§エピローグ§

――22――
それから二週間後の話になる――。

「どうも、こんにちは」
「よう。どうだ、調子は」
俺はいつものように部室の椅子に腰掛けた。
「僕ならばいつもと変わりありませんよ? ……もっとも、あの日戻ってきた直後にはすでに元通りでしたけれどね」

帰ってきたSOS団副団長、古泉一樹の姿は今日もそこにあった。

俺は部室を見渡す。まだ女子勢は誰も来ていないようだ。窓の外では、五月の陽射しがまだ高いところから校舎を照らしていた。鳥があちこちでさえずっている。いやぁ、のどかだね。
「その後どうだ、何か分かったことはあるか?」
俺が何気ない調子で言うと、古泉は両肩をすくめ、
「いいえ、さっぱりですね。僕に分かることと言えば、閉鎖空間がこの二週間現れていないことくらいでしょうか」
そうなのか?
「えぇ。言ってませんでしたっけ。涼宮さんの精神が落ち着いている証ですが、ここまで波風のひとつも立たず静かなのは、僕も始めての経験です」
長門が退院して以降、ハルヒはみるみるうちに元の調子を取り戻していたが、古泉がいなくなっていたことに端を発する一連の騒動については、古泉お得意のイイワケを聞いた以上はまったく言及しようとしなかった。あいつはどう思っているのだろう。
「これは僕の推測ですが」
古泉は用意しようとしていたゲームを広げる手を一度止め、
「涼宮さんは予感しているのでしょう」
「何をだ」
俺の問いに古泉は、
「これで終わったのではないということをですよ」
簡潔に答え、俺の反応をうかがうように微笑みフェイスを崩さない。
「むしろ涼宮さんにとっては今回の一件が始まりだったのかもしれません」
俺は押し黙った。古泉の言葉には色々含むところがありそうな気がした。いつもこいつは俺に対し人を食ったような発言をすること多々だったが……さて。今度はどうだろう。
「始まり、ね」
俺はブレザーの下のシャツをぱたぱたと扇がせて言った。五月に入ったばかりだが、すでにして二枚着で暑い。こりゃ今年も猛暑になりそうだな。
「あなたは超常現象の一端を涼宮さんに認めさせました。しかし、我々のこの現実は未だ変容していません。それはなぜだと思いますか?」
こういう時のお前はいつもながら楽しそうだな。
「あいつがそれだけ慎重になってるってことか」
俺は答える。微笑みくんのままの古泉は、肩肘をテーブルに着けて上体をわずかに乗り出して、
「もはや涼宮さんは、かつてのように無闇やたらと現実たりえぬ現象を求めてはいないのです」
そう言えば今年に入ってのハルヒは、不思議そのものよりも探索する行為自体を楽しんでいたように見えたな。
「その通り。つまり彼女は、今まで自分が超常現象との間に無意識に保っていた距離を正確に把握しているのですよ。そこへ自ら踏み込むようなことをすれば、今のSOS団が無くなってしまう、と。そう感じているのでしょう。……あくまで僕の推測ですが」
どこまで信じていいんだ、それ。ある日突然通行人が火を吹くようになったとか、機械に頼らず空を飛ぶピーターパンが現れるとか、そんなことになるのはまっぴらごめんだぜ。
「おや、突然でなければいいのですか? 僕ならばじわじわ広がっていく方が気持ち悪く感じそうですが」
……人の揚げ足を取るようなことを言うな。

かちゃ。

部室にドアが開く音がする。
「……」
「よう長門」
「……よう」
あのな、挨拶は猿真似すりゃいいってもんじゃないぜ。仮にもお前は女の子なんだからな。
「こんにちは」
んん。まだきこちないが、とりあえずよしとしよう。
「そう」
長門はとてとてと窓際に歩み寄り腰を下ろすと、文庫を取り出して読み始めた。
いつもの風景。そのピースがまたひとつ、おさまった。
古泉は今まで何も話していなかったかのようにゲームの準備に取り掛かっている。……こいつは。ポーカーフェイスのくせしてまるっきりゲーム弱いんだから話になってないな。やれやれだ。

かちゃり。

またドアが開く。その音だけで誰が来たか察知できるまでに俺の感覚も研ぎ澄まされてきた。
「こんにちわー」
世界中の花を象徴するような笑みで部室に姿を現すのは、誰あろう朝比奈みくるさんである。途端に室内が色彩豊かに塗り替えられる錯覚すら覚えるぜ。殺風景が世界レベルの名画に早変わりだ。
「すぐにお茶いれますねー。今日は何がいいですか?」
のほほんと茶葉の缶を両手に持って可愛らしく微笑むその姿に、今日もまた俺は果てしない安堵を覚えるのである。彼女の前にはどんな癒し効果のあるアロマもヒーリングミュージックも観葉植物もタジタジであろうことよ。

「紅茶がいいわ!」

バァン! とドアを開けて同時にのたまったのはハルヒ以外に誰もいない。お前、登場のタイミングとかもう少し考慮しろよな。
「何よ。あたしはいつだって自分の来たいと思う時に来るのよ。悪い?」
いいえ何にも悪くございやせんこりゃ失礼いたしました。
「腹の立つ棒読みだわ。あんた、もうちょっと素直になったほうがいいわよ。今さらだけど」
その言葉はお前に言われたくない台詞暫定ナンバーワンだ。
俺がそう言うと、ハルヒはしばしアヒル口になった後で、嫌な感じの笑顔となり、
「わかった。それじゃこうしましょう。……古泉くん、ちょっとどいてくれる?」
「かしこまりました」
古泉は過剰なまでに丁寧なお辞儀をして、テーブルマナーを忠実に遂行する貴族よろしく席を立った。アホか。
ハルヒは古泉がいた席に座ると、用意していた将棋の駒の続きを並べつつ、
「今からゲームで三本勝負よ。負けた方が勝った方の言うことを三つ素直に聞く事。いいわね?」
マジか。つかそれ俺に拒否権ないだろ。すでに言うこと聞かされてるのは俺になるじゃねぇか。
「うっさいわね。さぁ始めるわよ!」
このところずっとこんな具合でエンジン回転率200%のハルヒであった。これがさらに上昇しないことを祈る他ない。
「あー朝比奈さん、すみませんが俺も紅茶でひとつ」
俺が注文すると、続けて残る団員二名が
「僕もお願いします」
「……コーヒー」

長門、空気を読めよ! 朝比奈さんの仕事が煩雑になるじゃないか。
すると長門は澄んだ瞳をすっと俺に向けて、
「人間素直がだいじ」
と、反論の余地がないことをびしっと言うのだった。いや、そりゃそうなんだけどな……。そうではなくて、こう……。
「コーヒーですね。はーい、分かりましたぁ」
初夏すら先取りしてヒマワリが咲く場所があるすれば、それは彼女の心に他なるまい。健気そのものの朝比奈さんはにこにことヤカンに水を汲みに行った。

「鼻の下伸びてたわよ」
ハルヒの一言に俺は鼻の下を押さえ……ってまた引っかかった! ちくしょう!
「分かりやすいわよねぇ、あんたも。そういう意味では素直と呼べなくもないわ」
その言い方からして既に素直でないハルヒは、盤面の駒を迷いなく動かした。ぐむ、早くもピンチかもしれん。
「長門さん、何かおすすめの本はありますか?」
古泉が長門に話しかけた。長門は二秒ほど古泉を見上げると、
「待ってて」
と言って立ち上がり、本棚に歩み寄った。古泉はあらためて長テーブルの端に椅子を出して腰掛けた。
……ま、こんな一幕もいいさ。と言うか、こんな何気ない風景こそが一番大事なのだ。
俺はしみじみと思うのだった。

SOS団での変わらぬ放課後を送っている俺は、世界一幸せかもな……と。

「はーい王手!」
早っ! ちょっと待て! お前、何かズルしてないよな?
「するわけないじゃないの。バカ」
俺が盤面を凝視して、どうして我が軍が没落の一途を辿ったのかについて考察を深めている間、戻って来た朝比奈さんはヤカンを火にかけ、長門は古泉に一冊のハードカバーを渡し、そして……

かちゃり。

またドアが開く音がした――。

自信なさげに入ってきた彼女は、居心地が悪そうにうつむいてから、確かめるように言葉を発する。
「長門さん、本当にごめんなさい」

朝倉涼子だった。
室内にいる団員全員が注目する中、指名を受けた長門は思いのほか素早い動作で本を閉じて立ち上がり、朝倉の元に音もなく歩み寄ると、肩にぽんと細っこい手を乗せた。
「いい」
「……えっ?」
ぽかんとする朝倉に、長門は言う。
「もういい。怒ってない」
口元に手を当てて戸口でどぎまぎする朝倉を、俺はしばらくぼーっと眺めていた。

病室での一件が思い出される。


……………………


「朝倉涼子は普通の人間になった」

俺は、呆然と長門の話に耳を傾けていた。

こいつが目覚めたのは今の言葉を発した四時間ほど前のことで、俺は朝比奈さんやハルヒとその一報を聞いた。
驚くほどに長門は何ともないようで、こいつの正体とさっきあったことの両方を知っている俺は、文字通り驚いた。
医師の診察の結果(一般的な医者なのか甚だ疑問だが)異常や後遺症らしきものはどこにも見られなかったようで、間もなく俺たちは面会を果たした。

さんざん話した帰りがけ、長門に手首をつかまれ意味ありげな視線を飛ばされた俺は、わざわざ駅でハルヒたちと別れた後に即リバースして今に至る。

「統合思念体から報告があった。急進派が消滅したというのも本当」
「まるっきり消えちまったのか?」
その問いに長門は首を縦に振った。いくら長門の肯定とはいえ、そんなにおいそれと信じられる話ではない。何せ大宇宙に広がる巨大な意識体である。その力をこれまで俺は何度か目にする機会があった。あんなことができる連中を、消す?
「やったのはハルヒか?」
長門はこくんと頷いて、
「現段階での思念体主流派の見解ではそうなっている。しかし、まだ調査の最中」
長門は医師がついでのように打っていった点滴のついた腕を一度見てから、
「他の原因もあるかもしれない」
そう言った。俺は続けて訊く。
「朝倉は……? あいつはどうなるんだ?」
「どうにもならない。彼女は今やインターフェースではない」
「消されちまうのか? あの、情報結合解除とか何とかいうので」
その問いに長門は首を横に振った。
「彼女にもはや危険性はない。彼女がインターフェースに戻ることもない」
それは確かか?
この問いにも長門はこくんと頷いた。

その誠実な眼差しを受けつつ、俺はこの一週間であったことを振り返る。
最初にあったのは古泉が完全に消えちまったことで、それをやったのは独立した思念体急進派と朝倉だった。あの時点ではまだ未来人の連中と手を組んでなかったのだろうか。次に朝倉は朝比奈さんを消すと言った。しかしそれは実現しなかった。代わりに狙われたのが俺で、冷凍マグロ状態になった俺と混乱するハルヒ、朝比奈さんを連れて大人版朝比奈さんが四年の時を遡った。彼女の話では朝比奈さんが消えなかったあたりから歴史が変わっちまってて、この時期が『分岐点』に当たるって事だった。さっきの手紙によると、この時間平面について今調査がなされているらしい。このへんは長門の親玉とも同じか。『機関』のほうもいずれ独自に調べ始めるのかもしれんな。

そして、さっきの部室……。
記憶遡行中だった俺はひとつのことに思い当たり、言った。

「なぁ、長門」
「なに」
長門は俺が黙っている間カーテンのかかった窓の方を見ていたが、呼びかけに反応して顔をこちらへ向けた。

「お前はさ、もうちょっと休んだ方がいいぜ」
「……」

「あんまり自分を責めてばっかじゃ、疲れるだろ」

そうさ。自分を責めさいなんだ結果、こいつは一人きりで朝倉と対峙することを選んだんだ。そして、俺はこいつに一人きりで頑張れなどとは毛先ほども思わないのである。

「これは俺からの頼みだ。……この先は、もっと俺たちのことも頼ってくれ」
長門は一度正面を向いてぱちりと瞬きし、顎をわずかに引いてから向き直る。

「わかった」
「約束だぞ」

長門は黙って頷いた。
澄んだ瞳が、きらりと輝いた。


……………………


そして今、朝倉は普通のクラスメートとして二年五組で日々を過ごしている。
初め、俺やハルヒは朝倉と何も話せなかった。
朝倉は俺たちのことを気にかけ、自ら距離を置いているようだった。途中長門が「問題ない」と経過報告するのを聞きつつ、SOS団の日常が戻りつつ、谷口がタイミング悪く朝倉にコクってあっさり玉砕したのを適当に慰めつつ、若葉薫る五月に突入したのである。

……俺?

俺は朝倉を受け入れたさ。
宇宙人だった朝倉の行動に罪はあっても、朝倉そのものは元々何にも悪くないだろ?
「罪を憎んで人を憎まず」じゃぁないが、問題が解決したのなら、もう余計なわだかまりは残さないのが楽しくやっていくコツってもんだぜ。

まぁ、当分は夢に色々とショッキングなシーンがでてくるのかもしれないが。……実際昨日の夢はハルヒのビンタシーン再上映だったしな。


「わたし……」

戸惑う朝倉に、長門は片手を差し出した。
朝倉は目を見開いて、
「長門さん?」
「握手」
長門の言葉に、朝倉は口元に当てていた手を胸まで下ろした。
「えっ……」

「仲直り」

よもや長門の口からそんな言葉が出ようとは。
思わず駒を取り落としてしまう俺だったが、他の団員も同じくそれぞれの作業を中断しているらしかった。部室を妙な静寂が包む。

朝倉は数秒ほどぽかんとしていたが、やがておずおずと右手を差し出して、長門と握手を交わした。
握手が終わると、長門はくるりと振り返って自分の椅子まで歩き、またすとんと座って読書を再開した。長門以外の全員が未だ我に返れずにいる中、長門は静かにページを繰る。

最初に言葉を発したのはハルヒだった。
「そう。……よかったわ。あんたたちの間に何があったのかは知らないけど、仲悪いままなのは誰だって後味悪いもんね」
朝倉はまだぼーっと長門を見ていたが、やがて思い出したかのようにお辞儀をして、

「ありがとう、長門さん」

そう言うとぱたんとドアを閉めて部室を後にした。


部室を、清々しい涼風が吹きぬけた。

「わっ、わ~~~っ!」
突然悲鳴を上げたのは朝比奈さんで、見るとヤカンがとうの昔に沸騰して湯が吹きこぼれていた。俺は微笑ましく彼女が火を止める様子を見ながら、やっと心地がついた気がして安堵の息を吐いた。

「何みくるちゃんの後ろ姿眺めてんのよ、やらしいわね! さぁ二戦目よ二戦目!」
ちょっと待て。俺はまだ負けた理由に納得してないぞ。
「何言ってんのよ。ほら、どう見たってあんた詰んでるじゃないの」
ほら見ろ! ここに飛車があるじゃないか。……まだ助かるだろ?
「あんたがさっき取り落としたんでしょうが。あたしが見てないと思ったら大間違いよ。ズルしてんのはあんたじゃない!」

イイワケが思いつかず窓辺に目をやると、丸テーブルを挟んで窓をバックに古泉と長門が静かに読書してやがる。
ぐっ。無駄に絵になってるな。こいつらにフォローを期待するのはやめといた方がよさそうだ。

「よし分かった。まぁ待ってくれ。えぇとだな。……単刀直入に言えば、今の一手をなかったことに!」
「へぇ。いいのかしら? あたしの待ったは高くつくわよ?」
ハルヒのニヤニヤ笑いに内心で俺もニヤニヤしつつ、いつもの風景に限りない安堵を覚えつつ、春の嵐はこうして晴れたのである。

……そう。
物語には、ハッピーエンドこそがふさわしいのさ。

だろ?

「いくら払えばいいんだ。ジュース一回奢ればいいか?」
「学食五回分は堅いわね。あ、何よその顔は。嫌なら別にいいのよ? あんたの負けで」
「はーい、お茶が入りまし……きゃぁぁっ!」

カチャン!

――部室の中の嵐は、年中無休で吹き荒れてるけどな。

「みくるちゃん! 今のいいわ、最高よ! もう一回やりましょう!」



(おわり)

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