○一章

 間もなく救急車と隊員、教師がやって来て、コンピ研の部員が事情を訊かれるべく何名かの教師と職員室へ向かった。部長氏は担架で運ばれていった。部員の呼びかけにもまったく気付く気配はなく、眠っていてももう少しなにかあるだろうというような静けさのままだった。

 その一部始終を半ば棒立ち状態のまま見届けた俺とハルヒ、古泉の三人は、やがて部室に戻った。
 中にいた長門と朝比奈さんがこちらを向く。朝比奈さんが心配そうな面持ちで、
「あのう、一体何があったんですか?」
 と訊いてきた。ハルヒは答える様子を見せなかったので、仕方なしに俺が部長氏が失神したらしく、救急車で運ばれた旨を告げた。
 胸に両手を当てて、誰にでも等しく心からの気配りを見せる朝比奈さんは、ふえぇと吐息を漏らしながら椅子にぺたと座った。
 ハルヒは団長机に戻ってわずかにうつむき、何か考えているようだった。こっちから話しかけてもしばらく上の空かもしれない。種類で言えば、去年の孤島合宿で真相が明かされる前。本当に殺人事件が起きてしまったと思っていた時に見せた眼差しに似ている。
 さて、俺は一度席に座って落ち着くこととした。月並みではあるが、こういう時に冷静さを失うことが何よりよくないということを、俺はこれまでの経験から知っている。
 向かいの古泉は、顎に手を当ててハルヒと同じく考え中の様子だった。が、俺が今話をしたい相手はこいつではない。

「長門、ちょっといいか」
 俺は窓辺で本を読まずにテーブルの一点を見つめていた少女の傍に歩み寄って言った。
 長門はこくんと肯き、俺は廊下に向かう。一度ハルヒを振り返ったが、こちらに構う様子はなかった。何となく許可を求めたい気分だったんだがな。


「……というわけなんだ。何か意見があったら聞かせてほしい」
 俺は夢の話と謎のエンブレムの話も含め、長門にひとしきりのことを話した。部長氏がただ倒れただけなんだったら、ひょっとして貧血を起こしたのかもしれないし、他に一般的な原因があったのかもしれん。
 しかしあのマークを見つけちまった以上、俺にとってその可能性はランクダウンだ。
 質問すべき相手は長門有希の他にいない。何せ、あの時の事件を解決したのは、ほとんど長門だったからだ。古泉も活躍はしたが、カマドウマの退治がメインの仕事だった。
 長門は一度顎を引き、思案するように虚空を見つめていたが、やがて
「そのサインを調べる必要がある」
 と言った。


 俺は長門と西日射すコンピ研の部室に戻った。一時的に誰もいなくなっているのが幸いだが、もう少ししたら部員の誰かか、ひょっとしたら教師が戻ってくるかもしれん。なるべく早く調べものをしてしまったほうがいいだろうな。
 部長氏のパソコンはスリープモードになっていたが、マウスを動かすとそこにはやはり先ほどの不定形のようなうねりマークがあった。センスがいいなどとはもちろん言えるはずもなく、それどころか幼稚園児に適当にクレヨン使わせたほうがまだ見栄えのする模様になりそうなシロモノだった。
「これだ」
 長門は俺が示した模様をしばらくじっと眺めていた。その間、一度も瞬きをしなかった。
 それから長門はこちらを向いて、首を横に振った。
「この模様そのものには何の効力もない」
 そうなのか? また異空間へ繋がる鍵になってたりはしないのか。
「ない」
 長門はきっぱりと断言した。だとすればこの模様は何なんだ? 俺の夢に出てきたのは何かの偶然だろうか。こんなデタラメな模様が「偶然」俺の前頭葉から生み出されたとは思えないが。
「しかし」
 長門の声に俺は我に帰る。しかし何だ?
「この模様はハードディスク内のどこかに保存されていた形跡も、またネットワークを介して転送された形跡もない」
「そりゃどういうことだ?」
 質問返しばかりになっちまうが仕方ない。俺にはまったく想像つかない領域の話だからな。
「わたしの認識しうる範囲において、この模様はまったく突然にこのパソコンに表示された」
 んなバカな話があるか。ウィルスでも転送データでも、まして誰が描いたわけでもないのに、どうやってここに出現するってんだ。まさか自然に湧いたのか。
「原因不明」
 ……。
 長門にそう言われては俺に返す言葉などあろうはずもない。そして、同時にそれは得体の知れない気味の悪さを俺にもたらした。
 パソコンを使用していた部長氏は、突如眠るより静かになって意識不明になり、その画面にはこの模様が表示されていた。今の長門の話によると、模様そのものには何の効力もなく、またどうやってこの模様が発生したのかも分からない。つまりまったく何一つ分からないってことである。
 そして、何も分からないはずの模様が俺の夢に先に現れ、現実のものとしてここにあるってことが何より不気味なのだった。これじゃまるで予知夢じゃないか。……しかし、それなら何を暗示しているのかが分からん。
 あいにくながら、俺は微かに残るこの謎のサインのイメージを除いて、夢の内容が何だったのか綺麗さっぱり忘れてしまっていた。思い出そうとすればするほど、雲をつかむように実像が見えなくなるのが夢ってものであり、まさに今の俺の手は空をかいていた。


 やむなく俺と長門が部室に戻ると、そこには朝比奈さんと古泉しかいなかった。
「ハルヒはどうしたんだ?」
 俺が訊くと、古泉が首を振って、
「今日は帰られました。あなたによろしく言っておくようにとのことでした」
「……帰った? ハルヒが?」
 古泉は微笑顔のまま肯いた。マジか。いったいどうして。
「機嫌が悪いとかじゃないだろうな」
 俺は椅子に座りつつ訊いた。もしハルヒの精神状態がどうにかなっているのなら、あのけったくそ悪い灰色空間がまた生まれないとも限らん。古泉は笑みを崩さず、
「いいえ。相変わらず涼宮さんは平静を保ったままですよ」
 真に落ち着いてるのはお前に見えるがな。
「あっ、お茶! 淹れますねっ」
 メイド服朝比奈さんが思いついたように言った。その後ろ姿を見守っていた俺に声がかかる。
「……先ほど言いそびれたことなんですが」
「何だよ」
「この学校に転入生が続々と入りこんでいるという話はご存知ですか?」
 古泉は指を交互に組んで顎に当てていた。今日はどんなボードゲームも年季の入った長テーブルの上に置かれていない。
「知らなかった。いつからだ?」
「二ヶ月前のあの一件が終わった日を境にしているのではないか、というのが機関の見解です」
 すまし顔の古泉に俺は、
「それこそさっきの『変わったこと』じゃねぇか」
「失礼。ですからいいそびれたと言ったのです」
 ふと長門と朝比奈さんを見てしまったが、長門は読書に戻っているし、朝比奈さんはコンロの前で何か彼女なりに考え事をしているらしかった。俺は向かいの男に向き直り、
「俺のクラスには朝倉以外に転入してきた奴はいないけどな」
「あなたのクラスは特別ですよ。何せ涼宮さんがいるんですから」
 古泉はここでわずかに笑みを抑えた。
「機関の見解って言ったな。ってことは、やっぱりそいつらはただの高校生じゃないんだな」
 俺が訊くと、古泉は背もたれに身を預けて肯いた。
「ええ、おそらくは。まず間違いなく何らかの勢力に属している人たちでしょう。知らぬ間にこの学内で情報戦が繰り広げられ、防衛しきれなかった部分で敵対勢力の手のものが侵入を果たしたのかもしれない」
 かもしれないって何だよ。そういう重要なことまでぼかすな。
 俺が言うと古泉はしれっと両手の平を上向けて、
「確認しようがないからです。転入と言いましたが、一般に言う転入手続きの段取りを踏まずにいずれかのクラスの生徒になっていることはまず間違いありません」
 咄嗟に返す言葉を思いつかない俺に古泉は、
「素知らぬ顔で学内に潜り込めるような存在ですから、自分の素性を隠すことなどたやすいでしょう」
「お前のライバル組織の連中もいるのか?」
 俺が言うと副団長は若干笑みを取り戻し、
「ええ、たぶんね。理由はどうあれ、僕や長門さん、朝比奈さんの属する勢力に敵対する存在は半ば共闘体制を敷いています。これは二月や四月にあったことからしても確かだと思います」

 古泉の言葉は、俺にしばらくぶりの戦慄をもたらした。
 学校にまで連中が入ってきだしただと? 部長氏を気絶させたのもそいつらの仕業か? 
 真っ先に思い浮かぶのは、あの歪んだ笑顔を浮かべる未来人野郎だ。朝比奈さんを誘拐した上に、俺たちの日常をさんざんかき乱したあいつ……。

 その日の放課後は、ゲームをする気になどならず、朝比奈さんのお茶を飲んだかどうかすら曖昧模糊としていた。団長を欠いたSOS団の四名は取り立てて会話をするでもなく、それぞれが自らの思いにふけったまま、いつしか終業時刻となった。


 家に着くと待っていた人物がいた。
「ハルヒ……?」
「あんたが帰ってくるのを待ってたわ」

 家に上がるかと訊くと、ハルヒは意外にも首を横に振った。俺は仕方なく家からほど近くにある公園に行くことにした。何とはなしにブランコに座る高校二年生の男女。

 ハルヒはしばらく何も言わずにブランコを前後させていた。夕方を過ぎた公園には誰もおらず、夏至に近付いた空はまだかなり明るかった。湿気が肌にまとわりつき、木や草の匂いが鼻をつく。
「……キョン、またなの?」
 出し抜けにハルヒのつぶやきが漏れた。突然であってもその意味をつかみかねるほど油断していなかった俺だったが、言う言葉に迷った結果、反応が遅れる。
 「また」とはもちろんついさっき発生した奇妙な事件のことを指している。ハルヒは部長氏が気絶したことも、俺と長門が廊下に出てったことも知ってるんだから、その二つを結びつけて考えることくらい容易いはずだった。
「まだ分からない」
 俺はありのままを言った。少なからずハルヒに関わっていることは間違いなさそうだが、だからってそれをこいつに言うのはまだ早いんじゃないか。そう思っていた。
「そう」
 長門のような台詞を言ってハルヒはブランコをゆっくり漕ぎ出した。キーキー言う音だけが、辺りの湿った空気を震わせる。
「ねぇキョン。あんた……」
「ん?」
 俺が首を横向けると、ハルヒは前を向いたままだった。ブランコが前後に揺れる。
「ううん。……そうね。いつも言ってるけど。あたしにできることがあったら言いなさいよ」
 その横顔から思考を読み取ることは、俺には難しかった。
「分かってるさ。じゃなきゃ死刑だろ?」
「もちよ」
 ハルヒは一気にブランコを加速させたかと思うと、感心するほどの跳躍力で飛び下りた。バシッと着地を決める。
「今日は帰るわ。何かあたし変だったわよね。忘れて」
「ハルヒ?」
 俺が呼びかけても振り向かず、ハルヒは鞄を持って駆け出した。その後ろ姿は、ずっと前に踏み切りで独白をした後のハルヒを思い出させた。遠ざかって、あっという間に見えなくなる。

 家に帰ってから眠るまでの間、油断するとその後ろ姿が浮かび上がってきて頭から追い払うのに苦労したものの、やがて俺はうとうとと夢に落ちていく。



「えぇ、その通り。まさに我々に関心を抱く者たちが、引き続き攻勢の態度を見せている。そしてその狙いは、他ならぬ涼宮さん自身です」
 古泉の説明にハルヒは頑固一徹を貫く親父ばりに口を真一文字に結んで肯いていたが、
「なるほどね。あたしが持ってるらしい力を引き出したいってわけか」
「えぇ。彼らの思うままにさせれば、やがて涼宮さん自身に危害が及ぶ恐れがあります」
 普通ならば恐れおののいてもおかしくないこの発言にも、ハルヒはたじろぐ素振りすら見せず、
「そいつらはほんとバカね。何にも分かっちゃいないわ」
 周囲を見ると、朝比奈さんと長門が、片方はおっかなびっくり、片方は一見無感動ではあるが確実にその中に思うところのある表情でハルヒと古泉の会話を見守っていた。
「全部自分の思うままにしたって、何にも面白くなんてならない。自分で面白くしようとして、その
過程を楽しむのが本当の面白さなのよ」
 一年前からは考えられないような発言だった。それこそSOS団を発足させていなければ、決してこんなことを言うようにはならなかっただろう。しかし、だからこそ何よりも俺にとっては心強かった。
「それで、そいつらがストーカーみたいな粘着行為をやめるようにするにはどうすればいいの?」
 ハルヒはまったく臆する様子を見せない。それどころか、これからいかにして連中を懲らしめてやろうか、それをバツゲーム考えるのと同じような表情で思案している風に見える。
「それにつきましては、僕や朝比奈さん、長門さんのそれぞれで、意見が分かれるところです」
 そう。そもそも最初、長門も朝比奈さんも古泉も、別々の目的でSOS団に所属していたはずだった。
長門は情報統合思念体が進化の可能性を探っている間のハルヒの観測係、朝比奈さんは時空の歪みを解明するためにハルヒの動向を観察する役目と、時折下りてくる指示によって、一部の既定事項を満たす役割、古泉はハルヒのイライラにより発生する閉鎖空間に現れる『神人』の退治と、同じくハルヒの動向観察。
 ハルヒの動きを見守ると言う点では三者とも共通しているが、本来望んでいたこともハルヒの力に関しての見解も、全く異なっていた。古泉は現状維持、長門は変革、朝比奈さんは既定の事柄を満たすための調整。これまで対立していなかったのが不思議なほどに、目的がバラバラだ。
「先に言っておくけど、あたしは世界を変えようなんてこれっぽっちも思わない。あたしのせいで世界が変わってしまうのなら、こんな力いらないとすら思うわ」
 そこまで言うようになるとはね。一年前のお前に見せてやりたいぜ。
「しっかし、キョンがジョンだったなんて、これっぽっちも思わなかったわ。言われてみればそんな風にも見えたかもしれないけど、それこそ言われなきゃ絶対分からなかった」
 まさに究極の秘密だったわけだ。俺だってあんな状況にならなきゃ言わずにいたと思うぜ。今だって自分の選択が果たしてそれでよかったのか、判断つきかねるところだ。
 ハルヒは流し目をよこしたまま、
「何? 今さら後悔したって遅いのよ。それとも、あたしが今のまま不思議を探し続ける毎日を望んでるってんじゃ不満?」
 いや、むしろ大歓迎だ。くれぐれもお前の気が変わっちまわないように願うくらいさ。
「そう。それじゃ大丈夫ね。あたしはこれ以上楽しい団なんてこの世に存在しないとすら思ってるからね。そのネチネチつきまとって来る連中がおとなしくなれば、それで満足よ」
 ハルヒの得意気な笑みに、古泉が話を再開する。
「涼宮さんのその考えを受けて、僕たちも連日に渡って話し合いの場を設けてきました。正直言いまして、これまで長い付き合いがあったとはいえ、なかなかスムーズには進みませんでしたよ。何より僕たち三人だけの問題に留まりませんからね。それこそ宇宙規模のお話です」
 古泉はいつもの爽やかスマイルを浮かべたまま空前絶後のスケールで会議が行われたらしいことを話した。俺は古泉と長門と朝比奈さんが一室で三者会談している様を想像して吹き出しそうになる。
なぜか和室で全員が和服を着ていて、朝比奈さんが立てた茶に長門が「けっこうなお手前で」とか言っててその間で古泉が無意味に微笑んでる、そんな図をな。なんだか妙にファニーだぜ。
 その古泉は今俺がイメージしたのとさほど変わらぬ温和な笑顔で、
「度重なる審議の結果、彼ら、つまり敵対する勢力が沈静化するまでは、少なくとも涼宮さんには今のまま力を維持していただいた方がいいのではないか、という結論に達しました。そしてそれは今年の年末までです」
 長門と朝比奈さんがそれぞれに肯いた。なぜ先のことが分かるのか、などと訊きはしまい。何せ未来人がいるのだからな。
「その時になれば、涼宮さんが力を失っても問題ありません。僕の所属する組織だけでなく、朝比奈さんや長門さんの側とも折り合いがついています」
「そう、わかった」
 ハルヒは考えこんだりもせず、迷いもせずにすっぱりと決断した。
「あたしは他じゃないSOS団の団長よ。古泉くんや有希やみくるちゃんの後ろにいる人たちが何て言ってるのかはどうだっていいけど、あなたたち三人は大切な団員だもの。それでみんなが満足できるって言うのなら、あたしはこう宣言するわ」
 そこでハルヒは一度言葉を区切った。息を大きく吸う音が聞こえ、

「あたしの力は誰の思い通りにもならない。日常を守るためにだけ使われる。もちろんあたしの思い通りにもならない。賞味期限は今年一杯」

 そう言い放つと、ハルヒは顔を横向けてウインクを放った。それ、もしかして俺に向けたのか?
「これでどう。有希、みくるちゃん、古泉くん?」
 ハルヒの満面の笑みに、宇宙人、未来人、超能力者は三者三様の肯きを返した。



「ん?」
 俺は瞬きをして、今自分がいる場所を確認した。
 玄関先で間違いない。俺は今まさに学校へ向かおうとしている。
「キョンくんどしたの?」
 妹が靴を履きながら上目で俺を見てくる。いや、何でもないぞ。さぁ、学校へ行こうじゃないか。

 教室に着くと、昨日のコンピ研部長氏失神のウワサがまことしやかにささやかれ、広まり始めているようだった。
「おいキョン、聞いたかよ」
 谷口が肩をせっついてくる。聞いてるも何も、俺は目撃者の一人だしな。というか、それより何より、思いのほかこのニュースが生徒間で話題になっているらしいことが問題だ。
「誰かに襲われたんだってな」
「はぁ?」
 谷口の話に思わず素っ頓狂なマヌケ声で返してしまう俺。それはどこのスポーツ紙から得たゴシップだ? 
「わたしもそう聞いたけど」
 通りがかりの阪中が言った。そりゃ本当ですかい? 谷口がどこかから見知らぬ電波を受信したか、不意に通行中の殉職した刑事の霊体が一時的にこのアホに憑依したとかそんなところだと思ってたんだが。
「だから今この学校に警備員を入れようか、先生たちが相談してるって話らしいのね」
「何とまぁ」
 こりゃどこからが本当でどこまでがウソなのか、現場を見た俺ですら分からなくなってしまいそうだ。
 俺は阪中や谷口に見たままを話し、部長氏は失神しただけであって誰かの襲われたのではないということをことさらに強調しておいた。もちろんあのサインについては話していないが。
「はい君たち、席に着くように」
 入室してきた担任吉崎がだみ声を発し、俺たちは散り散りに元の席へ戻る。
 俺の後ろにはハルヒがすでにもう来ていて、蒸し暑そうに制服の襟元をぱたぱたとやっていた。
「おはよう」
「おう」
 俺は腰を下ろして鞄を机にかけると、担任の話を聞き流しつつ言った。
「部長氏の噂が尾ひれをつけてあちこち泳ぎ回ってるみたいだな」
「そうね。物騒な話なのになんであんな楽しそうなのかしら、みんな」
 ハルヒは寝不足で不機嫌になってるかのような雰囲気で呟いた。一年前のお前だったら喜んで調査に乗り出してただろとツッコミを入れそうになったが、何とか喉元に言葉を止めておく。

 この日のハルヒは、ひさびさに癇癪の玉を腹に抱えてそうな状態で、そういう理由により俺は何となく話しかける気をそがれた。
 クラスで普通に授業を受けていると、昨日の不可思議現象に校内に謎の組織連中が入り込んでいるなんてことや、これまで俺が遭遇してきたあらゆることですら忘れてしまいそうになるが、俺はまだこれを強固な現実として認識しているのだから、自分で自分に活を入れてとろけそうな脳を冷やしてやらねばなるまい。

 昼休み。何となく教室にいづらかった俺は昼食を部室で取ることに決めた。渡り廊下への道を歩こうとすると、長門がついて来た。
 俺たちは特別言葉を交わすこともなく部室に到着する。
 俺は持参した弁当を広げ、長門は俺の向かいに座ってこちらを――、
「どうしたんだ?」
「……」
 長門は何やら思い悩むような表情を浮かべているように見えた。表情と言うほどのものではないが、微かに光の差す黒い瞳が、わずかに曇っているように感じられた。

「最近、情報統合思念体との接続に失敗することがある」

 思わず玉子焼きを取り落としそうになった。はい? 今何て言った?
「情報統合思念体と通信できないことがある」
「そりゃどういうことだ?」
 そんなことあるのか。長門がどんな手段で思念体と連絡しているのか俺は知らないが、最低でもこれまでにそんな言葉を長門の口から聞いたことはない。長門自身が参ってしまうことは何度かあったが。
「わたしにも分からない」
「またあの広域帯宇宙なんたらの仕業か?」
「たぶん、ちがう」
 長門はつと思案するように顎を引き、
「以前のようにわたしに負荷をかけたり、通信を邪魔しているわけではない。閉鎖的状況に陥っているわけでもない。おそらく原因は他にある」
「そうなのか」
 定型句のような「そう」という長門の返事を聞きながら、俺は何が原因か考えていた。
「違ったらすまんが、お前自身にまたエラーがたまったってことはないか?」
「それはあり得る」
 長門は素直に肯いた。
「わたしは以前よりも自律行動を重視している。当初想定していないラグが発生することは十分に考えられる」
 そうだったな。
 あなたはあなたが信じる行動を取れ――あの再改変の日、長門が自分自身に言った言葉だ。
 俺はそれをこいつが人間に近付けていることの証と受け取っている。実際、今では長門の宇宙人設定などどうでもいいと思うことが時折ある。
 未来がどうなるのかは知らないが、できることなら長門には普通の女の子としての道を歩いてほしいと、ささやかながら願ってしまう。
「でも」
 長門はそれで話を終えずに続けて言った。
「あくまで可能性のひとつ。他にも原因があるかもしれない」
 冗談を言っている目など長門には存在しないのかもしれないが、熱意は十分に伝わってきた。
「前も言ったけどな」
 俺はそんな長門の緊張をほぐすように、
「無理すんなよな。困ったらすぐに言ってくれ。何でもいいからさ」
 長門は眉をわずかに動かして、しばし黙ったままだったが、やがて、
「ありがとう」
 と言った。

 しかし、長門に分からないことが増えてきているのは事実のようだった。それは長門自身が人に近付いているためとも、もっと他に不可思議な理由が潜んでいるとも考えられる。
 長門と並んで教室に帰る途中、俺はそんなことを考えていたのだが、

 とん。

 渡り廊下を抜けた先で、誰かと肩がわずかにぶつかった。俺は振り返って腰を折りつつ、
「すいません」
 と言って顔を上げた。そして、間もなく絶句した。
「あら」
 女子生徒だった。夏服セーラーに身を包み、ショートカットを揺らして振り向くその顔は、
「お前……!」
 間違いない。二月に朝比奈さんを誘拐した時、一味のリーダー格だったあの少女だ。お前がどうしてここにいる……!!
 しかし少女は俺の反応など見えないかのようにお辞儀をして、
「こちらこそごめんなさいね」
 穏やかに述べて俺と目を合わせる。
「あら、あなた」
 俺の表情をどう受け取ったのか、
「どこかで会いましたっけ?」
 白々しい。どこかもなにも、あの時俺に道化じみた挨拶をしてきたじゃねぇか。まさか忘れたわけじゃないだろう。記憶喪失か多重人格ででもない限り、あんな大事を忘れられるわけがない。まして自分が起こしたんだからな。
「それじゃ、わたし急ぐので」
 少女は俺が止める間もなく手を振ると、前に向き直って歩き去った。
「あいつ……」
 俺はその背中を立ち尽くして見ていることしかできない。あの時――森さんや新川さん、多丸兄弟が取り囲んで八日後から来ていた朝比奈さんを救出した時、森さんは誘拐グループだったあの少女たちを捕らえも突き出しもせず、微笑みと共に見送っただけだった。
 次に会う時はどんな仕返しをしてやろうかと思い出すたび考えていたのだが、いざ目の前に現れると何もできなかった。突然すぎたからか、北高の制服を着ていたからかは分からない。

 ふと気がつくと隣で長門が俺をじっと見ていた。
「あぁ、すまない。長門」
「誰?」
 長門は首をわずかに傾けて俺に尋ねた。そうか、お前はあの時直接会ってないんだもんな。
「朝比奈さんを誘拐した連中の一人だ。覚えてないフリしてたが間違いない」
 俺がそう言うと、長門は誰もいなくなった廊下の端を見つめていたが、
「授業」
 と言って俺をうながした。すでに始業時間を過ぎている。


 思いもよらぬ再会によって、午後の授業にはろくすっぽ集中できなかった。
 どうやら古泉の言っていた話は間違いなさそうだ。どの学年のどのクラスか、そもそも名前すら分からんが、あの制服を来て平然と校舎を歩いていた以上、この学校のどこかに転入してきたと考えるのが自然だろう。自然な手段を使ったとは到底思えないが。一人で乗り込んでくるとも思えないから、もしかしたら他にも仲間が潜入済みなのかもしれない。
 古泉がこの学校に来た時だって、すでに何人か他に『機関』の人員がいるとのことだったし、未来人は分からないが、宇宙人のインターフェースも長門以外に何人かいるって話だった。俺が知ってるのは三年生で現生徒会書記の喜緑江美里さんだけだが。朝倉は今や宇宙人属性を持ってないしな。
 この様子だと敵側の宇宙人登場なんてことにもなりかねないんじゃないだろうか。事実、長門は向こうもインターフェースを用意してコミュニケートを図ってくる可能性は高いと言っていた。今教室の前方でまっすぐ黒板を見ている髪のはねたショートカットに余計な負担はかけたくないが、大量に入ってきたらしい転入生の中にそんな奴がいないと考える方が楽観的ってものだろう。
 じわじわと包囲網を狭められているような気がして、俺は放課後まで落ち着かなかった。

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最終更新:2007年02月25日 21:53