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こんな進学校でもない公立高校にはもちろん空調なんてついてないから(憎らしいことに普段縁のない職員室と図書室だけは別だ)、ただでさえ古い部室棟の廊下は外のきんきんに冷えた空気をそのまま大事にラッピングして持ってきたように寒い。
 今日は二年生が講堂で進路説明会なんてものに参加している。ご苦労なことだがそのせいで俺のエンジェル朝比奈さんが部室に来るのが遅れるのはいただけないとしか言いようがない。ちなみに長門はコンピ研に遊びに行っていて、だから今日は我らが、なんて定冠詞を思わずつけてしまった自分自身を厳しく叱咤したいことうけあいなのだが、とにかく今、我らがSOS団のアジトにいる二人は、俺にしてみたらわりあい珍しい組み合わせなのだった。
 俺は部室のドアを開けた。中にはハルヒと古泉がいた。いつもと違ったのは、ハルヒが俺の定位置にいて、つまり古泉の目の前の席に座って、古泉と二人でオセロをしていたことだ。ちょっと驚いて、俺はその場に立ち止まってしまった。長門が表情を表に出すほど珍しくはないが、俺が谷口あたりと手をつないで帰るくらいにはありえないことだった。どっちもないだろが、というツッコミがどこからか聞こえてきそうだが、どうかこの微妙なニュアンスをわかって頂きたい。
 ニコニコマークを顔に貼り付けた古泉と、珍しく穏やかに口数少ない様子のハルヒの二人がゲームに興じる姿は、意外と絵になっていた。そりゃあまあ、二人とも見た目だけは北高でもトップクラスだろうからな。見た目だけは。
 さて、ドアもまだ半開きなままなのだが、俺の脳裏にはこの冬休みのある一場面がフラッシュバックしていた。ハルヒが得意げに見せびらかしていた、俺を苦しめる為だけに作られたとしか思えないあのスゴロク。あれは確か二人で作ったのだとハルヒは言っていなかったか。いや言っていた。「私と古泉くんの二人でつくったのよ!」その言葉をはっきりと思い出した瞬間、俺は、俺のいないときに、俺の知らない間に、ごくたまにでもこういう時があるのかと思うと、なぜだかひどく不安な気持ちになった。かるい焦燥感を覚えるような、そんな不安だった。が、そのことについては深く考えないほうがいい気がしたので、俺はそうした。
「あら、キョンじゃない。なにぼさっと覗きみたいに突っ立ってんのよ」
 急に声をかけられ、俺の体はびくりと跳ねた。『覗き』という言葉に少々図星をつかれつつも(別に覗いていたつもりはないが)部室に入りドアを閉める。中は暖かかった。
「そんな言い方があるか」
 と、適当にハルヒをあしらいながら古泉のほうを見る。目が合って、小首をかしげて微笑まれた。なんと気持ちの悪い。だがその笑顔の中に、何らかの感情が混ざっているような気がしたのは俺の気のせいだろうか? さっきハルヒとオセロをしていた古泉の笑顔にも、何か違ったニュアンスが含まれていたような。いや気のせいだろうが。多分。
「何よ、そんな顔することないじゃない」
「ん?」
「覗きとか言ったのがそんなに気に喰わなかったの? まったく器の小さい男ね!」
 ハルヒはそうびしっと言い放つと、席を立って団長席に座った。なんだ、俺は今そんなに酷い顔をしてたっていうのか? 自分で自分の表情の把握もできないとはこれだから寒さという奴は嫌いなんだ。ため息をひとつついて、俺は盤面を見る。なんだよ、まだ終わってないじゃないか。
「あとはあんたに譲ってあげる。ちなみに私が黒だから」
 なにが譲ってあげるだ。どうせ古泉が弱すぎるから飽きたんだろう。その証拠に緑色の盤面はほとんど真っ黒だ。
「どうせこのゲームはお前の負けだから、新しくやり直そうぜ」
「僕は構いませんよ」
 古泉はコマを手際よく半分に分けて、手前のコマを入れるスペースに丁寧に入れていった。俺が黒で、古泉が白だ。
 ぱたっとコマをひっくり返す。窓際のハルヒがパソコンにかじりつきながらマウスをカチカチやるのがやけに大きく聞こえた。外では運動部がなにやら大声を張り上げている。この寒いのに大変なことだ。まあ動いてるから関係ないんだろうが。それでも俺にはこの季節に率先して外へ出ようなんていう奴の気が知れないね。幸いこの部屋には俺が大変な苦労を伴って運んできたストーブがある。そういえばあの日は雨が振ってたな。不覚にもハルヒと相合傘なんぞしたものだっけ。
 古泉がコマをひっくり返す。そこはそっちに置いたほうが明らかに多く取れるのだが。
 俺がコマを置いてひっくりかえすと、古泉がちょっとしまったという感じの表情をした。ということはやっぱりこいつがオセロが異常に弱いのは演技ではないんだな。心の奥底で、もしかしたら何らかの理由があってオセロに限らずありとあらゆるボードゲームに負け続けているのではと疑っていたのだが。
 古泉は笑っている。
 そうだ、別に古泉がハルヒのことを好きだったとしてもおかしくはないな。コマを手に取って適当なところに置く。白いコマをひっくり返す。どんどん黒いコマで埋められていく。
(背後から突然抱きしめて、耳元でアイラブユーとでも囁くんです)
 本当は自分でそうしたかったんじゃないのか? 本当はどう思っているんだ? 俺に散々おかしなことを言っているが、お前はどうなんだよ、古泉。
 俺は盤面を見る。
 では俺はどうなんだ? 俺はどう思っているんだ?

 ハルヒのことを。

「やあ、負けてしまいましたね」
 古泉の声で俺ははっと顔を上げた。まったく俺は今何を考えていたんだ? いやみなまで言うな。思い出させるな。今忘れているところだから。
 もうひと勝負と行きますか、とか言いながら古泉がさっきと同じようにコマを選り分けていく。俺はその古泉の手を見ながらどうしようか考えていた。すると突然団長様のハレハレな声が部室に響き渡った。外の空気みたいにきんきんしてやがる。頼むから頭に響く声で叫ぶのは止めてくれないものかね。
「雪だわっ!」
 雪だ。確かに白いものがちらちら舞っている。
「どうりで寒いわけだ」
「これは早めに帰ったほうがよさそうですね」
「そうだなぁ」
「と、言うか――」
 古泉はやや芝居じみた身振りでにこやかに俺とハルヒを交互に見た。
「僕は残っていますよ。これから朝比奈さんがこちらへ来るでしょうから。でも雪が強くなるといけないし、お二人はお先に帰っていてください」
 ハルヒはそうねえ、なんて言いながらさっさとコートとマフラーと手袋を身につけている。もう少し遠慮と言うものを知れ。だがそういう俺はといえば、いつもなら変な気を回したその申し出を丁重にお断りして朝比奈さんを部室で一人で迎えるという役目をいただこうとするところのなのだが、が。今日はそういう気分ではなかった。そう、寒いから早く帰りたかったんだ。それだけだ。だからこう言った。
「じゃあ、悪いけど先帰ってるな。朝比奈さんによろしく言っといてくれ」
「ええ」
 既にドアを開けて早く来いバカキョンときんきん騒ぐハルヒを軽く無視しながら、俺は立ち上がってコートを着る。古泉を見る。やはりその顔は笑っている。なんで笑えるんだろうと、ぽろりとそう思った。

 雪は本当に舞っている程度のもので、だから傘は必要なかった。でも駅までの道のり、橋の上から見る世界は、曇り空のせいであの閉鎖空間のように灰色をしているのがみょうに印象的だった。俺が駐輪場で自転車を取って、押して歩いていこうとすると、ハルヒが途中まで後ろに乗せていけとわめきだした。正直勘弁して欲しいところだったのだが、ハルヒをなだめすかすと余計に疲れそうな気がしたし、体も暖まるかもしれなかったので、しぶしぶながらも了承した。俺はハルヒを後ろに乗せて走り出した。
 グレースケールの街を、なんでもないママチャリに乗って、俺は走り抜けていく。
 冷たい風と雪のせいで、鼻はじんじんするし手はかじかんでどうにかなりそうだ。でも俺は嫌じゃなかった。今の状況を厄介だとは思わなかった。横を流れていく景色はすぐに流れて消えていって、今ここに確かに存在しているのは俺とハルヒだけみたいだった。
 そろそろ俺の家とハルヒの家の分かれ道のあたりのはずだ。俺はハルヒに話しかけた。
「どの辺だっけ?」
「もうすぐコンビニがあるから!」
 耳元で叫ぶなといつも言っているだろうが! こんなに近かったら大声出さずとも聞こえるとなぜ分からんのか。そろそろこいつとの付き合いも一年になろうとしているがそのあたりだけは本当に解せない。
 などと俺が疲れた方向へ考えを向かわせようとしていると、やたらと明るい一角が目に入った。そうだ、あそこが確か分かれ道なのだ。
 コンビニの前で自転車を止めてハルヒをおろした。じゃあ、と言って俺が走り出そうとするとコートのすそを掴まれた。「うわっ」慌てて足でブレーキをかける。何だ! 今転ぶところだったぞ! という俺の至極まっとうな抗議をハルヒは「うるさい」と一蹴し、実に不満そうな表情で言った。
「寒いしお腹すいた! あんた、何かおごりなさいよ!」
 肩が誇張でもなんでもなく、本当にがっくりと下がるのが分かった。ついでに首も。労働を強いられた上、今度は不当に搾取されるのか、俺。ハルヒ、お前悪徳経営者の素質あるぜ。俺が保障してやる。
「お前なあ、俺だって寒いし腹減ってるんだぞ」
「じゃあ自分の分も買えばいいじゃない」
 ああ、これだからこいつは……
 ハルヒは一歩踏み出して、俺との距離を縮めて、右手の人差し指をびっと俺の前に突き出した。
「団長命令!」
 ここまできたら逆らうほうが面倒くさい。俺は諦めてわかったよ、と両手をちょっと挙げてみせた。
「しかし金あったかな」
 鞄をさぐり、ズボンとブレザーとコートのポケットをさぐる。あ、なんか硬貨の感触がする。俺がポケットから引き抜いて出した手の上には桜が描かれた銀色の丸が……ってこれは百円玉じゃないか。
「何よ、これだけしか持ってないの? 財布は?」
 多分忘れた。
「もう、しょうがないわね。ちょっと待ってて!」
 え、待っててって、ここでかよ。中に入らせろよ寒いんだから、と抗議の声を上げる前に、ハルヒはすばやく俺に鞄を押し付けさっさと自動ドアの向こうに消えてしまった。
 ものの一分ほどで帰ってきたハルヒの手の中には、肉まんが鎮座していた。まあこれならあったかいし、それなりに腹に溜まるし、百円の買い物としては妥当な選択だろう。しかし俺の最後の金をなんの躊躇もなく取り上げておきながら、財布を持っているはずの自分は一円も出さないとは、いやはやハルヒらしいというか。もし俺がこのあと公衆電話を使わないと死にそうな事態に陥ったとき、真っ先にハルヒのことを恨むだろうことだけは確実である。
「はい、これ半分」
「いや明らかにお前のほうが多いだろ」
「何よ、文句あるの? ご馳走する立場で偉そうに!」
「あーもういい、いいから」
 俺は手を振って、肉まんにかじりついた。ハルヒもそうした。
「あー生き返るわねー! さすが中国四千年の味!」
「別に本格中華って訳じゃないだろ」
「ロマンがないわね。肉まんは中国発祥なんだから、それがどこで作られようが中国の味ってことになるのよ! 覚えときなさい!」
 そんなことを覚えていて一体なんの得になるのかと問いただしたかったが、やめておいた。俺は自分のなけなしの金とひきかえに手に入れたこの味を最大限に味わうことに集中したいんだ。うまい。こんなちっぽけな食い物で少しでも幸せをかみ締められる自分の小市民度に感謝したいね。横を見ると、ハルヒも幸せそうな顔をしていた。寒さの為か、小さな顔が真っ赤になっている。その割にでっかい瞳はきらきらしているが。
 ハルヒはいつもどうりさっさと喰い終えると、さっきの俺のように、じゃ、と言って曲がり角に消えて――行かなかった。
「何?」
 何? 俺は自分の手を見た。ハルヒのコートのすそをつかんでいる。なんだこれは、俺はなにをしているんだ。さっきの仕返しをされたとでも思ったのだろうか、ハルヒの眉がみるみるうちに釣りあがっていく。あああ俺なにしてんだほんと俺。
「いや……」
 ハルヒはこっちに向き直った。何で俺はハルヒを引き止めたりしているんだ。意味が分からない。でも、ここは何か言わなければ。変な誤解をされても困るからな。
「その、家まで送ろうか」
「いいわよ別に。そんな遠くないし」
「そんな遠くないなら尚更乗ってけよ」
 ハルヒらしかぬことに最初の一言こそ俺の申し出を断る風であったが、俺が自転車にまたがってみせると、仕方ないなという感じでハルヒも後ろに乗った。簡単な道筋を聞いてから、俺はペダルを踏みしめた。
 俺はほんとうに何をしているんだろう。なんというか、ハルヒが一人で道に消えていく後姿を見ていたら、それがやけに小さく見えて、そう思ったら手が伸びていたんだ。そんな感じだ、たぶん。後ろに乗っているハルヒからは訝しげな視線を感じていたが、実のところ俺にもよく分からんのだ。悪いな、となぜか心の中で謝る俺。今日は訳の分からんことばっかりだ。そりゃいつも襲ってくる訳の分からん事態よりはかなり普通だが、それでも俺にはじゅうぶん非日常だ。
 ハルヒ家への道のりは単調だった。それというのも代わり映えのない住宅が続くばかりでちっともメリハリがなかったからだ。曇り空の向こうの夕焼けが屋根と屋根の間にできる形に切り取られているのが目に入る。雪はまだ降っているので、ちょっと幻想的だ。ハルヒも思うところは同じらしく、感嘆したようなため息をつくのが聞こえてきた。
「ねえキョン! きっと超能力者とか未来人とか宇宙人とかもこの景色を見てると思うの。それってすごいことじゃない? もう、すごくワクワクする!」
 俺は笑ってしまった。もちろん声は出していないので、顔だけだが。なぜなら言っていることが、あまりにもハルヒらしかったからだ。
「そうだな、そうかもしれない」
 だから思わず賛同の言葉を口にしてしまった。そんなことをすごく嬉しそうな声で言われて否定なんてできるわけがない。それにきっと今のハルヒはあのでっかい目だけじゃなく、顔中がきらきら輝いているに違いない。長い手足は今にもじたばた暴れだしそうなのに違いない。そう思わないか?
 家に着くと、ハルヒはひらりと地面にとびおりた。思ったとおり満面の笑みだ。そして俺の腕を掴んだ。
「明日は平日だけど、放課後に不思議探索をするわっ! 灯台下暗しって言うしね。学校を調査するのよ!」
 ひと息に言った。そのまま家の中に入ってしまうかと思ったら、ハルヒはその場で手袋を外した。ベビーピンクの、やたらふわふわした手袋だ。
「はい、これ」
「何だこれは」
「鈍いわね、貸すって言ってんのよ」
 言うが早いか、ハルヒはさっと俺の手を取って手袋をかぶせてしまった。見た目どおりその手袋はとても暖かかった。
「明日必ず返しなさいよ!」
 不機嫌そうに俺に念を押してから、ハルヒは家の中に消えた。俺は肩の力を抜いて苦笑した。手袋は俺の手には小さすぎた。その小ささがハルヒも一応女の子なんだよなという事実を否応なしに俺に認識させる。
 ふと、古泉の姿が思い出された。それと同時に俺の内臓の一部が、ぎゅっと苦しくなる感じがした。
 なぜそうなるのかは分からなかった。本当に分からなかった。そこには喜びも不安も悲しみも苦しみも笑いも憧れも憎しみも、好きも嫌いも、あらゆる感情が一堂に会しているようだった。上を見上げると、雪が目にしみた。この夕焼けをあいつは見たんだろうか。どこで、誰と見ているんだろう。
 古泉は、ハルヒの手がこんなに小さいことを知っているんだろうか。俺はさっきはじめて知ったような言い方をしたが、本当はハルヒの手の大きさや、形や温度だって知っていた。何度も手をつないでいるんだ。当たり前だろう。古泉は、ハルヒが女の子だと知っているんだろうか。俺にとってのハルヒが進化の可能性でも時間の歪みでも神様でもないと、俺はちゃんと知っている。あいつはハルヒを、本気で神様だと思っているのだろうか。あいつにとってのハルヒはいったい何なんだ。
 俺は自転車を反転させ、ペダルをこいだ。なぜか座ったままではおれず、何かにかきたてられるように立ち漕ぎで道を急いだ。手袋に収まりきらない手の甲の一部が、とてもつめたかった。
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