ゴールデンウイーク明けの平日、俺は暗い気分で自転車を漕いでいた。
将来役に立たなそうな数式や歴史をムリヤリ頭に詰め込む苦行を受けに、わざわざ学校に行かなければならないのだ。
なんという徒労だろう。
無理数なんてわからなくても会計は務まるだろうし、100%正しい文法を駆使しなくても外国人とコミュニケーションはとれるはずさ。
高校という、さらなる無駄知識を強制的に与える場所に行くための試験にしか役に立たないと思うんだが、実際問題、中卒でまともな職につくのは難しいのが現実であり、何より俺はまだ社会の荒波に揉まれたくない。
頭の中で学歴社会への恨み言を並べながら、結局は自転車のペダルを踏んでいる。
楽しいことが学校で待っていてくれるなら俺も嫌々学校に向かわなくて済むんだがね。

「仕方のないことだよ、キョン。
現在の学力より偏差値の高い学校を志望校とする受験生ともなればね。
こんな状況でも学校に来るのが楽しみで待ち遠しいと言っている人物を3人ほど直接知っているが、知り合って1ヶ月程度の僕でも君が同じ楽しみを持つことは不可能と断言できるよ」
教室についてから俺が愚痴をこぼした相手は、淡々と返事をしてきた。
この妙な喋り方をする新しい友人は意固地なまでに理屈っぽい。
俺も理屈っぽいとか喋り方が回りくどいとか時々言われるが、こいつよりはマシだと思っている。
「佐々木。この苦行に勝る楽しみってのは何なんだ?」
「まあ、聞かなければ君は納得しないだろうね。説明はしよう」
佐々木はもったいぶって言った。
「彼女たちは、好きな人が同じ学校にいるから会えるだけで嬉しいんだそうだ」
「そいつはお前の言った通り、俺には無理だ」
受験戦争のオアシスへの期待は無残に砕け散った。
生憎と俺が恋愛感情を向けている女はいないし、当然付き合っている相手もいない。
俺から適当に告白するなんてもっての他だ。
この忙しい時期にわざわざ厄介事を増やす気はない。
「乙女心というやつさ。僕は理解できないが、何ともいじらしいよ。
好きな人が見てくれるかわからないというのに、綺麗に爪を研ぎ、髪型に殊更に気を使い、さりげなく相手を視界に収めようとするんだ」
俺もこの頃になると佐々木の性格がわかってきていたが、一応疑問を聞いてみることにした。
年齢と性別で分類するなら佐々木も乙女にカテゴライズされる人間である。
「お前は好きなやついないのか」
いない、とはっきりした答えが返ってきた。
「恋という曖昧で一過性の気分に過ぎないものを傾ける相手は存在しないし、これからもない」
こいつは恋愛に偏見があるのか? 悪意に近いものを感じるぞ。
もてないやつのひがみと決め付けるには佐々木の顔は整いすぎていた。
普通の美的感覚を持っている男なら可愛いと思うはずさ。
肩より上で切り揃えられた髪はよく似合っていて、大人しめで清楚な美少女ぶりを醸し出している。
伸ばしてポニーテールにすればさぞかし俺好みの美少女が出来上がるだろう。
しかし非常に残念なことに佐々木は髪型を変えるつもりがないらしい。

曰く――
「男性心理というのは面白いものだよ、キョン。髪型で女の扱いが変わるんだからね。
ああ、反論を言う前に僕の実体験を聞いてくれ。
ロングだとそれはそれは丁寧な扱いを受けるんだ。そうだな、僕が満員電車に乗っているとしよう。
周囲からの圧迫をなるべく受けないように守ろうとしてくれるし、急ブレーキがかかった時に支えようとするんだよ。痴漢と間違われない程度にさりげなくね。
これがかなり短くしたショートカットだとあまり起きなくなるんだ。不思議だろう?
完全ではないけれど、男にするのと近い扱いを受ける。
そして中途半端なセミロング系はね、やはり中途半端なんだよ。
守るべき女性という扱いを受けにくくなるし対等な扱いも減ってしまうんだ」
そう言った後、佐々木は何が可笑しいのか、くくくっと笑い声を漏らした。
「だから僕はこの髪型でいるよ」
長々と説明してくれたが、俺には言いたいことがわからなかった。
理解できたのは結論だけである。
「佐々木の好きにすればいいさ。お前のことなんだから」
俺はたぶんそう返したのだと思う。詳しく覚えていない。
佐々木がその時にポニーテールだったら鮮明に焼きついただろうが。

「まあ、お前が恋愛感情を快く思ってないのはわかった」
上等な外見を持っているのに佐々木は何故か恋愛を嫌がっているようだ。
「初恋もまだか?」
余計なことまで聞いた。
とはいえ中学生の話題としちゃ普通だろ。
佐々木は、苦笑と普通の笑顔の中間のような顔をして俺の顔を見た。
「どうかな。僕にもわからない」
「わからなくなる相手はいるってことか?」
「不本意ながらそれは最近の僕が僕自身に問いかけていることだ。
答えは決まっているんだが、あまりにもしつこくて根負けしそうだ。折れる気はないけどね」
曖昧極まりないセリフを吐いて佐々木は自分の席へと戻っていった。



この頃から俺は佐々木とよくつるむようになっていた。
奇妙な口調のせいか異性ということをほとんど意識しなくて済む。付き合いやすい相手だ。
相対性理論だの、中世から現代にかけての概念の発生と推移だの、学校の授業以上に役に立たない講義じみたことを聞かされることも多いが、普通に友達付き合いをしていたと俺は証言する。
だがクラスメートたちは、物質的証拠以外は評価するに値しないと振り払う偏屈な検察官のように俺と佐々木の言葉をとにかく疑ってかかっていた。
「キョン、佐々木と付き合ってんのかよ~?」
いつからかこの手の質問が頻繁に飛んでくるようになった。
身に覚えのないことを何度も聞かれる身になって欲しいもんだ。
同じことを繰り返して答えるんだから俺がうんざりしてしまうのは当然と言える。
アイツはただの友達だ。
その証明として、ある日の放課後を取り出してみよう。

掃除当番で教室に残っていた時のことだ。
「何度も言っているが、俺とあいつは何でもない。ただの友達だ」
「またそんなこと言いやがって。怪しいんだよお前ら」
そうだそうだと賛成して俺をキツイ目で見るクラスメートたち。
男に囲まれても嬉しくないぞ。
「怪しいのはお前らの頭の中身だ。どう見たって俺と佐々木は友達だろうが。
自分の身に当てはめてみろよ。友達が女でも大して変わるもんじゃないって」
至極真っ当な俺の意見に返って来た声は、地獄の底で這う虫のようだった。
「オレには女友達なんていねえんだよ……。そもそも女子とロクに話したことがない。
キョン、自慢かこの野郎ぉぉぉぉぉ!」
寄ってたかって殴られた。跡にもならない程度だが。
幸い肉体的ダメージは軽微。
男泣きするやつに胸ぐら掴まれて揺さぶられたせいで精神に受けたダメージは中ぐらいだ。
潤いのない中学生活だと思っていたが、もしかして俺はマシなほうなのか。
「変に身構えずに話せば女友達は普通にできると思うぞ」
「だから自慢かっての!! 殴っていいか?」
また胸ぐらを掴まれた。このクラスのやつらは気が短くていかんな。
わけのわからないことで泣きながら俺を責めるやつより、変な講義を半強制的にしてくる冷静な佐々木といたほうがいい。比較的な。
「先約があるから殴られてやれないな。それよりさっさと掃除しようぜ。
無駄話のせいで待たせることになっちまう。まず手を離せ」
「……佐々木さんか?」
一人が、深夜に恨みを叫びながら五寸釘を打ちつけるのが似合いそうな声と表情で聞いてきた。
周囲も多少違いがあれども似たような感じだ。
なんなんだこいつらは。
「ああ。塾まで佐々木を自転車で乗せていってやる約束をしてるんだ」
その時のそいつらの顔はまさに絶望を表現していた。
写真にとって有名な絵画であるムンクの叫びの横に展示してもいいくらいだ。
うなだれるクラスメートを放置して、俺は掃除を終わらせた。
後半は俺だけでやってたから時間がかかっちまった。やれやれだ。

図書室で俺を待っていた佐々木に遅れた理由を説明すると、佐々木は軽く吹き出した。
「君が極一部で精神疾患の如き鈍感さを発揮すると薄々感じていたが、それほどとはね。
君は僕よりも強くあの精神病を拒絶しているのかもしれないな。
僕は意識して跳ね除けていて、君は自然にそれを選択しているのだから」
佐々木までもが謎の発言をしてくれた。
「さて行こうか。
塾の始業時間は近隣の学校が終わってもなお余裕があるように設定されているけど、キョンのことだ、予習と復習をしていないんだろう?
今日は小テストがある日にも関わらずね。
塾に着いてから以前学習したことを一から確認しても間に合わない」
「げっ、忘れてた。まずいな……」
「送ってくれるお礼代わりに自転車の上で少し解説をしよう。
教室についてからは続きから教えるから、ちゃんと聞くように」
「ああ、頼む。すまないな佐々木」

――と、これがいつかの放課後にあった出来事だ。
やはりどう考えても俺と佐々木はごく普通の友達だと思う。
俺にとっては疑うべくもないことで、佐々木もそう考えている。
健全な友情をおかしな目で見るやつらがいることが全くもって不思議である。
しかし何故かこの日を境にクラスの噂は決定的になった。
俺と佐々木が付き合っているという根も葉もない噂だ。
「キョン、彼女が出来て浮かれるのはわかるけどなぁ、自重しろよ。
もてないやつには目の毒だ。変な女だが見た目は学校でもトップクラスだし」
質問は少々減り、かわりに頭から決めつけたことを言われるようになってしまった。
俺が反論しても聞きやしない。
「だから、俺と佐々木は何でもないって言ってるだろ」
「照れ隠しはいいって。クラスで知らないやつはもういないんだ」
クラス全員がものすごい誤解をしているらしい。
俺の弁解を受け入れてくれる相手は存在しなかった。
この状況で救いがあるとすれば、噂の渦中にいる佐々木が気にしていないことだ。
「思春期の人間は男女問わず興味が性的な物事に向かいやすいものさ。
自分の信じたいことを信じる傾向も強い。僕らが何を言っても徒労に終わると推測するよ。
他の人間が勝手な解釈をしたところで真実は変わらない。これからもよろしく、キョン」
「ああ」
この会話の後にも、イチャつくなとクラスメートの横槍が入った。
くだらないツッコミを入れてる暇があったら受験勉強でもしろってんだ。
やれやれ。

END


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