仰向けになった視線の先には、俺には不似合いであろう小さな花柄が散りばめられた天井、そして3つの白熱灯を広げたシンプルなシャンデリアがぶら下がっている。
 ハルヒが選んだのだ。
 この部屋がいいと。
 
 いま俺の隣で寝息をたてているそいつの頭と枕の間には俺の左腕があり、その左腕はそろそろ肘から先が痺れ始めている。
 正直なところもう引っこ抜かせてほしいのだが、あまりにもその寝顔が穏やかなもので、変に動かして起こしてしまうのも可哀想というかもったいないというか、つまりはその葛藤の中にいま俺はいるわけだ。

 二人が並ぶには広すぎるように思えるダブルベッドの薄いシーツの中、俺とハルヒは一縷の衣類も身に付けてはいない。
 もはやトレードマークといっても異論ないであろうハルヒの黄色いカチューシャも、事を始めて直後、俺の手で枕元の棚に置いておいた。


 左手の甲に、ほんの少しだけ、柔らかな黒髪が当たっている。
 その髪を優しく梳くように触りながら、天使と見紛うほどに可愛らしい寝顔を見ていた。
 それは、ここが北欧の森の中だったら妖精が遊びに来てもおかしくないぐらいに安らかそのものだったが、ただ一つ、いつもと違う部分があるとすれば、その左の目元からこめかみにかけて、雫の痕が一筋残っているところだろうか。
 仰向けになっていたとき――つまりついさっきだ――流れたのだろう。



 初めて男を受け入れた女の子が、つつと涙を流してしまう。
 マンガや映画やテレビドラマなどでは、ある意味においてもはや典型といえるかもしれないこのシーンについて、俺はこれまで、いまいち釈然とした理解をもてずにいた。
 破瓜の痛みについてはいろいろな表現の仕方があるようだが、それほどのものだろうか、と疑問を抱いていたともいえる。

 もちろん、涙の原因は痛みだけではないだろう。
 身体的な苦痛よりも、心理的な作用の方が大きいのかもしれない。
 だとすれば俺が疑問をもっているのは、その心理的作用の方だ。
 彼女たちの涙は、どういう心理状態が要因となったものなのだろうか?
 痛みへの恐怖、動揺。
 大切なものを失うことへの悲しみ、背徳感。
 愛する人に処女を捧げられたことへの喜び、愛しさ…。
 それら全て、ということもあるのかもしれない。


 しかし、俺は男であって、おそらくそういう複雑な感情の何割か――特に恐怖や悲しみなど――は、感じることなく童貞を失うのだろうな、と思っていた。
 はたして、実際その予想は正しく、俺は初めての体験を感涙してしまうほどの感情の起伏はなく、簡単にいえば無難に済ませたということになるように思う。
 もちろん、行為をする前、している最中、そしていまも、彼女にたいする気持ちは言い尽くせないほどに大きく、深いものになっていたことに間違いはないのだが。

 ただ、行為の前や最中は、余計なことを考えることなどできないほどに興奮していて、自分の感情に構っていられなかったというのは事実だ。
 心臓はガソリンスタンドの新人アルバイトみたいにムダに張り切って血液を送り出しやがるし、変な汗は所構わず噴き出してきやがる。
 どこの名画から飛び出してきたのかと問いたくなるほどに綺麗だったハルヒの身体、初めて見る表情や、徐々に耳に届いてくる小さな声、音。
 あれだけ体育会系な女なのに、どうしようもないほどに柔らかな触感、きめ細やかな肌の質感。
 匂い、そして味。
 そういう五感の全てから津波のように押し寄せてくる耐性のない刺激に、俺の脳味噌はとっくにオーバーヒートしていた。
 涼宮ハルヒという存在のすべてが、あまりにも魅力的で、想像をはるかに超える引力をもっていたのだ。
 今日のこの体験ほど、「夢中」という言葉が適切に思えるものは、いままでなかったといっていい。

 俺がハルヒの中に入っていくそのとき、ハルヒは一筋だけ、右の瞳から涙を零した。
 その顔は明らかに苦痛を物語っていて、涙なんて見せたことがないこいつが泣くほどなんだから、相当痛いんだろうと思った。
 できるだけ優しく、「痛いか」と俺が問うと、声にならない声で「大丈夫だからそのまま来て」と言う。
 俺はそのまま腰を進め、奥に行き着いたが、ハルヒの息が整うまで、暫くの間抱き締めていた。

 結果として、動きはずっとスローだった。
 ハルヒを気遣ってというのももちろんあるが、俺自身が不器用だったし、何よりも想像していた以上に限界が近かったのだ。
 ハルヒは早く終わることを望んでいたかもしれないが、俺はできる限り長く、ハルヒの中にいたかった。

 空気が実際桃色に染まってしまうんじゃないかと思うほどに、愛の言葉と一緒にハルヒの名前を囁いていた。
 いや、実際はそんなに格好のいいものじゃない。
 呻きや喘ぎと一緒に出ていた、という方が適切な表現だろう。
 出てくる言葉を抑えることができなかったのだ。
 ハルヒも俺の名前を必死に呼んでくれたが、愛を示す言葉だけは、なかなか聞かせてはくれなかった。


 この日いちばんの、というか付き合い始めてからいままでも、これほどのキスはしたことがなかったというほどの濃厚な口付けを交わしながら俺はハルヒの中で弾け(もちろん、正確には避妊具の中で、だ)、そのほぼすべての体重をハルヒに預けるように抱き締めた。
 息を整えながら、重なる二人の鼓動を30秒くらい聞き、顔を上げる。

 すると途端に、ハルヒはそれまで俺の背中に回してくれていた手を、自分の顔へもっていき、その表情を覆ってしまった。

 突然のことだったので、何をするのだろうかとその両手の甲を見つめていたら、暫くして、その両の手の奥から、ぐすりという鼻をすする音が、小さくくぐもって聞こえてきた。
 肩も微かに震えていた。

 俺は純粋に驚いて、小さくハルヒに呼びかけた。
 ハルヒも、やっぱり女の子なんだな、と頭に刻みつけながら。
 マンガや映画やテレビドラマと同じく、こいつがどういう気持ちで泣いてしまったのか分からなかったが、とりあえず優しく包んで、頭を撫でてやった。
 俺の左の耳に、ハルヒの雫が付着する。
 言葉は何も出なかった。

 抱き締めてやることしかできない俺だったが、それでもハルヒは濡れた声で、たった一言、こう云ってくれたのだった。


 ――すき、と。


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