○〇章

 マンションの一室。見覚えがある。
 ここはどこか。

 長門有希の家だ。

 俺は誰かと話している。
 ……相手は誰か?


「な、何よそれ。あんた、頭おかしいんじゃないの?」
「いや、俺が言っていることはすべて真実だ」
 いつもなら太陽の黒点よりずっと熱い原動力でもって俺たちを長いこと引っ張ってきたSOS団団長は、この時だけ日頃見せている満面の喜色を潜ませていた。
 続く声は俺のものだ。
「長門有希は宇宙人、朝比奈みくるは未来人、古泉一樹は超能力者なんだ。そして、お前はこれまでそれを知らされないようにされてきた」
 目の前の見慣れた顔は、しかし滅多に作らない表情をして戸惑っている。
「う、そ……」
 無理もない。俺だってあの時は信じられなかった。
 去年の五月、三人によって立て続けに告げられた仰天の告白。普通の高校生だと思っていたら、その背後にとんでもない設定を背負っていたSOS団員。もちろん俺も直後には今のハルヒのような反応をしていた。俺がそれらを信じざるを得なかったのは、数日のうちに宇宙人未来人超能力者にまつわる証拠を見せつけられたからだった。
「ハルヒ。俺たちが今いる場所。どこだか解るか?」
 俺の問いにハルヒは半瞬たじろいだようにして、
「どこ、って。有希の家でしょ?」
「何か変だとは思わないか?」
 思わないはずはないのだ。口にしないだけで、こいつはちゃんと違和感を感じているはずだ。あれだけ鋭い勘を持っておいて、こういうとこだけ鈍いなんてことはないだろ。団長様。
「有希が眼鏡をかけてる」
「他には?」
「カーテンがないわ」
 ハルヒは考えこむように手を口元に当てた。
「まだあるか?」
「具体的にどう、とは言えないけど、まだ何か変な感じがする。こう、空気が違うっていうのかしら」
 それだけ解れば上出来だろう。
「さっきコンビニで買ってきた、今日の新聞だ」
 俺はハルヒにいくつか選んだデイリーを手渡した。ハルヒはしばし記事に目を落として首を傾げ気味にしていたが、やがてすべての真相を知った探偵のように目を見開いた。
「……キョン! この日付!」
「そうだ」
 ここで俺は一度息を吸った。

「今日は俺たちがいた時間から四年前の、四月二十二日だ」

 俺はハルヒの驚きがある程度落ち着くのを待った。さっきのあれはタイムトラベルだ。妙な感じ、とお前は言ったけど、無理もない。今回も酔い止めを用意できなかった己の不覚を嘆く次第だ。
「ちょ、ちょっと待ってよ! どういうことよ。あんた、あたしをからかってるの?」
 俺は息を吐いた。まあしょうがないか。
「俺たちはあの人の力でこの時間まで遡ってきたんだ。あいにくこの部屋にはテレビがないが、何ならちょっと近くを散歩して今日がいつなのか再確認したっていいぞ」
 ハルヒは眉をひそめて考えこむような仕草をした。俺はハルヒを黙って見ていた。
 しばらくハルヒはそのままでいたが、やがて目を閉じてふっと溜息に似た音を出すと、
「……本当なの?」
 大きな瞳の中の宇宙は、それでもその中に恒星の輝きがちりばめられていた。
「ああ。これからお前に説明しないといけないことがいくつもある」


 俺は長い時間をかけて説明を開始した。
 許される範囲で、ありったけの情報を伝えてやる必要がある。
 それが、SOS団を元に戻すための道ならば。


「休憩しよう」
 長い説明の途中。時計の針はすでに正午を大きく回ってお茶の時間にふさわしい時刻を示していた。
何だか一生分の説明をしている気すらしてくる。古泉だったらこの役を喜んで引き受けただろうが、あいにくあの副団長様は今ここにいない。
 だからこそ俺たちがここにいるんだ。あの部室での放課後を、取り戻すために。
「ハルヒ?」
 俺はコタツテーブルの向かいで腕組みをして神妙にしていたハルヒを窺った。
「ごめんキョン。ちょっと、しばらく考えさせて」
 そう言うとハルヒは晴天のすべてを遮ることなく映している窓に歩み寄って鍵を開け、ベランダに出た。俺は一身に春風を受けるその後ろ姿を眺めていた。



「ようキョン! 元気してるか?」
 ごくありふれた挨拶と共に肩をバシンと叩かれた。
「ま、それなりにな」
 あくびをして挨拶を返しつつ、俺は一年以上登校時間の多くを共にして来た友人のアホ面を見た。
「いやぁしかしいい天気だよな。もうちょっとしたら梅雨だと思うと遺憾を覚えるね」
 谷口はそんな俺の視線にも気付かず両手を後頭部に当ててえっちらおっちら登山を続行する。
 あぁそうだな。お前のようなトリプルAランクプラスの能天気に雨ってのは確かに似合わん。
「ん。何だキョン、それは俺のあり余るエネルギーをうらやんでるのか?」
 谷口は似合わない流し目で俺を見た。断じてそれはない。お前をうらやましがるくらいなら、俺は今部室で朝比奈さんの淹れてくださる各国のお茶を味わえる喜びをかみしめる方を選ぶね、即行で。
 そう言うと谷口は押さえていた両手で頭をぐしぐし引っかき回しながら、
「だーっちくしょ! 嘘でもそこは憧れておけよな」
 残念だが谷口君。俺が三万回生まれ変ってもそれだけはないんじゃないかと思うぜ。
「かーっ! 何でお前みたいなのが朝比奈さんや長門有希と毎日放課後一緒にいられるってんだ。この世の理不尽に唾吐いてやりたい気分だぜ」
 頼むから心中でだけにしてくれ。爽やかな初夏の朝が台無しだ。
「お? おいキョン、あれ」
 俺の切り返しを軽やかに無視しつつ、谷口が前方遥か彼方を指差して言った。
「朝倉じゃねぇか?」
 消失点にもほど近いその場所、確かに朝倉涼子の後ろ姿と思しきロングヘアが見える。
「よく気付いたな」
 視力はまあ人並みだが、それにしたって簡単に気付ける距離じゃないだろ、あれは。
「へっへっへ。俺様の審美眼をナメてもらっちゃぁ困るぜ」
 別にお前が困ろうと俺は困らないし、それを審美眼と言うのか、そもそも美を語る資格が果たしてあるのかも分からないが、あらゆるツッコミを封印して、代わりに俺は肩をすくめた。


 かくして今日も二年五組の教室へとたどり着く。朝倉も座っていたから、谷口の眼力はおそらく間違いじゃなかったんだろう。そこだけは感心してやらんこともない。
「キョン、今年はどのイベントに参加しようか迷ってるんだけど、あんたの意見を聞かせてくれない?」
 二回の席替えでも漬物石のように動かなかった窓際後方に連なるSOS団員その1と団長の席。指定席といっても間違いじゃない自分の席に座りながら、俺はハルヒに声をかけられた。
「イベントって何のだ?」
「スポーツイベントよ。去年は野球大会に出たじゃない? だから今年も何か参加しようと思ってね。
一周年記念ってやつ?」
「マジか」
 俺が真っ先に危惧したのは誰あろう朝比奈さんである。個人的優先事項として、彼女でも絶対安全につつがなく試合を終了できるスポーツが望ましい。……ゲートボールとかボウリングとかか?
「ダメよそんなの。面白くないもの」
 即刻却下する理由が「面白くない」では全国のゲートボール及びボウリングのプロや愛好家の方々に申し訳が立たない。ので、俺が代わりに謝っておこう。すんません。
「あー、やっぱり去年野球の後にサッカーかアメフトの試合に出とくんだったわねぇ」
 ハルヒは腕組みをして口をアヒルにした。そういや俺と古泉が何とか説得して食い止めたんだったな。もうあれが一年近く前のことになるのか。時間が経つのはだんだん早く感じるようになると聞く
が、本当なのかもしれない。
「で、何に出ようと思ってるんだよ」
 俺が尋ねると、ハルヒは公募されてるらしき二枚のチラシを出して、
「今のところバスケとテニス。でもテニスってダブルスだと五人じゃ一人あぶれちゃうのよね。だからバスケが有力」
「バレーボールはないのか」
「ん、何で?」
「いや、何となくだ」
 クラス替えの直前、球技大会で殺人スパイクを量産するハルヒの姿をふいに思い出した。レシーブとトスくらいなら何とかなるんじゃないかと思ったが。
「でもまだ考え中ってところだからね。もう少しゆとりがあるわ」
 そうかい。俺は担任の吉崎が入ってきたのに気がつくと、ハルヒにヒラヒラと手を振って前に向き直った。


 あれから一ヵ月半になる。
 古泉が突如消えてしまい、朝倉が独立した急進派のインターフェースとして再来し、さらには未来人野郎どもが裏で糸を引いていたらしいあの一件から。
 あの時、俺はハルヒと朝比奈さんと四年前の七夕よりもっと前の時間に遡った。大人となった朝比奈さんの力によって。そこで俺はハルヒにこれまであった不思議な現象の一端が嘘ではなくて、俺た
ちがそれらに関わっているってことを抽象的にではあるが明かした。
 全部をばらしたわけじゃないし、俺がジョンスミスだってこともまだ秘密だが、それでも話をする過程でハルヒが今までの不思議現象に少なからず疑問を持っていたことや、同時に未知の何かが俺た
ちの日常を乱してしまうのではないかとの危惧までしていたらしいことがハルヒ自身の口から告げられた。
 あの時のハルヒの表情は、これまで俺が見てきたSOS団員の浮かべる喜怒哀楽の中でもきわめて強烈な印象を残していた。だからこそ、朝倉も含めてすべてが再び落ち着いた時に、俺は途方もないような安堵を覚えたことは隠すまでもない真実だ。
 そう、俺は今こうして何でもないようにHRや授業、それに続く学内非公認団体での奇妙な活動で日々を過ごすことのありがたみを実感している。一日一日が面白くなればいいと思ってるし、そのため
にハルヒが何か言い出したら、二番目くらいには賛成票を投じてやるくらいの気構えはある。もちろんやりすぎだろそれはというような場合にはセーブする役割もあるが。
 何より、俺が一番安心したことと言えば、ハルヒが元通りのSOS団的謎活動にこれまで通り、むしろこれまで以上に全力で取り組んでくれていることだった。この前は早くも今年の文化祭に向けた映画の準備を始めやがったし、同時に発表する予定の振り付けつきの新曲披露も行われた。すでに完璧にマスターしていたハルヒの自信満々な表情に、ゲストとして招かれていた鶴屋さんが腹を抱えて爆
笑しつつ同時に絶賛していた図が鮮明に思い出せる。
 そうした毎日がしばらく続いていた。そして、あの一件の終わり際、大人版朝比奈さんから届いた手紙は、今も俺の机の引き出しに鍵をかけてしまってある。

 『分岐点』のどちらが選ばれたのか。それも含めて、いつかお話できる日が来ると思います。

 分岐点――。
 冬に俺の朝比奈さんが二人になってしまった八日間。その最後の日に、朝比奈さん(大)は「近いうちに大きな分岐点がやって来る。そして、そこでの選択が正しくされないと、困ったことになるかもしれない」と言っていた。
 それがあの時だった……らしい。古泉がいなくなったことに端を発する一連の出来事の最中、朝比奈さん(大)は予定と違うことが起きたようなことを言っていた。自分の知っていた歴史と違うことが起きている。実際、過去に来た朝比奈さん(大)は、あの時の記憶が曖昧になっているとも言っていた。
 思い出すのは冬の日の説明。
「考えてみて。自分が知っているはずの過去が、知っている歴史と違ってしまっていたら」
 そんなことがあるのか。二月、初めに彼女のこの説明を聞いた時、俺はそう思った。
「朝比奈みくるの役割はその数値の調整」
 去年の文化祭のときに長門が言った言葉だ。これも、言われた当時はその意味がよく解らなかった。
 しかし、今ならどうだろう。
 俺は、これまで自分が見てきた様々なことから、ある考えを持つようになっていた。

 未来は、ひとつではない。

 根拠がある。去年の夏休みのことだ。ハルヒが延々ループさせていたあの夏の終わり。
俺の記憶は、最後の日に俺の家で団員総出による宿題片付けをしたあの一度きりしかない。しかし、長門の話では一万四千九百五十八回目でやっと脱出できたって話だった。記憶はなくても、要所要所 でありえないくらいに強烈な既視感があったのはそのためだろう。
 つまり、同じ時間を繰り返す中で違うことをして始めて、未来も変化したことになる。

 そして朝比奈さん(大)は、「過去は常に未来からの干渉を受け続けなければならない」と続けた。
 俺はその言葉から、モロモロかもしれないが仮説を立てていた。

 時間は、何らかの形で上書きされている。

 そう考えればいくらか合点がいくのだ。朝比奈さん(大)の過去の記憶があやふやになっていたのは、あの時点ですでに『上書き』が実行されていたからで、それをしたのはあの未来人野郎の連中だ。
 だとすれば、今俺やハルヒがこうしている時間は、すでに彼女が知っている時間ではないのではないだろうか。
 言い換えれば、朝比奈さん(大)が知っているようにはならなかった……。すなわち、

 分岐点は、彼女が望んだ方と違うものが選ばれた?

 ずいぶんと考える時間があったから、俺は疑問符つきではあるがここまでの仮結論を出すまでに至っていた。あの手紙を境に、大人版朝比奈さんからの連絡は途絶えている。
 部室には相変わらずメイド姿で日々奉仕に従事してくださる子供時代の彼女がいるが、果たしてあの朝比奈さんが成長した姿がそのままゴージャスになって今まで俺に会っていた彼女になるのか、そこにも俺はハテナマークを浮かべてしまう。
 もしも、俺の思ったように時間自体が上書きされているのだとしたら、必ずしも過去に起きたことが未来への因果となっているとは限らない。その『過去』自体が新しく書き換えられてしまうのだから。
 まるで妄想のような電波理論だと自分でも思うが、俺の薄弱な思考能力ではこのくらいを考えるのが限界だった。と、同時に、最近の俺はこのことをできるだけ考えないように心がけていた。

 今、こうしている俺の日常が、そっくりそのまま別のものに置き換わってしまう可能性だってないとは言えない。古泉の言葉の中でも最も記憶に根付いているものの一つ「世界が五分前に出来上がっ
たと言う可能性を消去できない」あいつは、真実と嘘をかき混ぜて境界すら曖昧にしてしまうような言動をたびたび見せてきたが、最初に鼻で笑っていたくらいだったこの発言を、もはや俺は絵空事だ
と思えなくなってきていた。

 そして、それとは裏腹にこう思うのだ。
 歴史がまるまるなくなってしまうなんてバカなことが起きてたまるか、と。


「キョン、何ボーっとしてんだよ」
 気がつくと谷口が目の前で箸を振っていた。何だよ。
「それを訊きたいのはこっちだぜ。空飛んでる豚を見てるみたいな顔してたぜ」
 言うなり弁当をかっ食らう谷口。どんな例えだよそれ。
「キョン、たまにボーっとしてるよね。この頃」
 国木田が和やかに言った。そりゃこんだけ五月晴れが続けば何も考えたくなくなるってもんさ。
「いつも考えてねぇじゃねぇ……ふごっ!」
 茶々入れてきた谷口の椅子に蹴りを入れて、俺は囲んでいた机に突っ伏した。
 ボーっとしてるか。確かにそうかもな。平和ボケしてるつもりはないが、どうも余計なことばかり考えてしまう。あまりに何にもないせいか、アンテナなり思考回路なりがその動力源を空転させてるのかもしれん。
「お、そういえば国木田。知ってるか? 幽霊の話」
「何それ。初耳だけど」
「阪中が言ってたんだよ。あのな……」
 谷口と国木田はクラスメートが噂していた幽霊の話で盛り上がりだした。つうかいつの話をしてるんだお前らは。あれはもう三ヶ月近く前だぞ。……しかし、俺の頭もよく起こったことの時系列をわやくちゃにせず把握してるもんだな。とうとうあの時の犬の話がクラスに広まりだしたのか。それが発端でSOS団に悩み相談が再び来たりしなければいいが。今のところ誰か来ると100%の確率で何か起きることになっているからな。
 そんなわけで俺は冒頭の段階で友人二名の会話を聞き流し、昼休み終了まで眠りこけた。



「キョン、起きてよ。……キョン!」
「んー?」
 バシィッ!
「痛ぇ!」
「さっさと起きないからでしょ。ほら、見てよこれ」
「……あれ?」
 俺は首をきょろきょろさせる。何だ?
「どうしたのよ」
 ハルヒの声。ここは部室。
「いや、何か今」
 部室には古泉、長門、朝比奈さんの三名がすでにそろい踏みで、俺は長テーブルに突っ伏して寝ていたらしい。
「あんた、いつにも増して変よ?」
 首を振っている俺の後頭部に心無い一言が突き刺さる。お前に変と言われれば、この世のすべての事象は普通じゃなくなるだろ。
「そんなことはいいのよ。見てこれ!」
 ハルヒは団長机の向こうに戻り、パソコンの画面を指差している。何だ?
 俺は気だるく立ち上がって、のろのろとデスクトップに歩みよって画面を見た。
「何だこりゃ?」
「何って、SOS団の新エンブレムよ。見て分からない?」
 何やら聞き覚えのあることを言う。今日は何日だっけ?
「はぁ? あんた何言ってるの? ん、っと……ほら!」
 ハルヒは自分の携帯の待ち受け画面を俺に突きつけた。確かに今日は俺が思っていた日付で間違いない。過去に戻ったとかいうこともなさそうだ。だがそもそもなぜそんなことを気にしたかと言うと、
「エンブレムだと?」
 俺は頬を両手で叩いて脳の覚醒を促し、あらためてパソコンの画面に目を落とした。
 そこには見覚えのあるSOS団エンブレム。とは微妙に異なるマークが描かれていた。端的に言って使っている色が違う。あとは酩酊したマムシがのたくったような文字の配置が、以前とは変わっている。
「SOS団も一周年を無事に過ぎたからね。記念にトップに飾る紋章を変えてみたってわけよ」
 普通、そういう団体とか集団を象徴する図形って変えないもんじゃないのか。
「普通? あんたまだそんなこと言ってるわけ? この一年何を学んできたのよ」
 高校生である以上学んできたのは学問のはずだが、しかし授業にさほど精を出しているとも言えない俺は咄嗟に答えられない。
「まぁとにかく、今後はこの画像をサイトのトップに表示するから。あとよっしく!」
 バシッと肩を叩かれた。サイト更新なぞ何ヶ月ぶりだろうか。三月に阪中の犬騒動が落着して、その後に行われた成果のない幽霊探しの時に撮った写真をアップして以来じゃなかろうか。景色しか写
ってない上に、手ブレした写真まで混じっているのだが「見える人には見えるはずよ!」との団長の一声によりそのまま掲載された。何も置かない方がまだマシなんじゃないかと思えてくる。
 俺はふと顔を上げた。目が合ったのは古泉で、相変わらずの副団長は微苦笑を浮かべて肩をすくめてみせる。俺はパソコンに目を戻すと、かつて長門が置き換えたエンブレムを取り除き、主君命令により決定された新たな先鋭芸術と呼ぶのもおこがましい謎の模様を表示させた。
 と――、

「……!」
 何だ? 

 突如部室の風景がどこかに行った。
 室内にいた面々はそのままに、周囲の絵だけが渦を巻いて変化を――。


 と、思ったら元に戻った。何だったんだ?
 俺はあらためて室内にいる一人一人を見た。古泉は微笑顔。に見えたが、一度だけ目を見開いて俺に明らかなアイコンタクトを飛ばし、朝比奈さんはヤカンが沸騰してカタカタ言っているのにも気づかずに、首をキョロキョロさせて肩を震わせている。長門は読んでいた本から顔を上げて、やはり真っすぐ俺を見ていたが、目が合うとまた元に戻った。
 肝心なのはハルヒだ。俺は振り返って窓辺にいた団長を見た。……笑顔。
「どしたのよ、キョン。表示できた?」
「ん? あ、あぁ」
 俺は肯いた。何だったんだ今のは。俺の見間違いか? もう一度だけ見渡しても、室内は見慣れた文芸部部室兼SOS団アジトの光景である。朝比奈さんの増え続けるコスプレ衣装も、ずっとずっと前に使った野球道具も、年末に捨てなかったガラクタ箱も、臨時文芸部活動時っきり使っていない山積みのノートパソコン四台も、ちゃんとある。
 俺はぶんぶん首を振って、元の席に戻った。



「キョン? キョン!」
 呼び声に再び顔を上げた。
「何寝てんのよ。先に着いたからって活動をサボっていいことにはならないんだからねっ」
 部室。向かいにいるのはハルヒ。
「あれ」
 俺は周囲を見渡した。たった今来たらしいハルヒを除いて、他に団員の姿はない。
「古泉たちはまだか?」
「みたいね」
 ハルヒは団長机に近付くと、パソコンのスイッチを入れた。俺は反射的に訊いた。
「なぁハルヒ。新しい画像作ったりしたか?」
 俺の質問は言葉が足りなすぎた。ハルヒに聞き返される。
「はぁ? 画像? 何の話よ」
「いや、だから。SOS団のサイトトップの……」
 俺は自分で確認する方が早いと思って椅子から立ち上がり、パソコンの画面に近寄った。
「ちょっとすまん」
 インターネットブラウザを立ち上げ、ホームページに指定されているチープなサイトを表示する。
 ――長門の作った見慣れたZOZ団エンブレムが表示されていた。
「……だよな」
 俺の行動があまりに意味不明だったのだろう。ハルヒが、
「あんた、寝ぼけてんの? あたしが活入れてあげようか?」
「けっこうだ」
 俺は手を振って自分の席に戻った。きっとうたた寝してた時の夢だろう。眠りが浅い時ってのは日常に近い夢をよく見るからな。
「それで。バスケとテニスはどっちにするんだ」
 長テーブルに視線を落としたままで夏服の胸元をバタバタさせつつ、俺は言った。
「それね、ハンドボールもいいかなぁってちょっと思ってて。まだ考え中」
 前年度の担任であれば泣いて喜びそうな発言だが、男女混合のハンドボールなぞ聞いたこともないぞ。俺が知らんだけかもしれないが。
 間もなくドアが開いて見慣れたニヤケ顔が挨拶と共に登場した。
「こんにちは」
 古泉一樹は夏服もまぶしく無駄に爽やかな笑顔を振りまいて俺の向かいに座る。俺はアイビームを放つが如く切れ長の目を睨んで挨拶に変えた。
「……」
「こんにちはぁ」
 続けて長門と朝比奈さんが同時に現れた。長門も挨拶しようとしたのかもしれないが、どうも朝比奈さんに先に言われてタイミングを逃したように見えた。一瞬口が開いて、また閉じられる。
 さて、俺と古泉は何も言われずとも同時に席を立ち、一度部室から退散する。お召し替えなさる専属メイド様が、今日も心地よくお茶汲みに専念できるようにな。

 ぱたんとドアが閉まり、手持ち無沙汰な男子高校生二人組は、湿気を含み始めた風を廊下の窓から感じつつボサっとつっ立っていた。
「最近どうですか。何か変わったことはありましたか」
 飼っている犬が芸を覚えたことを話すかのような気楽さで古泉は言った。笑い方こそ同じに見えるが、一年前のこいつとは何かが違う。何だろうな。……柔らかさ。
 自分で言ってて気持ち悪くなるが、古泉が転校してきたときに持っていた緊迫感のようなものが、今ではだいぶ薄くなっているように感じた。気のせいじゃないと思う。長門やハルヒ、朝比奈さんの変化ばかりに気を取られているようだったが、古泉が変わっていることも今や疑いようのない事実だ。
 俺は首を振った。
「ないな。それこそ、お前がいなくなったり、朝倉に宇宙人属性があったことなんて嘘だったのかって思っちまうくらいに、何にもな」
 俺の言葉に、古泉はしばらく何も答えず窓の外を見たままだった。厳密に言えば、さっき見た夢が妙なリアリティを持っていたことが「何か」にあたるのかもしれないが、まさしく夢は夢でしかない気が十分にしたので俺は言わないことにした。
「……このままだったらどうでしょうね」
 不意に古泉が口を開いた。
「このままって何がだ?」
「もう何も起こらなかったら、という意味です」
 そこで古泉は一度言葉を切り、

「涼宮さんの力、実はもうなくなっているのかもしれませんよ」

 俺は再び古泉を見た。真剣な表情でもないが、冗談を言っているようにも見えない。
「どういう意味だ?」
 俺の問いに古泉は流れるような視線を送り、
「僕が戻ってきたあの日からずっと、閉鎖空間が発生していません。それはもう、見事なまでに。涼宮さんが夢を見ているだろう時間帯も含めて、一度もです」
「そうなのか?」
 俺がオウム返しに訊くと、古泉は一度だけ肯いた。
「ええ。かつて、僕が力が目覚めた頃より前に戻ったのかと錯覚してしまうくらいに静かです。もし誰かから、彼女の力はずべてなくなってしまったのだと聞かされても信じてしまえるかもしれません」
 そこで俺は思いついて訊いた。
「閉鎖空間が生まれなくなったら、ハルヒの力はすべてなくなったことになるのか?」
 古泉は一度前髪を指で弾いて、
「さぁ、どうでしょうね。以前も言いました通り、僕に解るのは涼宮さんの精神状態と、『機関』を通して得られる情報くらいです。それに、閉鎖空間が生まれなくなったからといって、涼宮さんが他に発生させている情報爆発や時空の歪みが解消されるかは、僕には分かりません」
 古泉はそう言うが、俺にはハルヒの力がまるきりなくなったとはどうしても思えず、
「あの敵とやらはどうなんだよ。さんざん俺たちにちょっかい出して来ておいて、あれから水を打ったように何もないってのはおかしくないか」
 古泉はそこで俺に目線を向けて、
「それなんですが――」
「二人とももういいわよ!」
 ハルヒの声がかかった。俺たちは目を合わせて肩をすくめる。会話終了。
 それから部室に入るべくドアを開けようと――、

「誰か! 誰か来て下さい!」

 突如、誰かが叫ぶ声がした。
 見ると、二つ向こうのドアが開いて、そこからコンピ研の部員と思しき生徒が一人飛び出してきたところだった。俺と古泉は今一度顔を見合わせたが、すぐに走って眼鏡の彼の元へと向かう。
「どうしたんですか?」
 俺が訊くと部員の彼はコンピ研の部室を指差して、
「ぶ、ぶ、部長が……」
 それきり何も言わないというか、言えないようだったので、俺は開きっぱなしになっていたドアから部室に入る。久しぶりに入るコンピュータ研は機材が増えている気がしたが、注目すべきはそんな
ことではない。床に他の部員がしゃがみ込んで、誰かを取り囲んでいる。
「部長!」「しっかりしてください!」「どうしたんですか!」
 俺と古泉は声の中心にいる人物を確認した。
 間違いない。部長氏だ。気を失っているのかその双眸は閉じられ、力なく顔を横向けている。
「救急車を呼びましょう。僕に任せてください」
 古泉が携帯を取り出して廊下に出て行く。俺は部長氏の様子を確認すべく空いたスペースにしゃがみ込む。外傷を受けたような様子はない。
「部長氏に何があったんですか?」
 部員の一人に訊くと、髪が横になびくほど激しく首を振って、
「わ、分からない! 部長は普通にパソコンを使っていたはずなのに、突然気を失って倒れたんだ!」
「部長!」「目を覚まして!」
 他二名の部員が部長氏の肩を叩く。本気で心配している様子がひしひしと伝わってくる。俺としても部長氏及びコンピ研にはさんざんお世話になって迷惑をかけているから、こういう時こそ力になり
たいと思う。
「ちょっとキョン! 何があったの!」
 甲高い声に振り向くと、ハルヒが戸口に立っていた。俺は立ち上がってそこへ戻ると、部長氏が意識不明状態であることを小声で伝えた。
「古泉が今救急車を呼んでる」
「ちょっと、何それ……。いったい何があったのよ」
 ハルヒは口を押さえて、横たわる部長氏を見ていた。部長氏は喜怒哀楽の一切の表情を浮かべず、またぴくりとも動かない。にもかかわらず、調べたところでは呼吸と脈拍は正常らしかった。
「俺にも分からない」
 ハルヒはかなり心配そうな表情をしている。それこそコンピ研の他の部員たちに負けないくらいだ。
 だがハルヒが本当に心配しているのはたぶん部長氏ではない。何か不穏なことが起きる前兆なのではないか、むしろそっちを気にしているんだと思う。……俺と同じように。

 部長氏は、去年の夏休み前にも似たような状態に陥った。あの時はハルヒが描いたSOS団のエンブレムがたまたま数億年前から地球に潜んでいた情報生命体だかなんだかの依り代となり、それに部長氏が巻き込まれたって話だった。
 で、今はどうだ。さっき部員の彼は何を言っていた? パソコンを見ていて急に……?
 俺は再度コンピ研部員の輪の元へ駆け寄ると、部長氏の机で起動しっぱなしのデスクトップモニタを見た。

「……!!」

 そこにあったのはSOS団のエンブレムだった。
 しかし、ハルヒが描いたものでも、長門がリテイクしたものでもない。

 そう。
 俺が夢で見たのと同じ、あの色と模様の違うサインだった――。

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