※このお話は『月で挙式を』の後日談です※



 それは週が明けて、月曜日の放課後の事でした。
 文芸部室に響いた控えめなノック音に、は~い、どうぞ、とわたしが返事をすると、部室の扉が静かに開いて。


「こんにちは。おや、涼宮さんたちはまだですか」
「あっ、ううん、さっき少しだけ顔を見せたんですけど…」


 いつも通りの爽やかな笑顔で現れた古泉くんが、室内を見渡してそう呟きます。メイド服の胸元に丸いお盆を抱えたわたしは、軽く会釈しながらこれに答えました。


「なんだか職員室に用があるとかで、すぐにキョンくんの腕を引っ張って行っちゃいました」
「そうでしたか。ふふ、さすがは涼宮さん、こうと決めたら一直線ですね」


 いつものパイプ椅子に腰を降ろした古泉くんは、したり顔で頷きます。呆れたようなホッとしたような感心しているような、う~ん、なんとも形容しがたい表情ですねぇ。長門さんとは違う意味で、古泉くんは感情が読み取りづらいです。
 窓際の小柄な彼女と、長机の向こうの背の高い彼とをちょっとだけ見比べて、それからわたしは改めて訊ねかけます。


「ちょうど今、長門さんにお茶を淹れてた所だったんですけど、古泉くんも同じのでいいですか?」

「ええ、お願いします」


 将棋の棋譜らしき物を鞄から取り出しながら、古泉くんはそう答えました。でも、あれっ?


「あの、古泉くん…もしかして、疲れてますか?」


 思いついた疑問をそのまま口にすると、古泉くんはハッとしたように顔を上げました。ですけどその表情は、すぐに普段通りの穏やかな笑みに戻ります。


「気付かれてしまいましたか、これはいけませんね。
 あのお二人がようやく素直になってくれた事で、僕もいささか気が緩んでしまっていたようです。自重しなければ」
「えっと、それって例のナントカ空間のせいで…?」
「ええ。昨日は少しばかり、神人相手にアスレチックなどを」


 事も無げにそう言う古泉くんに、わたしは情けないですけど、少し取り乱してしまいました。


「ど、どうしてですかぁ? 涼宮さんは、そのぅ、キョン君とお付き合いする事になったんですよね? それなのに…」

「だからこそ、ではないですか」


 本物の先生よりもよほど先生らしい態度で、古泉くんは丁寧にわたしの疑問に応じてくれます。


「女性は恋をすると綺麗になる、とはよく言われる言葉ですが。実際誰かを好きになると、人は物事に敏感になりますよね。
 服の1枚、シャンプーの1本を買うにしても、彼の趣向に合うようにと、 いろいろ思い悩んでしまうものではないですか?」
「あ…それははい、そうかも…」
「喜びと不安の反復に心が揺り動かされる、それこそが恋愛の醍醐味と呼ぶべき物でしょうから。彼への思慕がやっと成就して、だからこそこれから先、涼宮さんがストレスを感じる機会は増えていくでしょう。
 それはある程度、仕方のない事です。むしろ『機関』としては、今回閉鎖空間が発生した事にホッとしているくらいですよ」
「ふぇっ!?」


 わたしは思わず、目を真ん丸にしてしまいました。それってもしかしなくても、閉鎖空間が現れて嬉しいって事ですよねぇ?


「困惑はごもっともです。我々『機関』は、閉鎖空間の発生をこそ抑えるべき存在ですからね。
 しかし彼と涼宮さんの性格を考えれば、いずれ衝突する事は目に見えています。いえ、それは僕らから見れば『痴話ゲンカ』と呼ばれる部類なのでしょうが。
 ただ恋愛というのが、常にハッピー万歳とは行かないというのは厳然たる事実です。もしも今の時点で、涼宮さんが幸せ絶頂で全てがバラ色、不幸な出来事など何も考えられないという精神状態だとしたら、さて彼とケンカをした時に一体どれほどの規模の閉鎖空間が発生する事か、想像するだに恐ろしいものがありますよ」
「あうっ…た、確かにそうですねぇ…」
「それを思えば、今の段階で涼宮さんがある程度のストレスを感じているというのは、健全な恋愛をしているという事の証明とも言えるでしょう。
 まあ、なるべく早く安定期に移行して頂きたい、というのが本音ではありますけどね」


 そう言って、古泉くんはぱちりと片目を瞑ってみせました。


「でもとりあえず、今の所は二人共通の目的もあるようですし、しばらくは安心かと思いますよ」

「二人共通の目的、ですか?」
「ええ、月を占領して、その独立記念式典の中で結婚式を挙げられるそうです。ちなみに彼が大統領で、僕は副団長あらため副大統領にして貰えるそうですよ。SOS団員である以上は一蓮托生だ、とかで」


 ふふっと、とても愉快そうに微笑む古泉くんに、わたしもつられて笑ってしまいます。


「へえ~、涼宮さんはともかく、キョンくんまでそんな大胆な事を言っちゃったんですか? う~ん、でも、それなら…頑張ってほしいですよね。わたしもせいいっぱい二人の事を応援しちゃいます!」


 ええ、わたしは本心からそう言ったつもりでした。
 ところがそれを聞いた途端、古泉くんの眉が片方、ぴくりと跳ね上がります。こころなしか、こちらを見る彼の目付きが険しくなったような…?
 ああ、雰囲気が怪しくなったのを察知したんでしょうか、それまでずっと膝の上の本を読みふけっていた長門さんもわずかに首を曲げて、わたしと古泉くんを交互に見やりました。ふぇ、わたし、何か気を悪くするような事を口にしちゃったんでしょうか…?


「…朝比奈さん」
「は、はいっ!?」
「実は前々から、お訊ねしたかったのですが」


 こほん、と古泉くんはそこでひとつ咳払いを打ちます。ど、どきどきしちゃいますね。いったい何を訊かれるんでしょう?


「今年の夏、皆で孤島へ合宿に行きましたよね。その際、あなたは初めて船を見たような事を言っていませんでしたか?」
「えっ、ああはい、あんな大きなのは…」
「ふむ」


 呟くと古泉くんはあご先に片手を当てて少し考え込み、それから改めてわたしを見据えました。

 あ~ん、これじゃ生殺しですよぅ! いっそバッサリと…斬り捨てられたくもないですけどぉ~!


「いつだったか、圭一さんから自慢語りに聞いた事があるのですが。海外ではクルーザーなどによる船遊びというのはある種のステイタスというか、貴族やエグゼクティヴのたしなみとして親しまれているそうですね」

「は、はあ…そうなんですか…?」
「他方で近年では、地球温暖化という言葉がよく使われるようになりました。極地の氷が溶け出す事によって世界的に海水位が上昇し、水の都と呼ばれるヴェネツィアなど、年々冠水の頻度が増しているとか」


 わたしが呆然としている間に、古泉くんは独り言のように話を進めてしまいます。ええと、つまり古泉くんは何を言おうと…?


「つまり、ですね。
 人類の歴史がこのまま推移して行ったなら、船舶の重要性は増しこそすれ、減っていく事はまずあり得ないのではないか、と僕には思われるのですよ」


 唐突なその一言に、わたしはぽかんと口を開けるばかりでした。そんなわたしをよそに、古泉くんはさらに言葉を続けます。


「この車社会とも呼ばれる現代日本においても、乗馬や競馬が趣味として楽しまれているように。また携帯音楽機器が一般化した昨今でも、まだまだ一部ではレコードプレイヤーが依然として流通しているように。
 どれだけ科学技術が発達したとしても、船がほとんど存在しない世界というのは、僕には想像し難いのです。あなたの歳で全く船を見た事がないというのは、かなり奇異な事だとさえ思えるのですよね」
「えっ、あ、あの…?」
「けれども実際、あなたは初めて船を見たと言う。ならば答えは簡単です。
 おそらく地球の歴史は、このまま穏やかには移行しない。戦争か、あるいは隕石衝突などの自然災害、もしくは核施設の事故やオゾン層の崩壊などが原因として予想されますが、ともかく未来の地球環境は火星のように荒れ果て、広大な海などは存在しない。
 いや、伝え聞いた話では海はあるようですが――有害物質で汚染されているか、それとも再度の氷河期によって一面凍りついている、といった所でしょうか。まさか月面のように、クレーターを『海』と呼称しているわけではありませんよね?」
「で、で、ですから、それはっ…」


 あたふたと反論を試みようとするわたしに、でも古泉くんはそれを許さず、さらなる推論で畳み掛けてきます。


「もちろん、そんな所に人が住めようはずがありません。地下かドーム都市、あるいはもはや地球上に生活圏は無いのでしょうか、月や軌道上の宇宙ステーションなどに人々は暮らしている、違いますか?」


 しかしこうして未来人を現代に派遣しているのですから、それなりに余裕はある。おそらくその頃には、大規模な宇宙開発技術を人類は手にしているのでしょうね――という古泉くんのセリフは、もう私の耳を素通りしていくばかりでした。
 わたしはただ真っ青になって大粒の汗をだらだら流して、とにかくこう答えるので精一杯だったんです。


「そそそ、それは…ううっ、禁則事項ですぅ~!」


 ところが。その返事を聞いた途端、長机を挟んだわたしの真向かいで、古泉くんは大きく息を吐いてみせます。それは、失望と落胆の溜息のように思えました。


「すみません、朝比奈さん。実は今、僕はわざとあなたを困らせるような質問をしてみました」
「えっ? えっ?」
「というのも、あなたに内在する現状での問題点を認識して貰いたかったからです」


 いいですか、と前置きして、古泉くんは問題児を前にした神父さんのような口調で語り始めたのでした。


「先程の僕の質問は、実はそれ自体には大した意味合いはありません。単なる仮説です。
 要はそれに対してあなたがどう答えたか、その点こそが問題なんですよ」


 古泉くんのその言葉に、わたしは自分自身の返答をもう一度思い返してみました。


「ええと、わたしは『禁則事項です』って…」
「そう、それです」


 頷く古泉くんの顔からは、全く笑みが消えています。その事が何より、この問題の切実さを物語っていました。


「あなたは未来にとって重要な、または不都合な情報に対して、禁則事項だと答えます。自分の意思で、あるいは施された強力な精神暗示によって。
 けれども状況によっては、『禁則事項です』と言う事自体が逆に答えとなってしまう場合もあり得るんです」
「えっ…?」
「いいですか? 我々現代人にとっては、ですね」


 わたしが理解しやすいようにという配慮なんでしょうか、古泉くんは一言一言、ゆっくりと言葉を紡いでいきました。


「宇宙開発など、まだまだ夢物語なんですよ。宇宙船の実物など、ほとんどの人がニュースか博物館でしか見た事がありません。そう、あなたが船を見た事がなかったように」
「は、はぁ…」
「だのに、あなたは僕の『未来の地球と、それに伴う人類の宇宙進出』というSFじみた空想に、大マジメに反応してしまった。
 普通の人なら『まさか、そんなハズないじゃないですか、もう!』と一笑にでも付してしまうような話にですよ? それに『禁則事項です』と答えるという事は、つまり――」
「あっ!?」
「そう、冗談を真に受ける、というのはイコール、あなたにとってそれは冗談ではない、という事なんです。
 察しのいい人間ならば、気付いてしまえるんですよ、朝比奈さん。今のあなたの受け答え方では、ね」


 深刻な懸案を指摘され、蒼白になってうつむくばかりのわたし。その正面で、古泉くんはパイプ椅子に腰掛けたまま、再び重い息を吐きました。


「今さら言うまでもありませんが。我々は涼宮さんにはもちろん、彼にも過度の情報提供は控えるよう、心掛けています。

 なぜなら未来人的、宇宙人的、超能力者的な情報を知れば知るほど、彼は“普通”の生活から逸脱してしまうからです。
 彼の情報源としての利用価値が増すほどに、彼の身が危険にさらされる可能性もまた、飛躍的に上昇してしまう。それ故に、我々は常に真偽があやふやな情報ばかりを彼に与えてきました」
「…はい」
「…………」


 わたしも、それから長門さんもほんのわずかにですが、小さく頷きます。古泉くんもひとつ頷いて、それから改めて口を開きました。


「彼もまた、敢えて我々の内情を探るような真似はしてきませんでした。それはとても賢明だと言えますし、また彼がそういう誠実な人であったからこそ、こうして我々もお互いに友情を育む事が出来たと僕は思っています。しかし、ですね」


 ちらりと、古泉くんがこちらを見やります。それは射抜くような鋭い視線でした。


「彼とて人の子です。何か重大な決断をした時に、その結果がはたしてどうなるのか、本当にこの選択肢で良かったのか、それを知りたくなるのはどうしようもない人の性なのです。
 その意味で、朝比奈さん。これから先、彼にとって相対的に重要度が増すのは、未来人であるあなたなのですよ」
「わ、わたし、ですか!?」

「ええ。彼は先の週末に、これから先の人生を涼宮さんと手と手を取り合って歩んでいこうと決めました。宇宙を目指して飛び立とうと決意しました。その目標が、さてどれだけ達成できるのか――興味を持つな、と言う方が無理な話です。
 もちろん、彼はあからさまにあなたに訊ねたりはしませんよ。そんな事をしてもあなたを困らせるだけだ、というのは分かりきった事ですからね」


 わたしもその通りだと思います。キョンくんは、人を窮地に追いやるような事を強要したりなんて出来ない人です。それは絶対です。でも。


「でも、会話の中でついつい好奇心を引かれたりとか、そういう事はあり得るんですよね、やっぱり…」
「その通りです。けれども未来の情報を知る事は、彼自身の首を絞める事に直結しかねない。だから」 


 次の瞬間、わたしは自分の目を疑ってしまいました。目の前の古泉くんが、わたしに対して深々と頭を下げたんです。


「お願いします、朝比奈さん。どうかあなたには、人の質問をうまくはぐらかす、というスキルを身に付けて頂きたい。
 未来世界からの監査官であるあなたに、『機関』の一構成員である僕がこんな事を申し付けるのは僭越だとは分かっていますが、どうか…」

「はわわっ、い、いえっ、顔を上げてください! 元々はわたしが至らないせいなのに、古泉くんが、そんな…」


 恐縮してしまって言葉も出ず、ぱたぱたと手を振るばかりのわたしに、古泉くんはしばらくしてからようやく顔を上げ、そして安堵の笑みを見せてくれました。


「ふふ、そうかしこまらないでください。それから今、僕の言った事もあまり重苦しく受け止めないで頂きたい」
「えっ…?」
「過剰に強く意識しすぎるあまり、涼宮さんたちに怪しまれたりしては本末転倒ですからね。
 少しずつで良いんです。姉が弟をあやすように、彼を軽くあしらえるような大人の女性になって貰えれば、というのが僕の希望ですから」
「わたしが…キョンくんを軽くあしらう、ですか…?」


 そんな大人になったわたし、正直、うまく想像できないですねぇ。というより、大人と言うなら…。


「わ、分かりました! それならわたしは、これから古泉くんの立ち振る舞いを参考にさせて貰いますっ!」


 自分を奮い立たせるようにわたしが宣言すると、古泉くんは、ぱちくりとひとつ瞬きをしました。


「はあ。僕を参考に、ですか?」
「はいっ! 古泉くんはいつもすっごく落ち着いてるっていうか、どこかたたずまいに余裕があるんですよ。
 涼宮さんもキョンくんも、そういう部分で古泉くんを信頼してる気がして、本当はわたし、前からとっても羨ましかったんです! だから」


 今度はわたしが、古泉くんに頭を下げる番ですね。


「ふつつか者ですけど、わたしも大人の女性を目指して頑張るので、これからも指導をお願いします!」
「ふふ、了解しました。でも本音を言えば、非常に面映い気がするのですけれどね。はたして僕ごときで参考になりますでしょうか」
「そんな、ごとき、なんて言わないでくださいよぅ! さっきの頭を下げてる時の古泉くんも、とっても大人っぽかったですよ? ああいう事が普通に出来るなんて、すごく立派です!」


 わたしがそう言うと、古泉くんはくすりと小さく笑いました。あぅ、ちょっと力説しすぎちゃったでしょうか。


「いえいえ、あの程度の事など何でもありません。なにしろ僕は将来、大統領を支えなければならない身ですからね」


 長机の上で指を組み合わせながら、古泉くんは冗談めかした口調でそう答えます。でも糸のように細められたその両の眼は、割と本気っぽいようにわたしには思えました。


「先日に、彼から『月の初代大統領になる』と聞かされた時は正直、呆気に取られましたよ。でもすぐに、僕はこう思ったんです。
 はたして彼が為政者となったなら、一体どんな政治を見せてくれるのだろう、と。その世界をこの目で見てみたい、と。
 その途端、僕は心がわくわくと弾むのに気が付いたんです。そう、こんなに胸が躍るのは初めてかもしれません。今は確かに夢物語ですが、しかしだからこそ挑戦のし甲斐があるじゃないですか」


 まるでお芝居の一幕のように論説する古泉くん。その表情は本当にとても楽しそうですね。あれっ、でも…?


「彼がどの程度まで本気なのか、さて、それはまだ分かりません。僕たちが存命中に、はたして人類が月に居住圏を築けるかどうかも。
 しかし月の征服はともかく、為政者となるだけならばそれなりに現実的な話です。ええ、僕は出来うる限り彼のサポートに努めますよ。人に頭を下げるくらいは、なんでもない事です。
 さらに僕が今後『機関』の中枢に昇り詰めれば、資金面でも十分に彼への支援が出来るでしょう。いや、必要ならば実働部隊をすら――」
「えいっ!」


 その時、ポコン、という間の抜けた音が部室に響きます。それは古泉くんの隣に歩み寄ったわたしが、彼の頭にお盆を振り下ろした音でした。あ、もちろん全力でではないですよ。軽くはたく程度です。

 でもよほどビックリしたんでしょう。古泉くんが魂の抜けたような顔で、わたしを見上げています。長門さんもぱちぱちと数回、瞬きをしましたね。そんなに意外な行動だったでしょうか。うん、実は自分でもビックリしてるんですけど。


「あ、朝比奈さん?」
「叩いたりしてごめんなさい。でも」


 豆鉄砲を喰らった鳩みたいな顔の古泉くんに、わたしは前屈みになって人差し指を突きつけながら、こう言いつけました。


「ダメですよぅ。今の古泉くん、とっても悪い顔してましたよ?」
「…悪い顔、ですか」
「あっ、別にブサイクだとかそういう意味じゃなくって、え~っと、つまりその、時代劇なんかに出てくる悪代官っぽい雰囲気っていうか…とにかく、そんな感じだったんです!」


 うう、やっぱりわたしは至らないですね。古泉くんみたいな理路整然としたお話ができません。でも何故だかさっきは、古泉くんのそんな様子を見逃しちゃいけない気がしたんです。


「古泉くんが、自分のために悪い事を考えてたんじゃないっていうのは分かってます。でもやっぱり、ダメですよぅ。古泉くんが人に後ろ指を指されるような事をしたなんて知ったら――キョンくんは絶対怒りますし、悔しがりますもん!」


 わたしのその言葉に、古泉くんはしばらく焦点の定まらないような瞳をこちらに向けていましたが、突然肩を震わせて、大きく笑い始めました。
 なんでしょう。こんなにバカ笑いしてる、って言ったら失礼かもしれませんけど、古泉くんを見たのは初めてな気がします。


「ふっふふふ。いや、申し訳ありません。僕は少々あなたを見くびっていたようです。どうぞお許しください、朝比奈さん」
「えっ? あの、それはどういう…?」
「あなたの指摘は実に的確だった、という事ですよ」


 まだ笑いが収まらないのか、古泉くんはクックッと喉を鳴らしています。うーん、何がそんなにツボにはまったんでしょうか。


「ええ、先程、僕はこう言いましたよね。為政者としての彼を見てみたいと。でも同時に、僕はこうも思ったのです。
 政治というのは、時に冷徹な決断もしなければならない世界。100人を救うために50人を見殺しにするような真似が、はたして彼に出来るのだろうか、と。
 そして、こう考えたんです。もし彼が出来ないのであれば、自分が代わりにやるべきではないのか。そう、彼のためにこの手を汚すのが僕の役割ではないのか、とね」


 はぅ。そ、そこまで深く考え詰めてたんですか?
 わたしが呆然としている間に、古泉くんはフッと自嘲ぎみの笑みを洩らします。


「しかしそれは実に子供っぽい、思い上がった正義でしたね。僕はただ、自分肯定のための自己犠牲にひたっていたようです。
 彼に未来世界を共に行こうと言われた事が、『機関』以外での居場所を示された事が嬉しくて、その期待に是が非でも応えたくて。
 でも朝比奈さん、確かにあなたの言われる通りですよ。もしも独断でそんな事をしていたら、僕は彼に軽蔑を――」


 古泉くんが、それ以上の言葉を口にする前に。わたしはもう一度お盆を振り下ろし、部室にはまたまたポカンという間の抜けた音が響きました。


「だからダメですってば、古泉くん! たとえ自分の事でも、人を悪く言ったりしちゃいけないんですっ!」
「は、はあ…」


 当惑しきっている彼に、わたしはお姉さんっぽく上から言い含めます。さっきの古泉くんの要請通り、ちょっと大人ぶってみたんですけど、う~ん、これって結構、気分が良いかも? なんだか癖になっちゃいそうです。


「うん、自分の事をそんなに悪く言わないでください。
 わたしはやっぱり、キョンくんにはあなたが必要だと思うんです。何か特別な事なんてしなくても、ただ友達として、古泉くんが居る事がキョンくんの助けになると思うんです。
 だから、だから古泉くんも長門さんも、出来るだけ長くキョンくんと涼宮さんの傍に居てあげてください」
「…朝比奈さん?」
「勝手なお願いをしてごめんなさい。でもわたしはたぶん、ずっとこの時間平面には居られないんです。
 いつか、帰らなければならないんです。たとえ帰りたくなくっても…だから…」


 ええ。古泉くんにも長門さんにもそれぞれの立場がありますから、一方的にこんなお願いをするのはずるいのかもしれません。でもわたしは、言わずにはいられませんでした。皆で一緒に居られる“時間”という目に見えない物を、もっと大切にしてほし…。


 ピィ~~~ッ!!

「ぴゃうっ!?」


 唐突に鳴り響いた甲高い音に、わたしは目の前で手を叩かれた猫みたいに飛び上がってしまいました。背筋を引きつらせながら振り返ると、そこではコンロに掛けた笛付きケトルがしゅんしゅん湯気を立ていて。わたしは大慌てでそちらに駆け戻ります。
 はうう、お話に夢中になってて、お茶の用意をしてたのをすっかり忘れちゃってましたぁ!


 う~、こんなにちんちんじゃとても飲めたものじゃないですね。冷めるまでもう少し、お二人を待たせる事になりそうです。やっぱりわたしはまだまだ至らないなぁ、とコンロの前でそう思っていると、背後で朗らかな笑い声が上がりました。


「いや、これはこれは。僕は改めて、政治家としての彼の将来を応援したくなりましたよ」
「えっ?」
「大事なお茶の事を忘れてしまうほど、未来人にこれだけ熱烈に支持されるているのですからね。彼が選挙に打って出たなら当選は絶対確実でしょう」


 そう言って古泉くんは含みありげに、ぱちりと片目を瞑ってみせます。えっ、あの、それは…ああ、はい!


『まさか、そんなハズないじゃないですか、もう!』


 ちょっとわざとらしい口調で、わたしはそう答えました。これに古泉くんは満足げな表情で頷いてみせます。うふふ、わたしも少しは成長できたんでしょうか。
 古泉くんも、今はすっかりいつもの彼に戻ったみたいですね。この切り替えの早さ、やっぱり古泉くんはすごいです。心の中でそう尊敬の念を新たにしていると、彼は不意にその目線を窓際に向けました。


「ところで、長門さん。あなた、さっき笑ってませんでしたか? 僕が朝比奈さんに頭を叩かれてた時に」
「ない」


 いきなりの詰問に、長門さんは全く顔色を変えずに即答します。けれども古泉くんは、そんな彼女をさらに問いただしていました。


「そうでしょうか。朝比奈さんにやり込められる僕に、やけにニヤニヤとした視線が向けられていたような気がするのですが――本当は笑ってましたよね?」
「…笑ってなどいない」
「じゃあどうして目を逸らすんですか!」


 なんだか不自然に窓の外を向いていた長門さんは、古泉くんの詮議にじろりと…いえ、いつも通り無表情なままなんですけどなんとなくそんな感じで彼を見据えて、それから何故か、わたしの方を見やりました。


「その質問に答える必要はないと思われる。なぜなら、あなたが本当に訊ねたいのは別の案件だから」


 一方的にそう告げると、長門さんは本を閉じてパイプ椅子から立ち上がります。そうして涼宮さんの居ない団長机に歩み寄って――ふぇ、どうしてパソコンを立ち上げるんですか?


「朝比奈みくる」
「は、はい?」
「あなたに渡したい物がある」


 抑揚のない声でそう言うなり、長門さんはパソコンの上に右手をかざして、ブツブツと早口で…ええと、いわゆる“呪文”を唱え始めました。するとキーボードに触れてもいないのにプリンターが勝手に動き始めて、そこから何かが印刷されてきま…


「ええっ! こ、これって!?」


 わたしは自分の顔からこぼれ落ちちゃうんじゃないかってくらい、そのくらい大きく目を見開いてしまいました。そこに印刷されていたのは、先週末に行った結婚式場で新郎新婦に扮したキョンくんと涼宮さん、その二人が納まった記念写真だったんです。

 ブーケを持って椅子に腰掛け、純白のドレスがかすむくらいにまばゆい笑顔を見せている涼宮さん。気恥ずかしそうに視線を逸らしながら、でもしっかり涼宮さんの肩に手を置いて、寄り添い立っている白いスーツのキョンくん。
 素敵です…もう、言葉にならないくらいに素敵です。で、でも!?


「どうしてこんな写真があるんですかぁ!? あの日、キョンくんは…」


 そう、写真撮影を始める前に、涼宮さんを見るなりキョンくんは気絶してしまったから、だからこんな写真は撮れなかったはずでは?
 そんな疑問に、長門さんはあっさりと答えてくれました。


「その通り、写真撮影は行われていない。これはわたしの記憶内情報を基に変換構築した画像」
「へ、変換構築?」
「端的に言うならば…妄想の産物」


 はあ、妄想ですか。それって…いえ、何でもないです。

 っていうよりコレ、偽造とかいうレベルじゃないですよぅ! わたしには本当に本物の記念写真としか思えないです。それにしても、どうして長門さんはこんな物をわたしに?


「我々は」


 と、わたしの内心の疑問を読み取ったかのように、長門さんは水銀のような瞳をこちらに向けながら、静かに言いました。


「立場も異なるし、思惑も違う。けれども“それ”に関しては、見解を同じくしていると思われる」


 ええと…まるで謎掛けですね。“それ”に関しては?
 次の瞬間、わたしは、あっと小さな呟きを洩らしていました。そう、この写真はさっきのわたしのお願いに対する返事だったんです。


『古泉くんも長門さんも、出来るだけ長くキョンくんと涼宮さんの傍に居てあげてください』


 長門さんの言っていた、古泉くんが本当に訊ねたい事というのも、あのお願いへの答えだったんでしょう。つまり、長門さんはこう答えてくれたんです。


「わたしも、彼と涼宮ハルヒとがこうなる日を迎える事を望んでいる」


と。

 ぐすっ、うう…いけませんね。もっと大人の女性にならなきゃって誓ったばかりなのに。でも、嬉し涙が止まりません。


「先程あなた自身が述べた通り、あなたには本来の時間平面へ帰還する義務がある。故に、その光景を実際に目視する機会には巡り合わせない可能性が高いと考え、その画像を構成した。…不満だった?」
「い、いえっ! そんな、そんなわけないじゃないですかっ!
 嬉しいです、とってもっ! わたし、この写真を宝物にします!」


 長門さんの推測通り、涼宮さんとキョンくんが結婚式を挙げたとしてその時にはもう、この世界にわたしは居ないかもしれないんです。そんなわたしにとって、この写真は本当に――。


「ええ、まさしく宝物と呼ぶにふさわしい一枚ですね。
 さながら様式美の極致といった所でしょうか。収まるべき物が収まるべき所に収まっている、そんな感じがします」


 いつの間にか団長机に歩み寄っていた古泉くんも、微笑を浮かべながら写真に見入っていました。

 そうですね、わたしも全く同じ気持ちです。さっきの長門さんの言葉を借りるなら、この写真は妄想の産物であり、あり得ない一枚なんです。でもお二人が添い並ぶ姿は、なんて自然なんでしょうか。
 出来る事なら、この写真を世界中の人に見せびらかしたいです。学校の屋上から何百枚も何千枚もばら撒きたいです。もちろん、それは許されない事なんですけど、でも。


 わたしは、古泉くんと長門さんを見ます。古泉くんと長門さんもお互いに顔を見合わせます。言葉に出すまでもなく、わたしたちの思いはひとつでした。
 いつか、この光景を必ず現実のものに――。


「ところで長門さん、僕にもこの写真を貰えませんか?」
「…………」
「いいじゃないですか、SOS団の仲間同士でしょう?」
「…………」
「ああ、なぜか急に駅前レストランの限定スペシャルカレー特盛りコースをあなたにご馳走してさしあげたくなりました」
「わたしたちはSOS団の仲間同士。了解した」
「ではついでに、彼と僕とのツーショット写真なども」
「それは断る」


 え、え~と、わたしたちの思いはひとつ、ですよね?
 ちょっと頬を引きつらせたわたしの前で、長門さんが再びパソコンの上に右手をかざします。けれど次の瞬間、長門さんは野生の鹿みたいにピクッと何かに反応しました。


「どうかしましたかぁ、長門さん?」
「…涼宮ハルヒがこちらに来る。彼も一緒」
「ええっ!?」
「どうやらそのようですね。朝比奈さん、すぐにその写真を隠してください。急いで!」
「ひゃ、ひゃいっ!」


 そ、そうです、この『あり得ない一枚』を涼宮さんに見られるわけにはいきません!

 古泉くんに促されて、わたわたと大慌てで鞄を開くわたし。そうしている間にも、だんだんだんだん!と恐竜みたいな足音がすごい勢いでこちらに近づいてきます。ひょえぇ~!

 き、気ばかりが急いて手元がおぼつきません。それでもどうにか写真を鞄にしまいこんで振り向いた途端、どか~ん!と盛大な炸裂音と共に部室の扉が開きました。


「あーっ、もう! 岡部から何から、ホント肝心な時に役に立たない連中ばっかりね! あんなのでよく教師でございって名乗れるもんだわ!」


 憤懣やる方ない!と書いてあるような顔で現れた涼宮さんは、そうしてどっかどっかと足音を轟かせながら団長机に向かいます。
 そのあまりの剣幕に、わたしは思わず古泉くんの――その頃には彼も長門さんも、当然のようにいつもの定位置に納まってました――顔色を窺ってしまいます。けれどもこれに、古泉くんは微笑したまま肩をすくめてみせました。
 どうやら見た目ほど荒れてはいないようです。それは涼宮さんが、右手にキョンくんの手を握っているからなんでしょうか。


「仕方ないだろ、岡部たちだってあんな事訊かれたのは初めてだろうし。
 いきなり、宇宙飛行士になるにはどういう進路を選べばいいのか教えろ!って詰め寄ったってなあ」


 キョンくんも半ば呆れ顔を浮かべながら、そう言って涼宮さんをなだめています。ああ、二人はそれを調べるために職員室へ行ってたんですね。


「分からないなら分からないって最初から言えばいいのよ! とんだ時間の無駄使いだわ!」
「そう言うなって。先生たちは先生なりに一生懸命、調べてくれたんだからさ」
「結果が出なけりゃ意味ないでしょ! 生徒の要望に応えられないなんて、職務怠慢だわ! 刑事告発モノよ!」


 ポンポンと、機関銃のように飛び出す涼宮さんの激昂。けれどもキョンくんもさすがに手馴れたもので、優しい眼差しでこれに受け応えます。


「まあ、それだけ普通じゃない道だって事だろ。
 だからこそ、俺たちが切り拓いていく意味があるんじゃないのか」


 そのセリフに一瞬、きょとんと目を丸くする涼宮さん。それからすぐに彼女は満面の笑みで、ばしーっ!とキョンくんの肩を叩きました。


「キョンのくせに、言うじゃない。そうね、ウダウダわめいてたって何も始まらないわ、とにかく情報収集あるのみよ!
 って事でみくるちゃん、お茶お願いね! キョンの分も!」
「は、はいっ!」


 痛みに顔をしかめるキョンくんを伴って、パソコンの前に陣取る涼宮さんに、わたしはほとんど条件反射でそう返事をしていました。ちょうどケトルのお湯が、いい感じに冷めてきた頃合いですね。あ、でもそうしたら古泉くんと長門さんの分がまた後回しに…。

 ちらっと、わたしは二人の様子を窺います。すると古泉くんはわたしの心情を酌んだかのように、お構いなく、と小さく頷いてくれました。長門さんも同様です。わたしはごめんなさいと心の中で頭を下げて、それから淹れたてのお茶を涼宮さんたちの下へ運びます。


「はい、どうぞ」
「さんきゅー、みくるちゃん! うーん、いつもながらいい仕事してるわ!」
「ありがとうございます、朝比奈さん。ってこらハルヒ、せっかくのお茶なんだからもっと味わって飲めよ」
「なに言ってんの、勿体つけてる間に冷めちゃったりしたら、それこそ台無しじゃない! だいたいあんたはね…」


 うふふ、キョンくんを相手にしている時の涼宮さんは、本当に溌剌としてますね。そんな涼宮さんに、とぼけたりはぐらかしたりしつつも、なんだかんだできちんと向き合っているキョンくん。本当にこの二人はお似合いです。

 そうしてふと、わたしはさっき長門さんから貰った記念写真の事を思い返します。あの写真を見た時、わたしはほんのちょっと、ちょっとだけですけど、胸の奥で何かがちくっとする感じを覚えました。それはひょっとしたら、古泉くんや長門さんも同じかもしれませんね。でも。
 やっぱりこの二人は、見ていてとっても微笑ましいですもん。だからその気持ちを踏まえた上で、わたしたちは笑顔でこう言う事が出来ますよ。


 涼宮さん、キョンくん。どうぞ、お幸せに――。


 にぎやかに論争を繰り広げるご両人の背中に、小さくお辞儀をして。わたしはこっそりと、二人の未来にエールを送ったのでした。




お幸せに   おわり


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