○五章

 やっぱりそうだったのか。
 この二ヶ月、朝比奈さん(大)はこの時間に来なかったんじゃなく、来られなかったんだ。

「しかし……」
 消えちまったら何をすればいいか分からない。まだ話は続きそうな雰囲気だったのに。
 あの朝比奈さんの話からすると、俺が今いるこの時間の先に彼女はいないんだろう。今ここにいる俺の朝比奈さんは、半透明のまま消えてしまった大人版の彼女とは違う時間を歩み出している。
「介入、か」
 それをやったのがあの敵連中だったってのか?
 あの未来人野郎は朝比奈さん(大)のように、この時間に来れなくなったりしていないのだろうか。
胸倉つかんで聞き出してやりたい気分だ。

 今俺のいるこの時間が、本来選ばれるべきだった時間を上書きした。
 ならばその本来の時間ではどういうことが起きてたんだ?
 狂ったのは朝倉が襲ってきた日からって話だ。この二ヶ月間、SOS団に起きたことがまるっきり置き換わってるんだとしたら……。

 俺は誰もいなくなった生徒会室を睥睨して息を吐き、吹き抜ける初夏の風と共に退室した。


 部室に戻ると、古泉と長門が差し向かいで話し合いを続けていた。
 ……が。
「有機生命体に思索能力が芽生えることそのものが稀」
「なるほど。つまり宇宙の端の方では生命の概念そのものが――」
「何の話をしとるんだお前らは」
 長門はすっと俺を見上げた。いや、別に責めてるわけじゃないさ。どっちか非難するなら俺は文句なしで古泉の方を選ぶ。
「何があったんですか?」
 会話を中断されたのに嫌な顔ひとつせず、古泉が微笑顔のまま訊いてくる。
「朝比奈さんに会ってきた。大人のな」

 俺は説明を開始した。
 朝比奈さんが不完全な形で現れたこと、時間が書き換えられていること。
 しかし今ここにいる朝比奈さんは消えないらしいこと。半透明の彼女は話の途中で消えてしまったことなどをだ。
「なるほど。噂になっていた幽霊の正体は彼女だったんですね」
 古泉が感心したように肯いた。噂? そんなのになってたか?
「えぇ、部長さんの話がささやかれるほんの少し前まで、僕らのクラスでは女子生徒たちを中心に話題になっていましたよ」
 そう言われて俺はぼんやりと国木田谷口の会話を思い出す。……そういえば言ってたかもしれん。

「まぁそれは置いておいて。とすると、僕たちが今いる時間は、彼女の知るものとは違っているんですね」
「はっきりとは分からんが、どうもそういうことらしい」
 古泉は片手で肘を支えて口元に手を当て、
「となると、上書きされた方の時間はどこへ行ってしまうのでしょう」
「俺もそれを考えてたところだ」
 俺は両肘を机について側頭部に手を当てた。その時間にも俺たちがいるのか? そもそも今も元の時間は存在してるんだろうか。

「STCデータ」
 つぶやいたのは長門である。俺は顔を上げて無謬なる表情を見つめる。
「朝比奈みくるがそう呼称する当該時空の情報履歴は、確かに置き換わっている」
「そんなことも解るのか……?」
 長門はゆっくりと肯く。そのまま口を開き、
「わたしがそれを知ったのは四月に病室で目を覚ました時。思念体との通信を遮断されている今は新たな情報を得ることは不可能」
 とっくに知ってたってことか。
 長門はぱちと瞬きをした後、ミリ単位でうつむいて申し訳なさそうにする。いや、別にお前は悪くない。それに、聞かされてたって俺がどうにかできたとも思えないしな。
 あんだけ平穏な毎日が続いてりゃ「そんなこともあるだろう」くらいにしか思ってなかったかもしれん。
「通常、置き換わったデータは以前のものを塗り替える」
 長門は空に言葉を置くように続けた。
「それじゃあの朝比奈さんの時間は」
 言葉を切った俺に長門は再度目を向けて、
「存在していない。表面上は」
 表面上は……?
「データとしては残っている」
 どういうことだ。それじゃ朝比奈さんはどうしてここに来れたんだ?
「手段に関わることはわたし単体ではわからない。ただ、推測は可能」
 長門は俺が先をうながすのを見ると、
「類似データが繰り返し上書きされていたために、その残滓がこの時空間に浮上した」
 これまでに何度も長門の説明を聞いて来た俺だったが、それでもやはりすぐに理解するのは困難だった。長門自身のことを言えば、昔より解りやすい表現をしてくれているように思うんだが。俺の理解力不足によるものだとしたら遺憾である。
「なるほど」
 演劇部の発声練習ばりに通る声で言ったのは古泉だ。はい、通訳頼む。
 微笑みの夏服男は流し目をよこし、
「夏休みのことは覚えていますよね? 合宿ではなく終わり際の話です」
 あぁ。思い出す機会が多かったからな。
「あの時、僕らは同じ光景を何度も既視感として見ていました」
 そうだった。それがなければあの夏休みが終わることはなかったかもしれない。
「それと同じようなものです。つまり、僕らが今いるこの時間の下には、全く異なる流れを持つ時間が存在していて、それはこれまでに似た形で上書きされ続けてきた、ということです」
 古泉は片手を広げて説明する。
「他の例えを持ち出せば……そうですね。ミルフィーユを思い浮かべてください。あれは薄い皮が何十にも積み重なっていますよね」
 俺は反射的に肯く。
「その一番上が、僕たちの今いるこの時間です。そして、その下には、一番上と違う色の生地が何重にも積み重なっています」
 何となく分かってきた。つまり、一番上だけ色が違うから、その下が透けて見えてるってことか。
「そういうことです。……長門さん。これで間違っていませんか?」
 古泉が開いていた手を長門に差し出して尋ねる。長門は古泉に肯いて、
「おおむね」
 長門の言葉を聞いた古泉は片肘をついて身を乗り出し、
「おそらく、その朝比奈さんは何らかの手段で一枚上に重なっているこの時空にアクセスしたものと思われます。察するに、通常ちょっとやそっとでは不可能なことなのではないでしょうか」
 だからあんなに脆い手段でしか現れることができなかったのか。
「さらに、これは僕の勘ですが」
 当てになるのか。
「さぁ、それはあなたが判断してください。……あなたが見ていた『夢』ですが、それはもしかすると上書き前の時空での光景なのかもしれません」
 点と点をそのままボールペンで結んじまっていいものか判断できないが、確かにそれでも納得できるな。
「でも内容を覚えてないぞ」
 俺が言うと古泉は肩をちょんとすくめ、
「事態を打開するヒントが隠れていそうなんですけどね」
 俺は目の間を押さえて何とか記憶の海から映像を引っ張り出そうとしたが、暗闇しか見えず、まさしく無為に終わった。
「しかし、そうなるとこの時間に駐留している朝比奈さんが気になってきますね」
 そうだ。今日は学校に来てないんだよな。
「電話してみよう」
 俺は携帯を取り出してメモリを参照する。


「……出ませんか?」
 古泉が尋ねる。俺は二度肯く。かけてみたはいいものの出る様子がない。ハルヒの時と違って、コール音そのものはしているんだが。 「まさか消えちまってたりしないよな」
 何せ大人版の彼女が明滅する様子を見てきたばかりだ。映画じゃあるまいし、とはもはや言い切れない。俺が朝比奈さんの家を長門や古泉に知っているか聞こうとすると、

 かちゃ。

 不意にドアが開いた。ゆっくりと。
「朝比奈さん!」
「っ、うううー」
 朝比奈さんは泣きはらした目で、立っているのもやっとというくらいによろよろとドアにもたれた。
「しっかり! 大丈夫ですか!」
 俺が一番近いところに座っていたのは、まぁ僥倖というか何というか。ともかく俺はよろめいて崩れ落ちそうになる先輩の頭を肩で受け止めた。
 そんな役目を仰せつかったところで、朝比奈さんがこれだけ泣き疲れて悄然としている姿は俺も心苦しいだけである。

「うっく、うぇっ、うぇぇぇえん」
 朝比奈さんは椅子に落ち着くと、第二の堰を切ったようにテーブルに伏して泣き出した。
「てぃ、うぇ、っく、TPD、TPDDがっ、うぇっ、ふぇ。な、なくなっちゃって……またっ……」
 かろうじて言葉になったのはそれだけで、後は面を伏せたままおいおい泣くばかりだった。
「長門、お茶を頼んでいいか」
 長門はこくんと肯いて、静かに椅子から立ち上がる。半ば現在のSOS団団長は古泉、お茶汲み係は長門になっている。よもやこんなことになろうとは、である。


 長い放課後だった。
 外の小雨は徐々に本降りになり始め、部室内にも一足先に梅雨前線が発生したようだった。梅雨の長雨。思わずそんな言葉を思い浮かべてしまう。
 TPDD。タイムプレーン……デストロイドデバイス、だったっけ。よく覚えてたな俺。確か時間移動する際に必要不可欠なコンピュータの一種だかなんだか。俺にとって初めてのタイムトラベルの時、そのTPDDがなくなったことで俺と朝比奈さんは一時的未来に帰れなくなり、当時待機状態だった長門の元で三年間の時間凍結を受けたのだった。
「……てことは」
 呟きが漏れた。
「朝比奈さん! もしかして時間跳躍できなくなったんですか!?」
 上体を乗り出す俺に、伏せたまま震える朝比奈さんはその小さな後頭部を縦に動かした。
 何てことだ。ハルヒのイライラも同時進行だったことを忘れかけていた。これでSOS団のうち俺と古泉と朝比奈さんの三人が普通の高校生でしかないわけだ。残るはハルヒとかろうじて通信以外が可能な長門。
 その長門は四人分の湯飲みを載せた盆を持って、それぞれの目前にことんと置いていくところだった。
 ゆらりと立ち昇る湯気を眺めつつ、俺は思う。

 この時空は、どこへ続いているのだろうか。

 未来なんてものはそもそも初めから分からない。
 何もかもまだ起きていないのだから未来なんであって、何か起きたらそれは瞬間過去になる。そんなことは今さら考えるまでもなく分かりきっている。じゃぁどうして俺はこんなに焦っているんだ?
 これまで確かな未来が存在しているかのように俺の前に現れてくれた大人版朝比奈さんが消えたからか?
「正しく選択されないと、困ったことになっちゃうかも」
 とは、冬の終わりの彼女の言葉である。それがこれか。確かに狼狽しまくっている。
 手も足も出ず、そもそも何が原因で誰が敵なのかも判然としない。因果がわやくちゃになってねじれ、結果本来の役割がずれてきている。
 現実を認め始めていたハルヒがふたたびそれを拒絶し、あいつが呼び集めた三人は最初に持っていた能力をほとんど失い、しかしハルヒの力は増幅して敵連中は傷一つ負っていない。

 やたら静かに感じるのは俺の胸中とこの部室内だけで、耳を澄ますと今も部活動や同好会に明け暮れるごく一般的な高校生活の一ページが現在形で進行していることがわかる。
 まるでこの部屋だけ異空間として切り離されたかのような感じだな。……異空間か。今こうしてる時間そのものが、やがて全部ブラックホールに飲み込まれるようなことになるかもしれない。
 何にしろ期限はそう遠くない。ハルヒからの連絡は一向にないし、未来人の協力は仰げそうにない。
 朝比奈さん(大)がちゃんとした形で現れることができないのは、この時空の先に彼女は存在しないからか? 暗い予想ばかりが頭をよぎる。

「そういえば、『彼女』は最後に何かを言おうとしていたんですよね?」
 出し抜けに古泉が言った。彼女……?
 見ると、古泉は俺と目を合わせてから朝比奈さんの背に視線を向けた。
 あぁ、さっきの話か。そんな回りくどい伝え方しなくとも、今の朝比奈さんはまともにものを考えられる状態じゃないと思うが。
 そう思って朝比奈さんに目を戻すと、泣き疲れたのか、赤い横顔をのぞかせて小さな寝息を立てていた。この様子だと昨日はほとんど寝ていないのかもしれない。
「あぁ。確かにな。『る』しか聞こえなかったが」
「他に手がかりはありませんか」
 そう言われても困る。
 これだけは話さずにおいたが、俺と液体ゼリー状態の朝比奈さん(大)は文字通り重なっていたわけだから、口の動きを読んだりすることもできなかった。
 携帯の電池が急に切れて通話不能になるほうが、まだヒントを得られたかもしれん。
 しかるに俺は首を振って否定。
「さすがに厳しいですね。それでは重要なことを言おうとしたのかすら分かりません」
 る、る、る。それが何か名詞を指してるのか、それとも動詞の終わりなのか。ヒントどころの問題ではない。というか、問題にすらならない。これじゃボーナスチャンスの倍率をいくら増やされても正解しようがない。
「みくる」
 古泉が言った。別に朝比奈さんを呼んだわけではないだろう。
「朝比奈さんは自分を呼ぶ時『わたし』って言うだろ。違うんじゃないか」
 古泉は嘆息するように肩をすくめ、
「ですが、これでは選択肢が無限にあることになってしまいます。それこそ宇宙が終わっても探りようがありませんよ」
 俺はつい長門に救いの手を求めるように白皙の無表情を窺ってしまうが、長門は俺が振り向く段ですでに首を水平に振っていた。ダメか。
 その時――、

「いやっほー!」

 部室のさめざめとした湿気をドアの開放と共に取っ払うかのように、見慣れた長い髪をなびかせて笑顔120%の先輩が入室した。
「鶴屋さん!?」
 つるや。あぁ、るが入ってるな。けどそんな安直じゃないだろう。
「んー? どしたい、何かみんな元気ないね。それに……ハルにゃんは?」
 首を九十度傾げて思案顔をする鶴屋さん。
「ハルヒはちょっと用事があって。今日はいないんですよ」
 鶴屋さんにこんなデマカセを言っても軽やかに見透かされることは重々承知だったが、だからと言って消息不明な上に世界を時間の経過と共に危機にさらしてますなどと言えるはずもない。
 鶴屋さんはふーんと部室を見渡しておそ松クンなポーズを取り、
「れれっ! みくるぅ、どしたんだい? こんなに目を真っ赤にしちゃって」
 クラスメートであり親友である朝比奈さんの髪を、そっと撫でた。
「うぅぅう……」
 朝比奈さんは眠ったままで表情をわずかに曇らせた。あまりいい夢を見ているわけではなさそうだ。
「ケンカ……じゃぁないよね。みんなみくるに優しいし」
 鶴屋さんはポンポンと朝比奈さんの肩に手をやった。ちょうど、母親が眠れぬ子をあやすように。
 朝比奈さんがここで疲れて眠っている理由を説明したら、それこそ就業時間になるくらいじゃ利かないほどの時を要する。
「鶴屋さんこそどうしたんですか。朝比奈さんに何か用でも?」
 話題をずらすのは心苦しいが、やむをえん。
「ん? あぁ、えっと。……キョンくん、ちょっといいかい?」
 鶴屋さんは朝比奈さんが終始気がかりのご様子だったが、用件を思い出すと先立ってドアの前に移動して俺に手招きする。何だろう、ここじゃできない話なのだろうか。


 廊下に出た鶴屋さんは、雨がまばらに打ちつける窓際に寄って周囲に誰もいないことを確認すると、
持っていた学生鞄の内ポケットから小粋な深紫に染まった和風の巾着を取り出した。
 見間違いなどではなく、その中からは光が漏れている。
「これ、うっとこのばーちゃんが倉の掃除してる時に気づいてさ。ほら見てよっ」
 鶴屋さんは巾着を開いて中を俺に向けた。細長く青白い光が、巾着の内側を照らしている。
「……こりゃ一体?」
「やだなぁ。忘れちゃったのかいっ? 二月に掘り起こした房右衛門じーさんのお宝だよっ」
 これがですか? ありゃ確か金属棒だったと思うんですが。
「あたしも驚いたよっ。ばーちゃんに言われて見た時にはもうこの状態だったからね」
 俺はまぶしいばかりの発光体を目をすがめて見た。何とはなしに指を伸ばすと、
「だめだめっ! 触ったらヤケドしちゃうよっ! これ、すっごい熱いのさ。ビックリするくらいね」
 確かに、手を近づけると空気が温まっている気がした。新型のカイロみたいだ。
「でもさ、こんだけの温度なのに布とか木とかが焦げたりしないんだよ。おったまげだね」
 快活な上級生はぺろっと舌先を出した。俺はそんな彼女に視線を戻して、
「これ、いつからこの状態なんですか?」
 示した指先が暖かい。この距離でこれなんだから、巾着持ってる鶴屋さんの手は強状態のストーブに手を近付けた時のようになってるんじゃないだろうか。
 と、思っていると、わちちちと言いながら鶴屋さんは巾着を一度しまって指に息を吹きかけた。
「ばーちゃんが見つけたのは四日前の朝だよっ。毎朝倉を見てるけど、光り出したのはその時が最初だってさ」
 四日前、つーと木曜日か。ずいぶん前に思えるが、それでも部長氏が倒れたあの日の翌日だ。確か夕方に森さんが尋ねてきた。脳内に日記でもつけてるのかと思えるほど仔細にその日の出来事を暗唱できるようになっちまったのは、これまでさんざん過去現在未来に渡る出来事に遭遇してきたからに他ならない。俺の無駄スキル筆頭である。
「なるたけ早くキョンくんにブツを見せたかったんだけどねー。おやっさんに一回見つかっちゃってさ。警備が手薄になるのを見計らってささっとね」
 唇の片端をくいっと持ち上げ、鶴屋さんは片目をつむって俺に笑いかけた。いや、俺にこれを見せるためだけにそこまでして下さるなんて、感謝の言葉もありません。ではなく、こんどお礼状を原稿用紙にでもしたためて――、
「ぷっ、あっはっはっはっは! やっぱキミも面白いなぁっ! それだけでも盗み出してきた甲斐があったってもんだよ!」
 鶴屋さんは腹を抱えてけたけた笑った。何だか俺まで楽しい気持ちになってくる。
 本当に頼もしい先輩だ。だがそれだけに、なるべく最後までこのお方には変な事件と無縁でいていただきたい。
「ところで、キョンくんさ」
「あ、はい。何でしょうか」
 鶴屋さんは半眼になってずいっと俺に顔を近づけ、
「あたしはほんとーにキミのこと信用してるのさ。だから、本当言うとみくるのあんな姿見てちょっぴし胸が痛むんだよ?」
 ぎくっとした。純然たる不意打ちってこともあり、突如心臓の鼓動がダブルアップしたようになる。
「もち、あたしもみくるのことは全力で守ってやるけどさ。……いざって時は頼りにしてるからね。あたしも、みくるもさ!」
 回した手でバシッと背中を叩かれた。意図的に強く叩いたらしく、俺は思わず胸元を押さえてしまう。
「すんません」
 むせそうになりながらこんなことしか言えない自分がほとほと情けない。
 しかし鶴屋さんはそんな俺の心中が見えているかのように、
「あ。そこで沈んじゃダメダメっ! はい、お姉さんのお説教はおしまいっ。そんじゃ、あたしはこれでお暇するにょろっ。みくるによろしく言っといてっ!」
 すっかりもとの南国の太陽顔負けの笑みに戻り、鶴屋さんは手を振って立ち去った。
 階段を下りるその背に、俺はどこか安心して言葉をかける。
「ありがとうございます」

 振り向いてドアに手をかけようとした時だった。

「……!?」
 何だ? 何かがおかしい。
 胸がぐるぐるとし、今立っている場所が足場から天井にまわっていくような、ねじれていくような感覚。腹のあたりを中心にして、ゆっくりと空間そのものがまわっていく。おかしな方向へ。
「くっ」
 俺は両足を精一杯突っ張ったが、大して意味がなかった。右足は天井に、左足は壁に向かう。
「何なんだ!」
 渦が渦を巻いて、視界が埋め尽くされる。灰色がかった壁や天井、雨が降ってコントラストの抑えられた窓の外。茶色い床。それらがもはや原形を見定められないくらいに細長く曲がり、ゆがんで、やがて景色が分からなくなる……



「……」
「キョン?」
 呼び声がした。ちゃんと重力の感覚がある。……ここはどこだ?
「どこって、有希の家よ。寝ぼけてんの?」
 長門の家?
「そ。それで今は四年前。そうよね?」
 俺は瞼を開けた。閉じていたことにようやく気がついた。
「四年、前?」
 俺は身を起こす。横になってたことにも気づかなかった。
「あんたが言ったんでしょ。ま、今さらウソだって言っても物的証拠は十分にあるけど」
 俺は目をこすって目の前にいる人物をもう一度確認した。
「……ハルヒ?」
「何よ」

 涼宮ハルヒ。

「ハルヒっ!」
「きゃあっ!」
 バタン。ドスン。勢い込んで飛び出した俺をさしものこいつも避けられず、半ば俺がハルヒを押し倒したような形になる。
「何すんのよこのドスケベ!!」
 ゴスッ。
「ぐぁっ!」
 殴られた。グーで。ありえんほどの衝撃が顔面から頭蓋骨全体に行き渡る。
「やっぱあんたはこうやって起こすのが合ってるわね! 普通に呼びかけたあたしがバカだった!」
 見上げると両手を腰に当てて制服の背中を向ける立ち姿があった。
 間違いなく、涼宮ハルヒがそこに立っていた。
 そこ。……ん? どこだよここは。

「だから、有希の家だって言ってるじゃないの!」
 振り向いたハルヒは眉を怒らせている。はて。俺はどうして長門の家なんかにいるんだ?
「あんた、今度こそあたしをからかってんの?」
 何を言う。俺は起き抜けにジョークを飛ばすほど頭の賑やかな人間じゃないぜ。
「それならさっさと出てきなさい。あたしは寝坊なんて許さないわ」
 それだけ言うとハルヒはぴしゃりと襖を閉めて出て行った。襖?
 俺はようやく辺りを見渡す余裕を得た。って言ってもそれ以外のゆとりはエンプティラインだが。
「ここは……」
 過去に二度ほど目覚めたことのある長門宅の和室で間違いなさそうだ。
 俺が寝ていたのは見覚えのある布団。後ろにある窓から逆光が射している。

「ん」
 着ているのは制服だった。そういやハルヒもそうだったな。ってことはどういうことだ。
 いや待て。あいつは何と言った? 四年前?

 ……。

「何ぃぃ!?」
 俺は飛び起きて布団を丸ごと二つ折りにし、すぐさま襖を開けてリビングに飛び出した。
「おいハルヒ! ここが四年前って本当――」

 か。
 最後の一文字を言いそびれたのは、目の前に広がっていた光景に驚いたからである。

「さ、とっとと顔洗ってらっしゃい。冷めるわよ」
 豪勢な朝食がテーブルに揃っていた。
 和食。輝かしいほどの白米、油揚げと豆腐の味噌汁。焼き魚は鮭か。それにほうれん草のおひたし。
茄子と大根のお新香。肉じゃがまである。
「こりゃ一体……」
 唖然とする俺にハルヒが一言。
「感謝しなさいよ。全部一人で作ったんだから」
 お前がか?
「そうよ。何か文句あんの」
 いや、文句は一文字もない。だが質問なら換算できないほどある。
「はい、さっさと洗面所行く! じゃないと朝食抜きよ」
 指差されるまま、俺は半ば呆けて廊下から洗面所へ向かう。頭を冷やす意味でも洗顔は確かに必要な行動と言えよう。ジャー、バシャバシャバシャ、キュッ。

 ……。
 さっぱり分からん。

「世界が五分前に出来上がったという可能性も――

 うるさい。お前は黙ってろ脳内古泉。
 だが冗談抜きに突然舞台設定が用意されたとしか思えない。こりゃ一体何なんだ?
 俺が鏡に映る自分の不可解顔と対峙するのもそこそこに食卓へ戻ると、ハルヒがすでに着席していた。ぱっと見渡す。本当に俺とハルヒ以外誰もいないみたいだった。どうなってんだこれは。
「どうしたのよ、今初めて有希の家に来たみたいな顔しちゃって」
 丁度後頭部にハルヒの言葉を受ける。ああ、ある意味初めて来たようなもんだ。
 四年前って話だったが、こんな状況は記憶にない。

 記憶に、ない?

 力が抜けるように椅子に座ると
「はい、いただきます」
 ハルヒの号令がかかった。いただきます。

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