一章【変化】
 小鳥が爽やかに鳴く朝……かどうかはともかく、
 その日の朝、俺は腹部への有り得ない痛みを伴う衝撃で目が覚めた。
 それは妹がなかなか目を覚まさない俺に痺れを切らして飛び乗ってきて、
 さらに全体重がかかったその小さな足が見事に俺のみぞおちに入った結果のようだ。
 おかげで俺はもう一度眠れそうだ。永い永い――、
「起きてー」
「ぐおぅっ」
 二発目。もう、駄目だ。意識が音速で遠ざか……、
「キョン君ねぼすけー」
 妹がまた飛び上がろうとする気配に俺は思わず起き上がり叫んだ。
「やめろ! 起きるから、今すぐ起きるから!」
 三回目はまずい。永眠が冗談とは思えなくなる。……いや、冗談だが。
「おはよー。もうご飯できてるよー」
 そう言って、罪の意識など全く感じさせない軽い足取りで部屋を出て行く小さな殺人鬼。
 そいつの背中が見えなくなってから俺はひっそりと呟いた。
「……早起きの習慣でもつけるかな」
 つぶやく俺を見上げてシャミセンがニャアと一声鳴いた。
 まるで「無理だろ」、とでも言いたそうな目で。
「いっただきまーす!」
「いただきます」
 さて、妹と揃って食卓に着き、こんな俺のために死んででしまった生き物たちに
 適当な感謝の言葉を捧げつつ朝飯をかっこみ、
 制服に着替えて家を出て、自転車にまたがる。
 空はどんよりとして嫌な天気だ。
 予報では全国的に下り坂な天気がしばらく続くらしい。せっかくの春だってのに。
 春は春らしくぽかぽかといっそぼんやりしたまま一日過ごしたくなるような天気が一番いい。
 もっともそんな天気だとしても俺がのんびり過ごせるはずもないのだが。
 なぜならこの世界に涼宮ハルヒがいる上にあいつの重力圏内に俺が存在しているからであり、
 それゆえ俺の辞書にあるはずの余暇とか、平穏とかいった単語は真っ黒に塗りつぶされ、
 その代わり宇宙人とか未来人とか超能力者とかいった単語には一ページづつ割いている。
 近ごろでは一ページで足りるか怪しくなって来たがな。
 まあ、そんなことを徒然なるままに考えながら登校するわけだが、
 いつ見てもこの坂は胃が痛くなる。
「よう、キョン」
 特にこんな下手くそ鼻唄を歌うほど浮かれてる谷口にあった日には特にな。
 登校中にこいつに会うと相手不在のデートコースを延々と聞かされるってのが俺の経験則だ。
 そんな訳で俺は谷口の無益にもほどがある話を聞き流すべく準備をしていたが、
 谷口はニヤニヤと笑いながら何も口に出さないので、
 ありがたく現状を維持しようと決意した瞬間にとうとう谷口が叫んだ。ええい、黙ってろ。
「いやっほぅ!」
 谷口の存在を認識できる範囲にいる生徒たちが一斉に俺たちを見る。
 くそ、谷口の野郎。何をそんなにうかれてやがる。
「お前は周りの視線が気にならんのか?」
 すると谷口は、
「ん? ああ、キョンいたのか?」
「……」
 こいつは喧嘩を売ってるのか、それとも鳥頭なのか?
 さっき俺に声を掛けたのはどこのどいつだよ。
「いやあ、すまんすまん。悪いな」
 謝りながら軽い調子で笑うから反省が感じられない。
 それにこいつのこの上空十万メートルまで舞い上がってるような上機嫌には覚えがある。
「ああ……」
 思い起こせばもう五か月くらい前になるか。谷口が彼女ができたと浮かれてたのは。
 今の谷口の雰囲気はあの時にそっくりだ。そして案の定、
「なあ、キョン。わりぃなぁ」と、前後の脈絡なく言った。
 高笑いする谷口。このまま放っとくのが吉だな。
 俺は口を閉ざし、視線をはるか彼方にある北高に固定し歩き続けた。
「……」
 谷口は俺が黙っているのをいいことに延々と話し続ける。
 そいつはのろけ以外の何物でもないので割愛させていただく。
 割愛するというより谷口の話の半分も聞いちゃいないから説明できないと言うべきか。
「……する前から好きだったんだとよ。もう最高だぜ!
まあ、お前もさっさとくっついちまうことだな」
 突然俺に話が振られる。
「誰とだ? 朝比奈さんとか?」
 谷口はあきれたように言った。
「馬鹿言え。もう一度忠告しとくがそんなことしたら、お前はコンクリートに詰められるぞ」
 じゃあ、長門だな?
「あのなあ……。それは新手のボケか? 涼宮と、だよ」
 谷口はあきれ顔で断言する。
「またそれか」
「いい加減認めろよ」
「認めるも何もない」
 俺がそう言うと谷口は溜め息をつきやがった。何だってんだ、一体。


「おっと……」
 教室に入って一番最初に見えたのが机に突っ伏しているハルヒだった。
「よう」
「……」
 無言かつ無反応なハルヒ。
「おい、大丈夫か?」
「……」
 シカトですか、ハルヒさん。……うむ、よほど調子が悪いのかもしれん。
 触らぬ神に祟りなし。俺はおとなしく自分の席――つまりハルヒの前――に座った。
「ねえ」
 すると突然声をかけてくるハルヒ。なんてやつだ。
「何だ?」
 それでも振り向く律儀な俺である。
「特になんでもないんだけどさ、変な夢見たのよ」
 ハルヒは何かを思い出すようにゆっくりと言葉をつむいだ。
「ほうほう、どんなのだ?」
「誰かがずーっと耳元で囁いてたの」
「なかなかホラーな夢だな」
 正直ぞっとしないね。
「で、その声は助けて、ってずっと言ってたのよ」
 助けて、か。
「その声をどこかで聞いたことあるなーって思って考えてたの。さっきまで」
 それで俺は無視されたのか。
「はあ? あんたの声が小さいのがいけないんでしょ!?」
 途端に普段のテンションで叫びだすハルヒ。
「朝っぱらからなぜ怒鳴らなければいけないんだ?」
 そしてなぜ怒鳴られなければならないんだ?
「何も怒鳴れなんて言ってないでしょ! ……でもそんなことはどうでもいいのよ」
 ああ、そう。
「その夢の中の声、有希のだったの」
 長門の?
「そう。……まあ、夢なんだけどね」
 そう明るい口調で言うハルヒの顔は天気と呼応したかのように曇っていた。
 俺はといえばどんな顔をしていたのだろうか。鏡があるわけではないのでわからないが、
「なにそんな深刻そうな顔してんのよ」
 というハルヒの台詞が全てを物語っているとも言えるのだろう。
「ん、……ああなんでもない」
 ハルヒは俺の顔をマジマジと見つめ、それからふと視線をそらし吐息ついでに
「そう」
 と長門のような返事をした。
 そして計ったかのようなタイミングで担任が教室に入ってきてホームルームが始まった。


 夢、ね。
 俺は夢占いとか正夢なんて馬鹿げたものは信じるような人間ではないが、
 それがハルヒや長門に関係があるとなるとそうも言ってられない。
 なぜかっていうと言い方は悪いが俺の周りは馬鹿げた連中だらけだからだ。
 長門ならあっさりと夢の中にだって侵入するだろうし、ハルヒもハルヒだ。
 ……まあ、だからなんだって話だけどな。
 なにせ俺には良くも悪くも長門が助けを求める様子は想像できない。
 なぜならありがたいことに長門を追い詰めるものなんてのがそうそう存在しないってこと。
 そして、困ったことに例えそんな状況になっても長門は助けを求めはしないってこと。
 例えば繰り返した夏休みのときのように。世界を改変してしまったときのように。
 つまり夢は夢。放っておこうってのが俺の結論だ。
 一段落した俺の背中をシャーペンが襲う。
 何しやがる、と思いつつ振り向くとハルヒが渋い顔で俺をにらんでいた。
 ハルヒは俺をひと睨みした後、視線を前方に流した。
 猛烈に嫌な予感がする。恐る恐る体を前に向けると、
「さあ、この問題を解いてもらおうか?」
 きっつい視線を俺にぶつける数学教師がそこにいた。やれやれ。


「普段からどっか抜けてる奴だけどちょっとたるみすぎじゃない?」
 授業が終わるやハルヒが怒鳴った。
 その台詞によれば俺は教師を堂々と十回に渡り無視していたようだ。
 参ったね。ただでさえ崖っぷちなのにこれ以上減点されたら卒業が一年遅れてしまう。
 それだけは勘弁願いたい。
 そんなことになるくらいなら閉鎖空間でハルヒと二人きりで閉じ込められる方がよほどましだ。
 そんなこと言うと古泉あたりが渋い顔をするんだろうな。まあ、軽い冗談さ。


 昼休みはいつも以上に饒舌な谷口がまきちらす音波を聞き流しつつ、昼飯を食っていた。
 谷口が席を立つと国木田が、
「結局谷口の相手は誰なんだい?」
「さあな。興味ないから聞いてない」
 国木田が不思議そうな顔をする。
「谷口一言も彼女の名前を言わないんだよね。
でも僕たちがその人のことを知ってるような口ぶりなんだよ」
 ちゃんとあいつの話を聞いていたのか。ご苦労なことで。
「それはそうと、今日はキョンも涼宮さんも調子悪そうだけど大丈夫かい?」
「ああ」
 ならいいんだけど、と呟いて食事を再開する国木田。
 同時に谷口が戻ってきて、機関銃顔負けの速さで喋り始める。
 俺は味覚に全神経を集中させ谷谷口の声をシャットアウトした。


 放課後には文芸部室前に立ち、扉をノックする。返事がない。だが人の気配はする。
 扉を開けると案の定長門がいた。
「よう」
 長門は本をめくる手を止め視線を少し上げた。
 何か違う。動作はいつもの長門だ。しかし、漂わせている雰囲気が変わっていた。
 俺がそのことに驚き躊躇しているうちにハルヒが現れた。
「やっほー!」
 扉が爆音と共にはじける。
「あれ? 有希とキョンだけ?」
 俺はぎこちない動作でうなずいた。
「なにそんなビクビクしてんの? なんかやましいことでもあるんじゃない?」
「いや、ないぞ」
 ハルヒは無実を主張する被告を見るように俺をいちべつし、長門に、
「本当?」と訊いた。
 長門はまた顔を上に向け小さく頷いてから読書に戻った。
 ハルヒは一度首をひねったものの、すぐに団長席に座った。
 しばらくすると古泉と朝比奈さんが連れだって部室に来た。なんと殺意が湧く光景か。
 それから、当然の礼儀として部室を退出すると俺と古泉。


 しばらく廊下でぼんやりしていると天使のようなメイドさんが扉を開けてくれた。
 そして古泉が0円スマイルを浮かべながら、
「どうです、オセロでも」
 いいだろう、返り討ちにしてやる。


 真っ黒に染まった盤面をにらむ俺。
「……負けだ」
 古泉相手に完敗だ。ああ、悔しい。今夜は局地的に洪水警報だ。
 俺は朝比奈さんがゲーム前にいれてくれて、すっかり冷めたお茶を一息に飲み干した。
「もう一回どうですか」
「遠慮しておく。どうも調子が悪い」
 古泉は「残念です」と言ってオセロを片付け始めた。
 古泉が片付け終わって定位置についたころ、
「明日は市内探索やるわよ!」
 いつものように突然なハルヒ宣言が発表された。
「特にキョン、遅刻しないようにね!」
 そういうとハルヒはカバンを持って部室を飛び出した。
「どうしたんだ? あいつ」
 下校時刻にはほど遠いってのに。
「さあ? 心当たりはありませんか?」
 ないね。まったくない。
「お前こそハルヒの精神の専門家だろ」
 古泉が困ったような顔をする。意外だな。
「機嫌が悪いって感じじゃありませんでしたね」
 開け放しにされた扉を見つめながら朝比奈さんがが言う。
「確かに朝比奈さんのおっしゃるように機嫌が悪いわけではないようです。
何か用事でもあるのではありませんか?」
「そういうことにしておこう」
 どうでもいいが、あいつ悪夢を見たって言ってたな。
「悪夢ですか?」
 どうやら口から思ったことが転がりでたらしい。
 それを聞き付けた古泉が身を乗り出してくる。それ以上近寄るな、息がかかる
「失礼。ただ昨夜久々に閉鎖空間が発生したもので。
涼宮さんはどんな夢だと言ってましたか?」
「……ああ。なんでも長門が助けを求めてたらしい」
 我関せずとばかりに長門は黙々と本を読み進めていく。
「それは、また不思議な夢を……」
 だろ?
「近頃変わったことはありましたか?」
 長門に尋ねる古泉。
 たかが夢の話なのに随分ご執心だな。
「涼宮さんに関わることですから用心するにこしたことはありません」
 苦労人だな、古泉。禿げるぞ。
「いえいえそんなに大変ではありませんよ。一時期に比べれば随分楽になりましたから」
 そう言ってから長門の方を向き、さっきの問いを繰り返す古泉。
 長門は一言で簡潔に「ない」と言った。
 その口調も台詞も長門のものなのに俺はどうしても違和感が拭えなかった。
 もしやこいつは長門の姿を借りた別人ではないか。――考えるだけ無駄な仮説だな。
 そもそも俺はなぜこいつに違和感を感じるのか。
 まったく普段と違うところのない、この長門に。
 わからん。微分積分三角関数の類よりもわからない。


「考えごとですか?」
 古泉が俺に話しかけてくる。
「ああ、気にすんな。なんでもないから」
 前にも思ったが俺に考えごとは似合わない。長門がまた変わろうとしてるだけかもしれない。
 俺は俺のみつけたやるべきことをやる、それでいい。
「ともかく、明日は遅刻しないで下さいね」
 ……一つ言わせてくれ。遅刻はしてない。たまたま最後に着くだけでな。
「そうですね。あなたにとっては」
 クツクツと笑う古泉。
 俺にとっては? いつもこいつの話は無駄に曖昧なんだよ。
 誰がどう見たって集合時間には間に合ってるだろう?
「それを良しとしない人もいるんですよ。時間が許す限り、……楽しみたいと願う人が」
 ハルヒか。
「さあ」と古泉は肩をすくめる。
 部室の端で本の閉じられる乾いた音がする。
 いつの間にか窓から穏やかに燃えるオレンジ色がさしこんでいる。
「もうそんな時間か」
 俺と古泉は揃って部室を退出し帰路に着いた。
 俺はまだ自分の非日常な日常に食い込んだ存在に気付けなかった。


 明くる晩、俺は夢を見た。……それは多分悪夢に分類される。
 こんな夢だ。
 俺は『俺』がベッドで寝てるのをなんとなしに見ていた。
 当然のごとく夢だから、そんなおかしな状況には全く疑問を持たない。
 そして『俺』の枕元には霞みがかったようにぼやけた長門が立ってつぶやいていた。
 ハルヒが見た夢のように「助けて」と。
 そんな異様な光景に見入っていた俺の肩に手がおかれる。
 ひやりとした感触を持つ物が首筋に触れ、聞き覚えのある声が耳朶をうつ。


 朝倉涼子がそこにいた。
 スッと首に違和感がはしり何か生暖かい物が体を濡らしていく。
 ――切られた。
 驚くほど冷静にそう判断した俺は傷口の深さを確かめようと鏡の前に立った。
 しかし、鏡は本来ならば映るべきものを映さなかった。
 そこに映ったのはぼんやりとした顔のハルヒの後ろに
 虚ろな眼をした俺が立ち、操り人形のような動作で日本刀を振り上げ、
 それを妖しく輝く眼で眺める朝倉と涙眼で見つめる長門だった。
 そして鏡の中の俺は構えた日本刀を無造作に下ろした。
 鏡が内側から真っ赤に染まる。
 その毒々しい色を直視出来ずに俺は眼を閉じる。
 突然、背後に人の気配が増え俺は振り向いた。
 そこには刀を大きく上に構えたハルヒがいて――。
『鏡って現実を映すものでしょう?』
 そんな声が聞こえた気がした。


「うわっ!」
 汗まみれで飛び起きた俺の視界に映ったものは宙を舞う我が妹。
「おっはよー!」
 待て。待て待て待て待て! 宙を舞う、だと……!?
 その光景の意味を寝惚けた頭がどうにか理解したのは、妹が俺の腹に着地してからだった。


 妹が年のわりに小柄で助かったな、なんて馬鹿なことを考えながらいつもの場所に向かう。
「いてぇ……」
 腹が軽く痛む。願わくばハルヒと一緒になりませんように。
 今日半日でもあいつのテンションに付き合ったら倒れるやもしれん。
 視界の端にハルヒを捕える。
「遅い、罰金!」
 ハルヒはアヒル口でいつも通りに一番最後な俺に宣言した。
 古泉は首を小さく左右に振り、朝比奈さんは申し訳なさそうな顔をして、
 長門は……はて、なんだろう? 曰く言い難い表情をつくっている。
 しかしそんな俺のもどかしさを吹き飛ばすような声でハルヒが呼んでいる。
 たまには長門並とまでは言わないが、静かにできないのか?
 内心でそう思いながら俺は駅前公園のハルヒたちの方へ向かう。


 喫茶店内でハルヒはぶすっとした表情で俺をにらんだ。俺、何かしたか?
「別に」
 口ではそう言ってるが、口調はそう言ってないぞ。
「うっさいわね。あたしにだって調子悪いとき位あるのよ」
 ハルヒはいつもより一つ上のサイズのアイスコーヒーを一息に飲み干す。
「いい? 今日は何か見つけるまで帰らないつもりで不思議を探すのよ!
倒れても立ち上がりなさい!」
 十分元気だろ、おい。


 恐らく厳正であるはずのクジ引きの結果は
 俺、ハルヒ、古泉のトリオと長門・朝比奈さんペアだった。
 なんとも不思議な組み合わせだ。……そんなことより朝比奈さんは大丈夫だろうか?
 未だに軽く宇宙人恐怖症だからな、あの人は。
「んじゃ、みくるちゃんたちはあっちね」
 ハルヒは適当な方向を指差す。
「キョン、古泉くん、行きましょ!」
 そして俺たち二人の手首をつかんで、逃げるような速度で歩きだした。


「涼宮さん、少し痛いのですが……」
 恐る恐る古泉がハルヒに意見する。珍しいこともあるもんだ。
「あ、ごめん」
 ハルヒも素直に手を放す。
 ついでに俺の手首も放してくれたら御の字だったんだが。
 しかし近頃のSOS団員は挙動不審な奴が多いな。
 今日のハルヒといい、昨日の長門といい。
「ねえ、キョン」
 唐突に地平線が見渡せる大平原のような平坦なハルヒの声がする。
「なんだ?」
 俺と視線を合わせずひたすら感情の起伏を押し殺しながら、尋ねる。
「有希と何かあった?」
 何だ、この既視感は。俺はいつぞやの二の舞にならないように即答した。
「ない」
 ハルヒは今話題の捏造ダイエットに使う大豆の発酵食品のようなジト目で俺を見続ける。
「ほんと? この間から有希の様子がおかしいのはキョンがなんかしたんじゃないの?」
 断じてしてない。この首を賭けてもいい。
「ふーん」
 納得とはほど遠い感じに唸るハルヒ。
「じゃあさ、有希がなんでおかしいかわかる?
また家の都ご……」
 ハルヒは固まった。何かに気付いたようだ。
「ちょっと待ったぁ!」
 そしてハルヒが吠える。待ても何もお前しか話してないぞ。
「どうした?」
「雪山よ、雪山!」
 わけがわからん、と思いつつ古泉に視線を流すと古泉は汗を浮かべていた。
 どうやら不都合があるらしい。
「あんた雪山の集団催眠、覚えてる?
あたしその時も有希とあんたの様子が変だったからあんたに訊いたのよ。
有希と何かあったかって。そしたらあんたは有希が家の事情で転校するかもしれないって答えたの」
 それがどうかしたのだろうか。古泉はまだ冷や汗を浮かべている。
「あたしはその時納得したけどおかしいじゃない。皆でおんなじ幻見てたとはいえ
なんで『幻覚』の言うことで『現実のこと』を納得しなきゃいけないのよ?」
 ……獲物を前にした猫科の肉食動物みたいな眼をするな。
「去年の十二月ごろ有希ばっか見てたわけを聞かせてもらうわよ」


 古泉の助け舟に乗りつつ俺が説明したことには、
「驚くべき偶然だが確かに長門から転校の話を相談されたことがあり云々」
 といった冷や汗ものの内容であり、当然良しと言わないハルヒに古泉が、
「涼宮さんが思ったことをつい口に出し、それを聞いた彼が答えたのかも知れません。
なにせあのときの僕たちは催眠状態でしたから、そういうことも有り得ます」
 こいつが側にいたことを感謝する日が来るとは。
「あるいは危機的状況の共有から来る一種のテレパシーかもしれませんよ?」
「そんな変な話ってありなの?」
 こいつは変なとこで現実的すぎる。だからこそ古泉もテレパシー、なんて言い出したんだろうな。
 ハルヒが世界を改変しないってわかってるんだろう。
「テレパシー云々はちょっとした戯れですよ。僕は前者の説を推しますよ」
 爽やかすぎて逆にうっとうしいぐらいな爽やかさで笑う古泉。
「むう……」
 未だ不満顔のハルヒはおいといて、何の話題だったかなぁ。
 ああ、そうそう。長門の様子がおかしいってことだったな、うん。
 確かにそこはかとなくではあるが、
 出会った頃のあの大理石みたいに堅い雰囲気を漂わせているような気がしないでもない。
「おや。僕の勘違いかと思ってたのですが、どうやら違うみたいですね」
 古泉は残念そうに「もっとも」と続けた。
「長門さんのどこがどう変わったか、具体的には言えませんけど」
 それは俺もだ。どちらかと言えば目に見えないようなところで変わったんじゃないか。
「じゃあ、キョン。あんた午後有希からそれとなく話を聴いてきなさい」
 なんで俺? いや、俺に異論はないがこうゆう時は自分でやりたがってなかったか。
 特に長門に関係するときは。
「有希が話を持ちかけたのが、納得いかないけど、あんただったからよ。
もし家の事情ならあんまり多くの人には知られたくないでしょうし。
そういう意味で、あんたが適任なの!」
 口調も荒くハルヒは言い切る。
 どうも一友人として長門の事情を共有できないことにやるせない気持を抱いてるようだ。
 わからなくもないが気が短すぎる。
 午後に聞き出せって言われても色々現実的な問題があるわけで……。
 懸案事項をハルヒにぶつけてみる。
「午後か。当然のことだが俺と長門が二人になるとは限らないぞ」
 そう言うとハルヒは唇の端を持ち上げて、
「大丈夫っ!」
 と、叫びながら印の付いた爪楊枝を五本取り出して、ヒラヒラと俺たちにみせびらかした。
 やれやれ。


「さあ、午後のクジ引きするわよ!」
 ハルヒが大手ファストフード店内でことさらに明るく宣言した。
 まず長門に引かせる。当然印付きである。次は俺。見るまでもない、印付きだ。
「あら……あっさりと決まったわね」
 残りの爪楊枝を手で握ったまましまう。なんて三文芝居だ。
 演技自体は完璧だが、種も仕掛けも知ってる立場からそう思わずにはいられない。
 ハルヒや古泉や朝比奈さんの動きだした背中を見送ってから、俺が長門に言う。
「図書館行くか?」
 長門は小さくうなずいた。
 道中俺は長門に、
「なあ、最近調子どうだ?」
 長門は淡々と、
「ふつう」
「……」
 俺はしばらく歩いてからまた、
「近頃何かあったか。あー、親玉がまた馬鹿なこと言ったりとか」
 返答はあっさりとしたもので、
「別に」
「……」
 なんだろう、この虚しさ。
 図書館が見えてきたころ俺は意を決して言った。
 収穫なしじゃ死刑にされそうだし。
「午前中にハルヒや古泉と話したんだがな、
二人ともお前の様子が少し変わった気がして心配してるんだが、本当に何もないよな」
 やはり長門は淡々と、
「問題ない」
「そうか」
「そう」
「……」
 そのあと俺たちは、というより長門は黙々と本を読み続けていた。
 俺はというと長門の言ったことを考えていた。
 今回ばかりは長門が俺に嘘をつかないって基礎の部分は忘れないといかん気がする。
 正直、本人の言よりハルヒの異常に鋭い観察眼と
 長門と一年余り過ごしてきた俺(おまけに古泉)の感覚を信じたい。
 『長門は変わった』
 これはまず間違いない。
 そしてその変化の向きはこの一年間とは正反対だ、多分。
 その変化の速度は急すぎるくらいだ。俺たちが変化に戸惑うほどに。
 喩えるなら誰かが長門のリセットボタンを押したようだった。
記憶だけを残して。


「時間」
 いつの間にか長門が幽霊のような存在感で俺の後ろに立っていた。
「もうそんなか」
 窓からうっすら紅が射している。
 そして携帯に着信十件。嫌な予感で俺の危機察知信号はイエローだよ。
 案の定全てハルヒからだった。
 慌てて電話をかけなおし、ハルヒの怒声を浴びながら急いで図書館をあとにした。


 集合場所に当然だが、先にいたハルヒと微妙に重い視線を合わせ、小さく首を振る。
 一瞬怒りの表情を浮かべるハルヒ。俺だって頑張ったさ、勘弁してくれ。
「今日は終わり! また月曜に学校でね」
 不機嫌なままハルヒは解散を宣言し、なぜか俺の帰路には望まぬ古泉がついてきた。


 俺は立ち止まり訊く。
「なんの用だ」
 古泉はいつになく真剣な目で言う。
「実は嫌な噂を耳にしたもので」
「宇宙人関係で、か?」
「いいえ。むしろ僕たちの方で」
 一応聞こうか。
「敵対組織の一つが積極的に動き始めたのですよ。
恐らく機関が標的でしょうがそれにしては動きが変でして」
 敵対組織ってのはいつかの誘拐犯どものことか。
「ええ。……あなたも知ってた方がいいかと思ったんです。
機関の上の方はいつもの戦闘準備だろうとみていますがね」
 サラリと言う古泉の眼は暗い物を宿していた。
 こいつが二重の意味で非日常の側にいることを俺は悟った。
 しかし、すぐに現実的な非日常の面は引っ込んだ。
「一つだけ僕から根拠のない忠告をさせて下さい。
何かあったら部室に逃げ込んで下さい。涼宮さんと」
「部室に?」
「ええ。あそこには本棚がありますからバリケードに使えます」
 こいつの想定しているものは何だ?
「それにあそこならおかしな物が入り込んで来ても思う存分力はふるえませんし」
 古泉はいつもと変わらず煙にまくようなことだけ言って去って行った。
「何が言いたいんだかな……」

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