事態が起こった時、最初に咄嗟に抱いた感想は「軽い」であり、
 次に、冷静な思考を取り戻した際に思った事は「小さい」であった。
 いきなり意味の分からん事を言うなとか思っているだろう。
 だがしかし当の俺自身にも全くもって訳が分からんのだ。
 いや、この事態の原因と結果について語れ、と言う事ならば
 それは小学1年生の使う作文用紙のような少ないマス目でも3行使わない位に
 簡潔に説明できるであろう事は明らかな単純な事態だ。
 それこそ俺がこの1年弱の間体験してきた事に比べれば取るに足らん単純な出来事さ。

 

 しかしだな。
 事態の説明が簡単であるからと言って、それに対して単純な感想しか抱かないかと言えば、
 それは雲一つ無い空に見える太陽ぐらいにはっきり言わせてもらうが、答えはノーだ。
 客観的に見れば小学生の算数並のこの事態も、
 当事者の俺にとっちゃフェルマーの最終定理並に凶悪なんだよ。
 加えて、今の俺の脳は突然降ってきた異常事態という名の巨大隕石によって一部区間どころか
 全域通行止めな上に歩いて移動すらできない路面状況という、ひどい有り様である。
 誰でもいいからさっさと俺の脳の喧騒を静めちゃくれないもんかね。

 

 

 俺は、俺の胸にすっぽり収まっているハルヒの体の温もりを感じながら、ぼんやりそんな事を考えていた。
 


 どうしてこんな状況になったのか、だと?
 とりあえずそれを説明するには、時を少し遡らねばなるまい。

 

 

 その時俺は、最早地球が太陽の周りを回っているというこの世の根源の法則と同レベルの習慣通りに、
 SOS団の部室へ向かっていた。天道説を現実にしてしまいそうなハルヒのやつが
 何か起こさなきゃいいんだがね。今日は機嫌が悪いわけでも無かったようだが。
 あいつがあのマグネシウムの燃焼の光のような笑顔を浮かべる時は、
 大抵あいつの素っ頓狂な思い付きに俺が巻き込まれる時なのだが、
 かといってあいつが憂鬱な顔や思案顔をしていてもそれは不気味にして不思議であり、
 やっぱり俺は「何か起こるんじゃないか」という不安に囚われるわけだ。俺の平穏よ何処に。

 

 朝比奈さんの甘露なるお茶の味を思い浮かべ、
 俺の脳の中を土足どころかキャタピラで蹂躪しながらはしゃぐハルヒを
 必死に追い出そうとしながらふと周りを見て見ると、そこはもうすでに旧館で部室が奥に見える位置である。
 つまり俺は何も考えていないのに勝手に部室へ来ようとしていたのだ。
 自分のまるで集団で行動するタイプの虫のような帰巣本能を認識し軽く溜息を付くと、
 さっきまで人の脳内を好きに踏み荒らしてくれていた唯我独尊女の声が後ろから聞こえてきた。

 

「ちょっとキョン!そこで止まりなさい!」

 

 ダッシュで部室に駆け込んだ方が賢明と考えるね。それとせめて俺を止める理由を聞かせてくれると有難いが。
 多分部室で話したところで変わりなど全然無いに違いない。
 それなのになぜハルヒはわざわざ俺の足を止めるのかと言えば、それは古泉風に言えば「そう望んだから」
 なのだろうよ。もうちょっと先の事を見据えて行動してくれると、俺の心理的負担は幾分か軽減しそうなのだが。
 しかし、こいつの言い出す事に天邪鬼的な行動を取るとこいつは十中八九不機嫌になり、
 素直にするより10倍は酷いことになりそうなのは容易に想像できる。
 それに朝比奈さんをオモチャにしたりだとかあまりにあまりな行動を取ったわけでも無し、
 ここは一つ素直に振り向いてやるのがいいだろうな。

 

「なんだ?ハル――」

 

 俺が言語として発声でき、かつ自分で認識できた言葉はそれで最後だ。
 後気付いたことと言えば、カバンを思い切り投げ捨てていたことか。

 


 突然だが、体の重心がずれていて転ばない人間は存在するだろうか?俺はノーだと思う。
 体が宙に浮くような感じで転びかけている人間は果たして体勢を持ち直す事ができるのか?俺はノーだと思う。
 そして、目の前の体の重心が明らかにずれている団長殿はその法則から逸脱しているのか?俺はノーだと思う。
 何故なら、今正に転びかけの状態である目の前のハルヒの顔には、
 はっきりと分かる驚愕の色が浮かんでいるからだ。

 

 カバンを投げ捨てて身軽になった俺はハルヒの倒れかけの体の下へ滑りこむ。
 ハルヒの顔を見ると、目を力一杯つむって、腕を顔の前に出していた。間に合うか?間に合え!

 


 投げ捨てたカバンが廊下の壁にぶち当たって床に落ちた音を聞くのと、
 ハルヒの体が俺の体に倒れこむ感触を感じたのは、ほぼ同時だった。
 俺もハルヒの体を受け止めて背中を床に打つ際に目を閉じていたので、よくわからん。

 

 …と、ここでやっと冒頭に戻るわけだ。
 倒れ込んだハルヒを受け止める時に、ハルヒの手が俺の腹にめり込んだようだ。あんまり痛くないが。
 それよりも、今はこいつの状態が優先だ。どっか怪我してないか?

 

「おいハルヒ、大丈夫か?」

 

 自分で自分の声をひどいと思ったのは初めてだ。
 息は切れ切れな上に 震えてやがる。何をこんなに焦ってんだ俺は。
 そもそもいくら走っていたからと言っても、平坦なリノリウムの床で転んだ程度でケガはしないだろう。
 ましてやこのSOS団団長だ。倒れ込んだ床がリノリウムではなくスライムになっていてもおかしくはない。
 だから落ち着け俺、息を整えろ、うむ、よし。

 


 ハルヒを見ると、びっくりしたのか不規則に肩を動かしているが、特にこれといった怪我はしていないようだ。
 というか無事なのなら顔を上げようとしないのは何故なのだろう。
 この状態でいると他の団員が部室に来る時に確実に見られるし、
 それがもしもあのニヤケ面だったらと考えるとそれこそ目も当てられんしと、色々とあれなのだが。
 しかしその時俺の脳の思考領域の大部分を占めていたのは街中の占い並に胡散臭い0円スマイルなどではなく、
 未だ顔を上げず声も出さず、俺の胸の中で呼吸するこのSOS団団長についての事だった。

 

 

 ―――軽いんだなこいつ。

 

 

 これは妄言だ。異常な事態が起きると自分でも全く理解できない事を言ったりするだろう。あれだ。
 そしてこれから俺が考える事もその類だ。テンションが異常になったせいで出てくる戯言なんだよ。

 


 俺は、こいつを古泉が言うような「神」だとかいう大層なやつである、とは思っていなかった。

 

 だが、「普通」でもないと思っていた。実際こいつの言動は普通じゃ無いし、
 いつも俺を引っ張りまわすそのパワーは年頃の女のそれじゃないし、
 確かに少しばかり常識外れな事をしでかす変態パワーはあるようだったからな。

 

 だが、今俺の胸にすっぽり収まっているこいつは。
 この体は。

 

 いつものその原子炉がフル稼働してるんじゃないかというパワーはなんなんだ?と思える位に。

 

 ………華奢で、小さい、「普通」の女の子の体。

 

 いや、実際の所、女を持ち上げたり支えたりした事なんて妹以外には殆ど無い。
 五月に長門を支えた事があったが、こんな全体重が掛かるような支え方ではなかった。
 だから俺が今感じているこいつの小ささと軽さは他のそれと同等なのかと言うことはよく分からない。
 もしくは、あちこち引っ張りまわされたせいで俺の方が逞しくなったのかも知れん。
 だが、今俺が支えているこいつの体は、俺にとっては存外に軽い物だった、それは事実だ。

 

 ハルヒの、ポニーテールには未だ足りない長さの髪を左手で撫でる。ごく自然に。
 本当に何やってんだろうね俺は。

 

 こいつはSOS団の三人の女子の中では、一番大きいはずだ。
 恐らく俺との身長差は10センチ程度のはず。たったそれだけのはずなんだ。

 

 たったそれだけでこんなにもこいつは小さく感じて。
 密着した体は弱々しくて。ええくそ、こんな変なもんを見ちまったせいだ。他に理由などない。
 ハルヒの背中に右手を回して抱きしめるような形になったのも不可抗力だ。

 


 「このままこうしていたい」なんて思っちまった俺の頭を、誰か、撃ち抜け。

 

 そのまま30秒くらい経っただろうか。静寂を破ったのはハルヒの声だった。

 

「え…?あ?キョ、キョン!?」

 

 なんだその声?……おい、こいつもしかして今まで何が起こったか分かってなかったのか?
 別にわざと黙ってたとかそういう訳じゃなく、本当に全く聞いてなかっただけなのか?
 …おい誰か俺に拳銃を貸せ。もっとも、そんなものが無くてもハルヒに殺されそうだが。

 

 だが何と言う事か。こいつも異常事態に頭をやられてしまったのだろうか、
 何を考えてんのか知らんがそのままおずおずと俺の胸に頭をもたれさせて来やがったのだ。

 

 そのまま、やっぱり俺とは目を合わせずに、ハルヒは俺に言う。

 

「…キョン」
「…何だ?」
 ぐあ、情けねえ、声が裏返った。
 と、ふとハルヒは俺と目を合わせた。その顔は―――柔らかい微笑。

 

「……ありがと」

 

 …おい、こら、なんだそりゃ。反則だ。そんな顔すんじゃねえ。止まんなくなる。
 やばい、このままだと十中八九俺は暴走する。誰か止めろ。

 

「……ハルヒ」

 

 ハルヒの肩に手を置いた俺の動きを止めたのは、とある人物の声だった。
 と言うかハルヒよ、目を閉じて顔を寄せようとするな、反撃しろよ。

 

「おや、これはこれは」

 

 説明など俺を起こす妹に対する抗議の声ぐらいに無駄だろう。
 ああ、そうだ。あのニヤケスマイルがその顔の笑みを2倍ぐらいにして、
 俺の前、つまりハルヒの後ろに突っ立ってやがる。
 俺を止めたのには感謝の意を表してやってもいいが、とにかくそのニヤケ面をさっさと止めろ。

 

 ハルヒを見ると…ああ、柄にも無く赤くなりながら震えてやがる。本当に今日は異常事態だぜ。

 

「…………っ!!」 

 

 俺の手からスルリと抜け出たハルヒは、猛ダッシュで部室へと駆け込んで行った。
 …どんな顔で部室に入ればいいんだろうな俺は。
 量子力学を理解するよりも難しい問題に直面した俺に話しかけて来る古泉。
 いいからその2倍スマイルをどうにかしろ。

 

「あなたも意外と大胆な人ですね」
 やかましい、うるせえ。今俺は相対性理論に近い難易度の問題をどう解くか考えてるんだ。
「ご心配なく。閉鎖空間は発生していません。むしろ、涼宮さんはこれまでにないくらい上機嫌ですよ。
 あなたのおかげでね」
 だから黙れと言ってるだろうが。これ以上俺の羞恥心を刺激するな。

 

「これは失礼…ですが、いや本当にあなた達はお似合いですね、羨ましいですよあなたが」
 俺は部室に入った際の第一声という、宇宙の真理に近いレベルの問題を考えると同時に、
 あるごくごく簡単な問題を考えていた。

 

 

「いや、立ちあったのは失敗ですね。もう少し遅く部室に来るべきでした」
 それは、
「この機は逃さない方がいいと思いますよ。頑張って下さいね」
 ――こいつをどのボードゲームで叩きのめすか、という事だ。


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