それまで体が動かなかった反動で、あたしは目を覚ますと同時にがばっと起き上がった。カチンコチンに固まっちゃってたのよね。情けないことに。
 しばらくは冷静になれなかったわ。一瞬で周りの景色が変わったみたいだったし、いままで目の前にいたはずのアイツの姿も消えてる。
 アイツの姿を目で探して、ようやく気づいたわ。ここはあたしの部屋。いまあたしが座ってるのはベッドの上。膝の上には乱れた布団が乗ってて、あたしは制服じゃなくていつものパジャマを着てる。外はまだ真っ暗。そう、この奇妙な体験はぜんぶ夢だったってわけ。
 でも、夢だったと理解するまでにも数秒かかったわね。だってホントにリアルな夢だったんだもの。あたしはなぜかアイツと二人だけで学校にいて、外は昼なのか夜なのか分からないけど一面灰色に染まってて、そのうちなんか青い巨人みたいなのが現れたと思ったら学校を破壊し始めて……。
 夢の最後、アイツはあたしにキスしてきた。
 はっきりと覚えてる。アイツがつかんだあたしの肩には、まだその不自然な握力と体温が残ってる気がするくらいだし、この動悸も鎮まる気配がない。変な汗のせいで、パジャマが体に貼り付いて気持ち悪いわ。そして何より、アイツと重ねた唇もなんだか湿ってるような感じがするんだもの。
 ………。
 しばらく呆然としていたけど、落ち着いてきたらなんだか腹立ってきたわ。
 いくら夢の中のこととはいえ、いったいアイツは何なの!神聖なるこのあたしの許可も得ずに無理矢理あんなことしてくるなんて、死刑を100回宣告してもまだ足りないほどに重罪だわっ!それにあたしもあたしよ!なんでこんな変な夢見ちゃったのかしら!夢は深層心理の反映だとかなんとか言うけど、これがあたしの願望だなんて絶っっ対に認めないんだからねっ!そりゃ途中までは、ちょっと珍しい体験だからわくわくしてたけど、あんな結末を注文した覚えはこれっぽっちもないわ!
 これもぜんぶアイツのせいよ!
 羞恥と怒りのあまり悶絶しそうになり、あたしはせっかく落ち着いた呼吸をまた荒くすることになった。ぼさぼさの髪をさらにわしゃわしゃと掻き乱したせいで、いまあたしの頭はすごいことになっているわね、きっと。
 ……バカバカしいわ。
 アイツも、あたしも、この夢も。
 もう乱れた髪や布団を正すのも嫌になって、あたしはそのまままた布団を被った。もうさっさと寝てやるわ。くだらないことであたしの貴重な睡眠を阻害しないでよね!まったく。
 ………。
 …………。
 ……………。
 今夜のあたしはどうかちゃったのかしら。
 どれだけ強く長く目を閉じていても、ちっとも眠れやしなかったわ。だって、瞼に浮かんでくるのはさっきの夢ばかりなんだもの。目を閉じて、口を半開きにして迫ってくるあいつの気色悪いマヌケ顔になんて、ハイキックの一発でも見舞ってやるところだわ。
 ……油断してたはずはないのに。
 そう、あたしはあのとき油断してたはずがない。だってアイツはあの直前にも、変なことを口走ったのだから。
 ―――いつだったかのお前のポニーテールはそりゃもう反則的なまでに似合ってたぞ。
 何がポニーテールよ。何が反則よ。突然そんなことを言いはじめたアイツに、あたしは普段と違うものを感じてた。ううん、それ以前に、アイツはなんとなくおかしかった。灰色の世界に閉じ込められた状況なのに、部室で平気な顔してお茶飲んだりして。……そりゃ、夢なんだから変なところがあってもしかたないのかもしれないけど……。
 とにかく!アイツは変だったのよ!いつもと何か様子が違ったの!それなのに……。
 普通、飛び起きたときに見ていた夢は、瞬時に忘れてしまうことが多い。でもあたしの頭からは、その記憶がこびりついて離れそうにない。
 あたしの警戒が甘かったっていうの?そんなことは断じてないわ!あたしはこう見えて、いいえ、見たとおりとっても敏感な女なんだからっ!でも、それなのにそれなのにそれなのにっ!なんであいつのあんな攻撃も避けられなかったのかしら!それどころか、完全に固まっちゃって身動き一つ取れなかったなんて、このあたし、夢の中の出来事だったとはいえ一生の不覚だわ!もうこれを原因にして、原稿用紙50枚分の遺書さえ書けちゃいそうな気がするわね。
 どれだけ振り払おうとしても、夢の中でのアイツの声と、あの感触が甦ってくる。ストーカーでもあるまいし、つきまとってくるんじゃないわよ!
 ……何がポニーテールよ。何が反則よ。
 
 あんたのやってることのほうが、よっぽど反則だわ。
 
 
 結局、本当に、本っ当に許しがたいことだけど、あたしはそのまま朝まで寝付けなかった。今日ばかりはその役目も無意味になってしまった目覚まし時計を止めて、ぼんやりとした頭のまま、いつもの朝を取り戻そうとベッドから起き上がる。
 顔を洗い、あまり入らないご飯を無理矢理飲み込んで、歯を磨き、そのまま洗面台でブラッシング……していた手を、あたしははたと止めた。
 ………。
 嫌よ。
 するわけないじゃないの。たかが夢の中でアイツにそう言われたからって、誰が次の日の朝からホイホイしていってやるもんですか。だいいち、長さがまだ全然足りないわ。切ったのはついこの前だったんだから、またできるようになるには相当な時間がかかるのよ。それに、夢の中での話じゃないの。あいつが本当にそんな趣味をもってるかどうかだって怪しいんだし。
 ……ちっ、違うわよ!アイツが本当にそんな趣味してたとしても、あたしは絶対にしていってやんないわ!あたしは、いまの髪型が、気に入ってるんだから。
 一回一回呼吸をするように、自分に言い聞かせる。鏡の中のあたしは、まだ顔がほんのり赤く、でも寝ていないせいか変なところが白く、要するにあまりいい顔をしていなかった。いつも輝いているはずのあたしの綺麗な瞳も、今日はなんだかちょっとだけ、ほんのちょびーっとだけ、濁って見える。こんな顔で学校へ行くんだと思うと、それだけで陰鬱な気持ちになるわね。
 ……何やってんだろ、あたし。バッカみたい。アイツのバカが伝染っちゃったのかしら。
 またブラッシングを再開するけど、どれだけ開き直ってみても、昨日の夢が頭をわんわん駆け巡って、消えてはくれない。
 あたしは鏡の中のあたしを睨みつける。眼光がいつもよりも弱っちぃ気がする。熱があるときみたい。今日アイツが学校に来たら、思いっきり怖い顔をして睨みつけてやるための練習なのに。
 なんてのはもちろん嘘。
 たっぷり1分間ぐらい睨めっこした後、あたしはしぶしぶ、でも一瞬また躊躇ってから、結局、予め洗面台に置いてあったゴムに指をかけて、口にくわえる。
 
 これで朝一番に何も言ってこなかったら、あいつ後ろからぶん殴ってやるわ。
 
 
 学校にはいつもどおりの時間に着いた。あまりご飯を食べなかったせいで家を出た時間は早かったけど、学校までの坂道にその分の時間を取られちゃったわ。ホント、こんな日はきっと一日中ツイてないに決まってるわね。どこかに、運勢を回復してくれる魔法の呪文が書かれた秘伝書でも落ちてたらいいのに。
 あるはずもない秘伝書を探しにあちこち見てまわりながら登校するような元気もなく、あたしはそのまま校門をくぐり、1年5組の教室、窓際いちばん後ろの席に座り込んだ。寝てないせいか、脚がもう疲れてきちゃった気がする。暑いし、動悸もまだ不自然だわ。心臓が、鞭に打たれながら無理して血液を送ってるみたい。あたしらしくもないわね。
 そのままぼんやりと窓の外を見てた。学校までの道を登ってくる生徒の群れが蟻の行列みたいに見えて、あたしはその行列に向けて溜息をつく。その溜息の先に、周りの生徒よりも一段とゆっくりのんびりぼんやり歩いてくる影が見えた。これだけ離れた距離から見ても、一目で疲れてると分かる。なんでアイツは毎朝毎朝、ちっとも爽やかじゃないのかしら。
 ……今日のあたしは特別なの。アイツと一緒にしてもらっちゃ困るわ。
 アイツは校門の前で立ち止まったかと思うと、これから階段を昇らなくちゃいけない校舎を弱弱しい眼差しで見上げ、またとぼとぼと下を向いて歩き始めた。どうやらあたしには気づいてないみたいね。
 それからたっぷり5分ぐらいかけて、アイツはようやく教室にやってきた。あたしの視線は窓の外のままだけど、その疲れきった足音を聞いただけでアイツだと分かるわね。でもアイツの視線までは分からない。あたしが目に入ったかしら。そしてこの後ろ頭が。
「よう、元気か」
 その口調は、意外にもちょっとだけ爽やかだった。あたしの前の席に鞄を置く。
「元気じゃないわね。昨日、悪夢を見たから」
 あたしは窓の外を見つめたまま、そう言ってやった。あたしの夢に出てきたコイツが絶対的に悪いけど、今日は責め立てようにも元気がない……ってのはちょっと嘘。ホントはあたし、いま視線を正面に戻せないでいる。なんで?なんであたしが、こんなやつにたいして敵意を込めた視線の一つも送れないのよ?
 あたしはそのままの表情を保って続ける。
「おかげで全然寝れやしなかったのよ。今日ほど休もうと思った日もないわね」
「そうかい」
 ソイツは窓の壁を背もたれにするようにどかっと腰を下ろすと、首から上だけ90度捻って、あたしを見た。いつもこの時間はこうしてコイツと話してるはずなのに、今日はなんだか顔を見られたくない。だから、いつもよりもちょっと不機嫌そうな表情を作ってみた。だって、だってきっと疲れた顔してるに違いないし、髪型だって似合ってるか分からないし、……あんな夢の後だし。
 ところが迷惑なことに、ソイツは身を乗り出すようにあたしの顔を覗き込むと、
「ハルヒ」
とあたしの名前を呼んだ。
「なに?」
 不機嫌そうなオーラを出し続けて答える。こいつ、こんな日に限って話しかけてこないでよっ。さっさと前向きなさい!あんたのせいで、あたしが前向けないじゃないの!
 ところが、ソイツが続けた言葉は、あたしに不機嫌オーラを出し続けるのを忘れさせるほど、意外なものだった。
「似合ってるぞ」
 
 
 ………。
 い、いま、……に、「似合ってるぞ」って、言った?
 あたしはその瞬間、表情を崩さずにいられただろうか。大きなリアクションを起こしたつもりはないけど、ば、バレてないわよね?気づかれてないわよね?ああああんた、いいからさっさと前向きなさいよ!
 は、早くしないと……。
 か、顔が……。
 もう限界!顔が赤くなってんのがバレるっ!……と思うよりも一瞬先に、ソイツはあたしから視線を逸らし、体ごと黒板を向いた。ちょっと笑ってたように見えたのが気のせいであることを祈るわ。
 あたしはそのまま顔も体も動かすことができず、呼吸さえも満足にできず、しばらく窓の外を見つめていたけれど、その間も視界に入ってきているはずの外の景色は、脳みそにたどり着く頃には真っ白に消えていた。
 
 コイツがいま唱えた言葉は、幸運の呪文だったかしら……?


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