかな」
俺はかじかんだ手で長門の背中をさすった。
「……」
長門は手のひらで涙をぬぐって、表情を見せないようにそっぽを向いた。

ドアを開けると、六畳ひと間の、古びたアパートの部屋につつましい生活空間があった。
マンションに住んでた頃も元々モノ持ちなほうではなかったが、家具はほとんどなかった。
ぎっしり詰まった本棚を除いて。

それから俺は、長門がこっちの世界に来てからどう過ごしていたかを聞いた。

「わたしがこちらの世界に来たのは、約五年前。
 ここでは情報統合思念体が存在しない。涼宮ハルヒという人間も存在しない。
 そのためにわたしは長期の待機モードに入った」
いわば宇宙探査船が未知の星に漂着し、資源を節約するため乗組員が低温スリープに入るようなものか。

「身よりもなくてどうやって食ってたんだ?」
「……パチンコ」
パチンコ!?生活力あるなお前。
「この付近一帯で採用されているパチンコ台はすべてクリアした。スロットの目押しも習得した」
目押しって神業だぞ。
財布の残りをいつも心配していた俺より、ずっとたくましいよ。

「毎日、本を読んで過ごした」
俺は改めて部屋を見回した。
相変わらず本が好きなようだ。部屋の壁が本棚で埋め尽くされている。

「あの文庫本を書いた作家に会ってみたよ。事情を話すと協力してくれてな、ここまで来れたんだ」
「谷川流には前に接触を試みた。だがコスプレと思われて門前払いされてしまった」
なんてこった。谷川氏が言ったとおりだったか。
「それ以降、谷川流に接触する人間を監視していた。二年が経過した時点であなたは現れないと判断した」

「向こうの世界とこっちの世界の違いは何だ?接点は谷川氏だけなのか」
「限定された情報から推測すると、この世界はわたしたちがいる世界の平行世界。
 ただし、わたしたちは谷川流の脳内にだけ存在する」
「それがこっちの世界の俺たちか」
「そう」

「そうか……俺もよく分からないんだが、なんでお前だけ五年前に飛ばされたんだ?」
「情報が限定されすぎていて分からない。
 でも、位相変換がはじまったとき、わたしが無理に止めようとしたために時間軸が狂った可能性はある」

「古泉も言ってたんだが、敵対する組織とかいうやつらの罠じゃないか」
「その可能性もある。危険を回避するために、この時空でのわたし自身のアイデンテティを消した」
要するに身元を消したってことか。
「こちらの世界では、長門有希は創作上の人物でしかない。それをノイズとしてうまく身を隠すことができた」
なるほど。どおりでなかなか探し出せなかったわけだ。

俺はとりあえず谷川氏に電話することにした。
「もしもし谷川さんですか、キョンです。長門を見つけました。ええ、無事です」
谷川氏は驚嘆していた。まさか自分の作中の人物が実在するとは、聞かされていたとはいえ衝撃だろう。
「ええと、今日はここに──」マイクを押さえて長門に向き直った。「今日ここに泊めてもらっていいか?」
「……いい」
「ここに泊まります。じゃあ、明日伺います」
俺は電話を切った。長門は心なしか喜んでいるようではあるが。

「これからどうする。向こうの世界に帰る方法はあるか?」
「分からない」
忘れていたことがあった。
「これ、喜緑さんから預かったんだが」俺はバックパックから、例の黒い球を取り出した。
「……」長門は目を丸くした。
「渡せば分かると言っていたが、これはいったい何なんだ?」
「これは……空間を封じ込める技術」
「すまん、なんだって?」
「空間がこの球の内側に折りたたまれている。位相変換せずに次元を超えて物質を転送したいときに使う」
それで喜緑さんか。
「何が入ってるんだ?」
「素粒子がひとつだけ」
「素粒子って、宇宙を飛んでる、原子より小さいアレか。たったひとつだけ?」
「そう。この状態を維持するには莫大なエネルギーが必要。この大きさでは素粒子一個が限度」
「これを何に使うんだ?」
「おそらく緊急通信用。素粒子は通常、粒子と反粒子のペアになっている。
 片方の素粒子に与えた情報は他方に伝わる。このペアのもうひとつは、情報統合思念体が観測しているはず」
つまり、異次元間での通信用か。
「ただし、一度しか使えない。この素粒子が情報を持って向こうの素粒子に遭遇すると消滅してしまう」
「助けを求めるチャンスは一度きりってことか」
「そう」
数年分の物理の授業を受けたような気分だ。とりあえずは帰る切符はあるということか。



気が付けば腹の虫が鳴いていた。
「もうこんな時間か、腹減ったな。どこかに食べに行くか?」
「……晩ご飯、作る」
そう言って、さっきの買い物袋を広げた。冷蔵庫を開けると材料はあるようだ。

長門の手料理は久しぶりだ。
いつだったか朝比奈さんと三人で食べたのは缶カレーの大盛りだったか。

味噌汁に魚の塩焼きに、肉じゃが、か。見る限り、あれから料理も習得したらしい。
「……おいしい?」
「うん。うまい。いい嫁さんになれそうだ」
ふつうならここで女の子がポッとか顔を赤らめてくれそうなんだが、長門には通じない。もくもくと食っている。

長門はふとなにかを思い出したように箸を止めた。
「この世界にひとつ、謎がある……」
「なんだ?」
「わたしが誰かの配偶者だという情報を多く見かけた」
「そうなのか」
「“長門は俺の嫁”って、何」
「なんだそりゃ」
「コンピュータネットワーク上でよく見かける」
「さあ、なんだろう。初耳だが。だとするとお前の旦那は大勢いるってことだな」
「……」
長門は無言のまま複雑な表情で食い続けた。



「水が沸いた。水温40℃」
「ああ、風呂か。今日はほこりだらけだからな。ありがたい」
浴室を見ると、石鹸やらシャンプーやらナイロンタワシやらが一切ない。
「お前はふだん風呂に入らないのか?」
「わたしにはナノマシンによる自浄機能がある。通常、風呂は必要ない。
 ……それにレディにそんな質問をしてはいけない」
「そ、そうか、禁則事項だよな。すまん」野暮なことを聞いた。
「コンビニで入浴セットを買ってくる。歯ブラシも」
俺はどうも、長門の人間っぽい面とそうでない面のギャップについていけてないようだ。

この後がちょっと問題だった。
「布団が一組しかない」
「じゃあ俺は毛布かなんかあればそれでいいよ」
「……風邪を引きかねない。一緒に寝ればいい」
「それはいくらなんでも困るぞ」
「なぜ」
いやまあ、なんというか。俺もいちおう男だし、健康な男子だし、
というか長門とひとつの布団で寝るというシチュエーションが嫌だというわけじゃないが、
長門とあらぬ関係にでもなったら情報統合思念体に殺されかねんわけで、
ハルヒに知られたら三度殺されて三度蘇生されて三度埋められるだけじゃ済まない。

などと俺がブツブツ言っている横で、長門は押入れから布団を出して広げた。

ともあれもう十二時だ。昼間の疲れと、やっと会えた安堵も手伝ってか、睡魔が襲ってきてどうしようもない。
俺は迷いつつ布団に潜り込んだ。長門に背を向けて。
長門は蛍光灯のスイッチを引いて、音を立てずにそっと布団に入ってきた。

目をつぶること三十分。あれほど眠かったはずが待てど暮らせど眠れない。頭の後ろに長門の視線を感じる。
朝比奈さんが長門のマンションに泊まったとき、
寝てるときに長門に見られてる感じがして落ち着かない、と言っていたのを思い出した。

「長門よ」
「……なに」
「頼むから眠ってくれ。見つめられてると落ち着かん」
「……分かった」
長門が孤独に暮らした五年間を思えば、それくらい我慢してやれという誰かの声がした。
妥協案として長門のほうに向き直り、手を握ってやった。

そこからの記憶はなく、泥のように眠った。夢は見なかった。



「起きて」
長門の声で目を覚ました。昨日までの出来事が夢ではないことを確認するために周りを見回した。
「ああ」それからちゃんとズボンを履いたままであることを確認して安心した。かなり寝苦しかったはずだが。
「おはよう。今何時だ?」ちゃぶ台の上に朝飯が用意されている。
「八時二十四分十五秒」
「今日の予定は、とりあえず谷川氏に連絡してどうやって向こうに帰るかを話し合うことだな」
「朝ご飯、食べて」
「お、おう」
なんだか昭和四十年代の歌謡曲に出てきそうな風景だが、ひとつだけ言わせてもらえば、長門の味噌汁はうまい。
「長門」
「なに」
「ボクの髪が肩まで伸びたら、元の世界に帰ろう」
「……分かった」
そこ、笑うとこ。



俺は長門を連れて谷川氏のお屋敷に行った。
おばあちゃんが出迎えてくれた。
「めっさかわいいお嬢ちゃんじゃないかねっ。寒かったろう。さあさあ、おあがり」
「……」誰かの面影があることに長門も気が付いたようだ。
座敷に通された。

「谷川さん、長門を連れてきました」
「はじめまして谷川です」谷川氏は少し照れたような、感激したような微妙な表情を浮かべた。
「……長門有希」長門は少しだけ頭を下げた。
二人とも無言だった。どうも空気が固まっている。

「ええと、長門がこっちに来たのは五年前で、存在を知って一度は谷川さんに会おうとしたらしいです」
「ああ、やっぱりそうなのか」
「……あのときは制服を着ていた」
今日は珍しくタートルネックの黒のセーターを着ているが、それでか。

「それで、俺たちがどうやって向こうに帰るか、なんですが」
「そう、それが問題だね」
「いちおう、向こうの世界と連絡は取れるらしいんです」
俺はバックパックから、例の黒い玉を取り出して見せた。
「これは?……重いね。何かなこれ」
「向こうの世界の素粒子が入ってるらしいんです」
「ほう……そんなことができるんだ?」
「向こうの情報統合思念体が俺に託したんです。連絡用らしいですが」
長門が人差し指を立てた。
「連絡は……一度」
「ニュートリノと反ニュートリノが遭遇するとき、向こうに情報が伝わるってわけだね」
さすがSF作家だ。

「連絡はつくとして、どうやって向こうに帰る?物理的な転移が必要だろうけど」
長門は谷川氏に向き直り、
「あなたが小説を書けば、そのとおりになる」と言った。
「僕が?」
「わたしと彼は、あなたの書いたストーリーの上を歩いてきた。
 帰るための手段も、それに従う」
「ええと、じゃあきみたちを元の世界に返す方法を僕が決めればいいわけか」
「……そう」
「これからの展開の中にそれを含めて出版されればいいわけだね」
「そう。ただし十三巻には時空の歪みが内包されている。
 向こうの世界からこちらの世界への接触はできないように書き直してほしい」長門が答えた。

こちらの世界の情報は、わたしたちがいた世界に漏れてはならない、
情報は一方通行でなければならない、長門はそう言った。
「分かった。今回の現象も含めてプロットとして書いておこう。で、きみたちは同じ手順で向こうに戻る」
「同じ手順と言うと?」
「その地上絵をもう一度登場させて、向こうの世界への扉が開く」

長門がちょっと考え込んで言った。
「その場合、扉は、向こうから開かなくてはならない。情報統合思念体の支援が必要」
「どうやって支援を頼むんだ?」俺が聞く。
「この素粒子球で座標を伝える」長門が黒い球を指した。
「そうだ。これはそのために用意されたんだね」谷川氏がうなずいた。

パズルのピースがすべてはまった。決行は、今夜だ。

「あの、ひとつだけお願いが。できれば今後、ハルヒにはあまり無茶をさせないでください」
「分かったよ。ほどほどにする。ただし読者を満足させられる程度には」谷川氏は笑った。
近頃の読者は、登場人物の血を見ないと満足しないから怖い。



「鉛筆……買って」
「何にするんだ?」
「信号を送るのに必要な材料」
「鉛筆でいいのか」
「地上絵の信号を素粒子球を通じて送る。
 それには広い場所と光を放つ発火性の物質が必要」
広い場所は北高グラウンドでいいだろう。東中は一度やってるんで怪しまれるとまずい。
「発火性の物質って、花火みたいなもんか?」
「そう。大量の水と空気。鉛筆を二十キロ。それらから核融合する」
「二十キロ分か」核融合って……そんな簡単にできるのか。

空気はそのへんにあるとして、水はプールのたまり水を使おう。
この時期はだいぶ汚れてるだろうが。

導火線変わりに使うという灯油を二缶、谷川氏に頼んだ。

ええと鉛筆一本が十グラムくらいか。とすると二千本必要だな。十二で割ると……。
「鉛筆は百六十六ダース必要」考えていると先に言われた。
文房具店をいくつかハシゴしないといけないな。

俺と長門は、とりあえず北口駅まで買出しに出かけることにした。

百貨店のテナントで半分の量の鉛筆、さらに別の専門店で残りを調達した。
突然の大量購入は断られるかと思ったが、店員は喜んでいたようだ。
鉛筆を大人買いしたのははじめてだ。
俺は段ボール箱いっぱいの鉛筆を抱え、汗を垂らしながら歩いた。

帰りの道すがら、長門がふと足を止めた。
「……行きたいところが、ある」
「どこに?」
「……」南西の方を指した。

長門は黙って歩き始めた。

この方角は……、勘は当たっていた。図書館だった。
中に入ると暖かい空気が二人を包んだ。
紙とインクの匂いと、それから何か分からない安心させるこの雰囲気は、どこの世界でも同じかもしれない。

そういや、受付のお姉さんに頼みごとをしたままだったな。
俺はカウンターまで行って、長門を指して無事会えたので、と伝えた。
お姉さんは俺と長門を交互に見つめ、微笑んでいた。

「あなたの学生手帳、貸して」
「いいけど、何するんだ?」
長門は黙ってなにかの書類に記入し始めた。それをカウンターに持っていって、数分して戻ってきた。

「これ……記念に」長門の差し出した手に貸し出しカードがあった。
「ああ、ありがとう」
二年前、同じことを長門にしてやったな。そのお礼か。
何の記念だか分からないが、とりあえず受け取っておいた。たぶんもう、借りに来ることはあるまい。

それから長門は、あのときと同じように本棚の群れの間をさまよっていた。
俺も同じことをするか。空いてるシートに腰掛けて居眠りを決め込んだ。



夜九時、俺たち三人は十分に暗闇が降りてから行動を開始した。
車で学校の前を通り過ぎ、離れた空き地に止めた。
俺は大量の鉛筆を抱え、谷川氏は両手に灯油のタンクを抱えていた。
あきらかにタンクのほうが重いので変わりましょうかと言ったのだが、谷川氏はたまには運動しないとねと言って譲らなかった。

タンクを抱えての柵越えはちょっと大変だった。
正門から忍び込むと明らかにあやしい集団に見えるので、西側まで回って入り込んだ。まあどこから入っても十分あやしいんだが。
タンクはグラウンドに置いておき、先にプールへ向かった。懐中電灯で照らすと、水はあるようだ。

「鉛筆を入れて」長門が言った。
俺は箱を崩しながら鉛筆をバシャバシャ放り込んだ。長門は箱もいっしょに放り込んだ。
「紙もいいのか?」
「いい。必要なのは、炭素」
そういえば鉛筆の芯は炭素の同位体だったな。

それから長門はおもむろに右手をかざし、詠唱をはじめた。次の瞬間、プールの真中を軸に凄まじい旋風が起こった。
水が十メートルほど立ち上がったかと思うと、竜巻になり、そして黒い粉のような塊となって落ちてきた。

「ちょ…ちょっと口の中が……」その場にいた俺と谷川氏が、声を枯らしてのどと目を押さえた。
「……す、すまない。うかつ」
長門はあわてて二人をひっぱり、プールから離れた。
「周辺の水まで奪ってしまった。すまない」俺の水分が材料になったってわけか。
長門は学校の外へ走り去ってゆき、缶のお茶を二本持って戻ってきた。
「あー、コンタクトレンズがパリパリ言ってるよ」谷川氏が目をこすった。
「……もうしわけない」
「プールでなにを作っていたの?」
「炭、硫黄、マグネシウム、銅、その他可燃性の金属。そしてそれらの混合物」
「つまり、花火の材料か」
「……そう」
中世に行って錬金術師にでもなれるんじゃないか。

プールに戻ってみると、水と同じ体積の、灰色の粉らしきものが出来ていた。
「これ、どうやって運ぶんだ?」
「……任せて」
長門はもう一度右手を上げて、「今度は、大丈夫」と言ってから呪文を唱えた。

プールを埋め尽くしていた粉が、さっきと同じくらいの高さに立ち上がって球になり、少しずつ小さくなっていった。
最後はソフトボールくらいの球になった。

長門は空になったプールの底に下りていって、その球を拾い上げた。
「分子圧縮した」簡単に言ってるけど、すごいよ長門さん。

それから三人はグラウンドに行った。幾何学と測量の出る幕だ。

まず俺が巨大な正方形の頂点に二メートルくらいの棒を立てる。
暗くて分からないので、棒の先にペンライトを巻きつけた。

まず点を結んで線を引き、正方形を作る。
その頂点に対角線を二本引き、真中を割り出したところで上下左右の辺に垂線を引く。
これで内側に正方形が四つ現れる。

さらにその正方形の内側に正方形を作り、それを繰り返して碁盤状の正方形が出来上がった。

地上絵は、大きく二つの部分に分けることができる。
隣に同じ大きさの正方形をもうひとつ描いた。これで二つの絵が描ける。
あとは長門の指示で各マスの辺に点を置いてゆき、それを繋いでいくと絵が仕上がる。

これ、GPS使ったらもっと簡単にいきそうなんだが。



線に沿って灯油をちょろちょろと撒いた。これが導火線になる。
その上に長門がさっき作った球を持って火薬のウネを作った。
球から延々灰色の粉が流れ出て、長い山になっていった。
球はちょうど文字の最後の部分で消えた。

「警備会社の巡回まであんまり時間がない。急ごう」谷川氏が言った。
「わたしが素粒子球を上空千メートルまで投げる。合図をしたら、火を付けて」
「分かった」俺は手にもった松明に火をつけた。

「そろそろはじめますか」
「今のうちにお別れを言っとくよ。また会おう。作中でね」谷川氏が手を差し出した。
「いろいろとありがとうございました」俺は手を握って振った。
何度お礼を言っても足りない。この人がいなかったらずっとホームレスを続けていたかもしれない。

犀は投げられた。すべての準備が整った。
「谷川さん、カウントしてください」
「いくよ」

三、二、一、GO!

長門の手から勢いよく球が飛んでいく。
「今」
俺は地面に火を放った。まばゆい火柱が足元を走った。

青白く、さらに緑に、そして赤く燃える地上絵がグラウンドに浮かび上がる。
三秒、四秒、五秒……。見えはしないが黒い球が落ちてきているはずだ。
まだか、まだなにも起きない。
「特異点が発生した。向こうの次元が開いた」
長門が上を指差した。上空、百メートル付近だろうか、白い光の球が生まれた。
それが徐々に膨らみはじめ、そして落ちてくる。
長門は強引に俺の手をひいて、地上絵のまんなかに走った。球がちょうど真上から落ちてくる。
白い光はさらに膨らんで、直径三メートルほどにまでなっただろうか。
球が俺たちの上に落ちてきた。二人は球の中へ入った。
「目を閉じて!」長門が叫んだ。まぶたを閉じても強い光が目に飛び込んでくる。
強い地響きのような振動がまわりを包んだ。
俺と長門は互いに強く抱きしめ合い、光の中で、一瞬よりは長い永遠の間、じっと待った。

光が徐々に引いていく。目を開けて後ろを振り返ると、うっすらと消えていく谷川氏が親指を立てていた。

── アスタラビスタ。



気が付くと、いつもの風景の中にいた。夜の北高のグラウンド。
前には同じ景色の中を神人に追われてハルヒと走った。
俺と長門はどちらとも、しばらくなにも言わなかった。
抱き合ったままだということを思い出して、俺は長門から腕をほどいた。

「俺たち、ちゃんと帰ってきたのかな?」
「こっちの標準時と同期した。今、情報統合思念体と話している。五年分のレポートをアップロード中」
「そうか。長門は無事に取り戻したからと言っといてくれ」
こういう場合の気分だ、少しはヒーローを気取ってみたい。
「伝える」

俺も自分の組織である家に帰ろう。というか、古泉に連絡を入れないとな。
あいつが思い余ってハルヒにすべてをぶちまけてしまう前に。
「古泉か、今帰ってきた。長門も無事だ」
携帯が通じる。どうやら帰ってきたようだ。俺の自宅にいるという未来の俺と遭遇しないように手配を頼んだ。

「マンションまで送っていくよ」
「……」この無言は俺の知る長門の表現では、ありがとうという意味。
俺は夢でも見ているかのように、終始ぼんやりとしたまま坂を下った。疲れてるんだろう。
見知らぬ世界へ行って、そして今帰ってきたという現実に、まだピンと来ていない。

マンションに差し掛かると長門が口を開いた。
「お茶、飲む?」
「さすがにちょっと疲れたから、今日は帰るわ。それに俺を待たせてるし」
何言ってんだろ俺、みたいな気がしたが長門には通じたようだ。
「……そう」
「じゃあ、またな」俺は元気なく手を振った。
長門はいつまでも俺を見ていた。

振り返るたびに小さくなっていく長門に向かって俺は、大丈夫だ、明日も会えるから、と手を振った。



わずか数日留守にしただけだったが、翌朝の俺はずいぶん懐かしい気持ちで学校へ行った。
ハルヒも、クラスメイト全員も、なにも変わっていなかった。
「懐かしいな、谷口」
「なに言ってんだお前、昨日いたじゃねえか」谷口が怪訝な顔をしていた。
昨日か、そんな遠い未来のことは知らん。

「キョン、おっはよ」さらに懐かしい声がした。
「お、おう」
俺はハルヒの顔をまじまじと見つめた。
「な、なによ。あたしの顔になんかついてるの?」
「いや、なんでもない」
やっぱりこいつがいないと俺の生活ははじまらない。
俺の居場所は架空なんかじゃない、嫌になるほどリアルなSOS団が存在する、こっちの世界だ。

俺は壁にかかっているカレンダーを見た。
長門がこっちの世界から消えて七日間、俺がこっちを出て四日間、俺の主観時間と一致する。

昨夜、古泉に電話して未来の俺を呼び出してもらい、古泉の家に引き取ってもらった。
未来の朝比奈さんとはまだコンタクトできないらしい。
ということは俺は古泉の家に数日泊まることになるわけか。
あいつの哲学やら能書きやらに何日も付き合うはめになるのかと思うと、今から気持ちが萎える。

耐え切れなくなったら長門のマンションにでも泊めてもらうとするか。

放課後、ひさしぶりの部活である。
俺の学業生活は放課後がメインなんじゃないかと思うくらい、この時間が来ると気分が開放的になる。

「あたし掃除当番だから。先行ってて」
我が団長様は教室の掃除か。ご苦労さま。

俺がいない間も、たぶんなにも変わらない日常が続いていたんだろうな。
こんな平穏な毎日が続けばいい、そう思う。

文芸部部室のドアノブに手をかけたところで、誰かが俺のベルトを引っ張る。
「……話がある」
長門、用があるときは袖を引いてくれと。それから、突然現れるのは心臓に悪いから。

「で、話ってなんだ?」
「情報統合思念体が、向こうの世界に関する記憶を消したほうがいいと言っている。
 平行世界との論理的逆説を招きかねない」
「そうなのか……俺はできれば忘れたくないんだが」
あのとき、谷川氏が別れ際に見せた笑顔が忘れられない。

「俺の記憶が消えてもお前は覚えているのか」
「わたしの記憶からも消去される。以降、あの本と谷川流に関する情報は禁則事項となる」
「それはなんだか寂しいよな」
「情報統合思念体のアーカイブには保管される。必要なときに封印が解かれる」
「長門を見つけ出したときの、あの瞬間は忘れたくないんだが」
長門はちょっとだけ考えて、
「希望するなら、そのままでもかまわない。でも、言葉にしようとすると抑制がかかる」と言った。
「分かった。未来人の禁則事項と同じだな」

「古泉一樹と朝比奈みくるの記憶は消去する」
「しょうがない。やってくれ」
「……あなたは外にいて」長門はドアを開けて中に入った。

「な、長門さんなにするんですかぁ!?」
「長門さん、それはあまりに大胆すぎます!うわああ」
部屋の中から、椅子がひっくり返る音、それからキャーともギャーともつかない叫び声が上がった。
な、中で何が起こってるんだ?
ハラハラドキドキして楽しんでいると、しんと静まり返った。

おもむろにドアが開いて、いつもより涼しい顔をした長門が出てきた。「……終わった」
「あなたの番」
「き、禁則事項ってどうやるんだ?」まさか脳を切開して取り出したりしねーだろうな。
「……こう」
長門は両手で俺の頭を抱えて「少しかがんで」と言った。俺は言われるままに頭を長門の顔に近づけた。

やわらかく暖かい唇を額に感じた。

── あなたの中にわたしの記憶があれば、それでいい。

長門、その言葉、忘れないよ。



「もう!有希ったら一週間もどこ行ってたのよ!心配したじゃないの」
ハルヒが珍しく半ベソをかいている。長門の首に巻きついて離れない。
「エルサルバドルの両親に会いに行った。進路のことで」
「だったら連絡くらいしていってよね。だいたいエルサルバドルてどこよ」
「ラテンアメリカですね」聞かれもしないのに古泉が答えた。
「エルサルバドル、中米の小国家。人口約六五八万人。
 面積は約二万一千平方キロメートル。国内総生産は百六十六億ドル」
長門、それは詳しすぎて逆にあやしい。

しかしホンジュラスとかエルサルバドルとか、アンドロイドはなんでラテン系が好きなんだ。

「おかえりなさい。無事でよかった」
ドアが開いて喜緑さんが登場した。
長門は喜緑さんと特殊な方法で会話でもしているのか、数秒見つめあった。
「キョンくん、おつかれさま」喜緑さんが笑顔で言った。
「いえいえ、いろいろとありがとうございました」
アンドロイドにもこういう、喜緑さんみたいな感情豊かで優しいタイプがいるんだよな。

「これ」長門がハルヒに向かって、なにやら袋を差し出した。
「あたしにお土産?」
「……そう」
袋の口を開けるとコーヒー豆の缶が出てきた。
「へー。コーヒーの産地だったんだ」ハルヒが嬉しそうに言う。
長門がチラリと俺を見た。これしか手に入らなかったからしょうがないんだ、とでも言いたげな目で。
「どこかでコーヒーメーカーを手配しないとね、みくるちゃん」
「あ、ハイハイ。明日、ドリッパーとマグカップを持ってきますね」
朝比奈さんメニューにコーヒーが追加されましたか。待ち遠しいです。



その後のことを、少しだけ話そう。

長門だが、あいつはふだんと変わりない、いつもの長門に戻ったようだ。

今回のことで、あいつと俺の間に、見えない親密ななにかができたように思う。
「なあ長門、いつかふたりでどこか行かないか」
「……また、図書館に」
「そうか。ほかに好きなところへ行ってもいいんだぞ」
「……図書館」
長門にはそれ以外ないようだ。まあ帰りに映画にでも連れてってやろう。
「ハルヒには内緒でな」
「分かった」
長門はひとことだけうなずいて、また本の世界に戻っていった。
俺の財布には今も、存在しないはずの西宮市立図書館のカードが入っている。


いつか、この禁則が解けたら、長門にも話してやろうと思う。
そう、とりあえずは俺たちを生み出した、谷川氏のこと。

── また会おう。作中でね。

もう一生、出会うことはないだろう。少なくともこちらの世界からは。
谷川さん、しばらくはハルヒをおとなしくさせてくれたら助かります。
俺は上でもなく東でもなく、どっちか分からないあっちの世界に向かって祈った。

しかしこれもまた、谷川氏も含めた今回の出来事が、
別の世界の誰かの頭の中に存在する物語である可能性を、俺は否定できないでいるのだ。

END





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最終更新:2007年05月13日 17:20