夏の陽射しがコールタールの地面に吸い込まれ、反射熱で肌が焼かれる中、猫が車にひかれて死んでいた。
頭の柔らかい皮膚がタイヤに剥ぎとられ滅茶苦茶に捩れて、粉砕された頭蓋から離れた場所に飛んでいた。
肝心の頭はどれが目で鼻なのか解らない程に破壊の限りを尽されていて、全てが脳の内容物でヌメり光っている。
蝿の群がる胴体は、集まった鴉の群れについばまれ、肉と呼べる物を殆ど残さずに、鳥のモモ肉の食いカスのような物になっていた。
悲しく佇むながらもその存在感が大きく目を見張らせる赤黒い内臓が、まるで血に染めた巨大な蛆虫の集まりのように見えた。
俺はその骸を充分に眺めてからまた通学路を走った。
 
後ろから視線を感じる、くだらない授業が六時間続き、また俺にとってくだらない部室に足が向かう。
 
鈍い音を立てて部室の扉を開くと、部室の中の循環されない空気がムアッと顔にかかり、何気なく苛立たしかった。
 
まだ紅くない夕暮れを移す窓の光が反射し逆光で見えない先には、確かにアイツがいた。
 
――――
 
「……なんだよ……朝比奈さんがどうしたって……!? ……死んだ……? 死んだ、って……え……?」
“とにかく僕の家に”携帯電話がそう言った後、機械音と共に直ぐに回線が切れた。
着信履歴の“古泉一樹”を眺めて間もなく、俺はベッドを蹴り飛ばして一心不乱に走り出した。
 
朝比奈みくるさんと俺が交際するようになったのは二年の春頃だった。
ハルヒの暴虐なイベントの数々が大体治まって平和な頃だったからよく覚えている。
不思議探索中、春風に桜が舞う、なんて俺に似合わないロマンチックな場所で、朝比奈さんに告白された。
それからは学校公認のカップルとなって、色々な男子女子に、釣り合わないだの女ったらしだの悪評をよくつかれた。
鶴屋さんや阪中とてもそうだが、特に涼宮ハルヒとはそれ以来めっきり話をしなくなった。
ハルヒは最初の頃とてつもなく不機嫌だった。
余談だが、その頃古泉は俺のせいで学校に来れない程に、閉鎖空間の処理に明け暮れていたようだ。
例えば俺と朝比奈さんが一緒に登校するとその日は俺か朝比奈さんが、活動と称した精神的拷問をされた。
一緒に下校させない様に俺か朝比奈さんを無駄な用事で学校に残すなんてのもしばしばあった。
しかし、どんなことをしても俺と朝比奈さんが離れないでいると、いつの間にか、ハルヒは嫌がらせを止めた。
そればかりか休日の不思議探索や皆で集まって馬鹿騒ぎをするようなこともハルヒは止めた。
その内にハルヒは、ただ大人しく元気と活力のない人間になっていった。
話をかけても眼も合わせないで、ただ“そう”とか“話しかけないで”とかしか言わない、長門の親戚みたいなものになっていった。
今思えば、俺はいい加減が過ぎたのかもしれない。ハルヒが俺をどう思っているかなんて、実際本心、気づいていた。
しかし俺はハルヒとくっついてSOS団が今までのように活動出来るか心配だった。俺はSOS団を失いたくなかった。
どれだけ右往左往させられても、惨めな役割をやらされても、皆でいるのはやっぱり楽しかったんだ。
そのSOS団を無くすことはできないと言い聞かせて、俺はハルヒの思いに気付かないフリをしていた。
だが今になって俺はそんなことをまるで考えていないかのように朝比奈さんと付き合っている……あまりにも人を馬鹿にしてるよな。
 
言い訳をするつもりはない。俺は朝比奈さんが好きだったからな。でもまあ、そんなことを考えたり言えるのは、今となっては、なんだけどな。
だがしかし、その頃、俺は本当に幸せだった。目の前の天使はおしとやかに羽を羽ばたかせて俺を癒してくれた。
ケンカすることもなく、不満もなく、毎日寝る前には母が俺を生んでくれたことに感謝の意を捧げた。
それくらい幸せだった。
それが今の瞬間、崩壊しようと……いや、もうしているのだろう。
古泉から午前の二時に来た電話の内容は簡素にして簡潔なものだった。
「よく聞いてください……朝比奈みくるさんが、消えて……いえ、死んでしまいました……とにかく僕の家へ」
それだけだった。それだけでも充分に俺を壊してしまうほどのプレッシャーがある言葉だった。
俺は、願わくばそれが何かの間違いであって、朝比奈さんの声が聴けることだけを望んで古泉の家へ今走っていた。
 
古泉の家は閑静な住宅街の外れにある。意外にも余り大きくない普通の家だ。静かな街並みによく似合う清潔感がある造りだ。
乳白色の玄関燈が映し照らす低い天然の垣根が、緑と白を混ぜ込む色を出して俺を迎えた。
白く塗られた玄関のドアを今直ぐ蹴り破ってでも入りたい衝動に駈られたが、如何せん今は真夜中だ、それはできない。
俺はチャイムを押して古泉の家族を辟易させることを恐れ、L字の庭の角から裏庭に周り古泉の部屋の窓をノックした。
「玄関で長門さんが待っていたんですが……まあいいです、お入り下さい」
そういって古泉は自分の部屋に俺を促した。その面が決して何時ものように笑ってはいなかったことが何となく俺を焦らせた。
古泉の部屋は窓が南向きと立地条件がよく、北側に廊下に続くドア、西側に生活用品と装飾品、東側にベッドとAV機器がある。
俺は無許可で古泉のベッドに座り込み、古泉が向かいのソファーに座るのと長門が来るのを待った。
聞きたいことは、それはもう本当に山ほどあった。しかしそれを聞いて俺は正常でいられるかが不安だった。口を開くのが恐かった。
暫くの沈黙の後、いつの間にか長門が部屋のドア付近にいた。音もなく気配も立てずに。長門が俺を見て軽く会釈をした。
古泉が長門に椅子に座るように勧めない。という事実が、澄ましたようにしている古泉が内心どれだけ焦っているのかを物語る。
 
妙に全身が汗ばんできた。唇を噛み締めながら、澄ましたフリをした古泉とも無言で立ち尽くす長門ともなくに、俺は言った。
「……いいか、聞きたくはない。聞きたくはないが、聞かない訳にはいかない……朝比奈さんは……どうなった?」
言ってはならない、聞いてはならないようなことでは無いようにと、本当に祈りながら俺はどちらともなく尋ねた。
「朝比奈さんは……この世界では結果的に、死んでしまいました……」
シンプルと言えばシンプルであり、モダンと言えばモダンにも見える装飾を施した部屋がクール色の蛍光灯に照らされて時間が止まる。
俺の心臓を鷲掴みにして息の根を止めようとしているかのように古泉の言葉は重かった。呼吸が出来ない。
本当に時間が止まるようにすら感じる沈黙が切り開いたのは長門の声だった。
「……正確には、朝比奈みくるはこの世界から消滅した。身体と精神が完全に消え去り生命反応も確認されていない。」
俺は何も考えずに長門の言葉を聞き入った。何か一つでも、救う余地が無いかを見極めるためにだ。
 
長門に顎を釈って先を促す。
「……この世界から、という言い方は誤解を招く恐れがあるため説明する。
今この世界から消滅し、他の世界に行っていたとしても……朝比奈みくるの生命反応はこの世界で途切れたため生きている確率はほぼ、ない。」
大声を出して泣きたい程に頭が痛くなった。目頭が熱くて、喉が渇いて、俺の世界が暗闇の雲に覆われた。
長門はつぶらな唇を僅かに舌で湿らせた。まだ続くようだ。
「……詳しい事実は私にも解らない、今回の事に涼宮ハルヒが関係しているかどうかすら解らない。
情報統合思念体すら知らない未来の何か……証拠隠滅などと呼ばれる様な物なのかもしれない。
ハッキリ言って情報不足、情報が入手出来ない。それ故に原因が涼宮ハルヒなのか、それ以外なのかすらわからない……」
救えるとか救えないとかの問題じゃなく完全に手が出せない状況だということを、噛み潰すように俺は理解した。
朝比奈さんが消えたとか死んだとかそれそのものがあったこと自体が当たり前になっている話し方の分、信憑性があった。
しかし聞かないわけにはいかない、全てを知る権利が少なくとも俺にはあるはずなんだ。
「な……長門、朝比奈さんは一体どうしてそんな……?」
先程と同じ様な事を言ってみて始めて気が付いた。普段古泉が笑っているのは良いことだと。
こういった状況で、笑いのない部屋は気が狂いそうだ。勿論、今古泉が笑っていたらとうに殴り殺しているのだが。
長門は少し考える仕草、と言っても目が下を向くだけだが、それを暫くしてから問いを問いで答えた。
「知ってもあなたが変な気を起こしたりパンクしないと言うのなら……私も答える」
意外な返事でありながら、長門が今から言うことは俺にとって頭が狂うことが予測される程の事が認識できた。
正直に言えば、聞くのが恐かった。今直ぐダッシュで家帰って何の心配もせずに眠りたかった。それが出来るならば。
「……大丈夫だ、逆に聞かないでいたほうが気が狂ってしまいそうだ……」
 
白にクリーム色を足したような実に淡い壁紙がクール色の蛍光灯に照らされた部屋の中に、俺の虚勢で塗りたくった返事が響く。
「……そう……それがあなたの返事なら、私はあなたが望むことを全て話す……だから……」
長門が悲しい表情を見せた。そんな気がした。じっくり見ると表情を戻してしまうみたいだ。
「長門さん、彼に本当の事を言うんですか……?」
笑いの無い顔をして今まで会話から外れていた古泉がふと、口をはさんだ。
冷や汗を垂らしながら、俺を変質者でも見るような、少し哀れむ目をして見ている。
俺の頭が狂うとでも思っているのか、と言ってひっぱたきたくなったが……正直なとこ俺も俺を保っていられるのか不安だ……
「彼には知る権利と知る意思があるから、私は言う。それでは不満……?」
「……それは……そうですが……」
古泉が苦虫を噛み潰した様な顔をして言った。こうなると話の解らない俺は蚊帳の外だ。
少しだけ気が重くなってきた。外からは自動車はおろか虫の声すらも聞こえない。
「……いいですか……? これだけはあなたにちゃんと認識して貰いたいんです……」
古泉が厳しい顔をした。俺は変に背筋が伸びた。
「こんなことをあなたに伝えなければならない事を、僕も長門さんも誰も、望んではいません……!」
またさっきの様に心臓が鳴る。息が苦しくなる。しかし俺は古泉の心中がいかに辛いのかが分かるくらいには頭はハッキリしていた。
「わかってる、古泉。そう気を遣うな。 そして……済まない……」
俺は俺以外に誰も俺の心境など解りはしないような返事を、ありったけの覚悟の上に吐いた。
古泉はそれを聞いて今日初めての微笑みを佇むと、頭をうつむせて動かなかった。
 
長門が、「もういい……?」的な顔を俺に向けた。俺は顎で促した。
「……これから言うことは全て真実……辛いと思う……でも、聞いて……
……衛星から送られる涼宮ハルヒの身の回りの人物を監視するデータの映像から察するに……
……朝比奈みくるに、昨日のPM11:47に、体の外側から細胞が少しずつ液状になる現象が起きた……
まず皮膚がただれたように溶け出して、人体図にあるような筋肉や血管が浮き出た模型のような状態になった……
頭皮も液体になり溶け出し、髪が液体化した皮膚に流れだし、頭蓋骨が剥き出しになった……
朝比奈みくるは何が起こったのか解らないまま睡眠状態から悲鳴をあげて起き出し、痛みのショックで筋肉痙攣を起こした……
それから、筋肉、血管に同様の液状化現象が起こると、完全に意識を失った……
意識の有無に関わらずそのまま朝比奈みくるの身体は液状化現象を続けた……
……骨が溶け出して、最後に残った内臓が溶け終えるまで僅か二分弱だった……
その後、完全に溶けた身体が少しずつ固体化しはじめた。朝倉の情報連結解除のように砂状になり、消えた……
情報統合思念体はそれが別の世界にワープしたと考えている、私もそう思う……」
 
俺の中で何かが音を立てて崩れた。精神崩壊の意識が俺の中で目を醒ました。耳が聞こえない、息が出来ない。
俺が生まれ持った感性の“美”や“可憐”をイメージさせるその象徴が、“腐敗”や“汚物”に換わる気がした。
涙が溢れてくる。喉が渇いた。頭が痛い。目が熱い。吐きそうだ。
頭が真っ白になって何を言ったらいいのかわからない。あの朝比奈さんが……
死、って言うのは確かに、畳やベッドの上だけに訪れるものじゃない。そんなことはわかってた。でも、そうじゃない。
言葉に出来ない。喉の奥をひっかき回されるような不快感。何を言いたいのか俺自身解らない。
よくわからなかった。長門や古泉がかけよってくるなかで、意識がなくなったのだけは、憶えてる。
 
「どうし……ですか……!? ……くん……!」
遠い……遥か遠くの場所で俺の名前を呼ぶのは、誰だ……
俺はもう、そこにはいたくない……俺を呼ばないでくれ……
生きる希望を無くした俺を……そうまでして生かそうとする理由はなんだ……?
「長……ん……! 水……ってき……………!」
俺のことはもう放っておいてくれないか……?
朝比奈さん……朝比奈……さん……?
暗い暗い空間に俺はいた。地球とか宇宙とかそういう空間じゃない。
誰もが持つ心の闇だ。卑しき者の心の逃げ場所だ。
暗い暗い俺の目の前から、誰かの声と、朝比奈さんの声が響いていた。
俺の心に咲いて散った小さな一輪の花の……記憶なんだろう。
 
『キョンくん……キョンくん……!』
朝比奈……さん……
『キョンくん……会いたいよ……!』
……俺も……会いたいですよ……朝比奈さん……どうすれば会えますか……?
……俺も死ねば、あなたに触れられますか……?
『……でも……こっちに来ちゃダメなの……!』
え……?
違う、コレは……俺の記憶じゃない……!
今ここにいる朝比奈さんは……まさか……
『……私には何があったのか解らないの……解らないまま死んじゃったから……』
…………
『でもこれだけは言えるの……! ……キョンくんは生きてるから……』
……朝比奈さん……
『だから……長門さんや、古泉くんを守らなきゃダメなの……!』
……朝比奈さん……!?
『危険が迫ってるの……絶対に目を放しちゃだめ!』
…………
『キョンくんの……私の……みんなの……SOS団を守って……!!』
……朝比奈さん……!!
『そして……私のこと……忘れないで……』
 
「キョンくん!! キョンくん!!」
 
――ハッ
 
目を覚ました場所は、まだ古泉の部屋だった。
明るい照明が照らす部屋のベッドに俺はいた。
目の前には古泉と長門。古泉は息をきらして本当に心配そうな目をしている。
何がなんだか解らないが俺は……とにかく、何かに耐えきれなくて……
手を広げる長門に抱きついて……泣いた……


 
「本当にもう大丈夫なのですか……? もう少し、ゆっくり……」
「いや、いいんだ。」
そう答える俺の声は閑静な家に響く。目の前の仲間達はまだ、俺の身を案じてくれている。
「とにかくだ、朝比奈さんは死んでしまった。どんな力を持ってしてもそれは覆すことはできない」
妙に頭がハッキリして今言わなければならない言葉がスラスラ出てくる。
さっきまで死にそうな面をしていたやつが余りにハキハキと喋るのにギャップがあるのか、長門も古泉もちょっと驚いた顔をしている。
「ならば今から俺達は何をしなければならないのか、それは、自分と仲間の身を守ることだ
いつ誰が朝比奈さんのようになるかわかりゃしないんだから、自分の身を守りきって、朝比奈さんが愛したSOS団を守るんだ」
「……それが一番賢明な判断だと思う」
「……僕も、あなたの言っていることに少しも反論はありません」
全員が全員、一致したようだ。そうでなければならない。
これ以上、俺の大事な人を失ってたまるものか。
俺は今この世にいる誰に言うともなく、言った。
「絶対……守ります……絶対……!」
 
――第1話 終了――

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最終更新:2020年06月25日 15:28