朝。今日も清々しいまでの冬晴れであり、例によって玄関を一歩出た瞬間からものすごい速度で体温を奪われる。そして俺はさらに体温を下げるだろう自転車に乗るのだった。
 二人で。
「しかしお前がこう律儀に回り道してきてくれるってのは意外だな」
「……べつに」
 今日は昨日より時間に余裕を持って家を出てきたので、俺も振り向くゆとりがある。由梨はクッションをしつらえたママチャリの荷台に横がけで座り、流れていく景色をぽーっと見ていた。
「どうだ。その後研究とやらは進んでるのか」
 俺が言うと由梨は一ミリ顎を引く得意の仕草をして、
「どちらかと言えば難航している。やはり、『感情』を単純に情報として扱うことは不可能に近い」
 そりゃそうだ。感情を簡単に数値化なり言語化なりできるんだったら、人工知能や猫型ロボットなんてとうの昔に出来上がっているかもしれない。
「しかし興味深い。わたしという固体もそう感じている」
 懐かしいことを言い回しだった。わたしという固体、か。ずっとずっと前に、世界がまるごと新しくなってしまいそうだったあの閉鎖空間で、文字を通して初めて聞いた長門の意思。その時あいつはこんな言い方をしていた。俺は冷えた大気と反対に植えた苗が一輪の花を咲かせた時のような、なんともこそばゆい気持ちになった。そうさ。お前の姉さんもそうやって変化を遂げていったんだ。だからきっとお前も大丈夫。
「ん。そういや俺にしたのは何か理由でもあるのか?」
「サイコロを振って決めた。神が振らずともわたしは振る」
「そ、そうか。つまりどっちでもよかったんだな。ははは」
 由梨はそれからしばらく黙っていたが、チャリが自転車置き場に差し掛かる頃になってぽつんと言った。
「べつに」

 今日は朝比奈さんとばったり出会ったりはしなかった。彼女には彼女なりの「作戦」があるのかもしれないな、などと思いつつ俺は席につく。ハルヒも有希もいない。やっぱり古泉のところだろうか。
そこでどういったバトルが繰り広げられているのか、想像するだに恐ろしい。
「そうかキョン、それでお前はあの長門妹と付き合ってる設定なんだな?」
 挨拶も抜きにぶしつけな質問をしてきたのは谷口である。見てたのか。だったら何だよ。
「否定しないってことはやっぱそうなのか。かーっ、ちきしょーっ! お前の今の幸運数値を半分俺にくれっ」
 半分もやらなきゃいかんのか。まぁ、確かに俺も誰かに配るくらいに持て余してる気がしてるが、それでもその相手がお前じゃないことは確かだな。
「こんの減らず口が。あぁ、まったくなぁ……」
「あら、そんなにうらやましいの? じゃぁ明日からわたしと一緒に登下校する?」
 悄然とする谷口に話しかけたのは朝倉であった。おい、こんな奴に同情してやるこたねぇぜ。例えお前が人間の感情について調査中の宇宙人だとしてもな。
「ふふ。わたしだって気まぐれを起こしたいときがあるのよ。ね、谷口くん、どうかしら?」
「ま、マジか!?」
 全ての希望がついえた大地に舞い降りた救いの女神を見るような目で朝倉を見つつ、谷口は言った。
「えぇ。今日は予定ないし、学校帰りにどこか寄っていくのもいいわね」
 その後の谷口の狂喜乱舞っぷりはあえて描写するまでもない。つーか俺がしたくない。まぁいいんじゃないか。どうもハルヒがきっかけになって恋愛ごっこがブームになり始めているんじゃないだろうか。長門姉妹を通じて朝倉にそれが伝播したとしても少しも不思議はない。しかし谷口の奴も美人であれば見境ないのか。俺だったらもうちょっとまともな属性を持った生徒を選ぶけどね。今は主流派のインターフェースとはいえ、姿形は二度も俺を襲ったあの朝倉と同一だしな。

「おっはよーキョン!」
 えらい元気に席についたのはハルヒ。どうした、古泉との関係はうまくいってるのか?
「あんたには関係ないわ、ふふん」
 笑いながらハミングするハルヒであった。見ると長門も自分の席に戻っている。うぅむ。自分のところより古泉側の動向が気になってしまうのはどうしてだろうね? こっちには朝比奈さんというこの世の全ての美を収斂させた集大成がおわすと言うのに。隣の芝は何とやらだろうか。ハルヒに至っては芝でも雑草なんてぬるいもんでもなく毒含有率100%の危険指定植物にしか思えないが。

 授業を聞いたり聞かなかったりしながら、俺はぼんやりと考えていた。
 最終日に俺と古泉がそれぞれ誰に好意を持ったかを訊く、とハルヒは言っていた。必ず回答しなきゃいけないともな。さてさて。ハルヒは一体何考えてるんだ? 本当に楽しむことだけが目的なのだろうか。色恋方面に対する俺の洞察力たるや、開ききった上掃除にも使いすぎて本当に役にたたない歯ブラシくらいのダメっぷりである。いや、歯ブラシならばかつては役立っていたのだからまだマシかもしれんが、俺の恋愛アンテナは一度もまともに機能したことがない。どっかに不備があるんじゃないかと疑う有様だ。要するに俺は鈍感なのだ。まぁ今回は古泉にも思いあたりがないらしいし、俺なんぞに分かるはずもないだろう。悲しいことにな。
 俺はさらに考える。最後に選べってことは俺はこのままいくと由梨か朝比奈さんの二択、古泉はハルヒと有希の二択を迫られることになり、選ばれなかった二名が罰ゲーム。
 ん? そういえば、と思い俺は後ろを向いた。
「ハルヒ。罰ゲームって一体何させる気なんだ?」
 考えるのはハルヒだろうが、もちろんこいつがやる可能性もある。ヘタすると自分で自分の首を絞めることになりかねない。
 俺が尋ねるとハルヒはむっと顔を上げ、
「それなんだけどさ、あたしも参加してるじゃない? 選手が罰ゲーム決めるってのも不公平だから、別の人に頼んだわ」
 誰だよ。
「んっふっふ~」
 ハルヒは結局はぐらかした。まぁ、大方の予想はつくけどさ。

 で、昼休みだ。
「いやっほぅ! まさか朝倉涼子と下校できるなんてな! カナダに転校したって聞いた時には幻滅したが、こりゃあの時には予想もできなかった展開だぜ!」
 珍しくはしゃぎまくりの谷口が非常にうるさい。わかった。わかったからもう少し音量抑えろ。
 谷口は目尻を気持ち悪いまでに細めて、
「おうおう妬いてんのか? うけけけけ」
 断じて違う。むしろ合掌してやりたいところだ。刺された時のために遺書書いておいたほうがいいぜ。
「ん、何がだよ?」
「何でもない」
「でもいいなぁ二人とも。何か僕だけ置いていかれた気分だよ」
 国木田、お前。少なくともこの三人の中じゃお前が一番女子に好かれてることくらい俺でも知ってるぜ。
 国木田は「ん?」と首を傾け、
「え、いや。それはただの友達だしさ。僕も気の許せる彼女がほしいよ」
 たまにこういう癪な台詞をさらりと言う国木田であった。まぁ隣のアホみたいにやかましくもうざ
ったくもないから気にはならないが。
「それでどうなの。涼宮さんが始めたゲームの調子は」
「変わらんね。今のところは昨日のリピート状態だ」
 ハルヒも長門もどっかに行っちまってるしな。

「……」
「うをっ! な、急に現れるからびっくりするじゃねぇか」
 気配を消していたとしか思えないくらい静かに、由梨が現れた。
「昼食」
 と言って由梨は一度瞬きし、
「食べる」
 空いていた椅子を引き寄せて俺の右側に残る一角にすとんと腰を下ろした。
「おおうキョン、お熱いねぇ。フゥー!」
 調子にのりまくりの谷口がこれ以上集めんでもいいクラスの耳目をさらに引き付けるようなことを言う。お前は聞きわけできん三才児か。
「口」
 由梨がぽつんと言う。
「ん?」
「開けて」
 箸で唐揚げをつまんでいる。な、何するつもりかな由梨くん! まさかそんな今時ベタなシチュエーションは……! んむ。
 谷口国木田が息を殺して見守っているのがどうしても視界に入ってしまう。だぁぁ、うざったい!
「おいしい?」
 いや、うまいよ。唐揚げおいしいけどさ。ジューシーだけどさ。こんなこっぱずかしい食べ方をす
るのは部室で平和ボケスマイルを展開し続ける古泉一人で十分である。それにここは部室ではなく教室で、自由に喋れる昼休みなのだ。あぁほら、誰かが俺を指差してる。
「由梨さん、積極的だなぁ」

 という国木田の言葉が五限の半ばまで耳に残っていた。授業開始時のハルヒの怪訝そうな眼差しも印象的だ。ははは、俺は本当にこういうことに耐性がねぇな。まだ脈拍が通常時に復帰してない感じだ。


「はーいみんな聞いて!」
 放課後の部室に舞台は移る。
 団員全員が集まるや否や、ハルヒが怒号と言って差し支えない音量でのたまった。
「明日は休日です」
 そうだな。今日は金曜だもんな。予備校か、あぁかったるい。
「休日と言えば何? はいみくるちゃん!」
 ハルヒに突如指名された朝比奈さんは運んでいたお茶をひっくり返しそうになるのを何とかとどめ、
「えぇっ!? えっと、あの、んー。行楽……ですか?」
「それじゃ答えになってないわよ」
 ハルヒ即答。どうせ誰もこの中に正解を言えるものなんかいないんだから、いちいち朝比奈さんへの指名を前座とするのをやめたらどうかと思うのだが。
「キョン分かる?」
 ぎらりとした双眸が今度は俺に突き刺さった。今ハルヒが何にかまけているかを考えれば何となくレベルで答えが見える気がしないでもないが、言ったとたんに現実化してしまうのをできるだけ避けたかった俺は、賢明に
「分からん」
 と答えた。
「休日と言えば、デートよ!」
 俺の答えなどどうでもよかったのはいつものことだ。そしてハルヒが言ったことは全然いつもの通りではない。……やっぱりか。
「というわけで明日は市内探索を変更してWデートにします!」
 ダブルデート。マンガやドラマなんかでよく聞く単語であるが、実際にそんなもんを実行する輩がいるなどと俺は思いたくない。いや、いるのかもしれないが俺にとっては世界を異にしたお話だろう。
「集合場所と時間はいつもと一緒ね。言っておくけど遅刻だけはしないほうがいいわ。いつもより出費がかさむわよ」
 それが今現実のものになろうとしているのだ。あり得ん。あってたまるか。
「待てよ団長」
 珍しく階級名を口にしたのはさてなぜだろう。
「何よ」
「その、何だ。団員の意向とかまるっきり無視なのか?」
 ハルヒは一瞬で部室内の全員を見渡して、
「反対の人?」
 誰も手を挙げない。しまった、タイミングを逸した。ほら、そういう「間」ってあるだろ?
「じゃぁ決まりね!」
 めでたくそのように決まった。うんめでたいなぁ実に。はぁ。

「どうしましたか? デートはお嫌でした?」
 古泉がささやきかける。やめろ。今吐息がたっぷりと頭にかかったぞ。
「別に嫌じゃないけどな。このノリについて行くのに手こずってるだけだ」
「それは僕も同じですよ。僕ら男性はこの団では少数派ですから、肩身も狭くなろうというものです」
 にしちゃぁ楽しそうだよな、お前。

 その後の時間は意外にも淡々と過ぎた。どうも四六時中べたべたする主義の者はいないらしい。メリハリってやつだろうか。
 まぁ、翌日の慌しさを思えばこのくらい静かじゃないと割に合わないんだけど。

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