”あの日”以来、何かが変わったかと言えばそうでもなかった。もちろん、変わらなかったと言えば間違いになるのだが…。
 ハルヒたちの手前、俺たちの関係を公言する訳にもいかず、といっても俺も有希も別に公言することもないと思っている。
 …でも、いつかはこのことを話さなければならない日が来るだろう。その時、多分一番傷つくのはハルヒ。
 自惚れに聞こえるかもしれないが、決してそうじゃない。…俺だってハルヒの気持ちくらい、いい加減に気付いてる。
 あの時有希が言った言葉の意味も。
 だけど、その上で俺は有希を選んだんだ。
 …このことを知ったら、やはりハルヒは世界を改変してしまうのだろうか。有希が、そして俺が一番恐れているのは…そのことだった。
 俺が恐れているのは、俺の有希との記憶が、有希への想いが、全て消し去られてしまうこと。
 だけど…そうなった時、一番苦しむのは有希だ。
 俺が有希への想いを忘れてしまったとしても、あいつだけは何一つ忘れることはない。…俺へ抱いてくれている気持ちも。
 一度愛し合った者がその全ての記憶も事実も奪い去られ、自分だけが孤独に生きていかなけえればならない…。
 どんなにか苦しいことだろう。俺なら、あまりの辛苦に自暴自棄になって、下手すりゃ自殺なんぞしてしまうだろう自信がある。
 でも、有希は…生きていかなければならない。
 これまでだって自分の気持ちを押し殺してきたのに、それ以上の辛苦を背負って。
 …それだけは、耐えられない。
 もう有希に寂しい思いはさせてやりたくない。あいつを孤独にしないことだけが、唯一俺があいつにしてやれることなんだ。
 きっと、話さなければならない日が来るだろうけれど。その日までは、どうか。
 …いつ来るか分からないその日までに、全てを丸く収める方法を必死に考えよう。
 それが、今の俺に出来るただ一つのことだから。

…さて、俺と有希を取り巻く環境だが、はっきり言ってほとんど変わったところなんてなかった。
 そりゃ誰にも話していないし、勘付かれないよう努力もしてるから当然と言えば当然なんだが。
 …では何が変わったのかというと当然俺と有希な訳だが、有希の変貌ぶりはそれはそれは凄かった。
 何が凄いかというと、有希の俺への甘えっぷりだった。
 甘えを知らなかった者が甘えを知ってしまうと、こういうことになってしまうのだろうか。
 普段みんなの前ではあの無表情宇宙人の仮面を被っているのに、二人きりになった途端懐いた猫のように甘えてくる。
 その甘え方はとても不器用で…でも、たまらなく愛らしくて。
 有希のそんな姿を見ていると、とても優しい気持ちになってくるんだ。
 そんな訳で、少しでも二人だけの時間を満喫しようと俺は部室には出来るだけ早く行くようになっていた。
 他の奴等は居なくても、まず間違いなく有希だけは居るからな。
 しかし、実際はそう上手くは行かない。
 毎回のように俺と有希が二人で居ては怪しまれるからそんなに頻繁には出来ないし、例えそういう日を申し合わせてたとしても他の連中
が先に来ていたり急な用事が出来たりで絶対に二人きりになれるという保証も無い。
 二人きりになることが出来たとしてもずっとそうしていられる訳でもないし、運が悪いとすぐに他の連中が来たりすることもあるし、ハルヒが
3番手に入ってきたりすると「有希に何かしてたんじゃないでしょうね!?」とか食ってかかってきて面倒なことになったりするしな。
 朝比奈さんがメイド服でお茶を入れてたり(まあこれはこれで和むんだが。というか俺がもともと朝比奈さんに抱いていた感情ってのは何だ
ったんだろうな。朝比奈さんのことは好きだが、今考えてみると恋愛感情というよりもアイドルの追っかけをしてるような気分だったのかもしれ
ない)、古泉が一人で詰みチェスをやってたり(こいつが先に来ていると何でお前なんだよ、という気にはなるがこいつにだって悪気は無い
んだからおそらく女が放っておかないであろう整った顔―くそ、否定出来ないのが忌々しい―に貼り付いた無料スマイルに心の中で悪態を
ついてやるくらいだ)、ハルヒが朝比奈さんを着せ替え人形にしてたり(この場合止めるのは俺の仕事になる訳だ。古泉の奴は爽やかスマイ
ルを顔に貼り付けたままその光景を見ているだけだしな、っていうかこいつ本当は楽しんでるんじゃないのか?)…。
 まあその場合、長門は大抵黙々と読書してるのだが…。
 俺の気配を察知してついと顔を上げてほんの少しだけ嬉しそうな表情をした後、すぐに哀しげな目をして本へ視線を落とすあの姿は…。
 正直、心が痛む。自分が悪い訳でもないのに何だか悪いことをしてしまったような錯覚に陥ってしまうのだ。
 まあ、この表情も俺にしか読み取れないものなのだが…。
 だから、二人きりになれた時は思いっきり甘えさせてやることにしてる訳だ。
 これについてはこんな逸話がある…。

この日は運良くハルヒが掃除当番という絶好の条件に俺は居るんだか居ないんだか分からん天の神様に感謝しつつ―ああ、古泉の言葉
を借りるとすればハルヒがそれってことになるのか―俺は有希の俺にしか分からない嬉しそうな微笑を期待して部室の戸を開けた。
「……あ」
 ああ、まさに至福の瞬間。俺の気配を敏感に察知して本を読む手を止めて顔を上げ、俺の姿を確認した瞬間にわずかに綻ぶ有希の顔。
 思わず抱き締めたくなるが、今日はちょっといつもと違うことをしてみよう。
 俺は何も言わず有希の近くにあったパイプ椅子に腰掛けた。そのままじっと有希の顔を見つめる。
「…?」
 有希は怪訝な顔をして首をかしげる。俺にしか分からないとはいえ、表情が豊かになってきたのは喜ぶべきことなんだろうな。
「………」
 俺は微動だにせずにただじーっと有希のことを見つめる。あの有希が作り出した世界のもう一人の長門有希を見つめていた時のように。
「……」
 有希は漆黒の瞳に微かな不安の色を混ぜて俺の顔を見つめてくる。ブラックホールのように、見る者全てを吸い込んでしまうんじゃない
かとも思える、大きな黒いビー玉のような瞳。俺はその瞳の奥を見透かすように、ただじっと見つめる。
「…、……」
 有希の動きは完全に止まっていた。わずかに困惑の表情を浮かべ、黒い綺麗な瞳だけが何かを求めるように宙を彷徨う。その微妙な表
情の変化が、自分の主張を伝えたいが手段が見つからずおろおろしているといった感じの姿が、実に可愛らしい。
「う」
 俺は有希の頭に手を置いた。有希はとっさに目をつぶり、一瞬だけびくっと身体を強張らせる。
 …本当はもう少しこうしていてもよかったんだが、流石に可哀想になってきたんでね。
「……は…、…ぅ」
 そのまま頭を撫でてやる。掌に感じる柔らかい髪の感触が心地良い。
「…んぅ…、…ふ」
 有希は目を閉じてじっとしたまま、時折小さな溜息を漏らす。ほんの少しだけ、真っ白な頬が朱に染まっている。
 時計の秒針がたっぷり2周くらいした頃だろうか。体勢が体勢なだけにそろそろ腕が疲れてきた。
「………」
 ふと気が付くと有希が目を半分程開いてこちらを見つめていた。何かを言いたげな瞳。
 ああ、分かってるよ有希。

「有希」
 ぴくりと有希の肩が動く。
「いいぞ」
 とだけ言って俺は手を離して有希に微笑んだ。数秒の間を置いて一度だけ瞬きをする。
「………」
 三拍程の間を置いてぱたんと本を閉じ机の上に置いた後、更に五拍程の間を置いてゆっくりと立ち上がった。
 例の夢遊病患者の様なステップで有希が近付いてくる。俺の前まで来て立ち止まると、ゆるゆると倒れ込んできた。
「……ふぅ」
 俺のシャツの胸の辺りを弱々しく掴んで俺の胸に顔をうずめ、幸せそうな溜息を吐き出す。可愛いなあもう。
「……ん」
 片方の腕を背中に回し、もう片方の手で有希の頭を撫でる。有希はじっとしている。互いの体温を存分に愉しむ。
 このままこの時間がずっと続けばいいのにとすら思う。…完全にバカップルだ。だが知るかそんなことは。全世界のカップルがどんな付き
合い方をしてるのかは知らんが(というかそんなことは知りたくもないが)、好きな相手となら1時間でも2時間でも抱き合ってられるだろうさ。
 少なくとも今の俺なら四六時中有希を抱き締めてられるね。愛の力ってやつか。…寒いな。らしくない。
「……ぅー…」
 有希は俺の胸に顔をうずめたまま珍しく間延びした声を上げて猫のように頭を押し付けてくる。たまらん。
「………」
「…有希?」
 胸に感じる吐息が、規則正しいものになっている。…寝ちまったのか。
 自然と笑みが零れてくる。…全く隙を見せることなんてなかったあの有希が、俺の前でだけはあまりにも隙だらけな姿を晒してくれる。
 庇護欲をそそられるというか何というか…まったく、とんだ幸せ者だね俺は。
「…ん…んぅ…、…すー……すー……」
 流石に息苦しかったのか、有希は小さく寝返りを打って顔を俺の胸から解放するとまた安らかな寝息を立て始める。
 …今までこんな風に、全てから解放されて眠ることがこいつにはあったんだろうか。
 ハルヒの監視をするという目的の為だけに生きてきたこいつに、心休まる時はあったんだろうか…。

「……っ」
 そんなことを考えていたら、突然有希が目を開いた。俺の腕の中でもぞもぞと動く。
「有希?」
 俺は言いながら腕を離す。
「だれかきた」
 言いながら有希は俺の胸を支えにしてゆっくりと起き上がる。…名残惜しそうな目で、俺を見つめる。
「また、あとで」
 その言葉が聞こえた次の瞬間、一瞬だけ、俺の唇に柔らかいものが触れた。
「……」
 わずかばかり頬に朱色を浮かべて俺の方を見ると、立ち上がり自分の席に戻って机の上に置いた本のページを開き目を落とす。
 数秒の時が流れた後、勢いよく部室の扉が開かれて聞きなれた威勢のいい声が聞こえてくる。我等が団長殿のお出ましだ。
「ごっめーん!掃除が長引いちゃって…あれ? キョンと有希だけなの?」
 ああ。と俺は何事もなかったように返事をする。有希も同じく何事もなかったようにいつも通り部室のオブジェと化していた。
「あらそう。…キョン、二人きりだったからって有希に変なことしなかったでしょうね」
 そう言って睨んでくるハルヒに「アホか」と俺は言う。何もしてないってことはないが、ハルヒの言うようなことはしていない。と思う。
「有希、キョンに何かされなかった?」
 相変わらずしつこいな。まあ、こいつはこいつで心配性なところがあるからな。客観的に見て大人しい女子高生である有希は、ハルヒにと
って放っとけない存在なんだろう。何だかんだ言ってこいつも優しいんだ。
「別に」
 有希の言葉に「そっ。ならいいわ」とだけ言ってつかつかと団長席まで歩み寄るとどかっと座ってパソコンの電源を点けた。
 どうでもいいけどもう少し上品にできんもんかね。黙ってりゃ可愛いのにな。
「こんにちは。遅れてすいません」
「す、すいませ~ん…」
 ややあって朝比奈さんと古泉がやって来た。一緒に来たということは、多分部室に来る途中で会ったんだろう。
 …あの映画の時もそうだったが、この二人のセットは非常に画になる。ちくしょうめ。

「二人とも遅いわよ!みくるちゃん、さっさと着替えてお茶用意して!」
「ふぇっ、ひゃぁい」
 ハルヒと朝比奈さんのやり取りを合図に俺は立ち上がる。古泉に無言で目配せすると笑顔を崩さないまま肩をすくめた。
 朝比奈さんの着替えシーンは実に魅力的だが、ここは紳士的にとっとと退散することにする。
 それに…。
「………」
 今の俺には、お前が居るからな。
 俺は部室を出る直前にちらりと有希の方を振り向いた。
 有希は俺の視線に気付いたのかふっと顔を上げ、誰にも気付かれないよう、俺にしか分からない微笑みを向けてくれた。
 俺はそれを確認して微笑み返すと、部室を出て扉を閉める。
 …どうか、少しでも長くこんな時が続きますように。
 そんなことを思いながら。



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