○四章

「夢か」
 帰宅した俺はつぶやいた。
 ついそう表現しちまったが、もっと違う概念にも思える。
 肝心の内容をさっぱり覚えてないもんだからその形を決めようもないんだが。
 ハルヒは家に戻っただろうか。というか、そもそもどこにいたのかすら分からないのに戻るも何もない。あいつさえいればもう少しこの状態も改善するかもしれないのに。
「ハルヒ……」
 今や寝る前に今日あったことについて考えを整理するのが非日常時の日課になっている。思わず名前を呟いていたが、あいつが戻ってきたら俺は何と言ってやればいいんだろうか。
「心配するな」
 さんざん言ってきた言葉だ。魚屋のタイムサービス状態である。安っぽい語句をいくら並べたところで、誰の耳にも空々しく響くことなど分かりきっている。
「俺を信じろ」
 どこの三流俳優だ。それに俺に何ができる。古泉が超能力を失くし、長門や朝比奈さんまで異常を訴えだしている今、俺などミジンコ以下の存在だ。
 それに、ハルヒが今何かを必要としているのかどうかすら不明だ。むしろ拒んでいるから姿も見せず団員の属性を消したりしてるんじゃないのか。それならなおのこと誰かが何かしてやるという発想ではダメだ。でもまるっきりどこに行っちまったかも分からない奴を元に戻すなんて、どうすりゃいいんだよ。
「心配させやがって……」
 ちぐはぐな嘘に混じって、本音がこぼれ落ちた。



 さて翌日は休日で、早起きした俺はすでに着替えて出かける準備をし、靴紐を結んでいた。
「キョンくん、またハルにゃんたちとどっか行くんだー」
 妹である。毎度毎度、いくら気をつけていても防ぎきれない雨漏りやスキマ風のごとく出立前の俺の元に現れるのはもはや通過儀礼と言ってもいい。
「言っとくが、今日は連れて行けんぞ」
「ふーんだ。いいもんねー」
 妹は両手を頭の後ろで組むと、そのまま回れ右をして歩き去った。聞きわけがいいな。
「あたしだっていつまでもキョンくんばっかりに構ってあげないんだから」
 と捨て台詞を吐くとドアを閉めて見えなくなった。妹よ。何だその急な兄離れ発言は。
 いや、確かに小六なんだし、そろそろ「キョンくん」呼ばわりと共に大人へと続く階段への廊下を一歩踏み出すくらいはしてもいいのかもしれん。
 だがどこか心許ない気になるのはなぜだ。俺ってそんなにも妹依存度が高かったのか?

 などと三分ほど考えこんでしまったので首を振って即座にとは行かないまでもそこそこの威勢で玄関から晴天の下へと繰り出した。実に清々しい晩春の朝である。

 いつもの集合地点にはすでに俺以外のメンバーがそろい踏みで、しかし俺がしているのが重役出勤でもなければ純然たる遅刻でもないことはすでにして一年前から明らかであり、笑顔と怒りを同居させた団長が突きつける人差し指同様に見慣れた、そしてなにより心中安堵する光景なのである。
「遅い遅い遅いおそい! どんだけ待たせれば気が済むのよあんたは!」
「どんだけ待ったんだよ」
「五分よ五分! あたしが五分なんだから古泉くんほかの熱意ある団員達はもっとよ。反省文提出ね」
 テンション上がるのも分かるがそんな学内の風紀を乱した生徒を取り締まるお局教師みたいな罰則を課すのはやめてくれ。
「だって今日は奢りようもないでしょ。市内探索じゃないんだし」
 あとでジュースでも人数分買うから許せ。
「まあまあ、いいではないですか。痴話ゲンカの続きは車中でどうぞ」
 やんわりと仲裁に入ったのは古泉だった。
「あっはっはっはっは! ほんとにキミたちは仲がいいにょろ。見てて飽きないよーっ!」
 早速純度100%の笑みを浮かべて仁王立ちするのは名誉顧問の鶴屋さんである。
「鶴屋さん、余計なことは言わなくていいの! さ、みんな行きましょ!」
 いい感じにテンポをずらされたハルヒ先導の元で俺たちは一路バス乗り場を目指す。
「長門、何分待った?」
「八分四秒」
 双肩をキリマンジャロのように尖らせてずんずん行進するハルヒの背を眺めながら俺は傍らを歩く私服の読書少女に訊いた。長門はここしばらく制服で市内探索その他の休日行事に参加することが少なくなってきた。何か心境の変化があったのだろうか。俺はもちろん、そうやって長門が変わっていくことを好意的に受け止めている。

 さて、雑談もそこそこにやってきたのは数ヶ月ぶりの鶴屋家所有地たる小山である。
 桜舞う季節に花見することをハルヒはすっかり忘れていて、さらにその後のドタバタも含めて期間が空き、何だかんだで空気に湿気が混じりはじめるこの季節になるまで後回しにされてしまった。
 もはや花見でも何でもなく、今回は予定調和の穴掘りもないことから単純にピクニックなのだが、だからこそ俺は単純に浮かれていて、それは一年中が春そのものであるかのようにたおやかな笑みを浮かべてバスケットを両手持ちして登山する朝比奈さんも同様であるらしかった。
「今日は晴れてよかったですね」
 俺はそのまんま大きく肯いて、真冬の殺風景とはうって変わって鮮やかな緑色と咲き乱れる花々で彩られた山の景色を見渡した。
 山を登る面々の三分の二には決して一般的とは言えない特性があり、そんな人物達がひとところに集まっているおかげで普通の行事の多くが台本ぶち壊しのアドリブ進行になってしまったり、大宇宙の法則を軽やかに無視したシチュエーションコメディが起きてしまったりするのだが、今日くらいは何もなければいいと思う。というか何も起こさないでくれ。誰に頼んでるのかは分からんが。

 気温は高いが湿度は高すぎず、時折海から平地を渡って抜けてくる風が心地よく、山頂で無意味にプチ野球して小腹をすかせ、朝比奈さんから受け取る糖分やや増量のレモンティーでありがたく喉を潤し、長門vsハルヒの変化球キャッチボール大会に趣向がシフトし、鶴屋さんと朝比奈さんがけらけら話し込んでいるところで古泉が話しかけてきた。俺は五感とその他全ての身体及び神経感覚が快く青信号を点している状態だったので、半ば喜んで相手になってやる。
「あなたが涼宮さんに全てを打ち明けたと聞いた時はどうなることかと思いましたが、こうしてふたたび同じところにやって来れると、それでよかったという感慨を抱くと同時に、あなたにあらためてお礼を言いたいですね」
 古泉は片膝をついて遠くに広がる街並みを見ていた。写真を撮って「高校二年・初夏」とか題字をつけてアルバムにしまっときたいと俺がこいつの親なら思うかもしれん。
「他にどうしようもなかったからな。お前も朝比奈さんもいないんだぜ。長門はあんな状態だったし、未来がまるごとなくなっちまうよりは、全てを吐いちまったほうがいいと思ったのさ」

 実際、ハルヒはあれから現実を変容させるような真似をしていない。むしろ今のこの毎日を、さらに積極的に楽しんでいるように見える。
「涼宮さんの力は依然保たれたままですし、相変わらず夜半や夜明け前に例のアレが発生することもあります。ですが、僕はこの現状にとても満足しています。彼女が事実を知った後の展開としては理想的と言っても過言ではありません。涼宮さんはこの日常をいたく気に入っています。それは彼女の精神状態ももちろんですが、ああしている姿を見れば一目瞭然でしょう」
 古泉は視線をハルヒ長門間に転じ、俺も導かれる。
「行くわよ! ワールドスピリチュアルアラウンドシェイクボール!」
 ハルヒの放った大仰な名前のブレ球ストレートを、しかし長門はあっさりとキャッチ。そのミット
から煙が出ているように見えるのは気のせいだよな。
 まぁ俺も同感さ。これ以上を望みようもない。あとはあの宇宙人未来人超能力者のライバル連中と片がつけば、それで大団円に向かえる気すらしてくる。
「彼らがまだ何かしら攻勢をしかけてくることは間違いないでしょう。実際『機関』からもいくつか
そうした動きに関する情報が入っています。ですが本当に、彼らさえ穏やかになればあとは大丈夫だろうと僕も思いますよ。そうなれば、あとはあなたと涼宮さんの今後を見守るだけですから」
「なっ!」
 笑みの種類を識別……愉悦。こら古泉。そういう冗談を唐突に交えるのはお兄さん心情的にもどうかと思うけどなぁ。え?
「冗談に聞こえましたか? おかしいですね。僕は世界の危機に関する話をする時と同レベルの扱いで言ったつもりなんですが」
 まずい。こいつはすでに言葉のトラップを爆弾と共に巧妙に仕組んでいる。このままでは赤か青か選ぶ前に俺自身が自爆しかねない。
 俺がだんまりとキャッチボールとはもはや呼称しかねる豪速投球合戦観戦を決め込むと分かったからか、古泉は両手を後ろについて、同じく静観の構えを見せた。
「本当に、大満足です」
 そう独り言を言ったのが、風に乗って俺の耳まで届いた。



 休日をここまで悶々と過ごしたのは、SOS団結成以来初のことだったかもしれない。何度かハルヒに電話をかけたが、やはりつながらなかった。土日のどっちかに骨董品店巡りするとか言ってた気がしたが、中止の電話も集合日時指定の電話もかかってこなかった。
 朝食を食べながら、またしても俺は違和感のようなものを感じていて、山積み書類状態の問題と合わせて一足早く梅雨に突入したかのような脳内湿度とイライラ具合だった。気になるものが確かにそこに存在しているのに正体がつかめないことの不快感といったらない。夢を見た気がしないのに夢の残滓のようなものが五感の端々にこびりついている。いよいよもって俺の口癖が『やれやれ』から変わりつつある。

「何なんだ」

「どうしたの?」
 呟きを聴かれていたらしい。ふと見ると学校に至る坂道の途中、朝倉涼子が心配そうにこちらを窺っていた。
「あぁいや! 何でもないんだ」
 俺は慌てて両手を振った。これじゃ何でもなくないことがモロ分かりだが、朝倉が急に近くにいることには未だに慣れない。普通にしてる分にはなんとか平気になってきたんだがな。
「何か顔色悪いみたいだけど。大丈夫?」
 既聴感のあるセンテンスでかつてのクラス委員は言った。分かってる。こいつは本気で心配してるってな。
 二ヶ月前、ハルヒにノーマライズされて以降、朝倉は宇宙人属性を付帯していた時とわずかに性格も変わったようだった。率先してクラスを引っ張るリーダータイプではなく、華のあるクラスの……そうだな、朝比奈さんのポジションの才女バージョンといった感じだろうか。谷口なんかはフラれてから必死で意識から遠ざけようとしているみたいだが、たまに鼻の下伸ばして朝倉の席に目をやってる姿を見る。隠しきれてないっつの。
「あぁ、ちょっと寝不足なだけだ」
「そう。……無理しないでね」
 やばい。不覚にもほろっと来そうになってしまった。なぜだ。そんな事言ってくれる人物がいなかったからか? それともただ単に疲れてるからだろうか。
 朝倉と並んで坂道を登ってる間、俺は一時煩雑な現状に懊悩することから解放されていた。

 教室に入って自分の席に向かう朝倉の背を見つつ、これまでの一切を忘れてある地点から高校生をやり直すことについて考えた。
 長門の話だと、朝倉はそれまでの記憶と歴史を作られ与えられていること以外は普通の高校生とまったく変わらないらしい。それこそ、誰かが証拠と共にかつて宇宙人であったことを告げない限り、本人を初めとする周囲の人間みんなが気づかない。

 俺は入学当初の自分を振り返る。
 あの時の俺はどうだった?

 この世の物理法則と、万物を形作ってきた悠久なる歴史を信じて疑わず、でもそれらを覆すものの存在を切れ掛かった糸のような危うさでギリギリ信じていた俺。
 ハルヒがいて、長門に朝比奈さんに古泉からそんな妄想みたいな話の一部が実在していると明かされ、俺は認識をそれこそ宇宙の創生期からあらため直さなければならなかった。

 朝倉は、そんな不思議や謎を知る側から知らない側になった。
 あの世界改変の時を別にすれば、俺の知る限りで非日常から日常に回帰したただ一人の存在だ。しかも、そうされたことを本人は知らない。

 そして、古泉や朝比奈さん、長門も、記憶は残したままだが同じ道をたどろうとしている。
 このままいけばどうなるか?
 SOS団は普通の高校生が集まるサークルと化し、しかしその団長だけが自覚なしに不思議な力を有し続け、関心を抱く他の連中がちょっかいを出し続ける。
 デタラメな構図だ。もはや何が原因で何が目的か分からない。

 知らなければよかったか? 俺も同じように記憶を消去されて、普通の高校生としてここから先の人生を凡庸に送る。所詮不思議なんてのは絵空事でしかなく、宇宙人も未来人も超能力者も存在しなかった。
 そうじゃないはずだ。年末にエンターキーを押してから、俺はこっちのほうが断然面白いってことを知ってしまった。そして、そんな刺激に満ちた日常を取り戻すためならどんなハードルだって飛び越えてやると、あの春に思ったんだ。だんだん提示される問題のレベルが難化してきていて、実際今回も相当ピンチなんじゃないかと思う。
 が、まだあきらめるには早すぎる。必ずあるはずだ。朝比奈さんも古泉も長門も元の使命を取り戻し、かつハルヒが元通りの100Wスマイルで俺たちに命令を下す状態に戻す方法が。
 自分で自分を鼓舞するのもいい加減限度があるが、俺がへばっちまったら今のSOS団は空中分解しかねない。何せ団長は今日も来ていない。休みは先週一杯じゃなかったのかよ。


 と思っていたら、昼休み。

「キョン。ちょっと話があるから来てちょうだい」
 突如教室の後ろの入り口に現れたハルヒは、谷口国木田と弁当を囲んでいる俺を見るやいなや脇目も振らずにこちらへ歩み寄り、俺の胸倉をつかんで持ち上げると人を所有物扱いして引きずりだした。
 ちょっと待てよ! 何の説明もなしにどこ行く気だ。
「どこがいい? あんたとサシで話ができればどこだっていいわ」
 言葉面だけをさらえば含みがあるようにも取れるかもしれんが、マントル直下型火山のごとき語調にはそんな様子は微塵も感じ取れない。
「はい時間切れ。決定、部室」
 廊下を行軍するハルヒの表情は反対を向いていて見て取れなかった。さっぱり分からない。急に登場して何をする気だ?

 バタンと部室のドアを閉め、俺をいつもと反対の長テーブルの椅子に座らせると、普段俺が使ってるスペースにハルヒが座って向かい合った。
「なぁどうしたんだよ急に。連絡もつかないし。全員心配してたんだぞ」
「そんなのあたしだって同じよ!」
 ハルヒはしょっぱなからエンジンを五速に入れ、しかしエンストを起こすこともなくその勢いの全てを言葉に眼差しに込めて、真っすぐ俺にぶつけてきた。
「あたしね。もうこんな中途半端な状態は嫌なのよ!」
 ハルヒは席を立って窓際に歩き出す。歩くなんて穏やかな表現では似つかわしくない。床に穴を開けそうな程、一歩ごとに力がこもっている。
「白黒はっきりさせる。もしあんたがシラを切るようなことがあれば――」
 そこでハルヒは言葉を切った。何もない向かいの校舎の屋上付近を見上げている。
 あまりに長く先を言わずにいるので、俺はようやく二言目を口にする。
「あれば、何だよ」

「SOS団を解散するわ」

 俺とハルヒ以外に誰もいない文芸部部室。そこで、自分の立ち上げたSOS団を崩す可能性を、団長自ら示唆しやがった。
「ちょっと待て! どうしたんだよ突然」
「突然も何もないわよ。だって、今回もあんたはあたしを外に置こうとしてるじゃない」
「外に? 何のことだよ」
 ハルヒの発言は滅裂を極めていて、俺には何のことだかさっぱり分からない。
 ハルヒは俺に振り返って、怒らせたままの視線で睨みつける。口を固く結んでいる。
「キョン。あんたって何かまだ他に秘密があるんでしょ」
 ハルヒの強烈な視線は、怒りという感情以外にもいくつもの成分を持ってるようで、俺はただひたすら混乱する。秘密。そりゃハルヒに言っていないことならまだまだ山ほどある。だがそれはまだ言うべき時に来ていないと思うからであって――、
「それがもううんざりだって言うのよ!」
 ハルヒは机を叩いた。俺の想像もつかないほどこいつは怒っている。
「キョン。あたしはね。あんたとみくるちゃんと、あのよく分からない『違う場所』から帰ってきて、
その後ずっとあんたから話があるんじゃないかって思って待ってた。でも結局説明も何にもない。不思議が存在してるって漠然と告げられただけ」
 待ってただって? 自分から訊かずにか?
「あたしが問い詰めたって、あんたが言いたくならなきゃ言わないだろうって思った。これまでずっとそうだったんだから。でももう限界。何が何でもあんたから本当の話を聞いてやるわ」
 依然言っていることがとっちらかったままだ。まずい。これじゃ冗談抜きにまた世界が塗りかえられちまうかもしれん。しかしそんなことを考えてたのか……。
「あんたは鈍感すぎるのよ。それも分かってたけど。けど……」
 こんな状況で本当のことを話していいのか。ハルヒの情緒は見るからに不安定だ。事実を告げた瞬間にあたりが灰色一色なんてことになればそれこそ取り返しがつかない。くそ……どうする。
 俺の様子をどう捉えたのか、ハルヒはふたたび後ろを向いた。

「キョン。あんたは普通の人間じゃないんでしょ」

 声色に込められた感情以前に、その言葉は俺から一時的に思考力を奪った。
「あたしが考えた結論はそれよ。そう考えれば全部納得できるもの。不思議なことが起きていたのは全部あんたの力によるもので、そんなことを教えるわけにはいかないからかどわかすようなことしか言えないんでしょ」
「ハルヒ、待て! 落ち着け」
「何よ。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ! これまでさんざん言ってきたじゃない。あんたの悪いクセよ……」
 お前は逆にはっきり言いすぎなんだがな。
「なぁ。本当に俺はお前をのけ者にしてるわけじゃないんだ。信じてくれ。ただ、今はま
「またそれ! やっぱりそうなのね」
「違う! 頼むから落ち着いて話を聞いてくれ」
「何も話さない奴にそんなこと言われたくないわよっ!」
 ハルヒは俺に三歩で歩み寄って、また胸倉をつかんで引き寄せた。大きな瞳がこの上なく近くに見える。
「……バカっ」
 突き放されると同時、目視する間もなく左頬にぴしゃりと痛烈な感触が走った。

「……」
 絶句した俺は床に崩れ落ちる。目の前にいたはずの女は、既に入口から外へ消えようと――、

「ハルヒ!」

 俺の声は誰もいない部室に虚しく響き渡った。
 開け放たれたドアが、跳ね返ってわずかに動いていた。


 その日の午後、放課後を待たずにいくつもの動きがあった。
「小規模閉鎖空間が相当数同時発生しています。『機関』に新たな能力者も現れているようですが、とても対処しきれる数ではありません」
 廊下で話をする古泉に笑みはなかった。
「何があったんですか?」
 俺は呆然と窓の外を見つめ、まだ痛む左頬を押さえていた。
「ああ」
「大丈夫ですか?」
「ああ」
「しっかりしてください。あなたがちゃんとしないと、涼宮さんが――」
 ハルヒが何だというのだろう。あいつは俺の元を離れてどっかに行っちまったぜ。俺が「ちゃんとしない」ばかりにな。
「僕の力は相変わらず戻っていませんし、彼女の精神を感知することもできませんが、報告のあった発生件数は彼女がもっとも荒れていた時期のものに匹敵します。一体何があったのか、ちゃんと話して下さい」
 ちゃんとか。なぁ古泉。何をどうすれば俺は『ちゃんと』話ができるんだ? 俺じゃ役者不足か?力量が足りないか? ……教えてくれよ。

「あぁ、もう!」
 急に両肩をがっしとつかまれた。
 驚くほどしっかりと固定され、目の前には古泉の真摯な眼差しがある。


「あなた以外に誰が涼宮さんを救うんですか! ふぬけてないで前を見て下さい!」


 ドラマのワンシーンばりの熱意である。
 そうか、お前の意気込みは伝わったよ。だからこれからはお前が陣頭指揮を取ってくれ。
 益体なしの雑兵はここで退陣す――

 不意に肩の感触が解かれた。
 続いて別の手が俺の肘のあたりをつかむ。さっきよりずっと力は弱い。

「……!」

 誰だ? ちょっと待て。俺は今抱きつかれてるのか!? どうして? ここはどこでこいつは誰だ。
 俺はゆっくりと瞬きをした。
 正面には誰もいない。んなバカな。まだ腰の辺りに手が回されて……

「……長門?」

 視線を下げると、見慣れた髪の頭頂部が俺の胸に押し付けられていた。何をしてるんだこいつは。
 というか、俺はなぜこんなところにいるんだ。ここは廊下?

 長門はしばらくそのままだった。
 どのくらいか計りかねる時間が経ち、ゆっくり離れると朧な目で俺を見上げて、


「しっかり」


 とだけ言った。邪念の全くない澄み切った瞳に、不覚にも涙腺が緩みそうになる。

「……ごめんな」
 俺は奥歯を食いしばってこみ上げて来そうになるものをこらえた。
 さんざん分かってるけど、やっぱりだらしがねぇな。俺は。

 長門はゆっくりと後ずさる。
 心なしか、そのほのかな温もりが惜しく思える。

「古泉、すまない」
 傍らで腕組みをしていた友に俺は言った。
「取り乱した。……何があったか話す」
 古泉は黙ったまま肯いて俺と目線を交わし、
「部室に行きましょう。早退の届けは出してあります」
 その時だけ穏やかに笑い、ウインクを飛ばした。この場限りは気色悪いとも思わない。


 ここ数日、団長不在の部室。
 さっき開け放たれたドアは、誰も閉めなかったのだろう。そのまま寂しく開いていた。

「お茶を淹れる」
 長門がコンロに向かう。その姿を見つつ、
「朝比奈さんは?」
「今日は欠席なさっているようです」
 古泉の言葉がちくりと胸に刺さる。まさか一人きりなんじゃないよな。
「どうでしょうね……」
 古泉は珍しく言いよどんだ。いつもなら適当に茶を濁す言葉を付け加えるところなのに。

 俺は昼休みにここであったことを洗いざらい二人に話した。
 ハルヒは気持ちの整理もつかないまま俺にぶつかってきて、しかし俺はそんな状態のハルヒにすべてを打ち明けてやることができなかった。ハルヒは俺に平手打ちをかまし、呆然とするままの相手をよそにまたどこかへ行ってしまった。
「そうだったんですか。……そんなことが」
「古泉、すまん」
 俺は古泉にお辞儀して謝った。
「今閉鎖空間が発生してるんなら、それはひとえに俺の不甲斐なさのせいだ」
 長テーブルを目前にしていると、後頭部から声がかかる。
「顔を上げてください。僕はそんな言葉を求めてはいませんから」
 古泉を見ると、また柔和な笑みが戻っていた。
「不謹慎ですが、僕個人としてはこの場にいられることが嬉しいですよ。前回はあなたの相談役しかできずに、気づけばすべてが終わっていましたからね。当然、みなさんと共有すべき記憶もありません」
 こと、とテーブルに音。見ると長門が人数分のお茶を置いて席に座るところだった。今日は俺の向かいではなく隣に腰を下ろす。
 普段はどちらかと言うとりりしい長門の目は、今この時に至って柔らかくなっているように見えた。
 言葉こそ発さないが、こいつも内側では事の行く末が心配なのかもしれん。

「突然ってのもあったが、やっぱり俺にはすべてを話してやることはできなかった」
 外ではいつの間にか、梅雨の予告のような小雨がぱらつき出してていた。晴れ間は見えない。
「僕も、現在の涼宮さんに秘密を明かすことが賢明とは思えません」
 授業中の校舎は、雨が降り出したこともあって驚くほど静まっていた。俺や古泉の言葉は、ひとつひとつが木版画のようにそこだけ浮き上がって聞こえた。
「でも、これでハルヒはいつ現れるかわかんなくなっちまったし、何より閉鎖空間が……」
「そちらは僕らの仕事です。と言っても、僕自身は今援護に出向けませんが。代わりに、SOS団としてどうすべきかを考えましょう」
 古泉はそう言って腕組みをした。俺も同様に知恵を絞ろうとするが、原因がハルヒそのものなのにどうやって元に戻せっていうんだ? 今のあいつは、ある意味入学当初より厄介な状態にある。
 まして俺は、まっすぐぶつかって来たあいつに答えてやることができなかった……。

「情報の奔流がふたたび観測されている」
 空気が凝固するのを防ぐように言ったのは長門だった。俺と古泉は湯飲みを持つ女子団員の方を向いた。
「涼宮ハルヒの力は発現当初の強さにまで戻ろうとしている」
 ふり出しに戻ろうとしてるってのか。
 長門はこくんと肯く。……そんなことってあるか。本当に少しずつ落ち着いてきて、このまま行けばあいつも自分とそれを取巻く世界を認めようとしてたはずなのに。なのにどうしてこんなことになる。
「情報統合思念体は変化が生じたことを喜んでいる」
 そうだったな。お前の親玉はハルヒが自分の力に気づくことには反対しつつも、変化は望むっていう特殊なスタンスだもんな。
「でも」
 長門は付け加えるように言葉を切る。
「わたし個人はいいことだとは思えない」

 ことんと湯飲みを置く。その陶器のような横顔は、今はどこまでも落ちついている。今のは長門自身の意見に他ならない。俺は、長門も積極的に話し合いに参加してくれていることを嬉しく思う。

 俺は古泉に向き直り、
「なぁ古泉、やっぱりお前の機関のライバル連中が部長氏の一件を仕組んだんじゃないのか?」
 それかあのサインが関わっているかだが、長門の話ではサインそのものに効力はないらしい。
 古泉は組んでいた腕を解いて机に乗せ、
「確かに。涼宮さんの反応を見るために刺激を与えるということは十分に考えられます。学内に潜入していることも間違いないようですからね」
「奴らをここから追い出すことはできないのか」
 古泉は一度背もたれに身を預けて顎を引き、
「あなたもご存知の通り、僕、長門さん、朝比奈さんの属する勢力に敵対する者たちは、今の僕らと同様に事実上の共闘体制にあります。ですから、情報改竄も時空移動も可能なわけです。そのうえ、攻勢でいる彼らは狡猾に手段を選びます。となると、彼らすべてを見つけ出して退けるということは難しいのではないでしょうか」
 こっちの分身が相手みたいなものか。確かに向こうは汚い手口を使ってくるし、ハルヒのいるこっちは半ば防戦一方だ。ハルヒは、あいつは力をここに来て増してしまい、しかもかつてないくらいに不安定な精神状態。情報奔流と閉鎖空間の再発生。長門の言うとおり、このままじゃこの世界の未来は長くないどころか賞味期限間近かもしれん。
「僕から一つ提案があるのですが」
 古泉が言った。何だ? 思いつくことならとりあえず片っ端から言ってみてくれ。

「あなたが本当の気持ちを涼宮さんに話してみるというのはどうですか」
「……はい?」
 一瞬カメのように首を前に出す俺だった。どういう意味だ?
「おや、お気づきではありませんか。先に言っておきますと冗談ではありませんよ」
 いや、さっぱり分からん。さっきも言ったように、ハルヒにお前たちの隠し属性すべてを明かすのは危険だぜ。
 そう言うと古泉は煩わしそうに首を振って、
「ですからそうではありません。あなたの涼宮さんへの感情を正直にぶつけるのです」
「心配させやがって」
 俺は即答した。古泉は半ば半目となって、
「……ぶしつけですね。以前に比べると進歩したと言えなくもありませんが」
 意味が分からない。俺の知らない国の言葉でしゃべってるんなら長門に通訳頼むが。
「……もういいです。僕が間違っていました。他の方向で話を進めましょう」
 横を向くと長門が横目を俺に向けていた。今、何か言いたそうにしなかったか? お前。

「そうだ。あなたが週末に言っていた『夢』というのはどうです。その後何か進展がありましたか?」
 古泉は指をぱちんと鳴らして効果音をつけた。すっかり忘れていた。確かにそんなことを言ったな。
「この土日の間にも何か妙な感じはしたんだが、それがその『夢』に当たるのかも、そもそも夢と言っていいもんなのかも分からん」
「それでは、確かにまた似たような症状に陥ったのですね?」
 症状と言われると病気みたいだな。だがまぁそうだ。相変わらず内容がさっぱり思い出せんが。
「もう一つ質問です。最近見始めたそれとは別に、あなたは普段夢を見る時、翌日どの程度内容を覚えていますか?」
 そう言われてもな。種類によるし気分にもよるが、ぼんやりと思い出せるくらいには。
「なるほど」
 何か分かったのか。
 古泉はまた腕を組んで思案しつつ、
「直接関係があるかは分かりませんが、少なからず一連の流れに関わっているのではないかと思います。
……コンピュータ研のパソコンに現れたサインが見えたことだけは分かっているんですよね?」
 ああ。それだってもうどんな状況の『夢』だったか分からんがな。
「とはいえタイミングがあまりに作為的です。何かしらの原因があるはずですよ、それにもね」
 ひょっとして俺も予知夢か何かの超能力に目覚めようとしているのか。
 古泉はにこりと首を傾げ、
「さてね。もしそうでしたら、『機関』からお迎えがあるかもしれませんが」
 それはやんわりと辞退したいところだな。たまに関わるならまだしも、内部の人間として任務遂行するってのはいくら俺が海外長編ドラマに憧れることがあっても遠慮したい。
「残念ですね。あなたと共に涼宮さんにまつわる任務を行うのもなかなか面白そうだと思ったのですが」

 カタン。

「ん?」
 俺は音のした方を見た。
 すると、長門が空になった湯飲みをテーブルの上に落としたところだった。
「どうした長門」
「生徒会室」
「え?」
「行って」
 わけも分からずただ呆然とする俺に長門は視線を向けて、
「生徒会室に行って」
 とだけ言った。妙に鋭く耳に響く。
「俺がか?」
 俺は自分を指差した。
「そう」
 長門は肯く。
「今から?」
「そう」
 何でまた。
「行けば分かる」

 訊きたいことはまだあったが、長門の目が俺を追い立てているように見えたので、やむなく俺は会談を中座し、同じく理由を考えている様子の古泉を一瞥しつつ部室を出る。
「さて。何でまた生徒会室に?」
 頭上に浮かんだハテナマークは、長門の言う通り室内に入ってすぐに判明することとなる。


 コンコン。
 職員室なら何度か来たが、生徒会室は一年の時以来ごぶさただ。あの眼鏡の仮面生徒会長は元気にしてるだろうか。
「ん」
 ノックを続けるが返答はない。携帯の時計を見ると、まだギリギリ授業時間だった。
「誰もいないのか?」
 静まり返った廊下に一人突っ立っていた俺は、使い古されたドアのノブをひねった。
 キィィ。
 微かな高い音を立ててドアが開く。

 南向きの窓にはカーテンがかかっていて光は抑えられていたものの、温度は高かった。
 整然と並んだテーブルとパイプ椅子を見渡し、誰もいないのかと思って振り返りかけた時、
「…………く……」

 何かが聞こえた。人の声か、機械音声のような高い音。振り返る。
「キョ…………ん」
 俺は目を見開いて、同時に目を凝らした。瞬きを繰り返して確認する。

「朝比奈さん!?」

 朝比奈さんだった。大人の。実に二ヶ月ぶりであるが、そんな久々の再開を喜んでいられるような余裕がないらしいことはすぐに理解できた。
「キョン……ん」

 そう言う彼女の身体は、半透明に透けていた。

 いや、それじゃ不正確だな。朝比奈さん(大)のグラマラスな夏服姿は、普通と変わらぬ実体を持っているかと思えば、また色が薄くなっていき、ほとんど見えなくなりそうになる。
 最初、俺は自分の目のほうを疑った。カーテンから漏れる光で輪郭が捉えづらくなっているのではないかと思った。
 しかしそうではない。いくら目を凝らしても、朝比奈さん(大)は不定期に明滅を繰り返している。点滅信号。いや、違う。もっと端的でイメージしやすい例えを持ち出すなら、

「幽霊?」
「……え」
 朝比奈さんの姿が首を横に振った。俺の声が聞こえるんですか?
 その問いに朝比奈さんは二度肯く。まるで、声じゃ伝えにくいから身振りを使っているようである。
「どうしたんですか、何で透けてるんです?」
 歩み寄る俺に朝比奈さんは口を動かす。
「……来が……かかってい……」
「えっ?」
 俺は教師姿の朝比奈さんとあと一歩のところまで近寄る。
「もっと……寄っ……」
 さっきより声が聞こえる。どうも相当小さな音量らしい。
 何の物音もしない部屋なのに、一体こりゃどういうことだ。
「し、失礼します」
 俺は慇懃にお辞儀をして、半透明の朝比奈さんに触れるかどうかのところまで近付いた。
「重なっ……」
 朝比奈さんは手を差し出して、俺の胸に触れた。

「!」

 朝比奈さんの手は、俺の身体を突き抜けた。

 しかし、何も感触がないわけではなかった。
 ぬるま湯につかるような、しかし感触はそれよりもう少し固体っぽいというか、溶けかかったゼリーみたいな感じだ。
「こりゃ一体……」
 俺が唖然とする間に、朝比奈さん(大)は歩みを進めて俺に重なった。
「あの、ちょっとまだ心の準備が! そのっ!」
 仰天する俺に、しかし朝比奈さんはばっちりとその身を合わせた。
 不思議なことに、俺の体内にはぬるい感じはせず、外側、つまり皮膚にだけ感触があるようだった。
顔を少し前に出すことで息ができる。

「聞こえる?」
 おお。何ということであろうか。朝比奈さんの色っぽい声がダイレクトに耳に伝わってくる、骨伝導じゃなければこりゃ何だろうな。皮膚伝導か?
「聞こえますよ、バッチリです!」
 半ばはしゃぎ気味に俺は言った。蒸し暑さと無関係の等身大ぬるま湯コンニャクは、さしずめ立ったまま温度の低い温泉に入っているような気分になる。
「よかった……。でも、この状態もあまり長くは持たないと思うわ」
 朝比奈さんの口調は終始シリアスだった。こんなに緊張感の色が濃く出ていることなどあっただろうか。あぁ、二回目の四年前の七夕で長門の家に一緒に行った時、こんな雰囲気だったかもしれない。
「一体どうしたんですか? 何がどうなってるんです?」
 いい加減質問ばかりで申し訳ない気持ちになるが、クサクサするのはもう終わりでいい。

「未来が消えかかっています」

 あまりにクリアに聞こえるものだからそのまま俺は首をうっかり後ろに引いてしまい、息が詰まって危うくむせかけた。

「未来が消えかかってる?」
 詰まった喉を何とか整えて、俺はまた顔を前に突き出した。深呼吸、と。
「えぇ。だからこんなはっきりしない形でしか来ることができませんでした」
 いつかの古泉もそんなことを言ってたな。あの時とはまるで状態が違うが、何かしらの危機に瀕してることだけは間違いなさそうだ。
「そういや、『分岐点』とやらはどうなったんですか? いつかまた話してくれるってことでしたが」
 俺は思いついた疑問を片端から言ってみた。朝比奈さんの表情を見ることはできなかったが、

「ここはもう、わたしの知っているこの時代とは違います」

 重要事項を緊迫した声のまま言った。迷うような様子は見られない。告げることを既に決めていたようにも感じる。
 俺ははっとして切り返した。
「知ってる時代と……違う?」
「はい」
 一瞬俺の頭が湯から出て、朝比奈さんの頭が動くのが分かった。たぶん肯いたんだろう。
「おそらく、分岐時期だったあの時に彼らが『介入』を成功させたんだと思います」
「介入、ですか?」
「キョンくん。前にわたしが話したこと、覚えてる?」
 朝比奈さんは余裕を見せる様子もなく続ける。俺は肯きかけて、その瞬間普段は絶対に見ることができないような角度から彼女の胸元を覗いてしまい、すぐさま目を九十度上方へ向ける。
「えっと。前に話したこと、って言いますと?」
「過去は未来からの干渉を常に受け続けている――」
「あ、はい。覚えてますよ」
 俺は極力視線を動かさないようにして、彼女の発言だけに集中するよう心がける。こりゃ五感その他のあらゆる神経系に多大な影響を及ぼしかねない。心なしかぬるま湯がほどよい湯加減になっちまった気がするが、それは朝比奈さんでなく俺の心拍数が上昇したせいだろう。
「大抵は同じ未来につながるようになっている。ここまでは話したはずです」
「はい」
 視線が重なっているため、返事は極力声を使う必要がある。というかこりゃマジに通常の思考を保つのが難しい。
 俺の精神状態をよそに朝比奈さんは話を続ける。
「あの『分岐点』は、それが大きく逸れて別の未来に向かってしまうかもしれない時期だったんです」
 俺は朝比奈さんの話を聞きながら、この二ヶ月近く自分でまとめた考えを思い返していた。
「キョンくん、もう一つ思い出してほしいの。わたしがあなたに正体を明かしたとき、不完全だけど時間平面の概念について説明しようとしたでしょう?」
「あっ、はい」

 一年以上前だ。あの川原のベンチで、ただの可愛らしい萌えキャラ上級生だと思っていた朝比奈さんは自分が未来人であることを明かし、パラパラマンガの比喩を使って俺に時間の流れについて説明しようとした。朝比奈さんが着ていた服から、指を立てて「禁則事項です」と慣れないウィンクする彼女までが昨日のことのように思い出せる。

「時間と時間の間には繋がりがない。あの時のわたしはそう言ったはずだわ」
 朝比奈さんは腕を動かした。組み替えたのだろうか。身体に温かい波が走り抜ける。
 そうだ。あの時の俺にはさっぱり分からなかった説明。時間と時間の間に繋がりがないのなら、俺がこれまでしてきたことには何の意味があったのか。

「正確には『繋がりをなくしても影響がない』という意味なんです」

 朝比奈さんは静かに言った。
「考えてみて。ある時間平面、仮にAとします。そのAから延びた未来、仮にBとしますね。BからAに時間遡行して、Bが発生しないように過去――Aで起きたことをを変えてしまったら、どうなると思う?」

 俺は実例に置き換えて考えてみることにした。
 仮の話だが、今年の初めに救ったハカセくん。彼のおかげでタイムトラベルが可能になったとして、未来人がこの時代に来て彼が大人にならないように過去を変えたとする。

 そうするとどうなるか?
 タイムマシンが生まれる未来は存在しなくなり、当然未来人もハカセくんを殺しに来なくなる。しかしそれだとタイムマシンは生まれてしまい……ダメだ、わからない。

「それでも未来Bから来ている人間は現在Aに存在することができる」
 朝比奈さんは言う。
「ただし、変わってしまった瞬間にその場にいなければなりません。だから、過去のわたしはキョンくんの傍にいるけれど、今のわたしはこんな形でしか存在できない」
 分かるような、分からないような。

「時間は、常に上書きされ続ける可能性があるんです」

 朝比奈さんは続ける。俺は自分の考えていた仮説を脳内書庫から引っ張り出して答え合わせの準備をする。
「この時間から見て去年。夏休みの終わりに、涼宮さんの力で時間が切り取られたことがあったでしょう?」
 俺は肯定の返事をする。
「あの時が分かりやすいわ。同じ時間を繰り返して、けれど繰り返すことで起こることはわずかに違っていたでしょう?」

 俺は長門の話でしか知らないが、確かにそうらしい。
 あの宿題片付けをしたのは俺の記憶にある最後の一回だけだったみたいだからな。
「二週間限定で、STC……いいえ、時間の上書きが繰り返されていたんです」
 クリアに響き続ける朝比奈さんの声を受けて、俺は尋ねる。
「上書きすると、どういうことが起こるんですか?」
「そこから先の時間が変化します。あの時は上書きしないと未来そのものが存在しなかったけれど、通常は未来自体が変化します。そこから先の時間全てが上書きされるんです」

 その言葉に、俺は風呂に浸かったような状態にもかかわらず鳥肌が立つのを感じた。
 自分の考えていたことがおおむね正解だったらしいことよりも、まるっきり別の時間が出来上がってしまうってところに恐怖があった。
 朝比奈さんは話を続ける。
「けれど、普通は誤差の範囲で済みます。川に小石を投げても、川の流れが止まったりはしないでしょう?」
 確かにそうだな。丸ごと流れを変えるにはそれこそ超自然的な力がいるだろう。
「未来から起こすことのできる『干渉』は、そのくらいのことしかできないんです。わたしたちが直接過去に手出しできないことも、あなたは知っていますね」
 だから二月の八日間、俺は意味不明にも思えるお使いRPGを行い、しかし朝比奈さんが直接何かをすることはなかった。何らかのタブーがそこにあると思われる。そういえばあの時の金属棒はまだ鶴屋さんちの倉にあるんだよな。
「でも、あの分岐点で行われた『介入』だけは違うんです。すでに、わたしの知っている未来は上書きされつつあります」
 朝比奈さんの声色に変化は見られなかったが、それってとんでもないことじゃないのか。それじゃ上書きされた方の時間はどうなるんだ。

「それ……」
 ここで急にふっと音声が切れた。ノイズが入る感じではなく、ふっと無音になる。
「朝比奈さん?」
 身体全体に感じるお湯のような感覚が薄くなる。
「最後にひとつ……け」
 朝比奈さんの声が空気にジャミングされたかのように聞こえなくなる。
「……る……」
「朝比奈さん!!」
 俺が動くと同時。固体めいた感覚は、湿気た風に変わった。

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