第一章 長門有希の選択 1

 話は十二月十八日、奇しくも去年に起きた事件と同じ日に全ては始まった。いや、始まっていたというほうが正しいだろう。俺は意識することもなく、その日の朝を迎えていた。去年同様、凍てつくような寒さの中、布団に留まろうとする俺を妹が起こそうとするところから始まった。

    ***

 小さな身体から生み出される力が俺の布団を剥ぎ取った。朝から嫌味なくらい満面の笑みで挨拶する妹を睨みつけると、俺はとっととリビングへと向かった。寒さに身体を抱え、身震いさせながら部屋を出た。砂漠化する気候に呆れながらも、秋という季節に特別の思いがあるわけでもなく、ただ漫然とその変化を感じていた。要するに、今年も去年と同じく秋がなかったということだ。妹は文句を垂れながらも素早く階段を下りる俺を追いかけてきた。
 リビングに入ると朝食は既に並べられていて、赤と黄色のコントラストにトーストという馴染みのものだった。妹は俺の横に座ると、屈託のない笑顔で合掌をし、すぐにトーストを齧った。これだけ笑顔で食べてくれるのなら、食べ物も生産者も嬉しいだろう。朝食を嫌々腹に詰め込む俺なんかよりずっと。時間もないのに朝の情報番組を見ながら、コーヒーカップを傾けた。妹もやけに難しい顔をしながらテレビを見ていた。
「キョン君、税金の無駄遣いは駄目だよね!」
 妹は真面目な顔で頷きながら、俺を見つめ言った。
「ああ、駄目だ」
 俺が適当に答えると、妹は嬉しそうに「そうだよね」と相槌を打った。
 俺は食事を終えると、制服に着替え、自分の部屋に昨日やっておいた課題を取りに行った。夜から始め、深夜に終わらせた数学の課題だった。部屋に入り、机の引き出しの中に課題が置いてあることを確認した。妹がまだ小さかった頃――その時も俺を起こしにきていた――、びりびりに破られ、課題を提出できなくなり、担任にひどく叱られたのを思い出した。それまでまともに課題を提出していなくて、教師に最後通告を受けていた課題だったのだ。学校で妹のせいにできるはずもなく、その日の放課後にもう一度やるはめになった。答えは覚えていたのですぐに終わったのだが。そんなわけで、俺は大事なものを机の上に置きっぱなしにしないことを学んだわけだ。さすがに妹も小学六年になり、今さら心配しているわけではないが、習慣というものは抜けないのだ。
 課題を取ろうとすると、それとともに空白な金属音を鳴らして何かが床に落ちた。不思議に思い、床からそれを拾い上げた。銀製の、といっても安物の、露店で売っている様な指輪だった。俺にはそれを購入した記憶は無かった。記憶というより、俺がそれを購入するようなことは俺の考えの中ではありえないことだったし、第一指輪なんて必要なかった。色々な角度から指輪を眺めてみたが、特別変わったところはなかった。形も途中で一度捻ってある程度のものだった。俺は観察するのにも飽きて、机の中に投げ入れ、引き出しを閉じ、部屋を出た。
 リビングに戻ると妹は既に赤いランドセルを背負っていて、準備万端で構えていた。俺も学生鞄を肩に掛け、妹と一緒に家を出た。「じゃあねキョン君」と妹は二つ結びの髪を跳ねさせながら俺に声を掛け、「ああ」と俺は妹に答えて、俺達は別れた。駅までは自転車通学、それから厄介な登坂が待っていた。

 坂を上りながら、俺は今年のクリスマスのことを考えていた。考えてもハルヒが今年は何を企んでいるのか、全く検討がつかなかった。去年と同じように鍋パーティーなんてのが俺としては安全パイなのだが。ハルヒ特製鍋は文句無くうまいし、また皆で鍋を囲むというのも悪くない。
「よお、キョン!」
 後ろから存在感も無く、谷口が俺の背中を鞄で叩いた。
「ああ」
 気のない返事をして、谷口を適当にあしらった。
「どうした朝からそんなにニヤニヤして、気持ち悪いぞ」
 俺が言うべき台詞を谷口が先に言った。ハルヒ特製鍋のことを考えて顔がニヤついていたらしかった。
「してない」
「もしかして今年は長門さんとデートなのか?」
「それは無いと思う。今年もSOS団で何かやるんだろうな」
「てことは、去年と一緒で涼宮達と鍋パーティーってことだな」
「そうなることを望む」
「俺も混ぜてくれ」
 谷口は懇願するような、哀願を込めた声で言った。
「お前、今年も彼女いないのか!」
 わざとらしく驚いて見せた。
「お前だっていないだろうが」
「全くだ」
 谷口が汚い笑い声を上げた。
「お前いつになったら彼女ができるんだ? まあ、あのけったいな団に関わっている限り不可能だろうが」 
 俺は谷口の推察を無視し、未だに続く上り坂を見上げ、睨みつけた。丘の上というのは古くから重要な場所、もしくは権力を持った人がいた場所のはずだった。俺ら北高生より有能で、かつ育ちもいい女子高が麓に位置しているのを、どう説明すればいいのか分からなかった。そんなことを考えていると、俺達は校門に辿り着いた。遅刻ぎりぎりだというのに、校門には未だに多くの人が登校しており、この学校に未来は無いということに確信が持てた。その中に一人マフラーを首に巻き、冬用の制服を着た女子に――もちろん、この寒い時期にマフラーを巻いている人など大勢いるわけだが――、目が留まった。細くすらりとした足に、肩口まで伸ばした黒髪、俺が一生忘れないだろう後姿、涼宮ハルヒだった。いつも一番早く来ているはずのハルヒが、なぜこの時間にいるのかは分からなかったが、声を掛けることにした。早足でハルヒを追い掛け、下駄箱で追いついた。
「よお、ハルヒ。今日は遅いんだな」
 俺がテンプレートな会話から入ると、ハルヒは慌てた様子でこちらを伺ってきた。
「何よ」
 ハルヒは慌てたのを隠そうと、俺をじとっとした目で見つめた。
「いや、何となく。ハルヒに話しかけたい気分だったから」
 「えっ」と一瞬驚いて、ハルヒは俯いて口ごもってしまった。そして、無言のまま、ハルヒはその場を走り去っていった。

 俺がハルヒの様子に呆然としていると、後ろから谷口が呼びかけた。
「お前、涼宮に嫌われるようなことでもしたのか?」
「いいや」
 そういう記憶は一切無かったので、当然そう答えた。
「でも、おかしいな。涼宮があんな反応見せるの初めて見たぞ」
「そうか、だが俺にも分からん」
 ハルヒを不審に思いながらも、俺達は教室へと入っていった。
 教室に入ると、ハルヒはぼんやりと窓の外を見ていた。一年の時から相変わらずハルヒの前の席に居続けている俺は、ハルヒを気にしながらも自分の座席に座った。
「どうしたんだ、ずっと外を見て。UFOでも飛来したか?」
「………」
 ハルヒは俺の言葉を無視した。俺が空を眺めるハルヒの横顔をじっと見つめていたところで、担任の岡部が入ってきて、前に直り、睡眠体勢へと移行した。午前中、俺はほとんど寝たまま過ごした。テスト返しも終わり、蛇足としか思えないこの一週間に気合など入るはずもなかった。

「今日の涼宮はおかしいとは思わんか?」
 谷口は弁当のご飯を一口大の大きさに切りながら言った。
「確かにねえ。なんかぼーっとしてるよね」
 国木田は半分に切られたゆで卵を一口で食べると、優しい声で言った。
「キョン、お前も不自然だとは思わないか? あの涼宮がいらついているわけでもなく、体調が悪いわけでもなく、ぼんやりと空を見上げてるなんて」
「なぜ、俺に訊く」
「お前に訊くのが一番手っ取り早いからだ」
「どうして」
 そこで谷口は黙ってしまった。
「涼宮さんが恋にでも落ちてるんじゃないか、って谷口は思ってるんだよ」
 国木田は助け舟のつもりで谷口の気持ちを代弁した。
「ほう、それで何故俺に訊く」
「涼宮さんの思い人がキョンなんじゃないか、って谷口が考えてるんだよ」
「おい、止めろ! 国木田!」
 谷口は妙に焦っていたが、国木田はそんなことは露知らず、朗らかな笑みで俺を見つめていた。
「で、キョンは涼宮さんのことをどう思ってるの?」
「どうも思わん。ハルヒはSOS団の仲間だし、面白い友達ってとこだ」
「ふーん」
 国木田は声に出してつまらなそうにし、谷口はなぜだか安堵の表情を浮かべていた。こいつらは俺とハルヒのことをどうしてもくっつけたいようだったが、俺にはそのことを考えることは無いだろうと思われた。なぜなら、ハルヒは俺の、SOS団としての仲間で、大切な友人だからだ。そして俺は急いで食事を終えるといつものように、部室へと向かった。

 部室に着くまでの間、俺はそわそわする気持ちを抑えるために色々なことを考えた。部室に入ったらどう声を掛けようか、どんな話をしようか、思い出話でもいいかもしれない。頭の中で思考を巡らせているうちに、部室に着いた。ゆっくりとドアを開け、その中に人がいることを確認しようとした。
 長門がいた。部室の片隅で、パイプ椅子に座り、分厚い本に目を落としていた。俺は長門がいることに安心し、近づいていった。
「長門」
 もう何度こんな風に長門に声を掛けたのだろうか。俺は普段通りに長門に声を掛けたつもりだった。しかし、長門の反応はいつもとは全く違うものだった。本から目を外し、俺を見るなり『驚き』の表情――少し目を大きく開いただけ――を一瞬だけ浮かべた。
「どうした? 俺の顔にゴキブリでも住み着いてるのか? それともお前の親父さんに顔
が似てきたか?」
 長門の思わぬ反応に、とりあえず茶化してみた。
「……何でもない」
 長門はゆっくりと首を振ると、俺を見つめてそういった。その瞳は吸い込まれそうな力を持っていて、思わず目を逸らしてしまうほどだった。俺は長門の横にパイプ椅子を広げ、座った。そして、本を読む長門をただぼんやりと見ていた。それだけで気分が落ち着いたし、長門の細く白い首筋はむしろ俺の鼓動を早めた。全体として細身のシルエットに、薄くピンクがかった唇、横から見える長いまつげ、全てがいつも一緒にいる長門だった。
「長門、そんなに同じ姿勢で本を読んでいて肩とか凝ったりしないのか?」
「……ない」
「そうか、でも肩凝りってのはいつの間にかなってるもんだ。俺が肩でも揉んでやるよ。得意なんだ」
 長門は首を動かすことも無く、ページを繰る手も止まったので了承だと思い、俺は長門の後ろに立った。そして、ゆっくりと長門のその薄い肩に掌全体で触れた。長門は動じることも無く、その状況を黙って受け入れていた。俺は長門を痛めないように、少しずつ力を入れていった。小さい頃、田舎のばあちゃんにやっていたときのように、純粋な気持ちでやろうと心がけた。時折香る長門の髪の匂いに、俺は嬉しくなっていた。長門に香りを感じるたびに、長門が少女であること認識できるからだ。
「長門どうだ?」
 長門は小さく頷いて、
「……いい」
「どっちの意味だ?」
 長門は何も答えなかった。『嫌だ』なのか『ちょうどいい』なのかは分からなかったが、嫌がる素振りを見せないかったので続けた。
 しばらく長門の肩を揉んで、もういいだろうと思い、止めてパイプ椅子に座りなおした。揉み終わると、長門は再び本の中へと帰っていった。俺はその様子を傍観し、漠然と長門の隣に座っていた。
「肩揉まれるのは嫌だったか?」
 何も反応が無かったのが怖くなり、尋ねた。長門は本を見ているときと同じように俯いたまま、小さく首を横に振り、
「……別に」
「そうか」
 なぜ俺が長門の肩を揉んでいたのかは分からなかった。ただ、事をし終えて、長門の側に居たかったのに気付いた。そして、その俺の行動がよくある会社の嫌な上司のセクハラのようで、暗澹たる気分になった。
 チャイムが鳴って、俺は長門と一緒に教室へと戻った。廊下でも一言も喋らず、長門は俺の後ろをふらふらと付いてきた。その姿が愛らしくて、俺は何度となく後ろを歩く長門を振り返っていた。俺が長門を見ようとすると、長門は視線を合わせまいと俯いていた。

 長門と別れ、教室に入ると、ハルヒはやはり窓の外をぼんやりと眺めていた。俺は自席に座り、身体を斜めにしてハルヒに話し掛けた。
「ハルヒ、どうしたんだんだ? 体調でも悪いのか? 今日のお前はどこかおかしいぞ?」
「……馬鹿」
 ハルヒは外を見たまま、小さく呟いた。
「馬鹿って、人が心配してやってるのに」
「あんたにだけは心配されたくない」
「そうかい」
 ハルヒの態度が余りにも無愛想だったので、俺は話し掛けるのも止めて身体を向き直し、やはり睡眠体制に入った。ハルヒがもう一度「キョンの馬鹿」と小声で言ったのは無視することにした。不安げな表情も気になったが、体調が悪い時は誰でも不安になるものだと決め付けることにした。
 俺は終業のチャイムとともに目覚めた。身体のバイオリズムかは分からないが、そういう風に身体ができているようだ。ホームルームを終え、俺は部室に向かった。リズム良く階段を下りていると、前から鶴屋さんがずんずんと一人で上ってきた。すぐに気付いたのは、鶴屋さんが何もしていなくても目立つ存在だからだ。さばさばと歩く姿はさまになったし、俺と一緒に階段を下りていた周りの人も鶴屋さんに目をやっていたからだ。鶴屋さんも俺に気付くと、
「やあ、キョン君!」
 鶴屋さんは目を瞑るほどの笑みを浮かべて、はきはきと俺を呼びかけた。
「あ、こんにちわ」
 俺は階段の途中で立ち止まり、鶴屋さんと話す事にした。今年のクリスマスのことを話しておこうと思っていたからだ。
「鶴屋さん、今急いでますか?」
「全然。ちょっと上に用事があるだけさ。で、何だい? もしかしてクリスマスのことかい?」
 鶴屋さんは二つ下の段から、俺の中でも覗き見るかのように上目遣いでじっと見つめながら言った。
「話が早くて助かります。今年のクリ――」
「ちょいとキョン君邪魔だよ!」
 鶴屋さんは俺の服の袖を引っ張った。俺が階段の真ん中に居たせいで、通行の邪魔になっているようだった。上から吹奏楽部であろう、コントラバスを背負った女子が降りてきていた。
「すみません」
「いいよ」
 身の丈を悠に超える黒いカブトムシが通り過ぎて、俺は話を元に戻した。
「んと、今年のクリスマスは鶴屋さんは参加できますか? まだ何をやるって決まったわけじゃないんですけど、とりあえず訊いておいた方がいいかなと。鶴屋さんと朝比奈さんはもう三年ですからね、センター試験も近いですし。それに、鶴屋さんは彼氏と過ごすかもしれないですしね」
「ああ、あたしは大学は推薦で決まったよっ。それに今年も彼氏はいないし。だから、今年も皆と一緒にバカ騒ぎできそうだよっ! キョン君今年も何かネタをやってくれるんだよねっ? あれ面白かったからなあ。去年食べたハルにゃんの鍋もおいしかったし、うーん、また食べたいなあ!」
「ネタはやりません」
 鶴屋さんは頬を緩ませていたが、俺はきっぱりと断言して見せた。
「だって、面白かったよ? キョン君お笑いの才能ありすぎだよっ! 思い出しただけで――」
 鶴屋さんは「ぷっ!」と噴出しかと思うと、「だははっ!」と腹を抱えて笑い出した。悪意はないのだろうけど、あのトナカイを思い出すだけで胃が重くなった。
「それでは、今年も鶴屋さんは参加してくれるということでいいですね」
 俺は不機嫌な声で、事務的に言った。
「何か喋り方が古泉君みたいだね」
「それは嫌ですね」
「古泉君もひどい言われようだね。ま、それはいいや」
 鶴屋さんは一呼吸置くと、続けて、
「あたしは今年も参加させてくれるなら参加するよ! ハルにゃんからオファーがあったら行くことにする。無かったら無かったで家族のパーティーに参加するし。ハルにゃんにもそう言っておいてくれっさ!」
「分かりました」
 鶴屋さんは階段をひょいひょいと一段飛ばしで上り、踊り場から俺を見下ろすと、
「それじゃあ、またね」
 特徴のある犬歯を見せてニイッと笑いながら、手を振り、階段を上っていった。長く伸びた髪が揺れて、俺の心に尾を引いていた。

 部室までの間、長門が鶴屋さんのような笑顔を見せるのにはあとどれぐらいの時間が必要なのだろうか、ということを考えていた。そして、それを考えることがすぐに馬鹿馬鹿しくなった。長門には顔を崩すほどの笑いは似合わないと思ったし、微笑んでくれるだけで十分だと思ったからだ。それは猫のようだと感じた。笑いはしない、けれど好意を持っていることを一緒にいることで伝え、側にいて擦り寄ってくるようなものだった。
 俺が部室に近づいていった時だった。俯きながら歩いていた俺は部室から漏れて響く怒号に驚き、思わず顔をあげ、閉まっていた部室のドアの前に立った。声を荒げていたのは古泉だった。注意して聞くと、それを止めに入る朝比奈さんの声も混じって聞こえた。なぜだか俺は中に入ることを躊躇ってしまった。俺が入ることで事態が余計に悪化するように思われたからだ。普段からは想像も出来ない声で誰かに怒りをぶつける古泉の話に俺は注意深く耳を傾けた。
「あなたは最も大事な部分だけを書き換えてしまった。それであなたは満足かもしれないが、もしかしたら世界は終わってしまうかもしれない。そういうことは考えなかったのですか? 僕たちはあなたの自己満足なんかに付き合っている時間はないんですよ!」
 古泉が話しかけていたのは長門のようだった。
「古泉君、長門さんはさっきから否定しているじゃないですか」
 これは朝比奈さんが止めに入っている声だ。涙声になっているのは気のせいなのだろうか?
「あなたは迷っていた。だから僕たちだけは残したのでしょう? 早く元に戻してください」
「もう止めて! 古泉君!」 
 古泉はそこで落ち着いたのか、部室からは一切声が聞こえなくなった。俺は素知らぬ顔で部室に入ることに決め、ゆっくりとドアを開けた。
「おっす! あれ、ハルヒのやつはまだ来てないのか」
 できるだけ普段通りに振る舞い、どかっと椅子に座り込んだ。鞄も長机の上に投げ出した。しかし、そこまで振る舞って、俺は動きを止めてしまった。目の前に広がる光景にただ言葉を失った。朝比奈さんはメイド服を着て床でうずくまって泣いていたし、古泉は長門を睨みつけたまま肩を怒らせて立っていた。部室の隅のパイプ椅子に座っていた長門は古泉の視線を避けるためなのか、俯いたままピクリとも動こうとはしなかった。そんな状況を無視し続ける事は不可能だったのだ。それに俺は古泉に対して、もやもやとした怒りを感じていた。なぜ長門を睨みつけているのか、それが知りたかった。俺は立ち上がり、古泉に話しかけた。
「おい! 古泉、お前はどうして長門を睨みつけてるんだ。場合によっちゃ俺が怒るぞ」
「涼宮さんなら来ませんよ」
 古泉は冷たく言い放った。俺の話なんか聞いていない様子だった。
「ハルヒの事はいい。それより、どうして長門に対して怒っているのかを教えてくれ」
 「ははっ」と古泉はわざとらしい笑い声を上げて、でこを右手で触りながら天井を仰いで見せた。そして、俺のほうに身体を向き直し、
「あなた自身が一番分かっているでしょう?」
「何をだ」
 質問の意図すら掴めず、少し苛立った。
「これはこれは、さすが長門さんというべきですね。完璧だ」
「いい加減にしろ。お前は何が言いたいんだ」
「あなたの好きな人を僕に教えてはくれませんか? もう半年もすれば出会って二年近く経ちますし、そういうことを語り合う仲にはなっているでしょう?」
 俺は古泉の言葉に溜息をついた。
「何でお前に俺の好きな人を教えなきゃならんのだ。この話とどういう関係がある」
「長門有希」
 俺は一瞬驚きの表情を浮かべてしまったと思う。なぜなら、それが古泉に問われて思った、俺の好きな人だったからだ。
「ビンゴみたいですね」
 古泉は無感動な笑みを浮かべて言った。俺がずっと俯いたままだった長門を見ると、長門は俺をじっと見つめていた。何かを否定するような、俺に何かを訴えるような瞳だった。
「あなたは操作されたのですよ。長門さんにね。長門さんのことを好きになるように」
「そんなはずない!」
 俺は古泉をきつく睨みつけると、怒鳴った。俺は古泉のじれったい態度に苛立ちを隠せなかった。
「そうなんだから仕方ありません」
「そんなはずない! 俺はずっと前から長門のことが好きだった。記憶だってある。そんなはずないだろ」
「本当に長門さんは優秀だ」
「長門、お前はそんなことしないよな?」
 俺は言って、長門の顔を伺った。長門は少しの溜めの後、ゆっくりと、しかししっかりと頷いた。
「酷い話だ」
「何が酷い話だ。長門はそんなことをするようなやつじゃない」
「僕と朝比奈さんはあなたが操作されたことに気付いているんです。長門さんは僕たちに見せ付ける気なんですよ。いい迷惑ですがね。ですが本当に迷惑なのは――」
「やめてください!」
 床に突っ伏していた朝比奈さんが古泉の足に抱きつき、叫んだ。
「古泉君、もうやめて! それ以上言ったら、わたしたち一緒にいられなくなっちゃう!」
 朝比奈さんの悲痛な叫びが古泉に届いたのか、古泉は肩を竦めて見せると、
「もう帰ります」
 古泉はそう言うと、床に落ちていた鞄を拾い肩にかけ、早足で部室を出て行った。古泉がいなくなった部室は朝比奈さんの泣き声だけが響き、酷い頭痛が俺を襲った。俺はそのまま椅子に座ると、がっくりと項垂れ、先ほどの訳の分からない言い合いを考えた。古泉がなぜあんなに怒っていたのかが分からなかったし、朝比奈さんもなぜあんなに泣いていたのかも分からなかった。というより、全てが分からない事だらけだった。俺の好きな人が操作されている? 俺は今までの記憶を思い起こした。やはり、俺に思い当たる節は無かった。俺はちゃんと長門が好きだった。
 朝比奈さんは立ち上がり、俺の向かいに腰掛けた。涙の後を擦りながら大きな瞳を潤ませている様子は抱きしめたくなった。でも、それは好きとは違っていた。長門に対する思いと、衝動的な欲求は全くの別物だったし、胸が苦しくなるような思いとは違ったのだ。
そのことを考えて、俺は長門のことが好きなんだと確信が持てた。長門のどこが好きなの
かは分からなかったが、『長門』が好きなのは確かだった。
「朝比奈さん、大丈夫ですか?」
 朝比奈さんが少し落ち着いたのを見計らって、できるだけ優しく話しかけた。
「……だい……じょうぶ」
 途切れ途切れ言葉を繋げて朝比奈さんはゆっくりと答えた。
「何か飲み物でも飲みますか? 俺が煎れますよ。長門もいるだろ?」
 やかんに水を入れに行くために立ち上がりながら、長門に尋ねた。いらないと言っても飲ませるつもりだった。やかんを持ち上げると中に液体が入っている重みを感じ、蓋を開けて中を確認した。三人分は十分に煎れられる水が入っていたが、いつからのかは分からなかったので朝比奈さんに確認を取った。「ちょっと前です」とこもった声で答えてくれたので、ガスコンロを点けた。ぼんやりと青い炎を眺めていると、この部室が冷え切っていることに気付いた。さっきまでの古泉と言い合いが終わって、緊張の糸が切れたからだった。
「なんで暖房つけないんですか? 電気ストーブっていってもつけるとつけないでは大違いですよ」
 独り言とも問いかけともつかない調子で部室に向かって話しかけた。そうでもしないと場の空気の重さに潰されてしまいそうだった。俺はガスコンロの前に戻ると、壁に向かって話しかけた。
「せっかく去年の今頃、俺が持ってきてやったって言うのに。ああ、そういえばあれはハルヒの命令だったな。あいつが来年の文化祭の前借りだって言って電気屋の親父さんをごまかしたやつだった。あの親父さんも人が良すぎるよな。生意気な女子高生のわがままをすんなり聞いてくれるんだから。そんで、俺はそのお使いを命じられたわけだ。ああ、その日は確か降水確率十パーセントだったのに雨が降ったんだ。俺は途中から走って帰ったんだっけ。部室に戻ると……誰だっけか、長門か。うーん。確か長門が本を読んでいて、そして俺はいつの間にか寝ていて、起きたらカーディガンがかけてあって。ハルヒが俺に悪戯しようとしてたんだ。あいつ、妙に焦ってて、あいつも俺にカーディガンかけてくれてたんだよな。外は叩きつけるような雨が降っていて、ハルヒは――」
 ハルヒは俺と一緒に一つの傘で帰ったんだ。狭い狭いなんて文句言いながら、少し気恥ずかしそうに。ハルヒがあんなに恥ずかしそうな顔を見せたのは初めてだった。閉鎖空間でキスをしたときは驚いていたし、ハルヒが自分からそんなことをしたのは初めてだったから。その後俺たちは、途中で焼き芋を食べたんだ。雨だっていうのに、客なんてこないだろうに街を周っていた焼き芋のトラックを見つけて、ハルヒが食べたいって言うから俺が奢ってやったんだ。ハルヒには傘に入れてもらったし、そのお礼も兼ねてな。でも、焼き芋は一本しかなかった。雨だから沢山は焼いてなくて、ちょうど前にまとめ買いしてったおばちゃんがいたらしかった。それでも近くの公園で屋根のあるベンチで並んで食べたんだ。熱いのを我慢しながら、包み紙の上から焼き芋を半分に割った。当然綺麗に半分になんて割れるはずもなかった。ハルヒはもちろん大きい方を取った。「俺が買ってやったのに」なんて文句を垂れながらも、久し振りに食べる焼き芋はおいしかった。ハルヒは熱いのに強いからなのか、ものの数十秒で食べ終わってた。「値段の割にはおいしいわね」なんて買ってやった俺の前で偉そうなことを言ってたな。でも、ハルヒは頬に焼き芋付けてて、そんなこと言われても全然腹が立たなかったんだ。
 なぜ、俺はハルヒとのことをこれほど鮮明に覚えているのだろう? ――いや、違う。俺は長門のことが好きだ。長門との思い出もしっかりと覚えているし、長門のことを考えると高揚する自分がいた。
「キョン君! やかん!」
 俺は朝比奈さんの声で我に帰った。やかんは耳に付く高音を鳴らせて、俺が火を止めるのを待っていた。慌ててつまみを捻って火を止めると朝比奈さんの方を向き、
「すみません、ぼーっとしてて」
 俺は朝比奈さんに向かって軽く頭を下げながら言った。朝比奈さんは「ふふっ」と小さな笑みを浮かべると、
「わたしが煎れますよ。キョン君は座っててください」
 どうやら、朝比奈さんは元に戻ったようだった。朝比奈さんは柔らかに立ち上がって、ぱたぱたとコンロに向かった。
「あ、すみません」
 俺は再び頭下げて、椅子に座った。
「謝らなくていいですよお。わたしが悪いんです。めそめそ泣いていたりして。キョン君はなんにも悪くないんです」
 俺の背中から朝比奈さんの愛らしい声が聞こえた。朝比奈さんはもう慰めたりする必要はなさそうだった。俺は安堵するとともに、少しだけ残念だった。
 朝比奈さんがお茶を入れるまでの間、俺はぼんやりと部室の外を眺めていた。日はほとんど沈みかけ、あと少しで冬の夜が訪れそうだった。朝の寒さが続いているとしたら、今日の帰りは縮こまって帰ることになるだろう。日が落ち暗くなった中、狭い歩道を街灯の光を受けながら、今日は長門と帰ろうと思った。そして、長門を家まで送ろう、そう思った。

 「どうぞ」と言って朝比奈さんは俺の前に湯呑みを置いてくれた。その小さな手が差し出すお茶はさぞ俺の心を温めてくれるだろうと、電気ストーブ一台程度じゃ暖まらない部室にいて、深く思った。朝比奈さんが何事もなかったかのように本を繰っている長門に配り終えて、元の向かいの席に座ると、俺はさっきのできごとのことを質問することにした。訊かないわけにはいかないし、訊かないと余計に不自然だと思われたからだ。
「あの、朝比奈さん。言いたくなかったらいいんですけど」
「あ、はい。さっきのことですね」
 朝比奈さんは両手をぎゅっと腿の上で握り、俺をしっかりと見据えて言った。
「なぜ古泉が怒っていたか教えてくれますか?」
 俺は回りくどい言い方はせず、核心を尋ねた。
「えーと……古泉君が怒っていたのは言っていた通り、キョン君の好きな人を変えられちゃって、それで……わたしたちはそのままで――」
 さっきのしっかりとした様子はどこへ行ったのか、朝比奈さんは消え入るような声で言った。
「とにかく――」
 朝比奈さんが話してくれていたが、俺は話を切った。
「俺は何者かによって好きな人を変えられてしまった、ということでいいんですね?」
 朝比奈さんは「はいぃ」と力の抜ける返事をして、俯いてしまった。
 俺はこの手のことには慣れてきていたし、訳の分からん組織が俺たちのことを狙っていることぐらい知っていた。世界そのものを変える力だって目の当たりにしてもいるし、俺一人の思考を変えることができても不思議じゃなかった。でも、変えられていたとしても、俺が「今」好きなのは長門なのには変わりはないし、そんなことはどうでもよかった。というより、俺が長門を好きになることに何の問題があるのかが分からなかった。
「でも、俺は古泉の言っていたように長門が変えたなんて思っていない。長門がそんな卑怯なことをするわけがないんだ」
 俺ははっきりと断言して見せた。
「そうです、長門さんがやったって決まったわけじゃないんです。それに、長門さんはやってないって言ってます。わたしも長門さんを信じます」
 朝比奈さんは俯かせていた顔を上げて、大きな声で言った。
「そういえば、どうして俺の好きな人が変えられたって分かったんですか? そもそも、俺が変えられていたとして、どうやって俺の変えられる前の好きな人を知っていたんですか?」
「わたしは未来人です。これだけ言えば大丈夫ですか?」
「なるほど」
 すぐにピンと来た。朝比奈さんたちの未来には、俺が長門を好きになる事項が存在しないんだ。だから俺の好きな人も、俺と長門の関係も知ってるんだ。でも――
「どうして俺が変えられたって分かったんですか? それを教えてください」
「禁則事項です。ごめんなさい、なぜだか止められているんです。わたしは言った方がいいと思っているんですけど」
「いつから俺は変えられたんです? それになぜ古泉までが知っているんですか?」
「あ、あのお。そんなに早口で喋られても訳わかんなくなっちゃいますう」
 しまった。朝比奈さんはもじもじと上目遣いで俺を見つめていた。
「すみません。なんか焦っちゃって」
「キョン君が変えられたって分かったのは、古泉君がこの変化を気付いたのと同じなんです。あんまり詳しくは言えないんだけど、古泉君も未来人なんです」
「古泉が未来人?」
 あいつは超能力者じゃなかったのか? だめださっぱり意味が分からない。
「そうです。変えられたのは今日、つまり十二月十八日です。でも、正確には十二月十七日です」
「なんだか日にちまで微妙なんですね」
 俺は手で後頭部を掻きながら、文句を垂れた。話は全く掴めていなかったが、一つだけ引っかかることがあった。
「あの、ハルヒは……ハルヒはどうなったんです? そういえばあいつ、今日朝から体調悪そうで、しかも訳分からなかったし。そんなのいつもだって言われたらそうなんですけど、今日はまた別の不思議さだったんです」
「……涼宮さん。そうなんですね。キョン君、そっとしといてあげてください。きっと何か考え事でもあるんですよ」
 朝比奈さんは小さく溜息を漏らすと、遠距離恋愛でたまにしか会えない彼を思うような顔でゆっくりと頷いた。
「そうですか」
 俺はしぶしぶ了承し、いつの間にか前のめりになっていた身体をどかっと椅子に寄りかけた。そして俺は今までのやりとりを頭の中で巡らせてみた。もし、俺の好きな人が変えられていたとしてだ、誰が得をするんだ? こんな一般人の好きな人を変えたぐらいで、変えた本人は本当に得をするのだろうか? 分からない、全く訳が分からない。でも、一つだけ確かなことがあった。俺は長門が好きだ。窓際でページを繰って、ぴくりとも動かない、アンティークドールのような長門が好きだ。部室の蛍光灯をぼんやりと反射する白い頬、そしてその光がまつ毛で薄い陰を落としていた。ふと俺は窓際で読んでいて寒くないのかと心配になった。制服の上に羽織ったカーディガン一枚、それに女子はスカートだ。寒いに決まってる。
「長門寒くないか?」
 俺は考えるより先に言葉に出てしまっていた。長門は本から目を外すと、目を瞑って首を横に振った。寒くないみたいだ、よかった。俺が寒いのは耐えられるが、長門が寒いままでいるのは耐えられないから。
「長門さんのこと本当に好きなんですね」
 「ふふっ」と笑いながら朝比奈さんが言った。
「あ、え、はい、そうかもしれません」
「だって、この部室に入ってから長門さんのことばかり見てます。わたしがいるのに長門さんのことしか目に入ってないって感じで。羨ましいなあ」
「羨ましい? 冗談ですよね?」
「……冗談ですよ」
 また朝比奈さんはとろけるような笑みを浮かべた。それから「ふうっ」と明らかな溜息をついた後、すっと立ち上がり、
「今日はもう帰ります」
「あ、はい。それじゃあ部室は俺が閉めておきますね」
 朝比奈さんは「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げ、朝比奈着替えシリーズと一緒に掛かっていたピンクのマフラーを取って首に巻くと、「それじゃあ」と言って切ない笑顔を見せて手を振りながら部室を出て行った。俺も朝比奈さんにつられて、小さく手を振っていた。さっき朝比奈さんに対する思いは衝動的なものだとか偉そうなことを考えていたが、髪をかき上げマフラーを巻く姿に見とれていたことに気付いて自分を殴りたくなった。どうやら男はかわいいものやら綺麗なものには単純に反応してしまうのだ、と一般論に当てはめて口実を作ろうとしてみるものの、誰に非難されているわけでもなく、誰に対して言い訳をしようとしているのかも分からず、結局は肩を落とすことになった。きっとハルヒなら、「みくるちゃんを見て鼻の下なんて伸ばしてんじゃないの!」なんて言ってくるに違いなかった。
「長門、俺たちも帰ろう。遅くなったら冷えてきちまう」
 俺は立ち上がると、窓に近づいて鍵が掛かっていることを確認した。既に日は沈んでいて、外は冬の深い暗さになっていた。グラウンドの方から届くサッカー部の声と、野球部の声が冬の校舎にこだましていた。今日の朝の寒さからいって、相当な寒さになっているようだった。それは窓を通して伝わる冷気からしても明らかなことだった。そして、電気ストーブを止める前に、俺は屈んで手を差し出し少しだけ温めた。
「長門、もう本読むのは止めて帰ろう」
 俺は手を温めつつ、背中越しに長門に話しかけた。なぜだか、さっきから長門は動こうとしなかったからだ。しかし、なんの返事も無かった。
「長門、今日は送るから一緒に帰ろう。お前がいくら完全無欠の宇宙人だって言ったって、なんだか不安なんだ」
 俺は立ち上がると、長門に話しかけた。長門は俯いていて、本を読んでいる様子ではなかった。
「……あなたは、わたしが好き?」
「え?」
 長門の質問に驚いた俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。長門座ったまま首を傾げ、整った二つの綺麗な瞳で俺を見つめた。まるで、水の中を泳ぐ魚が作る波紋を追うような、俺の中を覗こうとしている視線だった。それは純粋に行われていたし、若干の懐疑の意味もあったのかもしれない。長門と俺は見つめあったまま、動こうとはしなかった。先に俺が耐えられなくなって、視線を外した。俺が長門にしっかりと伝えることを決心するには十分な時間だった。
「そうだよな。長門もさっきの話を聞いてたんだもんな。俺の気持ちなんてバレバレだよな。さっきも言ってたけど俺、長門のことが好きだ。古泉や朝比奈さんが言っていたように変えられているのかもしれない。でも、今長門のことが好きなのは本当だ。それに、俺が持っている記憶はいつも長門と一緒だしな。別に付き合って欲しいなんて言わない。朝比奈さんだって困るだろうし、古泉だって迷惑だろう。長門だって色々あるだろうしな。って、言い訳臭いな。結局、何が言いたかったかというと、俺は長門のことが好きだ。それだけ」
 自分で言ってて、訳が分からなくなった。なぜ俺はこんな恥ずかしいことを言っているのだろうか?
「……そう」
「……そうなんだ。一方的でごめんな」
 俺がそう言うと、長門はゆっくりと首を振った。
「……違う。わたしは、嬉しいと感じている」
「ごめん、なんか……ありがとう」
 思わず俺は謝っていた。長門はもう一度首を振ると、
「あなたはわたしのことが好きと言葉にはしていなかった。だから、言葉にしてくれて嬉しいと感じている」
 そういえば、俺はまだ「長門のことが好き」とは言葉に出していなかった。勝手に勘違いして、大真面目に長門に告白している俺に気付いて、自嘲した。何を焦っているんだ俺は。
「長門、そろそろ帰ろう」
 気まずくなって話題を変えた。長門は正確にパイプ椅子から立ち上がると、側に立っていた俺を上目で見つめた。長門がじっと俺を見つめてくることはよくあったが、やはり意味は分からなかった。そんな顔一つ小さい長門を愛しく感じ、俺はぎこちなく長門の頭を撫でた。上から見える長門の柔らかそうな髪に触れたかった。嫌がられるんじゃないかと内心不安だったが、長門は特段気にする様子も見せず、ただ黙って俺を見つめていた。
 掛けてあった深緑色のコートを羽織り、部室を出て、昇降口で下駄箱から学生用の黒い革靴を取り、坂の途中から入る形になっている校門を抜けるまで、俺たちは黙ったまま並んで歩いた。廊下を歩いている時から底冷えする寒さに身体を縮ませていたが、寒さってのはすぐに来るものじゃないらしい。ゆっくりと、しかし執拗に身体から熱を奪っていくものだ。校門まで来て、それに気付いた。
「長門、寒くないか?」
 校門を抜けて、狭い歩道を二人で歩いているときに話しかけた。当然長門は首を横に振った。こいつは液体ヘリウム漬けされても寒くないって答えるだろうと、その時なぜか確信が持てた。それでも俺は長門が気になって――というのは建前で、ただ俺は長門に触れたかっただけだ――、長門の手を取った。俺たちは立ち止まってしまった。長門の手はひどく冷たくて、冷えた金属を触っているようだった。俺が長門の冷め切った手を握っても、長門はずっと俯いたままだった。嫌がられているのかとも思ったが、長門の様子を見ているとどうも違うらしかった。
「ごめん長門。急に手を握ったりして」
 俺はとりあえず謝った。俺がこんなに積極的だなんて、俺自身が信じられなかった。長門は俺の気持ち悪い積極さに動じる様子も見せず、ゆっくりと首を振ると、
「……手を繋いで欲しい」
「え?」 
 俺は長門の言う言葉も理解できずに、思わず声を出してしまった。
「……手を……繋いで欲しい。……だめ?」
 長門は俺をじっと下から覗き見ながら言った。俺たちの手は握られたまま宙ぶらり状態のままだった。俺は長門のぽつりぽつりと言った言葉、その仕草に何も考えられなくなっていた。
「だめなわけない! むしろこっちからお願いしたいくらいだ」
 それだけ言うと、俺は長門の右手をぎゅっと握って、自分のコートの左ポケットの中に一緒に突っ込んだ。
「これなら冷たくならないだろ?」
 俺が言うと、長門はこくりと小さく頷いた。
「さあ、早く帰ろう。もっと寒くなってきちまう」
 俺たちは手を握り合ったまま、帰り道をなぞった。長門も俺の手をしっかりと握ってくれた。俺は何もすることができず、ただ俯いて、時折長門の顔を見ながら歩いた。長門も何も話さず――といっても、長門は普段から何も話さないのだが――、俺と同じように俯いて歩いていた。
 長門のマンションの下まで来ると、俺たちは街灯の下で訳もわからず立ち尽くしていた。俺は長門の顔色を伺うように見つめ、間が持たなくなったり、目が合ったりすると作り笑いした。なぜ俺がそんなことをしていたかというと、他でもない、ただ長門と離れたくなかっただけだ。こうして一緒にいてくれるということは長門もそう思っているのだと、俺は勘違いしたかった。まだ繋がれたままの手が、離れるのを拒んでいるようだった。
「俺、そろそろ帰るわ」
 右ポケットから携帯を取り出し、背面ウインドウのデジタル時計を見ると、既に七時を過ぎていた。飯を食べなくちゃいけない。別に飯を食べるのは義務じゃないが、風をマンションが遮っているとはいえ、寒い中に突っ立って動かないってのは正直堪えた。家に帰って、暖房の効いた部屋で鍋でも食べたかった。風呂に入って、火照った身体を雪見大福で冷やそう。
「……それじゃあ、帰るな。また明日」
 俺はポケットに入ったままだった長門の手を離した。そして、「じゃあ」と一言言って、マンションの入り口から駐車場へと続いている短いスロープに向かった。
「ご飯、食べる?」
 誰もいない、静まりかえったマンションのオートロックの自動ドアの前で長門がいつもより大きな声で言った。思わず俺は振り返った。
「いいのか?」
「いい」
 長門はしっかりと頷いた。
「もちろん、カレーだよな?」
 俺は喜びを隠せなくて、笑顔で言った。
「今日はカレー」
「毎日カレーなのか?」
 俺は長門の食生活が心配になって訊いてみた。
「あなたが来る日はカレーの日」
「やれやれ」
 俺は肩を竦めて見せると、
「行こうぜ。もう寒くて限界だ。長門の部屋のこたつに入って、カレーを食べよう。サラダぐらいは付けてくれよ」
「サラダも付ける」
「キャベツをザク切りじゃだめだぞ? レタスとか、トマトとかそういうやつだぞ?」
「大丈夫。レタスは得意」
 思わず噴き出してしまった。『レタスが得意』なんてやつは初めて聞いたから。俺が笑いを堪えているのを見て、長門は不思議そうに首を傾げていた。その仕草がやたらと可愛くて、俺は長門の髪を撫でた。撫でると、「なぜ髪を撫でるの?」とでも言いたそうな顔でまた首を傾げて俺を見つめた。髪を撫でた俺の手は、がちがちに固まっていた。俺も相当我慢してたみたいだ。自嘲して、小さく溜息をついた。吐いた白い息は、水蒸気のように空中に消えていった。



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