○六章
……。
うまい。やたらにうまい。こんなうまい飯食ったのはどのくらいぶりだ。というか、随分長いこと食事そのものをしてなかったかのような気分だ。
「大げさね。まぁ褒め言葉は受け取っとくわ」
向かいのハルヒはぶしつけに言って味噌汁をすすった。
「今何時か分かるか?」
「八時よ。いつもなら学校行かないといけない時間よね」
俺はもう少し遅くに出てるがな。って待てよ。いつもならってどういうことだ?
疑問を口にする前にハルヒが言う。
「しかし驚いたわ。北高のあたしの下駄箱に違う人の靴が入ってるんだもんね」
ハルヒが何を言ってるのか俺にはさっぱり分からなかった。俺はほうれん草を飲み込んで、
「なぁハルヒ。ここが四年前って本当か」
「あんたもしつこいわね。自分で言い出しといて、今度は記憶喪失のフリでもしてるつもり?」
フリでこんな心理状態になれるわけがない。
もし俺がこの状況を把握してなきゃおかしいんだとしたら、それはまさしく純然たる記憶喪失に他ならないだろう。だが、記憶喪失なんかになったことはないし、理由は他にあると俺の理性と感性が同時に主張している。
「今日って、日付はいつだ?」
「ん!」
俺の目の前に新聞紙がつきつけられた。
「買出しついでにそれも買ってきたの」
俺は一面にもテレビ欄にも目を通さず、一番上の日付のみに意識を集中した。
四月二十三日――。
今いる日付が、俺がこれまでいたはずの西暦から四を引いた数字に続けて書かれている。
「四月……?」
四年前。
この年に俺は何度も来ていて、それは七夕の日が二回、四月の終わりに着いて五月の終わりに目覚めたのが一回。
つまりこれで四度目になるが……。
「なぁハルヒ、俺たちはどうやってここに来たんだ?」
朝食そっちのけで質問乱舞をかます俺に、ハルヒは箸をくわえたまま眉を吊り上げ、
「あんた。食事中に饒舌になる癖でもあるわけ? そんなにしてまで記憶喪失ごっこしたいってんなら、後でつき合ってあげるわよ。全部片づいた後でね」
記憶喪失はもういい。そんなんじゃないことは解り切っている。
「すまん。でもそれだけ最後に教えてくれ」
「おそろしくグラマーな女の人に連れられてここまで来たんでしょ。タイムトラベルだって言ったのはあんたじゃない」
「な……」
何だって? 俺がお前にそんなこと言ったのか? いつ?
「昨日一日中使って説明してくれたじゃないの。それともあれはあんたじゃなかったの? ふざけた事これ以上わめくようならぶっ飛ばすわよ」
ハルヒはそう言うと、これ以上戯言は受けつけないとばかりに茶碗を立てて白米をかっ込んだ。
グラマーな女の人。まず間違いなく朝比奈さん(大)だ。ハルヒはそれを知らないのだろうか。
だが待て。それは置いておくとして、俺がこいつにタイムトラベルを明かしただって? 五月の終わりより前に?
もしかして、今この時間は俺が氷づけから解かれた日より過去でも、目の前にいるハルヒは俺がいたはずの時間より未来の存在なのか?
それならある程度説明はつく。
俺は実はハルヒの言うように何らかの理由で記憶が飛んでいて、ここに至るまでの経緯を忘れている……。
そうだ、ならばこう訊いてみればいい。
「ハルヒ、俺はどうも寝てる間に悪夢を見てて頭が混乱してるらしい。俺たちが元いた日付はいつだ?」
そう言うとハルヒは味噌汁のお椀の上から日本海で捕れた鮮魚よりギラギラした目を向けて、
「ちょうど四年後。四月二十三日よ」
とだけ答えて食事に戻った。俺が何か言うほどこいつの眉の角度が上がってる気がする。
しかし……
四月二十三日?
俺はその日をすでに過ごしたはずだ。こいつの話じゃ俺もその日付から来たって話だから、やっぱり俺はこの状況をもう知ってないとおかしいことになる。
俺はあらためて首をひねった。どうなってるんだ? 四月二十三日。その日に何があった?
二ヶ月前の特定の日付にあった出来事を思い出すのは容易ではない。というか、ほとんどムリだ。
だがその期間にあったことならはっきりと思い出せる。
古泉がいなくなって、朝倉が現れて俺を凍結させ、ハルヒや朝比奈さんと過去に遡ってまた戻り、朝倉をノーマライズした一連の事件。四月二十三日という日付は、間違いなくその最中に該当しているはずだった。
とすれば、俺とハルヒはその流れを受けてここに来ていることになる。
「ハルヒ、朝比奈さんはどこにいるんだ?」
そう、あの時、大人版朝比奈さんの手で時間遡行したメンバーの中には、俺とハルヒの他に子ども時代たる麗しの先輩がいるはずなのだった。
「部屋にいるのか?」
飛び出そうとする俺の手首をハルヒがつかみ、
「何する気よ」
「何もしねぇよ、確認したいだけだ」
すると二秒ほどして、ぱっと握力が解ける。俺は長門の部屋であるはずの個室入口に立ち、一呼吸置いてノックした。
コンコン。
もう一度。コンコン。
返事がないことを確認すると、俺はそっとドアを開けた。
「長門?」
ベッドでは、見覚えあるシャギーの入った髪の少女が静謐な表情で眠っていた。
俺はしばらく長門を見て、それから室内を見渡した。
机に本棚、整然とした様はこの年の五月末の夕飯前、俺が掃除した時のままだ。というか、あの時よりこの時間の方が前になる……のか?
傍らの無機質な電灯の下に、これも見覚えのある眼鏡がクリアケースに入って置いてあった。
「長門」
俺は一歩近付いて、小声で呼んだ。何となく通常ボリュームの声を出すことがはばかられる。
長門有希は寝息すら立てていないかのように、周囲の空気を全く乱さずに眠っていた。
俺は一息つくと、やがて静かに退室した。
「有希の睡眠を邪魔するんじゃないわよ」
席に戻るところでハルヒがふっと言った。そんなつもりねぇっての。
「長門はずっとあんななのか。一度も目を覚ましてないって?」
ハルヒはまだ立腹気味の様子だったが、乱雑に肯いた。
日付が違うって時点でそうなんだろうが、やはり俺の記憶とは異なっている。
とすれば、ここはもしかして、その『介入』前の時空なのではないか? 表の皮から透けて見える、別の色をした何層にも及ぶ固まり。俺がどうやってここに来たのかはさっぱり分からないが、それならズレていることには納得がいく。
朝比奈さん(大)は、大人となった彼女がただ一度涙を見せたあの晩、「こんな状況は記憶にない」
というようなことを話した。
そして、違ってしまったのは朝倉が俺を三たび襲撃したあの時かららしい。
ならば、その奇襲が発生しなかった流れが、今この時なのではないか?
俺はさらに考える。
ならば、俺は何のためにここにいるのだろうか?
きっかけらしいきっかけがあるとすれば、俺がいた時空のハルヒが機嫌を急速にねじ曲げたこと、幽霊状態の大人版朝比奈さんに会ったこと。それと鶴屋さんがあの発光する金属物質を俺に見せてくれたことがある。俺の元いた時間はどうもイレギュラーなものらしいから、誰かからその答えを聞き出すことはできないのかもしれん。
だがここまで推測ができれば、何もないよりはこっちの動きようもあるってものだ。ただの偶然で俺がここに飛ばされたなんてことは、これっぽっちも思わない。
俺は席を立って、台所にいるハルヒの元へ歩いてから、訊いた。
「なぁ、今日の予定を教えてくれないか」
ハルヒは丁度食器を洗い終えたところだった。エプロンを外し、キッとこちらを向く。
「あんた、どうしたの?」
どうしたって何がだ。
「何か変よ? まるで別人……ちがうわね。とにかく変」
ハルヒの言いたいことは分かる。確かに俺はお前の知っている俺ではない。
たぶん本来ここにいるはずの俺は、朝倉に突然襲われたあのあたりを境にして、何日か分の違う記憶を有していたはずだ。
「ハルヒ。ちょっと話したいんだが、いいか」
俺は目配せをした。このハルヒは俺の真剣さを推し量る判断力はあるらしい。そのへんは俺が元いた時空で癇癪起こしてどっかに行っちまってるハルヒより何倍もマシだ。
俺たちはさっき朝食を取った時と同じ配置で向き合って座った。
「こんな時にすまんが、俺は今部分的に記憶がない。古泉がいなくなっちまったとこまでは覚えてるんだが、そっから先。朝比奈さんがいなくなるとこや、ここに来るまでについてはまったく知らない」
「……で?」
ハルヒは腕組みをして俺を見据える。
「俺が今言ったことを信じた上で、教えてほしい。俺はお前にどこまで話したんだ?」
真摯な視線で訴えること十数秒。ハルヒは困ったような、怒ったような顔になり、
「ほんとに覚えてないの?」
俺は深く肯いた。冗談言ってる状況じゃないことはお前より承知してるつもりだ。
「何よそれ。いちいちムカつく奴ね」
すまん。
「あんたはあたしに秘められてるらしい力について、色んなことを話してくれたわ」
ハルヒは昨日聞いたらしい話を話し始めた。
話を聞いた相手に翌日話すってのもそれこそ変な話だろうが、ハルヒは不思議と嫌な顔をしたりせず、実に筋道だった分かりやすい説明をしてくれた。古泉よりこいつが解説役してくれたほうがいいんじゃないか。これまでさんざん色々説明することがあった俺だが、こいつより上手く言えたとは思えん。
そのハルヒの話を要約するとこのようになる。
涼宮ハルヒという人間には自分の願望を反映するほどの大きな力が秘められている。
ハルヒが集めたSOS団員、長門有希は宇宙人、朝比奈みくるは未来人、古泉一樹は超能力者。そして、俺が今まで水面下で雑用とも言うべき世界平和のための東奔西走を続けてきた。
これまで主にどういう場面で不思議に遭遇したかについても俺は話したらしい。野球、七夕、カマドウマ、ループサマー、映画、雪山……。
一部が隠されていることに俺は気づいたが、一番重大なことに関して質問した。
「待ってくれ。七夕って?」
「あんたはあたしが中学生の頃、校庭に線を引くのを手伝ってくれた」
俺は大きく目を見開いた。
ハルヒは真剣な表情のまま、同時に記憶を重ねるように言う。
「ジョン=スミスだったのね」
ハルヒは表情を変えずに言った。
何てこった。こっちの俺はこいつにそこまで話しちまったのか?
「逆に、それがなかったらあたしは信じてなかったと思うわ」
ハルヒは言った。心なしか、その目の色がわずかに揺れて見えた。
「あたしはあの七夕の後、本当にあんたを探してたんだから」
ハルヒは中空を見上げて感慨にふけるように言った。
「……再開に四年もかかるなんてね」
俺はハルヒを唖然としたまま見つめていた。
ハルヒはしばらくそのままだったが、やがて元通り俺を見て、
「あんたに一つ、訊きたいことがある」
と言った。決然たる表情が俺の視線を逃がさない。
「何だ」
「あの時の夢。あれは夢じゃなかったのね」
……夢。
ハルヒが俺に質問する夢といえば、ただ一つしかない。
俺はハルヒの瞳を見つめた。真剣な表情に曇りはなく、今も無限に広がる宇宙をその双眸に閉じこめている。
俺は一度目を閉じる。
それからゆっくり息を吸って、言った。
「その通りだ」
目を開けると、ハルヒはわずかに口を開けていた。俺には驚いているように見えたが、本当はどう思っているのかわからん。
わずかばかりの沈黙が去来したが、そののちにハルヒは、
「……そうだったの」
と言ってテーブルに目線を落とした。七夕の話はしたのにここを伏せるなんて、昨日までの『俺』は何をやってたんだ。
とはいえ、重要事実のほとんどすべてを話せてしまったこっちの俺が少しうらやましくもあった。
一日二日あったことの違いで、こうもここでの行動に違いが出るとはね。
「キョン」
不意に、ハルヒは俺を呼んだ。
「何だ」
「あたし、あんたが好きよ」
突然の言葉によって止まる時間。
ハルヒはまっすぐに俺を見ていた。今度は間違いなく、両の瞳が潤んでいる。
「何、泣いてんだよ」
俺が反射的に言うと、ハルヒは目尻を片手で拭って、
「あんたこそ」
何を言う、そんなはずあるか。俺はこうして極めて冷静な思考状態を保っている。見ろ。涙なんかこれっぽっちも流れちゃいない――
「!」
「ふふ。バカキョン」
片目を拭った掌を見て驚いている俺に、ハルヒが呟いた。
「あんた。今まであたしたちを守ってくれてたのね」
ハルヒが言った。俺は何も言えず、今度は反対の手で反対の目を拭った。
ちくしょう、これじゃほんとにバカみてぇだ。
「教えてくれてありがとう」
これまで聞いたこともないような響きを持つハルヒの言葉は、魔法の力でも発揮してるかのように、俺の心を揺さぶった。
胸が苦しくなって、熱くなった。
その時――、
「何だ?」
また、『あれ』が来た。座っている椅子がねじれて、俺の両足も絡まっていく。あわててテーブルに両手をつき、しかしそれは頼りなく渦に巻き込まれていく。
「ハルヒ!」
俺はハルヒを呼んだ。しかし返事はない。見る間に長門の家の風景はマーブル模様になっていき、俺の腰は宙吊りになって天井に向かっていく。自分の身体が絞られる雑巾のようにぐるぐるになり、四肢は部屋の隅のそのまた向こうへと伸びていく。ゆっくりと、あらゆる感覚が失せていく……。
合間。
俺は今までに見た『夢』をすべて思い出した。
ひとつは、俺がハルヒにすべてを打ち明ける過程。たぶん昨日あっただろう光景。
次は、古泉や長門、朝比奈さんも含めた、俺の知らない別の未来での部室。
ハルヒが力を使いこなし、破壊や新たな創造には用いないことを朗らかに表明した。
そして別のものは、新しく作ったエンブレムで発生した異空間を、その力で元通りにした。
部長氏の元に現れたものとまったく同じ。今、はっきりと分かる。
さらにもうひとつ。SOS団と鶴屋さんでピクニックに行った。ある晴れた日のことだ。
迷いなんて何一つないような晴天の下、俺たち全員が笑っていた。
「ハルヒ!」
俺はもう一度呼んだ。叫んだ。まだ胸が熱い。だらしなく涙が頬を伝う。
「長門! 朝比奈さん! 古泉!」
SOS団の団員であり、かけがえのない仲間の名前を呼んだ。
「みんな……」
俺はこれまでなお気がつかなかったことに、ようやく気がついた。
見て見ぬフリなんかじゃない。仮にそうだったとしても、それは気づいていないのと同じだ。
誤魔化しですらない。超絶なまでに鈍感だった俺は、ただ単純に知らなかったんだ。
これまで好きだったもの、今も好きなもの、これからも好きなもの。
答えにしてしまえば簡単で、実にありふれていて、馬鹿馬鹿しいくらいに単純なもの。
かいま見た別の未来は、俺の進むものではない。
そこでの風景がどんなに魅力的であっても、俺の世界はそこにはないのだ。
……帰る場所はただ一つだ。
「ハルヒ!」
「しっかりしてください! 大丈夫ですか!」
身体をゆすられる。大きな声がする。
「……ハルヒ」
俺はどこともなく言った。
「キョンくん、しっかり!」
「起きて」
種類の違う声。全部、聞き覚えがある。
ああ、いつも聞いている声だ。
「目を覚ましてください!」
これは古泉一樹だ。SOS団副団長にして超能力者。おせっかいな解説役。
「うぇっ、うぅぅ、キョンくん、しっかりして……」
朝比奈みくるさん。忘れがちだけどSOS団の副々団長。いつだって愛らしい俺の先輩。
「目を開けて」
長門有希。唯一の文芸部員にして読書係。口数が少ない代わりに、誰よりも頼もしい戦友。
そして、全員がかけがえのない俺の仲間だ。
俺はゆっくりと目を開けた。
……天井。そしてそれを囲む三つの見慣れた顔。
「キョンくん!」
わぁっと朝比奈さんが声を上げた。笑顔が本当によく似合う。
「よかった……」
古泉が安堵して胸に片手を当てた。息かかってるぞ。
「……」
長門は何も言わず、俺を澱みなき眼で見つめていた。帰ってきたぜ。
俺は身体の感覚を確認するようにして、半身を起こす。
大丈夫だ。何ともない。両手を握って開いて。首を軽く回して、肩を上下させる。
「ここは……」
俺は辺りを見回した。
部室棟廊下。俺がさっき倒れかかった場所で間違いない。
が――、
「こりゃぁ」
どうなってるんだ?
様子がおかしい。外が暗い。
俺が鶴屋さんと話した時、雨は降っていたものの日中だったはずだ。こんなに暗くない。
それとも俺は夜になるまでずっとここで倒れてたってのか?
「涼宮さんです」
首をキョロキョロさせる俺に話しかけたのは古泉だった。俺は周囲の観察を一時中止して古泉に向き直る。
「この場所にも閉鎖空間を発生させたのでしょう。僕たちも問答無用で飲み込まれてしまったようです」
説明する古泉の顔にいつもの笑みはなかった。
「俺は……」
「辺りの様子が変わったので外に出ようとしたら、あなたが倒れていたんですよ。あなたと鶴屋さんが出て行って十分ほど後のことでしょうか」
ってことは俺が酩酊した時からさほど時間は経ってないんだな。
「ハルヒを探さなきゃならん」
俺は片足を立てて立ち上がりつつ言った。
「分かったよ、ようやくな」
いつだってそうだった。
俺は本当の土壇場にならないと大切なことに気がつかない。
おかげで何度も世界は危機に瀕してきた。そのたんびに俺は息を切らせて走り回り、みんなの力を借りてやっと、一見退屈なようなあの毎日に帰ってくることができたんだ。
どんな宝物にも代えられない、最高の時間に。
だから、今度もそうしてやるまでだ。
ハルヒ、待ってろ。
「古泉、長門、朝比奈さん。行こう」
俺は立ち上がって、これまで一緒に毎日を楽しんできた仲間に言った。
「あきらめるのは、まだ早いぜ」
最終更新:2009年06月21日 13:13