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 ご近所のおばさま方――と言うとといじめられるので奥様方と言おう。
 そんな人たちとの井戸端会議というものは、殆どがつまらない雑談ばかりだけれど、たまに会議という冠に相応しい主婦の知恵を聞けたりするので侮れない。
 何処何処のスーパーは何時あたりが狙い目、漂白剤はあそこのメーカーのやつが抜群……などなど。
 そういう訳であたしは、今日も今日とて近所づきあいもかねて会議に列席していた。
「お宅さんは良いわよねぇ、新婚さん……あぁ、懐かしいやらうらやましいやら」
「いえ、そんな。普通です、普通」
 一番年上の奥様は、決まってあたしにその台詞を言う。
 それに毎回何が普通なんだろうと自分でも疑問に思いつつ愛想笑い。
「そんなことないわよ。だって貴方の旦那さんは男前だしねぇ、はぁん」
「いえいえ。アイツなんて甲斐性なしもいいところで……」
 本当は「見る目があるわねアンタ!」と肩を叩いてあげたいところだけれど、勿論そんなことはしない。
「給料は安いし、家事はあんまり手伝ってくれませんし……」
 そういう風に謙遜しつつもあたしは悪くない気分だ。
 自分が褒められるよりキョンが褒められる方が嬉しいのはどうしてだろう。頬がにやけているのが分かる。
 あたしと井上の奥様のお決まり芸を眺めていた、あたしより少しだけ年上な……えぇと高木のお姉さまが苦笑しつつ話に入ってきた。これもおなじみのパターンだ。
「はいはいハルヒちゃん。のろけはそれまで。それと井上の奥様、不倫はダメですからね」
「あっら、何言ってるのよ。したくてもできないわよ。何せハルヒちゃんが奥様なんですからねぇ」
 これでも立派に大人なのだけれど、どうして皆ハルヒちゃんと呼ぶのだろうか。ていうかのろけてません。全然これっぽっちものろけてません。それとキョンが不倫なんてありえませんから、勿論。
「それがのろけだってーの。お花畑をスキップするみたいな顔してからに」
 高木のお姉さまはやれやれだなんて、キョンみたいに溜め息を吐く。ちょっとムカ。真似しないで。
 ……それと、何度も言いますけれどそんな顔はしてませんから。
「可愛い顔して拗ねても余計可愛いだけよ。そういうのは旦那さんの前でやんなさいな」
「そうよハルヒちゃん。……そういうのはあれよ、ベッドでね。って、いやぁ、もう! うらやましいわぁ!」
 うらやましいわぁ! と他の奥様方も顔を赤くして身をくねらせて大合唱。
 こんな人しか住んでないのかしら、家のマンション。
「はぁ」
 肩をすくめて溜め息を吐き、あたしは憂鬱なメランコリーに――って、あれ?
「どしたのハルヒちゃん。やりすぎ?」
「ち、違いますっ! ……いえ、むしろ、」
 ――この前キョンとしたのって、何時だっただろう?

 あたしは俯きながら記憶を掘り返す。
 確か……そう、三週間も前に古泉君がやってるフレンチレストランに外食した日だ。
 ということは、だ。それから二十一日ざっと五百時間以上あたしはキョンといたしてない。 
 最近体調と機嫌が良くないのは……じゃないわよなにいってんのよもう、おばさまの台詞に違和感を感じてしまったのがその所為だ。
「ん。むしろどしたの?」
「はぁ、むしろ、その逆かなぁって。最近……」
 その瞬間ピシ――という音を聞いた。
 あたしの周りのすべての奥様方が動きを止めた。そしてじぃっと……何だか哀れなものを見る目であたしを見つめだす。
 皆どうしたんだろう、と困惑するあたしの方を高木の奥様が真剣な顔でぽんと叩いた。
「――短い新婚生活だったわね」
「なっ、なに言ってるんですか! あたしとキョンは……」
「熱くてラブラブ? ご無沙汰なのにそう言える?」
 ぐぅ、とあたしは言葉に詰まってしまった。
 他の奥様方はあたしを見る目を同情やら仲間が増えたやら変なものに変え始める。
 ……そんな筈無い。あたしはキョンを愛してる。キョンもあたしを愛してる。間違いないわよ。なのになんで皆そんな風な目であたしを見るの。
 なんで……ラブラブです! と恥ずかしい台詞を言えないの。
「……良い? ハルヒちゃん。私の質問に正直に答えてちょうだい」
「……はい」
 あたしは高木のお姉さまの言葉に、ふわふわとした不思議な気持ちのまま頷いた。
「食事を出して、それをキョンさんが食べて……ちゃんと美味しいって言ってくれる? 喜んでくれてる?」
 あたしは昨晩や最近の食事の光景をなんとか思い浮かべながら、首を力なく横に振った。
「それじゃあ会話はどう? 毎日たくさんおしゃべりしてる? キョンさんそんなに無口な性格じゃないでしょう?」
 ……その問いにも、あたしは力なく首を横に振った。
「お風呂は? この前一緒に入ったのは何時?」
 たしか一ヶ月月前です。
「お風呂プレイした?」
 しました。
「それから後は夜の生活……あー、最後にしたのは?」
 ……三週間前です。
「――むなしい、って感じたこと、ない?」

 ………………あがが。
「……ハルヒちゃん」
 高木のお姉さまは慰めるようにあたしの頭を撫でてくれた。
 けれど――そんな、まさか、だって。あたしは頭の中にそんな台詞と暗澹でろくでもない想像が飛び交うのを止められない。
 不倫――井上の奥様の冗談が、死神の鎌のようにあたしの心臓に刃を立て始めているような絶望感と、不安感。
 暗い顔で俯き、今にも泣き出しそうなあたしの頭を、高木のお姉さまは無言で撫でてくれた。まわりの奥様方もそれぞれに「くじけないで!」「がんばれ!」とエールを送ってくれる。
 そのうちに、誰かがあたしたちの所に近寄ってきた。井上の奥様だ。
 奥様は子供をあやすような優しい声で、あたしに語りかける。
「……ハルヒちゃん。貴方は旦那さんの愛を足りないと……そう感じていないのね?」
 あたしは「ふぁい」と情けない返事を返した。
「愛のある甘い新婚生活に……戻りたい?」
 ふぁい、ふぁい。
「……それじゃあ、あたしの言うことをよく聞いて。いい? アドバイスは四つあるわ。名づけて夫を振り向かせる四か条。それは――」
 井上の奥様はあたしにぼそぼそと耳打ちをした。
 それを聞くうちに……あたしはだんだんと元気と勇気が湧いてきた。
 つまらない雑談なんかじゃない。ご近所づきあいなんかじゃない。いい人だ。いい人たちだ。皆と会議してて良かった、とそう思えてきた。いえ、思ったわ。
「――分かった? そうすればきっと大丈夫」
 井上の奥様は懐の広い、お母さんのような微笑を浮かべた。
 それで決心がつく。
 ……うん。それだわ! それよ!ありがとう、おばさま――! あっ、おばさまって言っちゃった。
「あははは! 良いのよ。気にしないで。……それより、頑張りなさいよ」
「はいっ!」
 キョンが言うところの百万ワットの笑顔で、あたしは力強く頷いた。


 そういうワケでキョンの愛を取り戻せその一!
 あたしは夕飯は近くの中華屋さんの出前に任せ、早速それに取り掛かった。
 ……といっても、使うものといえば髪を纏めるゴム一つなんだけれど。
 いえ、ここはお化粧も完璧にしておくのよ。ドモホルン何処――あぁでもキョンはナチュラルメイクの方が好きだしっていうかすっぴんでも奇麗って褒めてくれるしえへへじゃなくて!
「念には念を、よ。奇麗も最近言ってもらってないし!」

 根性と気合であたしはメイクをした。思わずキョンが押し倒したくなるくらいに。
「……うん、よし、あたし奇麗。ハリウッドもびっくり」
 バカらしい自画自賛とともにあたしは最後にリップをひいた唇を小さく開閉させてみた。
 ちゅ、ちゅ、と。……うん。キス準備万全。可愛い。奇麗。流石に裸にエプロンとかはできないけれど、十五分に魅力的だ……と、思う。
 なんていう、
「帰ったぞー」
 ――そんなナイスタイミングで、キョンが帰ってきた。 
 だん! と下の階の榊さんの家族が地震と間違えるかもしれないくらいの踏み込みで、あたしは飛び出す。
「……ただいまぁ」
 玄関。キョンは疲れた顔で靴を脱いでいる。
 ネクタイを緩めて胸元を少しだけ肌蹴させたスーツ姿が――じゃないのよあたしこら!
 気持ち入りすぎで気持ち悪いくらいの猫なで声で、あたしは出迎えた。
「おかえりなさい、キョン。今日もお疲れ様」
「ん。あぁ」
 目と目が合う。
「――」
 ふふん、おあたしは得意満面の笑みを浮かべている、と思う。
 そんなあたしの――その第一条「髪型を変えてみるべし!」さりげなく髪型を変えて喜ばせる作戦――頭は、学生時代よりもきっと格段に似合ってる見事なポニーテール。
 キョン曰く「萌え」な髪型だ。結婚式もこの髪型だった。
 ぐっと来ないはずがないわ。さぁ、どう、どう、どうなのよ、キョン!
「鞄持ってあげるわ」
「あぁ」
 さりげなく! さりげなくアピール!
 さらりと揺れる手入れも行き届いてる自慢の髪。これ見よがしに揺らしてみる。
「靴下はここで脱いでよ。砂入ってるから」
「あぁ」
 さりげなくぅ!
 と、何度も何度も絶妙にアピールを繰り返す。
 けれど、キョンはあたしの姿を二度三度瞬きをしながら眺め……不思議な表情で口を開いた。
「なぁ、ハルヒ――」

 来たわ! と思わず身構え、
「――なんで化粧してるんだ?」
 たのだけれど、直ぐに力が抜けた。
 キョンの言葉は望んでいた言葉とは程遠かった。地球とイスカンダルより遠かった。意識が飛びかけた。
 ……あれ?
「飯より先に風呂入るわ」
 そして、すたすたと歩いていってしまうキョン。
 その後姿を見送ることもせず、お風呂の用意をしてあげることもせず、あたしはがっくりと膝をついた。
「……マジ?」
 そりゃあ鈍感だわよ家の旦那自慢じゃないけど。
 でも有り得ないわよね、そうだわよね。あんなに好き好き言ってたポニーテールなのよ。ばっちり決めたメイクなのよ。いえ、化粧には気がついてくれたけど、本当に気がついただけじゃない。
「……第一条は、失敗、ね」
 あたしは半べそでゴムをとっぱらった。
 これくらいじゃ諦めないんだから……っ!


 さっさと次行くわよキョンの愛を取り戻せその第二条! ゆーあしょっく!
 まだまだ三つあるわ大丈夫大丈夫――と、鼻息荒く若干キョンを引かせつつその日はとりあえずお風呂に夕食にとつつがなく済ませ勿論美味しいも何も言ってくれないくじけそうくじけない、床に着いた。
 もしかしたらキョンと手が太ももあたりに伸びてこないかしら……という期待は奇麗に吹き飛んだわよ。
 そういう訳で次の日。
 ――押してもだめなら引いてみるのよ作戦――を実行することにした。
 作戦内容は実に簡単。ちょっとそっけなくしてみたり、違う男の人と仲良さげにしてみたりして、キョンの気を引こう、キョンの不安感を煽ろうという内容だ。
 とは言うものの、キョン以外の男となんて仲良さげになどしたくないし適当な男も居ないし、いきなり暗礁だわねという脳内会議の否定意見を無視してとにかくそっけなくしてみることにした、
 のだけれど。
「おはよう、ハルヒ」
「……」
「おーい、おはようって」
「……」
「ほら、起きろ」
 挨拶を無視してみても、

「あれ? 俺の着替えは?」
「さぁ。自分の服くらい自分でちゃんとしなさいよ」
「それもそうだな。たしか……向こうの箪笥に」
 ネクタイを結ぶのを手伝わなくても、
「……なんでそっちの部屋で食ってんだ?」
「そういう気分なのよ。別に良いでしょ」
「ふーん。妙な気分の日もあるもんだな」
 隣に座らなくても、
「あれ? 俺のプリンは?」
「あたしが食べたわよ」
「あぁ、そうなのか。別に良いや」
 デザートのプリンをがめてみても、
「えぇと、今日の帰りは、」
「……別に毎日定時に帰ってこなくても寂しくなんかないんだからね」
「うん。ちょうど今日は接待入っててさ、遅くなるわ」
「えっ……」
 予期せぬ不幸に衝撃をうけて、
「ご、ゴミ、ついでに捨てといて」
「良いよ。それじゃあ、行って来る」
「……行ってらっしゃい」
 改めてキョンの優しさとか器の大きさとか認識させられて、
「えぐうぅぅぅぅぅ!」
 あたしは洗濯や掃除をほっぽりだしてソファのクッションに顔をうずめた。
 ばんばんばんと拳を叩きつける。
 なんなのよ! 全然上手くいかないじゃない!
「うぅぅぅ……」
 遅くまで帰ってこないよ寂しいよ。
 そっけなくしても全然堪えてないよ。危機感とか不安感とか全然感じてる様子じゃなかったよ。ていうかあたしが何したって、高校時代の前科が大きすぎてあんまり意味無いよ。
 ……やっぱりキョンは優しい。
 本当は愛が足りないだんてあたしの勘違いなんじゃないの。でも三週間もしてないよ……。

 えぐおう、うおう、おっ、とあたしはとりあえず一連の作戦で溜まったもやもやを吐き出した。
 たっぷり十分はそんなことをして、気持ちが落ち着いたところでむっくと情けない顔を上げる。
「……第二条も、失敗、ね」
 あたしは半べそで掃除機を引っ張り出した。
 まだまだ諦めないんだから……っ!!


 拝啓キョン。愛・覚えていますか? そろそろ危ない第三条。
 はなっから手の内明かしていくわよ。ずばり「夫婦の愛を形にせよ」――それって子供じゃないの、とあの時のあたしは突っ込めなかった。ていうか子供作ってたらこんな苦労してない。
 子供。子宝。尊い命よりも明確で想い溢れる夫婦の愛の形。
 難しい……。悩んだ。悲しく一人でめそめそ昼ごはんを食べ、そろそろ家事をしながら悩んだ。
 悩みつくした結果思いついたのは――
「――ペアルック、かしら」
 昭和なあたしの脳みそだった。
 いまどき田舎の中学生くらいしかこんなことしない。もしかしたらそいつ等洟垂れのガキンチョでもしないかもしれない。知らない。分からない。とにかくやってみよう。
 とんでもなく恥ずかしい。けれどちょっぴり嬉しい。キョンもそんな気分になるはずよ。……たぶん。
 デザイナーをしている有希に頼んでマッハで作って貰ったおそろいだけど少しだけ差異のあるトレーナー。
 阿呆なものを見る冷たい有希の目を耐え、どうでしょうか? と見せてみた高木のお姉さんの爆笑に耐え、何とかキョンが帰ってくる前に戦闘態勢を整えた。頭の中に警鐘を鳴らす。デフコン・ワン。よし、行こう。
「……」
 キョンは帰宅してすぐにお風呂に入った。いや、あたしが浴室に押し込んだ。
 怪訝な顔をしつつも「風呂の用意ありがとうな」と言うキョンにくらっときつつ、あたしはしまっておいたトレーナーを着替えとして脱衣所の籠に忍ばせる。
「……」
 湯気に曇った扉一枚その向こう。
 シャワーの流れる音の中に浮かぶ裸のキョンの肌色のシルエットに、唾を飲むあたしが着ているのは、胸のところに、
「I ハート キョン」
 というプリントがされたトレーナー。
 その下には何も身につけていない。ちょっと大きめのサイズに作って貰ったのは、腰下まで隠すため。
 まるで娼婦じゃないのこれちょっと、という羞恥に耐えながらあたしは声を張った。
「キョンーっ! 着替え置いておいたからねーっ!」
 エコーがかかった返事がすかさず返ってくる。

 ……よし、後は待つだけだ。あたしは脱衣所から出て、扉を閉めた。それに寄りかかる。
 ちなみにキョンの分のトレーナーの胸のところには、
「I ハート ハルヒ」
 というプリントがされている。お揃いだ。
 ……着るだろうか。着てくれるだろうか。こんなバカ恥ずかしいもの。
 愛があれば着てくれるわよ、と高木のお姉さんは言った。そうだ。信じよう。お姉さんは言いつつ「ぷく、くくくっ!」とほっぺたを膨らませていたけれど、信じるんだ。
「……ふぅ」
 ――来た。
 キョンがお風呂からあがった。扉がしまる音に続いて、タオルで体を拭く音が聞こえてくる。
 やがて拭き終えたらしいキョンは、着替えを求めて籠をあさりだす。
 一気に曇ってしまった脱衣所のガラス越しに、あたしはその動きを追いかける。
「――っ」
 手に、取った。
 固唾を呑む。
 愛なんてだんだん実感薄れるんだから、形にしてみるのも大事なのよ――と奥様は言った。
 さあ、どうするの、キョン。あたしは形にしたわよ。あんたはどうなの――!?
 心の中で問いかけた。それに答えるように、キョンは、
「ハルヒ……っ!」
 がらっと脱衣所の扉を開けて、
「こんな恥ずかしいもん着れるか……って、お前、それ……っ!?」
 タオルだけを巻いた顔は真っ赤になってて、あたしの格好を見て驚いて、
「……何やってんだ、この馬鹿っ!」
 驚くあたしにトレーナーを押付けて、ぴしゃんと扉を閉めてしまった。
 ――決して裸に見ほれたワケじゃない。
 あたしはアイラブハルヒなトレーナーを抱きしめて、力が抜けてがくっとその場に崩れ落ちた。
 うふふふ、と体が小刻みに震え始める。……そりゃあね、本気で百パーセント着てくれるとは想っていなかったわよ、流石に。思いついて先んじて着てるあたしですらどうかと想うもん。胸の文字に偽りなしだけど。
 でも、ね。でもねでもねでもねでもねでもねぇ――!
「……ばぁか、は無いでしょうに……」
 くくく、と泣きながら黒く笑い、純情を踏みにじられたあたしは、想いのベクトルが捻じ曲がって、見事にぷちんとブチ切れた。そっちがそれならこっちだって愛想つかしてやるんだから愛を供給してやらないんだから第三条失敗よ失敗大失敗よふっざけんな!!!

 ――蛍光灯が明滅する。ぱちぱちという乾いた音。じめりと澱んだ空気。
 光源の安定しないダイニングリビングのテーブルに、あたしは無言で腰掛けていた。
 ハートに×マークを上書きしたトレーナーを着て。夕食の用意もせずに、沸々と湧き上がる激情をただひたすらにもてあそびながら、あいつの登場を待っていた。
 やがて背後から、がらっと扉の引かれる音。心なしか控えめに引いているのは、あたしの心情を察しているのだろうか。知るもんか。
「……」
「……」
 しばし、無言。
 そりゃそうよ。二人ともこんな雰囲気で軽々しく口を開ける性格じゃない。
 けれどあたしから喋ることはない。結局重苦しい沈黙を破ることになるのは、あいつの方だ。
「……ハルヒ……? あの、夕飯、は……?」
「用意してないわ」
 振り向きもせず冷たく言い捨てる。
 そうか……、と。キョンは力なさげに呟いた。
 ふんだ。何よ、馬鹿。鈍感。確かに用意してないけど、テーブルの上を見てみなさいよ。
「……カップメンよ」
「そ、そうか。……あぁ、いや、良いんだ。うん。頂きます」
 支離滅裂なことを並べつつ、キョンは割り箸を割った。
 ぺきん、というしょうもない音が響く。何よ丁寧に。さっさと食べて向こう行きなさいよ。
「……ん」
 ずるずるずる。
 ちびちび食べているようだ。当然。こんなときに豪快に食べる阿呆だったら、そもそも結婚もしてない。
 ――だというのに、だというのに、だというのに、だというのに、だというのに、
「こ、これ、美味いな! はは、ははは」
 ――何をどう頓珍漢に勘違いをしたのか、この状況で一番のNGワードをキョンは笑いながらほざきやがってくれた。
 ずるずるずるずるずるずるずずる……っ。
 も、もう、我慢、でき、ない、わよ。 
 あたしは椅子から勢い欲飛び降りた。そして、感情の赴くままにありったけの声で叫ぶ。
「うわああああああああああああああ! ああああああああああああっ! うあぁぁぁ……、あ、ああぁ、あたしなんか、あたしなんか、ちっともキョンには必要ないんだあああああぁ! 
 うあぁぁ、ひあぁぁ、うぅっ、うっ、えぐぅ、うぇん……! キョンはあたしのこと愛してないんだあああああああぁぁぁっ!!」
 びえぇぇ、と涙が止まらない。とめどなく溢れてくる。

 びっくぅ! とキョンが驚く気配が伝わってきた。
「大好きなポニーテールにしても、褒めてくれないし、可愛いって言ってくれないし、そっけなくしても全然普通だし、優しいし、恥ずかしいトレーナーもあたしは着たのにキョンは着てくれないし……、
 そっ、その上、あたしの愛妻手料理よりカップめんが美味しいって、うぅ、うあっ、うあああぁぁぁぁん!」
 あの、ハルヒさん……? そろそろとキョンが近寄ってくる。
「三週間もえっちしてくれないし、いっしょにお風呂もはいってくれない、しっ、今日も、帰ってくるの遅いし、ひっく、えぐ、女として、妻として、……あたしは、キョンに寄り添えない……っ」
 キョンは床に蹲っているあたしの前にぺたんと座り込んだ。
 顔をあげる。最後まで言う。言ってやる。だから聞いて欲しい。
 あたしはキョンの胸にぼすんと飛び込んで、服のすそをぎゅっと握り締めた。
「ざびじいよぅ……」
 そのままキョンの服に涙と鼻水ぶっかけつつ、えぐえぐひっくうぐぐぅ、とまるで赤ちゃんみたいに泣き喚く。
「……」
 そんなあたしをキョンは何も言わず、そっと抱きしめる。
 ……ふん。なによ、今更やさしく、やさしく、うあぁぁ、
「もっとやざじぐじでよぅ……っ」
 胸から首元に顔を動かして、あたしは心の底からお願いした。
 キョンは「あぁ」とか「うぅ」とか変なことを呻き、やがて、あたしの耳元にそっと口を寄せて、
「……泣くなよ、お前らしくない。その、カップメンよりお前の手料理の方が何倍も美味いし、毎日楽しみだし、昨日もポニーテールさ、あんまりにも似合ってたからさ、恥ずかしくって、本当は褒めたかったんだけど、上手い事言えなくて……ごめんな、ハルヒ」
「うん。うん」
 喋りながらキョンはあたしの背中を何度もさする。やさしくゆっくり。
 普段なら子供みたいなことしないで、って怒ったけれど、今はもっとして欲しかった。
「トレーナーは……すまん。純粋に恥ずかしかった。あと、ちょっとだけ冗談かなぁって。……えぇと、う……その、な、アレのことは、だな」
 そこでキョンはこほんと咳払いをして、むちゃくちゃ恥ずかしそうに、
「――ちょっと現場に行ったときぶつけちまってさ、怪我しちまって」
 だから、
「本当は毎日したいくらいだけどさ、したくてもできないんだ……見せれないから、風呂もダメだし」
 でも、
「今日会社終わった後に病院行ったら、もう大丈夫だって」
「……ほんと?」
 全部あたしの思い過ごし、皆の思い込みすぎ。接待じゃなくて、本当は通院だった。
 種明かししてみれば馬鹿らしい理由を馬鹿だとは想わずに、あたしはのろのろ顔を上げた。

 痛くないの? 大丈夫なの? ちょっと見せてみなさいよ――だなんて何時ものあたしなら言ってたかもしれない。
 けれど今日のあたしは、ううん、今のあたしは、
「あぁ、ほんとだ。……な、なんなら確かめてみろよ」
 真っ赤な顔でそっぽを向いたキョンに、ただぎゅう締め落とす勢いと力でと抱きついた。
「――世界で一番、愛してるぞ、ハルヒ」
「なにそれ……くっさいの。他の言い方ないわけ?」

 ――いい? ハルヒちゃん。男っていうのはね、

「じゃあ、宇宙で一番愛してる」
「まだまーだ。それに、言葉なんかじゃ信じられないんだから」

 ――とってもシャイで厄介な生き物なの、

「……今の給料じゃあ、ちょっと厳しいんだけどな」
「へー、なにが厳しいのよ?」

 ――だからね、口に出さないだけで、本当は、

「……だから、出産費とか養育費とか生活費とか、いろいろだよ」
「……ストレートに言いすぎじゃない? それに、十ヶ月あるんだからその間にうんと出世しなさいよ」
「無茶言うな。係長だって今から一、二、万あがるかどうかだしなぁ」
「なによなによ。情けないわねぇ。銀河一のあげまん女がついてんのよ、大丈夫よ」
「銀河一ねぇ」
「なぁによ」
「いいや、お前にしちゃあ控えめだなぁ、って」
「……むむぅ。それじゃあ全銀河、いいえ、全宇宙一よ」
「そんな急激にランクアップできるもんか?」
「当然。あたしにできないことあった? ないでしょ。信じなさい……信じてるから」
「はいはい。精々期待に沿えるように頑張るよ……男か女か分からないけど、子供のためにもな」

「……うん。ねぇ」
「なんだ」
「ほんとうに、もう大丈夫? 痛くない?」
「さぁ」
「ちょっと! さぁ……って、病院行ったんでしょ!?」
「先生がさ、言うんだよ。愛が足りない。愛があれば完璧に治るって」
「…………からかってんの?」
「おう」
「愛してる」
「あぁ」
「死んでも、生まれ変わっても、ずっとずっと、愛してるわ。……文句ある?」
「いいや。これっぽっちも無いね。――ありがとう、ハルヒ」


 ――本当は、旦那さんは何よりも貴方を愛しているわよ、ハルヒちゃん。


「――こちらこそ、ありがとう、パパ」
「気が早いぞ、ママ」
 笑いあって、あたしたちは一生記憶に残るキスをした。
 自分の涙でしょっぱくて、もう一回笑いあった。


お終い

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