月間佐々木さん~monthly gloom~


 四月

「あれ。キミって……塾で」
 プリントを渡そうと振り向いた矢先、後ろの席の男子に話しかけられた。
「塾? ……君もあそこかい? 駅前の?」
 正直に言って、記憶になかった。わたしは日頃、塾で人とあまり話さなかったから。
「よろしくな。俺の名前は――」
 彼が先に自己紹介をした。わたしも彼に続く。
「僕は佐々木。どれくらいの付き合いになるのかは解らないけれど、どうぞよろしく」
 わたしの言葉に、彼はしばし瞬きを繰り返してぽかんとし、
「あぁ……こちらこそ」
 野球のボールを投げたらサッカーボールが転がってきたみたいな驚き方。無理もない。わたしは生物学的には女に分類されるのだから。

 男子相手に初めて話をした時の、こうしたリアクションには慣れていた。
 そう、男を相手にする時、わたし自身も男になる。
 理由はいくつかあったけれど、そのすべてをわざわざここで並べようとは思わない。
 ただ、一つだけ言うのなら、わたしはすべての人から同性として見られたい。それだけだ。
 それが、わたしの持つ数少ないエゴイズムだった。

 

「いや、実に面白いあだ名だと思うよ」
 苦笑するわたしに彼は、
「むぅ。まさか自分からこの忌々しいニックネームで呼んでくれる相手を増やしちまうことに
なるとは、計算外だった」
「名は大切だよ。確かに、単なる文字の羅列だと思ってしまえばそれまでかもしれない。しかし、そうした呼称が変化すること、それはすなわち両者の間柄が変化した、あるいはすることに他ならない。僕自身が気に入ってしまったというのもあるけれど、やっぱりその愛称で呼ばせてもらいたいな。キョン」

 キョン。それが彼の愛称だった。

「無念だ」
 キョンの呟きは昼休みの教室に吸い込まれた。
 学年が上がったばかりの新学級には、窓から絶え間ない春風が吹き込む。
 わたしはこの時、まだ彼に関して特別な感想を持っていなかった。
 この時は、まだ。

「前のクラスで同じだった奴があまりいなくてな。誰の陰謀か知らんが」
 出し抜けにキョンが言った。わたしは彼に向き直って、
「おや、そうなのかい? ……そう言えば、僕のほうは結構見覚えある人がいる気がするね」
 そう言うとキョンはわずかに顎を引いて、
「前から思ってたんだが、クラス分けってどうやってるんだろうな。やっぱ単純にクジ引きか?」
「さてどうだろうね。もし均等に四クラスに分けたとしたら、君と僕とで知っている人数に差
が出るなんてことにはならないと思うけど」
 キョンは考え中のポージング。……悪くない。

 

 今までいろいろな人と話してきたけれど、わたしにとっての彼は、話し相手としてなかなか
優秀なんじゃないかと思える。
 キョンは思いついたように、
「今回もだが、毎度新クラスになる度肩透かし食らったような気分になるのは何でだろうな」
「それはひょっとして、今君が望んだ相手と同じ教室にいないという意味かい?」
 キョンはコンマ四秒ほどぎくりとし、それから慌てて首を振ると、
「ち、違う! 断固としてそんなんじゃない。もし俺がうろたえてる風に見えるのなら、それ
もまた単なる見間違いだ。目の錯覚だ」
 ジェスチャー混じりの必死の訴えに、思わず笑ってしまう。
「冗談だよ。それに、その手の話は僕にとって興味の対象外だ」
 キョンはわたしの言葉に眉を妙な感じに波打たせた。
「ん、二人して何の話?」
 丁度窓際にやって来た国木田が話しかけてきた。
「いや、このキョンの恋愛対象について――」
「違うっての!」

 いい話し相手だ、と。そう思った。
 五月

『消しゴム貸してくれ。落としちまった』
 塾のテスト中、そう書かれたメモ用紙が後ろの席から回ってきた。
 目の端でとらえると、キョンが頭を伏せるようにして懇願の仕草。
 わたしは使っていた消しゴムを半分に割って、前を向いたままで、後ろに渡す。
「サンキュー」
 囁くようなキョンの声。一瞬だけ手が触れる。消しゴムが無くなる。

 ――。

「終了十分前」
 思いかけた何かを講師の声がどこかへ追いやる。
 机の上には、自重が半分になった消しゴムが転がってしまわぬように頼りなく乗っていた。


「助かったぜ。シャーペンの消しゴムすらないと気づいた時には冷や汗かいた」
 帰り道。バス停までの道すがら、自転車を押しながらキョンが言う。
「このくらい何でもない。それで君の答案作成がはかどるのならね」
 そう言うとキョンは危うく立ち止まりかけ、
「お、おう。そりゃもうな。おかげで解答欄に最低二人は歴史上の偉人を正しく書き加えるこ とができたと思うぜ」
 虚勢のように胸を叩くキョン。

 


 静かな夜だった。そしてそれは、未来に立てばもう思い出せないかもしれない、何でもない日常の一ピースだった。
「しかし、こう単調に毎日が過ぎると、また例のエンターテインメント症候群とやらがぶり返
しちまいそうだ」
 キョンがわずかに顔を上げるのが目の端に映る。
「そうだね」
 わたしも彼に続く。晩春の夜空は、吹く風こそ気持ちよかったものの、そこに星や月を見ることは叶わなかった。
「佐々木?」
 呼び声に引き戻される。
「ん。何かな」
「いや、ぼーっとしてるからさ。らしくないなと思って」
 わたしはふっと息を吐いて、
「そうかい? だとしたら僕も件の症状に罹患してしまったようだね」

 わたしらしさ。

「例えば今だったら、急にマンホールがあふれ出す水流で跳ね飛んだり、道端に謎の老人が現れて、街灯が突如として消えたりな」
 キョンの声が鼓膜を震わせるのを感じつつ、頭では別の事を考えていた。

 彼から見たわたしは、一体どのように映るのだろう。

 ……自意識過剰。

 

 六月

「梅雨入りも近そうだね」
 わたしは窓の外を見る。半分青空、もう半分は薄曇り。
「この時期さえなけりゃ、春から夏は満点にプラスアルファできるのにな。梅雨前線もたま
には日本に寄り添うのをやめたらどうだ」
 キョンは夏服の半袖を揺らして腕組みをする。
「はは。そうなると本格的に地球の行く末を案じなければならないかもね」
 言いつつわたしは反対に目を転じる。外のはっきりしない天気と裏腹に、自習時間となっている午後の教室は活気に満ちていた。

「梅雨入りか。まったくもって、俺も好きではない」
 通りかかった男子、中河が言う。
「雨が降ればそれだけ練習時間が減るのだ。今年こそ我が部も地区大会優勝くらいは飾っておきたい。そして心置きなく受験勉強に専念する。もしそうなれば、やがて俺は――」
 一人で語りだしたので、わたしもキョンも外へと視線を戻す。

「受験ね。……心情的梅雨入りはまだまだ先に待ち構えてるみたいだな」
 キョンが言った。
「志望校、決まった?」
 わたしの問いに、彼は口を真一文字に結び、
「母親に事実上公立以外認めないかのような態度を示されててな。いちおう併願で受験するとは思うが……たぶん学区内のどっかだな。今のところは北高が最有力か」
 奥歯に苦虫が挟まっているような表情をした。
「君の親御さんは、本人よりもよほど真面目に進路を考えていると見えるね。君を塾に入れたのも母君なんだろう?」

 

「あぁ。入学以来順調に下降線を描いてきたしな。反論の余地は繊毛の先ほどもなかったさ」
「おかげで僕も行き返りが助かっているよ。今度、直接礼を言いにお邪魔しようかと思うくら
いにね」
 わたしの進路の話はしなかった。
 おそらく、同じ志望校にする生徒はこのクラスにいないだろう。あんなに遠くにある場所へ
好きこのんで行く人間が二人以上いるとも思えない。

 もちろん、目の前にいる彼も。
 わたしはあるがままを受け入れようとして、たぶん、失敗した。

 

 七月

「ねぇ、佐々木さんって彼と付き合ってるの?」
 プールサイドに上がる途中、横にいた彼女――岡本さんが言った。
 つかの間、静止したわたしの頬を雫が伝い、水面は陽光を反射して横顔を照らす。
「どうして?」
 わたしが言うと、岡本さんは一足先に水から上がって、
「んー、何となくかな。見ると二人でよく話してるし。あ、深い意味はないわ」
 彼女に続いて水から上がる。授業時間もあと少しだ。
「やっぱりそう見えるか。……答えはノーよ。わたしは男の子に興味ないもの。彼はそうね、 いい話し相手」
 キョンは第三コースを遅くもなく速くもないクロールで泳いでいた。
 どこにでもいる男子中学生。ここからだと当たり前にそう思える。
「ふーん、そっか。てっきり付き合ってるんだとばかり」
 タオルで顔を拭く彼女。
「もし他にもそう思ってる子がいたら、それは違うわって言っておいて」
「わかった。……でも佐々木さん、ほんとに誰も好きな人いないの? もてそうなのに」
 岡本さんは顎に人差し指を当てて首をかしげた。
「いないわ。たぶん、昔も今もね」

 この『今』も、やがては過去になる。そうなればここにいる誰もが、少しずつ離れていく。
 それは確かなことだった。
 時間は流れ続け、奔流となって未来を今に、今を過去に連れ去ってゆく。

 反対側に上がるキョンを見た。彼も、いずれ知らないどこかへ行くのだろう。
 それは止められないし、止める必要もない。

 


「佐々木さん?」
 呼び声に意識を戻す。
「あ、ごめんね。岡本さんの好きな人について考えてたの」
 わたしが言うと彼女はふふっと笑い。
「ん。さーて、誰でしょうか? ヒントその一は、このクラスの人です」
「なるべく少ないヒントで当てるからね」
 それきり彼について何も考えなかった。意識的に。

 


 八月

「ぐあぁ、つ……疲れた」
 模擬試験の最終科目、理科の答案が回収されて、キョンは机に突っ伏した。
「お疲れ様。僕も少し疲れたよ。今日くらいは早めに寝てしまおう」
「あ、そうだ。佐々木」
 筆記用具を鞄にしまい、立ち上がった背中に声がかかる。

「明日空いてるか?」
 暗闇に、一滴の水が跳ねたような音を聴く。

「……どうして?」
「近所で祭りがあったと思うんだ。今年も妹連れて行くことになってるんだが、よかったらお
前もどうかなって」
 明日は日曜日で塾はない。自習に当てようと思っていた時間だった。
 が、そんな頭の内を読んだようにキョンが、
「一日中勉強してるわけでもないだろ? たまにはどうだ、息抜きがてら」
 わたしは背中を向けたまま、
「そう」

 分岐点。

「どっちにしても、明日の夕方までには返事くれると助かる」
 断らなければ。
「解った。……早めに返事させてもらうよ」
「おう。そんじゃ帰ろうぜ」
 鞄を肩掛けしたキョンがわたしの前に出る。

 

「……佐々木?」
「何でもない。少し寝不足でね」
 振り向いたキョンが、
「その勉強への情熱を三ミリグラムでいいから俺に分けてほしいもんだ」
「情熱というほどのものでもないよ。さ、帰ろう」


「キョンくんわたあめ買ってー」
「お前まだ食べるのかよ! 兄の財政状況を少しは慮れってのに」
 縁日。隣で兄妹が中睦まじく会話する。
「甘いものはベツバラなんだもん」
「さっきから甘い物しか食べてない気がするがな」
「僕が出すよ。さて、どれがいいかな?」
 わたしがそう言うと、無垢な少女は屋台の端にあるキャラものの袋を指差して、
「あれ!」
「お前は遠慮ってものを知らんのか。なぁ佐々木、マジでこんな金銭のありがたみをろくすっ
ぽ解ってないようなヤツに、びた一文払ってやらんでいいぞ」
 兄の宣言に妹が抗議するように、
「ぶー。せっかくサキちゃんが買ってくれるって言ったのにぃ」
 初めて聞く呼称でわたしを呼んだ。
「ふふ。いいって。おじさん、一番上のください。……そう、それ」
「わーい、きゃは」
「こうして日本の子どものゆとりはます一方なのであった。……やれやれ」
 キョンは溜息混じりに言ったが、内心までそうとは思えなかった。

 


「……佐々木、誘っちゃまずかったか?」
 石畳の道の最奥、人気と活気からわずかに離れた社に、わたしたちは並んで座っていた。
「どうしてさ」
 言いつつ見ると、疲れたのか妹さんはキョンの腕にもたれてうとうとしている。そんな仕草
のひとつひとつが微笑ましく、実際わたしは微笑んでいたように思う。
「いや、自分でも何でだかよく解らないんだが、お前はこういうのあんまり好きじゃないんじゃ ないかと思ってさ」
 星を見つけにくい夏の夜空から、思い出したように微風が舞い降りて頬を撫でる。
「そんなことないよ」
 嘘とも、本心とも言えない言葉がこぼれる。……ならば今のは誰の声だろう。
「そうか。ならいいんだけどな」
 わたしは、この間一度もキョンの顔を見なかった。

「そんなこと、ないよ」

 

 九月

「なぁキョン。君はこのクラスに好きな人がいるかい?」
「急に何の話だ」
「俺はいる。きっと彼女こそが運命の人なのだよ」

「……運命の人?」
 教室に戻ると、キョンと須藤が話をしていた。
「お、丁度いい。佐々木。須藤にいつだったかの恋愛感情についてのお前の考察を聞かせてやってくれ。どうにも俺じゃ務まらんのでね」
 そう言うとキョンはひらひらと手を振った。納得行かないのは須藤のようで、
「キョン! 俺は君と話をしていたのだ。佐々木に相談した場合、どのような答えが返ってく
るのかは想像の範囲内に収まっている」

 須藤とキョンはそれから数分ばかり何やら話していたものの、やがて須藤の方が首を振り、あきらめた風情で自分の席に戻っていった。
「解決したのかい?」
 わたしが尋ねると、キョンは
「いいや。俺じゃ役者不足もとい配役ミスだと思ったんでね、煙に巻いたさ。須藤、相談と言
いつつ結局誰に気があるのか言わなかったな」
 肩をすくめると窓際に寄りかかった。
「運命の人か。須藤も時折つかめないことを言うね」
 キョンは頷いて、
「まったくだな。あれで学級委員なんだから、世の中解らん」
 半目になるキョンに、わたしは思いつきを言ってみた。

 

「キョン。君は運命ってあると思うかい?」
 その言葉に、キョンはウズラの卵を殻ごと飲み込んだような顔をして、
「運命?」
「そう。仮にそのようなものが存在していたら、僕らがこうして見たり聞いたりする事柄は、
みなあらかじめ決定されていることになる。かのアインシュタインによれば、神は賽を振らな いそうだが、しかし僕たちはある程度の自由を持たされているように思う。少なくとも憲法は それを保証してくれているね」
 キョンは眉根にしわを寄せてしばらく考えこむ。こんな話に付き合ってくれるクラスメー
トは彼くらいのものだ。
「そんなもの、あったところで何の影響もねぇな。なぜなら、俺は人生があらかじめ決定され
ているなんて思っちゃいないし、信じもしないからだ。もしも、俺の人生が番組表、いや、年
表みたいに書かれた巻物だか書物だかテキストデータだかがあったとしても、俺ならそれをまっ先にゴミ箱送りにする」
 彼は一息でそれだけを言い切ると、しかしまだ終わりではないらしく、
「だが」
 わたし目をやり、続けて廊下を見やる。
「未来そのものがどうなってるのかには、ちょっとと言わず興味があるな」
 この時、キョンの目は普段と違う色の光を放っていた。ように思った。


 十月

 わたし自身は運命というものをどう認識しているか。
 意外に思われるかもしれないけれど、あってもおかしくないと思う。
 つまるところ、この世界の行き先というものはあらかじめ決定されていて、一見自由に見える行動もすべてレールの上の出来事だ、と。そこには本質的に分岐がない。
 もし、とわたしは思う。もし運命が存在するのなら、わたしは決定事項であるその道筋を受 け入れるだろうか?
 それはその時にならなければ解らない。解らないが、仮に今問われれば、わたしは頷くだろう。

 ただし、あくまで「あってもおかしくない」というだけのことで、わたし個人は運命が存在し
ない可能性の方が高いと思っている。賭けで言えば倍率が低すぎて話にならない程の差で。

 話。
 そう、これは物語ではなく、現実なのだから。
 筋書きがない以上、そこには運命も存在しないのだ。


「佐々木、風邪か? ぼーっとしてるように見えるぞ」
 キョンが覗き込んできた。
「ん。いいや。今日は名簿で行けばキョンが当てられる日かなぁなんてことを考えていたのさ」
「そして俺は助力を仰ぐべく友人のもとを訪れたのであった」
 にやっと笑ってノートを示すキョンにわたしもつられた。
 秋の空気のようにヒリヒリするわだかまりを見ないフリは、いつまで続くだろうか。
 十一月

 ある夜。
 わたしはシャーペンを走らせる手を止め、しばし考え事をしていた。

 引き出しを開けて、ずっと奥にしまってある写真立てを取り出す。
 長い間見ていなかった。写真というものがあまり好きではないせいかもしれない。

 それは今から二年ばかり前の記憶で、この写真にはわたしの他にある少女が映っている。

 ………
 ……
 …

 わたしは中学のある時期に転校して、今の学校にやって来た。
 この街に来る前、わたしはここから数百キロメートル離れた都市で暮らしていた。

 中学に上がって数日が経った日曜日、わたしは散歩に出た。
 クラスに馴染んでいないわけではなかったが、なぜだか遠くへ行きたかった。


 街はずれに、そこだけ忘れられたように自然を残す小山がある。
 もっとずっと小さい頃などは、父親に連れられて、よくこの辺りまで遊びに来ていたらしい。

 今、なぜ急にここへ足が向いたのかは解らない。偶然というのはあまりに簡単で、気まぐれと言えばそれまでの話だった。が、何かに呼ばれたような感覚が記憶に残滓として残っている。

 運命……そうなのだと言われれば、それこそ頷きたくなる話だ。
 

 子どもの足でもさほど苦労ぜずに登りきることのできる頂上。そこに彼女はいた。
 開けている山頂には、土壌の腐食があるのかそこだけ草木のない一角がある。
 彼女はそこで何かをしていた。

「あの」
 声をかけたのはわたしだった。
 その時その場所には、わたしと彼女の二人きりしかいなかった。
 彼女はびくっとした後、反射の鋭さを思わせる速度で振り向いて、
「わ! ……びっくりした。誰か大人が来たのかと思った」
 同じ年頃に見えた。肩までかかる髪は、当時のわたしと同程度。キッと結んだ口、逆ハの字の眉がりりしい印象を与え、服のところどころについた泥がいたずらっぽい雰囲気を付加した。
「わたしも驚いた。ここ、地元の人でもあまり来ない場所だし」

 数秒の沈黙。その間、彼女はわたしを品定めするような目で見ていたものの、やがて
「あなた。秘密守れる?」


「そう、そっちは円になるようにして。……いいわ、上出来!」
 二十分後、わたしと彼女は地面に図形を描いていた。
「これ、何なの?」
 わたしの問いに、彼女は得意気に微笑んで
「秘められた力を引き出すための魔方陣よ。あたし作のね!」
 驚かなかったかと言えば、明確に否だった。
 宣言した彼女の瞳には、広大な銀河を丸ごと閉じ込めたような光が躍っていた。

「ねぇ知ってる? 人間って、死ぬまでに脳のほんの数%しか働かせずに人生の幕を下ろすのよ」
 並んで腰掛けた倒木を揺らすほど威勢よく、彼女は言った。
「だから、あたしは何とかしてその残りの力を引っ張り出そうと思ったの。そうすれば、世界
の誰よりも面白い謎や現象を察知できるようになるんじゃないかって。……ね、そう思うでし ょ? あなたも」
 そこでわたしはどんな表情をしていたのだろう。
 支離滅裂に思える台詞を言う、出会ったばかりの彼女に、わたしは理由も解らず惹かれていた。

 …
 ……
 ………

「ん」
 眠ってしまっていたらしい。時計を見ると十一時を回っている。
 いつしか手放していた写真立てを再び拾い上げる。
 そこには確かに彼女がいた。わたしもいた。

 彼女とはもっと多くのことを話したように思う。
 あの場で初めて会って、それ以来一度も会っていない。
 写真を撮ろうと言ったのは、確か彼女のほうだった。一度しか会っていないはずなのに、なぜわたしは写真を持っているのだろう。

 転校してこの街に来るまで、暇さえあればわたしは彼女を探していた。
 初めは同じ中学にいるのかと思って、全校を休み時間に歩きまわった。
 それが徒労に終わると、市内の学校へ出かけてみたりもした。まったくでたらめに、思いついた場所へ足を向けたりもした。
 

 けれど彼女は見つからなかった。
 見つからなければ見つからないほどに、わたしは彼女にもう一度会いたくなった。
 わたしらしからぬ情熱と裏腹に結果は得られず、いつしか彼女を探す回数は減っていき、気がつけば転校を経て中学三年生になっていた。

 彼女は本当はいなかったのだろうか。
 そう思った時、わたしは引き出しを開けて、この写真を取り出す。
 そこには確かに彼女がいて、わたしがいる。

 そこにだけ、二人の世界があった。

 十二月

 師走。
 すっかり夜が近くなって、中学生活が残りわずかであることを告げる。

 ある日の教室。
「いやー寒い寒い。ここからまだ何ヶ月か冷える一方なんだと思うとやってられん」
 キョンが教室の対角にあるストーブと、それに当たる数人の生徒たちを恨めしそうに見つつ言った。
「キョン、君は冬が苦手なのかい?」
「まぁな。この、気温の低下と共に気力体力ゲージの限界値をじわりじわりと減らされてる感 じがもうたまらなくイヤだ」
 互いに上着の下にベストを着ているものの、それでも広々とした教室の周囲が、押し寄せる寒気によって冷やされていることが解る。
「実際、冬は夏より長いからね。秋より春がより待ち遠しく感じるのは、その体感も加味され てのことではないかな」
 わたしの声に鼓膜と全身を震わせつつ、キョンは
「雪降ったりしないだろうな。勘弁してくれよ。この年この時期の風邪はちょっとした痛打な
んてもんじゃないんだからな」

 冬は嫌いじゃない。
 賑やかすぎる夏と比べれば、静寂に包まれるこの季節のほうをわたしは好む。

 冬は、今年も十分な長さを伴っているだろうか。
 そして、やがて新しい季節を迎えた時、わたしはどこに立っているだろう。

「何とか期待してたラインは突破してくれたみたいだ。……これで残る氷山はあと一つだな」
 拝領した通知表から顔を上げたキョンが、ひと時の安息を見せる。
「僕も平気みたいだ。これで心残りなく年が越せる」
「今年は親戚の家や初詣なんかにも行けないだろうなぁ。冬休みとは名ばかりか」
 室内なのに曇りそうな息とともに言うキョンに、わたしは
「なら、再来年の年明けに行けるように、まずは目下の問題をどうにかしないとね」

 再来年――。
 その時、わたしの近くに君はいない。
 君の近くに、わたしはいない。


「そうか。今日クリスマスだったんだよな。道理で」
 塾の帰り道、キョンが白い息を吐きながら言った。
「道理で、何だい?」
「赤服じーさんモドキがやたら多いと思ったんだ。まぁもっとも、受験生である身の上に一切
の年中行事は不必要だろうけどな」
 サンタクロースか。
「そうだ。キョンはあの愉快な服装の老人をいつまで信じていたんだい?」
 その問いかけに彼は半瞬わたしと目を合わせ、数度瞬きをして、
「幼稚園時代の初期には見抜いてしまっていたな。我ながら、つまらんガキンチョだったと思う」
 この数ヶ月の間にすっかり存在確認が容易となった星々のうち、ひとつを見つめるように言った。わたしは頷いて、
「僕もだよ。信じていた頃の記憶がないくらいに昔から、ね」
 わずかな間が去来した。
 まばらな車の音と、キョンの押す自転車の車輪の音だけが頼りなく鳴り続ける。

「けどな」
「でもね」
 声が合った。一拍遅れて視線も。
「先に言ってくれないかな」
 わたしは言った。するとキョンは顎を引き、前方へ視線を向けて、
「本当は信じたかった。年に一度、冗談でなければ奇跡みたいにひっそりと家屋の煙突なんぞに潜り込む白ヒゲ老人の存在を」
 そしてまたこちらを向き、
「……だろ?」

 そう。
 だから、僕は。

「まいったね。もし君と意見の相違があった場合に、そのクサい台詞を自前のものとして言う心の準備をしていたのだけれど。完全に言い当てられてしまった」
 言いつつ首を振ると、キョンはぎくっとして、
「ぐ。佐々木お前、解ってて先に言わせたのか」
「そりゃね。授業中に隕石が落ちてくる幻想を話してくれる相手なら、相応の期待ができる」
 わたしの言葉にキョンは負けじと、
「でもな。俺もお前がサンタに関して似たような考えを持ってたんじゃないかって思ったんだ」 「それで話題を降ったのだとしたら。……君をあなどっていたよ」

 気づけばターミナルは目の前だった。
 程なく、バスが夜目を利かすようにヘッドライトを光らせてやって来る。
「じゃぁね。また明日」
「おう」
 静かに排気音を唸らせる車体。ステップの一段目に足をかけた時、背後から忘れ物を届ける人のような声がかかる。

「佐々木」
 振り向くと、キョンは口の端を困ったような、イタズラめいたようないつもの形に歪めて笑い、

「メリークリスマス」

 わたしが何か言うより早く、バスは油圧式のガラス戸を閉めた。

 ……だから、わたしは。

 一月

 願っていても、非日常というものは訪れやしない。
 だからこそ非・日常なのであって、望むだけで現れることなどありはしない。


 自室の机に、そこだけ切り取られたようにして一筋の光が差し込んでいた。
 腕に顔をうずめたわたしは、埃が光を乱反射して示すその軌跡を、ぼんやりと眺めていた。
 近頃、こうして手が止まってしまう。……わたしらしくもない。

 あとは受験日を待つばかりだった。
 自宅と学校、塾とを三角型に巡る毎日が繰り返された。
 それは一見いつまでも続きそうで、しかしどこかで明確なピリオドが打たれることをわた
しは知っていた。
 時が止まればいい、などと思いはしない。
 それは、自分勝手な願望でしかなく、そのような物をわたしは最も嫌う。


 気分転換になれば、と外に出た。
 コートとマフラーを隙間なく着こんでいても、空が快晴で一面の青であっても、一月が寒い
ことに変わりはない。乾いた空気の冷たさは、わたしの頬を心地よく冷やす。

 特に何も考えずとも、足が自然に道を選んでくれる。
 十分ほど歩いた通りにあるコンビニに入る時のことだった。
「あっ」
 誰かとぶつかった。
「ごめんなさい」
 女性らしい。帽子をかぶっていたのですぐには解らなかったものの、声や雰囲気から察するに、わたしとそう変わらない年頃ではないだろうか。
「いいえ。こちらこそすみません」
 わたしが謝辞を述べると、彼女は顔を上げずに、

「……再会の時は、来るわ」

「え?」
 それきり帽子の少女は何も言わず、背を向けるとどこかへと歩き去る。
 結った髪が肩のあたりで揺れるその後ろ姿を、わたしはしばらく眺めていた。
 しかし自宅に戻る頃には気にならなくなり、この日以降は思い出すこともなかった。

 それから一年以上が経ったある日まで。

 二月

 随分早くに目が覚めた。
 カーテンから外を覗うと日の出すらまだだった。
 もう少しだけ眠ろうかと思ったものの、目が冴えてしまっていた。

 わたしは窓辺に近寄り、毛布にくるまり、外を見ていた。
 太陽が濃紺の空を真っ白に浄化していく様を、静かに見ていた。
 そうして夜が明けた。


「全員の進路がめでたく決まったことを、先生も嬉しく思う」
 担任の声が耳に届いた。何を言っていたのか解らない。

 この日、教室は一足早い春が来たように華やいでいた。
「卒業式の練習か。毎度ながら、ここに来て、過ぎてみて初めて『あっという間』って言葉を
使えるな」
「そうだね。あっという間、か。……人間の脳は本当に不思議なはたらきをする。当時さほど
快く思っていなかったような時間であっても、ひとたび記憶の中だけのものとなれば、それは断片化されたイメージとなって、以降足跡を振り返る際の対象物となる。そうして我々は、二度と顕現しない過去と、目を向けるべき今と、拡散した未来とを結んだ道の上を歩き続ける。
キョン、君は三年間の中学生活を振り返って、一体どのような感想を持つだろう?」
 いつもより余計に口が回る。
 動じずに彼は見慣れた仕草で黙考する。
「感想ね」
 それからふっと笑って、
「ま。普通であることのありがたみ、それと退屈を、相性の悪い二枚のガムみたいにして味わい実感すること。ここがその休憩所だな」
 キョンにわたしは頷きを返した。
 廊下へ向けて小川の流れのように吹いていくすきま風は、まだ冷たい。
 しかし、匂いは微かに次なる季節への気配を含んでいる。それがはっきりと解る。

「卒業しても元気で。月並みだけれど、そう思うよ」
 それだけかしら。と、誰かが言う。
「あぁ、佐々木もな。この一年。お前と話してる間だけは、日常のあまりの普通さもちょっ
とは紛れたぜ」
「それはよかった。僕も、凝り固まりそうな脳に少しは清涼感を与えてあげることができたかな」

 まったく。どっちも素直じゃない。
 彼は、それを解っているだろうか。


 答えはたぶんノーだ。
 ……もしも。もしも君がわたしの本意に気づいてしまっていたら、わたしは君とこうして他
愛無く話すことなんてできないと思うんだよ。

 君は、僕の親友なのだから。

 三月

 断片たる記憶を呼び起こした時、そのあまりの風化ぶりに愕然とすることがある。

 もっと、色々な出来事があったはずなのに。
 もっと、多くの言葉を交わしたはずなのに。

 記憶は、いつだって素直じゃない。
 肝心な時に、見たい写真のありかを教えてくれない。
 そのくせ、すっかり忘れてしまった頃になって、どんなフィルムより鮮明に情景を映し出す。

 そうして少しずつ、しかし確実に、あるいは思ったより早く、時は流れてゆく。

「須藤のやつ、同窓会の幹事する気満々だったぞ。実現するかも解らんのにご苦労なこった」
「なるほどね。つまり今現在、須藤の恋は成就していないということかな? 新しい学校で彼
にいい出会いがあることをせいぜい祈らせてもらうよ」
「やめといた方がいいんじゃないか? どこの神様にかは知らんが、どんな怠け者だったとしても、あいつの赤い糸を手繰ってやる程ヒマを持て余してもないだろ。まして神ともなればな」

 何でもない会話をしながら、わたしは一年間の友人にそっとさよならを言った。
 それは、彼が決して聴くことのない言葉として、空気を振動させることなく、ある場所にだ
け響いた。


 あなたが好きでした。


 しかし、わたしは知らない。
 彼と再び会う日が来ることを。

 しかし、彼は知らない。
 この先にある日常は普通だけとは限らないことを。

 そうして僕らはまた出会う。
 だから、その時まで。


 さようなら。


 (おわり)

|