翌日は日曜日だ。
 ハルヒから何かすると聞かされてもいなかったので、その日は月に一度あるかどうかのノースケジュールデーになるはずで、昨日に続いて寝坊するつもりだったのに俺が目覚めたのは早朝だった。
「さみぃ」
 放射冷却でガンガンに冷えた外気が屋内にまで到達していて、床の冷たさに俺は身を震わせた。
 いくら何でも寒すぎると思いカーテンを開けると、外は灰色と白の二色世界になっていた。
「雪かよ……」
 天気予報に特別注意を払ったりしていなかったが、積雪は五ミリくらいには達しているようで、雪の降る日特有の静けさが街を包んでいた。
「へっくしっ」
 一昨日のウェイトレス朝比奈さんばりに俺はクシャミをして、窓を閉めた。
 こんだけ降るのは何年ぶりだろう。このあたりはみぞれにはなっても降雪となるとそう何度もなく、まして積もることなど滅多にない。
 俺は一階に下りると一瞬で外に届いた新聞を取った。……しかし寒い。
 居間に戻り時計を見る。

 六時八分――。

 いくら何でも早起きしすぎだった。平日より一時間半も早い。どうしてこんな朝っぱらから起きちまったんだろうな。不思議とそんなに眠くないが。
 新聞を広げてどこともなく紙面を眺め、何の気なしに俺はリモコンを取って電源ボタンを押した。


 ――。

 ん。主電源切れてるのか。
 仕方なく三歩歩いて本体のスイッチを押す。

 ――。

 点かない。
 繰り返し押してみたもののやはり反応はない。故障したのだろうか? まだそんなに古い型でもないはずだが。
 二分ほど奮闘してみたが徒労に終わった。俺は肩をすくめて立ち上がり、ふたたび時計に目をやった。

 六時八分――。

 あれ。さっきから針があまり進んでいないように感じるが、俺ってそんなに短気だったか?
「ん?」
 秒針が動いていない。
 何だ。家の電化製品は冬の一斉ストライキに突入したのか。
 俺は壁にかけてあった時計を外すと、休日限定で家具の修理を頼まれる亭主よろしく、半目で故障かどうか確認した。と言っても俺にチェックできることなどたかが知れていて、電池が切れていないかどうかを見ることくらいしかできない。一度新しい電池に変えてみたがやはりダメだ。だが、耳を当てると機械部分がコツコツ言う音が聞こえる。……決定、故障だ。うん。

 俺はキッチンの傍らにあった菓子パンを朝食にし、一度自室に戻って着替えた。
 充電器から携帯を取って画面を――、

 ……。

 点いていない。
 電源ボタンを長押ししようが何しようが、ぴくりとも言わない。ご臨終です。いや違う。

 俺はここに来てようやく嫌な予感を抱き始めた。しばらく使ってなかった警戒アンテナがやっと調子を取り戻したのかもしれない。また使うことになるとは思わなかったが。

 俺は急いで家中の電気機器を調べて回った。結果は全滅。別電源の時計まで動かないのだから、停電とは違うんじゃないだろうか。さっき一斉ストとか言ったが、同時に家中の電化製品が動かなくなるなんてのは、そう簡単に起きることではない。

 何か起きている。恐らく普通は起こりえない何かが。

 俺は外に出て近所のコンビニに向かうことにした。
 自転車は使い物にならないので傘をさして歩く。

 ……。

 やけに静かだ、と思う。

 いくら早朝で雪が降ってるとはいえ、もう少し人や車の往来があってもいいはずだ。
 道には俺と降り積もる雪以外に動くものがまったくない。

 家族がどういう状態だったか確認しておくんだったと思いつつ、目的地に到着する。

「どういうことだ?」
 自動ドアが開かない。店内の電気も消えている。
 窓から見えるカウンターの向こうに店員は一人もいないし、当然のように他の人の姿もない。休業ならばシャッターくらい下ろすだろう。これじゃ強盗に入ってくれと言っているようなものだ。
 何気なく店内の時計に目をやった俺は、またも言葉を失う。

 六時八分――。

 おかしい。朝、時計を見てからから今まで、少なくとも三十分は経っているはずだ。

 俺は傘の下から空を見上げた。
 灰色一色の雲間から、真っ白な雪が降り続けている。

「何が起きてるんだ?」

 吐く息も真っ白に曇る。
 そしてようやくもって、今、超常現象が起きる原因になるものに思い当たる。

「長門……!」

 俺は傘を放り出すと、足場の悪い真っ白な道を走り出した。


 昨日もたどった道は、雪とはやる気持ちのせいでやたら長く感じた。
 途中通った大通りにも全く動く者の気配はなく、ただ雪だけが何も言わずに地面に舞い降りる。

 息を切らせて走りながら、混乱しつつある頭で今何が起きているのか考えようとする。
 停電説はとっくに却下した。それだと人がいない理由の説明ができん。
 じゃぁ何もかも動かないのはなぜか?

 これは俺の推測でしかないが……今、時間が止められているんじゃないだろうか?
 根拠らしい根拠はない。直感でそう思うだけだ。俺だけが動ける理由も分からん。長門絡みならばそのくらい起きても不思議はない。


 長門のマンションに着いたのは体感時間で十五分後だ。
 雪が積もってた分に、走ってた分と信号待ちのない分を差し引いてチャラじゃないだろうか。

 俺は708をプッシュして応答ボタンを押す。
 手袋をしていないせいもあって、手が寒さで震えっぱなしだ。

 ――。

 しばらく待ったが応答はない。
 もう一度繰り返してやはり無反応だと分かると、今度は303をプッシュして応答を待つ。

 ――。

 ダメか……。
 俺はエントランスを出るとマンションの裏手に走りこんで、駐車場づたいに一階の廊下に侵入する。
監視カメラもこの状況じゃ回ってないだろう。
 エレベーターも使い物にならないことは明白だったので、俺は階段で七階まで一気に駆け上がった。
 708号室のドアの前に来て、インターホンプッシュとドア叩きを同時にする。
「長門! 長門!」
 応答はない。ドアも開かない。窓には侵入防止用の格子がはまっている。
「くそ! どうすりゃいいんだ」
 俺の呼びかけに長門が応答しないなんてのは初めてであり、それだけでこれが長門に関する異常事態であることが分かる。
 びくともしないドアを叩き続ける俺は、突如として気がついた。

 !!

「長門……」

 由梨。
 真っ黒な髪を吹き抜ける風にそよがせて、長門由梨がそこに立っていた。


「お前、長門をどこへやったんだ」
 長門由梨は何も反射しない真っ黒な瞳で真っすぐに俺を見据える。俺はその視線を真っ向から受け止める。
 由梨は数秒にわたって沈黙していたが、やがて静かに口を開く。
「長門有希は役目を終えた。彼女は報告を終えて統合思念体の意識へ戻る」
 その口調には何の感慨も感想もないようだった。
「今はデータ引継ぎの最中」
 由梨は一度だけ瞬きをして俺と目を合わせる。瞳に広がる暗黒。
「長門を返してくれ! あいつはまだここにいたいんだよ。お前だって知ってるはずだろう」
 由梨は俺を路傍の石よりつまらないものを見るような目で見つつ、
「それはできない。既に言った通り、統合思念体の決定は下っている」
 気温より温度のない声。
「長門の報告が終わるってのはどういうことだ」
 俺は言った。あいつが言っていた予定より二日ばかり早い。

 由梨は一度だけ瞬きをした。
 白っぽい辺りの風景に、真っ黒な髪が映える。
「長門有希による涼宮ハルヒの観測は四ヶ月前の時点でに既に終了している。そして、わたしによる彼女の観察も、昨日までで全て終了した」
 あんな短期間で何が分かったってんだよ。
「あなたたちが長門有希を必要不可欠と思うまでに、彼女の存在は重要度を増していた。有希は期待を遥かに超える変化を見せた。情報統合思念体は……人間の概念で言えば、喜んでいる」
 そうかい。そりゃよかったな。それで、長門はどうなるんだよ。役目が終わったらさっさとお払い
箱なのか。お前たちは自分の目的が果たせればそれでいいのか。
「統合思念体は程なくこの惑星から離れる。必要なデータの計測は完了した。インターフェースを初めとする有機端末は、みな情報結合を解かれる」
 沈黙。それに続く風の音。いつから吹いているのか分からない。だがそんなことはどうでもいい。
「……ふざけんな」
 拳が震えている。寒さのせいではない。
「?」
「ふざけるなよ! 長門が今までどれだけ……どれだけ苦労してきたと思ってるんだ!」
 そうだ。……あいつは、いつも親玉の命令と自分の意思との狭間で揺れていたんだ。今年の夏。あ
いつが俺に自分の気持ちを伝えてきた時、これまでどういうことを考えてSOS団での日常を送っていたか、一緒に話してくれた。自分の思うことを言葉にするのは、長門の不得意分野だ。それでもあいつは自分のすべてを俺にぶつけてきた。四年前の七夕の日、俺に初めて会ったときからエラーが溜まり始めたこと。ハルヒがSOS団を作った日、本当は嬉しかったのに表現の仕方やその気持ちが何を表しているのか分からなかったこと。カマドウマ事件が偶然などではなかったこと。終わらない夏休みの間、一度本当にダウンしてしまったことがあったこと、ヒューマノイドインターフェースは決して万能でも完全でもないこと。年末に起こることを、本当は一度だけ俺に伝えていたこと。映画撮影の時にはすでに限界に近かったこと。世界改変という大事件の後、あの病室で俺に言われた言葉が、本当に嬉しかったこと。その時はじめて、自分の気持ちが何を意味するかに気がついたこと。……そして、

 今まで、あいつが俺をずっと好きだったってことを。

 これまで俺の思い込みにすぎなかったかもしれないことは、間違いじゃなかったんだ。それなのに、結局俺はあいつに応えてあげられなかった。魔の古城合宿から帰って、まだ夏真っ盛りだったあの時の長門の表情を思い出す。
 さんざん回り道して答えを出した俺を、それでもあいつは責めなかった。

「……お互い様」

 あいつはそう言ったんだ。同時にこれまで通りの、SOS団全員での放課後を望んだんだ。あいつの口から、SOS団への愛着を聞ける日がくるなんて、思ってもみなかった。長門の読書時間が減ったのはそれからだ。あいつは、これまでにも増して積極的になった。ひとつひとつのことに興味を示すようになった。長門は、あいつはまだこれからなんだよ。ようやく自分のしたいと思うことをできるようになってきたんだ。だから、頼むから、あいつの時間を取らないでくれ……。

 誰も動かなかった。雪を運ぶ風だけが、びょうびょうと無意味な効果音を立て続けていた。
 どれくらいの時間が立っていたのだろう。前触れなく由梨は言った。

「長門有希は情報結合解除に同意した」
 冷たい声が耳に響く。
「あいつが……?」
 どうしてだ。そんなはずはないだろう。長門は確かに残りたいと言っていたんだ。急に意見を変えるなんて、そんなことあるはずがない。
「……」
 由梨は何も言わなかった。ふと俺が顔を上げると、背を向けて立ち去ろうとする由梨が見えた。
「待て!」
 由梨は呼びかけに立ち止まるが、しかしこちらを振り返らない。
「今、時間が止まっているのはどうしてだ?」
 なぜこんな質問をしたのか、自分でもよく分からない。
「報告と連結解除に時間的ラグを生じさせないため」
「俺はどうして動けるんだ?」
 由梨は背を向けたままだったが、やがて、
「わたしがあなただけ時間凍結されないようプロテクトを施した」
「どうしてだ……?」
 由梨はマンションの廊下を吹き抜ける風に髪を遊ばせていたが、やがて、

「わたしにもわからない」

 そう言うと、どこかへと消えた。


 間もなく、俺は様子が変わったことを感じ取った。
 色を切り取ったような世界に、わずかに混じりだす雑音。
 ポケットから携帯を取り出すと、ちゃんと電気が通っていた。

 止まっていた時間に動いていたのは、俺と、由梨と、降り続く雪だけだ。


 ……長門有希は、本当にいなくなってしまったのだろうか?
 

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最終更新:2020年03月13日 01:21