~ユキのえほん~

  ──第1章──

 最近は地球温暖化とは言うものの、やっぱり冬になればきちんと寒い。
今年の冬は例年より雪が多いとのことで、24日はホワイトクリスマスになるかもー、
なんて天気予報のお姉さんが浮かれたことを言い始める時期──。そう、今は12月。
 ハルヒが監督をやり、朝比奈さんがまたバニーになったり、
長門がまた悪い宇宙人だったり、
今回は古泉が長門に超能力を封じられたという設定だったり、
そして俺がまた雑用係兼カメラマン兼編集に徹したり。
そんなハルヒの適当思いつき映画の第二段を撮り終えて、
ほっとする暇もなく今度はバンドを組まされて、
ステージの上で俺は下手くそなベースを披露させられたりもしたあの11月の文化祭。
 そのあわただしい思い出しかない高校二度目の文化祭から、早一月が経過し、
俺たちSOS団の面々もようやく普段の落ち着きを取り戻してきたところだ。
 余談ではあるが、そのバンド演奏だが、ハルヒのバツグンの歌唱力や長門の超絶的
ギターテクニックは凄まじく、さらにバニー姿の朝比奈さんがいろんなところを揺らしながら
必死にタンバリンを叩いていたのがよかったのか、演奏会はかつて見たことが無いほどの
盛り上がりを見せた。
 普段おとなしい北高の生徒達が、実はこれほどまでのエネルギーを内に秘めていていたなんて
誰が知っていただろうか。なにせ会場となった講堂があまりの興奮に地響きがしたほどの
歓声だったのだからな。学校の近くに地震計があったらおそらく震度2くらいは
観測していたに違いない。まあ、そのほとんどが男の声だったが。
 そしてその文化祭最終日に俺とハルヒはいい感じになったりしたのだが、
そんなことはどうでもいい。細かいことはご想像にお任せする。
いや、やっぱり変な想像しなくていい。大したことはしていない。
互いの距離が一歩縮まった程度のイベントがあったと言っておこう。

 SOS団が団体として主に活動したのはその文化祭が最後で、それから一ヶ月の間、
これといってめぼしい活動は何もなかった。はっきりいって今は閑古鳥もなくほど暇である。
 去年までは、少し間が空くとすぐに何かの事件が舞い込んできたこの部室にも、
最近はこのように暇で平和な時間が訪れることが多くなった。
 それはハルヒが日常の退屈というものにも慣れて、普通の生活を享受する精神が
構築され始めている兆しなのだろうか。今までハルヒに振り回され、
様々な事件に翻弄されていた俺にとってはありがたいことではあるが、
心のどこかにそのことに対しての寂しさのようなものが沸いてきている。
 無責任なものだ。またハルヒが何か不思議なことを求めて、
どこかに突撃し始めないかなんて空想をめぐらせたりもしてるんだからな。
そう思ったところでハルヒが以前のような無茶をするようなことはないだろう。
この前の映画撮影のときだって、不思議な現象は起きなかったようだ。
朝比奈さんの目からビームが出たり、鳩がリョコウバトになったり、
猫が突然人間の言葉を話したりと、そんなことは一切なかったのだ。
 実際何も起きないとなると、俺たちのやってることは普通の素人の映画作製でしかない。
そうなると急に退屈に思えてしまうのだから、まさに喉もと過ぎれば熱さ忘れて体が芯から
温まるのである。過去の俺から見たらこんな平和ボケの俺は怒られるに違いない。

 そして、今日は12月18日。
 去年、地球上でただ俺だけが観測していたあの世界──。SOS団も宇宙人も未来人も
超能力者も不思議な現象もない普通の世界へと、この世界が作り変えられたあの日から、
今日でもう丸一年が経過しようとしていた。
 さすがに今年は去年と同じようなことは起きないだろうと、長門に全幅の信頼を
よせてはいたものの、まさにその日ともなると、どうも心の奥底では意識せざるを
得ないのである。去年の今日、俺が経験したあの寒々しい思いは、
何があっても二度と味わいたくないものだ。
ハルヒに巻き込まれたどんなことよりも何倍も堪えたからな。
 今年は去年と違う点がもう一つ、もう授業は半ドン、つまり午前授業にになっており、
だから午後に時間あいた今日は、
「久々だし、部室に全員集合! みくるちゃんもちゃんと来ること!」
とハルヒが部員全員に集合をかけたのだった。ただハルヒは、適当に召集をかけたわけではないらしく、
SOS団のこれからをどうするかを話し合う重要な会議を行うらしい。
 俺は全員が揃うまでのつかの間のだらけた悠久なる時間を久々に味わっていた。
部室には古泉と長門がまだ来ていなかった。

「はい、お茶どうぞ」
 地上の奇跡とも言うべき、部室の妖精天使朝比奈さんが久々のメイドスタイルで
入れてくれたお茶は、いつものように心に染み入るほどに温かく、
この世の物とは思えない味と香りをかもし出していた。
……もうじきこのお茶も飲み納めである。
 朝比奈さんとは卒業という名の時間的別れが近づいていることは
ここにいる誰もがわかっていることであった。
さすがのハルヒでも、朝比奈さんを留年させたりすることは無いだろう。

 朝比奈さんが3年生となって、受験生として秋に入ってからはあまり部室に顔を見せなく
なってきてからというもの、俺たちSOS団の面々は、自然と部員が部室に集まることが
少なくなっていた。
 実際のところ、朝比奈さんが本当に大学に行くのかどうかは不明だが、
彼女は大学受験に向け、まじめにかつ必死に猛勉強しているし、
もう希望大学に願書も提出したというし、本気で大学を受験する気はあるようだ。
 来年の試験問題も未来人にとっては過去問だろうに、
そのあたりは情報操作はせずに実力で行かなくてはならないのは、
未来人とは意外に融通が利かないようである。

「ところで今日の会議って何をするつもりなんだ?」
 パソコンの前にへばりついてネットサーフィンにいそしむ我が部の団長に向かって、
今日のやる気のほどを伺ってみる。
「今年の冬休みをどうするかよ、ほら、去年は雪山に行ったりしたじゃない?
それで今年はどこに行こうかって思ってさー、あ、この温泉なんかいいんじゃない?
今から予約取れないかな? あ、ここもいいわね~、湯布院かー。
湯って名前がつくところがいかにも温泉地っぽくっていいじゃなーい。
あ、この地獄温泉ってのも捨てがたいわね! どんだけの地獄を見せてくれるのかしら。
鬼の一匹や二匹ぐらいいてもおかしくないんじゃない?」
 鬼の正しい数え方なんぞ知ったことではないが、
名前だけで勝手に変な期待をされたらその観光地もいい迷惑だろう。
 ハルヒは机の上のパソコンを叩きながら次々といろいろな温泉地の地名を挙げていった。
「朝比奈さんはもうすぐ受験だから旅行は無理だろ」
「そんなことわかってるわよ、だから手近なところで済まそうって言うんじゃない。ねえ?」
「え、ええと、でもぉ~……」
 ハルヒの言ってた候補地はどれもそんなに近場ではない。
日帰りのつもりは毛頭ないだろうから何日間も遊ぶつもりなんだろう。
朝比奈さんは露骨に困った顔をしている。嫌ならガツンと言ってやってください。
俺は言えません。
 だいいちそのお金はどこから出るんだ?
また鶴屋さんや古泉に出してもらおうって言うんじゃないだろうな。
いくらお金持ちでもそんなに何度も甘えていいものじゃないんだぞ。
それに鶴屋さんだって今年は受験なんだし、そう遊んでばかりもいられないのだからな。

 ギシッ。
 突然横で起きた擬音に振り向くと、長門が定位置の椅子に座った音だった。
扉を音もなく開けて、いつの間にか部屋に侵入していた長門は、
いつものように鞄から分厚い本を取り出して黙々とそれを紐解いた。
「あ、今お茶入れますね」
 朝比奈さんが長門のためにまたお茶を入れる。
ハルヒの関心もそこでいったん途切れたようで、またパソコンの画面に視線を移した。
 そういえば長門があいさつというものをしたのを見たためしが無い。
仮にも人間の振りをしているのだから、
少しくらいは人間の世界に馴染もうという意識はないのだろうか。
 あの朝倉だってあいさつくらいはきちんとしていたし、出来ないはずは無いのだが、
長門は他の人との関わりあいよりも、こうして自分の世界に没頭することに余念がない。
 今日の長門の本は……珍しく日本語の本だった。
珍しく、というのはここのところ長門の読んでいた本は、外国語の物ばかりで、
無学の俺には、その言語が果たしてどこの国の言語かすらも、
理解するのが困難なほど難解なシリーズ物を読んでいたのである。
 おそらくそのシリーズ物を読み終えたので、今日からはまた違う本を読み始めたのであろう。
これまた読み終えるまでに何日か掛かりそうだ。今日読んでいる本も、
日本語で書かれてはいる本ではあったが、
赤い表紙のタイトルがはっきりとは読み取れないほど古く汚れた代物だった。
「~学~考察」という文字が見えるので、おそらく学術書の一種だということだけが
なんとなくわかる。どういうチョイスなのか少しだけ気になる。

「ところでキョン、今日もらった進路希望調査ではなんて書いたの?」
 つい長門の方に気をとられていた俺に、ハルヒがいきなり関係のないところをついてきた。
しかも俺の心臓部に刺さるようなとても痛いところである。
「俺はまだ……。だって提出期限はまだ先だろ? 冬休み明けでいいかなって」
「そんなんじゃだめよ。受験勉強にしろ就職活動にしろ、早く始めた分だけ
人よりいいところにいけるんだからね。とくに受験は戦争よ。
席の数は限られているんだからね。その席の奪い合いはもう始まっているのよ」
 ごく当たり前の、俺の母親が言いそうな当然のことをハルヒは偉そうに解釈を垂れた。
「そんなこというくらいならお前はもう決まったんだろうな」
「ねえ、有希は進路もう決めたの?」
 俺の切り返しを華麗にスルーパスしたハルヒは同じ話題を長門に振った。
まあいいか。宇宙人製アンドロイドにも、将来の進路などというものがあったら面白いなと、
興味半分で耳を傾けてみると、
5秒ほどの静寂の後に
「とくに」
 と、平坦な調べが返ってきた。やはりというべきか、当たり前というべきか。
万能宇宙人の長門が将来のために受験勉強しているところなんて想像できないし、
長門なら情報操作でいくらでも大学くらい自由に選べるだろうし、
また、そんなことをしなくても長門の学力なら、どんな大学も行けるに決まってるのだ。
 おそらくハルヒの観察が長門の使命なのだから、ハルヒと同じ進路を選ぶのだろう。
 朝比奈さんにしてもそれは同じはずで、例えもうすぐ卒業したとしても、
朝比奈さんは未来からの指令でハルヒの調査を続けるだろうし、
SOS団のみんなとの関係が突然全て切れるわけでもないし、
まだしばらくはハルヒの不思議な力がなくなることはないと思っていた。
 ハルヒのことだからこれからも俺たちを自分の周りに縛りつけ、
宇宙人や超能力者や未来人たちと遊びたいという願望を自覚なしに叶え続けるのだ。
 俺はそう思っていたのだ。
 しかし、現実はそうもいかなかった。
 俺たちはもうすぐみんな別々の道を選ぶことになるのだ。
 時間、本人の意思、周りの環境などで人の生きる道はどんどん変わることになる。
誰が考えても当然のことだ。それが人生というものだ。
なんでこのときはそう考えなかったんだろうな、俺は。
 つくづく俺は甘い。

 結局、この日は会議といってもろくな話し合いもないままダラダラと過ごしただけで
終わった。今年の冬休みは特にどこにもいける予定は無いらしい。
少しだけ残念に思った俺がいた。


 それから三日後、12月21日の朝。
いつもの坂道を心の中で怨念を唱えながら登っていると、少し前を暗い顔をした谷口が
重い足取りでトボトボと歩いていた。
 俺はいつものようにその暗い背中がを後ろから強く叩いて驚かしてやった。
「ぐあっ! ……なんだ、キョンか……はぁ~あ……」
 谷口が海で例えるなら、マリアナ海溝のような深い深い溜息を吐いた。
 だいたい言わなくてもわかるが、こいつが溜息を吐く事と言ったら二つくらいしかない。
一つは成績の悩み、もう一つはおそらくあと三日後に迫ったあの日のことだろう。
「なんで神様は今年は俺に味方してくれなかったんだろうなぁ……」
 今年ももうすぐクリスマス・イブがやってくる。
 去年の今頃の谷口といえば、それはもうワールドカップに優勝したときの
ブラジル国民よりも浮かれていた。結局その彼女とはあっという間に別れてしまい、
短く淡い夢を味わったにすぎないのだが、去年甘い夢を見た分、
今年は余計に孤独が辛いのだろう。
 文化祭での必死のナンパ作戦も実を結ぶことはなかったようだ。
 一方俺はというと、去年と同じようにクリスマスの予定は入れていない。予定はないが、
ハルヒのことだ。何かしら予定を立てていることだろう。予定など入れていたら逆にハルヒに
何を言われるかわかったものではない。
 それに今日の部活はそのクリスマスに何をやるかついての会議らしい。
会議という名の口実で、単にハルヒが今日も遊びたいだけのような気もするが、
そのおかげで今日は朝比奈さんの入れてくれた温かいお茶を飲めるとなればそれも悪くない。
谷口なんかには一生縁の無い味だからな。


「ちぃ~っす」
放課後、部室のドアを開けると、無口な住人が1人無言で俺を迎えてくれた。
「長門だけか。朝比奈さんや古泉は?」
「まだ」
 長門は今日も分厚いハードカバーから目を離さずそっけない態度で返事をした。
「そうか」
 俺が壁に立て掛けてあったパイプ椅子を広げて、腰をかけてすぐに朝比奈さんが現れた。
「こんにちは。あの……」
「ああ、朝比奈さん、こんにちは」
 いつものようにメイド服に着替えるのだろうからと、俺が席を立とうとすると、
「あの……キョンくんにお話があります」
「へ? 俺に?」
 朝比奈さんが決意の目でこちらを見ていた。
 いかにも何か重要な意味がありそうな目である。一瞬何か変な予感がしたが、
朝比奈さんの用とあっては断るわけにはいかないのだ。俺は朝比奈さんに連れられ、
部室棟の屋上へ続く踊り場で向き合った。
 普段こんなところに人が来ることはほとんどない。人気のないところという点ではここは
とても優秀なところだ。
「何の用ですか?」
「あのね、キョンくん……」
 朝比奈さんが上目遣いで俺を見つめてくる。優しく柔らかな丸い瞳に、
思わず頭がくらくらしてくる。
「わたし、今度もうすぐ卒業するでしょ?」
「ええ、そうですね」
 そうなのだ。寂しいことだが仕方が無い。
 果たして本当の年齢が、高校を卒業する年齢に達しているのかは怪しいが、
卒業してしまうことには変わりは無い。
「そう、そうなんですよ~。わたし卒業しちゃうんですよね~」
「はぁ、そうですね」
 朝比奈さん何か緊張した面持ちで落ち着きが無い。
頬を激しく紅潮させて一生懸命何かを伝えようとしている朝比奈さんのこういう仕草は、
なかなか普段見れるものではない。
 これではまるで、好きな人に告白したいのに勇気だせなくて
最後の言葉が出ない女の子ではないか。というか、まさにそのものなんではないか?
 いや、とうとうこのときが来たのか!? 俺はその勇気を応援しますよ!
 徐々にだが、自分の血圧値が激しく上昇していくのを感じた。
「それで……本日はどんなご用ですか?」
 緊張して俺まで朝比奈さんに普段使わないような変な敬語を使ってしまう。
「うん……特にこれといった用事は無いんだけど……。よくわかんないんです……
ごめんなさい」
 ガクリと膝が折れた。
 用事がないのに、俺をこんなところに呼び出したんですか?
よくわかんないのは俺のセリフですよ。
 この方は時々、こういう意味がわからない行動を取られる。
そのたびにこっちは儚い希望を抱いてしまうから困り者だ。
まあ、朝比奈さんが俺にほの字だなんて、世界が宇宙人に改変されても
ありえないことなんだが。
 ガッカリした途端、自分の体に震えが来た。
この踊り場は外の冷たい風がドアの隙間から吹き込んでくるのでとても寒い。
「部室に行きませんか? どうせ長門しかいないならそこでも話せるでしょう?
こんな寒いところに長くいては風邪を引きますよ。
こんなとこで受験生の大事な体を壊しちゃダメです。
もしなんだったら長門には一時的に席を外してもらってもいいですし」
「あ! 待って!」
 余りの寒さに耐えかねて俺が階段を降りようとすると、
朝比奈さんがすばやく俺の前に回りこみ、両手を広げて行く手をさえぎった。
その目はなぜか涙目になっている。
「行かないで……お願いです。しばらくここにいてください……。
よくわかんないけどここになくちゃいけないんです。……お願いです」
 朝比奈さんに涙ながらにお願いされて、それを断る男などこの世には存在しまい。
だが、なぜ俺のことを引き止めるのか、
肝心なところがわからないのだから俺はただ困惑するしかない。
朝比奈さんは俺をこの場所に引き止めて何がしたいのか。
 俺への愛の想いをぶちまけてくれるならいくらでも待つ。
 でも朝比奈さんは過去にこの時代の人間を好きになってはいけないと言っていたな。
だったら、未来で待ってもいい。
未来や過去で待っていてくれと言われてもそこまで行って待とうじゃないか。
……

 そして二人の間にまた長い沈黙の時が訪れた。
 朝比奈さんは何度もちらちらと腕時計を確認して、明らかに時間を気にしている様子だ。
時間が無いなら早く用件を言ってくれればいいのに。
さっきはいくらでも待つとはいったがさすがにもうそろそろ待てなくなってきた。
 それともこれは今の俺には言えない何かのイベント(既定事項)なのだろうか。
また俺は時間移動でおつかいのようなことをしなくてはいけないのだろうか。
「朝比奈さんは卒業したらどうするんですか?
ハルヒの調査ってのはこれからどうなるんですかね」
 長い沈黙に耐えかねた俺は適当な話題を振ってみた。
「え、え? あ、は、はい。涼宮さんの調査はSOS団を抜けた後も続けると思います」
 思います、というのは?
「あ、そ、それは……わたしにもわからないからです。
特別な指示が無い限りわたしの使命は変わりません。
だから本当のところ、これから先はどうすればいいのかわかりません。
でもほら、わたし涼宮さんと違う学年でしょ?
元々直接の接点はない状態で調査していたんです。
だから元の状態に戻るというか……。これ以上は言えません……ごめんなさい」
 それから俺たちはまた沈黙した。俺は、朝比奈さんの困った表情を見つめながら、
まあ、この人とずっと一緒に二人でここにいられるならそんなに悪くないかなと思っていた。

「あの……もうそろそろいいですか?」
 30分くらいそうしていただろうか。頃合を見て俺が話しかけた。
朝比奈さんはすっかりそのことを忘れていたようで、慌てて時計を見て、
ようやく笑顔を取り戻してこちらに答えた。
「あ、はい、も、もういいと思います」
 やっと開放された。結局、なんでもなかった。少し世間話して終わり。
勇気が出せなかった様子でもないし、俺への未練はなさそうだ。
……やれやれ。ふと横を見ると朝比奈さんがついて来ていなかったので、
振り返ってたずねる。
「行かないんですか?」
「あ、先に部室に行っててくださ~い。お願いします」
 といわれたので先に失礼することにした。全くよくわからない。
 そしてまた何かの陰謀の匂いがする。
 首をかしげながら階段を降りていたら、部室のある階の廊下に出る角のところで突然、
猛スピードで廊下を走ってきた男とぶつかった。

「いってぇ!」
 俺が言うのも無視して、その男は階段の方へと颯爽と駆けていった。
そのままの勢いで朝比奈さんにぶつかったらタダじゃおかないぞと警告しようかと思ったが、
それは後ろから突進してきた女に阻止された。
「だぁーー!」
 ガッツーン! 今度は後頭部に飛び蹴りが飛んできた。
軽快な音と共に俺の脳細胞がいくつか死んでいった。
「なにしやがる!……ってお前ハルヒか!」
 これ以上俺がバカになったらどう責任を取ってくれるんだ!
「何をしてるのってのはわたしのセリフよ。今あんた有希になにしようとしてたわけ!?
言い訳だけは聞いてあげるわ! 歯を食いしばりなさい!」
「長門? 長門に俺が何をしたって? 何を言ってるんだお前」
 むしろ朝比奈さんなら、さっきまで二人きりで怪しい空気を作っていたので、
まだわかるが、長門と部室で会ったのはもう20分以上前だ。
それに今日は会話もほとんどかわしていないし、そこにハルヒはいなかったはずだ。
「とぼけるんじゃないわよ! 有希に変なことしようと迫ってたでしょ!
あんなに顔近づけて何しようとしてたわけ? 明らかに変な空気作ってたでしょ!
まさかあの奥手の有希が自分から誘ってたとか言わないわよね。
どっちにしてもあたしに対する挑戦状と受け取っていいわね!?」
 よくわからない因縁をつけられて、俺は言い訳をする暇もなくラリアットを食らわされた。
しゃべっていたらあわや舌を噛み切っていたところだ。
 さらにシャイニングウィザードからストンピング、引き起こされて逆水平、
アルゼンチンバックブリーカーから足4の字固めへとすばやく移行し、
最後にキャメルクラッチを食らったところでようやく俺は解放された。
 ……らしい。
 そのときには俺はもう意識を失っていた。

 気がついたらベッドの上に寝ていて、隣で古泉がリンゴを剥いていた。
 どこかで見たな、この光景。そういえば一年前この日だったな。病院で目が覚めたのは。
思わず心配になって俺は古泉に尋ねた。
「今日はいつだ?」
「ご心配なく。さっきと同じ12月21日ですよ。ここは学校の保健室で、
僕達は二年生のままです」
 よかった。時間がループしたわけではなかったようだ。起き上がって周りを見渡しても、
あの時のように寝袋に包まりながら、俺が目覚めるのを心待ちにしている人物はいなかった。
いきなり訳も言わず人を締め上げておいてそれはないだろ。なんて薄情なヤツなんだ。
「ところで今日の会議は?」
 一応クリスマスパーティをやるかやらないかの話だったと思うが……。
「もちろん中止ですよ」
「そうか、まあ、今日はそうだろうな。俺もいないし。会議はまた明日に持ち越しか?」
 手に持っていたリンゴをきれいに剥いた古泉は、
それを平らな皿に盛った楊枝付きの状態でこちらに差し出してきた。
「あんがとな」
「中止になったのは会議ではなくクリスマスパーティーです」
 思わず口からリンゴがこぼれそうになった。慌てて反対の手でリンゴを拾い上げる。
なんと、去年あれだけ大騒ぎしたクリパを今年は一切やらないというのか。
ハルヒはいったいどうしちまったというのだ。
 もうクリスマスなんて飽きたのか?
 それにしてもあのハルヒが何にもしないというのはどうかしているんじゃないか?
あいつほどは季節ごとのイベントにうるさいヤツはいないと思うのだが。
その中でもクリスマスといったらキングオブイベントじゃないのか?
せっかく予定を空けておいたのにそれはないぜ、ハルヒよ。
「おや、やっぱり残念でしたか?」
「べ、べつに……」
 俺は少し強がってみたものの、やっぱりどこかに寂しさを感じていた。
これももうすぐ受験シーズンがあるからなのだろうか。
 俺はいつまでも高校生気分を味わっていたいんだがなぁ……。

「涼宮さんの力が以前より確実に弱まっています」
 古泉が急に小声で真剣な顔を近づけてきた。だから顔を近づけるなって言ってるだろ。
「それにしてはさっき極められたプロレス技は切れ味バツグンだったがな。
低迷する日本女子プロ界の救世主になれるぞ」
 俺はまだ痛む背中をさすりながら、古泉をなじるように睨みつけた。
「もちろん、神のようななんでも引き起こす不思議な能力のことですよ」
「なんでそんなことが言い切れるんだ」
「わかってしまうのだから仕方ないですよ。それと具体的な数字にも
それが顕著に現れています」
「具体的な数字?」
 俺は古泉の話が長くなりそうな雰囲気を読んで、またリンゴを口に放り込む。
「はい、閉鎖空間の発生回数です。実はここ半年間、一度も閉鎖空間が発生していないのです。
これは今までの涼宮さんの動向からすると、驚くべき傾向です。
なにせ以前なら普通に夢を見ていても閉鎖空間が発生していたのですから。
もしかしたら、もう涼宮さんは閉鎖空間を発生させたいと思っても、
出来なくなっているのかもしれません。
そうなれば涼宮さんの能力は落ちてきていると言わざるを得ないでしょう」
 最近少しはハルヒがおとなしくなってきたとは感じていたが、
半年も前からそんなことになっているとは気づかなかった。
おとなしいと言ったって、以前の暴走特急から暴走準急に変わったくらいで、
相変わらず人の都合はお構いなしな自分勝手な性格が、
ちょっとやそっとの期間で変わるはずはなかった。
だから俺にはそこまで大きな変化がハルヒにおとずれているなんて、
これっぽっちも気づかなかったし、ハルヒ自身はなおさらのことだろう。
「さきほどだって、あれほどあなたに対して不機嫌な想いを抱いていたにも関わらず、
閉鎖空間は発生しませんでした。
去年の今頃ならあのくらい不機嫌のときは必ずといっていいほど、
僕の携帯に緊急連絡の着信があったものです」
 それはご苦労なこった。俺の知らないところでこんなに苦労していたとは。
何か同情しろとでもいうのか?
 それとも仕事増やして欲しいから、俺にもっとひどい仕打ちを受けろとでも言うのか?
 今までハルヒと些細なことで口論になったことは星の数ほどあるが、
そのたびに気を失うほど締め上げられてたら俺の命が持たない。

「不機嫌って今日は何が不機嫌なんだよ。俺はさっき何もしていないぞ」
「僕にもわかりません。僕はただ涼宮さんの精神状態がなんとなくわかるだけですから」
 古泉はまたあらたにリンゴを手にとり、シャリシャリと皮を剥きはじめた。
「もちろん、僕としては閉鎖空間が発生しないのは喜ばしいことだと思うんですが……。
多少寂しい気もしますね」
「寂しいってなんだ。お前は閉鎖空間が好きになっちまったのか。
それとも神人に恋でもしてるのか」
 古泉は鼻からふっと息を吐いて、むかつくキザ顔を作って答えた。
「まさか、あの空間が生み出されるときの僕の気持ちはとても憂鬱なんですよ。
涼宮さんの感情がダイレクトに心に伝わってくるのです。
彼女は人一倍感情の豊かな人ですから、
憂鬱なときの気持ちといったらそれはとても辛いものですよ。
でも、もし涼宮さんの能力がなくなって閉鎖空間を生み出さなくなったとしたら、
僕たちSOS団の面々はバラバラになってしまうかもしれないんです。
少なくとも『機関』はなくなりますしね」
 せっかく超能力者同士で結成した組織なのに、解散するのは少しもったいないん
じゃないのか。世界中探してもそんな組織はいくつもないだろうに。
「遊びではないんですよ。『機関』の運営には小さな国の国家予算並のお金が掛かっています。
用がなくなったら解散するのが自然の流れです。
まあ、いきなり全部がなくなることはないでしょうけれど、
規模が大幅に縮小されることは間違いないでしょう。
実際、その方向で予算修正が進められているそうです」
 『機関』とやらがどれほど大きな存在でも、
結局はハルヒ一人の都合に右往左往しなければいけないようだ。
それだけハルヒという存在がただ事ではないことを意味しているのだろう。
「もし、ハルヒが普通の人間になったらどうなるんだろうな」
「……きっと面白い推理小説を読み終えてしまった後のような気分になりますよ。
どんなに面白い小説だったとしても、もう二度と読まないでしょうけど」
 俺は古泉の話を話半分に聞きながら、そこだけはひそかにうまい例えだなと関心した。


|