長門有希の憂鬱Ⅰ
二 章



目の前に、口をあんぐり開けたおっさんがいた。
よれよれの服を着てベンチに座っている。

「あんた……今、そこに現れなかった?」前歯が一本欠けている。
「え……ええ」
「ワシゃずっと見てたんだが。あんた、そこに、いきなり現れた」
「そうですか……?たいしたことじゃありません」人がいきなり出現したなんて全然たいしたことだろうよ。
ホームレスっぽいおっさんは俺をまじまじと見つめていた。
やがて飽きたのか、目を閉じ、うとうとしはじめた。

ここはいったいどこだろうか。俺は目をこすって周りを見た。
ほっぺたをパシパシと叩いてみた。これは夢じゃない。人が大勢歩いてる。閉鎖空間でもないようだ。
どこからか列車の発車を告げるアナウンスが聞こえた。どうやら駅のコンコースらしい。
駅の名前は見慣れない、俺の知らない地名だった。

さて、これからどうするかだが。長門を探さないといけない。
俺は携帯を取り出して長門にかけた。話中の音が鳴りっぱなしで、画面を見ると圏外になっている。
「こんな繁華街で圏外か!?」
しかたないので公衆電話を探した。
── おかけになった電話番号は、現在使用されておりません。
なんてこった。そんなはずがあるか。長門が引っ越したりするもんか。

携帯は登録されていない状態だと圏外表示になるのだということを後になって知ったのだが、
思えば、安易に電話なんかかけて簡単に見つかるだろうと思っていた俺も浅はかだった。
おかしいと思って公衆電話から自分の携帯にかけてみて、やっとそれが分かった。

ところで今はいつだ。俺はおっさんに声をかけようとして、その向こうにキオスクを見つけた。
新聞を買いに行った。ふつーによく知られている全国紙だ。
日付は合っている。俺はてっきり七月七日にでも飛ばされたのかと思っていたが。
まあ気温がそうじゃないことはすぐに肌で分かった。

時間は……と。噴水の前にあるでかい時計が午前十時を指していた。
俺の腕時計はまだ深夜二時だった。時計を十時に合わせた。

俺は切符売り場に向かった。ここがどこであれ、いったん地元に戻らないとな。
自動券売機のコーナーでちょっと立ち止まった。JRの路線図に俺の地元が載ってない。
そんなに遠方にいるのか俺は。飛行機で行ったほうが早いかもしれないな。
俺はみどりの窓口で行き先を告げた。
「お客様、ええと、そういう名前の駅はないようなんですが。何県になります?」
窓口の駅員が怪訝な顔をしてこっちを見た。
俺は地元の県名を告げた。
「あの、その県にはおっしゃる駅はないんですが……。路線名は分かります?」
ちょっと待った。なにか妙な雰囲気だぞ。いくらなんでも駅員が知らないなんてことはあるまい。
「すいません、ちょっと調べてきます」俺はあたふたとその場を去った。

路線を地図で調べたいんだが、どこかに本屋でもないだろうか。
駅を出て数分うろうろしているとネットカフェの看板が目に入った。
ちょうどいい。眠気覚ましにコーヒーでも飲もう。

ネットカフェに入り、チケットを買ってパソコンの前に座った。困ったときのぐーぐる様である。
GoogleMapで駅と地名を検索してみた。存在しない。ありえん……。
県名までは出てくるが俺の地元がない。地図上では別の名前になっていた。
もしかして最近流行の市町村合併か?いきなりそれはないよな。
それから知っている地名、建物、百貨店なんかを手当たり次第に検索したがいっこうに出てこない。
北高がない。いくらなんでも県立高校がなくなるなんてことはないだろう。だが存在しない。
俺は思い当たるもので検索できそうな単語を必死に入力した。
その影でなにかがささやく。この状況はもっと根本的なところでおかしい、と。

地元がないということは、つまりハルヒはじめSOS団のメンツ全員がいない。
おそらく俺の家もなく家族もいないということだろう。

前みたいに、少なくとも別の人生を歩んでいるあいつらがいてくれたら、長門もそこにいるかもしれないのだが。
その希望もあっけなく消えてしまうだろうと気が付いた。
暴走したときの長門を思い出して背筋が寒くなった。
日本の国土を書き換えるなんて、まさか長門……お前がやっちまったのか。

俺はその場で凍りついたまま動かなかった。

ハルヒといえば、そうだ。あの文庫本だ。
ずっと手に持っていたはずなんだが、どこにやったんだろう。
入れたつもりはないんだが、バックパックの中にあった。
「手がかりはこれだけか……」
俺はパラパラとめくってみた。さっきやったように読み返してみたが、今度は何も起らない。
初版の日付が未来にずれているだけで、ほかはいたって普通のラノベだ。
俺の知ってるやつらが出演している以外は。
しばらく腕を組んで考え込んだが、どこから考えればいいのかまったく分からない。
冷めたコーヒーを飲み干して、俺はバックパックをかついだ。

ウェブブラウザを閉じる前に、俺はやっと事件の糸口を掴む単語を入力した。
これを最初に気が付かなかったのは、やっぱり俺は推理小説やミステリーには向いてないからだと思う。
“谷川流。たにがわながる、ライトノベル作家。兵庫県在住”

真っ暗闇のなか、はるか遠くにかすかに小さな光が見えた。



一時間後、俺は新大阪行きの新幹線に乗っていた。
高速で走る車両の心地よい揺れを感じながら、いくつか分かったことを考えていた。

日時はずれていない。俺のいた日付と一致する。
だが俺の住んでいた町がない。つまり家も、北高も、SOS団のメンツもいない。
ひょっとすると日本のどこかで、俺とは接点のないまったく別の人生を歩いているあいつらがいるのかもしれないが。

この世界に存在する谷川とかいう作家が唯一の手がかりだ。接触してみれば何か分かるかもしれない。
まさか自宅に押しかけるわけにはいかないが、ちょうど書店でサイン会をやる予定らしい。
俺は自分の素性を明かすかどうか迷ったが、その結果がどうなるかは予想できないので、
とりあえず今は考えないことにした。

眠気に誘われてうとうとしはじめた。考えてみればあまり寝ていない。
夢うつつの中、俺は数時間前、部室であったことを思い返していた。



俺は深々と冷える部室で椅子に座り、(念のため長門が座っていた椅子を窓際に持っていってから)文庫本を開いた。

内容は古泉が言っていたとおり、俺が書いた風な文体で、俺の視点から見たSOS団の懲りない面々の話だった。
ページをめくる手がやや震えていた。

俺が言うのも変だが、話としてはなかなかに笑える。
古泉が実はアレだったとか、ピンチで鶴屋さんに助けられるとか、ハルヒの意外な一面とか。
まあフィクション、ノンフィクションは別として。

というかSOS団みたいな超こっけいな集団だから、なにを書いてもネタになるだろう。
確かに登場人物には、俺の知ってるメンツは出てくる。端役とも言える俺の妹とシャミセンすら出てくる。
だがエピソードは作られた話だ。季節が時間的にずっと先の話になっているし、こんなネタはまずあり得ない。
これはつまり、俺の知らないSOS団の話じゃないか。そうとも思える。

ページをめくる手が、本の半ばにかかった頃、次のエピソードに移った。
その冒頭を読んだ瞬間、俺は目を疑った。

“「不可解な現象が起こりました」
部室に入るなり古泉がしかめ面をして見せた。”

同じセリフを数日前に聞いた。同じ場所で。
さらに長門が消えて、喜緑さんがやってきて、長門に何があったのかと尋ねる。
俺が見たのと同じ行程がそこにあった。
で、その二日後に俺は長門の夢を見て、古泉に電話して……部室に来て。
文庫を開いている俺がいる。
「俺が読んでいる本を俺が読んでいる!」いやまて、その俺を読んでる俺が読んでいるわけで、
ああっもう無駄にややこしい。
これじゃまるで二枚の鏡に写る自分じゃないか。
こんな頭痛しそうな無限ループの設定を考えたのはいったい誰だ。

そこで俺が次のページをめくると、

“そこで俺が次のページをめくると、そこで俺が次のページをめくると、そこで俺が次のページをめくると、”

めくると、そこにはただ、挿絵でナスカの地上絵にあったような象形文字が。
いつだったかハルヒと俺が東中のグラウンドに描いた、あれだった。
これの意味は確か、「わたしは、ここにいる」

その言葉をなにげなく口に出した、次の瞬間。周りがぼうっと明るくなった。
俺だけが光の球の中にいるようだ。
「長門……もしかしてこれか?」お前が遭遇したのはこれなのか。

周囲は音もなく静かで、塵ひとつ舞わない。長門が消えたときのような、嵐のような衝撃は起こらなかった。
ただ、なぜか俺以外の時間がゆるやかに巡っているような感覚はあった。

部室の様子がホワイトアウトし、よくは見えないが別の風景が見えてきた。
数十秒か数分間か、意外に長かったその白い光も徐々に消えた。

喧騒のノイズが一気にボリュームを上げて耳に入ってきた。俺は人ごみのなかにいた。
目の前に、口をぽかんと開けたおっさんが座っていた。



そこで目が覚めた。時計を見ると、最初の駅を出てまだ十分しか経っていない。
新大阪に着くまで、もう一眠りすることにした。



新大阪で降りて在来線に乗り換え、大阪駅まで行った。
数時間座りつづけていた俺は腰を伸ばした。
駅のホームに降り立って、なぜだか分からないが安堵に似たものを感じた。
喧騒と排気ガスと適度に汚れた空気がそこに生きる人たちの存在を感じさせる。

谷川氏のサイン会は明日だ。それまでどうやって時間を潰すか。
とりあえず書店の下見でもしておくか。俺は地下街を通って梅田駅に向かった。

── 谷川流先生サイン会 午後二時~。あらかじめレジにて整理券をお求めください

店頭のイベントパネルにそう書かれてあった。
「すいません、明日のサイン会の整理券ってまだあります?」
「えっと、もう残ってなかったんじゃ……。
 あ、お客様、一枚だけありますわ」
「ほんとですか、くださいください」
「最後の一枚です」
レジのお姉さんのスマイルのまわりに白く靄がかかっているようで、俺には天使のように見えた。
幸先がいい。運が俺に味方しているようだ。
「漫画か小説をお買い求めいただけますか」
「ハ、ハイッ」俺は喜々として言った。もう何冊でも買って差し上げますよ。

そこにあったものは……。
「な、なんじゃこりゃ!!」
店員と、その場にいた客の全員がこっちを見た。

平積みのテーブルに、小説、漫画、DVD、販促用のノボリ、ポップ、ポスター、すべてにハルヒがいた。
書店の一角を埋め尽くす、涼宮ハルヒコーナーとでも表現しようか。

そのときの全員に見られた俺の唖然とした表情は、まったく名状しがたいものだっただろう。
「お客様、どうかなさいました?」
「え、いえいえなんでもないです。すいません」
古泉、あのときお前の言ったことは正しかったかもしれん。こりゃまさに神扱いだ。
俺はとりあえず小説を片っ端から一冊ずつ重ねて、ろくに数えもせずレジに向かった。

俺は店員に尋ねた。
「あの……すいません、涼宮ハルヒってどれくらい知られてるんですか」
「ご存知ありません?去年アニメで大ブレイクして、おかげさまで在庫が足りないくらいですよ。
 小説の発行部数が二百七十万部とか聞いてます」
「……」

これはどういう現象なんだ。ハルヒ、お前、いったいなにやらかしたんだ。
考えろ俺、この世界には俺の住んでる地元がない。なのにハルヒは存在する。これはどういうこと?

俺の世界のハルヒとこっちの世界のハルヒとは根本的に存在が違う。
アニメとか小説の類ってのは、つまり、こっちでは“架空の人物”だ。
こっちのは作られた人格で、たぶんそこにいる俺もそうだ。長門も朝比奈さんも、古泉も。

喜緑さん、あなたの言っていた未知の世界ってこれだったんですか。



この謎を解くにはどうしても谷川氏に会わなくてはならない。それが鍵だ。

俺は買い占めたハルヒ小説をバックパックに無理やり押し込んで書店を出た。
レジのお姉さんに、ここから近いネットカフェを教えてもらった。

もう一度振り返ってラノベ、いやハルヒコーナーを見たが。
どう見ても違和感を感じるくらいに派手だ。

このありさま、ハルヒのやつ、まさか他所様の世界にまでちょっかい出したんじゃないだろうな。

思えば、この世界は俺のいた世界とはなにか空気が違う。
化学的に言うO2やCO2ではなくて、雰囲気というか。
曖昧だがなにかこう安心できない、殺伐としている、といったほうがいいだろうか。
俺のいた世界ではこの感覚はなかった。どこへ行こうが、自分がそこにいるという感じがあった。
俺はこっちに来て自分の希薄さを感じている。

そんなことをあれやこれや考えつつ歩道を歩いていると、
百貨店の前を通り過ぎてからなにかがひっかかった。

目の端でずっと妙な既視感を感じていたのだが、ふと足を止めて後ろを振り返った。
この風景は前にも見たことがある。
そうだ、忘れもしない閉鎖空間。いや、閉鎖空間の入り口というべきか。

朝倉が消えた次の日、古泉にタクシーに乗せられてどり着いたのが、ここだ。
若干風景が違うような気はするが。建物の形、配置は似ている。
あのとき目に焼きついた映像は忘れもしない。

今、俺の目に映っている風景、これにどんな意味があるのかしばらく考えていた。

俺はなにかに押されるように横断歩道を歩き出した。
ここだ。ここで古泉が立ち止まり、こう言った。

── ここまでお連れして言うのも何ですが、今ならまだ引き返せますよ。

すぐ連れ戻してくれ、今の俺ならそう言いたい。

青の信号が点滅をはじめる。俺は目を閉じて数歩を進んだ。
 ……なにも、起らない。クラクションを鳴らされて俺は歩道まで走った。

なにやってんだ俺は。ここがもし閉鎖空間の入り口だったとしても、俺は超能力者じゃない。

だが俺の中にはなにかあきらめきれないものがあった。
ここと向こうの世界に、なにかつながりのようなものが欲しかった。
それから三度、同じ横断歩道をいったり来たりして、結局はあきらめた。
あきらめた後も、しばらく歩道でたたずんでいた。

知っている風景に、やっとひとつめぐり会えた。それが異空間への入り口だなんて、あまりに皮肉すぎる。

やっと出合った知った風景。歩きながら何度も振り返りつつ、俺はネットカフェに向かった。

チケットを買ってパソコンの前に座った。客は少ない。
俺はバックパックからハルヒの小説を取り出した。数えてみたが十巻もある。
憂鬱、溜息、退屈、消失……。しっかしまあ、SOS団によくこれだけのネタがあったもんだ。

憂鬱から読んでみたが、どれも俺が知ってることばかりだ。当然っちゃ当然、俺が出てるんだからな。
ハルヒとの出会いも、SOS団設立のいきさつも俺の記憶どおりだ。すべて一致する。
一致するどころか俺の口調やら性格やらを完璧に表現している。
どうやったらこんなことが可能なんだろう。情報統合思念体みたいなやつが二十四時間監視でもしてたのか。

だが昨日読んだ十三巻だけは別だった。これの内容はまったく記憶にない。

俺はウェブブラウザで、困ったときのぐーぐる様を呼び出して、十三巻のタイトルで検索してみた。
検索結果 0件。やっぱりな。まだ存在するはずがない本のタイトルが出てくるわけはない。

俺はハルヒの名前を入力してみた。数十件くらいは出てくるだろう。

── 涼宮ハルヒ の検索結果 約3,720,000件

さ……さん……ありかよ!思わず声に出してそう叫びそうになった。ハルヒだけで三百七十二万件だと!?。
あいつはこの情報社会を征服するつもりか。

── 長門有希 の検索結果 約947,000件
── 朝比奈みくる の検索結果 約677,000件
── 古泉一樹 の検索結果 約152,000件

俺はもう笑いが止まらなかった。お前ら、こんなところにいやがったのかよ。
俺はそれで安堵したというか、あきらめの境地というか。みるみる顔がゆるんでいく。
すべては妄想の産物で、現実の場所を探していたのは間違いだったわけか。

俺は我に返った。長門は現実にいるはずだ。この九十四万件余の中に必ずいるはずだ。
いたとしても探し出すのは至難の業にちがいないが。

長門有希とは-はてなダイアリー、長門有希フィギュア、長門有希の百冊、長門有希同盟?なんじゃこりゃ。
無数のうちの五十件目くらいだったか、ひとつだけ気になるサイトがあった。

── 長門有希の中央図書館

図書館か。外観の写真が載っていた。俺と長門が訪れたアレに似ている。
もし長門が俺を待っているとしたら、図書館周辺になにかを残しているかもしれない。十分考えられる。
この図書館どこにあるんだ?……西宮市か。

なにかが閃いた。俺はバックパックを担いですぐさま店を飛び出した。
コーヒーもネカフェのチケットもどうでもいい。
今すぐ、図書館へ。そこになにかがあるはず。長門はそこにいる。頼むからいてくれ。



俺は梅田から電車に飛び乗った。行き先は西宮。路線図を辿ると西宮北口と書いてある。
「これ……あの北口駅か?」
俺の知ってる鉄道会社とは名前が若干違うが、車両も知っている、このアナウンスも耳慣れている。
なんとなくではあるが、見慣れている気がする風景が車窓を流れていく。
俺は狂喜した。俺の地元はすぐそこだ、確信があった。

「北口だ!北口駅じゃないか!」
改札を出た俺はまるで、独裁政権下の圧制から亡命してきて飛行機から今降り立った市民のように
地面にキスでもしそうな勢いだった。消えたわけじゃない、名前が違うだけで実在するんだ。

目の前に広がるこの空間、ここでSOS団のメンツが集合し、喫茶店に入り、遅れて来た俺が毎回勘定を払う。
「遅い!罰金!」
そこにハルヒがいて、相変わらず制服しか着てこない長門がいて、美しく着飾った朝比奈さんがいれば、
いつもの俺の生活圏じゃないか。
まあ爽やかスマイルの古泉はどうでもいいんだが、いてくれたほうがいい。

駅前の小さな書店で市内の地図を買った。
縮尺が小さくていまいち分かりづらいが、地名を知る程度なら十分だ。
北口駅、甲陽園駅、路線名と駅名は違うが確かにある。
つまり、俺の知ってる人物はいないが、施設や建築物はある、ということになるな。

俺はこの空間のどこまでが俺の現実と一致しているのかを確かめることにした。

駅前公園から北へ数分歩く。果たしてそれは、あった。ドリーム!
忘れることがあってたまろうか。厳しい小遣いのなかからこの店につぎ込んだ飲食費は相当なものだ。

そういえばここで喜緑さんがバイトしてたこともあったな。とりあえずいつものように俺はドアをくぐった。
内装は若干違う気がするが、同じ焙煎コーヒーの匂いがして少し安心した。

いつものテーブルにつくと店員がやってきた。
顔をまじまじと見てみるが、俺には見覚えがない。
「いらっしゃいませ。お客さん、もしかしてハルヒ見ていらしたんですか」
俺が手にしている文庫本を見ながら言った。
「え…ええまあ」いつも来慣れていて馴染みの客のつもりだったが、今回は冷や汗ものだった。
俺がキョン本人だなんてとても言えない。それに俺はアニオタでもないから。

そう。この席だ。SOS団一同、市内不思議パトロールと称してただその辺を練り歩いただけの一日。
結局ハルヒが何をしたかったのか、俺にも分からん。
一度は朝比奈さんと既定事項作りに奔走したが、あれはハルヒの知るところではないはず。
コーヒーをすすりながらそんなことを思い出していた。味も香りも同じだった。

とりあえず閉鎖空間の入り口と、北口駅と、この喫茶店。
若干風景が違うものの、知っている場所が存在することは分かった。俺の既定事項はまだあるはずだ。
そうだ。図書館に行こう。

時計を見ると四時を回っていた。あまりゆっくりもしていられない。



西宮中央図書館、ウェブサイトにはそうあった。
名前は似ているが果たして俺の知るままで存在するのか。

北口駅から南西に向かって歩く。
このコース、第一回市内不思議パトロールのとき、長門と歩いた道だ。
しかし考えてみれば、市立図書館といえば北口駅のすぐ真北のビルに支所があるのに、
なんでわざわざ中央図書館まで歩いたりしたのか、我ながら不思議だ。

歩いていくと、ところどころで知っている建物は見かけた。ジロジロと見るのはまずいのでさりげなく通り過ぎた。

俺は気付いた。似ている、と、まったく同じ、とは違う。
この、部分的に似ていてその他は違うという地理、街の景観はいったい何なのだろうか。
誰がこれを作ったのだろう?。長門なら納得のいく答えを持っているかもしれない。

図書館に着いたのは五時過ぎていた。
ここから北に十分くらいのところに駅があったのだが、途中になにかヒントでもないかと思い、延々ここまで歩いた。

俺の知る図書館と外観は同じだ。中に入ると暖房の効いた部屋が俺を迎えた。人は空いていた。
さてこれからどうしたものかと、周りを見回した。長門らしき人影がいないかと、
書架をうろうろしてみたが、まったく見当たらない。歩き疲れた俺は椅子に腰かけた。

あのとき、長門に貸し出しカードを作ってやったんだったな。
俺は立ち上がって、あのときと同じ、“学校を出よう”を探した。
それから居眠りをし、マナーモードにしていた携帯に起こされたんだ。
ポケットから携帯を取り出してみたが、圏外表示は変わらない。
“学校を出よう”は離れたところで見つけた。知っているはずの文庫小説のコーナーは別の棚になっていた。

記憶喪失の患者が、記憶を取り戻しつつある状態になると、それを失う前にやっていた同じ行程を辿る。
今の俺はまさにそんな感じだった。

これから何をすればいいのか考えていなかった。考えるより先に足が進んでしまう俺の悪い癖だ。
俺は出入りする人をじっと観察することにした。万が一、知っている顔が通るかもしれない。
この時期、受験が近いからか学生が多いようだ。

腕組みをしてしばらく眺めていたのだが、ついうとうとし、気が付くとそろそろ閉館時間が来ていた。
携帯には起こされなかった。

俺はバックパックを背負って、持っていた文庫を棚に返しに行こうとした。
文庫小説の棚の前に、きゃしゃなセーラー服の後姿を見た。
「な、長門!」つい叫んでしまった。
肩に手を触れてしまい、そして振り返ったその子は、メガネをかけ、短髪で風貌は似ているのだが長門ではなかった。
「あ……すいません。人違いでした」
女子高生は顔に縦線を入れて俺を見ていた。ちゃうって、俺アニオタじゃないって。
俺は顔から火が出そうになり、そそくさとその場を逃げ出した。

俺は寝ぼけていたんだと思う。

閉館のアナウンスが流れた。時計の針が七時を指した。俺は図書館を後にした。



長門、俺がやってることは間違ってないよなぁ?なあ?
図書館で見知らぬ女子高生に話し掛けるなんて、どう見てもナンパです。本当に。
俺は間違っていないんだと、無理にでも自分に言い聞かせつつ図書館を後にした。

これで既定事項は四つ目か。

来た道を戻らず、まっすぐ北に向かって歩き、夙川駅までたどり着いた。
ここまで来たんだ、どうせなら本拠地に行こう。
そう、甲陽園駅に。その名前からして、どう考えても光陽園駅じゃないか。

俺は電車に乗り込んだ。下り線はもう帰りの通勤客でいっぱいだ。
車窓の外はもう日が暮れていた。俺は見慣れた風景が見えないかとじっと外を見ていた。
桜並木がある川沿いの公園は分かった。
朝比奈さんからトンデモ告白をされて、ハルヒが時期はずれに花を咲かせてしまったあの公園の桜だ。

甲陽園駅に着くと、登り電車になり、学生の姿をちらほら見かけた。
大阪駅、西宮北口、甲陽園駅と辿るにつれて、俺の郷愁がうずく。少しずつ核心に近づいている気がする。
だがそいつらのは見慣れない制服だった。

駅を出て坂道を登る。
そう、俺が目指しているのは長門の住む、もしくは住んでいるはずのマンションだった。
ちゃんとある。マンションが見えたが、若干違う気がする。玄関口は似ているが。

四年前の七夕の日、そのときの長門は初対面の俺と朝比奈さんを迎え入れてくれた。
誰も頼れる人がいない、見知らぬ場所(厳密には時間だが)で長門に会ったとき、安堵の溜息が出たものだ。

正直、長門がそこにいるとは思ってはいなかったが、俺は一縷の望みにかけた。
俺はオートロックのインターホンで七〇八を押した。この馴染みの番号を押すのは何度目だろう。
「宅急便です、斉藤さんちはこちらでよろしいでしょうか」
スピーカーから聞こえてきた怒鳴り声は、長門の声とは似ても似つかないものだった。
「ちょいとアンタ!またオタクの人!?いいかげんにしないと警察呼ぶわよ!」
「スイマセン!」
なんだなんだ、宅急便が嫌いなのか?俺はそそくさと退散した。

アニメオタクとは人聞きの悪い。
えーとつまり、長門がここに住んでると思ってるやつがいて、
ここの住民はそいつらのいたずらに迷惑しているということか?。

ここのインターホンにはカメラが付いてたんだった。うかつだったな。
せめて配達員らいし帽子でも被るべきだった。



さっき怒鳴られた声で一気に疲れが出た気がする。腹も減った。とりあえず大阪駅に戻ろう。
いつもの俺ならこの時間に登りの電車に乗ることはないんだが、下校する学生に混じって梅田駅を目指した。
俺の北高はこっちではどうなってるのか確かめたいところだったが、今日は撤退することにした。時間も時間だ。
それに今晩どこに泊まるか考えないといけない。

午前中に行った二十四時間営業のネットカフェで深夜パックを買おうかと思っていたのだが、甘かった。
「お客さん、学生さんよね。ごめんねー、十八才未満の人、十時以降はだめなんだよねぇ」
「あ、そうなんですか……。あの、実は今日行くところがなくて……。一晩だけお願いできませんか」
俺はすがるような目でレジのおばちゃんを見つめてみた。
「ごめんねぇ。最近、青少年条例とやらが厳しくてね。夜たまにおまわりさんが巡回してくるのよね。
 未成年を泊めたことがバレたら営業停止させられちまう」
俺のために営業停止に追い込むわけにはいかない。これ以上は頼めなかった。
となると、あとはまっとうな宿泊施設か。まっとうと言ってもそんな高い料金は払えない。
風呂に入るのもいいかと思い、カプセルホテルに入ってみた。
「あー、お客さん身分証とかある?十八才未満はだめなんだわ。ジョウレイよジョウレイ」
「はぁ。そうなんですか」ここもだめか。

残るは観光ホテルだが、この辺の高級ホテルは一泊二万くらいはするだろう。そんな金額とても払えない。
こうなりゃ野宿するしかないか。この寒風吹きすさぶ師走にか?。

二十四時間のファミレスとかで時間を潰してもかまわないんだが、それこそ補導されてしまう。
そんなことになったら身元を証明するどころか、病院送りにされるのがオチだ。
アッチの世界から来ました、なんてとても言えない。

駅ビルのハンバーガーショップで晩飯を食いながら、これからのことを考えた。
もしこのまま長門が見つからず、向こうの世界に帰ることもできなかったら。
簡単にあきらめるわけにはいかないが、これが長期戦になるんだとしたら、
とりあえず食っていくことを考えないといけないかもしれない。しかし住むところもないしな。
ドヤ街でしばらく寝泊りして、学生OKなバイト先を探して、なんて柄にもないことを考えていた。

俺はMサイズのコーラをズルズルと飲み干して店を出た。

駅周辺をあてもなく歩いていると、ガード下に段ボールのかたまりを見つけた。
ホームレスが住んでいるらしい。あれ、借りようかな。
ちょっと躊躇したが、贅沢は言ってられない。

俺は一度、駅ビルに戻った。荷物を全部コインロッカーに預け、身軽にしておく。
財布から札を抜き取り、二~三千円だけ持っておく。
手土産にコンビニで酒とつまみを調達したいんだが、未成年の俺に売ってくれるだろうか。

客が多いコンビニを選んで入った。缶ビールを数本、袋のつまみ、弁当をカゴに入れてレジに並んだ。
店員はチラと俺を見たが何も言わなかった。
どう見ても十八才未満なのにな。汚れた格好してたから見逃してくれたのか。

うす暗いガード下に行った。
電車がひっきりなしにガタゴトと音を立てている。こんなとこでよく眠れるよな。

ホームレスは数人いるようだ。リヤカーに畳んだ段ボール箱が山積みしてあった。
あれを一枚だけ分けてもらおう。

俺は多少はマシそうな格好をしているホームレスのおっさんに話し掛けた。
「あの、スイマセン」
ちょっと怖かったが、ここで寝るにはどうしてもホームレスの許可がいりそうな気がした。
「なんだぁ役人か!ワシはここから動かねーぞ!」
「いえ、違うんです。段ボールを一晩貸してもらえないかと」
「ワシの家を貸せだと?どこの馬の骨か知らんテメェに貸すような──」
「差し入れもあります」俺は缶ビールを差し出した。
それをまじまじと見て、おっさんは考え直したようだ。

「ガハハハ。まあ座れ。あんちゃん、家出か」おっさんは歯の抜けた口を大きく開けながら笑った。
「いえ。家に帰りたいんですが、今日は泊まるところがなくて」
「そうかあ。ま、人生にはそういう日もあるわなぁ。とりあえず飲め」
「はい。いただきます」俺は正座して自分が買ってきたビールを飲んだ。
ほんとは飲めないんだが、付き合っていたほうがよさそうな雰囲気なのと、
正直酔っ払いたい気分でもあった。
「あんちゃん、正座なんかしねーで足くずせよ。ミカーサ、スカーサって言うだろ」
このおっさん南米人か。

おっさんとぼそぼそと話しているとまわりのホームレスが集まってきた。
「サンちゃん、珍しくお客さんかい。もしかして息子かい?」
「子供がいたなんて初耳たぜサンキチ、おめー隅におけねーな」
「女に縁のないワシに息子がおるわけなかろうがバカタレ」おっさんは唾を飛ばして怒鳴った。

「で、あんちゃん、親父と喧嘩でもしたんか?」おっさんは俺の肩を叩いた。
「いえ、そういうわけじゃないんですが」
「ワシなんかよ、十五歳で家を飛び出してそれっきりよ。あ、一度だけ帰ったかな。妹の結婚式に。
 そんときゃ親戚一同からどやされてよ。何しに帰ってきやがった!よ。
 オレは思ったね。これが血を分けたやつらの言うことかよ、とね。それっきりよ」
おっさん達が涙ぐんでいる。なんなんだ、この安いドラマみたいな展開は。
「んだんだ。遠くの親類より近くの隣人ってやつだぁ。
 昔から言うべや、袖の触れ合うも多少の縁、てな」

「で、あんちゃん、親父と喧嘩でもしたんか?」酔っ払いは何度も同じ質問をする。
「いえ、実は人を探してまして」
「コレか」おっさんが小指を立てた。まわりがドッとはやし立てた。
「憎いわね、この色男っ」シナを作ってみせるおっさんたちに鳥肌が立った。
「で、どんな女よ?」だから違うって。
俺はポケットから長門の写真を取り出した。
「こっちの、髪の短いほうなんですが」
「どれどれ見せてみい。おおっ!えらくベッピンじゃねえかよ」
見せろ見せろと、おっさん達の間で写真の取り合いになった。
俺にはそれが女に餓えたケモノの群れのように見えた。頼むから破らないでくれよ。

サンちゃんと呼ばれたおっさんが俺の目をまっすぐに見つめて言う。
「あんちゃん。ワシは女を見る眼はないが、人を見る目はある。
 この二人、どっちを選ぶかであんたの人生は大きく変わる」
このおっさんは神がかったことを言う。どっちを選ぶって、なにを選ぶんだ?。

もう歳も暮れ、寒風が吹き付ける大阪のガード下、電車が通るたびにガンガンと耳が鳴る一角で、
妙に若いホームレスが混じった酒宴が賑やかだった。
こっちの世界に来てはじめて何かの暖かさを感じた気がする。
おっさんたちの、酒臭い息にまじった苦労話を聞きながら俺はうんうんと生返事をした。

それからどうなったのか、記憶があやふやだ。
ただ、まわりの風景がぐるぐる回りだしたところまでは覚えている。






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