俺は今、泣いているハルヒを横に、途方にくれていた。

 事の起こりはこうだ。
 つまり、ハルヒが風邪を引いた。これはいい。実にシンプルで分かりやすい事実だ。いや……ハルヒのような女が風邪を引くなんてにわかには信じがたいことではあるのだが、まあ、いいだろう。とにかく、ハルヒが風邪を引いたわけだ。そしてここからが問題なのだが、俺は今ハルヒの家にいる。何故かって? 今日休んでいたぶんのノートを届けにさ。おかしいだろ、百歩譲ってノートをとっておいてやるのはいいとして、なぜその日のうちに届けなければならんのだ。

「今日風邪で休む。ノートをとってうちまで届けに来て」
 朝、俺の携帯に来たメールを見て、俺はすぐさま「風邪引いてるのに予習するのか?」と返信した。当たり前だろう。普通の反応だ、普通のな。しかしそのメールに対する返事は「来なかったら死刑」である。やれやれといったところか。まあ今日は金曜だから土日のうちに予習をするのかもしれないが、「あの」ハルヒがそれをやるとはどうにも考えづらい。まさか無理矢理呼びつけられた挙句、看病でもさせられるんじゃなかろうな、という考えが頭をよぎって俺はぞっとした。
 そんなわけで俺は今日一日、ことあるごとに襲ってくる眠気やだるさを脳内マシンガンで迎え撃ちつつ、至極真面目にノートをとった。一度に二つノートをとるなんて芸当は一回の男子高校生である俺にはできないので、ハルヒの家に行く前にコンビニでコピーをとる。これが結構ばかにならん値段だったので俺は閉口した。バイトもしてない高校生の財布には痛い出費なのだが、それでも俺はその任務を遂行しなければならなかったのさ。ほら、誰だって死刑にされたら困るだろ?
 がらんとしたコンビニでコピーをとった後、俺はふと思いついて、1リットルのポカリと、みかんが入っているゼリーを購入した。いやなに、あいつのことだから手土産のひとつでもないと怒りそうな気がしたものでな。
 さて到着したハルヒ家はマンションだった。マンションというか、公団住宅というか。どちらかといえば団地みたいな感じだな。俺はハルヒの家の場所を知らなかったので、やむなく昼休みに九組に赴き、古泉にハルヒの家はどこだと聞いた。あいつなら知っていそうだったからな。なにか含んだ笑顔で対応されたが、それは目をつぶった。その後ハルヒと会って、また疲れるだろうことだけは確実だったので余計な体力を使いたくなかったんだ。
 その団地は長門のマンションみたいにオートロックなんてものはなかった。俺はかんかんと安っぽい音を立てる階段を上りながら、そういえば、ハルヒから家族の話を聞いたことがないな、なんてどうでもいいことを考えていた。どういう家に住んでいるのかとか、兄弟はいるのかとか、両親はどんな仕事をしているのかとか。中学生活は、小学校は、その前は。そう考えてみると、俺は意外にもハルヒのことをあまり知らなかった。意外? いや、意外というほどのものでもない。ハルヒとそんな話をした覚えがないからな。俺は妹の話なんかを結構したような気はするが。
 涼宮とマジックで書かれた文字が消えかかっているプレート、の下にあるインタホーンを俺は押した。
 返事もせずにドアが開く。ハルヒだ。
「遅い」
 開口一番それか。
 目の前に現れたハルヒはいつもみたいにカチューシャをしていない。上は紺色のトレーナーで、下は蛍光緑に青いラインが入っている……中学校のジャージみたいだ。長いのじゃなくて、ハーフパンツってやつ。いつもとは全然違う、生活感丸出しのハルヒのいでたちに俺は目を奪われ、たりはしていないが、そんなことよりも、ハルヒは不機嫌そうにしているものの、全然病人に見えないことのほうが問題だ。
「寝たら治ったのよ」
 と言いながら手を差し出してくるハルヒ。ああ、ノートな。つーか治ったのかよ。本当か? というか、そもそも本当に風邪ひいてたのか? しかしそこを疑うと踏まなくていい地雷を俺は踏みそうだったので、突っ込むのはよしておいた。
「ほら、一度に二冊はとれないからな、コピーだけど」
「何よ、それくらいやってみせなさいよ、あんただってSOS団でしょ」
 何だそれは……、と俺は手を頭にやろうとしたところで、手にコンビニの袋を持ちっぱなしだったことに気がついた。
「あ、あとこれ」
「え」
「しおらしく床に臥せってると思ったから、買ってきてやったんだ」
「何よその言い方、あたしは病み上がりなんだからね」
 すっかりいつもの調子を取り戻しているらしいハルヒは、口をアヒルみたいに尖らせながら俺から受け取った袋の中身を見て、ふうん、とだけ言った。
「ねえ、シュークリーム食べない?」
「は?」
 どうしてこの流れでシュークリームが出てくるんだ。
「親父がこないだ買ってきたの。いっぱい。けっこう食べたんだけど、まだ残ってて、賞味期限が明日だし、だから」
 ハルヒは袋の中に目をやったまま頭を上げない。ハルヒの後ろにぽっかり広がる部屋は、何か薄暗かった。薄暗い家に一人でいるという経験を俺はたぶん、したことがない。たいてい母さんか妹がいるし、今はシャミセンだっている。ハルヒは一人っ子なんだろうか。団地というものはこういう風に薄暗いものなんだろうか。
 そんな事を一瞬、いや二瞬くらいかな、思っていたら、口が勝手に答えた。
「食う」
 ハルヒが顔を上げる。
「じゃ、さっさと入りなさいよ。寒いし」
「ああ……お前、足寒くないのか」
「冷たいに決まってるでしょ」
 ハルヒがはいているのはハーフパンツなので、膝から下がそのまま出ているのだ。ふむ、本人が主張しているように一応病みあがりなのだから立ち話なんてさっさと切り上げるべきだったのかね。
 おじゃまします、と申し訳程度に呟いて、俺はハルヒの家に入った。入った部屋の中はやっぱり薄暗い。一応電気はついているのだが。
 通された居間は雑然としていた。テーブルの端にはなにやらごちゃごちゃと乗っかっているし、テレビも付いていない。俺が座ったソファの横にはたたまれた洗濯物が積んで置いてある。
 俺がそうして思わず部屋の中を見回していると、キッチンに行ったハルヒが声をかけてきた。
「あんた、なんか飲む? コーヒーとか紅茶とか」
「じゃあ、コーヒーで。砂糖はいい」
「あっそ」
 何もしないで座っていると、電気ポットのお湯を出す音や、スプーンがマグカップに当たる音や、戸棚を開けたり閉めたりする音がやたらと大きく聞こえる。そういった空間は、俺に何かさみしさのようなものをどうしようもなく想起させた。
「はい。マグカップは親父のだけどちゃんと洗ってあるから」
 ハルヒはテーブルにコーヒーの入ったマグカップと、ポカリのペットボトル、グラス、それからゼリーとスプーンを置いて、また立ち上がった。冷蔵庫からバタンと音がして、ハルヒが持ってきたのはケーキの箱だ。白い箱からシュークリームを取り出す。高級そうなやつじゃなくて、一個百円で売ってるでかめのシュークリームだ。一個、二個、三個、四個……六個。
「これおいしいんだけど、さすがにずっと食べてると飽きるのよね」
 そんなことを言いながら、ハルヒは俺の横に座ってゼリーのふたをぺりぺりとめくった。
「ちょっと待て、俺がこれ全部食うのか?」
「そんなこと誰も言ってないでしょ! 三個ぐらいでいいわよ」
 三個か……いけるだろうか。うーん、と思いながらも、俺はビニールを裂いてシュークリームにかじりついた。うん、甘い。しかも食いにくい。油断してると皮から薄黄色のカスタードクリームがどろりと出てくるので、下手すると大惨事になる。つーかなりかけた。
 そんなのをハルヒに馬鹿にされつつ、俺は二個目に取り掛かる。で、思いついて、聞いた。
「なあ、おまえんちって、何人家族だっけ」
「三人」
「一人っ子か」
 やっぱりな。まあ、あまり兄弟いるようなタイプにも見えないし、さっき見た玄関は靴が少なかった。
「何でそんな事聞くの」
 横を見ると、ハルヒは少しうつむいていた。髪の毛で顔が見えない。俺はそんなことを聞き返されるとは思いもよらなかったので、答えに詰まってしまった。別になんとなく、と言えばよかったのに、そうは言えなかった。そういう曖昧な言葉を俺は、口にはできなかった。
 トレーナーにジャージでいるハルヒは、この家の空気にむちゃくちゃ馴染んでいた。この部屋の住人なのだな、という感じだった。でも、それはまるでハルヒではないみたいだった。少なくとも、俺の知りうる限りでは。ハルヒは今日一日中、この薄暗い家の中にいたのだろうか。いや、今日だけじゃなくて、そういう日が今までにどれくらいあったんだろう。俺はハルヒがこのソファに座って、電気もつけずに、ただぼうっとテレビを眺めているところを想像してみた。簡単だった。
 いつのまにか、横にいるハルヒは肩を震わせていた。もしかして泣いてるのか? どうして?
「おい、ハルヒ」
 俺が声をかけた瞬間、ハルヒの肩がよりいっそう大きく震えた。涙がぱたぱたと食べかけのゼリーの上に落ちていく。おいおい、ゼリーがまずくなるぜ、なんて軽口を、もちろん叩けるわけがなかった。俺にはそれが悲しさゆえの涙なのか、はたまた嬉し泣きなのかどうかすら分からないのだ。
 正直言って、俺はものすごく動揺していた。これ以上ないくらいオロオロしていた。情けないことに、俺は自分がどういう行動をとるべきなのか判断できなかったのだ。でもとりあえず、真っ先にせねばならないことだけはハッキリしている。つまり、ハルヒを一度落ち着かせること。感情が高ぶっている人間を落ち着かせるのに最も効果的な方法は。
 ああ、また俺はこんなベタなことをハルヒにしなければならないのか。どこの神様だ、そんなことを決めたのは。
 俺は、ハルヒのそばにちょっと寄って、何も言わずに肩を抱いた。体の間に隙間があると抱いてやりづらかったので、しかたなく体を寄せた。手のひらに感じる体温はすごく熱い。その回した手でぽんぽんとしてやると、ハルヒがしゃくりあげるごとに体が揺れるのがダイレクトに伝わってきた。
「ハルヒ」
 とてもじゃないが何かを言えるような雰囲気ではなかった。でも、このままでいたらずっとこうしていそうだし、その間に誰か帰ってきて妙な誤解をされたら困る。いろいろと。
 でも、俺の脳髄は二の句をついではくれなかった。
 俺は何も言えない。俺はハルヒに何も言うことができない。

 俺は今、泣いているハルヒを横に、途方にくれている。
 できることといえばこうやって体をくっつけることぐらいなので、俺はそうしている。

 

そして…俺とハルヒは 一つになった。


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