「あの……キョンくん? 何かあったんですか?」
 帰りの坂道で俺は朝比奈さんに尋ねられた。あとは卒業を残すのみのマイフェアレディは、この半年で時折大人びた雰囲気を見せることがあって、言ってみれば朝比奈さん(中)への移行段階らしい。
だからこそハルヒの持ってくるコスチュームを着るのもそろそろ羞恥極まってくる頃合いかもしれず、それでも気丈に申し出を受けている姿には感涙すらする。SOS団で一番うたれ強いのは朝比奈さんだと確信する次第である。
 そんな麗しの女性が発する気遣いの言葉に、俺はようやく彼女に長門妹に関して何も話していなかったことに思い至った。
「実はですね……」

「長門さんに妹さんが?」
 そうなんですよ。それで、もしかしたら長門がいなくなってしまうかもしれない、と。
「そんな……」
 本気で心配している様子の朝比奈さんだった。心温まるね。当の長門本人は今先頭でハルヒと何やら話しているが、さて何を思っているのだろうか。
「何とかできないんですか、キョンくん」
 もちろん何とかしたいですよ。今だってそれを考えていましたし。
 だが今回は長門本人に関わる問題だ。これまでみたいに誰かと共に事態解決へ奔走したりとか、そういう事で片がつくとは思えないんだ。とりあえず、有希と由梨の両方ともう少し話してみる必要がありそうだが。
「わたしにできることがあったら、何でも言ってくださいねっ!」
 はりきりモードの朝比奈さんだった。もちろんです。と言うか、あなたがそう言ってくれただけで、少なくとも俺の動力炉に暖かな火が灯りますよ。

 


 長門が気がかりではあったが、とりあえず一度駅前で別れて、自転車置き場へと向かう俺。
 長門由梨が現れたのはその時だった。
「あなたに話がある」

 俺はチャリを押して例の七夕公園に向かう。隣の由梨は真っすぐ前だけを見ていて、とてもじゃないが世間話ができる雰囲気ではない。髪が真っ黒なためか、どうも冗談を言う気にもなれない。
 この公園に来るのは久しぶりだった。もうすっかり冬になってきたし、この頃は大小どちらの朝比奈さんとも時を駆けたりしていなかったからな。
 自転車を止めて、俺たちは距離を取って座った。十二月の風はやはり冷たく、マフラーを巻いていても心許ない感じだった。
 横目で由梨をうかがって、あらためて思う。……本当に長門そのものだ。2Pカラー状態だし、あくまで同じなのは姿形だが、それでも俺は何か未知の感覚に包まれるようで、ひさびさに情報統合思念体の力を実感するのだった。一年前、二人の長門が相対するところを見たあの時とは、また何か違う。
朝比奈さん(小)が二人になった時は、別々にしか見ていないし、本物の双子を見たならまた別の感想を抱くだろう。
「話って何だ?」
 ようやく俺は言った。長門由梨はその言葉を待っていたかのように、しかし首はこちらを向かず、
「あなたや涼宮ハルヒ、その他周囲の人間にとって、長門有希がどれだけ必要とされているのかを知りたい」
 真っ黒な長門は淡々と言う。意外な質問だった。何を言われるのかまったく予想ができなかったのも事実だが、思わぬ変化球だ。
「お前たちの親玉は人の心が理解できるようになったのか?」
 俺の問いに由梨は真顔のまま首を二度横に振った。本当に機械的動作で、何だかやるせなくなる。
今の有希がいかに宇宙人属性から脱したかがよく分かる。そういえばあいつは、過去に一度だけ笑ったことがあったしな。あぁ、あの改変された世界とは別にだぜ。
「長門有希が始めに文芸部に置かれていたことには理由がある」
 俺の回想などお構いなしに黒髪長門は言った。しかしこいつ、まったく人の目を見やがらねぇ。こっちがチラチラ様子をうかがってるのがバカみたいじゃないか。
 で、理由って何だ。ハルヒの動向を観察して、入手した情報を親玉に報告する……とかいうのがずっと前に有希本人から聞かされたあいつの役割のはずだが。
「それだけではない」
 まったく考える様子も見せず、オートリピートのように由梨は答える。

「有希が本当にあの場所に置かれたのは、インターフェースがどこまで人間に近づけるかを調査するため」

 ……。
 重大事実、なのだろうか。
 いつだったか古泉が言っていた台詞が鮮明に蘇る。

「長門さんがあの場所にいるのには、何か他に理由があるはずです。彼女でなくてはならない理由が」

 それがこれだったのか? 俺たちSOS団団員と毎日を過ごすことで、長門に生じる変化を見る。
 そのまま頷いてしまいたくなるくらいの回答だ。それならば、長門に与えられた無口属性や、他のインターフェースがハルヒとある程度の距離を取って配置されていた理由も分かる気がする。
「彼女の本当の役割は涼宮ハルヒの観測ではない。観測のみが目的ならば、あのような設定をされることはない」
 由梨は淡々と告げる。そして俺は思い出す。去年の五月、あの何もないマンションの一室で、今の由梨と同様に無機質だった長門は言った。

「この三年間は至って平穏。しかし最近になって、無視できないイレギュラー因子が涼宮ハルヒの周囲に現れた」

 あの待機モードの三年間だって観測は続いていたはずだ。しかし、長門はハルヒに接近したりしなかった。
 情報爆発が起きてから情報統合思念体は地球に注目するようになった。それから今まで、ずっとハルヒの動向を観測している……と。
 俺は考える。観測だけならそもそもインターフェース自体が必要ないんじゃないだろうか? 情報統合思念体については、今になっても俺はさっぱり分からないことばかりだが、唖然とするしかないようなとんでもない技をいくつも使えるってことだけは分かっている。ならば、単独でハルヒの動向を見守る事だってできるだろうと思う。ならば、なぜヒューマノイドインターフェースを用意してコンタクトを図る必要があったのか? あんなにもハルヒに近いところに宇宙人を置いておく必要があったのか?

 ……その答えがこれか。長門にだけ与えられた役割。本人も知らなかった本当の目的。
 あいつは一年前に過去や未来の自分と同期を取ることを拒んだ。そして統合思念体はそれを認めた。
その時に俺は何とも思わなかったが、あれが始まりだったのかもしれない。事実、あの日を境に長門は劇的なまでの変化を遂げてきた。俺にも予想できない積極性を見せて、時に困ったりしたこともあったが、それすら俺は長門が人間に近付いているが為の感情発露なのだと受け取っていた。統合思念体はハルヒだけでなく、変化する長門有希という固体をも観測していたのだ。
 ふと見ると長門由梨は俺が考え終えるのを待っているかのように、微動だにせず虚空を見つめている。
 初めの長門はこんなだったのだ。それが今は婦警服を自分に当てがったり、自己流のジョークを飛ばしたり、ハルヒに思わぬ提案をしたり、クラスメートと会話するくらいにまで成長した。
「そうだったのか……」
 思わずつぶやきが漏れる。
「自律進化の可能性。その糸口の一つ」
 由梨が言った。確かに、長門は誰の力も借りずに、自分自身の意思でここまで変わってきた。これを大仰に言い換えれば、あるいは進化と言えるかもしれない。
「長門有希は我々の想像を大きく飛躍した変化をした」
 真っ黒な由梨を見て思う。長門には最初性格らしい性格がなかった。朝倉涼子や、この前まで生徒会の書記だった喜緑江美里さんには、明確な人格設定らしきものがあった。名前は分からずじまいだったが、春や夏に対峙したあの敵対インターフェースにも分かりやすいキャラクターがあった。随分と荒っぽい奴だったが、みな確固たる「色」を持っているように思えた。
 だが、長門はどうだ? 確かな性格がないのが性格、なんてのはゴマカシに過ぎず、客観視すれば
個性らしきものは全くなかった。ハルヒは最初「あたしが見つけた無口キャラ」と言ったが、それは長門が他に取るべき行動を持たなかったからだ。言わば初めの長門は「白」だったのだ。無色と言い換えてもいい。長門は俺たちSOS団と放課後や学外での活動を共にすることで、自分を獲得していったのだ。

「そして、彼女の役目は間もなく終了する」
 由梨の言葉が俺を思索から呼び戻した。公園にかかる放送だってもう少し抑揚がありそうなものだが、黒髪長門の言葉には温度がなかった。
「なぁ。……あいつをそのまま、ここに残してやることはできないのか?」
 俺は言った。
 
「長門有希にいなくなってほしい人間なんか誰もいないんだよ。……さっきお前は言ったよな? どれだけ必要とされていたか知る必要がある、って。他の誰にも代わりが効かないくらい、あいつは俺たち全員にとって大切な仲間なんだ。何度も助けてもらったからってだけじゃない。これは、俺個人の感情でしかないが……俺はあいつがいなくなったらたまらなく寂しい。ひょっとしたら、何ヶ月も立ち直れないかもしれない。言い方は変わるかもしれないが、朝比奈さんや古泉、ハルヒだって似たようなことを言うはずだ。だから……これは俺からの頼みなんだが、あいつをここに――」
「できない」
 長門由梨は雪よりも温度の低い声で言った。
「既に決定は下っている。わたしが有希の観察を終え、有希が思念体に報告を終えた後、パーソナルネーム長門有希は情報連結を解除される」
 ……何とかならないのかよ。
「多少の誤差はあれ、おそらく一週間程度ですべての工程が完了する」
 それだけ言うと由梨は立ち上がって何のためらいもなく歩き出した。

「待て」
「……なに」
 俺の呼び止めに黒長門は振り返らず答える。
「お前は、姉さんが消えちまうことに何の抵抗もないのか」
「姉というのは設定上の概念にすぎない。わたし個人に特別な思いはない」
 そうか……。だと思ったさ。こいつはつい最近誕生したのかもしれないし、無理もない。
「お前と長門……有希は、同じ部屋に住んでるのか?」
「わたしは303号室。有希とは別の部屋」


「……長門、お前がどう思ってるのか聞こうと思ってここに来た」
 俺は由梨に同行してマンションまで行き、708号室を訪れ今に至る。由梨は当然のように三階でエレベーターを降り、未練も何もないように俺に背を向けた。
 有希……いや、長門はお茶を入れて湯飲みを俺に差し出してくれた。元気がないように見えるのは気のせいじゃないだろう。
「長門、大丈夫か?」
「……へいき」
 平気には見えなかった。
 春先からこっち、長門の気がふれたようになることは、実は何度かあった。だがそれはどちらかというと、どうやらこいつの気質らしい負けず嫌い根性から来るもので、今のものとは別種だ。悄然、というか、天気で言えば小雨のような長門の表情には……何だか胸がざわざわする。
「もちろんお前はここに残るために申請なり何なりするんだよな? 何もしないままなんてことないよな?」
 質問というよりは、長門と自分自身に言い聞かせるかのような言葉だった。
「いなくなったり……しないよな」
 言葉が途切れる。

「……雨」
「ん?」
「雨、降ってる」
 すっかり暗くなったカーテンの向こうで、雨が降り出したようだった。しとしとと……余計な演出だ。
 

「情報統合思念体の決定を覆せる見込みは低い」
 長門の声がいつもより小さい気がした。珍しく目を合わせようとしない。
「だからって諦めるのか? 長門、お前らしくないぜ」
 我ながら中身のないことを言っていると思う。そんなの長門だって分かっているだろう。俺が長門より分かっていることなんていくつあるだろう。こいつには教えられたり助けられたり、そんなのばかりで、俺はなかなか恩返しできなかった。だが、そういうジレンマさえもとっくの昔に吹っ切って、俺たちはその先にある新しい信頼関係を築けていたはずだった。

「困った時は、お互い様」

 いつか長門から聞いた言葉だ。あの時は不覚にも目頭が熱くなった。やたらと切羽詰っていたからな。
 ……そう、全員が全員を助け合ってここまでやってきたのが、SOS団の何よりの強さだった。だからこそ、厄介事を乗り切った後に部室でのんびりしている時間や、谷口や国木田、鶴屋さんにコンピ研、妹や生徒会に阪中、ミヨキチ、機関のみなさんと合間に起こしてきたイベントごとがたまらなく楽しかったんだ。

 そんな日が、いつまでも続くと思っていた。

 本当はそんなはずないし、いつか別れはやって来る。
 それでも、できるだけ長く笑っていられればいいと、そう思っていた。

 これが終わりの始まりなんだろうか?

 こうして、一人、また一人とSOS団から団員がいなくなって、やがて市内探索や年中行事もしなくなって、俺たちは別々の場所へ歩いていく……。

 しょうがないことなのか、長門?

「俺はな、長門」
 長門は目を合わせようとしない。
「朝比奈さんはともかく、お前は……ずっと近くにいてくれるような気がしてたんだ」
 沈黙。
 こうして長門と差し向かいで話すのは久しぶりだ。長門の力を借りるような困った事態になることは、もう滅多に起きなくなっていたからだ。
「そんなはずないのにな……」
 言葉の最後は尻切れになった。何と続けたらいいか分からなかったからだ。

 また沈黙。
 俺だけが喋っていて長門が無言になるこの状況は、初めてここに来た時と真逆だった。
「……今日は」
 長門が言った。注意深く耳を澄ませていないと聞こえないような音量。

「今日は、かえって」


 ドアを閉めると雨の音が容赦なく世界を包み、吐く息は真っ白に曇った。
 ……こういう役回りはうまくいかない。
 俺が人の気持ちにも自分の気持ちにも鈍感なのは、この一年でさんざん分かっていたことだ。
 だから長門は、あの時……。
 

 エントランスに降りると、外で自転車が雨に打たれていた。
 その手前、庇のある場所に人影がひとつ。

「あなたが久しぶりに困っているようだったのでね。おせっかいを承知で来てしまいました」
 古泉だった。
「ここで立ち話をしては冷えますから、どこか喫茶店にでも行きましょう。奢りますよ」


 一年前、長門が大量のエラーを溜め込んで世界を変えたあの時、光陽園学院の生徒になっちまってた古泉とハルヒと共に入った喫茶店に俺たちは入った。ここも随分久しぶりだ。
「今さらですが、今日はお時間大丈夫ですか?」
「あぁ」
 古泉に借りた傘を傘立てに置きつつ答えた。
 本当は予備校のある日だったが、行っても上の空になってしまうことは目に見えている。

 窓の外の雨は強さを増し、やむ気配がなかった。
 俺たちは適当に注文をして、人もまばらな冬の夜の喫茶店の一角に落ち着いた。

「二人の長門と話をした」
 先に切り出したのは俺だった。
 こういう時に一番理解者となってくれるのが古泉なのを、俺はしぶしぶながら認めていた。古泉も分かっていて待ち伏せしたのだと思う。
 ……俺が話をしている間、古泉は黙って頷きを返していた。喫茶店の中は驚くほど静かで、まだ七時かそこらなのに深夜のようだった。

「なるほど」
 十五分ほどの小話を終え、俺はぬるくなり始めたコーヒーを飲んだ。
「長門由梨は長門有希がいなくなることを告げに現れた、ということでしょうか」
「たぶんな」
 俺はあらためてあの黒髪長門が現れた理由を考える。
 あいつがいなかったら長門は誰から自分がいなくなるという事実を告げられていただろう?
 おそらくは情報統合思念体そのものから、直接だ。
 そして、自分がいなくなると知った長門はどういう行動に出るだろうか。これは俺の推測だが、あいつはたぶん俺たちに何も言わない。
 世界を変えちまったあの時だって、長門は一人でエラーの蓄積を抱え込んでいた。あれから実に色んなことが起こったが、あいつが弱みを人に見せようとしないのは、どうも性格から来るものらしい。
 それはそれで自分の意思が芽生えているのだと好意的に解釈できた。しかし、こういう時にもあいつは誰にも相談しなかったのではないだろうか。さっきの様子からしても、あいつはどうしたらいいのか分からずに戸惑っているようだった……。
「古泉、俺はどうしたらいいんだろうな」
 戸惑っているのは俺も同じだった。長門が頼れる人の数は、たぶんそんなに多くはない。
 しかし、俺には負い目があった。ふいに古泉が言う。

「あなたは、一度はっきりと長門さんの好意を断っています」
 ……そう。初夏のことだった。長門は自分の言葉と意思で、はっきりと俺に自分の気持ちを伝えてきた。俺がずっと自分の中でセーブをかけて、気付かないフリをしていた領域に、長門は真っ向から歩み寄って来たのだ。……そして、俺はそれを断った。とっくに答えを出していなければいけないことだったはずなのに、俺はぐずぐずと回答保留をし、結果長門を傷つけた。だから、俺が気休めを言ってもあいつには空々しく聞こえるだけかもしれない。これまで通りの団員としての関係はすぐに元に戻ったが、以来俺に長門のタブーとなる事柄ができたことは間違いなかった。
 
「しかし、今でも長門さんが一番心を許している存在はあなただと、僕は思っています」
 古泉の言葉が容赦なく突き刺さる。……やっぱりそうなのか?
「だからこそ、長門さんはあなたに心配されることに耐えられなかったのかもしれません」
 反論の余地もない。その通りだと思う。
「情報統合思念体の決定が覆らず、涼宮さんの力も部分的に消失し始めている今となっては、僕らにできることは何もないのかもしれません」
 古泉は淡々と言う。お前はそれでいいのかよ。
「僕個人の感情を言えば、長門さんがいなくなってしまった後のSOS団なんて想像もできません。我々は五人が揃って初めて意味を持つのです。それが増えても、欠けてもいけない。あなたも分かっているでしょう?」
 どういうことだ。
 古泉は両手の平を組んで、俺に挑むような視線を向けて言った。
「誰かがいなくなる時がすなわち、SOS団が終わる時なのです。……そう思いませんか?」


 家に帰ってから何をどういう順番で行ったか、まるで覚えてない。
 古泉が言ったことの意味について俺はずっと考えていて、妹が宿題について何か言っているのも、母親が今日は予備校云々言っているのも、夕食を取るのも風呂に入るのも、すべて半自動的に行っていたらしく、気がつけば俺は就寝準備状態だった。
 本当に長門はいなくなるのだろうか? どうも実感がわかないのはどうしてだろう?
 これまで当たり前に毎日を過ごしていた仲間が、ある日突然いなくなるなどと聞かされて、リアルに想像できるほうがおかしいかもしれない。想像外の出来事に何度も立ち会ってきた俺だったが、それでイマジネーションが豊かになったかと言えば、そうではなかった。

 ……今、長門は何を思っているのだろう。
 天井を見上げて、俺は息をついた。

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最終更新:2020年03月15日 22:44