文化祭の午後の部、俺たちの演劇が始まった。
出番がない間にも台本を読み返して忙しい。
佐々木がいれば皮肉のひとつやふたつも飛んで来たかもしれないが、反対側の控え室だ。
体育館のステージは両脇がぶち抜きで控え室と繋がっている。
かなり段差があるから、控え室から舞台となるステージはほとんど見えない。
ステージは佐々木の身長より少し低いぐらいだな。階段がなければ女子は上るのも一苦労のはずだ。
「キョンくん、出番。テラスに出て」
「ああ。堂々と教卓に立てばいいんだな」
文化祭実行委員は渋い顔をした。
「テ・ラ・ス・で・す!」
無闇に強調してくる。痛いところを突かれた自覚はあるらしい。
我がクラスの大道具係はやる気がなかったようで、舞台セットはかなり貧相だ。
廃棄前の教卓を重ねて接着剤やら木材やらで補強した物体がテラスというのだからお粗末にも程がある。
見栄えのためか、白い布がかぶせてあるが俺の足が滑りやすくなっただけだ。
ホームセンターの園芸コーナーで売ってそうなプラスチック柵が物悲しさをレベルアップさせている。いっそ無いほうがマシだ。
俺が苦労してセリフを覚えたというのに、この手抜きっぷりはなんだろうね。泣けてくるぜ。
幼稚園児だってテラスだと思うまい。
ジュリエットがいくら愛の言葉を並べ立てても台無しだ。
胸元の小型マイクがしっかり付いてるかを確認する。
これのおかげで、普通に喋ってもセリフが体育館の奥まで届くのだ。
広い体育館に響き渡らせるほどの声量を持続するのはハードルが高い。
もともと合唱部でも演劇部でもないからな。
だが滑舌を良くしろと発生練習をやらされた。佐々木に。
あいつ密かにこの演劇に乗り気なんじゃないのか。
日曜も別れ際までセリフ使ってたしな。
何が佐々木の心の琴線に触れたのだろう。俺には想像つかない。
舞台袖に隠れるように置かれた脚立に上って、テラスという名の教卓に飛び移る。
衣装をロミオ風にしてもらって良かったぜ。ドレスでこれは無理がある。まずこける。
全校生徒の視線を浴びているが、俺は足を踏み外さないことに注意していた。
ジュリエットがテラスから落ちたら取り返しが付かないからな。
もし落ちたら避けてくれよ、佐々木。
佐々木には、俺が落下した場合は迷わず逃げてくれと一応言ってある。
怪我をさせるなんてとんでもない。
俺のほうでも努力するが、激突する可能性はゼロじゃない。
俺の登場を見て取った佐々木は、美しさに心を奪われたロミオを演じ始めた。
俺はその様子を見ていない。ジュリエットはロミオにまだ気づかない設定だからだ。
「美しい太陽よ、昇ってください。嫉妬深い月なんか殺してしまえばいい」
ここで言う太陽とはジュリエットのことだ。ロミオにはジュリエットが朝日の光のように輝いて見えた。
「月があんなに悲しげに青ざめているのは、あなたの美しさにおびえているせいです」
えーと、ここで俺は頬に触るんだったよな。
自分の役割を必死で思い出す。
ロマンチックな展開のはずなのにピエロの気分だ。
「わたしがその手にはめる手袋だったら……そうすればあなたの頬に触れられるのに」
佐々木は練習の時と変わらず、そつなくこなしている。
大勢の前でもお構いなしだ。
「もう一度話してください、輝く天使さま」
あいつは本気で聴衆がカボチャやキャベツに見えてるんじゃないか?
全校生徒を完璧に無視して俺に呼びかけている。
佐々木の姿を見られなくてもそれくらいはわかるさ。伊達に半年一緒じゃない。
さて、俺の番だ。
ロミオとジュリットで一番有名なシーンだな。
「おお、ロミオ、ロミオ。どうしてお前はロミオなんだ?」
佐々木のいる下ではなく、天井のほうを見る。
アルミホイルか銀色の折り紙で作った月が揺れている。
ステージ回りの黒い幕にセロハンテープで貼っただけの紙だ。
はっきり言って、テラスもどきより貧相だ。なんだこのペラペラな物体は。
月に代わっておしおき…じゃない、苦情を言おう。月への侮辱だ。謝れ。
ところで、だ。月よりも重大な問題がある。
……セリフが出てこない。
俺は言葉を切ってしまった。月の貧相さに思考が止まったんだ。
ああ、醜い言い訳だな。
ここはかなり長いセリフを言わなければならなかったはずだ。
ロミオに独り言で求愛する悪夢のような内容だ。
舞台は静まり返っている。早く言わなければ!
ここでジュリエットの独り言がないと物語が進まないんだ。
くそ、気持ちだけが空回りして出てこない。
俺がセリフを言い終わるのを待っている佐々木の顔が思い浮かんだ。
想像の中でもあいつは偽悪的に笑っている。
すまん、セリフを忘れちまった。お前があんなに練習に付き合ってくれたのにな。
想像の佐々木が呆れを含んだ息を吐き出した。
そして彼女の声が舞台に響く。淀みのない、澄んだ水のような声。
「あなたは何故わたしがロミオという名を持つのか尋ねました。
何故と問うなら答えましょう。わたしがモンタギュー家に生まれたからです」
俺は思わず下を見る。本物の佐々木と目が合った。
ああやっぱり綺麗だなと、場違いな感想を抱いた。
どこから見ても深層のご令嬢だ。男子のファンは今日でかなり増えただろう。。
「人は自分の許容量を越える災厄に見舞われたとき、意味なく問います。
なぜ自分がこの状況に置かれたのかと。なぜあなたがそんな運命にあったのかと。
理由を聞くつもりもないのに誰かに問います。遠回しな嘆きの言葉です」
情緒があるんだかないんだか分からん言葉だな。
小難しい物言いを一応ロミオ風にしているようだ。
「わたしも問いましょう。あなたは何故わたしの名を嘆いたのですか」
「それは……」
言ってしまっていいのだろうか。
練習の合間に聞いた佐々木の解説によると、独り言だからこそジュリエットの求愛が成立したらしい。
どうすりゃいいんだ。
テラスもどきの下にいる佐々木は真っ直ぐ俺を見ている。
「もしわたしを信じてくれるなら、思うままにあなたの気持ちを語ってください」
ああ、お前がそう言うならいつだって信じるさ。
俺はジュリットの設定を思い返した。
ロミオと敵対する家の跡取り娘。良い家の婿をもらうことが決められている籠の鳥。
憎むべき敵に恋した14歳の少女……。
「俺は名前に縛られている。名前のせいで会いたい人に自由に会えない。
名前って何だ? そいつは人生を決定するほど大層なものなのか?」
「あなたの家は名を重んじて来た先祖によって長く続いたのです。
その生を受けたのも、これまでの成長に使った財も、現在召使いを持つ身分であるのも、全てあなたがキャピュレット家の跡取りだからです。
過去があって現在がある。あなたを形作った物が重大ではないとでも?」
おい佐々木、ロミオ役ってこと忘れるなよ。
だいぶセーブしてるようだが、お前の性格が出てるぞ。
「俺だって重いと思うさ。これまで親に養われて来て、跡取りの名を捨てるのは自分勝手だ。
だが家の生贄にされたんじゃ何のために生まれてきたのかわかりゃしない」
どうも想像しにくい世界だ。身近に置き換えてみよう。
実は家同士が仲悪いからなんて理由で佐々木と縁切れと言われたら、俺は絶対反発する。
友達でもそうなんだ、恋人と離れるのは辛いに決まっている。
「俺は大事な人と一緒にいたいと思うことが間違いだと思わない。最後まで抵抗してやる」
「親が生涯かけて守ってきた物を壊すことになるでしょう。
一人の人生が…いえ、家と名に価値を見出してきた大勢の人生が無意味になります」
そこまで言われるとキツイな。
俺は名家の重みってのがわからんが。
「それでもあなたは名を捨てることを選びますか?」
問いかける佐々木の目に不満が宿っている。
好物が山盛りになってるのに一口しか食べられない子供のようだ。
……お前、まだ語りたいんだな。
我慢しろ。後でいくらでも付き合ってやるさ。
リアリストのお前が好きなだけ喋ったら舞台は木っ端微塵だ。砕かれたロマンチシズムの砂さえ残らん。
家とやらのロマンまで破壊しそうだ。
「俺には名より優先したいものがある。俺が愛したのは名前じゃない。
バラと呼んでいる花に別の名前を付けたとしても、甘い香りや美しい姿はそのままだ。
だったらロミオも別の名前で呼ばれても、その完璧な魅力が消えたりはしない」
もうジュリエットの独り言なんてどうでもいい。
家を捨てる覚悟が出来てるなら、どばっと行け! 行くなら行けよ迷わずに!
「もし舞踏会でのやり取りが本物の想いなら…俺を想うなら、俺への愛を誓って欲しい。
そうすれば俺はキャピュレット家の人間でなくなり、今日からお前の恋人になろう」
「……あの木々の梢を美しく染めて輝く、銀色の月にかけて誓います」
よし、このセリフで軌道修正になったはずだ。佐々木も思い切って省略したな。
合間に何度かやり取りがあったんだが。
俺を見つめる瞳は『キミのせいだ』と言いたげで、責任の所在を俺に求めていた。
いや、実際俺が悪いな。
残りはド忘れしないようにするから許してくれ。
俺たちは、というかロミオとジュリットはなんとか結婚の約束まで無事に済ませ、劇を本来の流れに戻すことに成功した。
実行委員を始めとするクラスメートの注意を流しつつ、台本に目を通す。
説教は後で聞くから暗記させろってんだ。
舞台と体育館のスピーカーからは佐々木のセリフが聞こえてきていた。
しかしジュリエット役の俺は内容をじっくり聞く余裕などない。
「キョンくん、次の出番終わったら急いでこれに着替えて」
衣装係の女子が上下一揃いの服を押し付けてきた。
他にも衣装係はいるんだが、積極的に動き回ってるのはいつも同じやつだ。
「サイズは大体あってるはずだから」
「いや、これスーツじゃねえのか」
「そうだけど?」
普通に聞き返された。
「なんでこれに着替えるんだ」
「女装嫌って言うからわざわざ用意したんじゃない」
そもそも着替える理由がわからん。
「理由は後でわかるよ。じゃ、着替えといてね」
女子は控え室の扉から出て行った。反対側の控え室に行ったんだろう。
悪戯を仕掛けて相手が引っかかるのを今か今かと待ってる子供みたいな顔をしてたな。何を企んでるんだか。
出番を終わらせた俺は、よくわからないまま着替えた。
男しかいないから周囲への気遣いは不要だ。むさくるしい空間とも言うな。
俺のクラスはなんでか男女で控え室を分けている。本来そんな決まりはないんだが。
制服以外でカッチリした服を着るのはいつ以来だろう。
用意された鏡に全身を映してみる。…どことなく落ち着かない雰囲気だ。
まともに正装したことがないのが丸分かりだ。
「うわー、キョン似合ってねえなあ」
「七五三みたいだよね」
「るせえ」
野次にぞんざいな答えを返し、余った白いハンカチを手に取る。
三角形の形にやたら丁寧に折られている。
なんだって劇にハンカチが付いてくるんだ? 意味ないぞ。
再びやって来た衣装係は俺を見るなり、生徒に変な回答を聞かされた教師のような顔をした。
「全体的にだらしなーい。タイ曲がってるし、ポケットチーフもつけてないし」
「ポケットチーフ? このハンカチか?」
「胸のポケットに入れるの! 乱暴に掴まないでよ!」
彼女は怒りながら俺の衣装をまともなものにしていく。
「もう、正礼装の基本じゃない」
知らないものは仕方ないだろ。まだ中学生なんだ。
佐々木がいれば由来や時代背景の講釈つきで教えてくれたんだろうが。
「最低限の身だしなみまで彼女に頼ってちゃ振られるわよ」
「振る振られるもあるか。あいつとは、そんなんじゃねーって」
「はいはい」
服装を整え終わると女子はまた出て行った。忙しないことだ。
誰もいないステージに流れていたナレーションが終わり、また俺の出番になった。
舞台に出る前に、これからやるシーンを思い描く。
……ああ、スーツはこれのせいか。今頃納得する。
わざわざ専用の衣装が用意されたシーン……それは、ロミオとジュリエットの結婚式だ。
無駄に手が込んでるな。
そういや、練習でやった時も、佐々木のドレスはそのままだがヴェールをかぶっていた。
わざわざ結婚式用に借りてきたらしい。
本当は俺を驚かせたかったが、ぶっつけ本番で俺がヴェールを後ろに流す動作をやれるか疑わしいので、練習でもさせることにしたそうだ。
悪かったな、そういうことに気が回らない性格で。
その分のサプライズがスーツなのか?
スーツなんざ用意しなくて良かったのにな。衣装係は気合い入れすぎだ。
衣装係と大道具係の温度差が凄まじい。
手抜き全開の道具係は腹立つが、全力投球の衣装係も嫌なもんだ。着るのは俺なんだぞ。
まったく、ロミオの通常衣装は何度も試着させられたし、キラキラした装飾がついてて居心地悪いし、今度は着慣れないスーツと来たもんだ。
貧乏くじ引いたとしか思えないね。
「そんなことはないよ」
俺の愚痴を聞いていた国木田がまるっきり他人事の声音で気楽に言った。
「今のキョンと代わりたいって男子は多いはずさ。学年問わずね」
「俺はこのために多大な苦労をしたぞ」
何時間を暗記に費やしたと思ってやがる。
受験の時期にそんな物好きはそうそういないだろ。
「セリフを覚えた努力は脇に置いてよ。たった今、現在進行形の話だよ。
ほんとに譲ってもいいの? これからやるシーンはキョンが一番知ってるでしょ」
ああ、もちろん。
忘れるほどボケてはいない。
「……まあ、俺がやるのが一番無難だと思うが。アホに譲ると何が起きるかわからん。
でも出来ることならこんな劇は今すぐ降りたいね」
「素直じゃないなぁ」
「お前がやるか? 遠慮はいらんぞ」
「彼女に恨まれたくないし、キョンも後悔するから謹んでお断りするよ」
国木田は爆笑寸前といった感じだが、笑うのを堪えていた。実際は堪えきれずに唇が微妙に動いてやがる。
「ほら、さっさと行った」
「おい押すなって」
国木田に半ば強引に送り出された。
「ったく何なんだあいつ…」
文句を言いかけた俺は途中で言葉を失った。
頭の中で連ねていた言葉なんて途切れて真っ白になっちまったね。
俺は、生まれて初めて、自分の耳が赤くなっていく音を聞いた。
ステージには佐々木が立っている。ああ、それは予想するまでもないことさ。
ただ、衣装が――白いウェディングドレスだった。
ふんわりした感じのスカートは佐々木にこの上もなく似合っている。
腰より長いベールをかぶってはいるが、透ける布は佐々木の顔をほとんど隠していない。
手に持つブーケの色はピンクと白だ。それがまた彼女の愛らしさをいっそう引き立てる。
華やかで美しいドレス姿はどこかの国のお姫様だと聞いたら信じてしまいそうだ。
俺は馬鹿みたいに立ち尽くし、瞬きすら忘れて見入っていた。
どれくらいそうだったかは自分じゃわからない。
佐々木が何か言って俺に近づいてきた。驚いて見返す俺の手を軽く握る。
「すべてが夢で、ここに来て誰もいなかったらどうしようと思っていました。
胸が張り裂けて死んでしまうんじゃないかって……」
上目遣いで俺を見つめる佐々木。
やばい、その目は反則だ……。くらくらきた。
潤んだ瞳が不安げな表情と相乗して凶悪な破壊力だ。
俺は声も出せないまま、ほとんど夢心地で佐々木を見つめる。
他のことなんて頭からすっかり飛んでいってしまった。
俺を現実に引き戻したのは低い男の声だ。
「そこのご両人、お取り込み中まことに申し訳ない」
ロレンス神父役の須藤は笑いを噛み潰していた。国木田がしていた表情とよく似ている。
「見惚れる気持ちはわかりますが式はこれからですよ」
お前にそんなセリフはないぞ。勝手なアドリブ入れやがって。
だが放っておかれたら忘我の淵にいたままだった。こっそり感謝してやらんでもない。
そういえば佐々木がさっき言ったのはジュリエットのセリフだ。
俺が惚けてるからフォローしてくれたんだろう。
また佐々木に迷惑かけちまったな。佐々木の前でぼけっと突っ立って格好悪いところも見せてしまった。なんてこった。
自己嫌悪が襲って来る。
見た感じ、佐々木は機嫌を損ねてないようだ。
多分こいつも知ってたな。予想済みってわけだ。
ぶっつけ本番で合わないかもしれないドレスを渡されて大人しく着る性格じゃない。
俺以外のクラス全員がグルになっての企画と考えるべきだろう。
とんでもないやつらだ。暇人どもめ。受験生の身分を忘れたか。
佐々木は握っていた俺の手を離した。白い手袋をはめた手が俺の胸元に移動する。カチリと小さな音がした。
俺が入れ忘れていた胸のマイクのスイッチを入れたようだ。
ああ、さすが佐々木。抜け目がないね。
物言いたげな目を俺に寄越してから、佐々木はステージの反対側へ歩いていった。
教卓を無理矢理に飾りつけた祭壇の前で足を止める。
まわりの小道具の酷さが泣けるね。ドレスが本格的だから尚更貧相に見える。
どこから持ってきたんだ、あのウェディングドレス。本物じゃないのか?
レンタルでも万単位の金がかかるって聞いたんだがな。
そしてパイプオルガンのBGMが流れ始めた。荘厳な音楽。結婚式に流すのに良さそうな曲だ。
……お前ら、そこまでするか? 練習じゃBGM無かったぞ。
馬鹿馬鹿しい気分になってきた。
だが演技は続けなければならない。
花嫁姿のロミオが待つ場所へと、正装した俺がゆっくり進んでいく。
観客席がざわざわしてるがもう知らん。知らないからな。
「逆じゃねえの?」「わ~先輩綺麗~」「でも佐々木先輩だけ浮いてない?」なんて声は俺の知ったことではない。
須藤め、笑ってるんじゃねえ。
なんで俺が、いたたまれない気持ちにならねばならん。俺は被害者だ。
俺が佐々木の横に並ぶと、須藤は軽く咳払いをした。
「今日、神の御名において結婚の儀を行う」
練習では本番になったらやるからと逃げ回っていたが、とうとう本番だ。
教会式の結婚式ってのは、あれだ……お約束が待ってるんだよ。
国木田に『俺がやるのが無難』と答えた理由はそのお約束にある。
「愛は、寛容にして慈悲あり。愛はねたまず、愛は誇らず、高ぶらず、非礼を行わず、おのれの利を求めず、憤らず、人の悪を思わず、不義を喜ばずして、まことの喜ぶところを喜び、おおよそ事忍び、おおよそ事信じ、おおよそ事望み、おおよそ事耐うるなり。愛はいつまでも絶ゆることなし」
これは聖書の一節だ。新約聖書コリント前書第13章。
実際の結婚式で使われることもあるんだとか。
須藤よ、お前は将来友人の結婚式で神父役を急に頼まれても務まるぜ。
「新郎、ロミオ・モンタギュー。
汝この女子を娶り、神の定めに従いて夫婦とならんとす。
汝は順境なる時も逆境なる時も、健やかなる時も病める時も、富める時も貧しい時も、この者を愛し、敬い、助け、命ある限り変わらぬ愛と忠誠を誓うか?」
「誓います」
佐々木のやつ、ためらいなく答えやがった。
女子の憧れ(らしい)結婚式だぞ。簡単に言うなよ。
文化祭の出し物とはいえ、俺なんかを相手に誓って抵抗はないのか。
「新婦、ジュリエット・キャピュレット。
汝この男子に嫁ぎ、神の定めに従いて夫婦とならんとす。
汝は順境なる時も逆境なる時も、健やかなる時も病める時も、富める時も貧しい時も、この者を愛し、敬い、助け、命ある限り変わらぬ愛と忠誠を誓うか?」
……まあ、ここまで芝居がかってると吹っ切れるな。
「誓います」
俺も答えたので式は次の段階に移る。
ロレンス神父は、二つの指輪が納められた箱を取り出した。
「さあ、指輪の交換を」
その言葉に従い、佐々木は指輪を俺の左手にはめた。当然薬指だ。
俺もまた佐々木の左手に指輪をつけてやる。
…………ここまでは問題ない。正念場は次だ。
須藤による、死刑に近い宣告が振った。
「口付けをもって二人の結婚の儀を認める」
教会結婚式のお約束――誓いのキス。
いや、フリだけだぞ。本当はしないんだぞ。
ただな、たとえフリといっても女子とそこまで顔を近づけて平静でいられるわけないし、佐々木はかなりの美少女で、よりいっそう俺の心をかき乱してくれることが容易に想像できる。
しかも現在、彼女はとびっきり綺麗だ。
さっき頭の芯が痺れた感覚はまだ残っている。
ヴェールを持ち上げながら後ろの方へ流してやる。
半透明のヴェールで少し見えにくかった佐々木の顔がはっきり目に映った。
ああ、なんだってお前はまた上目遣いなんだ。
ただでさえヤバイのに、これ以上追い詰めないでくれ。理性の防御力は既にゼロだ。
心臓の音がやけにうるさい。全身に響くようだ。
俺を見つめていた佐々木はやがて目を閉じた。それに誘われるように俺は顔を近づけていく。
パニック寸前だ。理性と煩悩が激しく戦っている。
このまま本当にキスをしてしまいたい。だけど卑怯だ。佐々木に悪すぎる。
でも佐々木がこんな格好で上目遣いなんかしたから、俺の理性が死にかけているのだ。
佐々木にだって責任の一端はあるのではないだろうか……。
これが酷い言い訳だってわかってるさ。自分を正当化するために佐々木を貶めるなんて醜い話だ。
分析する理性へ、欲望は端的に要求を告げた。
――こいつが欲しい。
理由も責任も関係ない、したいだけだと。
くそったれ、何が無難だ俺がマジで唇を奪おうか考えてるじゃねえか。
せめて声が出せたらいい。「本気かな、キョン」と笑い混じりに言って欲しい。冷ややかでもいい。
そうすれば俺は止まれるから。
だがこの状況で佐々木が言葉を零すことはないと知っていた。俺から聞くこともできない。
いつの間にか俺も目を閉じていた。佐々木の吐息を感じる。演技ならここまで近づけば十分だ。
あとは距離を取れば終わりだ。離れるべきだ。離れろよ俺。
佐々木もどうしてそのままなんだよ。佐々木から遠ざかってくれたら俺だって諦められるぜ。
頼む、早く。早く。
早く……キスしたい。
時間に換算すれば1分に満たない中、俺は最悪に混乱していた。