三章【蠢動】
 このところ気分良く目覚めた記憶のない俺は今日もまたスッキリしない朝を向かえた。
 それは近頃日増しに威力が高くなっている妹目覚ましのせいか、はたまたこの曇天のせいか。
 あるいは――。
「よう、キョン」
 軽く、緩く肩を叩かれる。
「ん、ああ。……谷口か」
 振り向くのも億劫だったので声だけかけてやる。音が波で良かった。
「何だ、とはまた結構ないいぐさだな」
 横に並びながら谷口は言う。
「別にいいだろ。お前に対する俺の正当な評価だ」
 まったく、お前のせいで何を考えてたか忘れるとこだったじゃないか。


 ……そう、あるいは昨夜の長門との会話のせいかもしれん。
 あいつは、俺の勘違いだったかと思うほど『いつも』のような調子で断言したものだ。
「それはあなたたちの勘違いだと思われる」と。
 まあ、どう考えても何かあるのだが、教えないって事はまだ長門一人で対処できることなのだろう。
 だがな、長門。追い込まれたら頼ってくれよ。……俺には何もできないが。
「……い、おい、キョン。聞いてんのか」と、度々人の思考を遮る谷口。
 男がジト目をするんじゃない、気持ち悪い。鳥肌ぶつぶつだぞ、チクショウ。
 この際だ、(心の内で)断言しておこう。
 俺が知ってる奴の中でその目付きが似合うのはハルヒぐらいだよ。……良くも悪くもな。
 だから、いますぐその目付きをやめろ。
 繰り返しになるが、男がそんな目をしても気味悪いだけだ。
 谷口は大袈裟な溜め息をつき、左手で自身の顔を覆い俺に右手の人さし指をつきつける。
 どうでもいい、すごくどうでもいいが似合わん。
「お前なあ……。人の話はちゃんと聴け、ってガキの頃ならわなかったのか?」
 そんな風に教育されてきたとも。色々な意味で一般人であることが俺のステータスだ。
 周りが一般人でなくても俺だけは一般人であるくらいにな。
 ……もっともその場合俺はマイナーって事で「特殊な人種」に分類されるわけだが、
 そんな相対的な話は知らん。で、話を戻すわけだが、
「なあ、谷口。人に指を向けるな、と言われた事はないか?」
 谷口はまさに、俺をさしている自分の指先をまじまじと見つめた後、
「ぐぇっ」
 喉から変な音を出した。……お前は踏み潰されたカエルか、オーバーな奴め。
「それで谷口、何を俺にそんなに聞かせたがっていたのだ?
……そうだな、新しい彼女の話以外なら聞いてやらんこともない」
「……」
 案の定黙る谷口。なんと言うか、単純でいいなあ、お前はよ。
「へん、お前みたいにいつまでも遠回りしてるよりはマシだっての」
 いじけたように言うが、『遠回り』? 遠回りとは何のことだ。
「それだよ、それ」
 手をヒラヒラさせながら谷口が答える。
「それって何だよ」
 と訊くと顔をズイと近付けて――おい、近すぎだぞ、バカ野郎――睨みながら言う。
「本気で言ってるってんなら、お前一度医者にみてもらえ」
 何を言う。俺は完璧なまでに健康体だ。階段から落ちた事になっているがそれも過去の話さ。
「健康体ね。……どうだかな」
 珍しい事に捨てゼリフを残して一人だけで坂道を登り始める谷口。
 普段は聞く必要性ゼロの無為な話をし続けるのに。
 もっとも谷口の無益な話を聞かされるくらいなら一人で坂道登ってる方が良いけどな。
「おはよう、キョン」
 やれやれ、今日は朝っぱらからよく人に会う日だ。
「おう、国木田」
 一般人たる谷口や国木田だからいいが、これが不機嫌オーラを立ち上らせてるハルヒや、
 ニンマリ笑ってるハルヒや、解説モードに入ってる古泉や、朝比奈さん(大)だったりしてみろ。
 主に俺が、色々と肉体的精神的厄介事をしょいこむのが目に見えていよう。
 長門は、と言えばどうなるんだろう。あいつにこんな朝早くから会うとしたら……。
 やっぱり、大なり小なり何かに巻き込まれそうな予感がするな。
 唯一の例外は朝比奈さん(小)ぐらいなものだね。
 あの人との出会いで一日が始まるなら俺は寿命を三日ほど削ったって後悔はしないさ。
 きっとこの嫌になるくらいな曇り空の下でさえ俺は、春特有のあのポカポカを味わえるだろう。
 ちなみにハルヒは夏で、長門は冬だな。まあ、あの爽やか野郎には秋を残しておくとしてだな……。


 と実にアホらしい事を一頻り考えながら振り返って中学以来の友人である国木田を見た。
 その国木田はというと腕をスッと伸ばして、
「あれは谷口かい?」
 遠ざかる背中を指さす。俺とお前の目がおかしくなきゃ、谷口だろ。
「ふーん……」
 喩え辛い目の色の国木田。
「谷口がどうかしたか?」
「何か雰囲気が違わないかい」
 言われればそうかもしれないが、良くも悪くも色ボケだろうと思うぞ。
「そうかなあ……。谷口が僕らをおいて一人で登校するなんて珍しいと思わない?」
 さてね。……確かにおかしいっちゃおかしいが、
「気にすんなよ。そんな日だってあるだろ。例えば彼女と喧嘩した、とかさ」
 国木田は納得したのかしてないのか、ともかくぼんやり呟いた。
「僕も彼女探そうかな……」
 おいおい。
「キョンや谷口見てると時々思うよ」
 おかしな項目が混じってるぞ、国木田。
「……俺を見てそれはないだろ」
「そうかな」
「そうだ」
 その『しょうがないなあ、こいつは』な視線が何だか谷口とかぶって見えてきたぜ。
「……おはよ」
 またもや突然後ろからかかる声。ほんと、今日は何かあるんじゃないか。千客万来だ。
「よ、ハルヒ」
 ハルヒは昨日よりはましな顔色をしていた。声は不機嫌極まりないが。
「おはよう、涼宮さん。……じゃあ、キョンまた後でね」
 歩幅を広げて谷口を追う国木田。おい、逃げるなよ。
「何の話をしてたの」
「何でもねえ、世間話だ」
 ハルヒはため息をつきながら、俺にビシッと指をつきつけた。
「国木田との話じゃないわよ。昨日の夜よ」
 昨日?
「キョーン……とぼけてるのかしらぁ?」
 やばい、何だか分からんがやばい。確かに昨日は長門の家に行ったが、ハルヒは知らないはずだ。
「……有希の家に行ったんでしょ」
「へ?」
 多分、今の俺は無人だと思って押し入った家に人がいた時の空き巣のようなマヌケ面をしてるな。
「何で知ってるんだ?」
「昨日あんたに用事があって電話したの。……で、携帯にかけても出なかったから
あんたの家に電話したの。そしたら妹ちゃんが『出かけた』って言ったのよ」
 それで?
「それだけよ」
 それだけ……って事はカマかけたのか。
「まあ、半分以上は確信してたしね」
 相変わらずおっそろしい勘してるな。将来こいつと結婚する奴に一つだけアドバイスだ。
 浮気はするなよ。確実にばれるし、生まれてきた事を後悔する罰ゲームの数々に見舞われるぜ。
「有希、何か言ってた?」
「勘違いだろ、って」
 ハルヒがこめかみに手を添える。頭痛か? それなら半分は優しさで出来てる錠剤でも飲んどけ。
「あんた、それで納得したわけ?」
「んなわけ無いだろ」
「じゃあ、何で突っ込んで訊かないのよ」
 何で? 何でと言われたら、
「あのなぁ……、考えてもみろ。誰が好きこのんで家庭の複雑な事情を話したがるんだよ。
そんな事をして悲劇の主人公ぶる奴なんざ痛々しいだけで、長門はそんなんじゃない。
どちらかと言えば溜め込んでしまう方だ。
言いたくないのに無理矢理聞き出したら長門だって傷付くだろう?
だったら訊かない、それが——」
「あんた、有希が心配じゃないの!?」
 俺の一般論でぼかした台詞を最後まで聞かずにハルヒが絶叫し、一気にまくしたてる。
「有希があんたに家の事情を話したんなら、あんたを信頼してるって事よ?
なら、ちゃんと聞いてあげなさいよ!
有希が我慢しちゃう子だって分かってるなら尚更じゃないの!?
今更『無理矢理聞き出しても』なんて馬鹿なこと言うんじゃないわよ!
あんたはもう十分有希の家の事情に踏み込んじゃってるの!
なのに遠慮なんて、そっちの方がおかしいでしょ?
何の為に有希があんたに話したと思ってるのよ!」
 俺は雷に打たれたような衝撃を受けた。
 ハルヒが語った内容でもなく、その声の大きさにでもなく、ハルヒの表情に。
 今にも泣き出しそうなその怒りの表情に。だが、その衝撃もハルヒの次の一言で消し飛んだ。
「あんたは本当にバカよ。そんな中途半端な優しさなんて意味ないわ」
 ……中途半端、だと?
 長門は滅多に弱音なんて吐かない奴だし、
 もし万が一にでもあいつが弱音を吐いたとしたら俺にできることなんて皆無だ。
 だが、それでも俺はあいつの為にちっぽけな自分の全身全霊をかける覚悟くらいはあるぞ。
 それこそ、目の前にいるハルヒよりも神様らしいクソ野郎共に喧嘩ふっかける程度の覚悟はある。
 だから、ハルヒの言葉に何かヤバイ物が切れかけた。
 冷静になればハルヒと俺の長門への見方の違いぐらいは気付けたはずだが、
 その時の俺は駄目だった。
「……中途半端と遠慮を混ぜて考えるなよ。
その考え方を治さないとその内、人の触れちゃいけないところに触れることになるぞ。無遠慮にな」
 ハルヒの動きが一瞬止まった。
「……遠慮? あんた、そんな事言ってる内に有希がいなくなったらどうする気なの?
後悔するわよ」
「いなくなることが前提なのか」
「例えでしょ? 揚げ足取りなんてセコイことしてんじゃないわよ!
……もしかしてあんた、有希の事部室の付属品程度にしか思ってないとか?」
 この野郎ッ……!
「だってそうじゃない。有希から相談されたのに何もしないんでしょ?」
「……今はな」
「今やらなくて、いつやるって言うの」
 あいつがのっぴきならない所までいっちまったら。
「それまで放っとくの?」
「そこまで行かなきゃあいつは俺たちに言わないだろ」
 ハルヒは拳を固めた。……そうか、そうくるか。
「だから、訊けば良いのよっ!」
「何度も言わせるな。人にはそれぞれ事情があるんだよ。
ギリギリまで人に知られたくない事情がな」
「それじゃあ、何のための友達なのよ」
「人の事情全部を共有出来るわけないだろう。
……そんな事しようとしてると周りから人がいなくなるぞ」
 顔面蒼白になったハルヒが拳を振り上げる。ああ、殴るのか。
 殴られると分かっていてなお、避ける気もない。
「バカ!」
 ハルヒから繰り出されたズンと重い一撃が顔面に当たる。
 ものの見事にひっくりかえる俺。
 肩で息をしながら俺を見下ろしていたハルヒは体を翻して立ち去ろうとする。
「待てよ」
 飛び起きてハルヒの肩を掴み制止する。
「……な、何よ」
 多分俺は俺史上最悪に冷たい顔をしていたに違いない。
 さもなくばあのハルヒが俺の顔を見て怯えるなんて有り得ないからな。
「……」


 辺りに乾いた音が響く。
 俺は最初、何が起きたか理解することを放棄した。
 だから、地面に倒れたハルヒが呆然と俺を見上げていることと、
 自分の手の鈍い痛みに何の関係もないと思っていた。
 だが、そんなわけはない。1に1足せば2なるくらい単純な事実——俺がハルヒを殴った。
 それを理解した途端に自己嫌悪に襲われる。この下衆野郎、地獄に堕ちろ。何やってんだ、俺は?
 積極性の違いこそあれ、俺もこいつも長門の心配をしてるのは同じだってのに。
 ……ハルヒは長門がナンタラ体に創られた存在って事を知らない。
 となれば、ハルヒが長門をそこまで気にかけるのも頷ける。
 ハルヒは長門が『家の事情』でいなくなってしまう事もあると思っている。
 一方の俺は? あいつは余程の事がない限りハルヒの側からいなくなるはずがないと思っている。
 当然だな。長門の本来の役目はハルヒの観察なのだから。
 その観点の違いが分かっているのにマジになった俺が悪い。言い訳のしようがない。
 それなのにあろうことか殴っちまった。俺は深々と頭を下げ、
「スマン、ハル……」
 ヒ、って居ないぞ。
 そして顔を上げて見た。何を? 文字通り人を蹴散らしながら坂を駆け上がるハルヒを。
 ……感心してる場合じゃねえ、追い掛けないと。


 当然と言うべきだろうが、俺はハルヒに追い付けなかった。
「何であんなに速いんだよ……」
 沈みこんだ気分のまま教室の扉をくぐったのだが何て事だろうね、ハルヒはいなかった。
 ぽっかりと空いたハルヒの席が無言で俺を責めているようだ。
「……」
 教室にいないとすれば部室か。行くべき、なんだろうな。
 ……いや、「べき」とかそんなんじゃなくてハルヒに謝りたい。
 だが、気まずい。どんな顔してあいつに会えばいいんだよ。俺はハルヒを——。
「あれキョン、涼宮さんは?」
 胸の奥底から激痛が走るからそれを聞かんでくれ、国木田。
「しょうもねえ奴だな、犬も食わねえ喧嘩か?」
 谷口に返す言葉もない、……ないのだが、その類のケンカじゃないぞ、と断っておく。
 さらに追い討ちをかけるように古泉から着信がある。
「……」
 そんなに俺をへこませたいか。俺のせいだとは言えきついぞ、お前ら。
「やれやれ」
 多分谷口達に聞かれるわけにもいかない話なので携帯を持って教室からでる。
『古泉です』
「すまんな、古泉。『バイト』、入っちまったよな」
 開口一番謝った。それでどうにかなるわけではないが。
 しかし、電話の向こうで古泉が固まる。
『……いえ、その件で電話したのではないです。
そもそもあなたに言われるまで気付きませんでしたから』
 おいおい大丈夫か、超能力者。
『それにしても過去最大規模の閉鎖空間ですね。……何をしたんですか』
 問い詰めるような古泉。
「あー、ちょっとカッとなってだな……その、ハルヒを、えー、殴……った」
『ちょっと?』
 皮肉っぽく唇を歪めている古泉を幻視してしまう。もう何も言うまい。
「……」
 確かにちょっと、ではすまされない。
『やれやれ、この切羽詰まってるときにあなたという人は……』
 珍しく調子がきつい。
『残念ながら今我々は対神人に人手を割けないんです。一刻も早く謝ってください』
「……それくらいは分かってる」
『分かっているのならば早く!』
 忠告でも、警告でもない、命令。俺の足は部室棟に向かって動き出した。
「……」
『それで本来の用件ですが、この間僕が言った事を覚えてますか』
 何だったかな。
『我々の敵対組織が何か裏で着々と準備をしているという話です』
 ああ、あれね。話半分に聞いていたから、すっかり忘れてたよ。
『目的が判明したんですよ』
「目的?」
『ええ、恐らく北高の制圧及び涼宮さんの身柄の確保です』
 何だと? なぜそんな事を。
『それが一番単純かつ効率的な我々機関への攻撃になるからです。
涼宮さんの身柄を押さえておけば僕達は迂濶に手を出せませんから。
最悪、機関は神人退治の一部署として取り込まれることさえ考えられる』
「わざわざ北高を押さえる理由はなんだ」
『二重の意味での人質の確保でしょう。
公権力の介入を防ぐためのものと、涼宮さんを暴れさせないためのものと』
「なるほどな」
 口で言うほど分かっちゃいないが、まあいいだろう。
『そして、これが一番重要なのですが、間違いなく今日決行されます』
 今日!? 明日とか一週間後じゃなくて、今日か?
『ええ、現に僕はさっきから足止めにあってまして遅々として進めないんです。……っと』
 弾けるような音に人のうめき声。
「古泉?」
『ああ、聞こえましたか? すいません』
 こいつは人を撃ってこんな平然と……?
『そうなるしかなかったんです』
 古泉の心を読んだかのような発言。
『出来るだけ早くそちらに向かいますが、中々時間がかかりそうです。
出来れば部室にたてこもって時間を稼いで頂きたい……荒川さん!』
 受話器の向こうでまた人が撃たれる。
『実は部室のボードゲーム置き場に拳銃をおいときました』
 何て物騒な。俺はそんなもの使えないぞ。
『何もあなたに撃ち合いをしてもらいたいわけではありません。
彼等は涼宮さんを無傷で捕獲することを最優先で実行するでしょう。ですから——』
 古泉は一つの身の毛もよだつような『作戦』を囁く。
「……わかった」
『すいませんね、こんな事に巻き込んでしまって。
出来ればあなたとはちょっとした秘密を共有してる一友人として過ごしたかったんですが』
 本当に申し訳無さそうに言ってから、古泉は思い出したように付け足す。
『ああ、それと涼宮さんを殴った分は後でお礼させて下さいよ?』
 お礼、に力を込める古泉。
「……分かったよ。だが俺も巻き込まれた分『お礼』するぞ」
 小さい笑い声が聞こえる。俺は笑えないな。
『そう、……そうですね。じゃあ、まずは無事にそちらに着くことにしましょう』
 プツリと電話が切れた。もう、笑うしかないだろ。いろんな意味でな。


「はあ……」
 慣れ親しんだはずの文芸部室の扉がこんなに重々しく見えたのは初めてだ。
 あの改変世界の一人狂騒の中でさえこれは一縷の希望の光を湛えた扉に見えたってのに。
「ハルヒ、……いるか?」
 声をかけてからドアノブを回す。
「ん? ……開かね」
 しばらく鍵のかけられた扉と格闘していた俺だったが、
「……今更何よ」
 中からの湿ったハルヒの声に手を止めた。
「謝らせてくれ」
「嫌よ。帰って」
 即答である。だが、帰れと言われて帰れるかっての。
「そうか……」
 俺は扉の前に腰を下ろした。その気配が伝わったのだろう壁の向こう側でハルヒは言う。
「我慢比べでもする気? 言っとくけど何があっても開けないから」
 ふん、好きにしろよ。俺も好きにするから。
「……」
「……」


 予鈴がなる。
「……授業始まるわよ」
「知らねえよ、どうせ聞いてもわからん」
 言ってて悲しくなって来たが事実だ。
「……あっそ」
 扉の向こうでハルヒが腰を下ろしたようだ。ストンと軽い音がした。
「なあ、ハルヒ」
「……」
「……すまなかった」
「……」
 無反応である。
「俺が悪かった、どうかしてた」
「……」
 やはりハルヒは無言だ。
「すまん、本当に悪かった」
「……」
「本当にすまん、ハルヒ……」
 突然鍵が開く音がし、続けて扉が開いた。
 俺の体は扉にもたれかかっていたわけで、支えを失った当然の帰結として俺は仰向きに倒れる。
「って」
 因みに、いつかのクリスマス前のような光景はなかったぞ。かといって天井が見えたわけでもない。
「……」
 うるんだジト目で俺を睨むハルヒの、赤く腫れた顔がそこにあった。
「すまん」
 謝るのは一体何度目だ、と思いつつも何度謝っても足りない気はしてる。
「許さないわよ。……一生」
 ハルヒの涙の雫が俺の顔に落ちる。
「じゃあ、どうしろと?」
 俺が聞くと、小さなハルヒ的スマイルが浮かんだ。俗な言い方をすれば「ニヤリと笑った」、とでもなるかな。
「あんた、一生あたしの下僕よ。反論は受け付けないわ」
 やれやれ、俺の人生の全体像が確定しちまったよ。
 巻き込まれ型トラブル人生。……まあ、そんなに悪くないんじゃないか。
「何よ、それ。あたしの殴られ損じゃない」
 ハルヒは「むー」と唸り、顔を風船のように膨らませる。
「……一応俺もお前に容赦なく殴られてるんだが」
 呆気にとられたハルヒは口を大きく開け、それからキュッと眉が釣り上がった。
「あんた、女の子の顔叩いといてよくそんな事言えるわね。
男が顔に傷の一つや二つあったってどうって事ないけど、女の子のは死活問題よ!」
 軽い傷だ、しばらくすれば治るだろ。もし治らなかったら……まあ、責任とってやるさ。
「どうやってよ?」
「聞きたいか?」
 と言いつつも実は俺自身どうやって責任を取るべきか分からないので誰かに教えて欲しい気分だ。
 教えてもいいという親切な奴はメールでも送ってくれよな。
「……いい、やめとくわ」
 言いつつ背けたその顔が朱に染まっていたのは、なんでだろうな。
 俺が上体を起こすのと合わせたように校内放送が入った。
『全校生徒へ連絡です。只今より臨時集会を始めます。生徒は速やかに体育館に集合して下さい』
「何かあったのかしら?」
 ハルヒは呟く。呟いてから、俺の襟を掴んで立たせる。
「ほら、……何だか知らないけど行きましょ」
 ところが俺は、
「たまにはさぼってもバチは当たらんだろ」
 と、ハルヒを引き留めた。
 何かあったとか無かったとかそんなんじゃない。
 多分これが古泉が言ってた『制圧』なんだろうさ。一ヶ所に固めちまえば後が楽だからな。
「……珍しいのね」
「お前のその腫れた顔をクラスメイトに披露するのは忍びないからな」
 因みに嘘ではない、本音だ。
「……バカ」
「なぜバカ呼ばわりされねばならんのだ」
「気分よ、気分」
 ハルヒはそう言いながら団長席にドカっと腰を下ろした。
 俺はと言えば、救急箱を探していた。
「? 何やってんの」
「探し物だ。……お、これか」
 見つけた救急箱から適当に効きそうな薬を選ぶ。
「ほら、傷みせてみろ」
 と、言ったはいいが顔が近すぎる。
「いいわよ、自分でやるから!」
 眼前にハルヒの手の平が広がる。
「なんだよ」
「よこしなさい」
 俺が渡すよりも早くハルヒの手が薬をかっぱらって行く。
 やれやれ、自分でやったからには自分で始末したかったんだがな。
「ふん」
 ハルヒは豪快かつ乱暴に軟膏を塗り始めた。……傷も何もないところに。
 軽傷だから放っていても治るだろうけど、そりゃないぜハルヒ。
「やっぱり、貸せ」
「嫌よ」
 俺に背を向けて続けて呟く。
「……たに……にん……から」
「……」
 聞き返さない方が良さそうだから俺は黙っている事にしたわけだ。
 俺のハルヒに対するイメージが根底から覆されそうだったからな。


『北高の諸君に告ぐ』
 何の前触れもなくスピーカーから聞いた事のない男の声が流れだす。
『たった今から、我々の目的が果たされるまで君達は我々の人質である』
 来やがった。
「何よ、これ。ドッキリ? 悪質ね」
 ハルヒは、夜な夜なギターを弾く売れないシンガーソングライターを隣人にもってしまった人のような顔をした。
『我々の目的はただ一つ』
 とんだ迷惑野郎共だ。
『——涼宮ハルヒの捕縛』
 隣でハルヒが息をのむ。
『聞いているのだろう、涼宮ハルヒ。君が大人しくしていれば、学友に危害は加えない』
 そこで、男の声は一端途切れ、
『ただし、下手な真似をすれば尊い命が一つずつ消えていく事になる』
「……わけ、分かんないわよ」
 そうだろうな。俺がお前の立場だったらきっと同じ事を思うさ。
『君がいる場所のおおよその見当はついている。迎えの者が行く。抵抗はするな』
 そして、放送は途切れた。
「ねえ、キョン。これ、夢……よね?」
 酷く精緻なガラス細工のようなハルヒ。触れたら砕けてしまいそうだ。
「……」
「ねえ、キョン——」
「……現実、だよ」
 可能な限り穏やかな声で伝えたつもりだ。
「嘘よ、……だって、……でも、なんで? あたし? 何でよ、わけ分かんない……ねえ」
 頭を抱えてハルヒは座り込む。そんなハルヒを励ましたかったが残念ながら後回しだ。
 俺は部室にある、ありとあらゆるもので簡易バリケードを作った。
 古泉の『作戦』の第一段階だ。あくまで時間稼ぎが目的なのだが、上手くいくんだろうな。
 もし上手くいかなかったら『お礼』は悲惨な物になるぜ、にやけ面。末代まで祟ってやるぞ
「……! キョン、あんた何してんのよっ!」
「見て分からないか?」
「分かるから聞いてんのよ! あんた放送聞いたでしょ!?」
 間違いなくこれは『下手な真似』になる、ハルヒはそう思っている。俺もそう思うさ。
 ただし、こっちにはあのスマイル野郎の作戦がある。分の悪い賭けだがやらないよりはましさ。
 間違いなくハルヒか学校の奴らのどちらかが犠牲になるくらいなら、
 確率は低くても両方が助かる道を模索してやるさ。俺にとってはどちらも大切なんだ。
「ちょっと話を聞いてくれ。あのな——」


 俺は古泉の『作戦』の概要を説明した。
「……と言うわけだ」
 俺の話が終わるとハルヒはまず言った。
「益々分かんないわよ……。何でよ、……何でよ、ねえ、何で?」
 その目はあらぬ方を向き、口から紡がれる言葉も意味をなさない。
「まず落ち着けよ」
 俺はハルヒの頭に手を置き、目をじっと見つめる。
「全部終わったら説明してやるから」
「だって、だって……あたし、あた——」
 そこへ無遠慮なノックの音。……空気の読めない奴は嫌われるぞ。
「いるんでしょ? 十数える内に出てきなさい」
 この声はいつぞやの誘拐女か。
「一、二、さ……」
 その耳障りな声を俺は制止する。
「最後まで数えなくていいぞ」
 扉の向こうが沈黙する。
「俺達は出てかないからな」
「へぇ、あなた友達を殺す気?」
 そんなこと俺に出来るわけないと、こいつらは言外に言っている。そして、それは当たっている。
 だけど俺は精々格好よく聞こえるように言った。
「違うとも」
「じゃあ、どうするの?」
「お前らの目的はハルヒだろう?」
 古泉の厄介な贈り物の重さを確かめる。
「そうよ」
「だったら話は単純だ。目的をなくせばいい」
 即ちハルヒを殺す。俺は拳銃を向けた。
「あなたに出来る? 彼女を好いて——」
「出来るさ。何なら証拠にどこか撃ってやるよ」
 これからすることを思うと背筋が震える。言葉だって震えそうだ。
 だが、ここでぼろを出すわけにはいかねえ。
「腕か? 足? 胴体なんかどうだ」
「ご自由に」
 あくまで涼しい声である。
「空撃ちしてごまかせるような私たちじゃないわよ」
「ふん」
 俺は歯を食いしばって、引き金を引いた。


 空を裂く音に、肉を貫通する弾。ハルヒが絶叫をあげ、血が部室の床を汚す。
 扉の向こうの奴らが慌てるのが手に取るように分かる。
「これで、いいか?」
 俺は息も切れ切れに言った。それに答える荒々しい男の声。
「くそっ! バカな真似を!」
 それでも俺は平静を装って言う。
「俺たち以外の奴に手を出してみろ。次はハルヒが冷たくなるぜ」
 流石にそこまでは出来ないがひとまずの時間が稼げればいい。
 なるだけ早く来てくれよな、古泉。
「だが、お前達は袋のネズミだ。精々あがけよ!」
 そう言って奴らは部室から離れていく。
「助かった」
 ハルヒが救急箱から包帯とあるだけの消毒薬、ガーゼを取り出す。
 俺は血を流している『自分の』足を見る。弾は抜けているようだ。
「……大丈夫?」
 真っ青な顔をしたハルヒが尋ねる。
「分からん。銃で自分を撃つなんて初めてだからな」
 それにしても相変わらずハルヒの奴は完璧だよ。
 あの悲鳴なんて誰が聞いても『ハルヒが』撃たれたようにしか思えなかったろう。
「ハルヒ、お前は将来役者なんてどうだ?」
 笑いながら言ったらハルヒは眉をひそめた。
「あんたよくそんな事言えるわね? 修羅場慣れでもしてるのかしら?」
 まあ、そうなんだがな。二度ほど殺されかけた。
「ともかく、第一段階は成功、か?」
 俺がまた笑いかけるとハルヒは暗い顔をしていた。
「ねえ、キョン。古泉君を信頼していいの?」
 それはまた奇妙な事を言うな。
「だって普通そんな物もってる高校生なんていないし、だいたいなんでこんな事があるなんて分かったのよ?
実はあいつらの仲間なんじゃないの?」
「色々と複雑なんだ。ともかく、信じてやってくれ」
 あいつを擁護するのも変な気分だ。
「あんたは随分と分かってるみたいね」
 ハルヒは溜め息まじりの声色で言う。
「まあ、いいわ。本来なら団長であるこのあたしに隠し事なんて許しがたい大罪だけど、今だけは大目に見てあげるわ」
 きつい視線を俺にぶつけてからハルヒは繰り返した。
「今だけ、よ」

 今だけ、か。
 ここまでど派手にハルヒの前で起きたんだ。中途半端な言い訳じゃ納得するはずもない。
 事実を全部、とまではいかなくとも結構話す事にはなりそうだな。
「で、これからどうするのよ?」
「実はそれが問題だ」
 俺が重々しく答えるとハルヒは途端にバカを見る目付きになる。
 いつもながら切り替えが早いな。
 ……その目付き、正直耐えられません。
「何、もう無策なわけ? 信じらんない」
 あとは救援待ちだな、と言うとハルヒは頭を押さえた。繰り返しになるが、半分は優し——、
「飲まないわよ」
 ハルヒは天井を仰ぎ見ながら言う。
「……あーあ、ちょっーと格好いいことしたと思ったらすぐにお手上げ。
キョンらしいって言えばそうだけどさ……」
 ちょっとね。これを「ちょっと」と言うのならこいつの満足メーターは天井しらずだな。
「うるさいわね。パーッとあいつら蹴散らしちゃう作戦立ててみなさいよ、それで五十点」
 無理だね。俺はスパイでも某なんとかハウンドの隊員でもないんだ。
 体張って三文芝居する辺りが関の山さ。
 ……それより、追い払っても半分かよ。
 それも百点満点だと仮定しての話だが、ハルヒの事だし、千点満点かもしれない。
 ともかく、後は俺達に出来る最善を尽し——つまり膠着状態の維持をし——て、
 なんとかなるのを待つしかない。情けないが俺にはそれくらいしか思い浮かばないのさ。
「でも、誰が助けてくれるってのよ? 古泉君に任せて大丈夫?」
「大丈夫だろ。何せ副団長様だしな」
 俺としてはこんな状況をどうにか出来る奴といってパッと思い浮かぶのは古泉より長門なのだが、
 あいつは今何をしてるのだろう。
 長門ならものの十秒で全てどうにかしちまいそうなものなんだがな。
「……まあ、そう何時も何時も頼るわけにもいかんか」
「頼るって、誰を?」
 迂濶な俺め。口を滑らしたじゃないか。
「いや、何でもない」
「……」
 突如ハルヒは口を閉じた。
 俺はこんな誤魔化しにハルヒが納得するはずがなく、
 てっきり問い詰められるとばかり思っていたから、黙ってしまった事にかなり驚いた。
 だからこそ、ただならぬ事態が進行してるようだと悟った。
「どうした、ハルヒ?」
 唇に指を当て、囁くようなカスレ声でハルヒは言った。
「静かに。何か聞こえるの」
 ハルヒは真剣な目をして聞耳をたてている。倣って俺も耳に神経を集中する。
 確かに聞こえる。何か金属質の物が軋むような音。聞いたことあるぞ。
 この音がイメージさせるものは、高いところ、登る事。多分これは——。
『ハシゴ!』と、俺達は同時に思い当たった。
 慌てて窓辺に駆け寄ったハシゴを登っている奴らをハッキリと見ることができた。
 目測だが、行程の半分は済んでいるだろう。……時間がないか。
「どうする?」
 俺の問掛けにハルヒは青ざめた、いやにマジな顔をして早口で答えた。
「キョン、選んで。あいつらが乗り込んできた瞬間にそれを」
 俺の右手が握っている物騒な物にチラリと視線を投げ掛けてから、
「使うか、今このハシゴを倒すか」
「……やれやれ」
 どちらにせよ相手が大怪我だけですむ保証はねえな。でもやるなら、
「今、だな」
 直接撃つのは気が引けるから、当然の決断ではある。
 それに俺は上手く当てる自信がないし、血生臭いシーンなんて見せたくない。
「じゃあ、あたしが……」
 と、ハルヒは言うが、
「『怪我人』は大人しくしてろよ。お前が元気に暴れたら俺の苦労が水の泡だ」
 俺がハルヒを撃つ覚悟のない奴だとバレたら最後、犠牲がでるかもしれない。
 だからなるだけハルヒを連中の目に晒さない方がいいのさ。他に意味はない。
 別にハルヒに嫌な思いをさせたくないわけじゃないさ。
「……」
 俺はハルヒを押し退けて前に進む。そのハルヒは泣きそうな眼をしていた。


 深く、息を吸う。そして、吐く。それから何度も自分に言い聞かせる。
『あいつらは自業自得だ、俺に非はない。
自業自得だ、俺は悪くない。
やられる前にやる。
ハルヒと俺を守るために。
だからこれは、……そう、正当防衛だ』
 心の中で繰り返しながら窓辺に近付く。
 俺にとって今からやる行為は理由がどうであれ「悪」なのだ。
 だから、せめて正当化しないといけない。
「あばよ」
 だから、あえて冷酷に呟く。
 だから、ありったけの憎しみを込めて呟く。
 目の前の奴らは「悪の権化」だと思い込む。
 そうでもしないと、俺は多分罪の意識に潰されてしまうから。


 窓を素早く開け壁にかかっているハシゴの先端を押す。
 嫌になるくらいあっさりと倒れ始めるハシゴ。
 しかし、窓を閉める瞬間に俺は下を見てしまった。そして視線が合う。
「……っ!」
 俺は急いで窓から離れて口を押さえる。
「どうしたの、キョ……ン」
 地面に重量のある物が倒れる音。
 その音と、ハシゴを登っていた男の呆然とした顔とが俺の頭の中でガッチリと結び付く。
 胃がムカムカする。くそ、朝飯食うんじゃなかった。
「……スマン、袋ないか」
 ハルヒは慌てて部室の中をひっかき回し、それから適当な袋を差し出してくれた。
 俺はそれを受け取るとハルヒに背を向けた。こんなシーン見られたくもないし見せたくもない。
「……ごめんね、キョン」
 俺が食道を逆戻りする元・食物たちに苦しんでいると、ハルヒが背をさすってくれた。
 その意外に小さな手が描く単調な上下の動きに心身ともに大分救われる気分だ。
「辛かったら言ってよね。……覚悟はしとくから」
 似合わないほど悲壮な声でハルヒは言う。
「しなくて、いい」
 腹の中が空っぽになってから俺は言った。
「自分自身のためにお前をあいつらに渡したら一生悔やみ続けるからな」
 それは間違いない。例え長門や古泉、朝比奈さんを見捨てても俺は一生悔やむだろう。
 谷口や国木田、鶴屋さんに阪中であっても同じだ。
 だがハルヒの場合はそれ以上に後悔するだろう。そんな予感がする。
「……そう。でもね、キョン」
 ハルヒがシリアスに言う。
「あんたはある意味あたしより危ない立場にいるのよ」
 ……そうなのか。
「親しいはずの人間を躊躇なく撃てる奴、それがあいつらのあんたに対する評価のはずよ。
そんな人間は追い込まれたら何をするか分からない。
下手したら最期の抵抗にあたしを殺すかもしれない。
だからそんな危なっかしい奴を放っとくはずがない。
あたしよりあんたの方があいつらに狙われてるわ」
 それは迷惑な話だな。俺は血の通った人間だぜ?
「本当はそんなんじゃないあんたが、例えば殺されでもしたら、あたしのせいじゃない。
……きっとあたしも一生後悔する」
 ハルヒはうつ向く。
「……なあ、そんなしおらしくなるなよ。調子が狂うから」
 すると今度はびっくりする速さで顔を上げて、
「あんた、あたしをスーパーマンかなんかと勘違いしてるんじゃないでしょうね」
「普段が普段だからな。……どうも認識を改めねばならんようだ」
 深いため息。それに続くハルヒの独り言。
「でも、何でなのかしら。皆で馬鹿騒ぎして楽しく過ごせれば最高だったのに。
突然あたしを捕まえる、なんて言われてさ。
……訳が分かんない。
……あたしが何したってのよ。
……あたしが何だって言うのよ」
 ハルヒはハルヒ、SOS団の絶対不可侵神聖な団長様さ。
 ついでに俺を一生引っ張ってく人間特急だな。


「ほら、飲むか?」
 やかんに少しだけ残っていた水をコンロにかけ、お茶をいれる。
 味は下の下を保証しよう。腹は壊さないと思うが。
「……おいといて」
 ハルヒは足を両手で抱え込み膝の上に顎をのせている。
 そんなハルヒを俺は、
「……なにしてんのよ」
 頭を撫でているだけだが?
「変態」
 何だか声が弾んでいる。人を攻めるのが好きなのだろうか、このサディストめ。
 それよりこのくらいで変態扱いされてたまるかって。
 そうなったら世の中の子持ち、妹弟持ちの半分以上が変態と化すぞ。
「嫌ならやめるが」
「別に嫌じゃないけど……」
 馬鹿にされてるみたい、とハルヒは続ける。
「そんな事を言われると俺はことあるごとに妹を馬鹿にしていた事になるのだが……」
 あの小学六年生とは思えない顔を思い浮かべる。
 うーむ、……馬鹿にしてない、とは言えないかもな。
「妹ちゃんとあたしを同じにしないでよ、年が違うし、あんたの妹じゃない」
 ハルヒは怒ったようなフリをしていたが結局、俺の手がつりそうになるまで頭を撫で続けさせていた。


「……お腹減った。何であたし学食派になったのかしら」
 ぽつりと言う。ハルヒが自分のしたことを後悔する日が来るなんてビックリだぜ。
「……諦めろ。俺は弁当を鞄ごと教室に置いてきた」
 もう太陽が空の天辺で輝いている。いい具合いに腹減る頃合いだよな。
 ……というかハルヒめ。お前がそんな事言うから余計に腹減るじゃないか。
 それに俺は吐いてるんだ。胃の中はエンプティーだ。空っぽだ。仕事を寄越せと腹の虫が大暴動だ。
「……なーんてね」
 ハルヒは悪戯に成功した悪ガキのように眼を輝かせ、鞄をあさりはじめた。
「今日は弁当なのよ!」
 ……お前の第六感は恐ろしいな。ハルヒ、実は未来予知できるだろ。
「しかもあたしの手作りよ!」
 ほうほう、そうか。
「……ノリ悪いわね」
「……悪いか?」
 ハルヒだけに弁当がある状況で俺にどうノれと言うのか。
「悪いわよ。せっかくこのあたしの弁当分けてあげようって言ってるのに」
 一言も言ってないだろ。……だけど有難い。ハルヒが救世主に見える。後光すら射しているようだ。
 それにしても、
「……一人分にしては多くないか?」
 俺の弁当二人前分位はあるだろうな。
「そう? あたしはこれくらい食べないとやってけないわね。
……ほら、口を開けなさい」
 たっぷり五秒は間を空けてから、
「え?」
「え、じゃないわよ。口を開けなさいよ」
 かなり恥ずかしいのですが。
「いいじゃん、誰も見てないし。ほらほら」
 実に愉しそうに、箸で挟んだオカズを俺の口に押し付けるハルヒ。
 俺は渋々嫌々——渋々だぞ、本当に。空腹には勝てないんだ——口を開いた。
「ん」
 容赦なくハルヒの箸が口の中へ侵入する。
「美味しいでしょ? それ、自信作なのよ」
 その言葉に間違いはなく、俺の味覚は「うまい」と大絶賛しながら讃美歌を歌いだした。
「次はー……、これっ!」
 笑いながら次のおかずを決めるハルヒ。
「お前はくわな……グッ」
 俺の素朴な疑問は出る前に消された。
「そんな大口開けちゃってぇ……。心配しなくてもちゃーんとあげるわよ」
 不意打ちでモガモガ言ってる俺を見てハルヒは盛大に笑っている。
 この場面だけ写真に収めて「占拠された高校です」なんて言っても、誰も信じないだろうな。
 そもそもこの平和な国で学校の占拠なぞ起こるはずはない、と考える人が大半だろうか。
「ほら、次よ」
 クシャミがでそうな笑顔のままハルヒは言う。
「お前も少しは食えって。さっきから俺に食わせてばかりだろ」
「いいのよ、あたしは」
「言ってることがさっきと違うっての」
 俺はちょっとした隙を付きハルヒの手から箸を奪った。
「あ、こら!」
 こら、じゃない。
「ほらよ」
 ハルヒの目の前でオカズを挟んだ箸を動かしてみる。
「……何よ」
 末代のみならず先祖まで祟ってやるといった目で俺を睨むな。
 ……ハルヒの場合、本当に祟りそうで嫌なのだが、そしらぬ顔で俺は言う。
「食わないのか」
 ハルヒの眼光が一段と鋭くなるものの、俺にしてみりゃこのくらい慣れっこだね。
「……バカ?」
 どうだろう、確かにテストの成績は悪いがそれだけが賢さではないしな。
「ともかく返しなさい、あたしのよ」
 返してやってもいいが顔が真っ赤なのはなぜかな、ハルヒや。
「うるさい! もうあげないわよ!」
 俺は長門もかくやといった速さでハルヒに箸を返還し、厳粛に謝った。
「すまん」
 そこ、変わり身が早いとか言うなよ。誰だって自分の身が一番さ。
「あんたがあたしを困らせるなんて百年早いわ」
 ハルヒは俺に背を向けて弁当を食べ始めた。耳が真っ赤だぞ。


 とまあこんな感じではたから見れば微笑ましい時間が過ぎていった訳だ。
 殺伐とした現実をすっかり忘れるほどに、俺はくつろいでいた。
「美味かったよ」
「当たり前じゃない。あたしお手製弁当なのよ」
「これだけの弁当は食ったことがないな」
 褒めたつもりだったのだが、ハルヒはあまり嬉しそうな顔をしなかった。
「どうした?」
「ちょっとね」
 ハルヒは体育館のあるおおよその方角に視線を向けた。
「あたしたちはこんな事してるのに、みんなは辛いんだろうな、ってね」
 ……そうだ、確かにそうだ。不謹慎にも俺はすっかり忘れていた。
 誰でもいい、事が済んだら思いっ切り殴ってくれ。そう言えば先約に古泉がいたか。
「あたしたちに出来ること、ないかしら?」
「とは言え俺は怪我人で、お前が標的じゃ迂濶に動けないよな」
「でも、何かあるわよ。あたし、為せば成るって言葉が大好きなの」
 ハルヒらしい台詞だね。
「努力が報われる保証はないが、やらなきゃ何も起こらないか……」
「それとはちょっと違うけどね。
でもやるとしたら徹底的にやるわよ。あたしたちが持ってる使えそうな物は?」
 俺は拳銃、と答えた。
「他は?」
「とっさには出てこないな」
 ハルヒは確かめるように、
「あんた、ドンパチやって勝てる自信ある?」
 その質問には自信を持って答えよう。
「全くない」と。
「多勢に無勢だ。
それに俺はドのつく素人で、相手は……まあ、ある程度は使える奴らだろうな」
「じゃあ、論外」
 恐ろしく冷たい声で言うハルヒである。
「とは言え……」
 いろんなガラクタの溢れている文芸部室であるが、有事の際に使えそうなものはない。
「なんとかしなさいよ。ここは知恵と勇気で撃退するのよ!」
 はいはい、それじゃ無い頭必死に絞る事にしましょう。


「……そういや、あいつらは体育館で固まってるだけか?」
 ふと思い付いた。
「どうして?」
「いや、こっから脱出しちまえば少なくとも学校の奴らは解放されるんじゃないかと思ってな」
 あいつらはハルヒファンクラブらしいからな。
 追ってきた所を古泉あたりと合流出来れば良いかもしれん。
 ハルヒは俺の案を値踏みするような顔で審査しているようだった。一分後、
「多分、駄目ね。それくらい相手も分かってるでしょ」
「そうか……。せめて相手は何人で、どこにいるか位は知りたいな」
 まあ、それだけじゃどうにもならないだろうが、知らないよりはましだと思う。
「それより何より高校生二人だけってのはきついわね」
 実は使いたくないけど何とか出来る切札は残ってるが、世界がおかしくなるかもしれない。
「古泉は来ないしな」
 俺は溜め息をつく。特殊技能の一つでも欲しくなるよ。
「あ、そうだ」
 そんな俺と対照的にハルヒが明るく手を打った。
「助けは古泉くんじゃなくてもいいじゃない。警察とか」
 それもそうかと思ったのも束の間、朝の古泉との電話が脳裏をよぎる。
 『公権力の介入を防ぐ』……成程、お前らは良く考えてるよ。
「それもダメだな」
「何でよ。外からの助けがダメなら完全にお手上げじゃない」
 外からの助けの質が問題なんだよ。
「人質が多い。交渉しようにもあいつらは目的がはっきりしすぎてる」
 あいつらはハルヒの捕縛が唯一の目的のはずだ。それ以外には目もくれないだろう。
 となれば、奴らを全員捕まえるか、追い払うしかないわけだ。
 だが、一斉にかつ、一人の漏れもなく奴らを無力化出来ないとここは生き地獄となる。
 ほんの一、二秒で一人の人間が一体どれほどの命を奪えるか俺は知らないが、
 馬鹿げた数になりそうなこと位は想像がつく。
 そんな判断を警察や機動隊の皆さんは下すだろうか?
「……ちょっと待ちなさい、キョン。
それってつまり、古泉くんは皆を見殺しにしてまであたしを助けようとするって事よね」
 裏をかえせば、
「そうなるかもしれないな」
 途端にハルヒは俺を絞め上げた。額がぶつかりそうな勢いで顔が近付く。
「……詳しくとは言わないわ。でもこれだけは答えなさい。
あたしにそんな価値があるの?」
 数百人を見殺しにするほどの価値が——、ハルヒの怒ったような怯えたような目はそう問掛けていた。
「……ある、らしい」
 答えると首への圧迫感がなくなった。
「……」
 『機関』は日本人全部かハルヒかと言われたら、迷うことなくハルヒを選ぶかもしれない。
「先に言っておくけど」
 その口調と前置きで俺はハルヒが何を言うかを悟った。
「そこまでして助かりたいとは思わないわ」
「あいつらはそこまでして助けたがるだろうがな」
 残念ながら、と俺は付け足した。
 ハルヒは団長席に深々と腰を下ろした。
「……自分の知らない所で自分を中心に物事が進むって嫌な気分ね」
 ああ、最悪の気分だろうな。


 しばらく塞ぎ込んでいたハルヒがふと思い出したように顔を上げ、
「そういや、みくるちゃんや有希は無事かしら?」
「大丈夫じゃないか。二人とも変なこと考えはしないだろ」
 あの特殊な属性を持ってる二人より俺はクラスの奴らが心配だ。
 谷口のアホが非常時にも限らずナンパをしてそうでな。
「そうよね。みくるちゃんには鶴屋さんがいるし有希は案外しっかりしてるしね」
 ハルヒが突然入り口の方をみた。
「……キョン、廊下から誰か来てるわ」
 バタバタと盛大に足音が響いている。そいつは近付いている事を隠す気はないらしい。
「また、こいつの世話になるのか」
 足の傷口を見てから拳銃を握る。……こんなことするのは一回だけで十分だろうに。
「無理しないように。……これは団長命令よ」
 イエス・サー、なんてな。
 それにしてもやけに慌ただしく走る奴だな。まるで何かから逃げているようだ。
 そしてその足音の主は部室の扉を乱暴にノックし、叫んだ。
「おい、キョン! 開けてくれ!」
 おいおいまさか、この声、
「谷口か?」
「谷口なの?」
 ハルヒも尋ねる。
「……やっぱり涼宮もいたか」
 そう言う谷口の声は心なし固いが、当然の反応だな。
 こいつに限らず学校にいた奴は全員聞いているはずだ。
 犯行グループがハルヒの名前を出したことを。
 馬鹿な奴らはハルヒが全ての元凶と勘違いしているかもな。
 確かにハルヒはこの事件の中心にいるが、ハルヒ自身はそんな事を知らなかったんだ。
 語弊はあるかもしれないが、ハルヒも被害者さ。
「何しに来たんだ?」
 若干俺も神経質になっていて、きつめの口調になる。
「決まってるだろ、逃げて来たんだよ」
 こいつが? どうやらハルヒも同感のようだ。
「あんたが? 嘘臭いわね」
 嘘とまではいかないまでも普段の谷口からは想像の及ばぬ話だ。
「悪いか? ……ともかく開けてくれよ。あいつらにバレたら一巻の終わりなんだよ!」
 そんな馬鹿な事をするくらいなら大人しくしてろよ。そうすれば、……何とかなったさ。
「あんたの言うことをを頭から信じるわけにはいかないわ。
どうやってここまで逃げて来たか説明しなさい」
「いつ気付かれるか分からないってのに……」
 ぶつくさ言ってたが、谷口も俺たちがこのままでは開ける気がないことを分かったらしい。
「……わーったよ。言えばいいんだろ、言えばよ」


「集会になって、暫くは何もなかったんだよ。校長が説教始めるわけでもねえしな。
そんで丁度、体育館がザワつき始めたころだったかな、
突然俺達のクラスの列から俺的美的ランクAプラスの美人が立ち上がって、
壇上に向かったんだよ。ただ、どうしても顔に見覚えがなくてな。
おかしいな、とか思ってたら武器持った野郎共が入って来たんだよ。
当然俺らは余計に騒ぎ始めたんだが、壇上に上った女が懐から拳銃を出して、
天井に向けて撃ったからピタッて静かになったんだ。本物だぜ。信じられるか?
それから、もう一人男が壇上にあがって案外普通な声で言ったんだよ
『たった今から、我々の目的が果たされるまで君達は我々の人質である』ってな」
 それは俺達も放送で聞いてた。
「へえ、そうだったのか。
……実を言うと俺はそん時まではまだドッキリか何かじゃないかと思ってたんだよな。
ところがあいつら涼宮の名前出したろ? それで一気に現実味を……」
「どういう意味よ? 場合によっちゃ殴るわよ」
「……いや、ちょっとしたジョークだよ」
 嘘いえ。なかば本気だったろ。
「ともかく、それから暫くは全員体育館に居させられたんだが、
しばらくすっと何人かが体育館を出てったんだ。
何してんだろうなとか思ってるうちに悪態つきながら戻って来てよ、
そんで今度はハシゴ持ってまた何人か出てった」
 まさかとは思うが。……やばい、気持ちわりい。
「そしたら今度は血まみれになった奴を運んできてさ、……ありゃー酷かったな。
手とかあらぬ方に向いてるしよ、……てか関節増えてたな」
「……」
「そいつはしばらくうめいてたんだが、そのうちに」
「谷口っ!」
 ハルヒの怒声が谷口の言葉を遮る。
「なな何だよ、涼宮……」
「それはもういいから次行きなさい」
 心の底からハルヒに感謝するぜ。
「……おう、分かった。で、それから教室に移された俺たちだったが、一つ問題点があったんだよ」
「それは何だ?」
「トイレに行きたくなった」
 堂々と言うことかよ、……頭が痛え。
「半——」
 こいつが何を言うか分かったので最後まで聞かずに答えた。
「飲まん」
 くそ、谷口と俺の思考回路は同じだったのか、ショックだ。
「じゃあ、話は戻すが、教室には見張りが三人しかいてなくてな、
最初俺がそう言ったらあいつら、隅でしてろ、って言ったんだぜ? アホかっての」
 それは、酷い。……主に女子に対して。
「さすがに大ブーイングが起きて見張りが一人俺と一緒に来ることになった。
ラッキーなことにそれが例のAプラスでな、色々訊いてみたんだ。……全部無視されたけどな」
 そこで哀愁に満ちた溜め息なぞつかんでいい。
「それから?」
「さすがにトイレの中まではついて来なかったんだが、
その時ぴかっと閃いたね。俺、逃げれるんじゃないかって」
 確かにトイレには窓があるしな、不可能ではないだろう。
「そこで勇気を振り絞って窓から逃げたはいいんだが校門は閉鎖されてるし、
変な奴らはうろついてるしで、どうしようかなって時にキョンを思い出したってわけさ」
 無駄に冒険心働かせて自分から危険な立場に飛び込むってのはどうかと思うぞ。
「……これで教室に戻したらエライ目に合いそうだな」
「……そうね」
「よし、入れてやるよ。すぐ入って来いよ」
「ホントか、キョン? お前最高だぜ!」
 俺が足を引きずりながらバリケードを撤去し、扉を開けた。
 しかし俺が鍵を開けたとき、ハルヒは呟いた。
「ねえ、キョン。やっぱりおかしいわよ。男の谷口に女の見張りをつける理由があるわけ——」
 そこには笑い顔の谷口がいた。
「よう、キョン」


 ……おい。
 ……おい、谷口。
 ……。
 ……お前一度、地獄へ堕ちろ。


 引きつった笑みを浮かべた谷口の後ろには、アホ野郎の後頭部に拳銃を突きつけた女がいた。
 ニコリと笑ってそいつは言う。
「私達の勝ちかしらね?」

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