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 もう飽きる程不思議体験を繰り返してきた俺たち「世界を大いに盛り上げる涼宮ハルヒの団」略してSOS団だが、このトンデモ世界の当事者でありながら無自覚という事情を知らない誰かが聞いたらぶん殴ってやりたくなるだろう存在である我等が団長様、涼宮ハルヒはそんなことは知る由も無く、またそれ故に自分自身は不思議体験をしているつもりなど全くないので、いまだにこの世の何処かにあるだろう不思議を俺たち団員を巻き込んで探す日々に明け暮れていた。
 つまりは、例のパトロールを俺たちはいまだに続けてるってわけだ。
 ハルヒが自分の思い通りに世界を作り変えちまうなんていうハタ迷惑な能力を持っている以上は、その事情を知ってる俺たちはハルヒの機嫌を損ねるわけにもいかずパトロールを始めとしたあいつが巻き起こす騒動に付き合ってる訳だが、まあ今となってはあいつと一緒になって馬鹿をやるのも悪くないかとか自分自身でお前は何を言ってるんだとツッコミを入れたくなるような領域にまで俺の精神はどうやらハルヒ電波によって汚染されちまってるらしい。
 むしろ今となってはハルヒに感謝してるくらいだ。あいつのおかげで、俺は今こうして有希と一緒にいられるわけだからな。


 ……分かってたんだ。こんな考え方は卑怯だってことくらい。
 




 今週もまた他の一週間とたがわず土曜日がやってきた。
 日本という国に住んでいるからこそ俺たち学生は週休二日制というありがたい制度にあやかれる訳で、今さらゆとり教育がどうのと突っ込む気など毛頭ない。
 そもそもゆとり教育とやらの当事者である学生がこの制度に突っ込みを入れる資格があるのかどうかが定かではないが、まあ7日のうち2日も休みがあるというのは実にありがたいことなので俺個人はこの制度を実にありがたく享受してるわけだ。
 この制度が変わるとしたらそれこそハルヒが世界改変でもしない限り無理なんじゃなかろうか。あいつがこの制度をどう思ってるのかは知らんがね。
 さて、無駄話が過ぎたがもう一度言う。今日は土曜日だ。つまりは例のパトロールの日というわけだ。前回からだいぶ日は空いたがな。
 待ち合わせ場所はいつもとなんら変わりない、北口駅の駅前だ。
 自転車をこぎながら、もうここら一帯は散々探し回ったんだからそろそろ拠点を変えるべきなんじゃないかとハルヒに提言すべきかどうかなんてガラにもないことを考えてみるもやっぱりやめた。それはそれで面倒なことになりそうだからな。
 そもそもハルヒはそれで満足してるみたいだから俺が口出ししてやることもない。
 こう言う無駄な進言をするのはだいたい古泉の役割だから、あいつにやらせときゃあいい。まあ、あいつも文化祭の時の一件で学習してるだろうから仮に俺と同じことを思ったとしても何も言わないかもしれんが。
 ところで、ここで問題なのは俺が自転車をこいでいる今の時間だ。聞いて驚け。朝の8時前だ。もうすぐ北口駅に着きそうな勢いだぜ。もちろんこれだけ早いのには理由がある。言っとくが、一番最後に来て罰金を取られるのが嫌だとかいうチャチなもんじゃないぞ。……いや、実際はそれもあるが。
 こんなに意気揚々と自転車をこぐのはどれくらいぶりだろうか。俺はまるで恋人と初デートに行くような高揚でもって風を切って自転車を走らせていた。
 ……少々語弊があったかもしれない。比喩のつもりで言ったのだが、考えてみりゃ比喩でもなんでもなかった。
 俺は今まさに彼女とデートとしゃれこもうとしているのだ。それがただ単に初ってわけじゃなく、ついでに余計なものが付いてくるってだけの話だ。
 顔が緩みそうになるのを必死に堪えながら、俺は駅前へと辿り着いた。俺も馬鹿ではないので自転車は撤去されないよう、その辺の駐輪所に停めておく。
 駅の改札出口に行くと、そこには予想通りの人物がぼんやりと立っていた。俺は急いでそいつのもとに駆け寄る。俺の姿を見つけるや否や、そいつは俺にしか分からない微かな笑みを浮かべた。
 長門有希が、いつものセーラー服ではなく、可愛らしい白のワンピース姿で俺を待っていた。


 俺は今度こそ、顔がにやけるのを抑えられなかった。


「悪い、待ったか?」
 言ってから、ああ本当にデートみたいな会話の切り出し方だなとか思った。
「……べつに」
 そう言いつつ有希は俺のYシャツの裾をそっと摘んできた。
 ……どのくらい待ってたのは分からないが、寂しい思いをさせてしまったのは間違いないようだ。とはいえそれを有希が認めるはずもないので俺は、そうか、とかいいつつ苦笑するしかないのだが。
「そういやあいつら、いつもいつ頃来るんだろうな……。ま、ジュースの1本でも飲むくらいの時間はあるか」
 さりげなく有希の頭を撫でながら言う。俺の手の下で有希は目を細めている。感情の起伏は以前とは比べ物にならないくらい顕著になってはきているが、それでも俺にしか分からないくらいだし、俺以外のやつといる時は他のやつにとっては長門有希を長門有希たらしめるものであろうあの無表情が顔に鎮座している。
 ……”あの日”のあいつは、やっぱりエラーとやらがそうさせていたんだろうか。
「…………」
 そんなことを考えていると、有希は俺のYシャツの裾を摘んだまま黒檀のような瞳を俺に向けていた。……そんな目で見るな、吸い込まれそうだ。なんてこっぱずかしいことは口にせずに、
「悪い悪い、何か飲むか?」
 有希が小さく頷く。
「何がいい?」
「なんでも」
 何でもいいと言われてもな。スポーツドリンクか何かでいいか?
「いい」
 そうか、じゃあ買ってくるわ。ちょっと待っててくれ。
「…………」
 有希がもう一度小さく首肯したのを確認して、俺は自販機目指して駆け出した。


 この後、有希が何をしでかすのかも知らずに。


「飲んで」
 自販機で飲み物を買って戻り、2本のペットボトルのうちの1本を有希に渡してもう片方のフタを開けて飲んでいたら、突然有希がそう言ってついさっきまで自分が飲んでいたスポーツドリンクを差し出してきた。
「……何で?」
 当然の疑問だと思うね。だって俺が今飲んでるのは有希が俺に差し出してきたのと全く同じものだ。違うやつならまだしも、何で全く同じものを飲んでいるのにこんなことを?
「…………」
 有希は何も言わずそのままの体勢で俺のことをまっすぐにじっと見つめてくる。そんな目で見つめられたら断れるわけがないだろう。そんな俺の心理構造を知ってか知らずか有希はこういう時は必ず俺をじっと見つめてくるのだ。何か許可を求める時なんかは必ずそうだったけどな。今は何と言うか、瞳の中に微かに別な色が混じっているのだ。それはまさしく女の子が目を潤ませ上目遣いで「…お願い…」なんて言ったりする時の懇願の色に相違なく、それが誠心誠意の想いだと分かってるのに断るような奴なんざ俺は男とは認めないつもりなので自分自身が男である為にも有希のそのお願いを断るなんて芸当は俺には到底できるはずもなく仕方ねぇな、なんて考えが浮かぶことなんて微塵もあるわけがなく、その視線を受け取った俺は脊髄反射的に、
「……分かった」
 有希が差し出してきたペットボトルを受け取った。少しだけ有希の表情が緩む。ちくしょう。可愛い。
 俺は有希の差し出してきたペットボトルに視線を移して、ここでふと気が付いた。
 ちょっと待て、よく考えろ。今俺は何の気なしに受け取ってしまったが、有希が「飲んで」と言ったからには飲まなければなるまい。しかしそうなると俺はこの有希が口を付けたペットボトルに口を付けなければならず、すなわちそれはいわゆるところの『間接キス』と呼ばれる行為になるわけで、なるほど有希の狙いはそれか? それなのか?
「…………」
 ちらりと有希の方を見ると、微妙にそわそわした感じでこちらを見ている。その瞳には、何と言うか期待と不安が入り混じったような色を宿していた。
 もう一度有希に差し出されたペットボトルの縁を見つめながら俺は思案する。確かに間接キスなんてのは相当魅力的な行為だし、恋人同士ならそれこそ当然の行為なのかもしれん。だいたい俺は有希と飽きるほどに――まあ飽きるわけなんてないんだが――直接キスを繰り返してるので今さら恥ずかしがるようなことなんて何もないんだが実を言うと間接キスなんてのは初めてのことなわけで、有希がそのことを意識してやってるんだかどうかは知らないが、こうして実際にやるとなるとめちゃめちゃ恥ずかしいわけだが、あれ、何で恥ずかしいんだろうね? あんなにお互いぐちょぐちょになるくらいキスしまくってるのに何でこの程度で俺の動悸は高鳴って、静まれー、静まれー!静まれーってばー!とかどっかから気弱なクラス委員長の声が聞こえてきそうなくらい、ああもう、うるせぇな俺の心臓め。マジで静まってくれ。何でこんなことでドキドキしてるんだ。とか思いつつまた有希の方を見ると俺はどうやら随分考え込んじまってたようで、有希は眉をちょっとばかし下げて悲しげな瞳で俺を見つめ、ウボァー!馬鹿野郎!俺は何を有希を悲しませるようなことをしてやがる!男だったらぐいっと逝け!ぐいっと!そして俺は意を決して、ええいままよ!と、ペットボトルの縁を口に含んで中の液体を体内に流し込んだ。
「おいしい?」
 有希が一瞬目をわずかに見開いた後、幾分ほっとしたような表情を浮かべて4ミリほど首を傾げて問いかけてくる。当たり前だ、お前に渡されたものがまずいわけがない。お前に渡されたものなら、例えそれが水道水だろうがアルプスの雪解け水以上の味覚的快感を俺の舌にもたらすのだ。
「……そう」
 呟いて、有希は顔を逸らして俯いた。多分、顔が赤くなっているのを隠す為に。その無駄な抵抗がまたたまらんのだがね。
 ……まあこの場合全く同じものを飲んでるわけだから味なんて大して変わるわけもないのだが、これが有希が口を付けたペットボトルであるという事実こそが俺に味覚的快感をもたらしていることに相違ない。
 そんなことを考えていると今度は、
「……それ」
 自分が差し出した方ではなく俺の飲んでいた方のペットボトルを指差して有希は言った。
「飲ませて」
 明らかに意識してるな、これは。ここで考えたらまた有希は悲しげに眉をひそめるに違いないし、俺としても有希のそんな顔は見たくないので、
「ほら」
 すぐに俺の分のペットボトルを手渡した。有希は何も言わずそっと俺の手からペットボトルを受け取ると、俺にしか分からないレベルで嬉しそうに顔を綻ばせてペットボトルの縁を見つめる。そして、
「…………」
 俺の方を二度ほどちらり、ちらり、と横目で見てから口を付けた。こくこくという喉を鳴らす音までもが可愛らしく聴こえるのは俺の錯覚だろうかね。
「……うまいか?」
 と訊くと有希はペットボトルから口を離して、
「……わりと」
 ポツリと応えるとまた口を付けた。何となく有希も恥ずかしそうだ。少なくとも俺にはそう見える。……ここで有希がしてやったりみたいな顔をしてたら、それこそ俺はどっかに穴でも掘って潜ってたところだぜ。
 有希はスポーツドリンクを飲むのに忙しいようなので、俺はこっそりと有希の格好を観察してみた。いつものセーラー服ではない、白のワンピース。流石に休日も制服でいるのは味気ないだろうと、俺が有希に買ってやったものだ。
最初は黒い色のやつにしようと思ったが、あえて……ええと、美術用語で何ていったっけ? まあいい、とにかく対比ってやつを狙って白い清楚なのにしてみたんだが、うん、すげぇ似合ってる。ついでに言うと今日有希がこれを着ているのも昨日俺が電話で、この間買ってやったワンピースを着てきてくれ、というようなことを言ったからだ。相変わらず俺の言いつけは律儀に守るんだな、可愛いやつめ。……まあ、俺の真意までは多分読み取れていないと思うが……。
 おっと、ここで今回のターゲットのお出ましだ。来る途中で会ったんだろうか、ハルヒと古泉と朝比奈さんが仲良く談笑しながらこちらへやってきた。
 と、俺たちの姿を確認して3人は呆気に取られたような顔をして立ち止まる。呆気に取られたのは、多分、ダブルの意味で。
 作戦成功だよ、大佐。
 ちらりと有希の方を見ると、まだスポーツドリンクをちびちびとやっていた。


「驚いたわね。有希が私服で来るなんて……」
 言いながらハルヒは腰をかがめて私服姿の有希をしげしげと観察する。
「……たまには」
 俺が買ったことは言わない。言ったら言ったでまた面倒なことになりそうだし、その辺は有希も分かってる。
「そう?まあ可愛いからいいんじゃない」
 有希の言葉にハルヒは腰に何やら含みを込めた笑みを浮かべて腰を上げると、手を腰に当てて仁王立ちする。……何だかこいつの考えが読めた気がするぞ。今度は有希を着せ替え人形にするつもりかもしれんな。まあ、こいつの服飾センスは悪くない。いや、ただ単に朝比奈さんが何を着ても似合うからってだけなのかもしれんが。とりあえず俺の考えが正しかったとしたとして、こいつが有希に何を着せるつもりなのか楽しみにしておこう。
 そんなことを考えていると、
「ふむ、これはこれは……。なかなかお似合いですよ」と古泉。
「ふわぁ~……長門さん、可愛いですねぇ」と朝比奈さん。
 3人は有希を褒めてるつもりだろうが服を選んだのは俺だ。何だか俺が褒められてるみたいでいい気分だな。
「ところでキョン!」
 と、浸っていた俺をハルヒの怒声が現実に引き戻した。
「あんたがこんな早くに来てるってどういうことよ。おかしいじゃないの」
 おいおい、俺がお前らより先に着くのがそんなにいけないことなのか。それともオレがSOS団の財布係なのは既定事項なのか?
「いっつも遅刻して来るあんたがあたしあちより先に来てるのがおかしいって言ってるのよ」
 遅刻はしてないと思うんだが。
「みんなで集まる時に一人だけ遅れてみんなを待たせる!これは遅刻であって遅刻以外の何物でもないわ」
 それなら最初から集合時刻をもっと早くすればいいじゃないか。俺は定刻通りに来てるだけだ。
「それじゃあたしたちがもっと早く来なきゃいけなくなるでしょ」
 ……前から言おうか迷ってたんだが、実はお前俺に奢らせたいだけなんじゃないのか?
「あら、そんなつもりは全然ないわよ。遅刻者は罰金。これは我々SOS団にとって絶対のルールであり、不可侵の領域なのよ。誰が遅刻しようとこれは覆らないわ」
 ふふん、と鼻を鳴らして不敵な笑みを浮かべ、ハルヒは胸を反らした。
「そうか、なら今回は俺は奢らなくていいんだな」
「何よあんた、女の子に奢らせるつもり?」
 どうすればいいんだ。ほらほら、朝比奈さんがおろおろしてるじゃないか。
「まあまあ、ここは僕が払うということで治めてはもらえませんか?」
 古泉が憎たらしいくらい爽やかな笑顔で言った。よく言ったぞ古泉。今日くらいはそのニヤケ顔も大目に見てやろう。
「ふーん……。まあ、古泉くんがそれでいいならいいわ。さすがは副団長!キョンと違って懐が深いわねぇ」
「恐縮です」
 言いながら左腕を腹の辺りに持ってきてお辞儀をする小泉。お前はどこの執事だ。
 まあ何とでも言ってくれ。財布の中身が無事なら文句は言わん。実を言うと今有希が着てるワンピースが思いの他高くて小遣いがそろそろやばいのだ。まあ何も言わずに大人しくちょこんと俺の横に立っているワンピース姿の有希は俺にとって至高の眼福であり、有希自身と俺の目の保養の為なら多少高くつこうが服でも何でも買ってやるつもりだが。
 本気でバイトでもしようかね。
「うん、それじゃ決まりね。キョンもちょっとは古泉くんを見習いなさいよ」
 どんなバイトがいいかなどと考えていた俺の頭はハルヒの言葉によって現実に引き戻され、
「それじゃ、早速いつものとこに行きましょうか!」
 ハルヒの意気揚々とした声を合図にして、俺たちはいつもの喫茶店に向かって歩き出した。


 さて、いつもの喫茶店にていつものようにおやつ程度の軽食を済ませた俺たちは――今回は古泉の奢りだ。決して高価なもんとは言えないが、人の金でものが食えるってのは実に素晴らしいね――、ハルヒがいつの間にか用意していた爪楊枝5本でいつもの如く班分けくじ引きをすることとあいなった。
 ここで言っておかなくちゃならないのは、俺と有希がこの班分けくじ引きでインチキをしたことはないってことだ。もちろん、インチキはナシにしようと言ったのは俺。何度も一緒の班になったりしてたら怪しまれるからな。……まあ過去の朝比奈さんとの一件があるから、このことを伝えた時の有希の拗ねたような顔にはちょっと――いや、かなり心が痛んだ。インチキをNGにする理由はもちろん有希も分かってくれてるんだが、最初に言い出した時、訴えるような視線でじっと見つめ続けられた時は危うく折れてしまうところだった。……まあ、有希がインチキをしていないという確証を得ることは俺にはできないのだが。それでも俺は有希を信じているから何も言わない。気まぐれでインチキをしたことがあったかもしれないが……追求はしないでおこう。
「ちょっとキョン、何ぼけーっとしてんのよ。あと引いてないのあんただけよ」
「あ? おお……」
 そんなことを考えてるうちに皆くじを引き終わっていたようだ。俺は少し慌ててハルヒが手の中に握り込んでいる楊枝に手を伸ばした。
 くじを引き終えて、皆が結果を言い合う。
「無印、か」
「あたしは無印ね」
「僕は印入りのようです」
「あたし、無印です」
 と、俺以外の3人の声を聞いたところで俺の本能は瞬時に局地的に発生した空気の硬化を察知し、その局所変異の発生原因であると思われる人物の方を恐る恐る俺は見た。
「…………」
 有希が、爪楊枝の先を見つめて完全に固まっていた。本当に注意して見ないと分からないくらい小さく、爪楊枝を摘んだ指先が震えている。…案の定、印入りだった。
「それじゃ班分けは決まりね。さ、それじゃ早く行きましょ!」
 ハルヒが一番に立ち上がってさっさと出入り口へと歩いていってしまった。
「ま、まってくださぁ~い」と可愛らしい声を上げながら朝比奈さんが続き、
笑みを崩さずに古泉が優雅な仕草で立ち上がってそれに倣った。ああ、ちゃんと金は払っていけよ。
「…………」
 有希は微動だにせずに爪楊枝の先だけをじっと見つめていた。…その瞳に微かに落胆の色を宿して。
 結局俺は動かない有希を仕方なしに無理矢理立たせて、いまだに目の前に掲げられたままの右手と、それを見つめるわずかばかりいつもより大きく見開かれた黒曜石のような瞳と、震える左の握り拳に心を痛めつつ、右手は無理なので力なく垂れ下がった左の手首を掴んでハルヒの怒鳴り声が聞こえる前にいそいそとその場を立ち去った。


 俺が有希の手を引いて店を出てきたのを確認したハルヒはあからさまに不機嫌な顔つきになった。
「ちょっとキョン。何であんたが有希と手なんか繋いでるのよ」
「よく見てくれ。繋いでるわけじゃない。長門が動こうとしなかったもんだから引っ張ってきたんだよ」
「ふーん……」
 俺が手を離すとハルヒは口をアヒルにしながら俺と有希を交互に見る。
 ああ、ちなみに二人きりの時以外は以前のように有希のことは長門と呼ぶことにしている。ちょっと悲しげな顔をしながら納得してくれた有希に俺の心が痛んだのは言うまでもないがね。
「やあ、すいません。お待たせしました」
 と、会計を済ませた古泉が笑顔のままで颯爽とやってきた。まるで奢らされたことを何とも思っていないかのようだ。もうこの際お前が全部の支払いをやってくれないか。バイト代だってたんまりあるんだろう。
「古泉くん、待ってたわよー30秒くらい。それじゃ、早速分かれて行動しましょうか」
 ぱっと顔を上げてハルヒが言った。どうやら今の所は見逃してもらえたらしい。助かったぞ古泉、感謝してやる。
 ハルヒの言葉を合図に俺たちはさっきの組み合わせ通りに並んで、向かい合った。
 ハルヒと俺と朝比奈さんの順に並んで立ち、その向かいには古泉と――視線を落として有希を見てしまったことを、俺はちょっとばかし後悔した。
 俺をまっすぐに見つめる有希の顔は、傍目には無表情に見えるだろうが今にも泣き出しそうだ。多分、俺にしか分からないだろうが。……有希のこんな顔を見ることになるくらいだったらインチキを許可しておくべきだったかとかつい甘いことを考えてしまう。
 だがしかし。俺も悲しいのは一緒なんだよ有希。お前と同じ班になれなくて、あまつさえお前の隣にいるのは男だ。そりゃ不安にもなる。まあ古泉なら多分、大丈夫だとは思うが……。もし変なことしやがったら今度こそ殴る。
 俺の視線に気付いたのか、古泉は爽やかスマイルを浮かべたまま優雅な仕草で首を傾げた。何のつもりだ。
 しかしそれより気になるのは有希の視線だ。俺の方をじっと見ているように見えるが、ちらちらとハルヒと朝比奈さんを見てる。
 お前の心配は分かるぞ有希。傍から見たら今の俺の状態は両手に花って状態だ。ハルヒや朝比奈さんに転んだりしないかお前は心配なんだろう。だが安心しろ。今の俺はお前一筋だ。昔の俺ならどうだったかは知らんが、少なくとも今の俺はこの先お前への愛を貫き通すつもりだとも。
 ……何か考えてたら恥ずかしくなってきた。とりあえずそんな意思を込めて有希の目を見つめると、有希は俺の目をじっと見つめ返し数ミリだけ首を縦に動かした。俺の気持ちは伝わったかね……。
「それじゃあお昼になったらまたここに集合ね。古泉くん、有希のことお願いね!」
「了解しました」
 俺がバカップル全開の思考を張り巡らせ有希とアイコンタクトを取っているとハルヒのそんな声が聞こえ、続いて聞こえた古泉の声に振り向くと、いつものニヤケ顔が見えた。……二人とも他意は無いんだろうが何か気に入らんな。
 有希を守るのは俺の仕事だぜ? いや、ぶっちゃけ守られてるのは俺の方なんだが。
いや、まあハルヒは有希のことが心配だからこんなことを言ったんだろうし、古泉にしてもハルヒの手前そう言うしか無かったんだろうがな。……いや、こいつの場合いつものイエスマン的行動だという可能性も否定はできんが。
「それじゃ、キョン!みくるちゃん!行きましょうか!」
「はぁ~い」
「あいよ」
 ハルヒの声を合図に俺たち3人は有希・古泉ペアに背を向けて歩き出した。ちらりと後ろを振り返ると……、
「…………」
 おい、何をやってるんだお前ら。何でぼーっと突っ立てるんだ。古泉、何で笑顔を振りまきつつ手を振ってるんだ。うお、有希の視線が!視線が痛い!やめてくれ、そんな悲しそうな瞳で俺を見つめないでくれ!
すぐさまお前のもとにダッシュして抱き締めてやらんといかんような錯覚に囚われる!いや、それが狙いか!?すまん有希。今は我慢してくれ…後で好きなだけ抱き締めたり撫でくり回したりキスしたりしてやるから…。
 ……あれ? もしかしなくても俺がしたいだけか?


 ちなみに、結局その後も何度か振り返った俺だが、その姿を確認できているうちに二人が動き出すことはなかった…。


「さーて、まずはどこに行きましょうか」
 と、歩きながら口走ったのはハルヒ。相変わらず計画性のない奴だ。
「どこに行こうったって、この辺はあらかた調べつくしたと思うんだが……」
「そうですよね……」
 俺の言葉に朝比奈さんが頷く。するとハルヒはちっ、ちっ、と舌をならしながら人差し指を揺らし、
「甘いわね二人とも」
 不敵な笑みを浮かべる。何が甘いって?
「確かにこの辺りはほとんど歩いたかもしれないわ。でもね、」
 いったん言葉を区切って立ち止まると、
「いつ何時不思議なことが起こるかなんて誰にも分からないでしょ? それに、何も不思議は外だけで起きるとは限らないわ。建物の中でだって何かしらの不思議が起こってもおかしくはないわよ。そうでしょ?」
 俺たちを指差してハルヒは自分の理論をのたまった。朝比奈さんは気迫に押されたのかうん、うんと頷いている。確かにそりゃ間違ってはいないとは思うが、何が言いたいんだ?
「というわけで、今日はいろんな建物を回ってみるわよ!」
 元気いっぱいにハルヒは言った。……もしかして、ただ単に遊びたいだけなんじゃないのか? まあ古泉も、ハルヒもだいぶ常識的な楽しみ方を心得てきたみたいなことを言ってたし、何のあてもなくただぶらぶら歩き回るよりは有意義だとは思うがね。
「とりあえずあそこに行ってみましょう!」
 ハルヒが指差した方を見ると、そこは実にごくありふれたゲームセンターだった。


 入ってみるとそこは実に「普通」なゲームセンターだった。ちょっとばかし不安になって入る時に中を覗いてみたが、怪しいところは別段なさそうだ。どこのゲームセンターでもそうであるように、今の俺たちのような暇な学生たちや家族連れなんかがたむろっている。
 先頭を土を掘り進めるモグラみたいな勢いで歩いていくハルヒを見てから、俺は隣をしずしずと歩く朝比奈さんを見た。
 3年生だというのに朝比奈さんは俺たちに付き合っていて大丈夫なんだろうか? こんなことをしていていいのかと思ったが、まあ元よりこの時代の――
朝比奈さんふうに言うならこの時間平面上の――人間ではないのだからどうとでもなるのかもしれないけどさ。
「やっぱりゲーセンって言ったら…」
 ハルヒは先陣を切ってずんずん進み、きょろきょろと見回して目的のものを見つけると、
「クレーンゲームよね!!」
 びしっ、というS.E.が聞こえてきそうな勢いでそいつを指差した。
 近づいてみてみると中身は何かのマスコット人形、というかぬいぐるみのようだった。
しかし……この微妙にとんがった卵型の頭に猫耳らしきものを生やし、様々な服を着てそれぞれにポーズを取る二頭身――いや、よく見ると1.5頭身くらいのやつもいる――のこのキャラクターは……どこかで見た覚えのある気がするのだが、何だったっけ?
 少なくとも「かわいい」とは素直に言えない外見だ。「キモカワ」っていうのか? こういうの。何故数あるクレーンゲームの中からこれを選んだのかは知らんが、ハルヒが好みそうな感じのやつではあるな。
「というわけでキョン!取りなさい!」
 何故俺がやらねばいかんのか。お前はクレーンゲームをしたいのか中の景品が欲しいのかどっちなんだ。
「何言ってんのよ。敵情視察は下っ端の役目でしょ!」
 この際下っ端ということに関してツッコむのはやめておこう。SOS団結成当初から俺の地位がハルヒ的に一番下だというのは既に分かりきったことだし、もはや文句を言う気にもなれん。それはいいとして敵情視察ってのは何なんだ。そもそもそれは下っ端の役目なのかどうなのかとも思ったがツッコみどころとしてはどうかと思うし、面倒なんで黙っておこう。
「しかたねぇな」
 俺は小さく溜め息を吐きつつ、クレーンゲームの筐体に100円を投入した。まあいい、今日は朝から懐が寂しくなることもなかったしこれくらいいいだろう。クレーンゲームなんてのも久しぶりだしな。そうだ、あとでいいのを探して有希に持っていってやるか。
 あいつが好みそうなのがあるかどうかは定かじゃないけどな。
「キョン、真面目にやらなかったら死刑よ!」とハルヒ。
「キョンくん、頑張って~」と朝比奈さん。
 まあやるからには取る気ではいる。天使の応援もあるし、死刑は嫌だからな。
 さて。俺がこれから狙う獲物はいろんな意味で掴みどころの無い外見をした未知の物体だ。見た目の訳の分からなさもさることながら、頭でっかちなんでクレーンでちゃんと掴めるかどうかが分からん。だいたい1つの大きさが20~30cmはあるぞ? 何でわざわざこんなにでかく作らにゃならんのだ。
 そんなことを内心で愚痴りながら、俺はボタンを……、
「おい、ハルヒ」
「なによ?」
 押そうとして手を止めた。
「やるのはいいんだが、どれを狙えばいいんだ? せめてターゲットを決めてくれ」
「んもぅ、面倒くさいわね」
 言いながらハルヒはしげしげと景品の山を眺め始め、
「じゃあこれ。この頭に『ス』って文字のある、マントつけてるやつね!」
 その中の1つを指差した。
「はいはい」
 俺はボタンを押し込んで目的の景品がある位置までクレーンを動かす。まずは横位置だ。そいつは山の上の方にあるので狙いやすいといえば狙いやすい。ま、こっちはこのくらいでいいだろう。ボタンを離してクレーンを止めると、俺はもう1つのボタンに手を伸ばす。今度は縦位置だな。狙いを定めやすいようにクレーンの横に回って……、
「なあ、横から見て合図してくれないか?」
 ふと俺は元の位置に戻って後ろにいるハルヒに声をかけた。
「ん? いいわよ。けど指示には絶対従ってよね」
 ああ、従うさ。これは保険だ。俺一人でやって失敗したら何言われるか分からんが、自分の定めた狙いなら文句も言えんだろうからな。
「それじゃ、とりあえず動かしてよ」
「ああ」
 言われたとおり俺はクレーンを動かし始めた。といってもチャンスは一度きり。中には何度か修正のきくクレーンゲームもあるが、これはいたって普通のクレーンゲーム。ボタンを押して、離して、それでおしまいだ。ハルヒ、上手くやってくれよ?
「まだよ、まだ……もう少し……。キョン、そこ!」
「おっと」
 ハルヒの声を合図に俺はボタンを離した。クレーンが停止し続いて降下する。
 ハルヒの狙いは正確だった。アームがちょうどぬいぐるみの首の部分に引っかかり、クレーンはそのまま上昇を始める。
「おお」
「ふふん、これはいったんじゃない?」
 ハルヒが得意げに腰に手を当てて胸をそらす。が、ポストまでの距離があと半分というところまで来た時、
「あ」
 俺とハルヒと朝比奈さんは同時に声を上げた。
 絶妙なバランスでアームに引っかかっていたぬいぐるみは突然バランスを崩すとそのまま落下してしまった。
「あー、もう!あとちょっとだったのに!!」
「うーん、なかなか難しいものなんですねえ……」
 ハルヒはかじりつくように景品の山の一部と化したぬいぐるみを睨み付け、朝比奈さんは感心と落胆が混じったような溜息を漏らす。
 かくいう俺も憮然とした面持ちでそいつを睨んでいた。だいたい、大きさと形状が悪すぎるだろう。
「キョン!何か腹立つわよこれ。もう一回!!」
 ハルヒがそう言うが早いか、俺はコインを投入していた。何だか知らんがここはとっておかんと俺の気が収まらん。
 久しぶりにクレーンゲームで熱くなってきたぜ。
「よし、キョンそこ!!」
 狙いはさっきと同じマントのやつだ。これはやはりかの有名なスー○ーマンをモチーフにしてるんだろうか?
 まあそんなことはどうでもいいんだが、今回もハルヒの狙いは正確でうまいことアームが首に引っかかった。
「よっし、そのまま落とすんじゃないわよ……」
 機械にそんなことを言ってもしかたがないだろうが、そう言いたい気持ちは俺も同じでクレーンゲームなんかをやってるとついついそんなことを口走りそうになる。朝比奈さんもハラハラした様子で胸の前で手を組んで拝むようにクレーンの挙動を見つめていた。
 今回はアームがしっかりとぬいぐるみに引っかかり上手いことバランスを取っている。このままいけば……。
「……きたっ!」
 ハルヒの声が響くと同時、アームが開き景品がポストの中へと落下する。ぼすん、とかいういかにも鈍い音がしたのを聞いて取り出し口を見ると、確かにシュールな顔の卵頭がそこにいた。
「ほらよ」
 俺がそいつを放り投げてやるとハルヒは、
「ふふん、あたしの狙いがよかったのね」
「やりましたねえ」
 こういうとき素直に賞賛の言葉を送ってくれるのはあなたくらいのものです。朝比奈さん。
「そうだ。みくるちゃんも欲しいのない? キョンが取ってくれるわよ」
「え、あたしですかぁ?」
 俺がやるのは決まってるのかよ。まあ朝比奈さんの為ならクレーンゲーム如きで文句は言わんがね。
「それじゃあ……あっちの、あれが欲しいです」
 朝比奈さんが指差したのはデフォルメされたクマのぬいぐるみで、いかにも朝比奈さんに似合いそうな感じのやつだった。
「ふぅん、みくるちゃんはああいうのが好きなんだ」
「えと……、やっぱり子供っぽいですか?」
 萎縮したように言う朝比奈さんにハルヒは、
「うーん、お世辞にも大人っぽいとは言えないけどね。でもいいんじゃない? みくるちゃんにはぴったりかも」
 褒めてるんだか何だかよく分からんぞ。
「ま、これもいわゆる一つの“萌え要素”ってやつよね」
 久しぶりに聞いたな。
「というわけでキョン!突貫しなさい!」
 俺はどこの兵隊だ。
 などと心の中で突っ込みを入れていると朝比奈さんが困ったように、
「キョンくん、本当にいいんですか?」
「みくるちゃん、こういう時は遠慮しちゃダメよ。遠慮が時には失礼になることもあるんだから」
「そ、そういうものですか?」
 何をもっともらしい言い方で朝比奈さんを言いくるめようとしてるんだ。そもそもお前が俺に礼儀を払ったことなんて一度でも……なかったわけではないか?
「まあ、やりますけどね」
 そもそも今日はいらぬ出資がなかったので多少の金は浮いている。ハルヒに取ってやったんだから朝比奈さんに取って差し上げないわけにもいかないだろう。そういえばこの中に有希が気に入りそうなやつは……まあ、ないよなぁ。
「ん? これどこが違うの? もしかしてこのリボンだけ?」
 ケースの中をしげしげと見ながらハルヒが不満そうな声をあげた。いかにも女の子が喜びそうな感じのそのクマのぬいぐるみは確かに首のところについているリボンの色以外に違いはなさそうだ。
「何かつまんないわね。もっとこう、いろんなバリエーションがあった方が面白いのに」
「クレーンゲームじゃよくあることだろ。だいたい欲しいわけでもないんだから文句言うな」
「それはそうだけどさ」
 ハルヒは腕を組んで若干憮然な面持ちだ。まあどうせすぐに元に戻るだろう。ところで、
「朝比奈さん、一応聞きますけど……どれにします?」
「あ、そうですね、それじゃあ……。その、赤いので」
「分かりました」
 朝比奈さんが選んだのはクマの山の中で上の方の取りやすそうな位置にある赤いリボンをつけたものだった。もしかしたらわざわざ取りやすい位置のを選んでくれたのかもしれないが、それならそれでありがたく好意は受け取っておくことにしよう。
 さて、今回のはかなりの難敵だ。大きさはさっきの……何だっけ? ああ、そうだ。ねこマンとかいうやつと同じくらいだが、明らかにこっちの方が作りはいいし、中の詰め物の分重さもあるだろう。クレーンの筐体は同じもののようなのでアームの大きさも同じだが、果たしてこいつのパワーで足りるのか? よくあるボッタクリじゃないだろうな。
「うーん……」
 ここは慎重に行きたいところだがアームを動かせるのは縦横一回までと決まっている。ボタンを離すタイミングがずれたらそこでジ・エンドだ。
「もう、面倒くさいわねっ」
 と、ハルヒがなかなかボタンを押さない俺に痺れを切らしたのか、
「キョン、さっきみたいにあたしが指示するからあんたそのとおりにしなさい。みくるちゃんもそれでいい?」
「あ、は、はいっ」
 疑問系なのに有無を言わせない口調なのは相変わらずだ。まあこいつの狙いは正確だからまかせてもいいだろう。
「というわけで、キョン!さっさとやる!」
「へいへい」
 だったら自分でやればいいじゃないか、などと無粋なことを言うつもりはない。古泉じゃないが、この一年でこいつの考えてることもだいぶ分かるようになってきた。おそらくこいつは、俺に指示を出すことを楽しんでるんだろう。多分な。
「んー……あ、そこストップ!」
「ん」
 俺はハルヒの声に合わせてボタンを離した。のだが、
「ちょっと、少しずれたんじゃない?」
「……かもしれん」
 離したあとに微妙にアームが動いて少し狙いから遠ざかってしまった。
「もう、しっかりしなさいよ」
「しかたないだろ、お前の指示を聞いてやってるんだからタイムラグがあるんだ」
「まあいいわ。じゃあ次」
 ハルヒの声を聞いて今度は隣のボタンを押す。……やっぱずれてるな。
「キョン、そこ!」
「よし」
 今度は上手く止まった。とはいえ、やっぱ微妙だな。ま、その時はまたやればいいさ。
「んん?」
「あれ、けっこういいんじゃない?」
 多分無理だろうと思っていた俺だったが、意外にもアームは上手いことクマを掴み持ち上げる。これは、いったか?
「そのまま、そのまま……」
 ハルヒが拳を握って呟いている。……まさかこんなことにまでハルヒの力は及んだりするんだろうか。アームは絶妙なバランスでクマを引っ掛け、そのままポストへと移動する。そして、
「あ!」
 ハルヒと朝比奈さんが同時に声をあげ、ポストの中にクマが落下した。ハルヒはすぐに取り出し口からクマを取り出すと、
「やったじゃないみくるちゃん!一発よ、一発」
「わあ、ありがとうございます」
 朝比奈さんは笑顔でクマを大事そうに抱きしめる。ハルヒはその様子を見てうんうんと満足そうに頷いた。
 が、すぐに考え込むような表情になって、
「うーん、なんか足りない気がするわね」
 お前の言うとおりだハルヒ。これでは足りん。
「そうよ、有希の分よ!キョン、せっかくだから有希の分も確保しなさい。あと妹ちゃんの分も!」
 なぜ妹まで入っているのかは謎だが、ともかくこれで公に有希の分を用意してやれる。とはいえ、
「長門が気に入りそうなやつなんてあるか?」
「ん? みくるちゃんと同じでいいでしょ。あと妹ちゃんも」
「妹の分は分かるが……」
「だってあんた、クリスマスの時に有希の部屋見たでしょ? 殺風景にもほどがあったわよ。だから何か女の子らしいものがあってもいいかなって。ま、有希には似合わないかもしれないけど、これもいわゆる一つの萌えってやつよ」
 またそれか。訳が分からんが、まあ確かにもう少し有希の部屋には何かこう、女の子らしいものがあってもいい気がする。実を言うとあれ以来いろいろ持ち込んだりしてるからクリスマスの時よりは幾分マシな感じにはなってるが……。
「で、お前はそれでいいのか?」
「ん? 何がよ」
 いや、そりゃお前、他の3人が同じクマのぬいぐるみなのにお前だけその怪しげな物体でいいのかと。
「あたしはこれでいいわよ。みんな同じなんてつまんないしね」
 お前がそれでいいならそれでいいが、お前ももう少し女らしくしてもらえると助かる。
 なんてことは言わなかったが。
「ま、くれるってんならもらうけど」
 やっぱ欲しいんじゃないのか?
「そんなことより、時間ないんだからさっさとしなさいよ」
「へいへい」
 まあたまにはこういうのもいいかもしれない。有希が喜ぶかは分からんが、まあハルヒや朝比奈さんに取っておいて有希には何もなしなんて俺も気分が悪いしな。
 ……こういうところで妙に気のきくやつなんだよな、ハルヒは。


 さっきのクレーンゲームで無事に残りのクマを確保した俺は店内のサービスカウンターで大きめの袋をもらい、4つの景品を詰め込んだ。おお、これだけあると邪魔だし重いな……。
「さて、それじゃ次はどうする?」
「そうだな……」
 せっかくだから有希にも何か持っていってやりたかったがめぼしいものがない。というかもう一つ景品を取ったら取ったでハルヒ辺りに何か言われそうだな。……ハルヒの目を気にするってのがまずあれなんだけどな。
「ん?」
 と、俺は対戦格闘ゲームなんかが並んでいるコーナーにちょっとした人だかりを見つけた。
「ハルヒ、あれなんかどうだ?」
「ん? どれよ」
 俺が指差したのはその人だかりの中心にあるゲーム。人型ロボットが活躍する人気アニメの冠がついたこれまた人気ゲームで、2つの軍が勢力を争うといういかにもハルヒが好みそうなやつだ。
「ああ、あれね。見たことはあるけど」
「せっかくゲーセンに来たんだ。一暴れしてみたらどうだ?」
 本当に暴れられたら困るけどな。
「ふぅん。ま、やってみましょうか」
 俺たちが近付いていくと、ちょうど先に座っていたいかにもあったから何となくやってみたって感じの兄ちゃんがゲームオーバーになったようで、次の挑戦者がいないのを確認してハルヒが筐体の前に座った。
「何か面倒くさそうねえ」
「適当にやってりゃそこそこいけるだろ」
 コインを入れてスタートボタンを押すと、オペレーション選択とかいう画面が現れる。オペレーションってのは区画みたいなもんで同じものを選べば共闘か対戦ということになる。そのオペレーションで既にプレイ中の奴と同じ軍を選べば共闘、違う軍なら対戦という寸法だ。
 どうやらここの設定は4オペレーション。筐体は8体だから8人いても必ず共闘か対戦ってことにはならないようだ。まあ、こういう時はむやみに同じオペレーションを選ばないのが礼儀だな。時々いるんだ。勝手に入ってくる対戦狂やルールも分からず共闘を選ぶ奴が。
 まあ幸い今回は空きがあったようなのでそこのところをハルヒにアドバイスしてやる。ゲーセンには谷口や国木田と何度も来てるからこの手のゲームも経験はあるからな。
 次は名前入力だがここは適当に“おまかせ”を選んでおく。で、機体選択では予想通りハルヒは一番性能(というか火力だな)のいいやつを選んでいた。ステージも適当に選んで、いざ開始。
「へえ、これが射撃。……で、こっちが格闘ね。ああ、これでジャンプするんだ」
 などと最初は動きがおぼつかなかったが、そこは天下のハルヒ様だ。ステージ1で操作方法を覚えると、ステージ2ではコツをつかみ、この手のゲームの登竜門、ステージ3ではかなりの奮闘振りを見せていた。
「へえ、なかなか面白いじゃない。攻撃の回数制限がちょっとうざったいけど」
 そりゃあ、前のコンピ研のゲームと違って盛大にビームやら何やらをぶっ放せるわけだからな。いつの間にかハルヒもノリノリでステージが進むにつれハルヒのプレイを見学するギャラリーが増えてきた。
「ちょっとキョン!何か急に終わっちゃったんだけど」
「ああ、そりゃ乱入されたんだ。軽くひねってやれ」
 俺がそう言うとハルヒは一瞬きょとんとした後、唇の端と眉を同時に吊り上げるという例の笑みで、
「あたしに勝負を挑もうなんていい度胸じゃないの。受けて立つわ!」
 お前にゃ誰も勝てないだろうよ。
「さーて、あたしに喧嘩ふっかけたオロカモノはどこのどいつ!?」
 それにしてもこのハルヒ、ノリノリである。なんてな。
 パワー全開(死語だな、これ)で立ちはだかる敵をちぎっては投げちぎっては投げと大奮闘のハルヒ。
 ふと横を見るとその様子を微笑ましそうに眺めている朝比奈さんの姿が目に映った。
「涼宮さん、楽しそう」
「……そうですね」
「こういうのも、いいかな」
「え?」
 俺が聞き返すと朝比奈さんは、くすっと笑って、
「こうして、普通に遊んでるのもいいなって。涼宮さん、楽しそうだし」
「…………」
 ハルヒはいちいち何事か叫びながらステージをクリアし、乱入者を打倒していく。
 普通の女子高生としてはちょっとどうかって楽しみ方だが、それでも十分、今のハルヒはただ単純に仲間と一緒に遊ぶってことを楽しんでるみたいだった。
「ハルヒも少しはまともになってきたってことですかね」
「もう、キョンくんその言い方はちょっと酷いですよ」
 俺がそう言うと朝比奈さんはまたくすっと笑って言った。
 さて、そうこうしてる間にハルヒは最終ステージに到達していた。初プレイでここまで来るんだからやはりこいつは要領がいいらしい。
 ここからが凄い攻防だった。
 いくら相手がCPUとはいえ、対するハルヒは向かってくる飛び道具を的確にかわし、バルカン砲で牽制しつつ近付くと白兵戦で敵の体力を削り、敵が着地するのと同時にビームキャノンを撃ち込んでひるませる。
 おいおい、コンピ研の時のあの猪突猛進ぶりはどこへ行ったんだ? 完璧じゃないか。
「キョン、戦略や戦術ってのはその時々で臨機応変にしておくべきなの。覚えておきなさい」
 戦略と戦術がどう違うのかはよく分からんが、とりあえずやっぱりこいつの言うことはよく分からん。
 そうこうしてるうちに敵の耐久力はあとわずかだ。ハルヒの方は……驚いたことにほとんど減っていない。
「これで終わりぃ!」
 ハルヒがそう叫んで射撃ボタンを弾くと同時、幾本ものビームが相手を打ち抜き勝敗は決した。
 流れてくるスタッフロールをすっとばしてランキングを確認すると……。
「一位……。しかもニュータ○プ評価Aって」
「何? それ凄いの?」
 凄いも何も、お前これは初プレイの奴が取るもんじゃない。というか普通の奴はこの評価自体まず取れない。
「へぇー、つまりそれって特別ってことよね」
「まあ、そうと言えなくもない」
「ふぅん、けっこうけっこう」
 何がけっこうなんだか知らんが、とりあえずハルヒは上機嫌のようだった。ギャラリーが騒然としているのすら今のこいつには関心のないことのようだ。
「っと。そろそろ時間ね。キョン、みくるちゃん、戻りましょ」
「はぁい」
 携帯電話の時計を確認したハルヒは俺たちにそう言ってさっさと歩き始めた。ギャラリーが何やら呆然としているようだが、そりゃそうだ。
 まあ特に気にするほどのことでもないので俺もハルヒと朝比奈さんの後を追うように歩き始めた。
 妙に膨らんだ袋を持って女二人と歩く俺に奇異な視線が度々突き刺さっていたことは、あえて言うまでもないよな?


「やあ、お待ちしておりました」
 例の待ち合わせ場所で先に待っていた古泉が俺たちを見つけてついと手を挙げた。
「待ってた? 何分くらい?」
「さあ、30秒ほどでしょうか」
 ハルヒの言葉に下手なジョークで返す古泉だったが、ハルヒは特に気にするふうもなく、
「そ。それじゃあお腹も空いたしお昼ごはんにしましょうか」
 渾身のジョークをスルーされた古泉もあまり気にしてはいないようだった。いつもどおりの笑顔で、
「了解しました。ところで……」
 古泉が俺が手に下げた袋へと目をやる。まあ、聞かずにはいられないだろう。
「ああ、これね。さっきゲームセンターに行ったんだけど、そこのクレーンゲームでちょっとね。ほら」
 ハルヒが袋に手を突っ込んで例の謎生物とクマのぬいぐるみを取り出してみせると、
「ゲームセンターにクレーンゲームですか。それはそれは」
 何やら古泉は顎に手を添えて撫でながら一人合点のいったような笑みで、
「…………」
 有希はなぜか――いや、何となく理由は分かるんだが――冷たい視線を俺に送ってきた。
「そうそう、ちゃんと有希の分もあるわよー」
「……、…………そう」
 一瞬にして雪解け水くらいまで温まる有希の視線。ハルヒ、無意識ながらナイスフォローだ。
「あと、これは妹ちゃんの分ね」
「僕には、なしですか?」
 お前は何を言っているんだ。
「え、欲しいの?」
 怪訝な表情で古泉を見るハルヒ。その反応は正解だ。古泉が欲しがっているのがクマのぬいぐるみだったらの話だが。
「言ってみただけですよ。僕が持っていても気持ちが悪いだけでしょう」
 冗談です。といった感じの笑みで両の手をひょいと挙げてみせる古泉。……ええい、いつから俺は古泉の笑顔分析専門家になったんだ。忌々しい。
「ちょっと面白いかもしれないけど」
 やめてくれ。
「ご冗談を。ところで、そろそろ食事時では?」
「そうね、それじゃご飯にしましょうか」
 早速歩き出そうととしたハルヒははたと立ち止まり――何だ、どうした。
「あたしたちの方が遅く着いちゃったのよね。それじゃあ支払いは……」
「……分かってるよ」
「じゃあ、行きましょ!」
 ハルヒはご機嫌オーラを保ったままずんずんと昼食求めて歩き出した。
 その後ろを慌てて朝比奈さんが追いかけ、古泉はモデル歩きで後を追う。
「…………」
 で、その後を追う俺の後ろにぴったりとくっつくようにして歩いているのは有希だった。……古泉に何かされなかったか――まあ、あいつなら相手が誰だろうがそんなマネはしないだろうが……。
「…………」
 有希は小さく、ゆっくりと首を振る。……まあ、何もないならいいんだけどさ。
「……………………」
 いつもより俯き加減でそっとシャツの背中をつままれた。痛い。心が痛いよ、有希。
 とはいえ、俺が歩くのを邪魔しない程度の力なのは実にいじらしいことだ。歩くスピードも俺に合わせている。
 ……傍目に見たらけっこうシュールな光景なんじゃないか? これ。
「…………」
 そんなことを考えているうちにハルヒたちはどんどん先に行く。そんなに人で混み合ってるわけでもないが、下手をするとはぐれてしまいそうだ。
「…………?」
 立ち止まった俺を有希が不思議そうに見つめる。
 あのな、有希。俺だってお前にそんな悲しい顔をしてもらいたくてやってるわけじゃないんだからな。
「…………ぁ」
 有希の頭を一撫でして、額にキスをする。不特定多数の連中に見られてしまったかもしれんが、かまやしない。
「今はこれで我慢してくれ。今日は土曜日なんだから……な?」
「…………」
 有希はじっと俺の目を見つめて、
「……そう」
 ゆっくりと頷いた。
「行こうぜ。ハルヒにどやされる」
 言いながら俺はそっと有希の手を握り、そのまま歩き出した。


 もちろん、ハルヒたちに近付いた辺りで手を離し、その瞬間に有希の周りの空気が冷たくなったのを感じて心が痛くなったのは言うまでもない。


 レ・ミゼラブル。
 とは、こんな時に使えばいい言葉なのだろうか。
 昼飯のお代が俺持ちだとか、みんな微妙に高いものを頼みやがったとかそんなチャチなもんじゃない。
「何かこの組み合わせも久々ね」
「そうですねえ」
 ハルヒと朝比奈さんが顔を見合わせ笑い合っている中で、
「…………」
 有希だけがとことん無表情だった。
 いや、正確に言うと周りの奴らには無表情に見えるだけで俺にはちゃんと有希の表情は読み取れてるし、それもちょっと優越感を覚えたりしなくもないのだがそんなことはこの際どうでもいい。
「よろしくお願いしますよ」
「……ああ」
 対照的にひたすら笑顔の古泉に対して俺はひたすらぶっきらぼうに言う。
 悪夢である。
 単刀直入に言おう。またしても有希と同じ班になれなかった。
 なれなかったが故に、俺は俺以外に感知しえない有希の悲愴なオーラをこれでもかと感じるハメになったわけである。
「ま、ここは女同士、男同士で仲良くやりましょ。それじゃ、いつもの時間にいつものとこでね!」
 ちなみに今回の組み合わせは有希、ハルヒ、朝比奈さんの女性チーム。俺、古泉の野郎チームだ。
 以前に同じ組み合わせになった時はつまらなそうにしてたハルヒはなぜかご機嫌だ。まあ、あの時は結局三人で楽しんできたみたいだけどな。
「さ、行きましょ!」
「あ、わわっ。涼宮さん待ってぇ」
「…………」
 朝比奈さんといまだにどよんとしている有希の手を引っ張ってハルヒがずんずんと歩いていく。こういう時のあいつは周りが目に入らんからな。有希の落ち込みようにも気付くまいよ……。
「僕たちも行きましょうか」
 颯爽と店を後にしたハルヒたちを見送ってから古泉が立ち上がった。
「……そうだな」
 仕方なく俺も重い腰を上げる。自然な動作で伝票を手にしてしまう自分の手が忌々しい。
「それでは、外で待っています」
 実に爽やかな仕草で店の外へと向かう古泉。お前、そのモデル歩きを見てその辺の女共がちょっとニギヤカになってるのに気付いてるのか?
「……やれやれ」
 有希のことが気がかりだが、インチキをしないってのは俺たちで決めたことだから仕方がない。
 まあ……。
 どの道、今日は土曜日だしな。


「いつもすみませんね」
「……そう思うなら肩代わりしてくれんか」
 店の外で待っていた古泉が爽快感ゲット!な顔で言うもんだから俺は余計にげんなりしてしまった。
「残念ながらそういうわけにもいかないんですよ。こちらにもいろいろと事情がありますのでね」
「そうかい」
 まあ期待はしていなかったさ。
「さて、それで、どうしましょう?」
「さあな」
 古泉は予想通りの答えが返ってきたとでも言いたげに方をすくめた。まあこいつにも行くあてなんてないだろうけどな。
「……少し、お話があるのですが」
 と思っていたら意外にも古泉の方から誘いがあった。まあ、俺の方から誘うことはまずないし、俺がこいつとつるむのはいつもこいつから誘いがあった時だ。
 だが――。
「……奇遇だな。実は俺もだ」
「……そうですか」
 古泉が笑みを崩さぬまま俺の方を振り向く。
 だが俺には分かっていた。こいつのこの笑顔が、いつもの笑顔と同じではないことを。
「どこがいいでしょうね」
 そろそろだ、と。俺は感じていたのだ。
 もう潮時なのかもしれないと。
「いい場所を知ってる」
 そして俺には何となく分かっていた。こいつが俺に何を言いたがっているのか。
 多分、こいつにも分かっている。俺がこいつに何を言おうとしているのか。
「あなたがそんなことを言うとは、失礼ながら意外ですね。案内してもらえますか?」
「ああ」
 いつまでも隠し通せるわけはない。隠し続けるわけにはいかないんだ。
 それくらい――俺も有希も、分かっていた。


「懐かしいですね」
 春には桜並木が見られるデートコースにはうってつけのこの河川敷を何を好き好んで男と歩かなければならないのか――とは、この時ばかりは思わなかった。
「言うほど来てなくもないだろうよ」
「ここではいろいろなことがありましたからね。数週間来ていないだけでも感慨深くもなりますよ」
「そうかい」
 俺が古泉とやってきたのは、一番初めの不思議探索の時に朝比奈さんと訪れ、秋の映画撮影の時には季節外れの桜が咲いて、例の朝比奈さん(大)からのおつかいの為に亀を連れてきたりした、あの河川敷だった。
「そこのベンチがいいだろ」
「そうですか」
 ポケットに手を突っ込んだまま行儀悪くどかりと座り込んだ俺の隣に、少し距離を取って古泉が優雅な仕草でゆったりと腰掛ける。もしも零距離に座りやがったら足を踏みつけていたところだ。
「…………」
 しばし、互いに無言の時が続く。あと数日もすれば、セミの鳴き声が聞こえてくる季節だ。
「ここなあ」
「はい」
「一番初めの不思議探索の時に朝比奈さんと来たんだよ」
「ほう」
「で、朝比奈さんが未来人だってことを聞かされた」
「それはそれは」
「だからな」
「ええ」
「大事な話をするにはうってつけの場所ってことだ」
「そうですか」
 ものの一分程度のやり取りの後、再び静寂が訪れる。互いにぼんやりと川の流れを見ているだけだった。
『それで』
 全く同じタイミングで発せられた俺と古泉の声。
「……何だ」
「……いえ」
 何を躊躇してるんだ。お前らしくもない。
「それで、どっちから話を始めるのか…・・・だろ?」
「……ええ」
「先に言えよ」
「僕にも心の準備というものがありますよ」
 心の準備ね。聞く方にも心の準備はいるんだぜ?
「……いえ、せっかくのあなたのご意向ですからね。僕からお話しましょうか」
 古泉は川の方に視線をやったまま、
「単刀直入に申しましょう。……あなたは――」
 一瞬の間。だが俺にはこの間が途方もなく長い時間に感じられた。
「――長門さんのことが好きなんですか?」
「ああ」
 俺は即答する。さすがの古泉も驚きをあらわにした表情で俺の顔を見た。
「……否定しないんですね」
「する必要がないからな」
 分かってたんだ。古泉には感付かれてるかもしれないってことは。
 まあ機関の力でそれを知ったってことも考えられるが――今まで言い出さなかったのなら同じことさ。
「……そうですか」
 いつもとは違う、落胆したような、しかし安心したような、ともかく言葉では形容しがたい複雑な表情で古泉はしばらく口を閉ざし、
「長門さんも」
 呼吸とともに吐き出したような脆い音声で、
「あなたのことが好きなんですね」
「……だといいけどな」
 そんなのはもはや分かり切っていることだが、誰かが自分のことを好きだってのを自分の口から言うほど俺は図々しくはないつもりだ。
「見ていれば分かりますよ」
 古泉はどこか諦めを含んだような笑みを浮かべると、
「あなた方の、言葉では言い表せないような絆はね」
 絆、か。
 確かに――俺たちの関係を言い表すとしたら、こういう言葉が一番似合って“いた”のかもしれない。
 友情とも、愛情とも違う。どこまでも純粋な信頼関係。それが俺と有希の関係だったんだ。――少し前までは。
「……言いたいことがあるならはっきり言った方がいいぞ」
「……そうですね」
 そう、そろそろはっきりさせなくちゃいけない頃だ。
「こういう言い方はあなたはあまり好まれないかもしれませんが……」
 俺たちのことも、……こいつの気持ちも。
「あなた方は、愛し合っているのですか?」
「……ああ」
 俺は振り向かずに答える。俺の視線の先を追うように、古泉も視線を川へと戻した。
「一つだけ聞かせてください」
「何だ」
「……それは、あなたの本意ですか?」
「……ああ」
「長門さん以外には、考えられませんか?」
「そうだな」
「……そうですか」
 言い終えて、古泉は息をつく。そうしてまたしばらく静寂が流れた後、
「それを聞いて、安心しました」
「……俺はハルヒと付き合うべきだったんじゃないのか」
 古泉は振り向かない。俺と同じように川の流れを――いや、もっとずっと遠くを見つめていた。
「……覚えていたんですか?」
「思い出したんだよ。長門と付き合い始めてからな」
 どんな話をしたのかまでは細かくは覚えていない。だが、あの時の古泉の言動の違和感はしっかり記憶の中にあった。
 俺とハルヒが結ばれるのが機関の総意だと言っておきながら、有希が俺のことを好きかもしれないと言っていた、あの時のことを。
「どうも引っかかってたんだ。あの時のお前は今までで一番滑稽だったぜ」
「なぜです?」
 俺が気付かないとでも思っていたのか? 俺に気付いて欲しかったからわざわざあんな話をしたんだろうに。
「あの時、お前は何で長門の話をした? 本当ならハルヒの話をするだけでよかったはずだ。お前はあの話をすることで俺を迷わせようとしたんだ」
「…………」
「それに……最近のお前を見てれば分かることだ」
 SOS団に入った時から今までのこいつの変化。そして、有希が改変した世界で出会った、“もう一人の”こいつの告白。
「好きなんだろ。ハルヒのことが」
「…………」
 古泉は答えなかった。沈黙は肯定だって誰かが言ってたぜ。
「正直、お前の考えてることは長門以上によく分からん」
 まあ、今の俺にとっては有希の考えてることなんて手に取るように分かるんだが、今はそういう問題じゃない。
「だけどな。お前無意識なのかわざとなのかは知らんが、何回も俺に言ってただろ。俺とハルヒの関係が羨ましいってな」
「……それだけが、そうお考えになる理由ですか」
「いいや」
 こいつなら、今から俺の言うことの意味を理解するだろう。これは、まだこいつに言っていなかったことだ。
「12月、長門が世界が改変した時、向こうのお前は」
 多分、こいつは気付いている。自分の気持ちに。
 結局、こいつも有希と同じだったんだ。自分の想いが、きっと叶わぬものなのだという事実と、常に葛藤していたんだ。
「ハルヒのことが好きだって言ってたんだよ」
「…………」
 古泉は応えない。通り過ぎた風が、わずかに音を立てて俺たちの頬を撫ぜた。
「……そうですか」
「そうだよ」
「まさか、そんなアプローチがあったとはね」
 ふと、古泉が俺に笑いかける。
「いえ、分かっていますよ。あなたが何を言いたいのかはね」
「…………」
 そう言ってまた視線を川へと戻し、独り言を言うように、
「あなたの話では、あの世界での僕たちは性格こそ違えど、根本的な部分では変わっていなかった。それならば、こちらでは言えなかった本音を、改変された世界で口にしていたとしても不思議ではないでしょう」
 何でもないことを口にするように、古泉は重大なことを言ってのける。
「もしもあなたの言ったことが確かなのならば、あなたの考えは正しいのかもしれない」
 だが俺には、まるで残された逃げ道を探しているかのように聞こえた。
「そして僕は――あなたの言ったことを確かめるすべを持たない」
「……否定はしないのか」
「さっき同じことを僕もあなたに言いましたよ」
 古泉は苦笑して、
「分かっていますからね。あなたがこんなことで嘘をつくような人ではないことは」
「……そうか」
 そこまで言って古泉は黙り込んだ。
「回答はナシか」
「……いえ」
 古泉の顔がまた諦めたような笑みを形作り、
「ご明察、ですよ。僕が涼宮さんに好意を抱いていることも、あの時長門さんの話をした理由も――あなたの推察どうりです。あなたの心を、長門さんに向けるために、ね――」
 その顔がゆっくりと歪んでいき、古泉は頭を抱えた。
「――僕は、最低な男だ。卑怯者です。こんな姑息な手段を使うことでしか、あなたに対抗するすべを思いつかなかった」
 古泉は俺に謝罪しているのか、それとも自分を責めているのか――。
「申し訳ありません。僕は、あなたと長門さんの心を利用しようとしてしまった。いや、実際利用してしまった。本当に……申し訳ありません」
「古泉」
 声を震わせる古泉に俺はいたたまれなくなり、
「謝らなきゃならないのは俺の方だ」
 そうだ、俺は有希を選んだんだ。それが何を意味するのか――俺も有希も、ちゃんと理解しているんだ。
「俺は結局、世界を見捨てたんだろう? 世界を引き換えにしてまで、長門を――」
「やめてください」
 次の瞬間、俺は予想外のものを目にした。
 古泉が、今まで見たこともないような鋭い目つきで俺を睨んでいた。
「なぜ、そんなことを言うんです。やめてください。それ以上言うのなら、この場であなたを殴ります」
「古泉?」
「あなたは、ご自分のおっしゃっていることの意味を理解しているんですか?」
 有無を言わせない古泉の口調に俺ははっとして口をつぐんだ。……なんてこった。最低なのは本当に俺の方じゃないか。
「……すまん。悪気はなかったんだ」
「謝るのなら僕にではなく長門さんにです。あなたは長門さんを選んでおきながら、世界と長門さんを天秤にかけようとした。……そんなことは、やめてください」
 そうだ。有希を選んだのは俺じゃないか。何を今更世界がどうのと言ってるんだ。そんなのは、最初に、あの時に覚悟してたことだろう?
 あの時、もう俺の答えは決まってたんだ。こんなふうに考えるのは失礼じゃないか。有希にもハルヒにも。そして古泉にも。
 いや、失礼なんてもんじゃない。人間として最低だ。
「……そうだな。俺が間違ってた」
 さっき古泉が、俺が有希以外に考えられないと言った時に安堵していた理由は、そういうことだ。
 もしも俺がいまだにハルヒに対して後ろ髪を引かれるような思いを抱いていたとしたら、間違いなくこいつは俺を殴り飛ばしただろう。こいつだってそんなことはしたくないはずだ。俺は殴られたってかまやしないが、それじゃこいつが納得しない。
「分かってくだされば……いいんです」
「……悪い」
「もういいんですよ。元々僕たちは世界を守るためにあなたを利用していたんです。あなたの気持ちよりも世界を優先し、あまつさえあなたの想いを利用していたんですから」
 俺がハルヒと結ばれるのが妥当だというのが、<機関>の総意らしいからな。
 ハルヒが好きじゃなかったとは言わない。だけど、俺が選んだのはこっちだったんだ。今更ハルヒを選べなんて言われても従えるはずがないし、俺も有希もそんなことは望んじゃいない。何より、ハルヒが納得しないだろう。
 今なら分かる気がする。俺と有希の関係を知ったあいつが、俺たちに対してどんな態度を取るのか。
 だが――。
「いや、実はもう一つ謝らなきゃいけないことがあった」
「何です?」
 有希が俺を求め、俺が有希を選んだことが、俺たちの世界に対する罪なのだとしたら、これはハルヒや古泉や朝比奈さんや、それ以外の俺たちの周りの連中に対する罪だ。
 もしかしたら、こっちの方が重罪なのかもしれない。
「――今まで、黙っていて悪かった」
 なぜ、今までバレないようにしてきたんだ? 離ればなれになるのが怖かったからか? 世界が終わっちまうのを恐れたからか?
 そんなもんじゃないだろう。人を好きになるってことは。
 人間が他人に迷惑をかけずに生きるなんてのは無理な話なんだ。誰かを好きになって、誰かに好かれて、そうして愛し合うことの喜びにだって、必ずリスクが伴うんだ。
 そのリスクから逃げてきたんだ。俺たちは。
「……確かに、もっと早くに言ってくださればよかったのかもしれませんが」
 古泉はベンチから腰を上げると、こちらを振り向いて自嘲するような笑みを浮かべ、
「僕だって同罪です。ここは互いに素直になれたということで、おあいこといきましょう」
「……そうだな」
 ったく。こんな時にまで口の減らない奴だ。
「……ですが、不安がないと言ったら嘘になります。このままあなたたちの関係を隠し通すことはできないでしょう」
 それはそうだ。今回みたいに言わなきゃいけない時が必ず来る。いや、本当ならすぐにでも伝えなきゃいけないことなんだ。
「涼宮さんがあなたがたの関係を知ることで世界が終わってしまうという危険性も――いえ、ご安心ください」
 俺の表情を読んだのか、古泉は柔らかく微笑んで、
「例え世界が滅ぶようなことになってしまったとしても、僕は決してあなたがたを責めたりはしませんし、例え<機関>があなたがたを引き離そうとしたとしても、僕が全力で阻止します」
 何でだ。
「どうしてお前は、俺たちのためにそこまでできるんだ?」
「いつか、言ったでしょう?」
 古泉はいつものような如才のない笑みを浮かべて宣言した。
「どんなことがあっても、僕はあなたについて行くと」


「……もうそろそろ行きましょう。男二人でこんなところにいつまでもいるのはナンセンスでしょう」
「……ああ」
 古泉に倣って俺もベンチから腰を上げる。先に歩き始めた古泉の背中に、俺は声をかけた。
「古泉」
「……何ですか?」
「俺もこんなことを言える立場じゃないんだが、その、だな」
 俺に背を向けたまま立ち止まって、古泉は俺の言葉を待っている。
「ハルヒのこと、頼めるか?」
「……僕は」
 古泉はゆっくりと振り返り、躊躇うような表情で、
「僕は、彼女に相応しい人間でしょうか?」
「ああ」
 似合いだと思うぜ、お前は俺なんかよりずっと紳士だしルックスもいい。悔しいが、俺がお前に勝てる点が思いつかないくらいだ。
「彼女は……僕を好きになってくれるでしょうか?」
「当たり前だ。俺が保証する」
「……不思議ですね」
 古泉はようやく弱々しい笑みを浮かべると、
「あなたに言われると、本当に何とかなってしまいそうな気がしてきますよ」
「そりゃどうも」
 お世辞でも感謝するぜ。俺にはこんなことくらいしか言えないからな。
「分かる気がしますよ。涼宮さんや長門さんがあなたに惚れ込んだ理由が」
「…………」
「あなたは気付いていないかもしれませんが、あなたはとても優しい人だ。あなたの優しさは、意識的なものだとしても見返りを求めない純粋な優しさだというのが、あなたの言葉や行動から伝わってくるんですよ」
 独り言のように、古泉は語る。
「あえて言いましょう。僕はあなたが羨ましい。……涼宮さんの笑顔の先にあったのは、いつもあなたの姿だった」
 そうか、こいつがハルヒに惚れちまった理由は――。
「いつからなんでしょうね。僕が彼女のことを好きになったのは。以前は閉鎖空間のことで憎んだこともあったというのに」
 自分自身への呆れを表すように古泉は薄く笑って、
「おかしな話だ。……涼宮さんの、あなたに向けられる笑顔に僕は惹かれていたんです」
「古泉……」
「僕は、あなたに嫉妬していたんですよ。ですから――もしもあなたが、涼宮さんに対して未練のようなものを感じていたのなら、問答無用で殴り飛ばしていたでしょうね」
 古泉の言い分は正しい。一人の女を選んでおきながら、別の女に未練を感じている奴がいたとして、もしもそのどちらかの女が自分の好きなやつだったら、俺だってそいつを殴りたいと思うだろう。
 だが――俺は、有希を選んだんだ。それだけは、確かだ。
「一つ、約束していただけますか?」
「何だ?」
 古泉はまた真面目な顔になる。今日だけは、こいつの表情は分かりやすかった。
「幸せになってください。長門さんと、必ず」
「……ああ」
 分かってるさ。俺は有希を幸せにする。最初から、ずっと心に決めていたことだ。
 だから古泉、お前も――俺の代わりになんて無粋なことは言わない。俺にはあいつを幸せにしてやることなんかできっこないし、そうする権利だってないんだ――ハルヒと、幸せになってくれよな。


 許してくれなんて言わない。謝る権利すら、俺にはないからな。
 そうしてこの日、俺は自分のハルヒに対する気持ちと――決別した。


 微妙な距離感を保ったまま集合場所に辿り着いた俺たちを待っていたのは、何やらでかい紙袋を提げてゴキゲンのハルヒと、何やらいいものを見たとでも言いたげな顔の朝比奈さんと、何やらちょっと嬉しそうな顔をした有希だった。
 俺はハルヒの笑顔を見て胸が痛むのを感じ、もう考えてはいけないことだと心の中のモヤモヤを振り払う。
「遅いわよ二人とも!」
「すみません。少し寄り道が過ぎたようです」
 あんな話をした後も普通に振舞う古泉を見て、少しだけそのポーカーフェイスを見習いたくなった俺だったが、もしかしたら本人は辛いのかもしれないな。今だって、古泉は本当は……いや、これも考えるのはよそう。
「その荷物、どうしたんだ?」
 何気なく当たり前な質問をしてみると、ハルヒはニッと笑って、
「今日、有希が私服着てきたでしょ? それが可愛かったからいろんな服着せてみたくなってね。いろいろ買ってきちゃった」
「よくそんな金があったな」
 いや、いつも俺が奢ってるからもしかしたら他の連中はけっこう持ってるのか?
「ちょっと無理はしちゃったけどね。あたしと有希でワリカンしたし、そう痛手でもないわよ」
「なるほどね……」
 有希が嬉しそうな顔をしてるのはそういうワケか。何だかんだ言って、ハルヒや朝比奈さんと行動するのはこいつも好きらしいからな。
「ま、それはそれとして、午後の成果を発表してもらうわよ!」
「へいへい」
 どっちも大した成果なんてないのは分かり切ってるけどな。俺たちは二人でブラブラしてただけだし、この三人だってきっと普通にデパートかどっかで買い物してただけだ。
 ま、今はそれでいいのさ。普通の仲良しグループみたいにしてれば、な。そう、今は……。
「あ、遅れたから払いはそっちね」
「承知しております」
「それじゃ、行きましょ!」
 古泉の言葉にハルヒは頷くと、有希と朝比奈さんの手を引いてずんずんと歩き始めた。俺と古泉も後を追うように歩き出す。
「……俺が払うよ」
「……いえ、僕に払わせてください」
「……いいのか?」
「……たまには」
 古泉は俺の隣を通り過ぎながら呟いた。
「僕にも恩返しさせてください」
 遠ざかる古泉の背中を見ながら、俺も古泉に聞こえないように呟いた。
「……ありがとよ、古泉」


 その後の喫茶店での出来事は特筆すべき点もないものだった。
 いつものように中身のない成果を発表し合い、ハルヒは特に気にするふうもなく発表会は終わり、適当にくっちゃべって店を出た。
「それじゃ、予定通り明日は休みだから。月曜までにちゃんとエネルギー溜めときなさいよ!」
「今日は楽しかったです。また来週」
 ハルヒは有希に紙袋を手渡すと俺からゲーセンのぬいぐるみ入りの袋を奪い取って振り回しながら意気揚々と、朝比奈さんはぬいぐるみ入り袋をわざわざ大事そうに抱きしめてしずしずと帰っていった。
「それでは、僕もこれで失礼します」
「ああ」
 何だか今日は古泉と妙に打ち解け合っちまったな。まあ……悪くはないけどな。
「…………」
 3人の姿が見えなくなってから有希がそっとYシャツの袖を摘んできた。やっぱり寂しかったのか?
「今日はあんまり一緒にいられなかったな」
「……いい。今日はまだ終わっていない」
 ああ、くそ。何ていじらしい奴なんだ。ここが人目につく場所じゃなかったらすぐにでも抱きしめてるところだ。
「それじゃ、俺今から一度家に戻るけど、すぐに行くから待っててくれ」
「……わかった」
 有希が名残惜しそうに指を離す。
 反射的に抱きしめそうになるが、ぐっと堪えて俺は自宅へと向かった。
 ……背中に感じる視線が痛かったけどな。


「キョンくん、おかえり~」
 家に大急ぎで帰った俺を出迎えたのはシャミを抱えた妹だった。
「出迎えご苦労、妹よ。そんなお前を労って今日はおみやげを持ってきたぞ」
「え、なになに!」
「ほれ」
 俺は袋からクマのぬいぐるみを出して見せる……が、しまった。さすがに小6にぬいぐるみは幼すぎたか?
 という俺の不安を知ってか知らずか、
「わー、かわいいクマさんだねえ。ありがと、キョンくん!」
 妹が子供で非常に助かった。お前はそのまま永遠に童女でいてくれたら何も言うことはない。
「というわけで俺はこれからまた出かける。お袋には言ってあるから気にするな」
「え、またなの?」
 友人宅に泊まると偽って何度も有希の家に上がりこんでるからな。さすがに毎週は辛いから2~3週に一度が限度だが……。
「またなのだよ妹クン」
 俺はぬいぐるみを妹に押し付けるとすぐさま自分の部屋へと駆け込み、昨夜の時点で既に用意してあった荷物を手にすると実に慌しく自宅を後にした。


 日の高さが、もうすぐ梅雨が明けて夏になるということを感じさせる。
 俺は汗をかきながらチャリを全速力で走らせる。
 何も考えたくない。今はただ――。
 有希に、一刻も早く会いたかった。
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