翌日の朝は恐ろしく寒かった。昨日までとうって変わって、空は深く厚い雲が一面を覆い、雪が降っていないことが不思議なほどだった。だが、思い返すと昨年末のあの日の早朝、由梨が時間を止めていたあの時に降って以来、この街で降雪は観測されていない。

 昨日のハルヒの話を思い出しながら朝食や身支度を終えると、俺は玄関から外に出た。
 最初に吐いた息が真っ白になる。そして、その向こうには――、

「長門……」

 有希。今日も眼鏡をかけて、マフラーにコートを着ている。
「おはよう」
「おう。……おはよう」


 昨日の夕方、ハルヒは続けてこう言っていた。
「有希はね、古泉くんを好きになったことに、すごく後ろめたさを感じてるのよ。それがどうしてなのか、はっきりとは言わなかったけど。ひょっとしたら、それでSOS団の関係が崩れちゃうって思ってるのかもしれない。SOS団は原則恋愛禁止ってことになってるしね。だからあたしは有希に言った。
『有希が本当に古泉くんを好きになったなら、あたしは止めないし、できる限り応援する』って。それからこのゲームを考えた。有希が古泉くんに近づくことに臆病になってしまってるなら、近づける舞台を用意すればいいんじゃないか、って。けっこう長い時間がかかったんだけど、あたしは有希の了解をもらうことができた。だから、できればうまく行ってほしいなって思ってる。勝手なおせっかいかもしれないけどね……」


 顔を横向けた時のハルヒの表情が印象に残っている。そして今、目の前には当の有希本人がいる。

 俺は考える。いつからだったのだろう……と。

 夏以来、俺と長門はある部分で距離をとっていた。それは知らぬ間にできた暗黙の領域で、だからこそ俺は長門の気持ちの変化に対し、これまで以上に鈍くなっていたのかもしれなかった。ハルヒが言っていた長門の「後ろめたさ」とはおそらく、俺が答えを先延ばしにしていたあの夏の日々によるものだ。

 俺は思う。長門は今、誰かを好きになることを怖がってしまっているのではないか……と。

「今日は寒いよな」
「さむい」
 手袋をしておくべきだった。手ががちがちになる。いつもより固まったように感じる大気の中を、頼りない音を立てて自転車が走る。


「キョン、無理にとは言わないけど。できたら、有希を助けてあげてほしいの」


 ハルヒの言葉が浮き上がってくる。……あいつ。恋愛うんぬんをさんざんバカにしてたクセして、いざ団員が誰かを好きになったら、ちゃっかり応援してるじゃねぇか。こんな回りくどい方法を使ってまで。
 長門に言ってやれることなら、それこそ山のようにあるはずだった。俺が謝ることだってできたし、古泉が断ったらあいつにバツゲームを課してやるとか、もっと自信持っていいとか、お前はもう立派ないち女子高校生だとか、自分らしくやっていけばいいとか、そんなありふれたような、安っぽいような言葉なら、いくらでも。
 けど、そのどれが適切なのか、そもそも俺にそんな偉そうなことを言う権利があるのか、分からなかった。そのもどかしさが、正体不明の苦しさを俺の胸に運んできた。……何なんだ。夏にもこんな感じになった。別に身体の具合はどこも悪くないのに、息が詰まるような、頭が熱いような。
 言葉が跳ね返って、ぶつかり合って、それで何も分からないまま、結局一言も話せない。

 自転車は間もなくいつもの駐輪場に到着する。
 バカみたいに寒いのに、あちこちが妙な感じに熱っぽかった。
 俺の横を少し遅れて歩く長門に、ようやく出てきた言葉。
「長門……」
 真っ白に曇る吐息の向こうに、うつむいた長門の横顔が見える。



「がんばれ」



 言えたのはたったそれだけだった。あんまり悔しくて、そのまま自分自身を引っぱたいてやりたいくらいだった。単純で、文章にすらなってなくて、本当に頑張ってる奴に今さら言う必要もないような、そんな言葉を言うのが、俺には精一杯だった。

「がんばれよ。……きっと大丈夫だ」

 長門は俺を一度だけ見て、それから、しっかりと頷いた。


 時間が重たく歩みを進める。授業が始まる。
 昨日までの快晴とは違い、空を覆う雲は一向に晴れる気配を見せず、俺の胸中をざわつかせた。
 ハルヒの始めたイレギュラーイベントは、明日が最終日だ。ハルヒは有希の恋敵役を演じ、有希はそれに負けず古泉に本当の気持ちを伝えなければならない。どういうわけか、本当にいつの間にか、そこに至るシナリオができ上がっちまっていたらしい。そこまで考えてたのだとしたら、俺はハルヒの脚本家としての手腕を評価し直さなければならないかもしれない。今、後ろの席に座っているハルヒは何を考えているのだろう。昨日の言葉を聞く限り、俺と思っていることは大差ないはずだ。
 古泉。お前はどうなんだ? 俺の時みたいに、まったく思いもしなかった告白を突然受けるなんてことには、お前ならならないだろ? それとも、いままでどんなことでもそつなくサラリとこなしてきたお前が、久しぶりに当惑することになるのか? お前がこれまで俺の同行に関心を持っききたのと同じくらい、俺だってお前がどう出るのか気になってるんだ。今回は、何の偶然か立場が逆になったみたいだな。もし、夏の俺と同じくらいにお前が思い悩むようだったら、今度は俺がお前の相談相手になってやってもいいぜ。SOS団じゃ男の方が少数派。……だろ、副団長殿?


「キョン、今日は何かあんまり嬉しそうじゃねぇな。何かあったのか?」
 白米をかっ込む谷口。お前の頭の中だけは年中快晴だよな。まったく、うらやましい限りだ。
「聞いてくれよ。昨日朝倉がな――
「確かに昨日みたいにご機嫌ってわけじゃないみたいだね。どうかしたの?」
 割り込むタイミングを絶妙にわきまえた国木田が言った。何でもない。気にしないでくれ。
 本当は長門と古泉のことで頭が一杯になっていた俺だったが、
「なぁ長門由梨、訊いてくれよ。朝倉ときたら俺に買い物代全部持たせたんだぜ? おかげで今月の小遣いほとんど空になっちまったよ」
「そう。ご愁傷様」
 谷口の愚痴に氷のような切り替えしをする由梨と目が合った。この黒髪娘はすっかり新しい昼食仲間と化している感がある。あらためて思うんだが、こうして一緒に過ごしてみると、こいつは有希と要所要所で違いがあるな。無関心なようで実はそうでもないとか、案外あまのじゃくなのかもしれん。
あぁ、由梨よ。タコさんウィンナー差し出さなくていいからな! そして昨日よろしく無言の哀愁をにじみ出すな!


 小コントを間に挟み、今日も放課後となる。いよいよもって物語は正念場というか佳境というか、終盤にさしかかってきた気がしていた。明日の放課後、俺と古泉はそれぞれに審判を下し、勝者と敗者を決めるというむしろ審判側のほうに残酷なんじゃないかと思える時を向かえるわけだが、朝比奈さんと由梨のどちらを選ぶかという問題について言えば、この際俺の中では大した問題ではなくなっていた。部室のドアを開けて勢揃いした団員全員を見て思ったのだが、今や長門が古泉を好きだという事実はこのちっぽけな部屋にいる誰もが知っており、知らない人間がいるとすればそれは当の古泉一樹本人に他ならなかった。その古泉は一人でやっていたジェンガが崩れたことに苦笑していたところで、ぱっと見た感じいつも通りだった。真正面、新調されたデスクトップパソコンのディスプレイの向こうには、意味ありげに俺に視線を飛ばして口の片端で笑うハルヒが座っていた。そのさらに後ろの丸テーブルを中心に、トランプの新しい絵柄にしたくなるような見事な線対称で長門姉妹がページを繰る姿があった。妹は淡々としていたが、姉は心なしか本のページと言うよりはその向こうを見ているように思える。朝比奈さんは今にも沸騰しそうに湯気を上げているヤカンに注視していて、俺に気付かないようだった。
「おっす」
 変わらぬ調子で俺は古泉の向かいに座った。古泉は崩れた積み木を集め、再び十五段の塔にすべく互い違いにブロックを積んでいた。
「こんにちは」

 がしゃっ。

 途中まで組んでいた木々が音を立てて崩れた。
「おや。失敗してしまったようですね、いけないいけない」
 古泉はいつも通り笑っているように見えたが、どうも中身はそうじゃないらしいことを俺はこの時に察知した。が、今ここで言うべき特別な言葉はない。団員全員が普段どおりに振舞っていて、しかし間違いなく古泉と長門に分からないように気を払っている空気なのが何となくレベルで感じられた。
だから俺もそうしてやろう。露骨に有希にこの笑顔男の対戦相手役を譲ってやる、とかじゃなくてな。
おせっかいで言えばハルヒが仕組んだこのゲームだけでも十分なくらいだ。あとは二人を静かに見守ってやることくらいしかできない。少なくともこっちからはな。
「はーい紅茶でーす。古泉くんのはお砂糖入れておきましたぁ。ふふっ」
 無垢な笑顔でベテランの域に達しつつあるメイド様、朝比奈さんがお盆を運んできた。これもハルヒの言いつけを彼女なりに守ってのことなんじゃなかろうか。こういう誰にでもわかる優しさで朝比奈さんの右に出るものはいないだろう。正直甘党かどうかに関わらず俺も砂糖入れてほしいですと申し出をしたいくらいだったが、そんなことをした日には左方に鎮座するこの団の最高権力者に視線だけで失神させられそうだったので、やめておくとしよう。

 部室はストーブと沸かしたお湯の熱気でもまだ敵わないくらいに冷え切っていて、窓は擬似曇りガラスよろしく真っ白になっていた。相変わらず寒いのは苦手だ。はやく春になってほしいと思うが、そうなるといよいよ朝比奈さん鶴屋さんコンビが卒業してしまうので、そのへんに多大なジレンマがある。

「お?」
 古泉とのジェンガがそれなりに白熱しだした頃、俺の肩にやんわりとした感触があった。
「肩もみ」
 振り向くと有希が眼鏡を外して俺の背後に立っていた。
「わたしも」
「おや」
 前に視線を戻すと、古泉の背後には由梨が立っていた。何というコンビネーションだ。移動していた気配が両者とも全くないではないか。
「こりゃぁ」「どうも、わざわざすみません」
 俺と古泉の連句を涼やかに受け止めて、長門姉妹は益体なしの団員男子二名の血行をよくすべく指圧を開始した。さほど力がこもっているとは思わなかったが、ツボを心得ているのか有希の指圧は実に適切かつ的確であり、二回に一回はアホみたいに痛がった俺は若くして身体のあちこちに慢性的疲労が蓄積しているのかもしれん。むぅ、こりゃぁ今度近所のスポーツクラブにでも行くべきかな。
 対する古泉と由梨も似たような構図となっており、古泉の笑顔が三回に一回くらいくしゃっと苦笑いになるのがなかなか傑作だった。お前も意外と健康離れしてるんだな。人のこと言えないがもうちょっと身体をいたわった方がいいぜ。
 ハルヒを見ると、実に満足そうな眼差しで俺と古泉を交互に見ていた。目から火花が出てもおかしくないギラつきっぷりは、昨日のシリアスなそれとは似ても似つかず、あれこそ真に芝居だったのではないかと疑いたくなる有様だ。お前、真冬に花火打ち上げるのだけはやめておけよな。
 朝比奈さんは朝比奈さんでにこにこしてかなり高く積みあがった木製の塔を見ていた。えぇと、七戦目だったっけ? 俺も古泉もコツを体得してきたのか、ひいふうみい……んーと、二十段は行ってるんじゃないだろうか。頂上が危なっかしく揺れ始めているが。
 ふと見ると、塔の向こうの古泉がある一点で視線を固定させていることに気がついた。積まれた木のすぐ隣にある好青年顔は、見間違いじゃなければ俺のすぐ真上。そう、長門有希の小さな顔があるあたりで止まっているようだった。古泉はその時だけ笑っているとも悲しんでいるとも、怒っているとも言えない、しかし確かにそこに何か思っていると分かる顔でぽかんとしていた。見てはいけないものを見てしまったようで、俺は目を落として誤魔化しがてらティーカップを取ろうとした。ちゃんと見てなかったせいか、机に手が当たる。

 がしゃん!

「す、すまん!」
 何てことだ。今すぐ壁に頭を埋めてしまいたい気分だ。せっかくいい感じに二人がアイコンタクトしてたのに、俺がそれを台無しにしてしまったではないか!
「あ、いいえ。また組みなおせばいいことですし。えーと、次はどちらからでしたっけ?」
 古泉が全然とんちんかんなことを言っている。お前、今自分が何をしてたか忘れてるんじゃないだろうな。何にしろ、俺・大失態である。
「っだぁーっ!」
 ばしっと机を叩く音がしたので見ると、ハルヒが俺にえもいわれぬ魔獣のような眼光を放っている。
やべぇ、こいつも今のやり取りを分かっていやがったのか。思わず片手で侘びのポーズを取る俺だった。
「おわり」
 塔崩壊がきっかけとなったのか分からんが、いちおう俺にアプローチするターンだった有希がすーっと俺の元を離れて元の席に戻った。あのー有希さん? もしかして怒っておいでですか? あっ、
視線がハルヒより怖い! すんません師匠、この埋め合わせはいつか必ず。
 由梨も呼応するように元に戻り、デフォルトスマイルに戻った古泉になぜか俺が居心地悪くなりつつ、そうしてる間にいつしか放課後が終了した。
 蛇足だが、部室を出る間際、ハルヒに神速の早業で二秒の関節をキメられた。いででででっ!
 ……あぁそっか! だから不健康なんだ俺の身体!


 心なしか、いや、決して気のせいなどではなく、帰りの坂道で俺の両隣を歩くハルヒと有希がこの街全体を覆う寒気より冷たく思え、そういうわけで俺は防寒着をばっちり着て両手に華状態でいてもちっとも暖かくならなかった。吐息がむかつくくらい白い。

「ちょっといいですか」
 駅前での解散直後、自責の念に駆られていた俺に声をかけたのは古泉だった。
 俺はすぐさまモードを切り替えた。ハルヒたち女子団員が皆帰ったことを確認して、一度だけ頷く。


 別に意識したわけでも何でもないが、座った場所はひと月前と同じ喫茶店の同じ座席だった。何やらここは古泉と俺とのゆかりの地になりつつあるが、そんなことを刹那でも考えた俺の脳細胞を丸ごと凍結して他のものと取っ換えたい。
「ここも久しぶりですね。また来ることになるとは思いませんでしたけど」
 注文を終えてメニューをウェイターに返しつつ、古泉は言った。あぁ、俺も今同じことを思ったさ。
テレパシーのようなシンパシーだけでも十分気持ち悪いからさっさと本題に入ろうじゃないか。お前の準備さえできてれば、こっちはいつでもいいぜ。
 俺の言葉を微苦笑で受け止め、古泉は窓の外を見た。ひと月前のあの時とあまり変わらない日の暮れ方だった。確かあの日は雨が降ってたんだったな。長門がいなくなっちまうかもしれないと聞いて、俺は静かに焦っていたのだった。今回も長門に関する話になるが、あの時とは種類も立場もまったく別だ。むしろ、いつになく普通の、ごくありふれた高校生同士の相談である。
「戸惑っています」
 古泉はまずそう言った。注文したコーヒーがまだ来ていなかったので、お冷で口を湿した。その表情は笑顔のままではあったが、これまでに見せてきた百種の笑みのどれとも違う、初めて見る色合いの笑いだった。端整な目はテーブルに注がれていたが、見ているのは年季の入った木材ではなく、もっと別のものに思えた。
「僕はてっきり、有希さんは今でもあなたに気持ちを寄せているものだとばかり思っていました。本当に、最近まで」
 冷静な口調とは言いがたかった。できるだけ普段どおりに振舞おうとしているのは分かるが、それが俺にとってはかえって動揺ぶりを示していた。こんだけ長いことやってくれば、それくらい分かる。

 と、いうことは。
 古泉は気がついていたんだ。長門の心の変化に。
 俺が三日前にあいつの妹から聞かされるまで、全然分からなかった移ろいに。これまでSOS団副団長として、ハルヒだけじゃなく全員の変化を誰より冷静に見てきた古泉は、俺と違ってギリギリになる手前で真実を知ったのだ。
 その沈着な観察眼を半ばうらやみつつ、俺は言う。
「それでも、俺がお前だったら絶対に気付けなかったさ。きっとまた、夏の時と同じようなことになってたんじゃないかと思う。大したもんだぜ」
 仮にもゲーム上の設定というフェイクがあったんだからな。ただ長門が近付いてきたってだけじゃ、簡単には気付けないはずだ。
 俺は一息ついて店内を見渡した。相変わらず店の客入りは芳しくなく、俺たちの一言一言は劇中の台詞のように冷たい窓に跳ね返った。俺と古泉はいつものように軽妙な応酬をするのでなく、かといって先月のように深刻さを伴った重たい話をするわけでもなしに、互いに丁度いい間を計りあって話を進めていた。いつからだろうな、お前とこんな話までできるようになっちまったのはさ。
 そう言うと古泉はくすっと笑って、
「さぁてね。僕も覚えていませんよ。本当にいつの間にかです。ですがまぁ、僕個人としては、夏にあなたとの約束を果たせたことが大きかったかな」
 そうだったな。俺もあの時からお前にも全幅の信頼を置くようになったんだ。もちろんそんなこと口に出しては言わないがな。こいつにこれ以上笑う理由を与えてたまるか。
 そんな俺の心中を知ってか知らぬか、古泉は遠くを見る目で話を続ける。
「僕はあなたと同じくらいに、このSOS団での毎日が大切でした。だからこそ、先月長門さんがいなくなってしまうかもしれないと聞いた時、実はかなり心配もしたんですよ」
 今さら困ったように笑うなよな。そういうことはあの時に言えよ。
 古泉はゆるやかに首を振って、
「いいえ、そういうわけにはいきません。僕はこれでも今までの自分の立場をしっかりと把握しているつもりですからね。あなたや長門さんを余計に心配にさせる真似はしまいと決めていました」
 俺は嘆息した。お前、そういう役回りばっかりやってるから笑顔以外の表情を忘れちまうんだぜ。
 長い間。特にお前は、ハルヒが中学生だった時から、あの今日の空より寒くなるような灰色空間にたびたび出向いて、高校になってからはSOS団の合宿隊長と副団長も兼任して、ずっと頑張ってきたんだから、そろそろ心休まる時があってもいいんじゃねぇか。
 俺は気付けばそんなことを言っていて、すぐ後にしまったと思ったが、しかし過ぎた時間に言った言葉はもはや飲み込めず、古泉を見るとまたも新しい種類の笑みを見せた。
「えぇ、本当に。……ですが、僕はこれまでのSOS団での日常に満足していましたし、それはかつての僕個人の気苦労や憂鬱を晴らすのには十分すぎるほどでした。あなたにも涼宮さんにも、もちろん朝比奈さんに長門さん姉妹にも感謝していますよ。この場だけでは言い尽くせないくらいに、ね」
 普段の爽やかな口調とは別ものだった。そこには個人的感情めいたものと、記憶を懐かしんで、かつ大切に取っておこうと思った時特有の穏やかさみたいなものがあった。少なくとも、俺にはそう思えた。
 俺は回想する。夏にも古泉は本音を俺に吐露してくれた。それは長い間、古泉の中だけにしまわれて、本人の手で鍵をかけられていた、普段開くことのない開かずの部屋。誰もがぎりぎりだった夏の日々に、どうにもならなくなりそうだった古泉の話を、あの時、俺は聞いた。本来、北高に転校してきて取るべきだった『機関』における古泉の役割。それが早速狂ってしまったことと、その直後に起きた一連の出来事での密かな動揺や、それから先の様々な場面での対処にも、参ってしまいそうになることが何度かあったこと。しかしそんなことでSOS団での日常を乱してはいけないと、全てを押し殺し、そうしていく中で生まれた表情が、今でも日常のほとんどで見せている人畜無害な笑みだったこと。生み出された柔和なキャラクターと元々の性質とのわずかなズレに、たまに何が本当なのか分からなくなりそうだったこと……などをだ。
 その話のほとんどは、あの状況になって初めて古泉の口から話された真実だった。
 ひょっとしたら、未来永劫誰にも話されることがなかったかもしれないそれらのエピソードを聞いて、俺は本当に困った時は相談しろと約束したのだった。古泉が約束を果たしたのだから、今度は俺が借りを返す番だ。その時、そう思った。しかし、ハルヒの力をめぐる一件がほとんど収束し、日常が戻ってきて以降、古泉が俺に悩みを打ち明けるようなことは一度もなかった。ひょっとしたらまた自分で押し殺していたのかもしれないし、俺には話せない種類の悩みだったのかもしれない。
 だから、今こうして古泉が俺を頼ってきてくれたことが、この際正直に言ってしまえば、ありがたかった。俺自身がSOS団に対してできることなんてのは、もうほとんどないと思っていたってのもある。

「その長門だけどな。お前が思っている通りで間違いない」
 俺は言った。続いていた沈黙を破る言葉は、しかし重たくは響かない。いつの間にか頼んだコーヒーが目の前で湯気を上げていた。まばらな客入りの喫茶店。窓の外には……

 ……。

 雪か。できすぎだ。

 今回の主役、古泉は二重のまぶたを一度ゆっくりと閉じてまた開き、コーヒーを一口飲んだ。
「そうですか」
「ああ」
 今や団員全員が二人の行く末を案じてるんだ。直接言葉を聞いたわけじゃないが、由梨だって少なからず姉を思ってるはずだぜ。

 大雪ではなく、雨が何かの拍子に白い粒に変わったように静かに舞い降りる雪は、窓の外のアスファルトを濡らし、その上をまばらな車が静かに走って行った。テールライトが赤く光る。
 俺と古泉はしばらく何も言わずにいた。こういう時、余計な言葉は必要ない。

 どれだけか経ち、ようやく古泉は口を開く。
「僕はこれまで、自分の気持ちというものを優先順位の一番下に置くよう心がけてきました」
 俺は古泉の目を見て頷いた。古泉は笑みを潜めて続ける。
「ですから今回、長門さんが僕に本当の好意を持ってくれていると知って、今も驚いています」
 俺はもう一度頷く。ほとんど空となったカップから最後の一口を飲んだ。
 ここで古泉はまた間を置いた。「置いた」と言うよりは、自然と言葉に詰まってしまった感じだ。
「正直に言えば、僕はたぶん」
 再び途切れる古泉。俺は静かにカップを置いて、言葉を待つ。

「……怖いんですよ。自分の気持ちをはっきりと表に出すのが」


 テーブルの上に沈黙が舞い戻る。……そうか。そうだよな。
 これまでずっと自分の意思を封じ込めてきて、しかしそれでも毎日を楽しんでいて、突然お前の本当の気持ちを聞かせろと言われても困惑するのは俺にだって分かる。そうすることで日常が乱れることになってしまったら? 「自分」を表に出すことが、他の団員すべての平穏を奪ってしまったら?
まして古泉は、これまでどの団員よりもSOS団という輪を保つことに注意を払ってきた。このまま静かにしていれば、少なくともこれまで通りの日常は維持されるのだ。なのにわざわざ自分からそれを崩してしまっていいものなのか。もしかして、団員の関係が今より悪くなってしまうのではないか。
 そこに古泉は迷っているのだろう。いつしか定着した「自分」の、ずっとずっと奥にある、本当の気持ち。今さら、そんな忘れかけていたものを持ち出してしまっていいものか、と。

「長門のこと。どう思ってる?」
 俺は訊いた。今度は俺がこいつを助けてやる番だろう。それで結果的にSOS団の日常に変化が生じて困ることになったとしても、その時にまた解決するまでだ。そんなことを恐れるほど今の俺たちは弱くない。……そうだろ?
「長門さんは大切な団員です。僕個人も、これまで何度も助けられてきまし――
「俺はそんな上っ面の感想を聞いてるんじゃないぜ。長門が何を思ってるか、そして、その上でどんな態度でお前に接してきたかを見て、お前は、古泉一樹はどう思っているのか、それを聞いてるんだ」
 俺が言ったとは思えないような口調だった。新しい自己の発見、そんな銘を打てるかもしれん。

 長門は真剣だった。いつだってそうだった。だから俺も真剣にお前と話してるんだぜ、古泉。

 古泉は薄く唇を噛むようにして、わずかに眉を動かした。そうさ。これまでずーっと隠してた本音なんてもの、そうそう簡単に引き出せるわけがない。まずどこにしまったか探して、それが汚れたり、折れ曲がったりしてないか確認して、その上で声にしなきゃならない。

 この喫茶店にこんなに長い時間いたのは初めてだ。記録更新。……予備校欠席。


「僕は……。長門さんを」
 続く古泉の言葉をすべて聞き届けた俺は、やがて深く頷いた。

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