※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

きっかけはたいしたことじゃなかった。
文芸部室の不法占拠を続けるSOS団が、いつものように活動しているところから、話は始まる。
長門は本を読んでて、朝比奈さんは編み物を楽しんでいる。
俺と古泉は、昭和初期のすごろくに興じている。なかなか新鮮だが、時が読みずらいのが欠点だ。
ハルヒはといえば、団長席でPCとにらめっこだ。大方オカルトサイトで興味深い文章でも見つけたのだろうな。
俺がサイコロを投げようとした瞬間のことだった。
「ねえ、キョン」ハルヒの声が飛んだ。
「どうした?」
ハルヒは招き猫のように手招きで俺を呼んでいる。古泉が苦笑を浮かべ、俺はそんな古泉を睨みつける。
サイコロを机におき、ハルヒの横に立った。甘酸っぱい柑橘系の香りが鼻をくすぐった。
「どうしたんだ?」
ハルヒはディスプレイを見るのをやめて、俺の顔を見上げた。
「これ、なにかしら?」
ハルヒはそう言って、ディスプレイを指差した。俺がディスプレイを覗き込めば、うっすらと俺とハルヒの顔が映り込む。
そこに表示されているのは、ただのメールだった。本文はハイパーリンクが一つだけあって、それはまだ青く表示されている。
差出人欄にはなにもない。タイトルには一言、こう書いてあった。

『ウソがホントになる世界への行き方』


「ね、どう思う?」
「消しちまえ。怪しすぎるだろう」
「そうよね………でも、なんか気になるのよねえ」
「いたずらメールだろ、無視するに限るぜ」
「そうかなぁ」ハルヒは神経質にマウスを指でたたいている。「なんかおもしろいこと起こるかもしれないし」
最近、そういう出来事にはとんと御無沙汰だな。俺はさりげなく長門に視線を送った。
長門は首を傾げた。……特に危険はないということか。

続いて古泉を見たが、肩をすくめて手を上げている。
まあおまえの管轄ではないからな。
「……ウィルスかもしれんしなぁ」俺はハルヒに言った。
「バックアップ取ってあるし、平気よ」
「………」
「見てみようよ、ね?」ハルヒが珍しく甘えるような声を出した。
「どうなっても知らねえぞ?」
「覚悟はできてるわよ」
俺が頷くと同時に、ハルヒはハイパーリンクをクリックした。
ブラウザが開いたが、表示されたのは白いページだった。それ以外なにもない。
「なんだ、冗談か」俺はほっとため息をついた。
「……まあ数秒だけは楽しめたわ。キョン、もういいわ」
あたかも姫君が家臣に言い放つようなセリフだな。まあ、俺の前世の前世の前世ぐらいにそういう関係だったのかもしれんがな。
俺は肩をすくめ、微笑みを忘れない古泉が待つ長テーブルへ歩を進めた。
あれ?床が柔らかくなってねえか?足裏は床にずぶずぶと沈んで行くような感覚を伝えるが、目で見る限り足はちゃんと床にある。別に沈んでいない。
視覚と体感のギャップの激しさに軽い吐き気を覚えた。
「どうしたの?キョン?」
背中からハルヒの声が聞こえるが、突然の頭痛に答えることができない。
もう一歩足を踏み出した。目で見る限り足は床についているが、どんどん沈んで行く感覚が足裏から伝わってくる。
「キョン!」ハルヒの叫びが遠くに聞こえる。またひどい頭痛が襲ってくる。
目の前がどんどん暗くなって行く。まずいな、このままじゃ。
最後の一歩を踏み出せば、まるで奈落の底へと落ちて行くような、体がひっぱられる感覚と、激しい頭痛に目を開くことさえできない。
最後に聞こえたのは、俺を呼ぶハルヒの声。
あとは真っ白い光の中に落ちていった。

頬にあたる粒の熱さにすこしづつ意識が戻る。恐る恐る目を開けると軽い頭痛に襲われたが、すぐ消えた。
目の前には白い砂があった。俺は何度も瞬きをしたが、白い砂は白い砂のままだった。。
風が強い潮の香りを運んでくる。すると、ここは砂浜なのか。
上体を起こしてみれば、見渡すかぎり白い砂に覆われている。寄せては返す波の音を背中で聞き、振り返った。
真っ青な空と、白い砂浜。そして、見渡す限りの大海原が広がっている。
潮風が俺の頬をなでて吹き抜けて行く。ふと自分の体を見下ろせば、制服のままだった。どこにもケガはしていない。
ポケットをまさぐると、財布や携帯電話がそこにあった。携帯電話を取り出してみたが、圏外だった。
俺はため息をつき、携帯電話をポケットに戻した。
立ち上がり、あたりを見回せば、遠くの方に建物が見えた。お屋敷のような建物。
どこかでみたような気がするのだが、どこでみたんだったか。それにこの海岸も見覚えがあるのだが、それがどこなのか記憶が抜け落ちているようだ。
とにかくあそこまで歩くしかねえな。
それにしても、ここは一体どこだ? なんてところに連れてかれちまったんだ。

砂浜は歩きづらく、なかなか建物との距離は縮まらない。
ぎらぎらと照りつける太陽は頭上にあるものの、気温は熱くもなく寒くもなかった。時折、冷たい潮風が吹いて、火照った俺の体を冷やしてくれた。
喉も渇かず、腹も減らない。とすれば、この世界はまがい物か。
ここが『ウソがホントになる世界』なのか。
ここに来たのは俺だけなのか。他の連中もここに来ているのか。

日が傾いてきた。本来ならば、歩きにくい砂浜を長時間歩き続けることなどできないだろう。あの建物はすぐ近くになった。
気温がほんの少し下がったように感じる。これもどこかで味わったように思うのだが、それがどこだか分からない。
建物へと続く舗装された道を歩く。なだらかな坂道にも見覚えがある。が、どこだか特定できない。

ついに建物の前まで来た。古びた洋風の門に手をかけると、それは音もせず、中に向かって開いた。
まるで迎え入れるかのように。その向こうには英国風庭園が広がっていた。
一見乱雑に植えられた草木は、ある計算に基づいた自然の再構築の現れと、誰かが言っていたことを思い出した。
見事な庭園を進むと、大きな扉の前にたどり着いた。
これまで人の気配は一つも感じられなかった。が、この扉の向こうには、なんとなくだが、人の気配が感じられる。
誰がいるのか。SOS団の一人でもいてくれれば、心強いんだがな。

磨き抜かれた真鍮のノブに手をかけて回した。確かな手ごたえを感じ、押してみた。扉は音もなく内側に開いた。
俺を招きいれるかのように。

扉の向こうは大きなホールになっていた。そのホールの中央、二階への階段の脇には、小さなソファがおかれている。
そのソファ見覚えのある制服をきた少女が座っている。瞳を閉じ、顔を伏せ眠っているように見えた。
黄色いリボン付のカチューシャを俺が忘れる訳がない。俺はあわててその少女に近寄った。間違いなく、ハルヒだった。
「ハルヒ」俺は声をかけた。
ハルヒが顔を上げて、目をこすった。眠っていたらしい。
「キョン!?本当にキョンなの!?」
ハルヒが弾けるような笑顔を浮かべ、立ち上がった。
胸にどすんと飛び込んできたハルヒを、あわてて支えてやった。
「よかったぁ。一時はどうなるかと思ったよ」
「まさか会えるとはおもわなかったがな」
「ここにいれば会えるって言われて、ずっと待ってたの」
「そうか……でも、ここは一体どこなんだ?」
「わかんない。異次元空間ってやつじゃないかしら」
「この屋敷は?」
「わかんないけど、大丈夫。だれもいないし」
「そうか、最初からいたのか?ここに」
「そう。気が付いたらここだったの」
「とにかく、元に戻ること考えないとな………」
「その前にさ」ハルヒはニヤリと笑った。「ね、お腹すかない?腹ごしらえしようよ」
言われて見れば、腹が減っていることに気が付いた。ハルヒの言うとおり、まず腹ごしらえが必要かもしれん。
「あっちにさ、キッチンがあるの。いこ」
ハルヒは100Wの笑顔を浮かべ、俺の手をとって歩きだした。

キッチンは広々としていて、まるでウチのリビング並みだった。
キッチンの隣はリビングになっていて、これまた広い。ウチのリビングより二倍は広い。おまけに大型液晶TVにソファセットにテーブルセットまで誂えてある。
キッチンにはさまざまな食材があり、調理道具もそろっていた。
ハルヒは制服の上から、エプロンを掛け、意気込んで料理を始める。
俺も手伝い、予想以上に早く料理ができあがった。
できあがった料理をリビングの白く大きなテーブルに運んだ。
「とにかく食べて、休んで、英気を養いましょうよ」
ハルヒはうれしそうにそう宣言した。その笑顔になにか思い出しそうになるのだが、その感覚はするりとどこかに逃げてしまう。
「そうだな。それから戻ることを考えても遅くはねえか」
そして俺達は腹がはちきれるほど、むさぼり食った。

キッチンに空いた器を運んだ。ハルヒは食器洗いを始める。
「手伝おうか?」
「いいわ。あんたはリビングでTVでも見てなさい」
TV、見れるのかね。そう思ったが、俺はリビングに戻った。
ソファセットに体を預け、ガラステーブルの上にあるリモコンを手にした。
TVの電源を入れると、いつか一度見たような番組が映し出された。
記憶があるような、ないような、そんな奇妙な感覚を覚えながら、TVを眺めた。
あれ、あの人はこの前亡くなったんじゃなかったか? 俺の勘違いなのか。
リビングのドアが開き、ハルヒが入ってきた。エプロンを脱ぎ、テーブルの椅子にそれを掛けた。
「お、早かったな」
「最初気がつかなかったけど、実は自動食器洗い器があったのよ」
「なるほどな」
ハルヒは俺のとなりに腰を降ろした。体を預けてくるのには、いささか閉口したが、まあ悪いものではないな。
「こーやって、一緒にTV見るのも悪くないわね」ニヤッとハルヒが笑みを浮かべた。
「まぁな」俺もハルヒに笑いかけた。
ハルヒから立ちのぼる甘ったるい香りに、強い違和感を覚えながら。

「お風呂がね、温泉みたいなのよ」ハルヒは嬉しそうに言う。「すごく広いし、お湯がずっと湧き出てるの」
「へえ」
「入ったら?ここまでくるのに随分歩いたって言ってたじゃない。お風呂入って、すっきりしなよ」
「それもそうだな」
ハルヒにせかされるように風呂場に向かった。
脱衣所は広く、これまた見覚えがある。どこで見たのか、それは思い出せないのだが。
洗面台には歯ブラシが二本おかれている。ちと、ご丁寧過ぎやしないかね?
まるで、俺達のために誂えたように見えて仕方がない。
制服を脱いで、適当なカゴに畳んで入れた。
ポケットから滑り出た携帯電話を取り上げた。
やはり圏外のまま。当然だが、メールも着信もない。
どうやってここから脱出すればいいのか、早いところ方法を考えなきゃいかんよな。こういう時に頼りになる長門がいないのが痛いところだ。
しかし、ハルヒのやつはどうしちまったんだ? こんなとんでもない状況なのに、妙に落ち着いてやがる。
まるで、最初からここにいたかのように。

腰にタオルを巻いて風呂場に入った。なるほど、ハルヒが言うように広い風呂だった。洗い場も、10人は並べるほど広い。
ちゃんとシャワーがあり、リンスやシャンプー、ボディソープもそろっている。
角に積み重ねてあった桶と、腰掛けをとり、洗い場のひとつに腰を落ち着けた。
豪快にシャンプーを使って頭を洗う。メレンゲのようになるまでシャンプーを使うのは、ウチの家では当たり前のことだ。
体を洗いはじめたところで、風呂場の戸が開いた。振り向くと、バスタオルに身を包んだハルヒが笑顔で立っていた。
「おいおい、ちょっとマズイんじゃねえか?」
「大丈夫。あたしたちだけだし。風呂、ここにしかないし」
「そういう問題かよ」
「いいじゃない。別に知らない仲じゃないんだし」
逆をやったら、多分半殺しされるんだろうな。本当に都合のいい奴だ。
ハルヒは桶だけを取って、俺のとなりに腰を落ち着けた。
「背中、流したげようか?」ニヤッと悪魔が微笑みを浮かべた。次はきっと魂を売り渡す契約書にサインしろというのだろう。
「え……」
「はやくしなさい」ハルヒは口をとがらせて言った。「あたしだって、結構恥ずかしいんだから」
「あ、ああ」
俺は泡だらけのタオルをハルヒに渡し、背中を向けた。
ハルヒがごしごしと俺の背中を擦っていく。かなり力をいれているようで、痛みすら覚える。加減しろ、ハルヒ。
しかし、いささか困った問題が発生中だ。このままでは立てない。……男なら分かるはずだ。
「ほら、これでおしまい。あとは自分で洗いなさい」
「あ、ああ」
泡だらけのタオルを渡されて、俺はためらいながらも体を洗い出した。ちらりとハルヒの方を見れば、頭を洗いはじめているところだった。
それなら遠慮することはねえか。俺も本格的に体を洗った。
シャワーで泡を流し、ハルヒに声を掛けた。
「先、入ってるな」
「いちいち断らなくていいわよ」のんびりした声が帰ってきた。
立ち上がろうとしたが、とある事情により、中腰でないと歩けない。
普通に歩くと、腰に巻いたタオルが手品のように上に持ちあがってしまうためだ。
もちろんこれは手品だ。ハルヒに聞かれたらそう答えるつもりだ。

湯船にゆっくりと浸かる。本当に温泉なのだろうか。単純泉ってやつかもしれん。
心地よい暖かさに、思わずため息がでる。体にたまった疲れがお湯に溶け出し、そのままお湯と一緒に消えていくようだ。
面倒がおこらないように、ハルヒには背中を向ける位置を取った。
湯船の向こうはガラスになっていて、青い空と海が一望できた。空には雲一つなく、やはり遠くまで澄み切っていた。
「体洗うから、こっち見ちゃだめよ」
「ああ、分かってる」湯船に顎まで浸かりながら、俺はそう答えた。
間違いが起こらないように目を閉じて、これまでのことを振り返ってみる。
白い砂浜、青い空と海。どこかで見たような記憶はあるけれど、思い出せない。
青い海と空は水平線の向こうで溶け合っていた。
どこまでも続く白い砂浜には、足跡もなく、どこまでも続いているよう。
カモメの一羽も見かけないのは何故なのか。俺達以外の生物がいない世界。
ここはどこなのか。そしてどうすれば帰れるのか。
あのメールに書いてあったように、ウソで出来上がった世界に俺は来てしまったのか。そうすると……俺やハルヒは本物なのだろうか。
それとも、すべてがウソなのだろうか。

ちゃぽんという音の方をみれば、白い足首が見えた。ハルヒの足だった。
きれいに整えられた爪は薄いピンクに彩られていた。結構、マメなんだな。
「あ、バレちゃった」ハルヒが小声でいった。「驚かそうと思ったのに」
「そんな手にひっかかるかよ」
「どうかしら」ハルヒは湯船にゆっくり体を沈ませつつ言った。
ハルヒはすこし泳ぐように移動して、俺と向き合う場所に体を落ち着けた。
残念なことにバスタオルを体に巻き付けたままだ。もっともバスタオルがなければ、俺の理性はもたなかっただろうな。
洗い立ての髪をタオルで包んでいて、後れ毛から水滴がポタポタと落ちている。
ほんの少し赤い顔はいつものハルヒと寸分違わないように見えた。
「初めてね。二人でお風呂入るなんて」
「そうだな。……ちょっとばかり驚いてるぜ」
「何に?」
「この場所と、堂々と風呂に入って来るハルヒに」
「この場所、なんか変よね。あたしたち以外に生き物はいないみたいだし」
風呂の件は、きれいにスルーしながらハルヒが言った。
「ああ、カモメの一匹もいやしない。なにか間違ってるぜ」
「でも、いい場所っていえばそうよね」
「それは認めるが、どちらかというと元の世界の方が、俺はいいね」
「そう? あたしも一人でいるのは嫌だけど、別にここでも……」
「どうすりゃ帰れるのかね」
「わかんない。でも、食べるものもあるし、ゆっくり考えてもいいんじゃない?」
「あんまり時間はないかもしれんぞ?」
「焦ってもうまくいかないかもしれないし。今日はのんびりして、明日考えればいいじゃない」
「それはそうだが……」
「そろそろ出ない? ゆで蛸になっちゃいそう」
「……先に出てくれ」
「どうかしたの?」
「非常に具合の悪い事態が起きてるんでな」
「………」
ハルヒはなにも言わずに湯船から上がった。顔が赤いのは、お湯であたたまったというだけには見えなかった。

俺が脱衣所に入ると、ハルヒはスウェットに着替えていた。スウェットといっても、ボトムがハーフパンツになっているものだ。
「あんたの着替え、そこおいといたから」
ハルヒは洗面台で、髪にドライヤーを当てて乾かしていた。
俺の服をいれたカゴの中に、まっさらのスウェット、そしてTシャツやパンツが用意されていた。
「すまねえな。……制服はどうした?」
「洗えるものは洗濯機。洗えないものはリビングに吊るしといたわ」ハルヒはごく当たり前のように言った。
「重ね重ね悪いな」
ハルヒは聞こえなかったかのように、ドライヤーを続けている。俺は濡れたタオルを別のカゴにかけて、バスタオルで体を拭きはじめた。
「丸見えなんですけどぉ?」ハルヒがぶすっとした口調でいった。「ちょっとは配慮しなさい」
「こっち見んな」俺はパンツを履きながら答えた。「金取るぞ」
「そんないいもんじゃないでしょ?」
ちょっとぐらい涼みたいところだがな。パンツ一枚で体重計乗ったりもしたい。
しかしハルヒが鏡経由で睨んでいる。やむを得ず、スウェットを着込んだ。
「ドライヤー、もう一個あるわよ」
「そいつは助かるね」
かくして、二人洗面台で、むすっとした顔を並べて髪を乾かすことになった。
「ふふっ……おんなじ香りがするね」ハルヒがドライヤーを止めていった。
「そりゃ、同じシャンプーやリンス使ったからな」
「なんかうれしくならない?こういうのって」
「そうか?」
「つまんない奴ぅ」ハルヒはため息を付いた。「ま、いいけど」
俺の頭はすぐ乾いたが、ハルヒはまだドライヤーを当てている。ハルヒの髪は結構ボリュームがあるからな。乾かすのに時間がかかるのだろう。
俺はドライヤーを片付け、扇風機のある場所に移動した。
扇風機を強にして回した。気持ち良い風にうっとりしてしまう。
「先、でてもいいよ?」ハルヒが大きめの声で言う。
「別に待ってるわけじゃない」
「あ、そ」
脱衣所を後にしたのは、ハルヒの髪が乾いてからだった。

まだ寝るには早い時間であり、リビングに戻った。ハルヒはなにか飲み物を探して来るといってキッチンに消えた。
俺はソファに腰掛け、BGMがわりにTVをつけた。
ちょうど音楽番組をやっている。これまたどこかで見たような気がする。
キッチンに消えたハルヒが、缶ビールを二本持って戻って来た。
「禁酒したんじゃなかったのか」
「今日だけ解禁よ」ハルヒは勢いよくプルトップを開けた。「飲まないの?」
俺も缶ビールを手に取り、プルトップを開けるほかなかった。
「しかしさ、なんであたしたちだけなのかしらね」
「メール見たの、俺達だけだからだろう?」
「そういう意味じゃなくて、なんで誰もいないのかって事よ」
「さぁな」
「……あたしとキョンに用がある奴の仕業なのかな……」
「用があるなら、用件を言えってことだよな」
「あのさ」ハルヒは声を落としていった。「あんたが来るって聞いたって言ったでしょ、あたし」
「ああ」
「それってね、人の気配なんてしなかったんだけど、突然声が聞こえて来たの」
「ほう」
「『彼を連れてきた。多分、待ってれば会えるよ』って」
「それはいつなんだ?」
「ここに来て、すぐ。時間は覚えてないけど」
「それ以外、なんか聞こえなかったのか」
「『これでも狭かったのか』って独り言かな。そういうこといってたけど」
「訳わからんな」
「最初、彼って誰のことかと思ってたけど、やっぱりキョンで安心したわ」
「ま、それは俺も同じだな……」俺はビールを一口飲んだ。
「あたしでよかった?」ハルヒは視線を逸らせながら言った。
「まぁな」一瞬、体が熱くなるような恥ずかしさを覚えたが、すぐ消えた。
「ふうん」ハルヒは視線を逸らせたまま言った。「そうなんだ」

ソファの前のテーブルに、空の缶ビールで山が出来た。かれこれ1リッターは飲んでしまっただろうか。
トイレにいくついでにビールを持って来るのだから、世話はない。
二人とも酔っ払っているわけがない。断じて泥酔状態などということはありえない。
俺がトイレから戻ると、ハルヒが抱きついてくる。そのまま抱き締めてやるのは、抱き枕に最適だからであり、酔っ払って理性を失っているわけではない。
「そろそろ寝る?」ハルヒがとろんとした目で言う。「上に広いベッドルームがあるの」
これはハルヒが眠いことを意味するだけだ。おれもそういう目をしているかもしれないが、これまた眠いことを意味するだけだ。
飲酒による酩酊状態を意味するものではないことを、ここで強調しておきたい。
「そうだな」
「ちょっと、もう……。どこ触ってんのよ」
「ああ、すまん。出来心だ」
「痴漢は犯罪よ」
「痴漢されたことあるのか?」
「いまされてる」口をとがらせてハルヒが言った。
「それでも俺はやってません」
「嘘つき。堂々と痴漢するな」ぺしぺしと俺の腕をハルヒは叩いた。「やらしいんだから」
「ハルヒが可愛いんだからしょうがないだろう?」
「責任転嫁するの?……ちょ、ちょっと。首筋にキスなんてどういうつもりよ」
「すまん。これも出来心だ」
「もう、あっち帰ったら本気で死刑にしてやるから」
「帰れたらな」
「帰れなかったら、ここで住んじゃおうよ」
「それもいいかもしれねえな」
「……ね、上がろう」目を伏せたハルヒがそっとささやいた。
「そうするか」

ベッドルームは広かった。俺の部屋より3倍は広い。中央にダブルベッドが置かれている。大きな窓まである。部屋のすみには、オーディオセットまであった。
いやはや、こんな部屋に住むにはいくら稼げばいいんだろうね。
「すごいでしょ、あたしの部屋の二倍はあるわ」
ハルヒはうれしそうにささやいた。足元がふらついていたので、抱き上げてここまで運んできた。
さすがに重いので、そろそろ降りていただきたいのですが。
「ベッドまで運ぶって約束でしょう?」
そんな約束はしていないのだが、ハルヒに水掛け論で勝てる訳がない。俺は素直にハルヒをベッドまで運んでやった。
ちょっとバランスを崩してしまい、ハルヒともどもベッドにダイブしちまった。
ハルヒは気にした風もなく、俺も気にしてはいない。
「ふぅ」
ハルヒは大きくため息をつき、大きな瞳が一瞬閉じられ、またゆっくりと開かれた。
「やだ」短くそういって、ハルヒはかすかに笑った。
「どうした?」
「目がやらしい。キスしたそうな目してる」
「……眠いからだろう」
「ウソつき」
「……酒飲んだからな」
「それもウソ」
ハルヒの唇が誘うように動いている。いくぶん薄めの唇まで、あと1cmもない。
「ウソばっか。……ホントの事教えてくれたら、キスしていいよ」
「…キスしたい」
重ねた唇が熱いうずきのように感じた。
夢中で手のひらを重ね合わせ、しっかりと指を組み合わせた。
それもまた熱い。すべてのエネルギーが、熱に変わり、お互いを一つに溶かしていく。
なにをするにももどかしくて、いらだたしさを覚えてしまう。
もし、すべてが嘘だったとしても、この感情だけは本物であってほしい。
一つに溶け合いながら、それだけを願っていた。


周囲を白い霧が覆っている。霧は深く、なにも見えない。
聞いたことのあるメロディが、どこからともなく聞こえてくる。
即席バンドにしては上手な演奏。とぎれとぎれの記憶が戻らない。
その音に向かって歩きだした。どこまで歩いても霧は深く、たどり着く事ができない。
『いつまで寝ているの?』
聞き覚えのある声が頭の中に響いた。いとおしさといくらかの自己嫌悪を感じる声。そんな感情しか思い出せない。
『早く目を覚まして……』
声が遠く、小さくなっていく。何故か涙が溢れ、頬を濡らす。メロディはかろうじて聞こえているが、いまにも消えそうなほどだ。
声のする方向と音楽が聞こえる方向は同じ。どうすれば、そこにいけるのだろうか。走りだすけれども、声はもう聞こえなかった。
例えようもない絶望感で、心が壊れそうだ。
行かないでくれと、俺は叫んだ。

目が覚めた。ふかふかの布団の中で、俺は涙を流していた。あの夢のこと
「どうしたの?」
ハルヒは淡くぼんやりとした照明を頬に受けている。俺の涙を指で拭った。
「こわい夢でも見たの?」
「……ああ」
「大丈夫? 水もってきてあげようか?」
俺は返事の代わりにハルヒを抱き寄せた。ハルヒは何の抵抗もせず、俺の胸に頭を乗せた。
「いや、しばらくこうしていてくれ」
「いいけど……大丈夫なの?」
「ああ……悪い」
ハルヒはなにも答えない。手を伸ばして、俺の髪に触れた。やさしく髪を撫ではじめてくれる。
「眠れるまで、こうしてあげるよ」
ハルヒの甘い香りを胸一杯に吸い込んで、目を閉じた。
やわらかな手触りを感じながら、また夢の中に吸い込まれていった。

まぶしさに目が覚めた。風が頬をなでて通り過ぎて行く。
光の中に見えたのは、ハルヒの背中だった。いつか見たことのあるTシャツと、デニムのミニスカートに着替えていた。
ハルヒは大きな窓を開け放している最中だった。カーテンが風に舞い、ハルヒの髪が踊る。ぶつぶつつぶやきながら、髪を手で押さえ付けている。
どこからか、かすかに音楽が聞こえてくる。窓の外からだろうか、それともハルヒがTVをつけっぱなしにしているのか。
ハルヒは振り返り、俺に声をかけてきた。
「ああ、起きた?よく寝れた?」
「おかげさんでな」
「それは良かった」ハルヒはニコリと微笑んだ。「朝ごはん食べる?」
「あ、ああ」
「そう思って作ったげたよ。感謝しなさい?」
「すまんな」
「ほら、顔洗って、歯を磨いてらっしゃい」
まるで母親のようなことをいうね。ハルヒは。
「ふんだ。自発的にやんないのがいけないんでしょう?」腰に手を当てて挑発的な視線で俺をにらみつけてくる。俺は肩をすくめた。
「着替え、そこにあるから」ハルヒはむすっとした口調で付け加えた。

顔を洗い、歯を磨いて、リビングに入った。朝ごはんがリビングのテーブルに並んでいる。
さきほどまでの音楽は止まっていた。TVを見ればニュース番組が写っているが、どうにもこうにも現実感はないね。
俺とハルヒは向き合って、二度目になる二人だけの食事をはじめた。
「なんかさ、こんなことしてたら夫婦みたいじゃない?」
ハルヒは照れたような笑いを浮かべていう。
「ああ……しかし、いつまでもこうしてるわけにはいかんだろう」
「それはそうだけどさ…つまんない奴ぅ」
「すまんな」
「帰り方がわかるまで、ここにいてもいいじゃないの」
ハルヒは口をとがらせながら、トーストを齧った。

食後のコーヒーがおいしくて、もう2杯もお代わりしてしまった。
「今日はさ、外を探検して、帰り方を探しましょうよ」
「この中はどうだ?」
また音楽が聞こえはじめた。遠いところから聞こえてくるようで、どんな音楽かも分からない。
俺は辺りを見回したが、どこから聞こえてくるのかも分からない。
「どうしたの?」怪訝そうな顔付きで、ハルヒが言った。
「音楽、聞こえないか?」
「なにそれ?あたしには聞こえないけど」
「どういうことだ……」
「空耳じゃないの?」
「違う、確かに聞こえてくるんだ」
俺は椅子から立ち上がった。すこしだけ、音が大きくなったような気がする。
「ちょっと、キョン。どこにいくのよ」
ハルヒもあわてて立ち上がった。
「帰れるかもしれん」俺はハルヒの手をつかんだ。
「え、帰るの?」
「ああ、いつまでもこんなところにいていい訳がないんだ」
ハルヒはうなだれた様子で、俺をうらめしく見つめた。
「あっちに帰ったら、また前と同じになるんじゃないの?」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味よ。……あたしはキョンともっと一緒にいたいってだけ」
「ハルヒ………」
「キョンが戻りたいならいいわよ。一緒に戻ったげる。でも、ちゃんとそこらへん配慮してよね」
「わかった。約束する」
「破ったら死刑だからね」そういってハルヒは笑顔を浮かべた。
……しかし、なぜハルヒには音楽が聞こえないのだろうか。

二人で制服にまた着替えた。帰るとなれば、やはりそのほうがいいだろう。
来る時と帰る時で服装が違えば、かなり説明に困るからな。
記念に写真でも撮っとくかね。ポケットの携帯電話を取り出した。
俺はハルヒを抱き寄せて、2枚ほど写真をとった。頬を寄せる二人が写った。
「恥ずかしい記念写真ね。まあいいけど。……あとであたしにも頂戴」
「ハルヒは携帯もってないのか?」
「もってたはずなんだけどね、ないの。どっかで落としたのかな?」
「じゃ、いくか」
「うん」
ハルヒの手をひいて、音楽が強く聞こえる方向を目指す。屋敷の中をうろついて、結局、ロビーに出た。
やはり、外にあるのだろうか。俺が最初にいた場所。そこに鍵があったんだろう。
重々しい扉のノブに手をかけた時だった。
『あの世界に帰えるかい?』
中世的な声が頭の中で響き、音楽が遠ざかっていく。
「この声……」ハルヒがどこか怯えるような表情でいった。「あたしに話しかけた声だ」
「……だれだ?お前は?」
『僕は僕さ』
「なんだと?」
『メール読んでくれてありがとう。お陰で君をここに連れてこれた』
「俺を?」
『あのメールは、君と彼女の魂をここに連れてくるために僕が送ったんだ。作るのに、ずいぶん苦労したよ』
「何の為だ?」
『君と彼女に興味があった。じっくり観察したかったんだが、邪魔されるものでね。どうしょうもないんで、この世界をつくって、君と彼女を連れてこようと思った。
もっとも連れてきたはいいが、途中から邪魔されてね。
あんな場所に魂を放置することになってしまって、済まなかった』
「邪魔だと?」
『君の仲間は、僕を嫌っているようでね。大事なものを盗まれたとカンカンに怒って邪魔をしてくるんだ』
長門のことを言っているのだと理解するまで、時間がかかった。

「俺とハルヒをどうするつもりだった」
『なにかしようなんて思ってないよ。彼女の力はとてもおもしろい。情報を生み出し、世界の中に閉じた世界を作り出せる。
僕も世界を作ることができる。僕の場合は独立してるけど。まあ、親近感が湧くってものじゃないか。
いま君がいる世界は、君と彼女が共通してもっている記憶を元にしたものだ。悪くはなかっただろう?』
やはりすべてはウソだったわけか。道理でどこかで見たようなものばかりあると思ったぜ。
「………」ハルヒは絶句し、言葉を失っている。
「何で俺もなんだ」
『彼女の力を解放したのが、君だから。何の力もない君が、彼女の力を解放したんだ。ものすごくややこしいやり方でね』
「で、帰してくれるのか」
『ああ。とても興味深い結果が得られたし、帰してあげる。もう二度とこんなことはしないから、安心して欲しい。
もっとも帰らなきゃいけないのは、君だけだけど』
「なんだと?」
『実は彼女の魂を連れてこれなかったんだ。この世界はかなり広いんだけど、それでも彼女の魂を入れるのには狭すぎた。変な話だが、彼女の魂って、部分が全体の総和より大きい。とても扱いにくくて」
「………」なにを言っているのか、さっぱりわからん。
『そんなわけで、僕は彼女の魂を複製した。それが君のとなりにいる彼女だ。
もっとも魂の複製は、彼女が初めてなんだ。ちょっとした違いが出てしまったようだけど。
僕が観察する間、彼女は君と仲良くしてくれていたし、彼女には大変感謝しているよ』
「それが出来るなら、最初からやりゃいいじゃねえか」
『正しい複製が出来たかどうかなんて、わかりゃしないよ。だから本物が欲しかったんだ。たとえ君だけでも本物を観察できてよかったよ』
ハルヒの表情は凍りついたようで、なんの感情も表していなかった。
「この世界はいったいどうなってるんだ?」
『この世界は、魂だけで生きて行ける。そういう風に僕が作った。
だから、彼女はまさに生きている。でも、あの世界で生きるためには、肉体と魂、その両方が必要だ。
ゆえに君のとなりの彼女は帰れない。別に帰る必要もないけど』
「随分、残酷なことをするもんだな」
『なにを言っているのか、よく分からないな。
この世界で生きることと、あの世界で生きることに違いなんかない。
この世界に対する違和感は感じただろうけど、この世界で生きていることに違和感を覚えなかっただろう? それが答えだ』
「………」
『音楽が聞こえるはずだ。それは君の仲間がやってることさ。
夢でも聞いたはずさ。君の魂が失われたことを知り、それを呼び戻そうとしているんだ。
僕が君を放置してしまった場所に、再び誘導して回収するつもりだろう。
もっともそこまで行く必要はない。そのドアをあければいいよ』
「あたしはどうなるの……」凍りついた表情のまま、ハルヒが言った。「この世界でひとりぼっち?」
『君には感謝してるよ。だから、君が望むことはなんでも叶えてあげる。とりあえず、あの世界にある、あらゆる魂の複製を用意してきた。
いろいろ妨害もされて時間がかかったんだけど、全部集めた。
だから、ひとりぼっちにはならないよ』
「あたしの言うこと聞いてくれるのね?」まるで能面のような顔でハルヒが言った。
『ああ、君は、それだけのことをしてくれた』
「じゃあ、このキョンをあたしにちょうだい!!!」
ハルヒは肩を震わせ、大声で怒鳴った。ハルヒの目には涙がたまり、いまにもあふれそうだ。
『彼は元の世界に返してあげないと。今なら魂の完全な複製を作ることができるから、それで』
「あんたは黙ってて!!!」
『………』素直な神様だな、俺はそう思った。
「ねえ、キョン。あたしと一緒にこの世界で暮らさない?」
「ハルヒ………」
「あたしね、あんたと一緒にずっと生きて行きたいの。こんなへんてこな世界だけど、どう?あたしと一緒に暮らさない?」
「………」
「何か言ってよ……黙ったまま、あたしを見るのはやめてよ。ね、あたしあんたのことが本当に好きなの。昨日の夜、言ったでしょう?
だから、ここで一緒に生きて欲しい……」
ハルヒの大きな瞳から涙がこぼれ、、頬に伝わった。
「ここで生きるのも、あっちで生きるのも、違いはないんでしょう。だったら、あたしと、こっちで……」
「ハルヒ……」
「ね、もっと名前を呼んで、昨日の夜みたいに抱き締めて、そして……
あんただって、あたしのこと好きだって言ったじゃないの。愛してるって…言ったじゃないの。
もう、好きじゃないの? 複製だって知ったら、もう好きじゃなくなったの?」
ハルヒは流れる涙をそのままに、俺に叫んだ。
俺はなにも言葉がかけられないまま、棒のように突っ立っている。
「行かないで。一人にしないでよ。隣にいてよ。あたしを楽しくさせてよ。あたしだって、あんたを楽しくさせてあげるよ」
「………」
「何か言って、もう二度と会えないの?。せっかくうまくいったのに。そんなの……」
つないでいた手が離れ、ハルヒがゆっくりと膝から崩れ落ちていく。
ハルヒの瞳から、涙がぽたぽたと落ちて、ロビーの堅い床に、小さな水たまりを作っていく。
『そろそろ彼を帰さないと、本格的な攻撃が始まりそうだ』
「嫌!連れてかないでよ!」ハルヒは起き上がれもしない。「お願い、そばにいてよ」
『そうしないと、この世界も危ないんだ。君もいられなくなる』
「なんとかしてやれないのか」俺はそれしか言えなかった。
『なんとかするよ。だから、君は目を閉じて、そのドアを開けてくれ。
もう二度と会うことはできないだろうが、最後にありがとうと言っておく』
「こっちのハルヒを頼んだぞ」それしか言えないのが、とても辛く、かなしい。
『ああ。君もあっちの彼女を守ってやって。…君の仲間からね』
「どういう意味だ……」
『そのままの意味だ。早く、そのドアをあけて。このままじゃこの世界が崩壊する。乱暴な連中だ。帰すっていってるのに、攻撃してきた。
いますぐ、そのドアを開けてくれ』
背中にハルヒの嗚咽が聞こえる。かけよって、抱き締めてやりたい。落ち着くまでそばにやりたい。それも叶わねえっていうのか。
『早く、もう時間がない』
知らぬうちに涙がこぼれ、ドアノブに掛けた手に落ちた。舌をかみ切りたい衝動を押さえながら、俺はドアノブを回した。
最後に聞こえたのは、ハルヒが俺を呼ぶ絶叫だった。
あとは、すべて真っ白な光の中にとけていった。

音楽が聞こえた。ああ、これは文化祭のとき、ハルヒ達が演奏していた歌か。
せつない歌詞が鮮明に聞こえてくる。光が戻ってきた。
うっすらと目を開ければ、蛍光灯の光。そして、ハルヒの心配そうな顔だった。
耳元で鳴っているのは誰かのオーディオプレーヤだった。
「気が付いたの?!」ハルヒの声が聞こえ、思わず俺はハルヒを抱き締めてしまう。甘酸っぱい柑橘系の香りを感じて、胸が熱くなった。
「ちょ、ちょっとなにすんのよ!!」
「すまない、一人にしてしまって」
涙が次から次と勝手にあふれ出し、ハルヒの制服に染みをつくった。
「どうしたっていうのよ……」ハルヒはおずおずと俺の頭に手を置いた。「みんな、ちょっと席を外してくれる? 落ち着かせるから」
「もうじき、救急車がきますが」古泉の声が聞こえる。「どうします?」
「待たせとけばいいわよ」ハルヒの声が優しく聞こえた。
部室の扉が開く音、そして閉まる音が聞こえた。
「一体……どうしたのよ。もう大丈夫。落ち着いて」
「すまない。本当にすまない」
「どうして泣いてるのよ。なんでよ? あたしまで悲しくなってくる」
泣きそうな顔のハルヒが、指で俺の涙を拭ってくれた。
「あたしで良かったら、話は聞くわよ?」
すこし鼻声になったハルヒがささやいた。

待たせていた救急車に乗り込んだ。向かった病院ではさまざまな検査を受け、診察されたが、異状なしと診断された。
当たり前の結果に皆ほっとしたようだが、俺もほっとした。
妙な後遺症など残っていたら、たまらない。
人影もまばらな待合室で会計を待つ間、ハルヒがずっと付き添っている。
「ほんとはどこかおかしいんじゃないの?いきなり倒れるし…その、変な夢まで見たわけでしょ?」
「まったくだな」
「自分のことでしょう?」ハルヒがキッと俺をにらんだ。
「すまん」
「まったく、たとえ夢でも団長たるあたしとそんな関係になるなんて。信じられない」
「夢の中だぜ、それぐらい好きにさせろよ」
「………」
口をとがらせたハルヒは、うつむき加減でこうつぶやいた。
「そりゃまあ、ウソがホントになることだってあるかもしれないけどさ………」

ハルヒは、俺をやたらと心配し、結局家まで付き添ってくれた。
「しっかり寝るのよ。夜更かしはだめよ、分かった?」
「ああ」
「もう、このあたしに心配させるんじゃない」
そういって、ハルヒは背伸びして、俺の頭をかるく叩いて、帰って行った。

晩飯を家族と食べ、一人で風呂に入った。狭苦しいシングルベッドにもぐりんだのは、いつもより早い時間のことだ。
すべてウソで作られた世界で、作られたハルヒと過ごした一日を振り返る。
長門に聞いてみたが、小首をかしげるだけで、なにも教えてはくれなかった。
分からないのか、それとも俺に教えたくないのか。
あれは本当にあった事なのか。すべてがウソなのか、それすらも分からない。
枕元に置いた携帯電話のどこを調べても、あの世界で撮った写真は入っていない。やはりすべてがウソなのか。それとも。
俺は部屋の明かりを消し、目を閉じた。
どこかから漂う甘い香り。それに抱かれるように、俺は眠りについた。
すべてが俺の見た夢であったとしても、どうかあのハルヒが幸せに暮らしていけますようにと、そう願いながら。

おわり

|