「ハルヒ?」

 俺の呼びかけに対して振り返ったその顔に表情は無い。

「お、お前…」
 果物ナイフのようなものを右手に持っているのが見える。
 なにする気だ?
 たまらなく嫌な予感に襲われる俺に向けて、ハルヒは右手を挙げナイフの先を向けた。
「お、おい…。刃物の先を人に向けるなって習わなかったのか?」

 無表情の美少女がナイフの先を自分に向けて歩いてくる。これはこれでおそらくある種のマニアにはたまらない萌えるシチュエーションなのだろうが、残念な がら俺にはそんなマニアックな属性はこれっぽっちも無い。これからも俺にそんな属性が付加されることは無い。断言出来る。
 ハルヒが俺にどんどん近づいてくる。
 何かに取り憑かれているんじゃないだろうな? そんなまさか、だってハルヒだぜ?
 あのハルヒに取り憑いたり操ったりすることが出来るやつなんているのか?
 仮に誰かに操られているとしたら一体誰にだ?何の為に?それともハルヒの偽物なのか?
 何の感情も読み取れない表情。俺を見ている…ように見えるのだが、なんだか俺を通して別のものを見ているようにも思える、空虚な目。
 ハルヒが、自分の意志でこんなことをするとは思えないし思いたくもない。
「おい!」
 明らかにいつもの涼宮ハルヒではない。


「ハルヒ! 目を覚ませ!」

 ハルヒは、俺の叫び声に我に返るとナイフを落とし両手で耳を塞ぎ叫び声をあげた。
「…いやっっいやぁぁっっ」
「ハルヒ!!」


 気がつくと俺は自室のベッドの上に居た。どうやら自分の寝言で起きてしまったらしい。
 てことは今のは夢…なのか?
 本当に夢だったのか?あの時のように夢にされちまってるだけなんじゃないのか?
 汗で濡れたパジャマがわりのスウェットの上下が、体にまとわりついて不快感を上昇させる。

 しかし俺には確かめる術は無い。
 まぁいい。明日長門にでも聞いてみるか。おかしな夢を見たんだがどう思うかくらいは聞いてもいいだろう。よくある世間話だ。不吉な夢は人に話した方が良いと言うしな。
 内容が内容なのでハルヒには話せない。谷口や国木田にハルヒの夢を見たなんて話した日にはまた何を勘違いされるかわからん。朝比奈さんは怖がりそうだ し、古泉なんかに話したらまたデタラメな解説を嬉しそうな顔で始めるに違いない。何も問題がなければ長門は黙って聞いてるだけだろう。問題なんかあって欲 しくないが。
 と、俺は気楽に考えていたのだが…。

 翌朝のハルヒは様子がおかしかった。
 声をかけても返事もろくにせず、俺と目を合わせようともしない。頬づえをつき窓の外を眺めている。
 あの夢の、何の表情も読み取れず空虚な目をしていたハルヒを思い出し、たまらなく嫌な予感に襲われた。
 何かが起きているのか?
 それとも起きようとしているのか?
 俺は昼休みが始まると逃げ出すように教室を飛び出し、部室へ駆け込んだ。



+++



 喉の奥が痛む。

 白い天井
 白い壁
 白いベッドの上に横たわるのは白い服を着た黒髪の美少女
 痛々しい点滴のチューブ

 青白い頬に、そっと指先をふれて
 まるで絹の感触を確かめるように撫で、あの時のように…

 それでも彼女の目は覚めない。

 喉の奥がきりきりと音を立てて痛む。
 耐えきれず、俺は目を背けた。
 ベッドの脇にある椅子に身を沈め、頭を抱える。

 もう、1週間経つ。

 あの時の…ふたりきりで閉鎖空間に閉じ込められた時脱出した方法だっていうんなら何度だってしてやる。
 だけど、その方法じゃ目覚めないんだ。

 白い部屋がオレンジ色に染まっていく。


 喉を破って何かが弾けてしまいそうだ。
 喉の奥のそのもっと奥、うずくようなはち切れるような痛み。


──なぁハルヒ、どうやったらお前の目を覚ますことが出来るんだ?



 あの妙な夢を見た翌日の昼休み。
 俺は部室に駆け込み、長門に夢の内容を話した。
「現在、とくに問題は見られない。昨晩あなたが見たのはただの夢。」と、長門は言った。
 それで俺はハルヒの様子がおかしいのは単に不機嫌なだけなんだろうと思った。
 思っていたのだが…。あぁその瞬間のことは、思い出したくない。

 昼休みが終わってからも様子のおかしいハルヒは、放課後部室に行く途中で倒れたのだ。

 …ハルヒが倒れてからのことはあまり覚えていない。

 気がつくと俺は病院に居て、泣き疲れて目を真っ赤にした朝比奈さんが隣にいて…。
 古泉から医者の診断内容を聞いた。身体には何も異常が見られない、と。ただ眠っているだけだと。
 長門によるとそれはハルヒの力で、その力が強力な為どうすることも出来ないということだった。
「世界を揺るがすことがないので好都合ではありますけどね」と言った古泉の胸ぐらを掴んだ。
 言って良い冗談と悪い冗談があるぞ。あとお前がそんなこと言うと冗談に聞こえねぇ。
 朝比奈さんが俺の足にすがりついて、「やめてください」と泣き叫んだ。



 1週間前、ハルヒが倒れてからのことで思い出すのはこれくらいしかない。
 しかもぼんやりとした光景だ。それこそ夢であって欲しい。

 俺は昼間は学校に行き、授業が終わると部室にも寄らずにここに来て、面会時間終了までただただハルヒが目覚めるのを待っている。
 団長の身を案じるのは団員の勤めだからな。それだけだ。他に意味なんかないぞ。
 古泉が「あなたもこの部屋に泊まれるように取りはからいますよ」と余計な提案してきたが無視した。
 先週末は朝から面会時間終了までずっとここに居た。俺の貴重な週末を返せ。迷惑料も込みで30倍返しでな。

 白いベッドの上で眠り続けるハルヒを見る。
 寝不足のせいか頭がくらくらしてきた。
 情けないことに、あれからろくに寝ていない。
 俺は寝ていないのにこいつはまだ寝足りないのか未だに起きようともしない。
 ハルヒの頬を指でつっつく。
「いい加減、目を覚ませよな…」
 返事は無い。
 一瞬おそろしく縁起でもないことが頭によぎって、必死で頭を振った。
 たとえ一瞬でもそんなこと考えるな。
 喉の奥のそのもっと奥、うずくようなはち切れるような痛みが腹の中に広がっていく。
 俺はハルヒの眠るベッドに突っ伏した。
 今の俺がどんな表情をしているのか自分ではわからない。
 でもたとえ眠っているハルヒに対してでも見せたくなかったのだ。なんとなく。

 起きていても寝ていても迷惑なやつだ。
 同じ迷惑なら、迷惑料としてせめてあの100ワットの笑みを見せてくれよ。






 どうやら寝てしまったらしい。
 気がつくと学校、1年5組の自分の席に居た。
 あれ? 俺はハルヒの眠るベッドの上に突っ伏してそのまま寝てしまったのでは…。
 窓の外から見える灰色の空。
 このヘンテコ空間を見間違えるはずがない。
「閉鎖空間か…」
 そしてここにはハルヒが居るはずだ。眠っていない、起きているハルヒが。
 だとしたらあの場所しかない。
 俺は走って部室棟へ向かった。急ぐ必要はないのにな。

 部室の前。
 俺は、はやる気持ちを抑え、息を整えた。
 意を決して扉を開く。

 ハルヒが、居た。

 ハルヒは窓辺に立ち窓の外を眺めている。
 体中に安堵と同時に不安が広がる。
 あの夢-無表情のハルヒがナイフを持って俺に向かって来た光景-がフラッシュバックして、思わずハルヒの両手を確認。何も持ってないことで俺の体内に拡散した不安は、約半分自然消滅した。

「ハルヒ」
 返事は無かった。まぁ予想はしていたが。



 俺はハルヒに近づくと隣に並び、窓の外を見た。
 灰色の空。音の無い空間。
 隣のハルヒを見る。
 なんともいえない表情そしている。何の感情も読み取れない。でも無表情とも違う。

 喉の奥の、もっと奥の方が痛んだ。
 隣に居るのに遠く感じるのは何故だろう。
 そのままハルヒを見つめていたら俺の腕が勝手に何かしでかしそうだったので、俺は窓の外に視線を移した。

 どれくらいそうしていただろう?
 ハルヒがぽつりとつぶやいた。
「なんでアンタがここにいるのよ」
 なんでって…。お前が呼び出したんじゃないのか? なんて言えない。
「さぁな。お前はなんでここに居るんだ?」
 次の瞬間、ネクタイが引っ張られ叫ばれた。

「ここはあたしだけの世界のはずなのに!」

 ハルヒは今までに見たことがない表情をしていた。
 泣き出しそうな、でもそれを堪えているように見えなくもないし、絶望しているようにも見える。
 でも、俺を、俺を真っ正面から見ている。それは確かだった。
「ハルヒ…」
「なんで…なんでなのよ! なんでいつもいつもっ…」
 ハルヒは俺のネクタイを解放し、そのまま床に崩れるようにへたり込んだ。
「なんでなのよ…。もう、わかんないっわかんないもうっ」
 ハルヒは俯いて頭を振った。
「ハルヒ…」
 わかんないのは俺の方なのだが。
 ん? さっきハルヒはなんと言った? あたしだけの世界?
 てことはひょっとしてハルヒは自分の力に気がついているのか?
「なぁハルヒ…」
 俺はハルヒの腕をとり、立ち上がらせようとした。
「もういやっもういやなのっ」
 俺の腕を撥ねのけるとハルヒは俺に背を向けた。
 喉の奥がきりきりと痛む。
 何が嫌なのかそんな理由は聞かないさ。でもな。
「ハルヒ、元の世界に帰ろう。」
「いやよ。帰んない! あんたひとりで帰ってよ!」
 そうは言われてもな…。ここから俺ひとりでどうやって帰れと言うんだ?
 あたしだけの世界、ね…。じゃあ俺がここに居るのはどうしてなんだ?
 お前だけの世界なら俺はここには入り込めないはずだ。違うのか?

「なぁハルヒ。みんな心配してるんだぞ。」
 俺は床に座り込んだ。
 ハルヒは黙ったまま。相変わらず俺に背を向けている。
 ハルヒはしばらく黙っていたが、ひとりごとのようにぽつりぽつりと話し出した。
「いっそ記憶を消したかった…。あんたと出逢う前に戻りたかった。
 何も知らない頃に、こんな痛みもこわさもさみしさも何も知らない自分に戻りたかった。
 でもね、記憶を消さなくても済む方法を思いついたの。何も感じなければいいんだ、って」

 俺は溜息をついた。
 なんだよ、その痛みとかこわさとかさみしさってのは。まぁそれはいい。
 ハルヒ、お前は極端なんだよ。
「何バカなことを考えてたんだよお前は。それで自分だけの世界に閉じこもったっていうのか? 
 そんなの何の解決にもならん。」
 いや、バカなのは俺の方だ。
「嫌よ。また同じことを繰り返すだけだわ。あたしが、なにも感じなければ…。何も知らなければ…恨むこともなにもかも…しらなければ、あたしは…あたしは 誰も、傷つけたくないの。あたしはみくるちゃんも有希も好きなの! …なのにっ!あんたと話しているのを見るとイヤな気分になるの!
 あたしは誰も傷つけたくないの。なのにっ、なのに…。このままじゃいつか誰かを傷つけちゃう。もしかしたらあんたのことも…。あたしはもう…ひとりはいやなのっ…! 自分が嫌で嫌でたまらないのっ!」
 俺は何も言うことが出来ない。
 ハルヒは俺の方を見ようともしない。
 また喉の奥の痛みが大きくなる。
 ハルヒの言っていることは支離滅裂意味不明だ。おそらく本人もわけがわからないんだろう。
 だが、自分の心の中にあるものをどうにかして言葉にしようとしているのは確かだ。何故だかそんな気がした。

 言葉にすることは難しい。長門じゃなくてもな。
 だから誤解や思い違い、勘違いが生まれ、いざこざが耐えないんだろう。

 いや、違うだろ? 気付いてんだろ? 
 気付かないふりをしているだけなんだろ?
 いい加減に認めちまえよ。この期に及んでなに別のこと考えて誤摩化してるんだよ!

「あたしがずっと眠り続けていればあんたも、みんなも苦労しないでしょ? あたしも何も感じない。何も苦しまない。誰も傷つけない。誰も傷つかない。利害一致してるじゃないの!」
 ハルヒの声が震えている。泣いてるのか?まさかそんなはずはない…と思いたい。
「そうじゃない! そうじゃないハルヒ! お前は間違ってる! 今のこの状態自体が俺を苦しめてるのがわかんないのか?」
 いや、間違っているのはお前だろう、俺!
 認めるのが怖いだけなんだろ?
 認めちまったら自分の気持ちに歯止めがかからなくなりそうで怖いんだろ?
 そうなんだろ? なぁ、反論してみろよ、俺!


 俺もひとりごとのようにつぶやいた。
「俺だってな、お前が古泉と仲良くしてたら面白くない。俺の知らない中学時代のお前のことを知っている谷口に対しても、そういう気持ちを感じてないと言ったら嘘になる。」
 俺だって、妬くときはあるさ。

 いくらだって言ってやる。これはひとりごとだからな。

「寂しいときだってこわいときだってある」
 俺がさみしいのはお前がひとりで何でもこなせてしまうことだ。
 俺にもっと頼って欲しいんだ。雑用係としてじゃなくて男として頼って欲しいんだ。
 もっと弱さを見せて欲しいんだよ。その…なんだ…俺にだけでいいから。
 ひとりごとだったはずのつぶやきの音量が上がるのは何故だろう。知らん。

 いやこれはひとりごとなんかじゃない。
 本当はずっと言いたかったことなんだ。
 ずっと、破裂しそうな爆弾を抱えていたんだ。

「そして…俺にとって一番こわいのはお前が側に居ないことだ。いつものお前が俺の側に居ないことがこわいんだ。」


 うっかり落としてしまったら爆発する。
 だからずっと大事に抱え続けていたんだ。
 胸に抱えて、そのままうずくまっていたんだ。


「俺は、いつもの…明る過ぎる、元気過ぎて扱いに困るエンジンのぶっ壊れた暴走列車のようなお前が…」

 俺はその先を言葉にはしなかった。いや、出来なくなった。
 震える肩を両手で掴んで振り向かせる。
 その先は、ここでは言わない。
 ここで言うべき台詞ではないんだ。

「キョン…。」
「ハルヒ」



 いつだって乙女にかけられた呪いを解く方法はひとつしかない。
 俺は、ハルヒの頬に手をやると上を向かせた。
 ハルヒの揺らめく瞳に俺が映っている。
 
 ベタな展開だというのはわかっている。
 そして…おそらくこれも夢ということにされてしまうのだろう。
 
 しかし今度の俺は夢のままで終わらせるつもりはない。
 俺はもう揺るがない。どんなことがあっても。



 俺はハルヒにかかっている”ハルヒ自身がかけた呪い”を解いた。



+++



 頬に触れる布の感触。
 ハルヒの眠るベッドの上に、俺は突っ伏していた。
 あれ? さっき俺はハルヒと…。
 窓の外はすっかり日が落ちて暗くなっている。部屋も暗い。サイドテーブルに置いてあるライトを点ける。
 ハルヒの顔を見る。まだ目は覚めていない。
「ふう」
 俺は溜息をついた。
 面会時間終了まであと32分か。

 ただの夢とも思えない。だけど単なる夢だったのかもしれない…と思う一方、あぁやっぱり夢ってことにされちまったんだな…というのが入り交じって体中を駆け巡る。
 どちらが正解かどうかはわからない。でもはっきりとわかったことがある。
 わかるが…正直認めたくない。
 しかし…


 白い天井
 白い壁
 白いベッドの上に横たわるのは白い服を着た黒髪の美少女
 痛々しい点滴のチューブ
 青白い頬に、そっと指先をふれて
 まるで絹の感触を確かめるように撫で、あの時のように、さっき見たあの夢のように…俺は…



「ち、ちょっと! 何しようとしてんのよっ」
「なにって、うわぁっ」
 ハルヒが目を覚ました。
 しかも俺にとって最悪なタイミングだ。あと3センチだったのに。空気読めよ、おい!
 いや、そうじゃなくてだな。うあーもうどうしよう俺。恥ずかし過ぎて死にそうだ。
 ていうかむしろ殺してくれ。

 …これが今さっきまで1週間眠り続けてきた人間のすることだろうか?
「このっエロキョン!」と言いながら両手で俺の首を絞めているハルヒの顔は耳まで真っ赤だ。
 う…いい加減にしてくれ。いっそ殺してくれとは思ったが出来るだけ苦しまない方法で頼む。
「ふん」
「…はぁ」
 解放された。
 あーマジで死ぬかと思ったぜ。冗談でもあんなこと思うのはよくないな。
「な、なによ…。団長の寝込みを襲うなんて重罪もいいとこなんだからね!」
 じゃあ起きてるときだったらどうなるんだ? なんてな。
「な、何言って…」
 ハルヒの頬に、俺は自分の唇を押し付けた。
 すまん。今の俺にはこれが精一杯だ。
 なんたってさっきから俺の心臓はぶっ壊れたメトロノームみたいになっているんだからな。
 これ以上のことは…その、心臓に悪いんだよ。俺は細く長く生きたいんだ。
 だから勘弁してくれ。言うべき言葉も、その…別の場所にする口づけも次の機会に回させてくれ。
「な、な、なっ…」
 ハルヒは真っ赤な顔で口をぱくぱくさせている。金魚かお前は。
 ま、俺もハルヒに負けず劣らずの顔の色をしてるんだろうがね。




   ...fin

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最終更新:2007年03月04日 13:26