§第七章§

――18――
「それじゃぁみなさーん、目を閉じてくださぁい」
皆さんと言っても二人だけだったりするのだがんなこたどうでもいい。何と素敵なガイドさんだろう。おぉ、今天啓が舞い降りてきたぞ。次の朝比奈さんの衣装はガイドさんなんてどうだろう。なぁハルヒ。
「いいわねそれ! 元に戻ったら早速探すことにするわ!」
「えぇぇぇっ! ほんとですかぁぁ?」
動揺しまくりの朝比奈さんである。ごめんなさい。ちょっぴり悪ふざけしちまいましたね。
「本当よ! これでなおさらとっとと帰りたくなってきたわ。行くわよキョン! みくるちゃん!」
「ふぇぇぇぇ」
どっちが先導役か分かったものじゃないな。
「え、えっと、それじゃぁ、目を閉じて、手をつないでください!」
俺たちは召喚の儀式よろしく三人で手をつないで円になった。全員上履きなのは笑いどころかもしれん。
ハルヒの手に何となく意識が行ってしまう。

必ず、元の部室に帰ろうぜ。

「いきまぁす!」
直後にアレが来た。これもご無沙汰だ。今度は全身の感覚が元に戻っているからな。う。やっぱり気持ちが悪い。天井が下にあるような、上に落ちながら前に引っ張られているような、それでいて全身を洗濯機と乾燥機に連続して入れられてグルングルンに回されているような、どうしようもない平衡感覚と空間把握能力の喪失。何も考えられずに俺は身を任せ投げ出されるよりほかなく……それでも両手にハルヒと朝比奈さんの手の温もりがある。そうだ。意識をそこだけに置いておけ。幾分マシに……あぁ、やっぱ限界が近いんじゃないか? 朝比奈さん、そろそろ救助隊を――、

とすん。接地する感触。たちまち蘇る五感。風が妙に心地いい。あぁ、生きてるのか、俺。
「着きました」
俺は目を開けた。どこかと見渡して、俺の自宅からほど近い公園だと気付く。
「帰ってきたの?」
ハルヒは俺と同じくあたりをキョロキョロと見やっている。
「あぁ、一応はな」
朝比奈さんは一仕事終えた安心感からか、安堵の息を彼女にしては大きく吐いた。
俺は朝比奈さんが言っていた到着予定時刻を思い出す。
「急いで長門の家へ行こう。できればタクシーを使ったほうがいいんだが……」
と言うや否や、公園入口に見覚えのある黒い車が停車した。
「キョン、タクシー」
と名詞のみをつぶやいて指差したハルヒに、
「乗ろう。二人とも……急いで」
ものの一分で俺たちは車上の人となる。運転手は帽子を目深に被ってはいたが新川さんだ。森さんは乗っていないらしい。俺は目で挨拶する。朝比奈さんとハルヒは、たぶん気がついてない。
長門のマンションの住所を告げると、たちまち車は発進する。大人版朝比奈さんの指示で来た場所に『機関』の車が来たってことは、少なからず両者は共闘体制を敷いているということでいいのだろうか。もしかしたら行き先を告げる必要すらなかったかもしれんな。……それじゃハルヒに怪しまれるが。
何気なく車窓から外を見て、俺はたちまち絶句した。

朝倉涼子が反対方向へ歩いて行った。俺の家の方角へ。

間違いない。今夢から覚めようとしている俺を襲撃しに行く途中だ。こちらにはまったく気がつかないようだったが……。
俺は車中に目を戻す。朝比奈さんもハルヒも、朝倉に気付かなかったようだ。何たるニアミスだろう。元の時間に帰って来たことをあらためて実感する。というか、時間跳躍の際に長門の家に直に行くわけにはいかなかったのだろうか。おかげで朝倉が俺の家に向かったことは確認できたが。こんなヒヤリ体験はごめん被りたい。ハルヒは大人しく窓の外を見つめているが……。


車は数分後に無事長門のマンション前に到着した。
最後に残った俺に新川さんが、
「無事を祈っております」
と言ってくれた。まったく同感です。送り届けていただいて感謝します。
マンションに入って、エントランスのインターホンを鳴らし、俺の声を確認するや
「入って」
という長門の声がした。エレベーターを呼ぶと、長門はそれに乗って降りてきた。
「はやく」
このわずかな間でさえ俺たちを守ろうとしているのだろうか。エレベーターは七階へトンボ返りする。
「有希……大丈夫なの?」
言ったのはハルヒである。この長門はもちろんグラスレスだが、ハルヒが安心した理由はそれだけじゃないだろう。何せ部室に朝倉と長門を置いてきたまま四年前に飛んでしまったのだ。元の場所に戻ってきたことで、それを想起したとしても不思議はない。
「へいき」
708号室に上がるまで俺たちの間に会話はなく、ハルヒと朝比奈さんは緊張を崩さず、長門もピリピリしたオーラを飛ばしているようだった。


「この部屋は今思念体の庇護下にある。他者に介入されることはない」
部屋に上がる際に、長門は俺にだけ分かるようにつぶやいた。だから急いでたんだな。ひょっとして朝比奈さんがここを出現先に選ばなかったのは、この部屋に誰も入れないように細工がされているからだろうか。
長門はリビングに向かい、俺たちはそれにつき従った。今は何時だろうか。午前七時にあの公園に着いたはずだから、七時半くらいか?


ふたたびコタツテーブルに輪になって座るSOS団の四人だった。
「待ってて」
長門はそう言うとキッチンに向かう。
「あ、あのっ。あたしもお手伝いしましょうか?」
言ったのは朝比奈さんである。長門は意外にも首を縦に振った。
残されたのは俺とハルヒだったが、さきほどの顔から火炎が出そうなやり取りもあってか、どうも落ち着かない。
「きょ、キョン……?」
「何だよ」
乱暴な言い方に聴こえちまうのも許してほしいね。素直になりにくいお年頃なのさ。
「元の場所に帰ってきたのよね、あたしたち」
ハルヒは長門の室内を見渡して言った。この長門の家には少しずつ増え始めた色味を帯びた家具や、年末や春休みに遊んだゲームの置き忘れがちゃんとある。
「ああ。あとは、最後の仕上げだけだ」
具体的に何をどうすると言えないのが苦しいところだ。それでも、ハルヒは俺の言わんとするところを感じ取ってくれたのか、
「そう……。そうね。しっかりやんのよ。トチるようなことがあったら、許さないんだから」
虚勢に見えなくもないが、俺にはそんなハルヒの態度こそがありがたい。
「そりゃぁもちろんさ。大丈夫、必ず元通りにしてみせるから」
目が合った。不思議とどちらも背けることはなく、しばらく互いに見つめ合っていた。どういうわけか、恥ずかしくも怖くもなかった。何だろう。俺もとうとう病状が進行しちまったのだろうか。
心なしか、ハルヒが小さくなったように見えた。そう、例の閉鎖空間に俺たち二人を閉じ込める直前、朝倉の行き先を調べに探索行を実施した時にも、こいつはこんな雰囲気だった。

……。
何か、言ってやれよ。

「安心しろ。朝比奈さんもここに残るしな。……ほんの半日の辛抱だ」
「うん、そうよね」
長門と朝比奈さんが戻ってくるのに気がついた。緑茶と、和菓子。こいつの家で茶を飲んだのもこれで何度目だろう。もう数え切れないな。世話になったとか、申し訳ないとか、俺はもうそんなことも思わないんだ。
長門は大切な友達であり団員であり、仲間だ。
困った時はお互い様なのは何も言わずとも分かる、見えない誓いのようなものなのだ。

ここからが最終局面だ。スムーズに事が運ぶかは分からんが、迷いはまったくない。

「ありがとうございます」
うやうやしく朝比奈さんからお茶を授かりながら、そしてその湯気と鮮やかな緑色に目を奪われながら、俺はそう考えていたのだった。


――19――
「……」
長門の無言である。
俺は長門と和室で二者会談の真っ最中であり、朝倉の部室襲撃をたった今伝えたところである。
「朝倉涼子は、わたしの認識範囲内において現状維持をしていた」
あぁ、俺だってそう思ったさ。だからこそ起きぬけにあいつがいたことには度肝を抜かれた。自宅にいる俺は、今頃あのおかしな幻覚を見せられ始めた頃じゃないだろうか。とすれば、抜かれた魂は今頃電離圏あたりを浮遊中かもしれん。
「どうすりゃいい。……異時間同位体だったか、あの成長した朝比奈さんも驚いていた。彼女が知っていたのとは違う出来事が起きちまってる。どうもそういうことらしいんだ」
長門は真摯な眼差しで俺を見ていた。俺も視線をそらさない。
やがて、
「わたしは朝倉涼子からあなたたちを守る必要がある」
そう言った。
「守る、って。お前はあの部室に向かうのか? やっぱり」
「わたしがその時その場所にいるのなら、同じ事をすべき」
なぜだ。分かってて朝倉を迎え撃つなんてこと、する必要があるのか。
俺がそういうと長門は首を横に振って、
「事実を知っていたから、わたしはその場にいたのだと思う」
言われて俺ははっとした。
朝倉はちゃんと俺の家に向かっていたし、このまま行けば放課後までの時間は俺の知っている通りに進行する。つまり、ここにいる長門もちゃんとあの部室に向かう……ということか? だが、どうして?
「理由も推測ができる」
長門は言った。四年前の長門を見た直後だから分かるが、こいつは本当にどんどん人間らしさを増している。きっと、自分でも気付かないくらいの速度で。わずかに光を反射する瞳が一度瞬きで閉じられ、長門は言葉を続ける。
「わたし自身があなたたちを守りたいと望んだことがひとつ。そして、わたしと統合思念体が朝倉涼子に対し対抗処置を施すだろうことがひとつ」
長門は言葉を切った。そして俺はそのふたつの理由について考えを巡らせた。ひとつめは単純にして明快。だが、それを言った人間が長門だってことに注目すべきだ。本当に頼もしい。いつの間にSOS団員のつながりはこんなに強くなったんだろうな。
そしてふたつめだ。対抗処置、って何だ?
「統合思念体は独立した急進派の構成情報の解析をほぼ終了させた」
そりゃマジか。ずいぶん早かったな。
「四年前、あなたの生体凍結を解除した際のデコード情報を基に解析した」
なるほどと思う。確かにあれをやったのは朝倉だもんな。四年の歳月も俺やハルヒや朝比奈さんには一晩だが。
「そういや、あの時お前は何で眠ってたんだ?」
まさか寝不足じゃないだろう。長門が眠そうにしていることなど見たことがない。
「視覚情報と聴覚情報を部分的に遮断する必要があった。あの時のわたしは最低限の対処のみを行った」
「……そうか」
「そう」
長門は俺を真っすぐ見たまま言った。俺は気を取り直して、
「それじゃ、この後のことについて話そう」
そう言うと長門は一度目を閉じて、開き、
「あなたの協力が必要」
本日一番のアクセントと共に、そう言った。

その瞳に俺が人間とインターフェースとの違いを見い出すことは、できなかった。


「話し合いは終わり?」
ハルヒの言葉である。先ほどまでと違って、何だか表情が明るい。
「もっとゆっくりしててもよかったのよ? ねぇみくるちゃん」
「はい。うふふ」
一体二人で何を話していたんだろう。仮にも俺と長門のほうは今後の世界とか団とかその他の命運を賭けた超真剣な対談をしていたのだが。
「内緒よ内緒。あんたは今自分がすべきことのほうに意識を向けてればいいの。そうよね?」
こっくりとうなずく朝比奈さんだった。何か普通の友達みたいじゃないか。
「何よあんた。ひょっとしてやきもち焼いてるわけ?」
ぐ。正直朝比奈さんと気兼ねなくお話できるポジションというのはかなり羨ましい。それは認めるさ。
「ふっふーん。譲らないわよん、あんたにみくるちゃんは勿体ないもん」
所有物かよ。
「そんなことないわよ。いい? SOS団専属のマスコット兼イメージキャラ兼PR係は誰のものになってもいけないわけ。アイドルなんかが誰か素知らぬ男とつき合い出したなんて言ったら、世間は幻滅するでしょ。そういうものよ」
いつの時代の話をしてるんだお前、仮にも十代だろ。
「あら、過去の時代の遍歴を知ることも大切よ。何度も言ってるじゃないの」

以降も十分単位でバカトークが続いたのだが割愛する。まぁ、ハルヒや朝比奈さんが元気なら何よりさ。坂中の犬がへばっちまった時といい、この二人が揃い踏みで落ち込む様はかなりこたえるものがあったからな。


「行ってきます」
「行ってらっしゃい! 車に気をつけてね!」
初めて聞く出掛けの挨拶をしてドアを閉めるのは長門であり、母親のようなことを言うのはハルヒであった。
もう九時近い。完全に遅刻であるがいいのだろうか。まぁ、あいつなら何食わぬ顔で五組の自分の席まで行って着席しそうではあるが。


俺が北高へ向かうのは午後になってからなので、まだだいぶ時間があった。
主不在で長門の家にいるというのもまた初めてのことで、俺とハルヒと朝比奈さんは残してあったゲームで春休みの延長戦をしたり、たわいない話の続きを展開したり、二度目のお茶を飲んだり、また掃除をしたりして過ごした。
今度は昼食の調理にも俺はつき合わされ、野菜の皮の剥き方ひとつでいちいちハルヒにツッコミを入れられなければならなかった。くっそ、ツッコまれるのも料理も慣れん。鬼姑のいる実家で四苦八苦する嫁のような心境だ。


昼食を終えて、時刻は午後一時をまわる。朝倉が部室に来る時間は午後三時四十六分二十二秒。それは大人版朝比奈さんから聞いた時刻だ。予定では、朝倉を再修正するプログラムを俺の手で打ち込むことになっていた。そんな大役を俺が請け負ってしまっていいのか、正直に言えばかなり不安だったのだが、長門が言うに他に適者がいないらしい。
俺は長門から渡された銀色の短針銃を取り出して眺めた。グリップを握る手にわずかばかり汗が滲む。思い出すのは去年の十二月十八日だ。変わっちまった長門に、俺はこれを撃つことができなかった……。

相手が朝倉なら打てるのか? SOS団の日常を取り戻すために?

今回、長門は朝倉の注意を引く役目を担っている。朝倉と相対するがゆえに、長門が再修正プログラムを打つわけにはいかない。チャンスはほんの一瞬だろう。バレてしまえばそこまでだ。長門に噛まれ例のナノマシンを混入されている俺だが、どこまでその効力が有効かは長門自身にも分からないという。長門は、統合思念体による再改変という策があることも提示してくれたのだが、それは俺が断った。別にかっこつけてるわけじゃない。ただ、誰かに頼ってばかりなのはもうやめにしたいという俺自身の意思だ。バカを見るのは俺になるかもしれないが、それでも……。

「キョン、大丈夫?」
気がつけばハルヒが和室の襖を開けて顔を覗かせていた。俺は慌てて短針銃をしまった。ハルヒに見せるわけにはいかない。こいつは朝倉がどれだけ危険な人間かについては、まったく知らないのだから。
「あぁ、何でもないさ」
俺が言うと、ハルヒは笑った。そう。こいつから笑顔を奪うわけにはいかんのだ。
「さて、まだもう少し時間があるな。まだやってないゲームあったっけ」
俺は襖に向かう。

「……」

「ハルヒ?」
ハルヒは和室の畳に目を落としたままだった。
「どうしたんだ」
「……来て」
「ん?」
「ちゃんと、帰って来てよ……」
俺はふたたびハルヒを見た。暗がりで表情はよく見えないが……。
ハルヒの肩が、わずかに震えているように見えた。いや、真実見えただけだったのかもしれない。
俺はあえて気軽な調子で、
「当たりまえだ」
それだけ言って、ぽんと片手でハルヒの肩を叩いた。


当たりまえだ。


「それじゃ行ってきます。留守番よろしく!」
警察官の敬礼のような仕草で俺はハルヒと朝比奈さんの見送りを受けた。
「気をつけてくださいね」
優しく言うのはもちろん朝比奈さんで、
「帰りに寄り道したらぶっ飛ばすわよ」
いつもの調子に戻すのはハルヒである。
「ああ、しないさ」
俺は多くを考えないことにして長門の家を後にした。
制服の内ポケットに、小型短針銃の重みを感じながら。


エントランスを抜けた場所には、またも黒塗りハイヤーが停車していた。
運転手の新川さんがこちらを向いて会釈する。後部座席を見ると、今度は森さんも乗っているらしかった。
「坂を登るだけなのにすいませんね。わざわざ」
俺はシートに身体を滑り込ませながらそう言った。
「念のためでございます」
森さんは言った。もうすっかりこっちのスーツ姿の方に慣れちまったな。俺は黙礼する。
いつも延々登っている坂道も、車となるとものの三分で学校まで着いてしまう。森さんや新川さんにもう少し何か言うべきことがあったかもしれないが、俺は車を降りた。
「どうもありがとうございました」
「お気をつけて」
森さんの言葉や表情から思惑を読み取ることはできなかった。
黒塗りの車はUターンをして、もと来た道を戻っていった。

「さて」
春の陽射しが校舎を包むように照らしている。何と穏やかなんだろう。今の心情とは合わないが。
学校へ入るのにこれだけ厳かな気持ちになることもそうあるまい。今頃この中にいる俺は幻惑されて校内をそぞろ歩きしているだろう。

俺が校門へ足を踏み入れようとしたその時――、

「久し振りだな」



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