一月の終わり際。
 年明け早々前の年に戻って過去の自分を救う、という俺的偉業を長門と朝比奈さんの協力を受けて何とか成し遂げ、さらに慣れない励ましの真似事なんぞをして、青色吐息だった朝比奈さんの憂鬱も少しは拭われたと思われ、そんなこんなでようやく、本当にようやく俺は一心地つける心境となっていた。
 今は放課後であり、このSOS団での裏方なんだか事務雑用なんだか分からないトンデモ現象の処理班としての役目、もとい宿題を片付けた俺は、すっかり元の笑顔を取り戻していた朝比奈さんが手ずから淹れてくださったお茶を隠遁後の老人のように目を細めてすすっていた。「ばあさんや」と呼びかける相手はいないものの、まぁその役目をさせる奴がいるなら向かいのこの男が妥当だろうか。
「平和だな」
 俺はぽつりと呟いた。老婆役としてはいささか笑顔が爽やかすぎるこの男ことSOS団副団長、古泉一樹は黒ひげゲームの剣を樽に刺して答える。
「そうですね。僕のほうも、ここしばらくは普通の高校生らしい生活を謳歌させていただいています」
 さっそく老人設定をぶち壊しにする発言をする古泉は、超能力者とか抜かしておきながら俺の心中をまるで察していなかったが、こいつと以心伝心な関係になったとあっては毒素を存分に含んだ噂の煙がくすぶりかねず、そういうわけで俺はここで本来の立場に回帰することとした。
「高校生らしい生活、ね。この放課後が果たしてそれに該当するのかは分からんがな」
 俺は窓を見た。それなりに晴れていて、それなりに雲も散っていた。何とも言いがたい天気だが、今見ようと思ったのはそれではなくて。
 その窓辺で今日も熱心な読書家としてページを繰るのは長門有希のカーディガン姿に他ならない。
本読んでる時だけ眼鏡があった方が絵になるのかもしれないが、眼鏡属性どうこう言い出したのが俺自身である以上、今さらもう一度かけてみないか、などと言い出せるはずもない。俺は束の間の感傷に浸ってしまう。ほんの三週間前。長門が、宇宙人属性を無くしちまったもう一人の自分に向けて短針銃を放った時の横顔と、その後過去の自分に向けて言った一言を思い出す。
「あなたはあなたが正しいと思う行動を取れ」
それがあいつの意思で出てきた言葉だった。たぶん、その言葉を受けて長門はあの病室で俺に礼を言ったのだ。それから今日まで、長門はさらなる変化を遂げてきている。それはSOS団ができてから今までよりずっと急速な、長門自身が変わりたいと願っているから起きているかのような、そんな変化だ。
 ふとこちらを向いた長門と目が合った。長門はしばしの硬直ののちに、ぱちぱちと瞬きをして首を傾ける。俺は愛想笑いめいた使い慣れてない表情を返した。長門は少し不思議そうにしていたが、やがてまた本の世界へと戻って行った。
 俺が前を向いてゲームの剣を一本取り上げると、古泉が不気味な笑い方をしていた。何だよそのわが子の成長を見守る父親のような目は。
「いいえ、なんでもありませんよ。ただ、この部室にいると誰もが変わっていくんだなぁ、などと思ってみただけです」
 何だその小学生の一行日記のような感想は。まぁ言ってることには同意しないでもないが。
「キョンくん、お代わりいりますか?」
 ふと見ると朝比奈さんの愛らしい童顔がすぐ近くにあった。おぉ、何たる幸運。こりゃ今日はいいことありそうだ。一日が既に半分以上過ぎているというツッコミはこの際なしにしてもらいたい。
「はい、お願いします」
 俺は慇懃にお辞儀をして言った。古泉と長門からも空になった湯飲みを受け取った朝比奈さんは、嬉しそうに笑ったままで二杯目のお茶を給仕すべくコンロへと舞い戻った。
 まことによろしいSOS団的日常風景だった。俺は知っている。この時間には世界中の国宝や文化遺産を束にして持ってきてもかなわないくらいの価値とありがたみがあると。それもこれも、今はまだ空席の団長机に座るだろうこの団の主が、一年以上前に感じるくらい遠くなったあの春の日、目玉が飛び出て三日は戻らないような仰天発言をしたことに始まったのである。本当に色々あったし、まだまだこれからも色々あるんだろう。今だから言える。楽しかった。そして、まだまだ楽しむつもりだ、と。
 さて、こんな風にモノローグしているとまるで大きな事件が始まってしまう下準備のように思えてしまうが、そんなことはないはずだ。……たぶんな。

「やっほーみんな! 元気してるかしら?」
 いつものようにハルヒは真夏の酷暑を思わせるエナジー無尽蔵の笑顔で部室に入場した。既に勢揃いしていた団員四名は、条件反射か自然反応か、全員が一度ハルヒを見て、あるものは黙礼、あるものは無反応、あるものは無垢に挨拶、あるものはしかめっ面しつつも内心は別の心境だったりした。
 SOS団団長、涼宮ハルヒは、自らが立ち上げる年中行事やその他イベントの準備、またそれらがない日に掃除当番が当たったりして、何かと最後に部室に現れることが多いのだった。演出にしちゃ偶然ができすぎているが、こいつは望みを部分的に具現化しちまうらしいから、確率を持ち出すほうがこの際野暮ってものだろう。

 さて、それじゃこの日ハルヒが何か新しいことを始めたのか? と言えば答えはNOだった。この日は途中鶴屋さんが部室に寄って行ったり、彼女も交えてひさびさにコンピ研相手に研究開発中らしい『TheDay Of Saggitarius4』でのテストプレイを兼ねたゲーム対戦をしたりしたのだが、特筆すべきことはない。
 ん。それなりにあったのかもしれないが、俺としちゃこの日のクライマックスはそこじゃなかったのだ。

 時間は終業間際だった。対戦は三十分ほど前に終了し、鶴屋さんはその少し前に用事があると言って途中退席した。彼女の戦艦を急遽バトンタッチされた朝比奈さんが盛大に慌てていたが、直後長門が新機能のスペースワープを使ったフェイクによるトラップを発動させて、今回も我々SOS団が勝利を収めたから、麗しの先輩の脈拍もさほど上がらずにすんだであろう。俺としても胸をなで下ろす次第だ。

「な、何よこの大雨!」

 突如叫んだのはハルヒだった。俺は思わずぽかんと口を開けてしまった。ほんの少し前まではあの晴れなんだか曇りなんだか表現しづらい空模様だったはずが、突如としか言いようのない急激さで外は本降りの雨となっていた。今日の天気予報には注意を払っていなかったが、真冬にこれだけの雨が降るってのはなかなか珍しいことのように思う。
「困りましたね」
 言ったのは古泉である。顎に片手を当てて思案顔。
「あぁぁー、わたし折り畳み傘持ってないです……」
 と朝比奈さんは困惑顔。
「……」
 長門は窓の外を見ていたが、やがてこちらを向いて首を傾けた。どうやらこいつも傘を持ってないらしい。
「うーん。参ったわねぇ、あたしも傘持ってな…………あ!」
 突如ハルヒは手を叩き、三歩で部室の隅にある物置に歩み寄ると、ごそごそ漁って、
「じゃーん!」
 取り出したのは見覚えのある傘である。えぇと。確かあれは二ヶ月ばかり前だったか? 俺の記憶が確かならば、ハルヒが自慢げに掲げるその傘には持ち主の名前ではなく「職員用」の三文字が書かれているはずである。お前、まだ返してなかったのか。
「借りてたこと自体忘れちゃってて、年末まで家に置きっぱなしだったのよ。大掃除の時に部室に持ってきたんだけど。そこからまたそのままだったみたい」
 ツッコミどころ満載だが今は一本でも傘が手に入ったことがありがたい。
「さすがに全員は無理だけど、これで何人かは入れるな」
 俺は得意顔のハルヒに言った。最低でも女子団員三人に傘を使ってもらって、俺と古泉は濡れ鼠でもかまわん。

 かくして、俺たちは下駄箱まで移動した。時間すでに終業時刻を大きく過ぎていた。

「あ! 傘もう一本みっけ!」
 ハルヒが叫んだ。見ると傘立てに忘れられて久しいと思われる埃をかぶった傘が一本あった。他に置き忘れがないものかと期待して探してみたが、ハルヒが見つけた一本を除いて他にはないようだった。
「これで二本ですか」
 ふたたび全員が集まったところで古泉が言った。新たに見つかった傘は普通の大人用。職員用のはかなり大きめだったから、三人入れないこともない。
 ここでハルヒが急に怪しげな笑顔を浮かべ、俺が何かと訝る間もなくこう宣言した。
「くじ引きしましょ! いつもの市内不思議探索と同じように、二人と三人に分かれるの!」
「な、何!?」
 俺のリアクションをよそに、雨はざんざか降り続けていた――。


 後半へ

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