長門有希の憂鬱Ⅰ
三 章



俺はひどい頭痛と轟音とともに目が覚めた。
自分がどこにいるのかしばらく分からず、起き上がったところで天井に頭をぶつけた。
あれ、こんなところに天井があったかな。

そうだった。俺は泊まるところがなくてホームレスに段ボール箱を借りたんだった。
頭上では電車がひっきりなしに行き来している。
俺はそろそろと箱の外に出た。寒い。震え上がってまた中に戻った。
段ボール箱の中、意外に保温性があるんだな。手放せないわけだ。

俺はジャンパーを着込み、身をすくめてやっと外に出た。
一晩の宿は冷蔵庫の箱だった。それを見てまた寒気がした。
時計を見ると七時だった。おっさんたちはまだ寝息を立てているようだ。
俺はサンちゃんの家に、その玄関らしきところからありがとうと書いたメモに千円札を挟んで差し込んだ。

もしかしたら明日も世話になるかもしれない、などと不安と期待の入り混じった気持ちを残しつつ、その場を離れた。

俺は駅のコインロッカーに荷物を取りに行った。
重たい文庫の山が入ったバックパックを取り出した。
財布の中身を確かめた。残りはあと三万ちょいだ。
確かに金がないと身動きが取れない。古泉、恩に着るぜ。

俺は極力節約することにした。簡単に考えていたが、五万という金額はあっという間に消えてしまうだろう。
このままいけば金は確実に底をつく。それまでに長門を見つけないとな。

背伸びをしても腰が痛い。
風呂にも入りたいが、この辺に安い銭湯とか健康ランドみたいな施設はないだろうか。
この時間にやってるはずもないよな。
二十四時間営業のネットカフェならシャワーがあるな。
もう七時だから十八才未満でもかまわんだろう、ついでに飯も食おう。

俺は六時間パック料金を払い、とりあえず昼まではここで過ごすことにした。まだ眠い。
シャワーのお湯はややぬるいが、ホコリと排気ガスにまみれた俺にとっては天使の水がめから流れ落ちる滝だった。
ほんとはブースとかフラットシートでゆっくりしたかったが、料金が安いオープン席にした。
パソコンの前に座り、ヘッドホンをかけて音量をミュートにし、そのまま腕を組んで眠り込んだ。
画面にはスクリーンセーバが写っているだけだった。



「── お客様、お客様」
店員に起こされた。
「そろそろお時間ですが、延長なさいますか?」
ああ、もうそんな時間か。俺は口から垂れていたよだれを拭いて、一旦出ますと断った。

六時間もこの姿勢でよく眠れたもんだ。立ち上がって背伸びをした。夢さえも見なかったようだ。
朝飯を食うのを忘れていたせいか、心地よい空腹感を感じた。
ちょうど一時だ。飯を食ってサイン会場に向かおう。

昨日訪れた書店に向かった。
エスカレータを降りてすぐ、もう人だかりが出来ているのが見えた。
谷川流先生サイン会にお越しのお客様は並んでお待ちください、と立て札に書いてあった。
しょうがない、最後尾で待つか。先着百五十名とあったから、俺は百五十番目くらいか。

女子学生やら、見るからにアニオタ少年やら、中年のオバさんやらに混じって耐えること耐えること小一時間。
二時十五分ごろ、行列にようやく動きがあった。前のほうで拍手が沸いたので、先生とやらが登場したのだろう。

ポップやら登りやらが取り囲む中で、テーブルについた中年の(おっさんと言っちゃ失礼かもしれないが)
痩せ型の青年がいた。中年の青年って何だ?まあその間くらいか。

テーブルには文庫が平積みしてあった。そこには俺が持っている十三巻はなかった。
行列も終盤、谷川氏の笑顔にやや疲労が見える。

「谷川……さんですか」
「そうです」
「サインお願いします」俺はバックパックから昨日買った文庫を取り出した。
「はい、お宛名は?」谷川氏はマジックを取り出してキャップを外した。
「キョンです」
「え?キョン君?」ウケを狙ったわけじゃないんだが、谷川氏は笑いそうになった。
それから俺はバックパックから例の文庫本を出して見せた。
「ちょっとこれのことで内々にお話したいことが」
「……」谷川氏には分かったようだ。俺が持っているこの十三巻は、まだ存在していないはずだ。
「十五分ほど時間取っていただけませんか。重要なんです」
「あそう。……じゃあ、五時ごろマルビルのスタバで会えるかな?」谷川氏はこっそり耳打ちした。
「分かりました。じゃあ五時に」
俺は礼を言ってその場を離れた。
谷川氏は次の客がサインをせかすのに笑顔を見せながら、片方で怪訝な顔をしていた。

ええと、マルビルってどっちだ。

俺はそれからの小二時間を一杯のチャイラテで過ごした。
こないだまとめ買いしたハルヒの文庫本を読みつづけた。
これに書いてあることは、すべて事実だ。
俺にもよく分からんのだが、ここまで忠実に表現できるのは、
谷川氏と俺のいた世界には密接なかかわりがあると考えるのが妥当だろう。

店員がチラチラとこっちを見るので、チャイラテをもう一杯頼もうかどうしようかと考えていたら、腕時計が五時を回った。
しばらくして谷川氏が入ってきた。こっちに気がついて手を振った。俺は椅子から立ち上がって深くお辞儀をした。
たぶんこの人にしか助けてもらえない、そんな気がしていた。

「お忙しいところすいません」
「いやいや、かまわないよ。今日はもう一仕事終えたから」

谷川氏がチラチラと俺の手元を見ている。気になっているようだ。
「ああ、これは昨日買い集めたんです。見せたいのはこっちのほうです」
十三巻を取り出した。
「日付を見てもらえますか」
「これ、一年後だね。同人がネタで作ったの?」
「そうじゃありません。実物だと思います。未来から送られてきた」“未来”というところをわざと強調した。
谷川氏が唖然としていた。いつもの俺ならそうする。
「それに、発行が角川と書いてあります。
 同人サークルは出版社を騙ることはしませんし」これは古泉の受け売りだ。

俺は自分のいた世界のことを話した。SOS団、ハルヒ、その周辺。

「驚かれるかもしれませんが、あなたの書いた小説は俺の身に実際にあったことなんです」
「キミの話だと、まるで僕の本から出てきたような印象を受けるが……」微妙に、不審者を見る目だ。
「そうとも言えます。よく分かりませんが、あなたの作った世界は実在するんです」
「よくわからん……というより信じられん。最近は成りきりキャラみたいな人が多いんでね。コスプレとか声真似とか」
「ええ。俺も昨日、アニメオタクと間違われました」

「なにか確信を得られるようなものはあるかな?証拠というか」
「証拠ですか……向こうでの俺の記憶くらいでしょうかね」
「キミの本名は?本編には書いてないんで誰も知らないはずだが」
俺は自分の名前を告げた。
「……」谷川氏は無言で俺を見つめた。
「全部、とりあえず保留でいいかな。別世界とか、この存在しないはずの十三巻とか」
前に似たようなセリフを誰かに言った覚えがあるな。
「ええ。俺はその、なにか特殊な能力があるわけじゃなくて、ふつーにその辺にいる高校生と同じですから」
「それを聞いて安心した」

「このシリーズのストーリーはどうやって思いついたんですか?」
「四、五年前だったか、新聞記事にとある事件が載っていてそれで閃いたのがきっかけかな」
「とある事件といいますと」
「地元の中学校のグラウンドに謎の地上絵が出現した」
俺の髪の毛がピクリと動いた。
「記事によれば子供のいたずらだろうってことで、結局犯人は分からなかったらしいんだが。
 それが子供が描いたにしちゃえらく精密に描かれていてね」
「その絵ってもしかしてこれですか」俺は十三巻の挿絵を示した。
「そうそう、それ。アニメにも出てたよね」
「ちょうどこの挿絵にかかったところで、こっちの世界に飛ばされたんです」
「そんなことが起るとは……」
谷川氏は腕を組んでしばらく考え込んだ。

もうここまできたら、本来の目的を言うしかない。
「それで、長門有希のことなんですが、あいつはすでにこっちの世界に来ているかもしれません」
「それはほんとか」
「長門が消えたのは俺のいた時間で三日前なんですが、あいつから接触はありませんでしたか」
「うーん……ファンの女の子は多いし、イベントでもコスプレしてる子が多いし。
 もしそんな子が接触してきてたとしても覚えていないかもしれない」
「なにか特別なメッセージとか、手紙とか」
「どうだろうね」谷川氏は考え込んでいた。

俺が長門ならどうするだろう?唯一の接点である谷川氏とコンタクトを取るには?そして俺にメッセージを残すには?

「長門を探し出すために手を貸してもらえませんか」
「ちょっと考えさせてもらっていいかな。調べたいこともある」
「明日また会えますか?」
「明日は三時から一時間くらいまでなら時間取れるよ」
「じゃあまた明日ここに来ます」
「一応連絡先を教えてくれないか」
「ええと、今こっちの世界では連絡手段が何もなくて。俺の携帯も使えないんです」
「え、じゃあ今どこに住んでるの?」
「住んでるところはありません。カプセルホテルやらネットカフェやらをはしごしてます」
さすがに高架ガード下で寝ましたとは言えなかった。
「そりゃ体壊すよキミ……」
「ええ。でも身寄りもありませんし」
「なんとかしてやりたいけど、……キミさえよければうちの客間に泊まってもらってもかまわないが」
願ったりだ。もうあの段ボールで寝たときの腰の痛さときたら。
「ほ、ほんとですか。助かります」

もうがっついていた、俺。このときほど人の親切が身に染みたことはなかった。



「とりあえず、うちに行こう。うちというか、僕の祖母の家なんだけどね」
谷川氏とタクシーに乗り込んだ。運転手は残念ながら新川さんではない。

「谷川さんて西宮が地元なんですか」
「そうだよ。北高出身だし」
「え……北高ってこっちにも実在するんですか?」
「いちおうモデルになったのはある。
 僕が通ってたのは、ふた昔くらい前だから若干雰囲気違うけど」
「じゃあこの小説に出てくる建物やら、街はみんな実在する?」
「するよ」
「知りませんでした。昨日、思い当たる節があって図書館と甲陽園駅に行ってみたんです。
 俺の知ってる風景とそっくり同じだったんで安心したというか、驚いたというか」
「そう。あの辺はファンがよく観光してるらしいね」
「うわ……それでですか」
「なにかあったのかい?」
「実は、長門が住んでるんじゃないかと思ってマンションのインターホンを押したんです。
 オバさんに怒鳴りつけられました」
谷川氏はあははと笑った。
「アニメがヒットして、住民はえらく迷惑してるだろうね。
 あのマンション、現物が分からないように絵の位置を変えたりはしたんだけど」
「これじゃうかつに探して回れないですね」
「あの辺はうろうろしないほうがいいかもねえ」
しかしまあ、俺とこの世界との接点が見えてきて、ちょっと安心した。
長門がいるとしたら、あいつもその繋がりに気付いたに違いない。

一時間くらいしてタクシーが止まった。
「着いたよ」
俺はドアから降りた。

「こっちだ」谷川氏が指したのは日本建築のお屋敷だった。
「こ……これ、もしかして鶴屋さ……」
「ああ、そうそう。鶴屋家の屋敷のモデルはここなんだ」

あれと同じ漆喰の壁が続いている。俺は感激した。知っている、これならよく知っている。
ハルヒの映画で舞台に使わせてもらい、朝比奈みちるさんをかくまってもらい、それからそれから。
くぐり戸から母屋の玄関までがやたら遠い、あの鶴屋邸だ。
「もしかして鶴屋さんもいるんですか?」
「さあ、それはどうかな」谷川氏はプッと笑った。

重たい玄関の戸を開けて中に案内された。土間だけで軽く俺の部屋くらいはある。
和服を着付けた鶴屋さんが今にも出てきそうな雰囲気だった。

「ばあちゃん!ばあちゃんいるかい?」谷川氏は奥に向かって叫んだ。
和服に身を包んだ小柄なおばあちゃんが、しゃなりしゃなりと出てきた。
「おやまあ珍しいじゃないか、お友達かい?上がっとくれっ」
な、なんか微妙に鶴屋さんっぽい。
「観光に来た友達のキョン君なんだけど、今日、泊めてもらえる?」
「いいともさ。ささ、奥にお上がり。お湯もたんっと沸いてるさね」
俺はおばあちゃんに向かって、すいませんお邪魔しますと言って靴を脱いだ。
廊下を進むと木と漆喰の匂いがした。この匂い、鶴屋さんちと同じだ。

「キョンさんは、」おばあちゃんがふと振り向いて言った。
「スモークチーズは好きかい?」
もう笑うしかなかった。



二十帖くらいはありそうなお座敷に通された。

俺は部屋の隅にバックパックを置いて、所在なさげに見回した。どこに座ればいいのか迷う。
「あの、離れってあるんですか?」
「隠居のことかな、たぶん空いてるよ。そっちがいい?」
「ちょっと、落ち着かなくて」まるで朝比奈さんみたいな口調の俺だ。

茶室みたいなこじんまりした造りの、離れに案内された。
「鶴屋さんちとまったく同じですね」
「うん。わりと凝った和建築の様式らしいよ。こまごました、明かりとり用の窓とか、この欄間とか建具類も」
「へえ」築百年くらいは年季が入っている気がする。
「先に風呂を案内するから、来て」
風呂ですか、ありがたい。鶴屋家はたしか、檜風呂だった気がする。
「残念ながら風呂だけはステンレスなんだ。檜はカビたり腐ったり、手入れがたいへんでね」
そうなんですか。鶴屋家も屋敷のメンテナンスに苦労してるんだろうな。

「お湯がぬるかったら蛇口ひねれば出るから。あと、浴衣置いとくから使って」
まったくかたじけない。

突然現れてあっちの世界から来ましたなんて延々電波なことを言ったあげく、
泊まるところがないからと上がり込んだりして、風呂まで借りて、俺ってなんて図々しいんだ。

大人四人が楽に入れそうな浴槽に浸かりながら、俺は体の疲れをほぐした。
今日はネットカフェで寝ていただけで、たいしたことはしてないが、繁華街を歩いてるだけで疲れる気がする。
谷川氏の好意で、しばらく、といってもいつまでかは分からないが、綿の入った布団で眠れそうだ。
まったく、外で寝るのは体力も気力も消耗する。

あのホームレスのおっさん、風邪ひいてないだろうか。

渡された浴衣を着込むと、気持ちまで和風になってきて、その雰囲気に馴染んでる自分がいた。
こういう純日本人らしい生活スタイルもいいよな。

浴室を出ると、おばあちゃんがそのままじゃ風邪を引くだろうからと半纏を貸してくれた。
なんてやさしいおばあちゃんだ。感涙だ。

食堂に呼ばれて中に入ると先に谷川氏が来ていた。食卓には漆塗りの食器が並んでいた。
「若い人が好むようなものは、ないんだけどね」
いえいえ、ファーストフードで飢えをしのいでいた俺には、天皇の料理番が作るほどの高級料理ですよ。

味噌汁が、うまい。おふくろには悪いが、うちの味噌汁よりうまい。
そう言うとおばあちゃんは顔をくしゃくしゃにして笑った。

「キミの世界の話を聞かせてくれないかな。家族とか、友達とか」
そうですね、と口を開きかけてチラとおばあちゃんを見た。
「ああ、気にしないでいいよ。おばあちゃんは他人の秘密には干渉しない人だから」
またしても鶴屋さんスタイルだな。
「干渉しないから、かえって秘密が舞い込んでくるんだけどね」
それはうらやましい。情報通ですね。

「ええと、俺の家族は親父とおふくろと、妹がひとり、これが最近マセてきて小うるさくて。
 あとは拾った三毛猫が一匹」
この辺は谷川氏も知ってるだろう。あの文庫に書いてないようなことを言わなくてはな。
シャミセンに彼女らしきものが出来たとか、妹の部屋でつい日記を盗み読んでしまって
片思いの相手がいることを知ったとか、まあ家族の細かい話だ。
「初耳だ。その辺は僕の小説にはないね」
こういう日常的な仔細を小説の中で表現するには限界があるかもしれない。

「キミには彼女はいないのか?」
話の展開からすると、ここでギクリとするべきなんだろうが、あいにくとそういう関係はなかった。
「それは谷川さんがいちばん知ってることでしょうに」
「そういえばそうだね」谷川氏は頭をかいた。
「キミはハルヒと長門有希、どっちがいいと思う?」
答えに詰まる質問だ。
「どっちと聞かれても、そういう目で二人を見たことはないんです」
って谷川さん、朝比奈さんって線はまったくないんですか。
「なにかこう、伏線があったはずじゃないか」谷川氏の目は、ちょっとワクワクしている。
「伏線……ね。そういえば雪山の山荘とか、長門の暴走とか、バレンタインデーとか、
 二人が妙な行動をすることはありましたが。もしかしてあれ、そうなんですか」
「まあ、キミには一切が分からないように話を展開させてるから、しょうがないんだけどね」
「俺の知らない水面下でそんな話が進んでたりするんですか」俺は苦笑した。

「って、あれ!?僕はまだキミが向こうの世界から来たと確信したわけじゃないんだが」
谷川氏は、はははと笑った。
「こうやって自分の頭の中で組み立ててることを他人とまじめに会話するってのは、楽しいね。
 新しい発見があるかもしれない。今後の展開の参考にしよう」
なにやらメモをはじめた。
「キミが話してくれた事件もメモっとくよ」

なにやら謎めいた記号みたいなもの書いている谷川氏を見て、俺はふと思いついた。
「これ、もしかして既定事項なんじゃありませんか」
「というと?」
「俺が話した内容で、谷川さんがこれから十三巻を書くわけです」
「なるほどね」ちょっと考え込んだふうだった。

「ええと、じゃあ僕がキミから話を聞いて十三巻を書くとして、
 キミが持ってきた十三巻を最初に書いたのは誰?」
えーと……。これは重大な問題だった。卵が先かニワトリが先か。
谷川氏は笑った。「これはタイムトラベルをする者の、悲しいサガ、だね」
俺はそのセリフになぜかデジャヴを感じた。

二人で考え込んでいると、あの部室でのことを思い出した。
「あの十三巻は、読んでると話がループするんです」
「そうなのか」
「つまり、俺が読んでるシーンを読んでる俺が、それを読んでるシーンをまた俺が、」
頭痛くなってきた。
「二枚の合わせ鏡みたいで、まともに読みつづけられないんです」
「それ、作中の人物がその物語を読むパラドクスだね。似たような話はある」
「それじゃ物語が進まないですね」
「……もしかすると、そのループが次元の歪みを生んだのでは?」
「俺にはちょっと難しいです」
「つまり、二枚の鏡に写った最初の映像はどっち?終わりはどこへ?光が無限に往復する」
谷川氏は人差し指を左右に往復させた。
「……難しいですね」

「ほかにも似たような現象はある。ビデオカメラでテレビを撮ると、映像の中に映像が延々と生じる」
「三次元のループですね」
「そう。これがもっと高次元のループだとしたら、キミは渦の中に巻き込まれているということになる」
「……」
「いいアイデアだ。メモしとこう」
って、ネタだったのかよ。どうも作家の考えることは分からない。頭の中、どうなってんだろ。



そんなSFとも数学ともつかない話をしながら時は過ぎていった。
十一時を回ったところで谷川氏は腰を上げた。
「僕は自宅に戻るから。気兼ねしないでいいよ」
「ご自宅、ここじゃないんですか」
「ここはおばあちゃんがひとりで住んでる家でね。僕は仕事場兼自宅を持ってる」
なるほど。作家ですもんね。

俺はおやすみなさいを言って谷川氏を見送った。

寒空に星がまたたいている。明日は晴れそうだ。



翌朝、おばあちゃんに呼ばれて食堂で朝飯を食った頃、谷川氏がやってきた。
「よく眠れたかな」
「ええ、ありがとうございます。おかげさまでぐっすり」
「そう、僕は枕が変わると眠れないたちでね。だから他所んちにはできるだけ泊まらない」
俺は石の上でも寝れそうな気がしますよ。一昨日は紙の上でしたが。

「昨日話した、例の地上絵の新聞を探しに行こう」
「どこへですか?」
「市立図書館に。あそこには過去十年分くらいの新聞があるから。
 もしかしたら頼めば二十年前くらいは見せてくれるかもしれない」
なるほど、そういう探し方もあるのか。昨日は長門の後ろ姿しか追いかけなかったからな。



図書館には二度目の参上だ。一昨日のことを思い出すと今でも赤面する。
もしかして長門がいてやしまいかとキョロキョロと見回してみたが、それらしい風体の女の子はいなかった。

谷川氏はカウンターで保存資料閲覧を申し込んでいた。
しばらく待って、奥にある書架に通された。

パソコンの端末でマウスを動かしている。
「新聞というから古新聞が束になって積んであるのかと思いました」
「過去数年分のは全部電子化されていてね。
 インデックスもついてて目的の記事を探し出すのも簡単だよ」

「あったよ。これだね」谷川さんが画面を指さした。

その記事のタイトルは“学校の運動場にミステリーサークル出現”だった。
「ミステリーサークルじゃなくて地上絵なんだけどね」
この絵文字、挿絵と同じものだ。そう、七夕のときハルヒが東中のグラウンドに描いたアレだ。
正確には俺が描いたんだったが。
「これ、子供が描いたんじゃないかって推測してるけど。
 まっすぐな定規もない、見下ろす場所もない広い地面に絵を描いたことあるかい?
 これは図形と幾何学の知識がないとできないんだよね」

もしかしてハルヒがこの世界に存在しているのか?そんなはずはあるまい。じゃあ誰だ?。
「この絵、挿絵とちょっと違うところがありますね。この右下のやつ、花に見えませんか」
「どう……だろう。言われてみればそう見えなくもないけど」モノクロの荒い写真だから分かりづらいが。
「長門が残した栞に印刷してあった花の絵じゃないでしょうか」
とすれば、これを描いたのはあいつしかありえない。

俺は長門が部室から消える直前に言った言葉を思い出した。
「わたしは……ここにいる」
これは救助要請だ。俺はうなずいた。
「これを描いたのは長門です。それ以外考えられない」
「そうなのか。でもこれ、五年も前だよ」
確かに新聞の日付は五年前の十二月になっている。
「仮に、こっちと向こうの世界の時間がズレたとしたら、理屈は通りませんか」
「……うーん。どうだろうね」

五年も前にあいつがこっちに来たのだとしたら、無事に生きているかどうか不安になった。
ハルヒも俺もいない世界で、目的を失って自らの情報連結を解除したりしないとも限らない。

「谷川さん、長門が暴走したときの話覚えてますよね」
「ああ、消失ね」
「俺が言うのもなんですが、長門はどんなときでも必ずメッセージを残すやつなんです。
 それも本人にしか分からないやり方で」
「なるほど」

「北高の文芸部の部室って存在するんですか」
「……ははあ。キミの考えていることは分かった」
俺はそこに侵入することを考えていた。
「昨日も言ったけど、当時とはずいぶん変わってるしね。
 一度取材に行ったけど、そのときにはもう僕が思い描いている部室はなかったね。
 むかし文芸部だった部室はあるけど」
「ちょっとだけ覗いてみるわけにはいきませんか」
「うーん……。いちお学校の関係者に聞いてはみるけど、期待しないほうがいいと思うよ。
 なんせアニメに出たもんだからピリピリしててね」
そうなんですか。
「部室でなにを探そうっていうんだい?」
「あのときと同じ本があるんじゃないかと」
「ハイペリオンかい?」
「ええ、それです」
「実はあのハードカバーが出たのは相当前の話なんだ。今は文庫しかないんじゃないかなぁ」
「だったら、なおさらです。それが存在すれば長門からのメッセージがあるかもしれない」
「そうか。聞いてみとくよ。父兄の見学ってことで」
「お願いします」
記憶を蘇らせるために、俺はまた同じ道を辿る、だ。

「ああそうだ、ハイペリオンならここにもあるはずだよ。探してみたかい?」
「ええ!そうだったんですか。それは気がつきませんでした」
俺はめったに来ないであろうSFのコーナーを探した。長門に借りてそのままだ。

二人でSF、ミステリーのあたりを探したんだが、結局見つからなかった。
パソコンの端末の蔵書データベースで調べてもらったが、確かにあるらしい。
「誰かが借りてるんだろね。長門有希の百冊に入ってたし」
「なんですかそれ」そういやぐーぐる様もそう言ってたな。
「長門有希が作中で読んでるって設定の百冊を僕がピックアップした。その中にあれも入ってた」
なるほど。人気あるわけか。

「しょうがない。今日のところは帰ろうか」
「そうですね」
俺は先日とんでもない人違いをした棚のほうを見た。突然話し掛けられたほうも驚いただろう。
俺はハルヒの文庫が入ってるかどうかを見ようと、文庫の棚の前をそろそろ歩いた。
そのとき、なぜかその本だけが目に入った。“ハイペリオン ダン・シモンズ”
とっさにページをめくった。ハラリと何かが落ち、俺は稲妻に打たれたかのような衝撃が走った。

あのときの、栞だった。



「こっこっこっ」
「こけこっこー?」
「違います、これ、長門です。ぜったい、長門です」
俺は栞を見せた。今度は大声を出してもはばからなかった。これは断じて長門だ。
図書館の本に手製の栞を挟むやつは、まずいない。これは長門、絶対に長門だ。

栞には例の絵文字と、薄紫の花が描いてあった。文字は書かれていない。
長門が暴走したとき、部室にあったやつと同じだ。
「消失のときのと同じだね」谷川氏にも分かったようだ。
「ぜったいそうですよ」
「これの意味は、知ってるよね」
「わたしは、ここにいる、です」
「これが憂鬱のときの栞ではないということは、つまり、消失のときと同じ、キミへのメッセージだね」
「で、ですよね」俺はワナワナ震えていた。もう長門を見つけたも同然だ。近くにいる。

「ちょっと来て」谷川氏はその本を持ってカウンターに向かった。
なにやら受付のお姉さんとボソボソ話したあと、俺のほうに向き直った。
「過去にこれを借りた人を調べてもらってる」それはすごい。電子戦ですね。

「この文庫本が出たのが約七年前、ハードカバーはそれより前。
 この本が入庫したのが三年前で、借りたのはトータルで二百人くらいだそうだ。
 残念ながら借りた人の名前は明かせないらしい。個人情報だからね」
ああ、こっちの世界でもその辺が厳しいんですね。
「最後に借りたのはいつか分かります?」
「二週間ほど前らしい」
……それは長門だろうか?その可能性はあるだろうか?
「すいません」俺は受付のお姉さんに話し掛けた。
「ちょっとこの写真見ていただけませんか」俺は長門とハルヒが写っている写真を見せた。
「この、髪の短いほうの子、見かけませんでしたか」
お姉さんは、うーんともふーむともつかない声を出した。
遠目に近目に写真を見ていたが、ちょっと覚えていないと言った。
これだけ人が出入りするんだ、覚えていろというのが無理な話かもしれない。

「写真持ってたんだ?」
「あ、まだ見せてませんでしたね。すいません」
「これはまた美人だな。僕はアニメでしか見たことないから」
「そうなんですか」まあ当然っちゃ当然だが。アニメでないならただのコスプレだろう。
「実写版やるとしたら、まさにこんな感じだよなぁ」
実写ドラマやるのか……かなり映像に無理があるんじゃ。閉鎖空間とか。

俺は図々しくもお姉さんに、もしこいつが来たら俺が来たことを伝えてくれるよう頼んでおいた。
長門ならそれだけで十分だろう。あとは情報操作とやらで俺の居場所は分かるはずだ。



図書館で重要な手がかりを得たあと、午後には屋敷に戻った。

「東中のグラウンドを見てみたいんですが」
「中に入ってみたいかい?」
「ええ、できれば」
「教師にひとり同級生がいるから、聞いてみよう」
谷川氏は電話でしばし世間話をしたあと、グラウンドを見てみたいんだが、と切り出した。
「四時頃ならいいらしい」
「ありがたい」
「とはいっても、ただのモデルだからね。名前は違うし、見た目も若干も違うけど」

あの場所は忘れようにも忘れられない。ハルヒが俺とはじめて出合った場所だ。
過去の七夕には朝比奈さん(小)を背負って歩かされた。

谷川氏の車で中学校まで乗りつけた。谷川氏の同級生という男性教師が迎えてくれた。
「ここも舞台になってるんだけど、北高ほどは知られてないんだよね」
作中の東中は若干位置がわかりづらいらしい。

谷川氏と俺は校舎から出てネット越しに運動場を眺めた。
「最近は関係者以外は中には入れないけど。むかしはよくここで遊んだよ」
確かに広い。昼間見るのは、はじめてだ。
「こんな広いところによく地上絵を描いたな」実際は向こうの世界のここだが。
「地上絵を描くのって意外に難しいんだ」
「ハルヒの頭の中では文字すべての線の長さと角度が計算されてたんですね」
「ハルヒは数学が得意だからね」
「よく知ってますね」
「そりゃまあ、僕が生みの親だし」
もっともだ。

冷たい風が吹きぬけた。俺は襟を立てた。

グラウンドの向こう側で陸上部らしい女子生徒が走り回っていた。
ハルヒの中学時代はこんな感じだったんだろうか。俺は校区が違うから、ここにはなじみはないんだが。

中学生のハルヒは奇妙なことばかり繰り返していたらしい。
谷口曰く、かわいいからと思って話し掛けるとトゲのある答えしか返ってこない、バラみたいなやつだったと。
親しい友達もなく、親にも打ち明けられず、ひたすら孤独だったことだろう。
あいつはあれからずっと、ジョン・スミスを探していたのかもしれない。

柄にもなく、昔のハルヒを思い浮かべた。あいつの顔じゃ、あんまり郷愁は感じないが。

俺が探さないといけないのは、ハルヒとの接点じゃなかった。俺と長門を結ぶ接点だ。
だからここにはなにもない。俺たちは三十分くらいでその場から引き上げた。



この屋敷にやっかいになって三日が経とうとしている。

翌朝、谷川氏が言った。
「北高の見学、聞いてみたけどね、やっぱり無理らしい。今ちょうど受験シーズンで、
 先生も生徒もピリピリしてるから、年が明けてからにしてくれってことらしい」
「そうですか」予想はしていたが。年明けまではとても持ち越せない。

まあ俺が中に入れないってことは長門も予想できただろうし、
ということはメッセージは何も残してない可能性が高い。
そう考えて納得することにした。最近はあきらめるのにも理由を考えるようになった。

谷川氏は今日は出版社で打ち合わせがあるので、調査には付き合えないとのことだった。
執筆の仕事もあるだろうに、毎日つき合わせては申し訳ない。
俺は自転車を借りて町並みを回ってみることにした。

ハルヒが超監督で撮った映画の舞台を追ってみた。
長門と朝比奈さんが対決した森林公園、朝比奈さんと谷口が飛び込んだ新池、桜並木がある夙川公園。
朝比奈さんがトンデモ告白をしてくれたベンチもちゃんとあった。

同じだ。何も変わりがない。
こういう自然の風景にはさほど違和感を感じない。感じるのは人工の建物だけなのかもしれない。

そういえば俺の自宅はいったいどうなってるんだろう?昨日からずっと考えていた。
俺の知らないところで、俺を除いた俺の家族がそのまんま別の人生を過ごしているんだろうか?
それとも家そのものがないんだろうか。

俺は自宅近くまで行って、そこから通学路を辿って北高まで行ってみることにした。
谷川氏は道順も場所も同じだと言っていた。

俺は線路を越えて自宅がある(と信じている)場所へ自転車を走らせた。

後ろに過ぎてゆくのは見慣れた景色だった。風景だけが同じ、そこにいる人間は誰も知らない。

猫は飼い主よりも場所に執着するというが、俺はどっちかといえばそこにいる人間に愛着を感じる気がする。
俺にとっての自分の居場所は建物や地理なんかじゃなくて、たとえばSOS団のメンツや、親や妹や、
シャミセンがまとわりついてくる日常。そんな他愛もない時間そのものなのだろう。
馴染んでしまったり忘れることが出来ないものというのは、特定の場所や風景なんかではなくて、
むしろ、そのとき誰かと触れた流れる空気みたいなものだ。

時間と空間は同じ、と長門は言っていた。今は少しその意味が分かる気がする。俺なりにだが。



馴染みの町内にたどり着いた。
俺は自転車にまたがったまま、前方にある俺の自宅っぽい地所を見つめていた。
そこに、まったく同じ、俺の家がある。どうしたらいいんだろう。
玄関を開けてそのまま、ただいまと中に入ってしまいそうだ。

俺は携帯をいじるふりをして、その場に自転車を止めた。
家の様子を見ていると、ドアが開いて誰かが出てきた。
まったく知らないオバさんだった。あわてて目をそらす。

不意に、俺の家に知らない人が住んでいる感覚に襲われた。
本当はそこにいるべきは俺なんじゃないか。
ドアから出てくるのは本当は俺のおふくろなんじゃないか。

俺は頭を振り払ってその思いを消した。
住んでる人は違うのに、なぜあの家はあんなに似通ってるんだろうか。
それだけが疑問として消えなかった。

そこから駅に向けて自転車をこいだ。制服を着ていないのがなんだか違和感を感じる。

甲陽園駅まで乗りつけた。こないだのマンションが見えた。
あのときは長門とはなんら関係ない赤の他人を呼び出すなどと、血迷ったマネをしてしまったが。
いつもはここで自転車を止めるんだが、今日はそのまま乗って坂道を登った。

この坂の勾配はハイキング並にきつくて、入学したての頃は入る学校を誤ったと後悔したものだ。
自転車だと階段のないルートを辿らないといけないので、さらにきつい。
俺はとうとう押して歩いた。こんなことならいつものように駐輪場に止めておけばよかった。

途中、短大と私立の進学校の前を通った。似ているっちゃ似ている。名前は違うんだが。
この微妙な、心理的な部分で納得がいかない類似が俺を不安にさせた。

さらに坂を登り、北高らしき建物にたどり着いた。よくよく見ると名前が西宮北高になっちまってる。
正門には生徒がいたので俺はそのまま通り過ぎて、坂を登りつづけた。制服が違うな。
敷地をぐるっと回って西門まで行こう。俺の予測が正しければ、そっちのほうが人は少ないはず。
途中で見上げると、部室棟らしき校舎が見えた。あれか。
俺たちの文芸部部室がどうなっているのか、ここからでは分からなかった。

今すぐ校舎の階段を駆け上って、あの部屋のドアを叩いてみたい衝動に駆られた。
夜になるのを待って部室棟に忍び込んでみようかとも考えた。
でも俺は自分を抑えた。忍び込んで捕まったりしたら谷川氏にとんだ迷惑をかけてしまう。
血迷ったアニメオタクが県立高校に侵入。そんな三面記事、俺も読みたくない。

結局、歩道橋の交差点まで登ってそこから南西に坂道を下る。
西側からは校舎の剥き出しのコンクリが見えるだけで、なにも分からなかった。
こんなことをやっていてもなにも得られないのは分かっていた。
俺が中に入れない以上、長門もそこには行かないだろう。
長門との接点は場所じゃないんだ。過去に二人が共有したなにかだ。

俺は来た道は戻らず、坂道をそのまま下り、回り道をして甲陽園駅に戻った。

ひとつだけ忘れていた場所があった。長門に呼び出されて待ち合わせた、駅前の公園だ。

果たせるかな、街灯の下にベンチはあった。このベンチにはいろんな思い出がある。
最初のは“午後七時、光陽園駅前公園で待つ”だったか。

あんときの俺は俗っぽい生活の代名詞みたいな人生で、
宇宙論やら時間論やらとは遠いかけ離れた生活をしてたからな。
もっとまじめに聞いてやればよかった。
帰ろうとする俺を見る長門の表情に広がる、小さな波紋。
今ならあの微妙な表情の意味は分かる。

部屋の一角に、時間ごと冷凍保存した俺を三年間待ちつづけていた。

── ただ待っているだけの人生なんて嫌

そう言いたかったんじゃないか。

俺はベンチに座り、長門と出会ってからのことを思い返していた。
あいつをひとりにしてはいけない。それが俺がここにいる理由。あいつを追いかけてきた理由。



気が付くと四時を過ぎていた。だいぶ冷え込んできたので駅近くのコンビニへ行った。
俺はホットのお茶をレジに置いた。朝比奈さんの点てた暖かいお茶が飲みたい。

ものはついでだ、俺は店員に尋ねた。
「すいません。実は人を探してるんですが、ちょっと写真見てもらえないでしょうか」
レジの若い店員は珍しいものを見るように俺を見た。
「え……人探しですか」
俺は長門とハルヒが写っている写真を見せた。
おっさんたちに握り締められてだいぶよれよれになっている。

「身長は俺より低い、小柄な子です。名前は長門と言うんですが」

店員は遠目に近目に、しばらく写真を見ていたが、奥にいるらしい誰かに向かって声をかけた。
「店長、これ、前ここで働いてた子じゃないっすかね?」なんですとぁ!!?
「どれ……。どうだろ。覚えてないなぁ」初老のおっさんが出てきて写真を見た。
「ほら、例の、三年くらい前の事件」
「ああ、あの子か、思い出した。確か名前は田中とかじゃなかったかな」頭に乗っていた老眼鏡をかけなおした。
「ええと、田中は母親の苗字なんです。小さいとき両親が離婚して離れ離れになりまして。実の妹なんです」
とっさに口からでまかせを言ったが、我ながらもっともらしい嘘だったと思う。

「ああ。思い出した。セーラー服で突然やってきて、ここで働かせてくれと言った。やたら無口な子でね。
 まあ連絡先はちゃんとしてたし、まじめな子っぽかったんで雇ったんだけど。
 ワケアリみたいなんで詳しくは聞かなかったけどね」
「いつごろですか」
「働き出したのは四年か五年くらい前かなあ」
「あんまり大声じゃ言えないことだけど、……三年前に強盗が入ったんですよここ」若い方が声をひそめて言った。
そのときに犯人を退治したのがその子だったらしい。
「巴投げとか言うのかな、あの技?包丁を振り回す犯人をぶん投げて、こう!」店長が腕だけ実演して見せた。
「かっこよかったですよね。なんか合気道の心得があるんだとか言ってましたっけ」
巴投げは柔道だと思うが、そのトンデモでまかせは長門流かもしれない。

その後、テレビやら新聞やらの取材があったのだが、ふつとかき消すようにバイトをやめたらしい。
「翌日から来なくなってしまってね。思えば、あれが原因でやめたんだ。いい子だったのに残念だった」
「今どこにいるか分かります?」
「ずいぶん前のことだからね。隣の駅くらいに住んでるとは聞いてたけど、それ以外のことは覚えてないねえ」
「そうですか。もし見かけたらこの連絡先を伝えてもらえませんか」俺は谷川氏の電話番号を伝えた。
「ああ、いいよ」

長門の気配が急に濃くなった気はするが、まだ道は遠い。あいつ、ここで何をしていたんだろう。
食うためのしのぎ以外に、誰か知ってる人間が通りかかるのを監視していたのかもしれない。

少なくとも存在だけは確認できた。三年前という遠い過去のことだが。

俺はお茶を受け取ってコンビニを出ようとした。自動ドアにバイト募集の貼り紙がしてあるのに気が付いた。
俺はふと思い立って、店長と呼ばれたおっさんに尋ねた。
「すいません、これまだ募集してますか」
「ああ、いつでもしてるよ」
「自分もバイト探してまして、面接お願いしたいんですが」
「じゃ履歴書書いてきて。来週くらいでどうかな」
「できれば今日お願いできないでしょうか」時間が惜しい。俺にはそれがあまり残されてない気がする。
「キミも急いでるの?じゃあ六時ごろシフト抜けるからその頃来て」
俺はその場で履歴書とボールペンを買った。証明写真をどこかで撮らないとな。ああ、あと三文判も。

駅前の証明写真ブースで顔写真を撮り、喫茶店で履歴書を書いた。ここで六時まで時間を潰さないとな。
自分の顔写真を見て少しやつれていることに気がついた。このところ毎日出歩いてるからだろう。

写真を切るものがなにもないことに気が付いて、ウェイトレスに声をかけた。
「お姉さん、ハサミ貸して~」なんだかうちの妹みたいな口の利き方になってしまったが。



さっきの店員にどうもと頭を下げると事務所に通された。
「缶コーヒーでも飲む?」
「あ、いえ、さっき喫茶店で飲んだところなので」俺は履歴書の入った封筒を差し出した。

おっさんはうやうやしく履歴書を開いて読んだ。
「高校二年生ね。学校によっちゃバイト禁止なんだけど、キミんとこは大丈夫なのかな」
「ええ。一応申請するんですが、たいていは許可がおります。素行が悪くない限りは」
レジのほうから声がした。「店長、受け取りお願いします」
「ああ、ちょっと待っててね」おっさんが席を立った。

長門、頼む。俺に二十秒だけ時間をくれ。
俺はスチール机のいちばん下の引出しを漁った。
果たしてそれがそこにまだ残ってるのかどうか俺に確信はなかった。
何通もの古い履歴書の束を見つけ、下から順にめくった。
当たりだ、長門の履歴書だ。写真も丁寧な明朝体もあいつのものに間違いない。
俺は急いでバックパックに放り込んだ。

それからの俺はおっさんとの面接も上の空、話はほとんど聞いちゃいねえ。
もう、ただただ長門の直筆を手にしたという安堵感と、
早くくだらないおしゃべりを切り上げてこの住所に行って確かめたいという焦燥感とが、俺の頭の中を入り乱れていた。

礼もそこそこにコンビニを後にした。
俺の連絡先も電話番号もどうせニセモノだ。やる気になればこっちから電話すればいい。



長門の履歴書に書かれている住所は、確かに隣の駅に近かった。
偽名を使った長門が正しい住所を書くだろうかと疑問に思ったが、
今は考えるより確かめに行くほうが先だった。他に手がかりがないこの状況では。
俺はタクシーを止めて乗り込んだ。



長門有希の憂鬱Ⅰプロローグ

長門有希の憂鬱Ⅰ一章
長門有希の憂鬱Ⅰ二章
長門有希の憂鬱Ⅰ四章

長門有希の憂鬱Ⅰおまけ


 

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最終更新:2020年05月31日 08:14