『わたし』は今、高校三年間通い慣れた通学路を一人で登っている。
 『わたし』の内面はあの頃の延長線上に存在すると言えるけれども、今の『わたし』の外見は、あの頃とは違う。
 これは『わたし』がこの世界にもう一度存在するために必要な、訓練の時間。
 『わたし』が『わたし』の外見を持ってこの世界に再構成されるには、もう少しだけ、時間がかかる。
 そう『わたし』は一度、この世界から消滅している。
 同一個体としての連続性を保つ限界が来てしまったから、それは、仕方の無いことだった。
 不可避の運命を受け入れることしか出来なかったわたしは、最後の最後に、自分の心に降り積もった感情の全てを凝縮し、たった一言だけ、彼に、想いを伝えることが出来た。
 それは前へは続かない、未来を築かない、誰かを縛ることさえ許されない、そのとき限りの、愛の言葉。
 そう、なるはずだった。
 運命は、変えられないはずだった。
「……」
 わたしは無言のまま、周囲を見渡す。
 季節は3月の上旬、まだ冷え込む時期だからか、少し厚着の人が多い。
 わたしはふと、道端に微かに煌くものを視界の端に見つけ、そっとその場所に近づいた。
 そこには、とけかけた雪が残っていた。
「雪……」
 それは、わたしの名前。
 それが、わたしに与えられた、最後の……、最後になるはずだった、奇跡。
 今のわたしは……、不可避の運命に、ほんの少しだけ割り込む形で許された存在。
 春の日に照らされ消え行くはずの、とけかけの雪のような存在。
「……」
 完全な形での再構成が許されるのは、たった、一日だけ。
 その一日が終われば、わたしは、雪がとけていくように、消えていく運命。
 運命に割り込むことは出来ても、抗うことは出来ない。
 それはもう、どうしようもないこと。
 こうして、割り込むだけの時間が与えられたことだけでも、感謝すべきなのだ。
 そう、それは、分かっている……。分かっている。
 だから、大丈夫。……大丈夫。
 とけかけた雪を見ながら、わたしは、ふと、以前のことを考える。
 そう言えば、雪の振る朝に、彼と一緒に登校したことも有った。
 彼が一方的に喋るだけで、わたしはただ、それを聴き続けるだけ。
 そういう、どこかいびつな関係。
 そんないびつで曖昧な関係を、わたしたちは、高校時代の終わりまで、続けていた。
 果たしてあの頃のわたしは、彼を……、彼を、愛することが、出来ていたのだろうか。
 自信は、無い。
 答えは、貰っていない。
 答えは……、わたしには、答えを貰うだけの権利が、無かった。
 わたしには、わたし自身に、想いに伴えるだけの連続性が無いであろうということを、予測していたから。
 そんなわたしを、愛して欲しいとは……、それでも、わたしは、願っていたのだろうか。
 今でも、願ってしまうのだろうか。
「あれえ、おねえちゃん、何しているのぉ」
 そんな風に考えごとをしていたら、人に話しかけられた。
 わたしの記憶にある人物の一人と似た声であることに僅かな驚愕を覚えて振り返ると、そこには、一人の少女が立っていた。
 インターフェースとしての機能を限定されている今のわたしには、データを照合して目の前の人物の正体を探る術は無い。
 けれどわたしは、わたしの、個体としての記憶と経験から、彼女が誰であるかという結論を見つけ出していた。彼女は、わたしの高校時代の友人の妹だった。
 わたしの記憶の中に有る姿より幾らか背が伸びて、顔立ちも大人っぽくなっている。
 彼女が着ているのは、あの頃のわたしが着ていたのと同じ、北高の制服。
 今の彼女は、わたしの計算が正しければ、高校一年生。
 今日は平日、時間はまだ昼ごろだけれども……、多分、何らかの事情で、帰りの早い日なのだろう。そもそも三月なら、半日で学校が終わる日自体珍しくない。
「……何でもない」
「そう? おねえちゃん、なんだか寂しそうだったけど……」
 外見の成長とは裏腹に、彼女の中身が余り変わってなさそうだということに、わたしは少しだけ安堵を覚える。あまり人見知りをしないあたりは、あの頃と同じだ。
「……何でもない」
 けれどわたしは、彼女にそれを伝えることは出来ない。
 彼女はわたしがわたしだと気づいてないだろうし、気づかれてもいけない。
 これはあくまで訓練。今は、以前の知り合いにあうために用意された時間ではないのだ。
「ふうん……、あ、雪、まだ残ってたんだあ」
 少女が、わたしの脇をすり抜け、さっきまでわたしが見つめていた場所に近づく。
「……」
「もう十日くらい前かなあ、すっごくたくさん雪が降ってねえ。……あ、でも、おねえちゃんもそのくらい知っているよね」
「知らない」
 十日前……、それは、春の名前を持つ少女が、一つの『嘘』の実現を願い、筆をとった日。
「え、知らないの? 記録的な大雪だったのに……」
「……」
「変なの……、あ、ごめんね、知らない人にこんなこと言っちゃいけないよね」
「良い」
「えっ」
「教えてくれて、ありがとう」
「えっ……」
「ありがとう」
「……」
 わたしは同じ言葉を繰り返し、彼女に背を向けて歩き出した。
 不審に思われたかも知れないけれども、彼女のことだから、きっとすぐに忘れてくれることだろう。忘れて……、そう、忘れてもらわないといけない。
 わたしが、ここに居る。
 本当は、それ自体が、偽りに等しいことなのだから。

 少女と別れたわたしは、やがて、北高の校門まで辿りついた。
 何度も何度も通った、高校。
 遊びまわってばかりいた、わたし達の日常。
 そんな日々が永遠に続くなどとは思わなかったけれども、終わりの予感は常に有ったのかも知れないけれども、それでも、わたし達は……、毎日を、精一杯、楽しんでいた。
 今のわたしは、この高校の門をくぐれない。
 それはわたしがこの学校の制服を着てないからでも有るし、わたし自身が、その行為を求めていないからでも有る。
 この学校に詰まったたくさんの想い出に向かい合うこと、踏み込むことが、今のわたしには、出来ない。
 それは、許可や権利の問題ではない。
 わたしの、わたしの心の……、そう、今のわたしには、勇気が足りない。
 これから約三週間後、わたしは、確かに、彼と向かい合う……、彼が来てくれると、信じて、いるのに。
 三年という時間を経過した、彼の姿。
 想像しようとしても、余り上手く出来そうにない。
 大学生になった彼は、以前よりも大人っぽくなったのだろうか。
 以前から、表面上は落ち着いて見える人だったけれども……、時折、そんな彼を慌てさせるのは、楽しかった。じゃれあうような関係を続けていた日々は、本当に、楽しかった。
 そこから先の未来が無いと知りながら、踏み出せないと知りながらも……、それでも、それは、確かに、意味のある行為だった。
 わたしにとっては……、充実した日々だった。
 そして、彼にとっても……、そうであったと、願いたい。
「……」
 見上げる校門の上にも、僅かに、雪が残っていた。
 この雪も、きっと、もうすぐ、とけてなくなってしまう。
 いや、違う……、雪は、とけて、消えるのではなく、水となる。
「水……、育む、もの」
 雪が、春の陽射しにとかされ、水となるように。
 雪どけの水が、やがて、一つの樹を育むように。
 そんな風に、わたしは彼を、愛せていたのだろうか。
 そんな風に、わたしは彼の、糧となれたのだろうか。


終わり

『水の娘』改題


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