○三章

 俺はどういうことか分からず、しばらくただ固まっていた。時が止まっているのだと言われても納得してしまえたかもしれない。

 能力が、消えた?

「ええ。僕が『涼宮さんの精神に異常が見られない』と言ったのは、そもそも彼女の心の状態を感知する力がなくなってしまったからです」
 古泉は片手の平を差し出して言った。他人事のように言うが、お前、それって……。
「申し訳ないですが、半分ほどウソをついていたことになります」
 平然と言うが、こいつが明確にそんなことを告白するのは初めてだ。
「話は二ヶ月前。一連の出来事が終わったらしい時に遡ります」
 古泉は人差し指を立てて、
「あの時。僕は気がつくと夕方の自宅にいて、確認すると世界の日付が思っていたものよりわずかに進行していました。『神人』のいない閉鎖空間であなたに聞いたとおりね」
 古泉は渡り廊下を歩いて行く生徒を眺めつつ、
「自分が立っている場所に気づくのとほとんど同時でしたね。何せ四年間も、それこそ呼吸同然の感覚で僕に同化していた力が、ふっとなくなっているんですから」
 相変わらず古泉は笑みを崩さないが、その向こうで何を思っているのか、今の俺には把握しかねた。
「機関からの連絡が履歴に残っていたので、僕はとりあえず本人確認に向かいました。ですが、能力がなくなったことについてはその場で言ったりしませんでした。なぜなのか、自分でも分かりません。
直接質問されたわけではないのですが、本来明かすべき事実を隠したのはそれが初めてです」
「ちょっと待て」
 俺は片手で静止の姿勢を取って、
「そんなのすぐにバレるんじゃないのか? お前はこう言ってなかったか。『自分と同じ能力を持った人間が同時に目覚めたことが分かった』とか何とか。だったら他にいる超能力者づたいに事実を伝えられちまうんじゃないのか?」
 浮かんだ疑問に、しかし古泉は首をゆるやかに横に振る。
「いいえ。僕らが感知できるのは『同じ力を持った人間が存在している』ということまでです。つまり、それらの人がどこにどれだけいて、どういう人物かまでは分かりません。四年前、機関からの迎えがあって顔合わせをして初めて同士の人数や人相風体、年齢性別や名前を知ったんです」
 古泉は正午過ぎの太陽を仰ぎ見てまたこちらを向き、
「そのうちの誰かが能力を失ったところで、まだ他にも能力者はいるわけですから。『古泉一樹が突如能力を消失した』という事実は、本人以外には分からないのです」
 その説明を俺はぽかんと口を開けて聞いていた。何てことだ。それじゃつまり、秘密にしていれば力を失っても気付かれないってことか?
 古泉はゆっくりと首肯、
「そうなります」

 よく晴れた六月の昼下がりだった。
 校舎内には活気づいた気配が満ちていた。一見どこにでもある県立高校の風景だが、その中には確実に通常ならざる属性を持った生徒たちが紛れ込んでいる。
 その中で、笑顔の二年生男子が、普通の人間に戻ってしまったことを静かに告白した。


 間もなく、俺の頭にしかるべき疑問がわいてくる。
「どうして隠したままにしてたんだ。咄嗟に秘密にしちまったのはまだしも、結局話さないとお前自身も困ることになるだろ」
 何せ世界の危機にダイレクトで関わっているのである。「分かっている以上、何とかしようと思うのが自然ですよ」とは、他ならぬ古泉自身の発言だ。異能の力が無くなっちまったのなら、さっさとそれを機関に打ち明けて、通常の生活に復帰するなり何なりすればいいんじゃないのか。
 古泉はまたどこか遠くを見るような表情になり、冷めかけたコーヒーをすすった。これまでになく複雑難解な眼差しだった。
「普通の生活……ですか」
 その口調に、俺は胸をつかまれた気分になった。さっきまで古泉が何を言っていたのかを思い出す。
 そうだ。古泉がなぜ北高に転入してきたのかを考えてみればいい。
 超能力に目覚めたことで『機関』に入り、ハルヒのストレスが生み出すいまいましい灰色のドームと、青白くバカみたいに巨大な怪人を相手に戦ってきた古泉は、やがて高校生になってハルヒの監視をすべくこの学校にやって来た。
 では、そのそもそもの因果たる超能力が消えてしまえばどうだ?
 古泉は対『神人』要員ではなくなり、ひょっとしたら機関の人間ではなくなることすらあり得るか
もしれない。そうすれば今のまま北高にいることは困難になるかもしれず、必然的にSOS団の副団長でもいられなくなる。

「……そういうことかよ」
 俺はようやくすべてを納得したと思えた。古泉。お前も決して感情を隠して笑みを貼り付けてるだけの人間じゃなかったんだな。
「バカ野郎。何でもっと早く言わないんだ」
 古泉を見ると、そこにはもはや笑顔はなかった。ひた隠しにしてきた本心の一端。本来出すことのなかった、そんな予定もなかっただろう本当の心が、断片的にではあるが表れていた。何かこらえているような、しかし抑えることに全力を傾けているような。
「すみませんね。本当はあなたでなく……機関にいち早く報告すべきだったんですが」
 古泉はいつもの淡々とした口調ではなく、抑揚の乱れた声で言った。
「そういう時こそ俺たちを頼れよ。副団長だからってヒラ団員に弱みを見せちゃいけない、なんて決まりはないんだからさ」

 そう思う。古泉はこれまで誰よりも上手に自分の感情をコントロールしてきた。果たしてそんなものが存在するのかすら疑ってしまうくらいにな。
 だが確かにあったのだ。一年以上ひた隠しにして、ようやくこぼした本音のかけら。

「僕はどうも、SOS団に個人的愛着を抱きすぎてしまったようです。自分の通常ならざる力がなくなったことを、何度も報告しなくてはならないと思い、その都度この日常が崩れることを怖れて。結局あなたに問われるまで何も言うことができなかった……」
 古泉は自責の念をあらわにしていた。
 SOS団の団員のうち、俺とハルヒを除く三名には隠されたプロフィールがある。
 長門と朝比奈さんの二人についてはその立場によって迷ったり、苦しんだりしている場面を俺はすでに何度か見てきた。
 その中で、古泉だけがあまりに淡々としていて、それゆえに俺は特別注意を払ってこなかった。
 が、こいつも陰で悩むことがあったのかもしれない。
 少なくとも力に目覚めた直後はひどい精神状態だったらしいことを初めのほうに仄めかしていた。

「本当なら、僕はもうここにいてはいけないはずなんです。『機関』に所属している理由のほぼ全 てを失うことになりますから」
「ハルヒが認めないさ。そんなのはな」
 俺はようやくコーヒーに口をつけたが、冷め切ってしまっている。
「その、涼宮さんですが」
 古泉は穏やかならざる声で続ける。一度崩れると脆いのか、今やこれまでに見せてきた微笑みはどこにも見られなかった。
「僕の力がなくなったのはどうしてだと思いますか」
 古泉はテーブルの端を見つめたまま言った。そう言われればそうだ。まさか、お前の超能力には賞味期限がついてるのか?
 すると古泉は小刻みに首を振り、
「いいえ。おそらく、涼宮さんが僕たち能力者を目覚めさせてからこれまで、力を失ったのは僕が初めてでしょう」
「そりゃ本当かよ」
 古泉は肯き、 
「確かに、涼宮さんはこの春まで自身の力を弱めてきていました。その時まで、閉鎖空間の現出回数が減っていたことは紛れもない真実です」
 伏目がちになった古泉は、一呼吸置いて、
「ですが、四月の一件以降、また元の状態に戻りつつある。『機関』からの呼出し命令の頻度から換算しても、彼女の精神状態がまた荒れ始めていることは疑いようがないでしょう」
 それじゃなおのことお前のような能力者が必要になるんじゃないのか。ニキビ治療薬とか自分で言ってたよな。
 古泉は何とか平静を取り戻そうとするように舌を回す。
「ええ。むしろ能力者の数が増えてもおかしくない状態です。もしかしたら実際そうなっているのかもしれません」
 それじゃどうしてお前だけその変身能力を失うようなことになるんだよ。マジックポイントが切れたのか。
 俺の冗談に古泉は目だけで力なく笑い、
「それならいっそよかったんですけどね。一晩眠ればまた回復するわけですから、明快で助かります」

 俺は集中するあまり時間の流れを忘れていた事に気がつく。そういやまだ昼飯食べてないな。
 だがまあ、俺のヒットポイント回復は後回しでいい。
「別に理由があるんだな」
 古泉は首肯の仕草。

「僕は涼宮さんが望んだのではないかと思っています」
「ハルヒが?」
「僕だけが能力を失っているというのが鍵です」
 俺の反射的切り替えしに、古泉はいつもより温度感のないような微笑を作ってまた肯く。
 ハルヒが古泉の力を消すような真似をする理由がどこにあるというのだろうか。
「彼女が今何を望んでいるかを考えていけば、さほど難しい問題ではありません」
 古泉の説明に、俺は最近のハルヒの態度を思い返す。
 部長氏の失神に始まって、また何か不穏な動きが周囲で起こり始めている。
 あいつは一時的にSOS団の放課後に顔を出すことを拒否までして――、

「まさか」
 そうなのか? それじゃ最初とまるで反対の現象が起きていることになるぞ。
 心を読んだかのように、俺が口に出す前から古泉は目で同意する。真剣さとわずかな憂いが同居するような顔色。
「その通りですよ。涼宮さんは、我々から非日常に該当する属性を消去しようとしているのです」
「……何てことだ」
 だからあんなにイライラしてるってのか?
 だが、それなら辻褄が合う。
 あいつはSOS団での活動を続けることと、そうすることで起こってしまう不可解な現象との狭間で揺れている。生気が失せたように横たわる部長氏を見てからのハルヒの言動を見れば瞭然としている。
「僕にはもう彼女の精神状態を直接知る術はありません。ですが彼女の精神専門家としてこれまでの傾向をたどって行けば、そのような結論が導き出されます」
 にわかに信じがたいような行動だ。自ら捜し求めていたはずのものを、今度は片端から消していくのだから。これほど矛盾した行為が他にあるだろうか。
「涼宮さんはこれまでも相反する感情をぶつかり合わせてきました。そして今回も。この二ヶ月近く、表面的には実に平穏な日々が送られてきましたからね。突然の出来事にショックを受けたのだと推察できます」

 説明を続ける古泉は、わずかだがいつもの調子を取り戻したように見えた。しかし、だとするとこのままじゃまずいんじゃないのか。
 俺が漏らした声に古泉は同意する。
「まさに。部長氏の気絶する姿を見たことが引き金になったのなら。僕の力がなくなることだけで終わるとも思えません。涼宮さんに近いところにいる人物ほど、早い段階で特殊な性質を失う可能性があります」
 俺は背筋に嫌な感じの寒気が走りぬけるのを感じた。何てことだ。ハルヒの力が増幅されて、けれど反対に近くにいる特殊な人間は一般人化されちまうってのか。
 古泉はゆるやかに肯いて、
「あなたのクラスに、すでに通常化を受けた人物がいるでしょう」
 突き刺さるような古泉の言葉に思い当たる。
「朝倉……!」
「情報統合思念体急進派。独立して結果消滅してしまった彼らのTFEIだった彼女も、今は何の変哲もない一女子高校生です」

 急激に蘇る二ヶ月前の光景。灰色一色になった部室棟三階の廊下。笑みと共に長門に瀕死の重傷を負わせた朝倉。その後に炸裂したハルヒの平手。
「それと同じ現象が起こり始めています。順当に行けば、次は長門さんか朝比奈さんのいずれかが対象になるでしょう」
「何てことだ」
 ……どうすりゃいい?

 昼休み終了を知らせる予鈴が鳴る間、屋外テーブルの椅子に座った俺は呆然と空を仰いだ。


 まるで俺と古泉の会話に反応したかのように、午後の授業にハルヒの姿はなかった。授業までサボるつもりか、あいつは。

 やがて放課後になるが、どうすべきか俺は迷っていた。
 ハルヒに電話をかけても当たり前のように繋がらない。いまだにあいつの家を知らないことにあらためて後悔の念が押し寄せる。古泉たちなら知っているだろうか?
 などとHRが終わった教室で座ったまま考えていると、長門が俺の傍まで歩いてきた。

「統合思念体との通信が全て遮断されている」

 昨日、こいつはたまに通信障害が起きることがあると言っていた。
 今にして思う。これもおそらくはハルヒが長門を普通の人間に変えてしまおうとしていることの一環なのだ、と。
「長門。お前個人の力はどうなんだ。あの雪山の時みたいに、うまく行かないことが他にもあったりしないか?」
 心なしか弱っているように見える眼差しで長門はまっすぐ俺を見て、
「今のところは問題ない」
 今のところは、か。
 どうやら思いのほか急速にノーマライズが進行していることは間違いなさそうである。
「長門。ハルヒが今いる場所とか分からないか」
 俺が尋ねると、長門は地面と平行に首を振って、
「不明。わたしの持ちうる識別能力をどのように駆使しても探知できない」
 くそ。やっぱりか。
「とりあえず部室に行こう」
 俺と長門は連れ立って渡り廊下への道を歩き出す。こうなると朝比奈さんも心配だ。考えたくはないがすでに何らかのトラブルを抱えているかもしれない。

 部室にはすでに古泉と朝比奈さんが揃っていた。が、朝比奈さんは制服姿のまま長テーブルに突っ伏していた。
「何があったんだ」
 半分予測できている気がしたが、俺は朝比奈さんではなく古泉に尋ねる。古泉は微笑を作らずに、
「彼女の未来と連絡が取れなくなったそうです」
 俺は思った通りだったことに閉口しつつ、面を上げない愛しの先輩を見た。必死に押し殺しているが、微かにすすり泣くような嗚咽が漏れ聞こえる。
 去年の夏にもこんなことがあったな。あの時も古泉づたいで話を聞いたんだった。延々ループする夏の中で、未来は一時的にその存在をなくしてしまい、ゆえに朝比奈さんは元の時代に帰れないと涙を流してブルー色だったのを思い出す。
「事態は驚くほど早く進行しているようです」
 緊張感に満ちた副団長の言葉に、俺は神妙に肯く。これは俺自身の推測だが、部長氏のあの一件がなければこれほど早く全員の特性が失われようとはしなかったんじゃないだろうか。
「古泉、ハルヒと連絡がつかない」
 副団長は緊張を伴った肯きを返し、
「どこに行ったのか僕たちに知られないようにしているのでしょう。涼宮さんが会いたくないと思っている以上、こちらからいくら探しても徒労に終わると思います」
 ハルヒ。一人で思い詰めるようなことだけはするなよな。あいつは「困ったことがあれば言いなさい」と言っていたが……それはこっちの台詞だ。

「ごめんなさい、キョンくん……うぇ、っく」
 不意に朝比奈さんの声が聞こえた。見ると、彼女は涙で顔をぐしゃぐしゃにして、なおも目尻に透き通った粒をあふれさせている。
「わたしがもっと、もっと早くに言ってればこんな……うっ、く……ことにはぁっ」
 朝比奈さんはしゃべるのも一杯一杯な状態で、俺は心臓を握りつぶされるような苦しさを覚える。
「落ち着いてください、きっと大丈夫ですから。困ってるのはみんな一緒です。それこそハルヒも」
 大丈夫かどうかなんて分からなかったが、全員困ってるのは間違いないだろう。何かが狂いだしている。誰の仕業だ。また未来人か? それとも学校に潜入したらしきあの古泉のライバル組織の連中か? じゃなきゃ別の宇宙意識体か? 何一つ手がかりがない。
「きょ、キョンくん……うぇっ、うぅっ」
 朝比奈さんは何かまだ言うことがあるらしく、必死に溢れ出るものをこらえて話をしようとしていたが――、
 かたんと音がする。
 そちらを見ると、長門がコンロにぱたぱたと駆けて行くところだった。
「長門?」
 呼びかけると長門は振り向いて、
「まずは、落ち着くこと」
 とだけ言ってお茶の準備を始めた。


 長門がお茶の準備を完了するまで、俺たちは誰も何も話さなかった。
 朝比奈さんだけは余韻のように声を漏らしていたが、長門が湯飲みを置くと満たされた緑茶にぼーっと見入るようにして、やがて少しずつ落ち着いていった。
「何日か前から、たまに不通になることがあって」
 俺が長門製のお茶を半分ほど飲んだ頃、朝比奈さんがゆっくりと、確かめるように話し出した。
「細かいことは禁則になっちゃうんですけど……。あ、ごめんなさい」
 朝比奈さんは何も悪くないのに大きくお辞儀をして謝った。今さらそのくらい何でもないです。あなたにはあなたの立場があるんですから、気にせず話せることだけ話してください。
「はい……。えっと……その。定時連絡のようなものを何日かに一度取っているんですけど。それが時々繋がらなくなったり、変なところに繋がっちゃったりして」
「変なところ、とは?」
 訊いたのは古泉だった。一の発言から十の情報を吸い取ろうとしているようにも見える。
「あの、何ていったらいいんでしょう。何か違うんです」
 朝比奈さんはもともと整然とした話は得意でないし、禁則事項のこともある。その上、今は少なからず精神不安定だ。しかし「何か違う」ではさすがに推測するにも限度ってものがあり、俺は腕組みをして天井を仰ぐ。
 それをよそに、古泉は変わらず質問を続ける。
「その『何か違う』状態には、これまでも陥ることがあったんですか?」
 俺の向かいでは長門がどこを見るともなく顔を前に向けて、時折茶をすすっていた。
 いくらなんでも落ち着きすぎだろと思ったが、こういう奴が一人くらいいないとそれこそ今の俺たちはどこへ向かってしまうか分からない。
 さて隣の朝比奈さんはふるふると首を振って、
「いいえ。なかったです。……あの、去年の夏に連絡自体ができなくなったんですけど」
 さっき回想した終わらぬ夏のことだ。
「その時とはまた違うんです。何ていうかその……」
 朝比奈さんは顎に手を当てて上目を中空に向け、
「夏の時は『ブツッ』で、今度は『ザー』みたいな」
 擬音を発する彼女はあくまで真剣に俺たちに出切る限りの伝達をしようとしているのだが、そんな姿がまたかわいらし……じゃなくて、何だろう。そのラジオのような電話のような表現は。
 斜向かいの古泉は朝比奈さんとは違う形に作った手を顎に当てて思案中。さっきの動揺はすっかりどこかに飛んでいる。こいつは考える材料さえあれば元気になれるのかね。
「誰か違う相手が出ることはありましたか?」
 古泉が言った。それじゃ不足と思ったのか、続けて、
「相手と言いましたが、あくまで弁尖上の表現です。要は、普段とは別の連絡先にチャンネルすることがあったかどうかなんですが。ノイズが混じるだけではなく」
「あったような。でもはっきりとは……。うぅ、ごめんなさい。よくは分からないです」
 朝比奈さんは心底参っているように両手の平を合わせて頼み込むように謝った。俺は頭脳労働をすっかり古泉にまかせ、何とか朝比奈さんを元気付ける方法はないかと考えるに至っていた。
「そうですか。どうもありがとうございます」
 古泉は静かに礼を言った。
「ごめんなさい。もっと早くキョンくんたちに話しておくべきだったんだわ……」
 またもうつむき加減の朝比奈さん。そんなにしょげないでください。きっと古泉が何かひらめいてくれます。
 と、言った矢先、
「さすがに僕の思考領域を突破しています。それに判断する材料がまだまだ足りないようにも思えます」
 古泉は肩をすくめてすっかりいつも通りだ。昼休みに一瞬でも共感しかけた自分がアホらしくなってくるな。
「ですが」
 古泉はそれで終わらずに一言付け加えた。
「部長氏の件は涼宮さんの思惑と無関係ですし、時系列的にもそちらが先です。何か、他にも原因があるのではないでしょうか?」
 そうだったな。あのサインのこともあるし――、
「ん?」
「どうしました?」
 俺の呟きに古泉が敏感に反応するが、つかの間訪れたとっかかりは俺が正体を見定める前にどこかへと霧消した。
「いや、すまん。何でもない」
 そう言って首を振ったものの、「何でもない」で済まされるほどの些事ではないということだけは分かっていた。俺の直観が早急に思い出すべきだと訴えている。
「涼宮さんと連絡がつけばよいのですが、先ほども言った通り、彼女が会いたくないと思っている間はこちらからコンタクトすることはほとんど不可能でしょう。くしくも彼女は再び力を強めているようですから」
 今日の古泉は失った力の分を取り戻そうとするかのように熱心だった。声にそれが表れている。本人は気づいてないかもしれないが。


 やがて鐘が鳴り、この数日開店休業状態のSOS団アジトこと文芸部部室での放課後は終了した。
 まるで緊急会議のようになってしまったが、まさしく今が緊急事態であることは疑う余地もない。
 俺たちは昇降口でそれぞれの下駄箱に散る。
 色々心配なことがあるどころか、安心材料を見つけるほうが難しいくらいだったが、長門の言う通り重要なのは落ち着くことだ。無駄に暴れてパワーを消費しても詮無きことだしな。
 俺は段差を下りて自分の下駄箱に向かい靴に履き替えようとしたのだが、ふと顔を上げた瞬間、

 ――、

「何だ?」
 今何かが見えた気がした。というか通った。
 昇降口は二階の廊下までが吹き抜けになっている。まさにその二階廊下を、正体がよく分からないものが通りぬけた。俺の間違いじゃなければ人影に見えたが。何だろう。
 数度瞬きしてもう一度見てもそこには誰もおらず、部活を終えて帰宅する生徒がちらほらと行き交うだけだった。見間違いだろうか。


「これまでの経緯からして、彼らは直接僕らに危害を加えるような真似はしないはずです」
 帰りの坂道で古泉は行った。昨日に引き続き四人での下校。団長のいないSOS団はあまりに静かで、まんまエンジンのないモーターカー状態だった。坂道を転がって下ってるだけのような。
「なぜ分かるんだ?」
 並んで歩く長門と朝比奈さんの肩を眺めていた俺は、副団長としての使命を十分すぎるほど果たしている長身を見て言った。
 古泉は前方に広がる夕焼けの街並みを見たままで、
「それでは失敗すると分かっているからです。以前朝比奈さんが誘拐された時はもちろんですが、間接的に干渉した朝倉涼子の一件では、組した朝倉涼子は普通の女子高生に、急進派は存在もろとも消滅してしまったわけです」
 ここで俺を見て、
「ですから、おそらくは何か別のものを介さない限り手は出せないと思います。まさに、直接邪魔をした結果、自分の身が危機に瀕することになっては元も子もありませんからね」
 古泉の長説明を珍しく俺は真剣に聞いていた。何せこんな状況だからな。朝比奈さんがさしあたっての憂いを拭えたらしいことに安堵した俺は、思案に復帰するべきだろう。仮に役にたたなくてもだ。
「そうか。そういや朝倉をかどわかした時は随分汚い手を使うもんだと思ったな」
 中途半端なやり方ではダメだとあの誘拐未遂の時に知ったのだろう。実際春に一度俺たちは解散の瀬戸際に追いやられ、そればかりか選ばれるべき未来を少なからずねじ曲げちまったようだった。
 未来。未来……。
「古泉。そういえば俺は最近妙な夢を見てる」
 さっき取り逃がした糸口の端っこをつまんだ感触。
「夢、ですか?」
「ああ。内容はさっぱり覚えてないんだが……。すまん」
 端っこをつまんでいることしかできない。そこから先に手を伸ばせない。
「いえ。それは何か今回のことに関係があるんですか」
「分からない。ただ、夢っつっても灰色空間に誰かと二人きり、みたいなことじゃないぜ」
 古泉は二秒ほど笑うことをどこかに置き忘れていたが、それから微笑して、
「そうですか。どれがヒントになるか分かりませんから。覚えておきますよ」

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