「あの……キョンくん? 何かあったんですか?」
帰りの坂道で俺は朝比奈さんに尋ねられた。あとは卒業を残すのみのマイフェアレディは、この半年で時折大人びた雰囲気を見せることがあって、言ってみれば朝比奈さん(中)への移行段階らしい。
だからこそハルヒの持ってくるコスチュームを着るのもそろそろ羞恥極まってくる頃合いかもしれず、それでも気丈に申し出を受けている姿には感涙すらする。SOS団で一番うたれ強いのは朝比奈さんだと確信する次第である。
そんな麗しの女性が発する気遣いの言葉に、俺はようやく彼女に長門妹に関して何も話していなかったことに思い至った。
「実はですね……」
「長門さんに妹さんが?」
そうなんですよ。それで、もしかしたら長門がいなくなってしまうかもしれない、と。
「そんな……」
本気で心配している様子の朝比奈さんだった。心温まるね。当の長門本人は今先頭でハルヒと何やら話しているが、さて何を思っているのだろうか。
「何とかできないんですか、キョンくん」
もちろん何とかしたいですよ。今だってそれを考えていましたし。
だが今回は長門本人に関わる問題だ。これまでみたいに誰かと共に事態解決へ奔走したりとか、そういう事で片がつくとは思えないんだ。とりあえず、有希と由梨の両方ともう少し話してみる必要がありそうだが。
「わたしにできることがあったら、何でも言ってくださいねっ!」
はりきりモードの朝比奈さんだった。もちろんです。と言うか、あなたがそう言ってくれただけで、少なくとも俺の動力炉に暖かな火が灯りますよ。
「長門有希が始めに文芸部に置かれていたことには理由がある」
俺の回想などお構いなしに黒髪長門は言った。しかしこいつ、まったく人の目を見やがらねぇ。こっちがチラチラ様子をうかがってるのがバカみたいじゃないか。
で、理由って何だ。ハルヒの動向を観察して、入手した情報を親玉に報告する……とかいうのがずっと前に有希本人から聞かされたあいつの役割のはずだが。
「それだけではない」
まったく考える様子も見せず、オートリピートのように由梨は答える。
「有希が本当にあの場所に置かれたのは、インターフェースがどこまで人間に近づけるかを調査するため」
……。
重大事実、なのだろうか。
いつだったか古泉が言っていた台詞が鮮明に蘇る。
「長門さんがあの場所にいるのには、何か他に理由があるはずです。彼女でなくてはならない理由が」
それがこれだったのか? 俺たちSOS団団員と毎日を過ごすことで、長門に生じる変化を見る。
そのまま頷いてしまいたくなるくらいの回答だ。それならば、長門に与えられた無口属性や、他のインターフェースがハルヒとある程度の距離を取って配置されていた理由も分かる気がする。
「彼女の本当の役割は涼宮ハルヒの観測ではない。観測のみが目的ならば、あのような設定をされることはない」
由梨は淡々と告げる。そして俺は思い出す。去年の五月、あの何もないマンションの一室で、今の由梨と同様に無機質だった長門は言った。
「この三年間は至って平穏。しかし最近になって、無視できないイレギュラー因子が涼宮ハルヒの周囲に現れた」
あの待機モードの三年間だって観測は続いていたはずだ。しかし、長門はハルヒに接近したりしなかった。
情報爆発が起きてから情報統合思念体は地球に注目するようになった。それから今まで、ずっとハルヒの動向を観測している……と。
俺は考える。観測だけならそもそもインターフェース自体が必要ないんじゃないだろうか? 情報統合思念体については、今になっても俺はさっぱり分からないことばかりだが、唖然とするしかないようなとんでもない技をいくつも使えるってことだけは分かっている。ならば、単独でハルヒの動向を見守る事だってできるだろうと思う。ならば、なぜヒューマノイドインターフェースを用意してコンタクトを図る必要があったのか? あんなにもハルヒに近いところに宇宙人を置いておく必要があったのか?
……その答えがこれか。長門にだけ与えられた役割。本人も知らなかった本当の目的。
あいつは一年前に過去や未来の自分と同期を取ることを拒んだ。そして統合思念体はそれを認めた。
その時に俺は何とも思わなかったが、あれが始まりだったのかもしれない。事実、あの日を境に長門は劇的なまでの変化を遂げてきた。俺にも予想できない積極性を見せて、時に困ったりしたこともあったが、それすら俺は長門が人間に近付いているが為の感情発露なのだと受け取っていた。統合思念体はハルヒだけでなく、変化する長門有希という固体をも観測していたのだ。
ふと見ると長門由梨は俺が考え終えるのを待っているかのように、微動だにせず虚空を見つめている。
初めの長門はこんなだったのだ。それが今は婦警服を自分に当てがったり、自己流のジョークを飛ばしたり、ハルヒに思わぬ提案をしたり、クラスメートと会話するくらいにまで成長した。
「そうだったのか……」
思わずつぶやきが漏れる。
「自律進化の可能性。その糸口の一つ」
由梨が言った。確かに、長門は誰の力も借りずに、自分自身の意思でここまで変わってきた。これを大仰に言い換えれば、あるいは進化と言えるかもしれない。
「長門有希は我々の想像を大きく飛躍した変化をした」
真っ黒な由梨を見て思う。長門には最初性格らしい性格がなかった。朝倉涼子や、この前まで生徒会の書記だった喜緑江美里さんには、明確な人格設定らしきものがあった。名前は分からずじまいだったが、春や夏に対峙したあの敵対インターフェースにも分かりやすいキャラクターがあった。随分と荒っぽい奴だったが、みな確固たる「色」を持っているように思えた。
だが、長門はどうだ? 確かな性格がないのが性格、なんてのはゴマカシに過ぎず、客観視すれば
個性らしきものは全くなかった。ハルヒは最初「あたしが見つけた無口キャラ」と言ったが、それは長門が他に取るべき行動を持たなかったからだ。言わば初めの長門は「白」だったのだ。無色と言い換えてもいい。長門は俺たちSOS団と放課後や学外での活動を共にすることで、自分を獲得していったのだ。
「そして、彼女の役目は間もなく終了する」
由梨の言葉が俺を思索から呼び戻した。公園にかかる放送だってもう少し抑揚がありそうなものだが、黒髪長門の言葉には温度がなかった。
「なぁ。……あいつをそのまま、ここに残してやることはできないのか?」
俺は言った。
「……長門、お前がどう思ってるのか聞こうと思ってここに来た」
俺は由梨に同行してマンションまで行き、708号室を訪れ今に至る。由梨は当然のように三階でエレベーターを降り、未練も何もないように俺に背を向けた。
有希……いや、長門はお茶を入れて湯飲みを俺に差し出してくれた。元気がないように見えるのは気のせいじゃないだろう。
「長門、大丈夫か?」
「……へいき」
平気には見えなかった。
春先からこっち、長門の気がふれたようになることは、実は何度かあった。だがそれはどちらかというと、どうやらこいつの気質らしい負けず嫌い根性から来るもので、今のものとは別種だ。悄然、というか、天気で言えば小雨のような長門の表情には……何だか胸がざわざわする。
「もちろんお前はここに残るために申請なり何なりするんだよな? 何もしないままなんてことないよな?」
質問というよりは、長門と自分自身に言い聞かせるかのような言葉だった。
「いなくなったり……しないよな」
言葉が途切れる。
「……雨」
「ん?」
「雨、降ってる」
すっかり暗くなったカーテンの向こうで、雨が降り出したようだった。しとしとと……余計な演出だ。
しょうがないことなのか、長門?
「俺はな、長門」
長門は目を合わせようとしない。
「朝比奈さんはともかく、お前は……ずっと近くにいてくれるような気がしてたんだ」
沈黙。
こうして長門と差し向かいで話すのは久しぶりだ。長門の力を借りるような困った事態になることは、もう滅多に起きなくなっていたからだ。
「そんなはずないのにな……」
言葉の最後は尻切れになった。何と続けたらいいか分からなかったからだ。
また沈黙。
俺だけが喋っていて長門が無言になるこの状況は、初めてここに来た時と真逆だった。
「……今日は」
長門が言った。注意深く耳を澄ませていないと聞こえないような音量。
「今日は、かえって」
ドアを閉めると雨の音が容赦なく世界を包み、吐く息は真っ白に曇った。
……こういう役回りはうまくいかない。
俺が人の気持ちにも自分の気持ちにも鈍感なのは、この一年でさんざん分かっていたことだ。
だから長門は、あの時……。
「なるほど」
十五分ほどの小話を終え、俺はぬるくなり始めたコーヒーを飲んだ。
「長門由梨は長門有希がいなくなることを告げに現れた、ということでしょうか」
「たぶんな」
俺はあらためてあの黒髪長門が現れた理由を考える。
あいつがいなかったら長門は誰から自分がいなくなるという事実を告げられていただろう?
おそらくは情報統合思念体そのものから、直接だ。
そして、自分がいなくなると知った長門はどういう行動に出るだろうか。これは俺の推測だが、あいつはたぶん俺たちに何も言わない。
世界を変えちまったあの時だって、長門は一人でエラーの蓄積を抱え込んでいた。あれから実に色んなことが起こったが、あいつが弱みを人に見せようとしないのは、どうも性格から来るものらしい。
それはそれで自分の意思が芽生えているのだと好意的に解釈できた。しかし、こういう時にもあいつは誰にも相談しなかったのではないだろうか。さっきの様子からしても、あいつはどうしたらいいのか分からずに戸惑っているようだった……。
「古泉、俺はどうしたらいいんだろうな」
戸惑っているのは俺も同じだった。長門が頼れる人の数は、たぶんそんなに多くはない。
しかし、俺には負い目があった。ふいに古泉が言う。
「あなたは、一度はっきりと長門さんの好意を断っています」
……そう。初夏のことだった。長門は自分の言葉と意思で、はっきりと俺に自分の気持ちを伝えてきた。俺がずっと自分の中でセーブをかけて、気付かないフリをしていた領域に、長門は真っ向から歩み寄って来たのだ。……そして、俺はそれを断った。とっくに答えを出していなければいけないことだったはずなのに、俺はぐずぐずと回答保留をし、結果長門を傷つけた。だから、俺が気休めを言ってもあいつには空々しく聞こえるだけかもしれない。これまで通りの団員としての関係はすぐに元に戻ったが、以来俺に長門のタブーとなる事柄ができたことは間違いなかった。
最終更新:2020年03月15日 22:44