「今夜、親いないしどうせなら泊っていくか?」
どうして俺はこんなことを言ってしまったのか。
悔やんだのは発言のわずか2秒後だった。
「ああ、そうさせてもらおう」
佐々木は俺の提案にためらいなく頷いたのだ。
待て佐々木、これは冗談だったんだ。仮にもお前は女で、俺は男だぞ。
「言われなくても僕と君の性別は記憶しているよ」
「だったら泊まるな」
佐々木は抗議を聞き流し、俺が広げていた問題集を取り上げて目を落とした。
「キョン、まだこの単元を理解していないようだな。
基礎が固まっていない。ここの問題なんて、最初の計算式が間違っているよ。
基本公式はしっかり覚えるべきだと何度も言っただろう」
「お、おう。悪い」
突き返された問題集を机に置く。
向かい側に座っている佐々木の問題集は全ての解答に丸がついている。
数学はこいつの得意科目で一番の得点源だったな。
悪魔の教科が好きなんて俺には異世界人か宇宙人に見えるぜ。
「それより佐々木。本気で泊まる気か?」
親と妹が出かけていて家には俺と佐々木の2人きりだ。
もし誰かが見ていたら多大な誤解を生みそうなシチュエーションである。
佐々木にあんな冗談を言ってしまったのも、思春期男子の妄想を絵に描いた状況だというのに
実際はただの友人である佐々木と勉強しているだけで色っぽい要素は一つもなく、
中学最後の年は受験勉強に追われてこのまま卒業だなと考えたら湧いてきた
悲しみとも自嘲ともつかない奇妙な感情に押されてのことだ。
女子と仲良く過ごすことや、恋人という存在に憧れがないと言えば嘘になる。
周りの野郎どもよりガツガツしてないつもりだが、俺も普通の男子中学生である。
そのせいで余計な提案をしてしまったのは不覚も不覚、
明智光秀の反乱を見抜けなかった織田信長よりも間抜けと言えるだろう。
……数学の前は歴史をやっていたんだ。
俺もすっかり受験に毒されているな。

悲しい現実を噛み締めていると、佐々木が反対側から俺の問題集に赤ペンで書き込み始めた。
設問の上のほうにチェックマークをつけている。
俺から見てチェックマークに見えるようにしているためか、手つきがどこかたどたどしい。
「印をつけたところは今日中にやってくれ。基礎的だがそれ故に重要な問題だ。
まずは公式の反復からだね、教科書を読んで例題をやってみることだ」
「わかったよ」
部屋の時計は既に11時を回っている。
問題集を解いた頃には日付が変わっているかもしれん。
「佐々木。そろそろ帰ったらどうだ」
「家庭教師を買って出ている相手に酷い言い草だな、キョン」
「はいはい、俺が悪うござんした」
俺は諦めて返事をした。
こうなったら仕方ない。佐々木はきっと折れないだろう。
俺の家に泊まって何を企んでるだろうな、こいつは。
「佐々木の好きにしてくれ。
でも俺の部屋にはベッドがひとつしかないしな……。妹の部屋を借りるか」
幸か不幸か妹はミヨキチの家に泊まりに行っている。
寝る場所ぐらい借りても文句は言わないだろ、あいつなら。
「あ、キョン……」
佐々木が何か言いかけたが、俺は妹の部屋の様子を見に行った。
見知ったはずの部屋は見事なまでに様相を変えていて、俺の度肝を抜くに十分だった。
これでもかというほど物が散乱している。ベッドの上もだ。
足の踏み場もないとはこのことだ。小柄な小学生だって寝れそうにない。
昨日までは多少散らかっていても普通に人間が暮らせる場所だったんだが。
あいつは掃除の途中で出かけたのか? だらしない。兄は悲しいぞ。
誰の陰謀か、両親の部屋も居間も俺の知る限りで最高の散らかり具合だった。
「なんなんだよ、いったい」
この謀ったようなタイミングの良さ、いや、悪さに情けない声を出してしまったのは仕方ないと主張する。
誰が俺を責められるだろう。そんなやつは立場を変われ。
でも佐々木に変なことをするのは許さんぞ。クラスのバカどもならやりかねん。
事あるごとに下衆の勘繰りをしやがって……と、話がずれたな。
とにかく、俺は困ってしまった。
年頃の正常な男としては、同じ年頃の女と同じ部屋で寝るのは問題がある。
女の佐々木が気にしてないのに、俺が気にしているのは馬鹿馬鹿しいと思わなくもないのだが……。
俺と佐々木はただの友人である。
男女間の友情は成立しないという言葉があるが、俺たちは何事もなく友達づきあいを続けてきた。
今さら佐々木が泊まるぐらい気にすることでもないのだろう。
だが気にするなというほうが無理だ。
まあ、ここは妥協案として佐々木には俺のベッドで寝てもらおう。俺は床で寝ればいい。
よし、そうしよう。

――結論から言うと、俺のその決断は佐々木に却下された。
俺も佐々木が嫌がることは予想していたがこれは譲れない。
「一応お前は女だし、客を床に転がす趣味はない。俺のベッドを使え」
「君が好意で言ってくれているのはわかるが、その件はお断りするよ。
帰れという君の意見を黙殺して泊まることにした上に、君の寝場所を奪うのは心苦しい。
君の家の床で寝たところで命には関らないのだから過剰な気遣いは不要だよ」
「生きるか死ぬかだけで判断するなら、俺の勉強にお前が付き合う必要は最初からなかったと思うぞ」
俺にしては気の利いた意見だ。俺判断で。
しかし俺が佐々木に口で勝てるわけがなかった。
ふむ、とひとつ頷いた佐々木はとんでもないことを言い出してくれやがりました。
「君は僕にベッドを譲ることを希望し、僕は君がベッドを使うことを希望している。平行線だ。
両者の希望を取るならば同時にベッドを使うのが解決案だと思う」
「お、おい、佐々木。それは最悪の選択肢だぞ」
「どうしてだい? 互いの主張が通る素晴らしい妥協案じゃないか」
変だ変だと思っていたが、こいつは頭のネジが吹っ飛んでるのか?
「お前に何かあったら悪いと心配している俺の気持ちをわかって欲しいね」
佐々木は偽悪的な笑みを浮かべた。
「僕が君の家に泊まると害があるのかい? 今夜、この家には君しかいないんだろう。
キョンが僕に危害を加えるつもりがないのなら何もないはずだ」
ああ、そうさ。俺がお前に何もしなければな。
そして俺は佐々木に変なことをする気なんてアリの触覚の先ほどもありゃしない。

「でもな、やっぱり男と女が一緒に寝るってのは……」
理性と欲望の戦いを繰り広げることになる。間違いない。
しかし俺を信頼しきっている佐々木にそんなことは言えない。
俺は苦い顔をしていただろう。
苦虫を集めてミキサーにかけた苦虫ジュースを飲んだ顔だ。どんなのだろうな。
ここに鏡がないから俺には見えん。
「あのな、佐々木」
一晩中欲望と戦う苦渋の未来を選ばされる前に、俺は再び抵抗を試みた。
「俺、これでも男だぞ」
「わかっているさ。君の言いたいこともね。でもキョンにそんな度胸はないだろ?」
平然と言う佐々木に腹が立った。
……こいつは俺が何を心配して、何に困っているのか百も承知で言っている。
俺がその言葉を快く思わないのもおそらくわかっているんだろう。
それが、とても胸糞悪く感じた。
「佐々木」
我ながら落ちついた声だった。
何をするつもりだと、心の奥で誰かが問いかける。
大事な友達を失うつもりか、信頼を裏切るつもりかと、俺の心が訴える。
ああ、それでも腹が立つものは立つのさ。ちょっとふざけたっていいだろう?
「なんだい、キョン」
澄ました佐々木の顔が見える。
まだあいている距離を詰めながらもう一度彼女の名を呼んだ。
「キョン? どうし……きゃっ!?」
小さい悲鳴が耳に届いた。
俺はそれに構わず、佐々木の腕を掴んだ。既に俺は佐々木を押し倒している。
「俺、これでも男だぞ」
先ほど言ったセリフを繰り返した。
佐々木が目を白黒させる様子は見物だった。
「お、落ち着けキョン、少し調子に乗りすぎてしまった、だからどいてくれ。
まあ君も男だ、気持ちは分かるが僕と君は―――」

焦って俺を押しのけようとする佐々木の顔は今まで見たことがないものだった。
男に対して取る態度より、女子と話している時の表情に近い気がした。
ちょっとした仕返しのつもりだったが、そんな顔をされると、その、困る。…へたれって言うな。
やっぱりコイツも女なんだって変に意識しちまうな。自分で押し倒しておいて何を焦ってるんだ俺も。
「僕と君は、友人だ。離してくれキョン」
「友達だからってできなくはないだろう? 恋人同士じゃないといけない決まりはない」
これは佐々木が言ってたことだ。俺が言い返せなかった発言をここで使わせてもらう。
頭のいい佐々木は前に自分が言ったことを覚えていたのだろう、少しばかり顔をしかめた。
「確かに恋人である必要はない。だが友人や恋人といった人間関係以前に君が今やっていることは問題がある。
君は嫌がる女に無理矢理行為を迫る男なのかい?」
佐々木は近くにある俺の顔をまじまじと見た。
喋っているうちに落ち着いたのか、普段の表情に戻っている。
「しかし、ふざけて君の男のプライドを傷つけてしまったことは僕に非がある。
明日に響く行為は困るが、少しくらいならキョンのしたいようにしてくれて構わない」
「……冗談だな?」
「その通りだ。君ならそう受けとってくれると信じていたよ」
それは褒めているのか? ちっともそういう気がしないんだが。
俺はふてくされながらも佐々木を解放してやった。
佐々木は特に気分を害した様子もなく、面白そうにこちらを見ている。
俺はあまり面白くない。舐められっぱなしは嫌なものだ。
「……少しならいいって言ったよな?」
「ああ」
「ちょっと目を閉じてくれ」
ほう、と佐々木は笑った。
「君が婦女暴行を働く男だったとは知らなかったな」
どう考えても、からかわれている。こいつ悪いと思ってないな。
「いいって言い出したのはお前だろ」
「それもそうだね」
くくく、と喉を鳴らして笑い、佐々木は目を閉じた。
こうして見るとかなり可愛い顔をしている。
変な言葉遣いと理屈っぽいところを直せばモテるだろう。当人は全く興味がないようだが。
そんなことを考えながら佐々木のあごに手をかけた。
ゆっくり顔を近づけても佐々木は目を開けない。
恋愛感情を精神病と言い切る女だっていうのに、平気なのかね。 まあ、そういうやつだからこそ、好きでもない俺を前に平然と目を閉じていられるのかもしれない。
そしてさらに顔を近づけて――俺は佐々木の唇に軽く触れた。
すぐ離れたが、その途中で佐々木の驚いた顔が見えた。なんで驚くんだ。
佐々木は俺から顔をそらして口を押さえている。
「……本当に…やるなんて……」
俺はそこまで甘く見られていたのか。今日の出来事で一番ショックだ。
「いつまでもふざけるからだ」



翌朝。
俺は強引に起こされた。犯人はもちろん佐々木である。
「キョン、起きろ。学校に遅れるぞ」
「……あと5分寝かせてくれ……」
「寝起きが悪いんだな君は。朝のまどろみが心地よいのは僕も理解しているが、
どうせ5分後には嫌々起きて支度を始めるのだから潔く起きろ。
いつもそうなのかい? キョンは妹の起こし方に常々不満を言っているが君が悪い。
キョンが返事をするまでに僕がどれだけ呼びかけたと思う?
妹君の起こし方は実に君に合った合理的な手段だね。時間を短縮できる。
これからは文句を言わずに妹に感謝するか、自分で早く起きることを推奨する」
つらつらと説教が聞こえる。どこの母親だお前は。
これでは至福の時間がゆっくり味わえない。
「……わかった。起きるから勘弁してくれ」
佐々木はいつも通りだった。
まあ、いきなり女子に対するような態度を取られても俺が困る。ほっとした。
朝食の後、佐々木がひとつ提案をしてきた。
「昨日の夜にあったことは今後触れないようにしないか」
「何かあったか?」
「……忘れたわけじゃないだろう? 君にあんな度胸があるとは想定外だった」
そうかよ。
このままほっとこうとも思っちまったが、こいつの性格じゃ多分ファーストキスだろう。
それを騙したままにするのは正直悪い。
俺は右手の人差し指と中指をそろえ、佐々木の顔へ近づけた。
二本の指で、佐々木の唇に軽く触れる。
……これが昨日の夜に佐々木にやったことだ。
勿体無いことをしたと悔やむ気持ちもあるが、佐々木と妙な関係になるのは避けたい。
「で、あんなってどんなことだ?」

にやにや笑いで問いかけてやる。佐々木は答えない。
佐々木は数秒間、らしくもなく呆け気味だった。昨日の夜よりも驚いているようだ。
あるがままを受け入れるスタンスで生きてる佐々木がこんな風になるのは珍しい。
俺も見るのは初めてだ。
「キョン」
普段冷静な声が、いつにも増して冷たく聞こえたのは俺の気のせいだろうか。
「僕もからかい過ぎたが、君の悪戯は報復としてもやりすぎだと感じるよ」
「怒るなよ。実際にはキスなんてしてないんだからさ」
「……君はもう少し、人の心の機微を察するようになったほうがいい。なりたまえ」
「あ、ああ。努力はしてみる」
その機能が向上する保障はしないがな。
しかし、佐々木はなんでこんなに怒ってるんだ?
そんなに騙されたのが癪に障ったのか。
「俺が悪かった。すまん」
とりあえず頭を下げたが、彼女の冷たい目の温度は上がってくれなかった。
「お前、目が赤くないか?」
「誰かさんの悪戯のせいで寝付けなくてね。僕にも思春期の青少年らしい一面があったようだ。
新しい発見をしたのは喜ばしいことだよ。それ以上に腹が立っていて実感しにくいのが残念だ」
……なんだか、ものすごく怒っていらっしゃる。
佐々木がここまで感情的になるなんてな。昨日の夜から珍しいものをよく見るぜ。
「あー、佐々木。学校まで一緒だろ。送っていくぜ」
また変な噂が立ちそうだけどな。
中学生にもなると、男と女がちょっと仲良くしてると勘繰られる。バカらしい。
放課後に佐々木を乗せて塾まで行ってるだけで誤解される有様だ。
「気にしないさ。周囲がどう勘繰ろうと、僕と君の関係が変わるわけではない」
「まあな。じゃ、行こうぜ」
佐々木の顔を見るに機嫌は直ってくれたようだ。あんなに怒ってたのに早いな。
何でなのかわからん。
佐々木よ、すまないがお前の要求はハードルが高いようだぜ。
自転車で学校へ向かう途中、風の音に混じって何故かため息が聞こえた気がした。

END

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